諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「君の名は」観てきました。「思い出した。このおっぱいだ!!」

新海誠監督「それまでの作品の結末がああだった」という積み重ねを逆手に取ってハラハラさせる辺り、手口が円熟の極みに入ってきた感があります。

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 でもそれ自体はもしかしたら2010年代に活躍してるクリエーターの共通項?

  • 予想外のタイミングで重要人物を殺す虚淵玄の海外のアニメ漫画GAMEファンが名付けた異名が「Gen the Bucher」あるいは「Urobucher」。この人の根っこは祖父が終戦直後に構築した「焼け跡の哲学」とも。
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    The Delightful Madness - “My main inspiration are eroge and classical...

     My main inspiration are eroge and classical literature
    Gen Urobuchi

  • ソードアートオンライン」の河原礫は、2000年代のWeb連載期に当時のノリに任せてサチやユウキといったキャラクターを殺した事を後悔している。とはいえこの時期の経験があってこそ作品内に独特の緊張感が持ち込まれた事実も揺るがない。そして、あらゆる言語に翻訳され、世界中で回覧され続ける「16.5」…何故か朗読して動画でUPするのが流行に。

  • 東欧からの美少女留学生が帰国後惨殺される」物語が時間軸から切り離された事で作品世界が余命を得て今や押しも押されぬ国際的人気作品となった米澤穂信古典部シリーズ(2001年〜)」。でもこの作家の作品では主人公とヒロインが結ばれないで終わる事が多いので、そういう展開が懸案されている。

新海誠監督も同時期の「ほしのこえ(2002年)」「雲のむこう、約束の場所(2004年)」を経て「秒速5センチメートル(2007年)」の世界に到達してますね。

ざっと並べてみると「物語展開の軸となる死生観の様なもの」が読者や視聴者に独特の緊張感を強いる、といった共通点が見受けられそうです。

マルクスは「お前が自由意志や個性と信じているものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」と指摘したが、2010年代におけるインディーズ系作家は過酷なトレンドに対応すべく「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」方式でそれぞれが独自のルールを紡ぎ出した感がある。そして、この時に樹立されたスタイルには概ね国際性も備わっている。

そして「君の名は」では、この「物語展開の軸となる死生観の様なもの」が「曖昧な領域」にまで踏み込んできます。スタッフロールには「月刊ムー」の名前が…

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「月刊ムー((MU、1979年〜)」 
学研プラスが発行する日本の月刊オカルト情報誌。キャッチコピーは「世界の謎と不思議に挑戦するスーパーミステリーマガジン」。主な内容はUFOや異星人、超能力、UMA、怪奇現象、超古代文明オーパーツ、超科学、陰謀論などのオカルト全般である。全般的にオカルトに肯定的な記述がされている。
 
1979年(昭和54年)に学習研究社(現・学研ホールディングス)が創刊。創刊号(1979年11月号)からNo.13(1981年11月号)までは隔月刊だった。またそのNo.13より、本のサイズが創刊号からのA4サイズから現行のB5サイズに変更されている。
 
初期の一年間はアニメや小説、芸能ネタも掲載されており、総合誌的な雑誌であった。そして興味本位の非科学的記述も目立ったが、次第に「科学的に説明しようとするスタンス」を確立していく。その一方では鼻行類(本誌では事実のように記事が掲載されたが、生物学者による意図的なジョーク)やオクロの天然原子炉(本誌では人工物のように取り上げられた)など、意図的なゴシップも多い。

同誌発刊後、トワイライトゾーンやマヤなどいくつか類似の雑誌も刊行されたが、長続きせず休刊に追い込まれており、このジャンルでは2015年現在唯一発刊され続けている最長寿のオカルト雑誌である。自然現象や遺跡などを掲載していることもあるためか、書店ではしばしば 「自然科学」 の書棚に配架されている。

雑誌の紙面の内容は、3ヶ月前より決まっており、たとえ「生きてる恐竜の出現、UFOの襲来」等の世界的超常事件が起きても緊急差し替えはせず、予定通りに決まった内容で出版する方針であると編集者は語っている。ただ2009年8月の総選挙による政権交代の結果、愛読者である鳩山由起夫が総理大臣に就任した時のみは例外的に、1ヶ月遅れで読者コーナーで特集が組まれた。

