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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

左翼陣営内における「政治派」と「文化派」の分裂を阻止してたかもしれない「風の谷のナウシカ(1984年)」

 正直、以前から私の1980年代理解には至ってない部分があるとは感じてました。

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何しろ、とっさに列記可能な「当時あった出来事」もこの程度ときています。

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① スペース・インベーダー全盛期(1979年〜1980年)に端を発するゲームセンター・ブームからファミリー・コンピューター(Family Computer、1983年)の時代へ。

②そして「ガンプラ・ブーム」があり「アニメ新世紀宣言(1981年)」があった。
*以降次第に、それまでTAMIYA(陸軍)やHasegawaやApshima(空軍・海軍)といった静岡の模型メーカーが牽引してきたミリタリー・プラモデル・ブームが収束に向かう。

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イエロー・マジック・オーケストラYellow Magic OrchestraYMO、1978年〜1983年)のテクノ・ポップが一世を風靡した時代。坂本龍一が当時のインタビューに「僕らね、デモで細野晴文に投石してた世代なんですよ」と嬉しそうに語っている。今から思えば当時の新旧左翼合同を象徴的する存在だったとも。その後細野晴臣は多くのアニメ作品の音楽を手掛けている。

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角川書店のメディアミックス方式による宣伝により 深作欣二監督の「魔界転生(1981年)」「里見八犬伝(1983年)」、大林宣彦監督の「転校生(1982年)」「時を駆ける少女(1983年)」、アニメ長編映画「幻魔対戦(1983年)」などが次々とヒット。しかし大林宣彦監督の「少年ケニア(1984年)」は宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ(1984年)」に惨敗してしまう。同年には「シンデレラコンプレックス( Cinderella complex、1981年)」が翻訳され、フェミニズム運動やヒッピー運動の再来とでもいうべき自然回帰運動が盛り上がった。
*しかしながら、その後のエンターテイメント業界にとって幸いな事に、宮崎駿監督はあえて新旧左翼合同体制の新たな象徴として君臨する道を選ばなかったのである。

細野さんが歌う「風の谷のナウシカ」 by のんすたんだーど 音楽/動画 - ニコニコ動画

大友克洋AKIRA(1982年〜1990年、アニメ化1988年)」や1986年におけるウィリアム・ギブスンニューロマンサー(Neuromancer、1984年)」の日本語訳や士郎正宗攻殻機動隊(1989年〜)」などを中心に展開したサイバーパンク・ブーム。村上龍コインロッカー・ベイビーズ(1980年)」「愛と幻想のファシズム(1987年)」、川西蘭「パイレーツによろしく(1984年)」なども一緒くたに読まれており、こちらの系譜はいとうせいこう「ワールズ・エンド・ガーデン(1991年)」へとつながっていく。

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⑥80年代ハードボイルド。ただしジャズが似合う栗本薫の「行き止まりの挽歌(1981年、映画化1988年、新宿西署の暴力刑事・梶竜介と天性の妖婦とも云うべき美少女・沢野未来の奇妙な邂逅を描く)」「キャバレー(1983年、若き天才サックス奏者矢代俊一と中年ヤクザ滝川の奇妙な友情を描く)」「真夜中の鎮魂歌(1986年、左手を切断されて暴力団員に転落した天才ジャズ・ピアニストの風間四郎、狼のような雰囲気を持った天才的青年ジャズ・トランペッターの今西良、暴力団傘下の芸能プロダクションに所属する14歳の歌手の卵高野ミキの愛憎劇を描く)」といった作品群、むしろブルーハーツやレゲエのレイヴ(RAVE)感が似合う狩撫麻礼の「迷走王ボーダー(1986年〜1989年)」や「天使派リョウ(1990年〜1992年)」といった「あちら側(唾棄すべき一般人の世界)と「こちら側」の境界線を描くハードボイルド」、「山猫の夏(1984年)」から「蝦夷地別件(1995年)」にかけての(原則として)海外逃亡した新左翼運動家が日本人を代表して謀略渦巻く国際社会を手玉にとる冒険小説(ただし「蝦夷地別件」はポーランド貴族と「(Nation of Islamの様に)我々は男尊女卑を守り抜く」と断言するアイヌ民族がタッグを組んで大和民族に復讐する物語で「夢がない」と物議を醸した)はそれぞれ1980年代の別側面を表現した内容だった。オウム真理教による一連のサリン・テロ事件(1994年〜1995年)以降、日本赤軍に対する共感が完全霧散したのと時期を同じくして衰退。

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五島勉ノストラダムスの大予言(1973年〜1998年)」や、荒俣宏帝都物語(1985年〜)」や、「幻魔対戦(1983年)」以降一般に認知される様になった「ハルマゲドン」の概念に立脚するオウム真理教の大躍進といった世紀末不安の高まり。ソ連崩壊(1991年11月)やバブル経済崩壊(1991年3月〜1993年10月)を経て宮崎駿監督の「On Your Mark(1995年)」や選挙敗北による自尊心の痛手を癒す為のオウム真理教サリン・テロ(1994年〜1995年)に辿り着く事になる。

ヒッピー運動は「オルタモントの悲劇(1969年)」「シャロン・テート虐殺事件(1969年)」「ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」といった事態の積み重ねによって次第に止めを刺されてしまいました。同様にこうした動きは、そもそも「山岳ベース事件(1971年〜1972年)」や「あさま山荘事件(1972年)」や「テルアビブ空港乱射事件(1972年)」によって味噌をつけられていたのですが、1980年代の学校では左翼教師が「かかる英雄行為を心から讃えられない人間は、革命が勝利した暁には全員絶滅収容所送りになる。命が惜しければ目の前の警官や機動隊に殴り掛かれ!!」といった洗脳教育を行うのが「元気があってよろしい!!」と、笑って容認されていたものです(地域によっては警官や自衛艦の子弟に対する虐めが「正義」と称して奨励されていたとも)。しかし、そうした時代もオウム真理教サリン・テロを契機に幕を閉じます。ピースボートが「自衛隊は滅ぼすべき絶対悪だが、それでも海賊から我々を守る人道的責任がある」と言い出したのと同じ。無差別テロで自分が命を失うのが急に怖くなりだしたんですね。それで見捨てられ、それまでの協力者の密告の連続によって壊滅に追い込まれた連合赤軍こそ良い面の皮というものです。

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ちなみに宮崎駿監督による「1991年時点での1980年代の総括」はこんな感じ。

左翼的理想主義は捨てない

[圧政に立ち向かう]そういう瞬間をたくさん持ったほうが人生っていうのはやっぱりずっといいですよね。(略)

そういうことを一回も経験せずに終わるのとね、やっぱり隣にいた奴の顔は知らないけども、なんか仲間だなあと思って高揚した瞬間を持った人生のほうがねえ。(略)」

「それは、そういうのは自分の息子にも味わわせたいしね。それで、今はお互いにくだらなくなってるけども、そういう瞬間が来たら、やっぱり前よりずっと親密になれるんじゃないかと思って人を眺めることができるとか、そういうふうなことのほうが僕はやっぱり同じ時間を生きるなら、ずっとましだと思う。

