諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「セカイ系」と「ハレム系」の起源①「人形系」としてのドイツ・ロマン主義とグラン・ギニョールと日本無残絵

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私の中で「フェリーニカサノバ(Casanova Di Federico Fellini、1976年)」は「Clockpunkの代表作」という位置付けの作品です。

  • 何が壮絶って「いかがわしさや馬鹿らしさと紙一重の若さ」を剥き出しの状態で提示する一方で「いかなる雄弁にも派手な装飾にも忍び寄る老いは食い止める力はない」現実を突きつけてくる。その結果として描き出されるのは「永遠に自分だけは若者のままと信じてる人間」の悲劇。

  • その主題展開ゆえに、セリフの大半が恐ろしいまでに意味を持ってない。意味があるのはせいぜい、遍歴の途中で年老いた母親と出会い「お前はずっと手紙も寄越さないで」と罵られ「今度ぜひお屋敷に立ち寄ります」みたいなことを言って馬車に乗せた後で「住所を聞き忘れたな」と呟く場面。あとは晩年北の果ての地にある片田舎の宮廷まで流れ着いてから厨房の女将と交わす「ここにはマカロニもないのか!?」「あるのはポタージュだけだよ」なる会話くらい。
    *でもそれはそれとして日本語吹き替えは神の領域。

これはもはやある種のホラー作品…しかも誰も究極的には逃れ得ない結末…
ちなみに以下はエログロ注意。苦手な方はご遠慮ください。

これによると蓮實重彦がこの作品冒頭の「湖の底からクレーンで大きな像を引き上げるのに失敗するシーン」を分析して「フェリーニの機械はいつも失調することでしか自らを主張できない」と批判的に書いているらしいです。しかしながら、まさにこの場面こそが「誰も永遠に若さの中に留まる事は出来ない」悲劇が冷徹なまでに描き出される以降の展開を暗喩。それが事実として認められなの事こそが「現実の若者の若さ」に憎みながら依存する「ニューアカの悲劇」とか「21世紀左翼の悲劇」を生み出したとも。

その日本版が「武士道残酷物語(1963年)」で、どちらも基本は「グラン・ギニョール(Grand Guignol)形式」。

  • 「グラン・ギニョール(Grand Guignol)形式」…フランスのモンパルナスにあった「グラン・ギニョール恐怖劇場(Le Théâtre du Grand-Guignol、1897年〜1962年)において特に1901年から1926年にかけて大人気を博した「人気女優が「ヒロインが理不尽な形で惨殺される寸劇」の主役を連続して演じる」上演スタイル。ロバート・E・ハワードも「英雄コナンシリーズ(1932年〜1936年)」の中で、江戸川乱歩も1930年代通俗小説の中で好んで用いた。イタリアのジャーロ映画も基本はこれ?

要するに色事師の女性遍歴だろうが連続猟奇殺人事件だろうが英雄の美女救出履歴だろうが「似た様な展開の繰り返し」は必ずやゲシュタルト崩壊を引き起こし、観客が新しい意味付けを求め出してしまうのです。そして、その要求にちゃんと応えられないと(オリジナルのグラン・ギニョール恐怖劇場の様に)あっけなくマンネリと切り捨てられてしまうのです。

ふらり道草―幻映画館― : 幻映画館(125)「武士道残酷物語」 - livedoor Blog(ブログ)

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*考えてみれば殺人による犠牲者を0人にする為にタイム・スリップを繰り返す伝奇ミステリー・ゲーム「ひぐらしのなく頃へ(2002年〜2008年)」もこの作劇スタイルのバリエーションと言えなくもない。その起源は「未来から送られてくる情報に従って世界を破滅から救おうとするが、見逃したファクターがあって結局世界は滅んでしまう」展開を繰り返すJ.P.ホーガン「未来からのホットライン(Thrice Upon a Time、1980年)」に遡るとも。