学研のグループ再編に伴い2009年10月から2015年9月までは学研パブリッシングの発行となっていた。

ゾンビと人間の恋愛を描くはっとりみつるさんかれあ(2009年〜2014年、アニメ化2012年)」 や「曖昧な存在」と人間の邂逅を描く荒井チェリー未確認で進行形(原作2009年〜、アニメ化2014年)」なんかとも組んでました。あえて共通点を探すなら「超常現象の解析より、それが人間関係に与える影響の方が重みをなす物語ばかり」という辺り? いずれにせよ「異類婚や彼岸と此岸の交流は不幸しか生まない」という物語文法が2000年代後半にはすっかり形骸化してしまった状況が見て取れます。

そういう時代、しかもこれだけ科学実証主義やインターネットが発達した時代に「ホラー」ならともかく「オカルト」が存続するのは何かと大変そうに見えますがこんな話も。

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若者の宗教観に驚かされた(2005.4.26)

お年寄りは、迷信にとらわれがちで、易や占い好きというのは、偏見であることがわかる。実際は、若者の方が易や占いの結果にとらわれているのだ。若者は遊び半分で易や占いをしてもらっているのではない。本気なのである。

若い人が、普通の宗教以外の神秘的なものに強く惹かれていることがわかる。

そのことを端的に示しているのが、若者が信じている対象に関する暦年推移データだ。


1973年には、神仏以外のものを信じている人は少数派だったが、2003年になると、多数派になってしまった。

つまり、「神や仏は信じないが、あの世や奇跡は信じる」人が急増している訳だ。

若者の宗教離れが進んでいるとよく聞かされるが、無信心者が増えたと勘違いしてはならない。無信心者は増えるどころか、激減だ。

 ましてやフィクションの世界においておや。こういう展開も「異類婚や彼岸と此岸の交流は不幸な結果しか生まない」物語文法の形骸化に多いに影響した可能性があります。またテクノロジーの発達によって人間を人間たらしめている境界線がどんどん曖昧になってきている影響を指摘する向きもあります。

その結果「君の名は」を単純にファンタジー枠に収めて語るのは不可能という状況が現出する事に(一応「ロー・ファンタジー」に分類する事は可能だが、後述する様に伝奇要素の扱いが絶妙なのでアニメ版を「伝奇ファンタジー」には分類するのは難しい?)。
*国際SNS上のアニメ漫画GAMEファン層の間では、LGBTQAのQ(Queer)と結びつけて語られる事が多い。その用法は「Pansexuality(全性愛)」の概念をはるかに超越して「Pantheism(汎神論)」の領域にまで足を踏み入れており、ミサイル斉射場面やハイテク場面を「Tech-Porn」と称して興奮する層、新海誠監督の「秒速5センチメートル(2007年)」や「言の葉の森(2013年)」などの風景場面、アニメに登場する料理などに魅了される層などの総称となっていたりする。

こうやって境界線がどんどん曖昧になっていくと究極的にはどうなってしまうのでしょう。これまでの歴史に目を向けると… 

  • 20世紀の想像力だと「全てが一つに融合する」という結論に到達するケースが非常に多かった。
  • 2000年代後半に入ると次第に「むしろ却って各意識間の心的距離の取り方が重要な問題として浮上してくる」という考え方が主流を占める様になっていく。
  • 2000年代前半はその過渡期。戦闘を宿命化された美少女(戦闘美少女)と、彼女を見守ることしか出来ない無力な少年」なる図式の作品の量産期。

 この変化の原因は「みんなインターネットで実際に繋がる様になったら「一つにまとまる」どころじゃなかった」経験のせいとする向きもあります。海外ではニール・ブロムカンプ監督の「第9地区(District 9、2009年)」や「チャッピー(Chappie、2015)」やアレックス・ガーランド監督の「エクス・マキナ(Ex Machina、1956年)」などについて論じる上でも重要となってくるファクターですね。こうした展開に上手く絡めないと月刊ムーの様なオカルト雑誌の扱える範囲はこれからますます縮小していくのかもしれません。

ところで藤子・F・不二雄は、自分の「SF」は「サイエンス・フィクション」ではなく「すこしふしぎ」の略だと公言していたそうです。

いつの時代においても、こうした「ある種の匙加減」の確立こそが最も困難で、それがコンテンツの成功の鍵となってきた実例といえそうです。それなら「君の名は」の匙加減は一体どうなっているのでしょう?