なぜ「紅の豚(1992年)」を作ったか

バブルがはじけたときに(略)管理社会っていうのはバブルだったんじゃないかってわかったような気がしたんですよ。『管理社会に食い殺されるな』っていうふうなエールを送る作品なんていろいろ言ってきたけど、なんかこの管理社会そのものも一種の幻影でね。もちろん没落期になるともっとヒステリックになるから、一段と管理が強まったりするだろうけど、同時にそれも力を失っていくだろうと。説得力を失ってヒステリックになっていくだけだろうっていう。(略)

国境もなにもいろんなものがひしめきあい交じりあいながら生きていかなきゃなんないっていうときに、80年代の簡単な民族主義や安直なニヒリズムの刹那主義はうんざりだっていう。だから、どういうようにして自分は生きていけるかっていうことも含めてね、もう少し本質的な映画を作らないと駄目な時期がきたと思うんです。

ソ連崩壊ショックと「紅の豚(1992年)」

その後また民族主義かっていう、その。“また”っていうのが一番しんどかったですね。第一次大戦の前に戻るのかっていう感じでね」(略)やっぱりユーゴの紛争が大きかったんです。(略)

それがこの映画作ってる最中に重なってきたから『オレは最後の赤になるぞ』っていう感じで、一匹だけで飛んでる豚になっちゃった(笑)。

だから、ある意味でものすごく個人的な映画になってしまったという。そういう恐ろしい現実に直面して

風の谷のナウシカ(1984年)」から「天空の城ラピュタ(1986年)」へ

「いや、やっぱり四十歳にもなってね、プロダクションを辞めて、仕事のチャンスがないっていうことの苛立ちみたいなものが、とにかくこういう形で一回満たされた途端に、今度は素っ裸で自分がなにほどのものかっていうかね。(略)

だから、『ナウシカ』の後、『ナウシカ2』を作らないかとか(略)当然会社のほうから出たわけですけども、なんか裏切りたいんですよね。(略)ハンコ押されるの嫌だっていうね。『ああ、エコロジーの宮崎さんですね』ってなってしまうのは嫌なんですよ(笑)。それで、かわしたい、裏切りたいっていうのもあって、『ラピュタ』みたいなのをやっちゃおうって思ったんです」

助走としての「耳をすませば(1995年)」

ただ『もののけ姫(1997年)』に僕はすぐ入れなかったんですよ。だから、実のこと言うと『耳をすませば』っていうのをやろうって近藤喜文を巻き込んだのは、もちろん近藤喜文にやらせたいっていうのも本当にあったんですけど、助走としてああいうものをちょっとやってみたかったんです。それなしに『豚』から突然ね、『もののけ姫』にはならないですね。なんかやっぱりこの現代に生きてる子供たちに向けて、なんかこれは面白いんじゃないかっていうものを作りたい、だけど、それをやってしまうと次の作品に全力投球できないから、これは人にやってもらうしかないっていうところで、このモチーフであれば近藤喜文がいいだろうっていうふうに、実に辻棲が合ったんです。だから、『耳をすませば』では僕は監督じゃなくて、絵コンテ・マンをやっただけで。そういう意味では、僕にとって傍流なんですけど、ほんとに大事なステップだったんですよね」

要するに私の歴史認識には、1980年代が「左翼黄金期」だったにも関わらず、その左翼内での党争史が抜け落ちているのです。それで当時における吉本隆明の高評価とか、ニューアカ(New Academism)の盛り上がりを、どう位置付けるべきか悩んでいましたが、以下などはこの問題について何らかの形で解答を与えてくれそうです。

青いムーブメント(5〜7) (ファシズムへの誘惑・ブログ 2006年04月07日)

「九〇年」のムーブメントは、八五年ごろから徐々に高揚へ向かうカーブを描き始めるが、その萌芽は八二年の反核運動にはすでに現れている。

  • この運動は一面としては----というより主として何よりも、戦後左翼運動の断末魔の叫びであり、終焉の合図であった。この運動には、社会党共産党のいわゆる「旧左翼」から、六〇年代以降に誕生した「新」左翼諸党派や全共闘の流れを汲む無党派市民運動まで、日本に現存するほぼすべての左翼が大同団結し、最終的には二千万だか三千万だかの署名を集めるほどの反核世論の高揚を生み出したという。東京や大阪では、五十万だかの反核集会を実現した。量的には全共闘以来といえる左翼運動のこの突然の高揚は、実は最低の質と表裏をなしていた。

  • 戦後一貫して革命的左翼とともにあった思想家・吉本隆明は、このとき反核運動を徹底批判する挙に出て、以後少なくとも左翼運動の実践の場からは吉本派の姿は一掃されたと云ってよい。吉本隆明反核運動に敵対した反動思想家であるというレッテルは、現在に至るも左翼運動の世界で一般的に流通している。

  • 吉本隆明が云ったのは、簡単に云えば以下のようなことだ。「反核」などという、誰も表立っては反対できないような「わかりやすい正義」をふりかざすようになったら、もはや左翼もおしまいだ。

  • 共産党新左翼諸党派はそもそも単純な正義をふりかざすのがアイデンティティのようになっているのだから仕方ないとしても、あのラジカルな全共闘直系の無党派市民運動までもが、吉本隆明によるこのそれこそあまりにも単純でわかりやすい批判を、まったく理解できないまでに頽廃を極めていたのである。もっとも、その程度の感性あるいは思想的誠実さを持ち合わせているようなまともな人間は、この十年前の連合赤軍事件に深刻な衝撃を受けてとっくに左翼の実践運動とは一線をおくようになっていたということかもしれない。

  • 左翼運動からは総スカンを食らったが、「八〇年」のムーブメントの一角を占めるポストモダンのいわゆる「ニューアカ」の思想家たちの多くは、このとき吉本隆明の側についた。そのためか「八〇年」の若者たちも吉本隆明に対しては親近感を持ったようで、あるていど読まれていた形跡がある。この偉大な思想家は「六〇年」「七〇年」「八〇年」と、常に革命勢力とともにあったのだ。

  • 反核運動のみならず、この八二年という年は、新旧左翼の大同団結による表層的な高揚の結果と思える現象が他にも起きている。『日本国憲法』という、単にあの平和憲法をオシャレな装丁で単行本化しただけのものがベストセラーに名をつらねている。ベストセラーといえば、戦時中の日本軍の中国人捕虜に対する人体実験を告発した森村誠一の『悪魔の飽食』もこの年である。そんな風潮に、当然のことながら多感な若い世代は反応してしまう。

八二年、サブカルチャーの運動はすでに下り坂である。「八〇年」を代表する文化運動の一つと云ってよいYMOもピークをとうに過ぎていて、翌八三年の暮には「散開」と称する解散をおこなっている。「八〇年」のムーブメントに間に合わなかった、最も若い層の一部は、その対極にあったとも云うべき反核運動に流入してしまう。受け皿も、あった。青生舎とピースボートである。

◎青生舎の歴史は古い。そもそもは、東京都心の一中学生が、「麹町中学全共闘」を名乗って校内で盛んに反戦運動をし、そのため内申書を不当に(?)操作されすべての受験高校に落ちてしまったという七一年の事件に端を発している。