*「英雄の美女救出履歴」…「美女がどんどん溜まってしまう」問題については様々な解決方法が模索されてきた。

  • モーリス・ルブラン「怪盗紳士ルパン・シリーズ(Arsène Lupin、1905年〜1939年)」やイアン・フレミング「007シリーズ(1953年〜1964年)」は比較的単純な回答を見出した。クライマックスで救出に失敗するか、救出に成功してもその後すぐ死んだ事にすればいいのである(かくして美女の死体が積み上がる。まぁこの問題は神話時代からあった)。

  • ロマンス小説の第一人者ノーラ・ロバーツは別解を見出した。物語は必ず幸せな結婚で終わり、続編の要望が大きい場合はその子供の恋愛を描けばいいのである(かくして人気作は必ず壮大な年代記に発展。現代ものではちときつい)。

そしてどちらも選ばないなら物語文法場、最近の漫画やラノベで良く見掛ける「ハレム展開」になってしまうのである。
ハーレムもの - Wikipedia

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ところで「フェリーニカサノバ」の主人公である色事師カサノバGiacomo Casanova、1725年〜1798年)が最後に到達する「永遠に経年変化しない美女」は自動人形だったりします。出会う場所はドイツの宮廷。

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①元来アフロディテホメロスイーリアス(紀元前8世紀成立)」において「傷を受けても血が流れない」といった具合に人形めいた扱いをされており、キプロスピュグマリオンの愛する彫刻を人間に変貌させたりもしている。おそらく「永遠に経年変化しない美女」の起源はこうした女神崇拝の世界まで遡る。

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ルネサンス期イタリアでは15世紀後半から16世紀前半にかけてのボローニャ大学パドヴァ大学で人体解剖学が急速に発展。ベルギー人解剖学者アンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius、1514年~1564年)が精密解剖図集「ファブリカ(De humani corporis fabrica=人体の構造、1543年)」を出版に刺激されて印刷技術の精緻化が始まった(17世紀に入るとその中心地がヴェネツィアからオランダに推移)。またスイスのバーゼルにおいても、名の知れた凶悪犯ヤーコプ・カラー・フォン・ゲープヴァイラー (Jakob Karrer von Gebweiler ~1543年) の死体を公開解剖した外科医フランツ・イェッケルマン (Franz Jeckelmann) の指導下、その骨格が組み立てられて交連骨格標本に仕立て上げられている(いわゆる「バーゼルケルトン(The Basel Skeleton)」。現存する世界で最も古い解剖学標本)。また「ムラージュ(Moulage)」と呼ばれる石膏で採った患部の型に蝋を流し込んで着色した医療教育用模型の製作が始まったのもこの時期とされる。

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*実際に最初に動いたのは医師ではなくルネサンス期の芸術家達であったとも。アルブレヒト・デューラーが人体比例研究の成果「人体均衡論四書(1528年)」を発表し、 レオン・バティスタ・アルベルティの「絵画論(1436年)」も人体画には解剖学的研究が必須とした。かくしてフィレンツェのデッサン芸術アカデミーでは解剖学が遠近法と並んで必須科目となり、その影響でレオナルド・ダ・ヴィンチが精巧な解剖手稿を残し、ミケランジェロ・ブオナローティルーベンスも自ら解剖を行い、ドナテーロやラファエロも死体写生に打ち込んでいる。何しろイタリア・ルネサンス期の文人や芸術家にとって遠近法や解剖学の採用は宇宙の真理、すなわち世界と人体の相関性や伝統的寓意体系の根幹を為す質実剛健古代ギリシャ・ローマ時代の英知に絶対回帰する為の有望な方法論の一つでもあったのである。それまで主に天体観測用いられてきたカメラ・オブスクラ(camera obscura)が、遠近法(パースペクティブ)や人体解剖学に基づく正確さの表現に活用される様になったのもこの頃からとされる。