  • 1200年周囲で自らの断片を地球上に振りまき続けるティアマト彗星…組紐と口噛み酒を巡る時間軸…キトラ古墳高松塚古墳を思わせる天井の天体画…飛騨を巡る様々なイメージの積み重ね…こうした要素を統合して「失われたシステムとしての全体像」の再構築を試みると、アーサー・C・クラークの「宇宙のランデヴー(Rendezvous with Rama、1973年)」の冷徹な世界観に「幼年期の終わり(Childhood's End、1953年)」における「夢の機能」を付加した様なハードSFとも「(現代人の共感の及ばない)古代人の宇宙観の再現」ともつかない「人間をただひたすら冷たく突き放す」ピクチャレスクな世界観が浮かび上がってくる。ところがアニメ版「君の名は」においては、こうした一切が映像によってのみ示されるのみ。そこから何をどこまで汲み取るかはあくまで全て鑑賞者の手に委ねられているのである。こんなやり方があったとは!!

    *一切が映像によってのみ示されるのみ…江戸時代の火事によって文字資料の全てが焼失したという設定。ただし小説版やスピンオフ小説に相応のフォローあり。「組紐」がそもそも何の象徴だったかとか、どうして奉納舞は2人で踊るのかとか。宮水神社の祭神の推移に関する考察とか。
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    *「ティアマト(tiamat)」バビロニア創造神話において「(気まぐれに生と死を与える)始原の混沌の恐怖」を体現した原初の女神。息子のマルドゥクに八つ裂きにされ、その遺体が天地の材料に再利用されたという。おそらく背後に「宇宙原理を体現する男性神を崇拝する部族による土俗的地母神を崇拝する部族の征服」といった歴史が存在する。スピンオフ作品には宮水神社の祭神が星神香香背男から倭文神に遷移した事情について同様の歴史があった可能性を示唆する場面がある。

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    *「キトラ古墳高松塚古墳の天体壁画」…死とは魂魄の分離であり、地上に残された「魄」は生前の記憶に囲まれ続ける事によって、「魂」は星々の世界に引き上げられる事によって慰撫される、という世界観に基づく(中央アジアから唐朝か高句麗経由で伝来した北辰妙見信仰と関係が深い)。しかもその意匠は「棺に横たわる埋葬者」の視点からしか個人の視野全体に収まらない。この観点の重要性が発見されたのは発掘が始まってから随分経過してから。それを思えば主人公が「自力」で発見出来なかったのも無理ないといえよう。またスピンオフ作品では(神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある)宮水神社の本来の祭神だった星神香香背男が彗星の擬人化だった可能性が論じられている。http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/tok2-index/2gsisou/hekiga2/kitoratohigasiajia/clip_image006.jpg
    *「飛騨を巡る様々なイメージの積み重ね」坂口安吾「夜長姫と耳男(1952年)」においては時間を超越する飛騨匠の生き様とその拘束に対する破壊衝動、米澤穂信の「古典部シリーズ(2001年〜)」や「さよなら妖精(2004年)」においてはこの地域の無時間性が活写された。
    坂口安吾 夜長姫と耳男
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    *ピクチャレスク(Picturesque)エドマンド・バークは「美と崇高の理念の起源に関する哲学的考察(1757年)」の中で「その美しさが鑑賞者から警戒心を奪う一方、あくまで人間の接近と解読を許さない事がもたらす戦慄が畏怖の観念を引き起こす」とした。トーマス・グレイも1765年にスコットランド・ハイランド地方について「この山々は恍惚とさせる…それ以外の何ものでもない…かくなる恐怖にかくなる美がいかに結合するかを、神は知りたまう」と述べている。ラブクラフトの宇宙的恐怖(Cosmic Horror)や、スタニスワフ・レムソラリスの陽のもとに(Solaris、1961年)」に登場する「人類と全く異なるタイプの知性」惑星ソラリスも、こうしたイメージが源泉。一般的理解としては「果てしなく暗く続く鎮守の杜」とか「登山者を魅了しつつ拒む峻険な山脈」といった感じ。まさしく彗星ティアマトのイメージそのもの。

  • そもそも、先に述べた「ハードSFとも古代人の宇宙観ともつかない何か」は現代に至るまでにすっかり風化し、現代の現地住民に与える影響も見方によっては実に微妙なものとなっている。確かに宮司一族は「伝統的行事の継承者」「領主の末裔」といった立場から現地住民を精神的拘束下に起き続け、自らも拘束され続けており、しかもその事に必ずしも納得がいっている訳でもないのだが、アニメ版ではこの部分の描写が極力抑えられている

    *その結果として「君の名は」という作品は「ピクチャレスクなるものとそれに対峙した時の人間の反応」を最も純粋な形で表現する内容となった。宮崎駿監督作品の場合、「風の谷のナウシカ(1982年〜1994年)」においては「ピクチャレスクなるもの(神威の源泉)」に恋焦がれる人々が人造の神々を創造し、「もののけ姫(1997年)」においては擬人化された「自然」が「文明」への復讐を企てる。この作品にはそうした物語的枠組が一切存在しない(かつては存在したのかもしれないが、既に失われてしまった)。その事を「損失」と考えるか「解放」として考えるかさえ全て鑑賞者の判断に委ねられているのである。

