諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ジブリの源流は米国?

割とアメリカ人は普通にそう考えてたりします。
beautiful people

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実際、ジブリの母体は米国においてハンナ・バーベラ・プロダクションの下請けとして「海底2万マイル(20.000 Leagues Under The Sea,1972年)」の製作を、ランキン・バス・プロダクションの下請けとして「ホビットの冒険(The Hobbit,1977年)」「王の帰還(Return of The King,1980年)」「フライト・オブ・ドラゴン(The Flight of Dragons,1982年)」「最後のユニコーン(The Last Unicorn,1982年)」の製作を手掛けてきたトップクラフトだったのですから。
*むしろ日本のアニメ漫画GAMEファンの方が「The Flight of Dragonsなくして「風の谷のナウシカ」における腐海なし「The Last Unicornなくして「崖の上のポニョ」なし」みたいなDeepな表現についてこれないかもしれない。
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40年代からチェコ・アニメをアメリカに輸入していたプロデューサー、
ウィリアム・L・スナイダーが「ホビットの冒険」の映像化権を1964年に取得。この企画に参加したダイチは、当初「実写のセットにセルアニメのキャラを合成する」長編アニメとして構想していましたが、あいにく予算の目途がつきません。そうこうする内に契約した映像化権の期限が迫り、焦ったスナイダーはダイチに急いで短編アニメを制作するように求めます。ダイチはチェコの挿絵作家アドルフ・ボーンの協力を得て、 1966年に約10分のアニメ映画『The Hobbit』を何とか完成させました。

70年代に入り、指輪物語の映像化権を取得したのが、プロデューサーのアーサー・ランキン・Jrとジュール・バスのスタジオ。日米合作の作品を多く手掛け、東宝と『キングコングの逆襲』(1967)、円谷プロと『極底探検船ポーラボーラ』(1977)を制作しています。アニメも数多く制作しており、70年代には日本のアニメスタジオ「トップクラフト」が作画・撮影などの実作業を手掛けていました(主に脚本や音響はランキン側が制作)。

このトップクラフトが「ホビット」も担当し、約80分の長編アニメ『The Hobbit』として完成。声のキャストも、ガンダルフジョン・ヒューストン、エルフの王がオットー・プレミンジャーといった名監督を迎え、豪華な顔ぶれです。そして、1977年にTVでスペシャルアニメとして放送され、多くの支持と高い評価を受けました。アメリカSF界の権威ある賞であるヒューゴ賞の映像作品部門にノミネートされたことからも、その評価の高さがわかります(受賞したのは『スターウォーズ』(1977年)でしたが。)

この作品、今回ピーター・ジャクソンが三部作の長編で描こうとしている原作を80分にまとめたことから、ストーリーはややダイジェスト的ではありますが、トロールやゴラムやゴブリンといったクリーチャー達も登場。ラスボスである竜のスマウグ(爬虫類というよりもネコ科の動物のような不思議なクリーチャーデザイン)とビルボ・バギンズとの対決やラストの”五軍の戦い”など、見せ場はきっちりと映像化されました。精密に描き込まれたキャラデザや、ファンタジー文学の代表的な挿絵画家アーサー・ラッカムの絵をモチーフにした独特の陰影に富んだ美術(水彩絵具を使用)など映像的にも見どころは多い作品です。

興味深いのは、ホビットドワーフがアメリカのアニメキャラらしいのに対し、トロールやゴブリンが日本のアニメ的な動きや表情をすること。もしかすると、メインキャラ達はアメリカ側のコントロールが強かったのに、敵キャラは日本側の裁量があったのかもしれません。それだけに、日本では一度だけ(1978年)『ホビットの冒険』の邦題で公開試写が行われただけで、今に至るも劇場公開もテレビ放送もソフトの発売も無いのが残念です。何といっても、演出の『機甲創世紀モスピーダ』(1983‐1984)のチーフディレクターを務めた山田勝久、美術監督の『キルビル』(2003)のアニメパートも担当した西田稔といった、日本人スタッフによって作られた作品であるだけに、余計に残念でなりません。ちなみに、このトップクラフト宮崎駿が『風の谷のナウシカ』(1984)を作り、その後に改組される形で設立されたのが「スタジオジブリ」なのです。

その「作風」にも連続性が認められるとする向きまであります。とはいえ手掛けてきたのがSF・ファンタジー文法において歴史上基礎教養となってきた大作ばかりで、しかも宮崎駿監督の趣味趣向と合致しすぎているせいで真相の解明はほぼ不可能とも。

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 長編アニメーション映画「幻魔対戦(1983年)」を大ヒットさせた角川春樹は翌年「少年ケニア1984年)」を仕掛けるも宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ1984年)」に惨敗。この「少年ケニア」は(海外における深作欣二監督や千葉真一夏木マリのファンに再発見された)「魔界転生(Samurai Resurrection,1981年)」や「新里見八犬伝(Legend of the Eight Samurai ,1983年)」と異なり今日なおひっそりと眠り続けています。

今から思えば経験値が違いすぎた? ただ「指輪物語」は「初めて映像化に挑戦した事、およびなんとか完成にまで持ち込んだ事の意義は認める」なんて微妙な言われ方をされてる完成度…でも逆に「迂闊に指輪物語なんて大作に手を出したランキン・バス・プロダクションが力尽きたからこそ「風の谷のナウシカ」が製作可能になった」なんて穿った意見もある様です。

どんぐりこ - 海外の反応 海外「なんか納得した」ジブリがホビットをアニメ化してるのを知ってた?


それにしても、本当にどのルートを辿っても「スターウォーズSTARWARS 1977年)」の話が出てきます。そのアカデミー賞独占が、ランキン・バス・プロダクションに「止めの一撃」を与えただなんて普通だったら、思いつきませんよね?

60年代から70年代にかけて、フランシス・コッポラマーチン・スコセッシらが生み出してきた深みと苦みのある大人の映画は、もう見られなくなったのである。 

本当にそういう問題なの?