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*当時は科学実証主義の起源となった新アリストテレス主義、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」なる思考様式が発祥した時代ではあったが、その事と人体を「魂を祀る神殿」として敬う伝統は衝突を起こさなかった。それで当時の解剖図は神話や寓話めいた景色の中に神々を思わせる神秘的ポーズを取った状態で配されたのである。現代人の感覚では「真昼間からゾンビが徘徊している」様にしか見えない。

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③17世紀以降次第にスイス職人の活躍が目立つ様になる。オルゴール、時計、そして自動人形(単数形オートマトン(Automaton)、複数形オートマタ(Automata) )…

オルゴールの歴史(17世紀〜19世紀)…その原型は17世紀頃のスイスの時計職人がカリヨンを鐘の代わりにピンを利用して演奏させるものであった。それまでにもカリヨンは機械化されて一定の間隔で鐘を鳴らすように作られていたものがあったが、鐘の代わりに調律した金属片を用いることで小型化を可能にした。後に時計がぜんまいによって小型化したように、オルゴールもやがて家具のように大型なものと携帯できる小型なものに別れた。 シリンダーは通常、金属で作られ、動力源はゼンマイである。複数の曲目を演奏できるようシリンダーが横にスライドする構造がとられたものも多い。また高価ではあるが、より多くの曲目を演奏できるようシリンダーをムーブメントから取り外して交換できるものもあらわれた。インターチェンジャブル・シリンダー・オルゴールである。これは1862年にパイヤールが発明し、1879年にジュネーヴのMetertによって完成された。18世紀初頭に作られた初期のオルゴールはシリンダー型であり、時計職人が手製で作ることもあって非常に高価だったが、19世紀になり機械技術や加工技術が高度化すると金属製のディスクにピンが植えられたディスク型のオルゴールがドイツから現れた。ディスク型オルゴールはシリンダー型よりも安価かつ大量に量産でき、ディスクを交換することでシリンダーよりも簡単に曲目の変更ができたため、瞬く間にディスク型のオルゴールは普及していった。ディスクが上下して2曲を演奏するものもあった。 シンフォニオン(Symphonion)やポリフォン(Polyphon) のようなモデルでは、シリンダーの代わりにディスクが使われた。これらは新しい市場を求めてアメリカにいくつかの工場を開いた。 ポリフォンアメリカ代理店は後にポリフォンから独立しレジーナ社に変わり、シンフォニオンはアメリカシンフォニオンとなる。こうしたディスク型のオルゴールの台頭によってスイスのシリンダー・オルゴール・メーカーは大きな影響を受ける。対抗するために独自の構造を持つディスク・オルゴール"ミラ"や"ステラ"などを製造しはじめたが、間もなく現れた蓄音機に、特にジュークボックスとして置かれていた大型のオルゴールはシェアを奪われ、以後は小型のオルゴールが少数生産されるにとどまっている。

18世紀の時計産業は、イギリスやフランスのマリンクロノメーター(海洋精密時計)の開発と王侯貴族相手の高級時計の製作が中心だった。貴族達のために作られた時計は、ルイ15世様式と呼ばれる宝石や象嵌の装飾を施したケースに収められた置き時計や、鳥かご時計、からくり人形など、芸術性が高く、また極めて高い技術を要する工芸品だったのである。

市民が政治と文化を担うスイスでは、普及品の懐中時計の生産が中心で、規格化された部品(エボーシュ)がイギリスやフランスに輸出されていた。その過程で従来の1個の時計を1人の職人が最後まで作り上げる従来のスタイルは、合理化された分業スタイルへと変化していく。

主要な時計生産地はスイスのジュラ地方。ジュネーブの北、フランスと国境を接するジュラ山脈に囲まれた渓谷で、現在でも有名なラ・ショー・ド・フォン、ヌーシャテル、ル・ロックル、フルーリエなどの村々が点在。意外にも時計を作る兼業農家が多く、農作業のない冬の間は時計部品を製作していたという。