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  • 少年の名は保坂展人。中学生で「全共闘運動」とは、早熟は早熟だが、この程度の早熟さは当時それほど珍しくなかったはずである。西南中でももっと後の八〇年代に、「レーニン」の弟子たちが「明治維新ブルジョア革命か否か」について論争するのだから、中学生のポテンシャルはなかなかあなどれないのである。

  • まもなく保坂少年は、学校側を相手どり、裁判闘争を開始する。世に名高い「内申書裁判」である。青生舎の前身はこの、「内申書裁判を支える会」である。最初は純粋な裁判支援組織だったこのグループが、青生舎と改称するに至る経緯は、そのままこの保坂少年の十代後半から二十代前半にかけての熱い青春ドラマである。その詳細は彼の自伝『造反有理読本』に記録されている。

  • その間の出来事として重要なのは、無名時代の喜納昌吉との出会いであろう。初対面で意気投合した二人は強力な同志関係を結ぶ。のちに保坂の生み出す流行語「元気印」にしても、あるいはあの渡辺美里の「マイ・レボリューション」を絶賛したことといい、このあたりの彼のセンスのヌルさ、はっきり云ってしまえばセンスのなさは悲しくなるほどである。だがしかしこのセンスのなさが、八〇年代の左翼シーンにあっては有利に働いたともいえる。

  • 保坂と喜納が出会ったのは七八年のことであるが、すでに七六年に改称していた青生舎は、この頃保坂の主導するイベント企画グループへと脱皮しつつあった。二人の出会いはこの傾向を加速させ、七九年には「まつり」と称する喜納昌吉野外コンサートを全国十ヶ所で開催、のべ二万人を動員している。喜納の現在の地位は、この時期の保坂のはたらきによると云っても過言ではない。この「まつり」路線は八二年ころまで続く。

  • 八二年、内申書裁判は二審東京高裁で逆転敗訴する。判決後の集会で保坂は、裁判だけで学校状況を変えることはできない、もっとダイレクトな学校変革の運動体に、青生舎を再編したいと支援者らに提起する。保坂はそのイメージを、「学校解放センター」という言葉で表現した。

  • 当時の学校状況は、保坂が「中学全共闘」を名乗っていた七一年とはまったく様相を異にしていた。中学生はもちろん、高校生の政治運動もほぼ壊滅状態で、中高生たちは厳しくもこっけいな「校則」で生活をがんじがらめにされていた。学校問題にかかわる人々の間で、「管理教育」という造語が広まりつつあったが、世間一般ではむしろ“荒れる子供たち”が問題になっていた。八〇年前後はヤンキーの全盛期、いわゆる「校内暴力」が全国で爆発していた。金八先生でカトウマサルが大暴れしていたのもこの頃だ。青生舎が、おかしいのは子供の側ではない、理不尽な管理を強化している学校の方だという告発を本格的に開始したのは、そんな時代だった。

  • 青生舎が「学校解放新聞」を創刊し、その事務所を学校変革の拠点として中高生ら若者たちに開放したのは八三年のことである。時期を同じくして名古屋でも、当時高校生の藤井誠二が、「共闘グループ・れじすと」を結成し、活発な行動を開始している。こうした運動は「学校解放新聞」が部数を拡大するにつれて全国に飛び火し、“闘う中高生”のグループを次々に誕生させている。八五年ごろの最盛期には、「学校解放新聞」は、一般書店では入手不可能なミニコミであるにもかかわらず、一万部発行されていた。

片やピースボートは、新しいグループである。主宰の辻元清美は、当時現役の早大生であった。

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  • ピースボートとは要するに、国際的な社会科見学ツアーである。若者たちが、カネを出し合って豪華客船をチャーターし、アジア各地に今も残る、かつての日本の「侵略戦争」の爪跡や、あるいは今げんに進行している「経済侵略」の実状を見て回る。

  • ピースボートを批判しようと思えばたやすい。飽食ニッポンの世間知らずのガキどもが、カネの力にものを云わせて、アジアの悲惨を視察してまわろうというのだから、悪趣味といえばこれほどの悪趣味もない。

  • しかしピースボートの無邪気さは、「内ゲバ」の恐怖を身近に感じながら、女性や障害者や被差別部落民に滅私奉公する、辛く厳しいだけの世界となっていた日本の左翼シーンにあってまさに革命的であった。“帝国主義者の船”などという新左翼党派からのあまりにも直球の批判・恫喝に対し「我々は好きでやってるんだからこれでいいんだ」と開き直ったピースボートは、偉大だと私は思う。

反核運動で社会問題に目覚めた若者たちが、青生舎やピースボートを軸に新しい左翼運動を形成しはじめた。当時の状況に詳しい人によれば、もうひとつ、ACF(アトミック・カフェ・フェスティバル)というグループもあったという。若者たちが始めた、反核を掲げるロック・コンサートの企画集団である。詳しくは忘れてしまったが、たしか東京の二十代の区議か誰かが中心になっていたのではなかったかと思う。ACFの企画する反核コンサートは何回も開催され、出演者の中には、佐野元春浜田省吾など、メジャーどころも多く含まれていたらしい。

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  • 従来の日本の左翼運動のイメージから大きく逸脱した、これらポップで「軽薄」な運動は、八〇年前後に西欧に出現した「緑の党」や「アウトノミア」など一連の新しい運動の、日本版であった。日本の「八〇年」において欠落していた「政治」領域の、数年遅れでの発生であった。現にとくに青生舎は、「緑の党」や「アウトノミア」を強く意識していた。青生舎周辺で盛んに試みられた「フリースペース」(アパートの一室などを出入り自由として政治や文化の運動のサロン的な拠点にしようという運動)や「自由ラジオ」のアイデアは、西欧の「アウトノミア」からの直輸入だった。

  • 日本の特殊事情によって、それらの運動は、本来一体化するはずだった「八〇年」の諸運動----YMOやRCサクセション、さらに町田町蔵など第一次パンク・ムーブメント、雑誌『ビックリハウス』とくに「ヘンタイよいこ」など糸井重里の運動、大塚英志中森明夫夢の遊眠社第三舞台などの小劇場運動、いわゆる「ニュー・アカデミズム」、など----とほとんど結びつかず、逆に「九〇年」のムーブメントの萌芽・源流となった。

  • さらにいえば彼らは、むしろ「七〇年」のムーブメントと強く結びついていた。青生舎の保坂展人は、実年齢的には「八〇年」の世代であるのに、驚くべきことに「全共闘」の実体験者であったし、ピースボート辻元清美も、全共闘と並び六〇年代後半から七〇年代初頭の政治運動をリードした「ベ平連」の小田実らと行動を共にすることが多かった。「八〇年」の世代の内部では、「政治」派と、「芸術・思想」派はむしろ反目しあう構図ができていた。