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    それゆえにそれぞれの登場人物達は「ピクチャレスクなるもの(神威の源泉)」をそれと認識する事はなく、それぞれが黙々と必要な措置を取るのみ。まぁこれは庵野秀明監督「シン・ゴジラ(2016年)」も同じで、作中において「牧悟郎博士のグランドプラン」なるものは一切明かされない。

    *そういえば、この作品での「ゴジラの中の人」は狂言師野村萬斎だった模様。日本人のイメージするピクチャレスクなるもの(神威の源泉)」は、どこかで薪能などの日本芸能が追求してきた「幽玄なるもの」と結びついているのかもしれない。

    *ただしこれに接する態度は「丁寧にもてなしてお帰り願う」とか「和魂に転化させて神棚に飾る」といった具合で、まるで凶暴な野生動物を扱うが如くで、あくまで不遜。特に「猩々メッタ」って何ですの? エンターテイメント化された「13日の金曜日」? ただこの不遜さこそが科学実証的で21世紀的で日本のコンテンツが世界に通用する鍵になってるとも。

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  • その一方で全体構造としてはシェークスピアの「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、 1595年前後)」とも考えられる。つまり「背景こそ精緻だが、所詮はマクガフィン」。実際、小説版におけるプロデューサーの後書きでも「死よりも 残酷なことがある。それは、生きながら愛する人を忘れていくことだ」「人の記憶は、どこ に宿るのだろう。脳のシナプスの配線パターンそのものか。眼球や指先にも記憶 はあるのか。あるいは、霧のように不定型で不可視な精神の塊がどこかにあっ て、それが記憶を宿すのか。心とか、精神とか、魂とか呼ばれるようなもの。OSの入ったメモリーカードみたいに、それは抜き差し出来るのか。」「人は不思議な生き物だ。大切なことを忘れ、どうでもいいことばかり覚えている。メモリーカードのように、必要なものを残し、不必要なものだけを消すようにはできて いない。それはなぜだろう、と考え続けてきた。でもこの小説を読んで、少しだけわかった気がする。ひとは大切なことを忘れていく。けれども、そこに抗おうともがくことで生を獲得するのだ。」といった触れ方をされている。おそらく後述する様な「目眩しの一種」としてこうした言説が配置されているとも推測される状況。何故なら「ひとは大切なことを忘れていく。けれども、そこに抗おうともがくことで生を獲得する」という条件の当て嵌まる対象がスピンオフ版では急拡大してしまうから。
    シェークスピアの「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、 1595年前後)」…キャピュレット家とモンタギュー家の対立は神聖ローマ帝国とイタリアの中世を騒がせた教皇派(Guelphs)と皇帝派(Ghibellines)の対立に由来する。「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto、1764年)」同様フリードリヒ2世が背後で暗躍。もし当時の英国王エドワード1世が勧められるままナポリシチリアの国王となっていたら、イングランドイタリア半島の南半分を獲得する代償として(「狂犬」アンジュー公シャルル・ダンジューに率いられた)フランス王国と全面戦争状態に突入していた。そういう歴史が英国人に様々な想いを馳せさせるのかもしれない。「ハムレット(Hamlet、1600年〜1602年)」「マクベス(Macbeth、1606年頃)」「リア王リア王(King Lear、1604年〜1606年頃)」といった他のシェークスピア作品と併せ「中世的分権状態から絶対王政期の臣民(Subject)状態を経て市民(Citizen)の世界へ」といった歴史観変遷の流れに携わる。

    *「マクガフィン(MacGuffin, McGuffin)」…ヒッチコック監督の作劇理論における「登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる小道具」。そのジャンルでは陳腐なものが選ばれる事が多く、作品構造上いくらでも交換が効く。

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  • 何しろスピンオフ作品まで含めた範囲で浮かび上がってくるのは「1200年ごとに巡ってくる彗星落下に対処する為の警報システム(及びそれを権源に宮司が社領と領民を全人格的に代表する統治体制)」と「その長年の閉鎖性に対する復讐心の鬱屈(放送ジャックや変電所爆破や避難活動がスムーズに進んだのは全部偶然じゃなかった)」の水面下における猛烈な対峙状況。アニメ版ではその露出が最小限に抑え込まれているものの、これを単なる「マクガフィン」とか「バルコニー」と軽視するなんて到底無理。単にトリミングを行っただけと考えるべきでしょう。

    そしてこの構図、坂口安吾の「夜長姫と耳男(1952年)」や米澤穂信の「遠回りする雛(2007年)」といった他の飛騨物にも共通して見られる設定だったりもする。しかも揃って序盤では詳細が伏せられ、読者を充分惹きつけておいてからおもむろに全貌が明かされ始めるのが定石ときている。そしてあくまで強くて怖い飛騨女(ひだじょ)が次第に本性を剥き出しにし始めるのである。一見してそれと見抜けず、気づいた時には何もかも手遅れになってる辺りがさらに怖さを増す。

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    ベネ・ゲセリットの魔女ですか?