澁澤龍彦「人形愛あるいはデカルト・コンプレックス(1966年初出)」

十七世紀の哲学者デカルトは、その娘の死をふかく悲しんで、一個の精巧な自動人形をつくらせ、これを「わが娘フランシーヌ」と呼んで愛撫したという…
*晩年のデカルトが船旅の途上はげしい嵐に見舞われた際、船長がデカルトの船室を探って薄気味悪い幼女人形を発見。これを海に捨てると嵐が止んだという伝承まで存在する。当時人形とはそういう存在だったのである。

このような自己愛の変形した心理を、わたしは「デカルト・コンプレックス」と名づけたいと思う。私は思うのだが、これはコギトの哲学者にとっても、真に名誉ある命名というべきではあるまいか。むろん、デカルトもまた、ラ・メトリイの先輩として、すべての動物を一種の機械と見なす立場をとっていたが、理性を有する人間はその限りにあらず、と考えていた。「肉体においては一切がメカニズムであり、精神においては一切が思惟である」と彼は述べている。

*ドイツの人形師ベルメールを1965年に雑誌「新婦人」で日本に初紹介したのもまた澁澤龍彦で、こうした領域に関する省察はさらに種村季弘「怪物の解剖学((河出文庫)」収録の「少女人形フランシーヌ(1974年)」などによって深められていく。

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*「ハンス・ベルメールHans Bellmer、 1902年~1975年)」…ドイツ出身の画家、グラフィックデザイナー、写真家、人形作家。ドイツ帝国のカトヴィッツ(現在のポーランド領カトヴィツェ)出身で1932にマティアス・グリューネヴァルトの「イーゼンハイム祭壇画」を見て深い感銘を受け、同年秋にベルリンでE.T.A.ホフマン原作のオペラ『ホフマン物語』を観劇。その中の一編に美しい自動人形の少女が登場する「砂男」があって方向性が定まった。ナチ党が政権を掌握した1933年以降、等身大の創作人形を制作・発表。超現実主義者(シュルレアリスト)に分類されるもドイツの情勢を支持する仕事はしないと宣言し、ナチズム反対を表明した。関節人形の制作にあたっては人体を変形させた形態と型破りなフォルムを採用したのは当時ドイツで盛んだった「健全で優生なるアーリア民族」を象徴する行き過ぎた健康志向を批判したものである。ベルメールの斬新な作品は、アンドレ・ブルトンら当時のパリのシュルレアリストには受け入れられ歓迎された。1934年、少女の関節人形の白黒写真10枚を収めた「人形(Die Puppe)」をドイツで自費出版する。初めて作った人形を背景の前に置き、活人画のシリーズとして撮影したものであった。日本においては1965年に雑誌『新婦人』で澁澤龍彦ベルメール球体関節人形を紹介したのが広く知られるきっかけになった。

④最初に蝋製の解剖学的標本を製作したのは17世紀後半に活躍したガエターノ・ズンモ(Gaetano Guilio Zummo 1656年に~1701年 後にフランス風の威厳ある名前が必要となりズンボと改名)であったとされている。 

  • 「ペスト」…中世から教会奉納用の箱舞台(蝋人形を使ったジオラマの一種)を製作する伝統のあったシチリア島出身のズンモが1661年にナポリに渡った際、そこで奇しくも自分の生まれた1656年に猛威を振るったペストの残禍を描いた絵画と出会って衝撃を受け、現地教会に奉納するつもりで作成した「恐怖劇場シリーズ」第一作。