この複雑な事情が、日本における「八五年の断絶」をもたらしたともいえる。

  • 世界中どこでも、革命的なムーブメントにおいて通常は「政治、芸術、思想」の運動は一体である。日本においても、そうであった。そしてその上で、「五〇年」、「六〇年」、「七〇年」と、戦後の運動史はつねに、新しい世代が前の世代を批判的に乗り越える、という形で展開してきた。これは、「八〇年」に関しても同じである。サブカルチャー運動は、全共闘運動を「左から」批判する運動である。しかし何度もくりかえすようにそれは「政治」の領域を欠落させた不完全な革命運動であった。その欠落していた「八〇年」的な政治運動は、数年の時差をおいて現れ、しかもそれは同世代の芸術・思想運動と反目し、むしろ「七〇年」の政治運動と結びついたばかりか、そのまま次の「九〇年」の運動の源流となった。結論から云えば、このとき歴史が混乱したのである。

  • 「八〇年」までは、批判という形であれ、前の世代の試みは次の世代に継承されていた。それゆえ「八〇年」のムーブメントの当事者たちは、「六〇年」や「七〇年」の運動についてよく知っているし、同時にそれらに対する批判的な視点をしっかり持っている。しかし、出遅れた「八〇年」的政治運動は、いわば孤児になってしまった。それは前世代の政治運動と、結びついてはいるが本当の意味で継承はしていない。なぜならそれは、前の世代を批判的に自身の世代に結びつける「脈絡」の自覚、要するに思想運動を欠いている(切り離されている)からである。彼らは「七〇年」を継承しているのではなく、単に引用しているのである。重要なのは、その引用は、脈絡を「無視して」おこなわれるのではなく「理解せずに」おこなわれていることである。前者ならばそれはむしろ「八〇年」の芸術運動の典型的な手法であるが、彼らの引用は後者なのである。

  • 例えば保坂展人喜納昌吉の結びつきを想起してほしい。「七〇年」的なヒッピー文化へのアンチ・テーゼとして、パンクやテクノの運動があった。この脈絡を踏まえずして青生舎が喜納昌吉と結ぶのは、ヒッピー文化の継承ではなく、単なる引用なのである。

こうした現象は、「九〇年」のムーブメント全体を特徴づけている。八〇年代半ばには、大きな断絶がある。

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◎「九〇年」のムーブメントの萌芽を、もうひとつ挙げておかなくてはならない。尾崎豊である。

  • 尾崎は八三年、アルバム『十七歳の地図』でデビューする。当時彼はまだ高校在学中であった。ただし、無期停学中であった。結局そのまま、卒業せずに中退となる。

  • 規則でがんじがらめにされた学校生活からドロップアウトし、愛と自由を叫ぶ熱いロッカー、なんてものは「八〇年」の感性からすれば反革命の極みである。「八〇年」のムーブメントは、そういうものを典型的な敵としていた。「熱く語」ったり、「主張」したりすることを、「八〇年」の文化活動家たちは厳しく自らに禁じていた。

  • 尾崎豊は「八〇年」の「軽薄短小」文化のユートピアに、突如出現した異物だった。ここにも、「八〇年」と「九〇年」との断絶がある。私は今回獄中で、逮捕の時に持ち込んだ自作の現代史雑記帳をパラパラと読み返していて、尾崎豊のデビューが八三年十一月、YMOの“散開”が同十二月であることに気づいて、たいへん驚いた。尾崎豊がデビューしたとき、YMOはまだ「いた」のである。私は、断絶の深さを改めて思った。

  • 尾崎豊も先述の反核ロック・コンサート、ACFに出演している。彼が本格的にブレイクするきっかけとなったのは、八四年八月、ステージから転落して足を骨折したが、それでも歌い続けた、という「いかにも」なエピソードを作ってからである。翌八五年春のセカンドアルバム『回帰線』はチャート一位となっている。同年暮にはサード『壊れた扉から』をリリース、このあたりが尾崎豊のピークである。

  • 尾崎豊は、間違いなくダサかった。しかしそのダサさゆえに、尾崎豊の登場は革命的であった。意味や本質といった「暑苦しいもの」をひたすら拒否して、洗練の極致に辿りついた「八〇年」のムーブメントの袋小路を突破するのは、尾崎のように限りなく時代とズレた野暮の極みのような存在でしかありえなかったということだろう。

  • 尾崎豊は「主張する」「暑苦しい」ロックを復活させた。その間には質的に大きな開きがあるとはいえ、尾崎がいなければ、「九〇年」の文化運動を代表するブルーハーツの登場もなかっただろう。

ここまで、「八〇年」のムーブメントの後退期、末期にそれと入れ替わるように登場した「九〇年」のムーブメントの萌芽・源流についてざっと概観してきた。八二、三年に現れたこれらの現象はもちろん、「九〇年」のムーブメントのいわば前史である。それが本格的に開始されるのは、八五年のことである。

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◎いよいよそれについて語る前に、もうひとつ触れておかなければならないことがある。冷戦についてである。

  • 冷戦がどういうものであったか、それを知らない世代に説明するのは極めて難しい。「九〇年」のムーブメントを担ったのは、この冷戦を知っている最後の世代である。

  • 冷戦時代とはどのような時代であるか、一言で云うならばそれは、敵と味方がはっきりと分かれていた時代ということになる。国際的にはそれは米ソをそれぞれの盟主とする西側と東側の対立であり、それは国内ではそのまま右と左の対立として現れた。私たち西側世界の反体制派にとっては、政府は右であり、私たちは左であった。

  • 反体制派の内部でも、社会党共産党などの旧左翼と六〇年代以降の新左翼とは対立していたし、さらにまた新左翼も四分五裂していたが、例えばそれらの間で起きる暴力的衝突は、例え死者を出すほどのレベルに至っても「内ゲバ」と呼ばれていた。そしてそれら「内ゲバ」は、「本当の敵」を利するものとして批判されるのが常だった。新左翼ともなると、さすがにソ連や中国や北朝鮮が「労働者の祖国」などとは思っていなかったし、東側の反体制運動にもシンパシーを表明することもあったが、しかし結局のところ私たち西側の左翼は、東側の民主化運動が弾圧されるのを、後ろめたい気持ちは抱えながらも見て見ぬふりをしてきたと云わざるを得ない。

  • 細かいことを云い出せばキリがないが、基本的には、冷戦下において敵・味方ははっきりと色分けされていたと云える。当然のことである。冷戦も一種の戦争だったのだから。

  • 八〇年代のとくに前半は、冷戦の最後のピークである。というのも西側の主だった国で、東側に対して強硬策を唱えるタカ派の指導者が、相次いで登場したからである。七九年にイギリスのサッチャー、八一年にアメリカのレーガン、八三年に日本の中曽根政権が誕生している。これら西側のタカ派リーダーは緊密に連携し、東側を力でねじふせるための軍備拡大に邁進した。とくにレーガンのいわゆる“スター・ウォーズ計画”などは、第三次世界大戦、核攻撃の応酬、人類滅亡、のようなSF的妄想を喚起するに充分で、八〇年代前半の世界的な反核運動の拡がりは人々が本気でそのようなショッキングな想像を禁じえない状況の中で生まれたのである。