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    両面宿儺の国」だから仕方がない?

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    *「バルコニー(balcony)」…ハリウッド映画の脚本世界では少なくとも1930年代から「バルコニー理論」なるものがシナリオのチェックに使われてきたが、そこでいう「主役カップルが結末まで結びつかない様に引き離しておく阻害要因」。名前の通り「ロミオとジュリエット」が発想の起源だが、その存在をバラしたジェームズ・M・ケイン自身は、そこに組み込まれたロジックを逆手に取って「郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice、1934年)」を執筆。むしろ「ルールを従順に厳守してる限り三文芝居しか書けない」とも見て取れる。遅くとも1990年代までにはコンピュータ化されていた。実物の一つを触った事もあるが、少なくともそのバージョンでは「恋を邪魔する存在」と「恋を進めてくれる存在」の兼任が不可能だった(どちらかというと対立して代理戦争をやらかす前提になってたっぽい)。確かにこれでは三文芝居の量産しか出来ない。

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    *「飛騨女(ひだじょ)は強くて怖い」…何しろ狙った獲物は決っして逃さないし、狙われた相手はそれまでの人生全てを捨てさせらる(プロポーズからして男の側から自発的に「俺、大学で経営を学んで婿養子に入ります」とか「俺、大学の研究員をやめて親類縁者と縁を切って神主になります」と言わされるケースが多い。一方、ラスボスとして対峙したら相打ちは免れない。これが「地主力」?)。「君の名は」のヒロインだって「東京のイケメン男よ、ここにあれ!!」。物語中では二人の思わぬ形での交流の影響が周囲の世界に波及していき「結びの力」によってバラバラだった全体像が一つに束ねられていった訳だが…もし村が復興したら、たちまち「状況再開」となる可能性も(スピンオフ作品で過去に飛んだ四葉が、昔の巫女に「幾ら隕石が落ちてきても宮水神社はその寺領土を復活させてきた」と断言する場面がある。覚醒した「宮水の女」の時間感覚は常人と異なっているとも)。ちなみに既に海外に出回ってる飛騨女(ひだじょ)の一般的イメージは例えば以下。スピンオフに出てくる「三葉と四葉のパパがママと結婚を決心する場面」もこんな感じ。歴史は繰り返す?

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    *また、様々な作品が散々ネタにしてきたせいで「美濃人と飛騨人は仲が悪い(実際、幕府直轄領で山岳地帯の飛騨と諸侯に分割統治されていた美濃平野は治水工事の予算配分一つとっても利害が一致せず、廃藩置県が”民族紛争”に発展しかけた数少ない地域の一つとなった)」とか「両者とも名古屋に対しては"最も近い都会(しかも海に面している)"と憧れつつ"所詮は田舎の親玉"と馬鹿にするアンビバレントな感情を抱えている」なんて話は海外のアニメ漫画Gameファンの間にまで伝わっている。岐阜人「この昆虫食いがぁ」美濃人「人より牛の方が多いくせにぃ」なんてやりとりまで翻訳されて流れている所を見た事もある。あと岐阜駅前の「黄金の信長像」が待ち合わせスポットになってる事もそれなりに有名。
    JR岐阜駅前の「黄金の信長像」は誰が何の目的で建てたのか?写真を撮るとそのヒミツがわかる? | TOPPYのネットでごはん

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 結論から言えば「アニメ版は普通のラブストーリーとして楽しめ、小説版まで手を出した人間は飛騨の暗黒面に突き落とされる(帰り道もちゃんと緻密に用意されてるから安心)」というかなりピーキーにチューニングされた全体構成になってると言えそうです。ちなみに映画を鑑賞しながらアーサー・C・クラーク「宇宙のランデヴー(Rendezvous with Rama、1973年)」を連想したのは「同種の天体接近作品」だったからだけではありません。「同種のおっぱい賛美作品」だったからです。

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スピンオフ小説では、さらにそれが全開に…あれだけ揉めば、その感触を忘れる筈がない?