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  • 「時の勝利」「人体の腐敗」「梅毒」…「ペスト」が評判となってトスカーナ大公コジモ3世に招かれフィレンツェに移り住んで1694年まで製作を続けた「恐怖劇場シリーズ」の残り。「人体の腐敗」は夢野久作が「ドグラマグラ(1935年)でも取り上げた題材だし「ペスト」はマルキド・サドの想像力を刺激して「悪徳の栄え(1797年)」中に同様の内容の「偶像の部屋」を登場させた。また「梅毒」は古代ギリシャ・ローマの神々が’性交後のの気怠い満足感のうちに性病に感染して死んでいくという闇黒のユーモアを具現化したものである。

    https://www.evernote.com/shard/s45/sh/cdc7bd0b-38e4-4cc7-abc6-1943b18b75de/9c2151c81010b9e127e2562bfab82f42/res/bde9ac73-e73b-4289-ab9e-5f8538234d73.jpg?resizeSmall&width=832https://houseofanansipress.files.wordpress.com/2013/10/ab5c654a-8089-11e2-aed5-00144feabdc0.jpghttp://3.bp.blogspot.com/_tgFgngNHYkA/TFmb-c-aqLI/AAAAAAAADRE/1T6TFVnDtII/s1600/zumbo2.jpg

  • 「退廃芸術から医療模型へ」…やがてズンモは衰退し断絶に向かうメディチ家貴族の退廃趣味についていけなくなった。そして芸術より科学に関心の比重を移す様になったフィレンツェの雰囲気に迎合する道を選んだのである。すなわち周囲から解剖用死体を蝋人形で製作する事を勧められ、当時イタリアで唯一人体解剖を許されたボローニャに出向いて解剖学に関する造詣を深めた。1695年から1700年にかけてはジェノヴァに滞在して解剖学教授ギョーム・ドゥヌーと蝋人形製作を共同研究するもやがて訣別。フランスに逃げ込んでマルセイユのジャン=ルイ・ファベールの協力で若い受刑者の刑死体など40体以上の遺体に接する機会を得て本格的製造に乗り出した。これが話題となってパリへと移動し、ルイ14世から解剖模型の独占権を得たがほどなく病死。

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    *下図はボディービルダーの初期のポージングを連想させる。「肉体は魂を祀る神殿」という意識が貫かれているせいかもしれない。

  • 「解剖されたヴィーナス」しかし解剖用蝋人形製作の伝統はフィレンツェのラ・スコベラに継承され、フェリス・フォンタナとパオロ・マスカーニが実際に人体を解剖してその死体の形を取る方法を採用した1800年頃から大々的に行われる様になった。特に僅か3年間の間に500身以上の製作を手掛けたクレメンテ・スッシーニ(1754年〜1805年)という職人は「蠟でコピーすする死体は理想美を備えていなければならない」と主張して十代の美少女の遺体を選び、この街に保存されているボッテッチェリの傑作「ウェヌスの誕生」のポーズを取らせたのだった。胸の部分を開いて臓器を取り除けていくと子宮の中には胎児もいる。ズンモがイエス・キリストの像に似せて解剖用頭部を製作した様にスッシーニは聖母マリアに似せてこうした像を作成したという話もある。

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  • 一方医学と科学の総本山足たるボローニャでも医師エルコール・レッリ(1702年〜1766年)が本物の人骨を蠟で肉付けしていく独自の製造方式を開発し1720年以降大々的に解剖養老人形を生産する様になってフィレンツェを脅かしたという。ただしボローニャの解剖用模型はあくまで「実用物」としてのみ製作され古代ギリシャ・ローマ彫刻や聖画の様なポーズは取らされなかった。

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⑤やがて精緻で美しい解剖図や解剖模型は見世物小屋に展示されて客寄せに使われたりする様にもなっていく。多少皮が剥がれていたり、筋肉や骨が剥き出しだったり、内臓が飛び出したりしてもヌードはヌードだし、かえって猟奇趣味が満たされたとも。

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  • パリにおける蝋人形展示の歴史①…18世紀初頭には既にブルゴーニュ出身のアントワープ・ブノア(1629年〜1717年)という肖像画家がフランス応急を取り巻く貴婦人達の等身大蝋人形(セルクル、豪華衣装を着せたマネキン)を製作して並べて展示し、人気を博していた。ルイ14世も訪れている。蝋人形を見世物とする事に成功したブノワは御陰で大金持ちとなった。もしかしたらルイ14世の王宮に解剖人形を持ち込んだズンボもこれを手本とする蝋人形興行を考えたかもしれないが、いずれにしろ世を早く去り過ぎたのである。