  • 逆に云うならば、サッチャーレーガン、中曽根の三人組は、西側の反体制運動にとってこれ以上ないというほどの完璧な悪役であったということになる。日本では、青生舎、ピースボートの全盛期はちょうど中曽根時代と重なっている。さらに日本には、昭和天皇がいた。昭和天皇はもちろん、かつての「侵略戦争」の総責任者であり、ムソリーニやヒトラーと並ぶ最悪の「戦争犯罪人」であった。八〇年代にはまだ、そんな究極の悪役が、日本の体制の中心に、でんと坐っていたのである。

  • 八〇年代いっぱいまでは、若者が社会問題に目覚めるとはイコール左翼になることであったが、多くの場合、その時に入門書の役割を果たすのが、おそらく七〇年代から続いていたことだろうが、本多勝一著作であった。社会派の中高生は、当時必ずといっていいほど本多勝一を愛読した。地方の小さな書店でも、本多勝一ならたいてい文庫で主なものは入手できた。

  • さらに進むと、現代書館の「フォー・ビギナーズ」シリーズに手を出した。シリーズ第一作の『マルクス』が刊行されたのは八〇年のことである。「レーニン」「トロツキー」「毛沢東」などの人物ものから、「アナキズム」「エコロジー」「非暴力」とか、「反原発」「天皇制」「日本の警察」など、私たち八〇年代の若い左翼活動家は、このシリーズを次々と読破することで左翼の基本教養のようなものを身につけていった。当時、同世代の活動家の部屋を訪ねると、たいてい本棚にあのカラフルな背表紙がいくつか並んでいたものだ。

さて八五年である。青生舎はピークを迎えた。

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この年の夏休みに角川文庫から書き下ろし刊行された『元気印大作戦』は、現役中高生を含む青生舎のスタッフたちの手になる、学校変革のためのマニュアルである。のちに“社会派エロマンガ家”として一部に熱狂的なファンを獲得することになる山本夜羽も当時、青生舎のスタッフであり、この本に学校変革の熱血短編を寄稿している。総じて、現実的なんだか非現実的なんだか微妙な、しかし何かやりたくてウズウズしている元気な中高生なら一発でノボセ上がって明日なき暴走を開始させられてしまう、一貫してポップで脳天気なマニュアルである。実際、この本にノックアウトされて、反逆の青春を謳歌したり、空回りしてヒドい目にあったりした中高生は、全国に無数にいるはずである。

  • この頃まで青生舎は、全国の“闘う中高生”の総本山であった。青生舎の刊行する本やミニコミは、闘うのはあくまでも中高生自身である、という勢いに満ちていた。しかしこれ以後、青生舎は「子供たち」の不満や悩みを代弁する「理解ある大人たち」のグループへと徐々に変質しはじめる。

  • 今回初めて気がついたのだが、この年、保坂は三十歳である。計算すればすぐ分かるのだが、私はこれまで漠然と、二十代半ばくらいとイメージしていた。十代半ばの中高生と、同じ目線で運動をやれるのはそれくらいが限界かと感じていたからである。青生舎は、役割を終えようとしていた。

  • 当時その中にいた友人の話によると、ピースボートが草創期のエネルギーを喪失していったのも同じ頃のことのようである。「八〇年」的な軽薄短小、クールでドライな時代は八五年にはすっかり終焉し「九〇年」に至る熱い時代が始まろうとしている。

  • 世界情勢から云えば、この年、ゴルバチョフが登場している。ペレストロイカ、グラズノスチ、あのソ連が変わり始める。平和・軍縮を唱えるゴルバチョフは、要するにレーガンや中曽根に対比される「善玉」として適役であった。「世界は変わろうとしている」というムードは、運動の高揚の追い風となる。

「ニュース・ステーション」が始まったのもこの年である。

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  • それまでニュース番組というのは、アナウンサーがただ原稿を一字一句間違いなく棒読みし、「客観的に」事実を伝えるだけのものだった。アナウンサーが自分の意見を云うなどあり得なかった。現在のNHKのニュースすら、当時の民放のニュースと比べても作り手の主観が入りすぎである。

  • 「ニュース・ステーション」は革命的だった。久米宏は、とことん主観的な報道をした。基本的なスタンスはリベラルで、時に反体制的であったから、保守派は「ニュース・ステーション」を猛攻撃した。しかし私は、久米宏は実際には本当の意味で主観的な報道をしていたわけではなかろうと思う。彼は単純に話芸の達人として、つまりエンターテイナーとして、喋っていたのではないだろうか。スタンスがリベラルだったり反体制的だったりしたのは、当時それが最もウケるといういわば職人のカンを働かせた結果にすぎないのではないか。社会が、リベラルなもの、反体制的なものを期待していた。八五年、そういうムードが高まりつつあった。

八五年は、八三年ころから徐々に盛り上がり始めていたいわゆる“インディーズ”のブームがピークに達した年でもある。

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  • 「九〇年」へと向かうさまざまのムーブメントの中で、これは唯一、「八〇年」とかろうじてつながっている動きだったかもしれない。

  • 有頂天やラフィン・ノーズあたりから始まって、ゼルダ、アンジー、レピッシュ、のちには筋肉少女帯エレファントカシマシなど、無数の個性的なロックバンドが、八〇年代のインディーズ・ムーブメントの中から登場する。その熱の只中で、八五年四月、ブルーハーツが結成されている。

早稲田大学で見津毅が「ピリオド」を結成したのも八五年である。

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  • 彼がそもそも活動に目覚めたのも、八二年の反核運動の頃だった。当時彼は早大系列の高校に通っていた。文化祭に筑紫哲也だか粉川哲夫だか、そのころ人気のあった左翼文化人を招いてイベントを主催したと聞いたことがある。

  • ピリオドは、青生舎やピースボートと同質の、新しい学生運動だった。目新しくて、派手なパフォーマンスをことさらに追求した。被差別者・被抑圧者への原罪意識をもって滅私奉公するような同世代の左翼学生運動主流の感性を、見津はおそらく単に理解できなかったのだと思う。見津を動かしていたのは、主として要するにヒーロー願望だった。“反逆のヒーロー”になれば女にモテる、という下心もあった。

  • もっとも客観的には、あまりカッコいいとは云えないようであった。今の言葉で云えば、本人は「イケてる」つもりでいたらしいが、ズレていた。これからはロックだ、と思い「毛沢東ブギウギバンド」なるバンドを結成して自らボーカルをとったが、その歌い回しはひいき目に見ても歌謡曲、はっきり云って演歌だった。「おまえは音楽を政治利用しようとしてるだけだ」と、真剣にロックの可能性を追求している仲間からもよく批判が出たという。そういうちゃんとしたセンスを持ち合わせている仲間が一応、周囲にいて、見津のトンチンカンな暴走にブレーキをかける役目を果たしてくれていたのは救いであろう。彼らは見津のダサさに辟易しながらも、その新しい運動を支えていた。その中には、現在新進の左翼系社会学者として頭角を現している酒井隆史などもいた。

この年、「ムー」や「トワイライトゾーン」といった雑誌に、麻原彰晃の“空中浮揚写真”が掲載されている。麻原は前年、東京でヨガ道場を開いたばかりだった。

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  • 八六年、オウム真理教はいよいよ本格的なスタートをする。

  • この年のはじめ、麻原彰晃はインドへ修行の旅に出ている。二月、初期の主著の一つである『超能力・秘密の開発法』を出版、四月にはオウム真理教の前身、「オウム神仙の会」を結成している。

  • 麻原が再びインドへ行き、“最終解脱”をしたというのも、この年七月のことである。そしてこの年の暮れ、初期麻原のもうひとつの主著である『生死を超える』が出版される。

  • オウムに結集したのもやはり、八〇年代半ばの、“軽薄短小”な社会に強い違和感を持ち、同時にその頃から徐々にかもし出されてきた、世の中が良い方向へ変わろうとしているという、漠然とした楽観的なムードに多かれ少なかれ反応した若い層だった。

 冷戦が終わろうとしていた。

  • 八六年二月に、フィリピン革命が起きている。盤石に見えた極悪非道の独裁政権が、突如盛り上がった「ピープルズ・パワー」によってあっという間に崩壊していくさまは、まるでよくできたハリウッド製のポリティカル・アクションを見ているようだった。「ニュース・ステーション」の視聴率が突然上がり、テレビ朝日の看板番組へと成長するきっかけとなったのも、このフィリピン革命の報道だったという。

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    アメリカがこの種の独裁政権を見放し、むしろ民主化勢力を支持するようになったのも、フィリピン革命からではなかったか? 冷戦時代、民主化運動はたいてい左翼と結んでいたから、アメリカは一貫して、それを弾圧する独裁政権の側に支援を与えてきた。それが却ってますます、民主化勢力を左翼へと走らせた。キューバなどはその最たるもので、カストロゲバラも、革命政権を樹立した時点においてすら、まだ共産主義者ではなかった。ベトナムもイランもニカラグアも、みなアメリカと結んだ独裁者が打倒されたという点で共通している。それがこのフィリピンでは、アメリカは掌を返したようにそれまで支援してきた独裁者・マルコスを切り捨てた。

  • この年の秋には、レイキャビクレーガンゴルバチョフの、米ソ首脳会談がおこなわれ、軍縮について話し合っている。平和ムードを主導しているのは、明らかにタカ派レーガンではなく、改革派のゴルバチョフの方であった。冷戦は終結に向かいつつも、レーガン=悪、ゴルバチョフ=善、といったイメージは強化されていった。

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  • もっとも、ソ連のグラズノスチ、情報公開政策がまだまだ本物ではないことを露呈させる大事件が、この八六年四月に発生している。チェルノブイリ原発事故である。

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    ゴルバチョフ政権も、徹底して事故の実状を隠そうとした。そしてアメリカも、深く追及しなかった。アメリカだってこれより十年ほど前のスリーマイル原発の事故について、触れられたくないのは同じだった。だからチェルノブイリの直後は、異常なほど静かだった。報道も、淡々としていた。マスコミも、電力会社と深く結びついていたのである。

ところで日本にも、ゴルバチョフ的な「善玉」が、八六年に華々しく登場する。土井たか子である。

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若い世代の革命的ムーブメントの担い手は、世代交代しつつあった。

  • 早大ピリオドの見津毅はこの年、早大近くのアパートに「フリースペースVISION」を開設する。「九〇年」の若い政治運動は、大学を拠点としないという著しい特徴があったが、見津が学内のサークルボックスの類ではなく、学外に新しい活動拠点を設けたことは、その先駆的な例と云える。

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  • 見津の新しい拠点には、中高生など、早大生以外の若者も多く出入りする賑やかな場所になった。この頃の新しもの好きの若い活動家たちの例にもれず、見津もここで自由ラジオなどを試みた。

  • 特筆しておくべきは、「勇気のない子供たちのクーデタ宣言」と題したライブ企画だろう。出演の目玉は、デビュー間もない辻仁成のエコーズだった。
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  • エコーズは、「八〇年」的な洗練とは対極にあるぎこちない言葉づかいで愛と自由を声高に叫ぶ、現在からすればまさに「若気の至り」と呼ぶにふさわしい恥ずかしいロックバンドだった。しかしその歌の主人公は、それ以前の“反抗のロック”のセオリーと違って、盗んだバイクで走り出したり、夜中に校舎の窓ガラスを割ってまわったり、ヤンキーみたいな“反抗”をする勇気のない、おとなしいごくフツーの、弱々しい少年だった。その意味でエコーズは、尾崎豊ブルーハーツの中間形態ともいえた。要するにエコーズは、優等生の尾崎豊、カッコ悪いブルーハーツであった。とはいってもエコーズは、かなり中高生に人気のあるバンドだった。しかし本格的なブレイクを迎える前に、ブルーハーツが登場してしまった。

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  • そのブルーハーツも、見津が手がけたこの「勇気のない子供たちのクーデタ宣言」に出演している。まだデビュー前で、見津によればエコーズのギャラが三十万円、ブルーハーツのギャラが五万円であった。

  • 素人企画にありがちなミスで、見津が用意した電源は、ロックバンドの大音量を支えるに充分ではなかった。開演直前に、ミスに気づいた。すでにプロデビューしているエコーズのスタッフはカンカンだった。見津たちは平謝りした。しかしそのままでは開演できない。一時間以上待たされて、集まってきた客の中高生たちは暴動寸前だ。

  • ブルーハーツヒロトの提案で、急きょ、アコースティック・ライブということになった。もちろん、エコーズもだ。ブルーハーツとエコーズの、完全なアコースティック・ライブなど、後にも先にもこれ一度であろう。そのブルーハーツの人気も急上昇していた。前年四月に結成されたブルーハーツは、この八六年のうちには、一度に千人を動員する人気バンドに成長していた。

  • マンガ『ボーダー』の連載が始まったのも八六年である。八〇年代後半がどのような時代だったのか、このマンガを読めばわかる。そこに描かれているこの時代は、宮台真司大澤真幸や、あるいは私と生物学的には同世代であるはずの東浩紀が語る「八〇年代」を事実だと思い込んでいる人にはとまどいを覚えさせずにはおかない。しかし、「ボーダー」に描かれているのが本当の「八〇年代後半」である。

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  • 「九〇年」のムーブメントをその中心で担った一人である宮沢直人は、のちに八〇年代末の新しい若者たちの運動とは何かを説明するのに、分かりやすい例として、ブルーハーツとともに「たけし軍団」を挙げている。たけし軍団の若者たちによるフライデー襲撃事件も、この年八六年の暮のことであった。

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  • 翌八七年には、「朝まで生テレビ」が放送開始となる。現在からは想像もつかないが、初期の「朝ナマ」の議論は、とにかく白熱していた。終わりつつあるとはいえ、まだ冷戦時代であったから、たいていのテーマで出演者たちはきれいに右と左に分かれていた。要するに対立軸がはっきりしていて、そのバトルはショーとして充分に面白かったのだ。

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    八五年「ニュース・ステーション」、八七年「朝ナマ」と、「社会派であること」はいよいよ恥ずかしいことではなくなってきた。むしろ、それは今やファッションになりつつあった。政治がタブーであった「八〇年」はもはや遠い過去だった。