  • パリにおける蝋人形展示の歴史②…皮肉にも最初に解剖容認行の見世物興行に漕ぎ着けたのはジェノヴァでズンボとトラブルを起こしたドゥヌー教授だった。ズンボ没後10年目に当たる1711年にパリへとやってきた彼は国王から解剖模型の展示と興行を行う認可を得て医学上の奇作を見世物にする蝋人形美術館の運営を開始した。奇形、性器の実物大模型、特に陰門から胎児の頭が出た常態で死亡した妊婦の蝋細工模型が人気を博したという。フランス議会がこれを問題視して開催時間を昼に限り、女性の入場を拒否し、性器には覆いを掛ける事と決議するとたちまち客足は落ちたが、1721年にカルトゥシュの名で人々に知れ渡った怪盗ルイ=ドミニク・ブルギニョンが逮捕され処刑されるとそのデスマスクを型取りして蠟で再現したのを契機に何とか餅返す。1728年には他の解剖模型とともにロンドンでも興行を行った。

  • パリにおける蝋人形展示の歴史③…「自称解剖学者」クルティウスの蝋人形展示会が1770年に初めてサンマルタン街産で開催され、好評を博したあと,1776年にはパレ・ロワイヤルに会場を移した。その人気の秘訣は当初蝋人形自体というより体重238kgの肥満男や白黒斑の肌を持った少女、グアドループ生まれの白人と黒人の混血少年といった「生きた奇形」の展示であり、特に二人の子供は世の注目を集め応急の訪問まで許されたという。またパレ・ロワイヤルの展示会場には当時評判になっていたジャック・ド・ヴォーカンソン(Jacques de Vaucanson, 1709年〜1782年)のオートマタ(自動人形)も展示されていた。

  • ロンドンにおける蝋人形展示の歴史①産業革命の進行などもあって娯楽の大衆化が進んでいたロンドンでは、18世紀初頭にはもう「サーモン婦人の蝋人形館」なる常設展示が存在し「若い婦人と子供達の運命を占っているシップトンばぁさん」「中国清朝時代の官吏」「ノーフォークの侏儒コーン」「スタフィート州生まれで近所のセント・ダンスタン教会に埋葬された身長7フィート4インチの巨人バムフィード」などの展示が人気を博していたという。またズンボの解剖用蝋人形も割と早い段階で展示され、相応に知れ渡っていた。

  • ロンドンにおける蝋人形展示の歴史②…18世紀中旬ともなるとロンドンの高名な模型制作者ベンジャミン・ラクスローが「解剖学と珍品の博物館」なるものの展示を開始した。展示の中心は石膏製の人物像で「サーモン婦人の蝋人形館」と重なる演目も多かったという。初期の屈指の呼び物は妊娠八ヶ月の妊婦の蠟模型で、現存するチラシによれば「血液の循環が(人間の血管と完全に一致する形状をなし、また正確な位置に置かれたガラス管の中を血液に似た液体を流す形で)模造されているばかりか、呼吸時の心臓の作用や肺の運動も精密再現。作品全体が世にも不思議な最高の美しさ」といった代物。やがてそれに男女二体の実物大解剖用蝋人形が加わったが、そのうち女性像の方は絞首刑になった女囚を解剖中に形取りしたもので全期肉組織が剥き出しになっていた。またアルコール漬け常態で保存されたさまざまな胎児、人間と動物の未熟児、胎盤、そして「(異常かつ異例な諸原因によって)ついに分娩せず死亡した女性達を原型とし、実物そっくりに着色された様々な妊娠月数の胎児の常態を示す群像」「男性のペニスと膀胱の蠟製解剖模型」「女性の室尿器と生殖器の蠟製解剖模型」「三十歳の女性の本物の生殖器」「17歳処女の本物の生殖器」「充分に流血して勃起常態にアル本物のペニス」などの実物展示が加わった。さらにそれらを取り巻く用に撮、魚、貝殻、骸骨、化石、(古代エジプト王の娘のものとされる)ミイラ、二頭の剥製のワニ、一組の雪窟、クロムウェルニュートンデスマスクなどが展示され「教育的価値は一目瞭然!!」と銘打たれていたという。ラックストロー自身は1772年に亡くなり、これらのコレクションも1779年には散逸し、以降は長らく閉館常態が続いていたという。

  • ロンドンにおける蝋人形展示の歴史③フィレンツェの解剖用蝋人形「解剖されたヴィーナス」も1825年には「フローレンタイン(「インスティトゥート・デ・アナトミア・パトロギカ」すなわちフィレンツェのラ・スコペラの愛称)・ブィーナス」の呼称で「人体の臓器および生理機能の健康な場合と様々な病気の状態を示す部分的会ボイ模型」とともに上陸を果たした記録が残っている。

  • 「シュピッツナー博士の大解剖博物館(パリ)」…1856年にパリのシャトー・ドー広場(現レピュブリク広場)にパウル・ザイラー工出身のシュピッツナーが開業し、1885年に会場が焼失するとヨーロッパを巡回する移動博物館となった。「科学! 芸術! 進歩!」のスローガンを掲げながらその目玉は「解剖されたヴィーナス」や「性病患者の病理模型」といった際どく猥褻な見世物群であり、1921年にはフランスにおける興行を完全禁止されてしまう。彼の分析に拠れば梅毒の蔓延に恐怖する当時のフランス人(1900年には患者数が800万人を越える)の耳目を惹き付けるのに有効だったのは「各性病の進行をリアルに表現した蝋細工」「普段大っぴらに語られる事のない性や出産に関する展示」「近世から近代にかけてフランスで発展を見た奇形学の標本」であった。

  • パウル・ザイラー工房(ミュンヘン)」…多種多様な医学用蝋人形をヨーロッパ中の科学研究機関に出荷していたミュンヘンの下請け企業。地元では「民俗学的蝋人形(アフリカやアジアの原住民を模した人形)」の展示でミュンヘン市民から注目されており、シュピッツナーはここから「蝋人形の見世物興行」というアイディアを得たとされる。
    *ちなみに「欧米列強の展開する植民地争奪戦に参加したい」という願望は1871年ドイツ帝国が成立しても果たされず、1890年代に入ると「植民地獲得から得られるものはない」という立場のビスマルク宰相を失脚させるに到る。

  • この系譜は悪名高い「衛生博覧会」へとつながっていく。まぁ現代日本でも「人体の不思議展」は人を集めるし、あの感覚。
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*江戸時代日本における幕府の出版統制が、それから逃れる為の「男の娘物」「触手物」「妖怪強姦物」などを次々と生み出してしまった様に、当時の欧州においても「神話や聖画を題材とした場合や医学目的の場合はヌードOK」みたいな伝統のせいで奇妙な方向にエロティズムが発展してしまった側面があったのである。エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年〜1883年)が「近代絵画の父」と呼ばれるのは、これに挑戦して最初の有効打を与えたからに他ならない。

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⑥またパリでは主に17世紀後半から18世紀後半にかけてパンドラ(pandore)人形がファッション情報発信の重要な媒体として使われていた。今日のマネキン(フランス語で言うマヌカン)の元祖。