  • 「広島平和コンサート」が始まったのも八七年だ。かつてのACFが、若者の間で政治がタブーであった時代状況に挑戦するものであったとすれば、山本コータロー南こうせつという、ロックとはおよそ無縁のフォークのミュージシャンの呼びかけで始まったこの「平和」のロック・コンサートは、社会派であることが若者のファッションになりつつあった時代状況に便乗するものだった。「平和がいいに決まっている」という思考停止したスローガンが、このコンサートでの合言葉になっていた。

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    このコンサートは、八七年から十年間、おこなわれることになっていた。九〇年ごろまでは確かに毎年おこなわれていたが、その後も予定どおり続けられたのかどうか、私は確認していない。

  • 第一回のこの八七年には、当時のメジャーどころのロック系ミュージシャンは、ほとんど出演していたと云っていい。尾崎豊渡辺美里バービーボーイズ佐野元春など。もちろんエコーズやブルーハーツも出ていた。八〇年代後半、ある意味ではブルーハーツと人気を二分していたといっていいストリート・スライダーズも。変わったところではSIONの名もあった。

  • ブルーハーツはこの年五月、シングル「リンダリンダ」でメジャーデビューを果たした。ファースト・アルバムもほぼ同時に発売されている。十一月には早くもセカンド・アルバム『ヤング・アンド・プリティ』発売。ブルーハーツの登場は、日本のロックの革命であった。

  • その前と後では、日本のロックはまったく変わってしまった。ブルーハーツの登場によって、日本のロックは初めて本当に日本の若者のものになったと云ってもよい。それまでの日本のロックは、背のびしたい一部の若者が特権的に享受する輸入文化であるか、さもなければロックふうの歌謡曲でしかなかった。ブルーハーツはまぎれもなくロックであり、しかもそれまでの売れているロック----例えば佐野元春浜田省吾らと違い、その言葉にはロック的な「なまり」がなかった。この時代の、「ごくフツーの少数派」の若者たちが抱える苛立ちや青臭い正義感を、直球で表現していた。

こうした八〇年代後半の若者たちの運動には、名前がない。

  • 「六〇年」には六〇年安保、「七〇年」には全共闘運動やヒッピー・ムーブメント、「八〇年」にはサブカルチャー、といった具合に、その時代の若者たちの運動を一言で総称する名前がついているが、「九〇年」の運動にはそれがない。

  • そもそも、そのような運動が存在したこと自体が、一般に認められていない。存在しなかったのではなく、単に認められていないのである。その存在を執拗に指摘すればするほど、私などは単なる誇大妄想狂の類に扱われてきた。かつて「失われた世代」なる言葉もあったが、私たちはさしずめ「抹消された世代」とでも呼ぶべきかもしれない。あったのに、なかったことにされている世代。

  • このムーブメントの存在について、名の知れた批評家の中では唯一、浅羽通明のみが言及している。ただし、否定的に。八〇年代後半に、若い奴らは突然、うすっぺらな社会派になってしまい、まったくろくでもなかった、という文脈で、しかし浅羽はこのムーブメントの存在を認めている。浅羽通明はそれを「ネオ社会派」と呼んだ。

  • そういう浅羽自身は「八〇年」の世代に属しているが、では「九〇年」に属する私たち当事者は、それをこれまで何と呼んできたか?

  • 一時期、私は「九〇年安保」という言葉を使っていた。全共闘運動に「七〇年安保」の別名があるのにならい、中森明夫橋本治浅羽通明サブカルチャー運動を「八〇年安保」と称したことに、さらにならったものだった。しかしこの言葉を使っていると、私が中森明夫につまらない知恵をつけられたかに思われてしまうことが多くて閉口した。私はむしろ浅羽の文章にヒントを得て「九〇年安保」を云い出したのだが、私と中森の後に述べるような関係を考えると、そのような不愉快な誤解もやむを得ないと云えた。しかし私たちの世代の一連の運動を、「六〇年」「七〇年」「八〇年」のムーブメントと並立させうるものとしてとらえるその狙いは間違っていなかった。が、「七〇年安保」も「八〇年安保」も、「全共闘」や「サブカルチャー」という「本名」があってのいわば別称である。本名なしにいきなり「九〇年安保」ではたしかに具合が悪い。

  • 「九〇年」派最大の理論家である鹿島拾市も、私の「九〇年安保」という命名には賛成していなかった。彼は単に、「八〇年代末反乱」と云っている。

  • 宮沢直人もやはり、「八〇年代後半の若者たちの新しい運動」と云い、前述のとおり、説明を求められると「ブルーハーツたけし軍団みたいな……」ということになった。

  • 私自身も、この運動そのものの名前ではなく、それを担った私たちの世代という意味ではよく「ブルーハーツ世代」という言葉を使ってきた。それは全共闘世代が同時に「ビートルズ世代」であるのと似たようなニュアンスを持っている。

私は今度こそ、この「九〇年」のムーブメントに名前をつけようと思う。私はそれを、「青いムーブメント」と命名する。

  • この「青」は青生舎とブルーハーツをかけている。もちろん、私たちの世代の運動全体に漂っていた「青臭さ」を何よりも表現している。「青いムーブメント」なるネーミングのそこはかとない気恥ずかしさも、あの運動にふさわしいものだ。

  • その青臭さは何よりも、前の世代の運動と断絶しているところから生じたものだ。私たちの運動は、前の世代のそれを継承しなかった。故意に継承しなかったのではなく、「八五年の断絶」のために継承できなかったのだ。私たちは、すぐ上の世代が、何を試みたのか、まったく知らずに自らの試みを開始した。

だから私たちの運動の青臭さは、だから単に若さゆえではない。「八〇年」の末っ子であるケラや大槻ケンヂが語る「八〇年代の青臭さ」と、私たちの運動の青臭さも、当然別のものということになる。

 外山/恒一

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1970年生まれ。九州を活動拠点とする革命家。88年4月、2年間に3つの高校を転々としたあげく、中退。同年5月、「反管理教育中高生ネットワーク・DPクラブ」を結成。89年1月、『ぼくの高校退学宣言』で単行本デビュー。90年7月、DPクラブの活動を急激に先鋭化。91年から数年間は、「街頭ライブ」の革命的ムーブメント化に尽力、失敗。93年、「反共左翼革命結社・日本破壊党」結成。95年、東京で「だめ連」と出会い、これを九州へ「輸入」することを決意、曲折を経て97年より「福岡版だめ連」の数次の高揚を牽引。99年、フェミニストをはじめとする敵対的な既成左翼勢力に、私的な恋愛事件に国家権力を介入させる陰謀を展開される。裁判闘争を徹底的にエンタテインメント化する戦術でこれに対抗して裁判官を激怒させ、事実上「法廷侮辱」の罪で2年間の獄中生活を勝ち取り、以後「まったく新しい政治犯」を称する。04年5月、福岡刑務所を満期出所。同年12月、獄中手記や獄中転向宣言文などを含む『最低ですかーっ!』を上梓。07年4月、東京都知事選に立候補

学生運動が盛り上がらないと社会を変えられない。直接学生にたきつけていくことは今後もやっていく。そうでないと突破口が開けない。学生運動の再建なんて途方もないことに見えるけど、世の中が大きく変わるときってのは、若くて、ヒマで、ある程度知性がある、この3条件を持った階層がワーッと騒ぎ始めるときです。幕末で言えば下級武士たち、近代では学生しかありえない。

とにかく右翼も左翼も優秀な奴を発掘して、交流させて影響を与え合わせよう、その結果、ファシズムになるはずです。

――外山さん、なぜ今、ファシストになったんですか?

監視社会批判、管理社会で警察国家が実現しようとしているという現実に抵抗していることは昔から変わっていません。ただ、かつては永遠の抵抗者としてのアナーキスト無政府主義者)という展望しかなかった。歴史上、アナーキストって勝利したことないんですよ。活動しながら、常に勝利しない宿命なのかな、というあきらめがあった。

ファシズムに目覚めたのは獄中です。極右思想のように言われるファシズムですけど、アナーキズムとかなり近いことに気づいた。ファシズムアナーキズムが勝利する唯一の活路なのかもしれないと。

ファシズムのオリジナルはヒトラーではなくムッソリーニです。彼は元々過激な左翼です。イタリア社会党を除名され、活動主体としてファシスト党を立ち上げるけど、新しい左翼政党を作ったつもりでいた。そこにアナーキストや前衛芸術家や右翼が合流して、初期は右だか左だか分からない組織だったんです。実存主義的なベースの反体制運動なんですよね。

実存主義:人間の理想や本質を考えるといったことより、現実に今ここに存在する人間をどうするのか考えようという哲学の思想。単に「定職につかずダラダラしている人」という意味でも一時使われた)

実存主義的な過激派もありうるわけですよ。時代の状況によって右とも左とも手を組む。戦後はずっと左と手を組んできたんです。今は左翼が支配しているので、右と手を組むのもファシズムだろうと。

――えっ、日本の左翼は戦後、体制を支配したことなんてないのでは?

全共闘って、実は「試合に負けて勝負に勝つ」という勝ち方をした。全共闘震源とする反差別的な物言い。PCとか男女共同参画とか、フェミニズムとかエコロジーとか嫌煙権運動とか、全共闘が個別具体的な課題に散っていった結果です。

(PC:ポリティカル・コレクトネス。差別・偏見を防ぐための概念やその表現方法。反差別の名による「言葉狩り」の意味で使われることもある)

自民党の政治家も失言で糾弾されるけど、人前で言ってはいけないことがあるという認識にはなっているでしょ。PC的な物言い、つまりスチュワーデスや看護婦といった単語がいけないという概念は、すべて全共闘にくっつくんですよ。

だから、若者の右傾化というのは、ある種当然です。もはや左翼というのは風紀委員であり、差別言動監視委員です。それは反感を買って当たり前ですよ。

以前だったら人前で意見を述べる機会も能力もなかった人が、ツイッターなんぞが広まったことによって意見らしきものが言えるようになってきた。本来語り得ないサバルタンが、ネットで語り散らすようになった。左翼はサバルタンの代理をしてきたつもりだったのに、今や「サバルタン黙ってろ」というのが本音じゃないですか。弱い者の味方だったはずの社民党なんて、党首からして完全に風紀委員ですからね。

サバルタン:権力構造から疎外された人々)

別にこの人物の立場を支持する訳じゃありませんが「左翼陣営への幻滅」こそがファシズムやナチズムの原動力という発想自体は判らないでもありません。

 

「左翼陣営のメインストリームにおいては、吉本隆明反核運動に敵対した反動思想家という位置付けが確定している」…なるほど「20世紀のヘーゲル」という訳ですか。

私は割とマルクスの「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」なる指摘を、同時代にボードレールが行った「人間を感動させるのは象徴体系や物語文法だ」なる指摘と同じくらい気に入ってます。それが「内なる良心の命じるままに善悪の彼岸を超越出来る人間だけが尊い」としたロマン主義者達が「国王や教会の権威に裏付けられた領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」と対消滅を起こした後の19世紀後半における焼け跡的情景の中でこそ芽生えた「泥海中の蓮の花」と映るからなんですね。

しかし、どうやら21世紀に入ると新旧左翼連合は「反核運動のみを唯一のコンセンサスとして果たした合同を守り抜く為に、ソ連が起こしたチェルノブイリ事故については一切責めない」戦略を採択した後遺症によってイデオロギー的には丸っ切り空っぽになり果て「徹底的に教条主義的で権威主義的な風紀委員が、自分達だけが唯一の自由の理解者でその源泉だと言い出す」「若者に憎みながら依存する寄生虫」といった新境地に到達する展開になった模様。確かにその立場から「我々の英雄行為を心から讃えられない人間は、革命が勝利した暁には全員絶滅収容所送りになる。命が惜しければ目の前の警官や機動隊に殴り掛かれ!!」と連呼し続けるだけで人類としての義務が果たせるなら、本当に気楽な生き方とはいえましょう。それが「全体主義社会からの最も知的で軽やかな逃走方法」と断言するなら、まさに「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」としか答え様がありません。

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歌にもいうではありませんか。「♪戦え若者よ、わしらが楽になる。大活躍するのを待っている」と。ある意味それが20世紀の到達点。だから21世紀のエンターテイメントは、その焼け跡の中から「身体感覚のみしか信じられない時代」「デスゲームを通じてしか生きてる実感を得られない時代」を経てゼロから現在のスタンスを構築せざるをえなかったとも。

奥田民生「人の息子(1995年)」

手を抜け 気を抜くな 時々怠けるな

大活躍するのを待っている

立派な人達は 立派な人達だ

大成功するのは知っている

大活躍するのを待っている

せっかくの脳みそを半分残すの勿体ない

せっかくの人 生だ死ぬまで生きれる

ものすごく楽しみだ

大活躍するのを待っている

だいたいこんな事をなんで私が言ってるの

しかし頼まれたから言わせてもらうよ

戦え若者よわしらが楽になる

大活躍するのを待っている

大成功するのを信じてる

欧米のヒッピー運動やヌーベルバーグ運動やニューシネマ運動は70年代から90年代にかけて次第に子供の世代から「いつまで自分達だけが革新派のつもりでいるんだ? もうとっくにお前なんて体制側の保守派(あるいはそれにも加われなかった敗残者)じゃないか」なる突き上げを食らって衝撃を受け、ある種の中年危機状態に陥っていったのですが、不思議と日本の左翼陣営にそういう展開は見られませんでした。永遠に自分達だけが少年少女であり続ける為に、現実の少年少女達に憎しみながら依存する道を選んだからですね。そうなっていく過程がやっと頭に入ってきた様に思います。

http://www.genkipolitan.com/elvis/50/50jpg/elvis0203.jpghttp://otokogumi.org/images/album/daikoushin20.jpghttp://sharetube.jp/assets/img/article/2015/facebook_ogp_half/1022.jpghttp://nyaasokuvip.net/wp-content/uploads/2015/09/wpid-db03ebeca98756985204d66e9e39dcb0.jpg

正直、もう「フェリーニカサノバ(Casanova Di Federico Fellini、1976年)」でも鑑賞して「永遠に自分だけは若者のままと信じてる人間の悲劇」を味わいやがれと改めて思いました。