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パンドラ(pandore)人形

主に17世紀後半から18世紀後半にかけ、パリ・モードを諸外国へ紹介するためパリで制作された等身大および小型の人形。

  • 14世紀のフランスでは既に、その最新ファッションを小さな蝋人形に着せてヴェネツィアに送っていた。これはファッション・ジャーナリズムの嚆矢とされている。

  • 17世紀後半、ルイ14世の時代にモードの中心がオランダからフランスへ移るとフランスのファッション情報を伝えるメディアとして等身大および小型の人形が制作され、各国へ送られるようになった。これらのモード人形(ファッション・ドール)は、好奇心で開けた箱から諸悪が世界に広まったというギリシャ神話のエピソードになぞらえ、「パンドラ」と呼ばれた。

  • 盛装を着た等身大の「大パンドラ」(grande pandore) と、略装(ネグリジェ、具体的には旅行着や室内着)を着た小型の「小パンドラ」(petite pandore) が作られた。小パンドラのプロポーションは、大パンドラのそれに準じた。いずれのパンドラも、衣服をピンで留めて整えるため、頭以外の胴体や四肢には白革が使われた。衣装から下着に至るまで、パンドラに着せる衣服はその季節のモードに忠実に従って仕立てられた。

  • パンドラは、現在も高級ブティック街として知られるサン・トノレ通りで、当時の一流人形作家たちによって制作された。流行最先端のドレスや靴や靴下や帽子、孔雀羽の扇子や宝石といったアクセサリーなどを着せ。当然髪も最先端のモードで結い上げる。ルイ14世時代にサロンで花形だった女流作家マドレーヌ・ド・スキュデリーもプロデュースに関わったことが知られる。

  • マリー・アントワネットが専属デザイナーのローズ・ベルタンと髪結師レオナールに作らせて母マリア・テレジアや姉妹達に送った記録もある。受け取ったマリア・テレジアはアントワネットの愚行(ファッション逃避)を諌める手紙を送ったとされる。

  • 完成したパンドラは毎月ロンドンへ送られ、さらにそこからイタリア、ドイツ、果てはロシアに至るまで、ヨーロッパ各国へ送られた。たとえ戦争中であっても特別に通行手形が与えられ、スペイン継承戦争の最中であろうとその旅程が妨げられることは無かった。また1750年から南北戦争の頃までアメリカにも送られ、多くの婦人たちの注目を集め続けている。パリから遠く離れた地にあっても、ファッションに関心のある人々はパンドラによって、めまぐるしく変わるパリの最新モードに触れることができたのである。

1770年代からは本格的なファッション雑誌や流行年鑑が発達するようになり、伝達範囲で劣るパンドラは19世紀初期にかけてメディアとしての使命を終えていく。各地に送られたパンドラはそのモードの時期が終わると針子たちに下げ渡され、多くは姿を消している。現存するパンドラは少ない。

 ⑦18世紀に入るとジャック・ド・ヴォーカンソンの様な著名な自動人形(単数形オートマトン(Automaton)、複数形オートマタ(Automata) )の製作者も現れた。

ジャック・ド・ヴォーカンソン(Jacques de Vaucanson, 1709年〜1782年)

1727年、8歳の時に貴族からリヨンに自身の工房を与えられ機械の組み立てを許される。同年レ・ミニームを治める行政官の訪問を受け、人間を模した機械の製作を決めた。そのオートマタは晩餐の給仕をし、食卓を掃除するというものだったが行政側はそれを「冒涜的だ」と断じ、彼の工房の破壊を命じている。

  • 1737年には「笛吹き人形」を製作。等身大人形で笛と太鼓で12曲のレパートリーを演奏する事が出来た。翌1738年に科学アカデミーで披露。当時ヨーロッパ中で流行していたオートマタの多くは玩具程度だったので話題となる。同年後半には「タンバリンを叩く人形」と「消化するアヒル」を製作。アヒルの消化自体はパトロンとなってくれる金持ちや有力者を感心させる為のインチキに過ぎなかったが、その腸に使われた柔軟なゴム管は世界初の発明だった。
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  • 1741年にはルイ15世に宰相して仕えたフルーリー枢機卿から(産業革命の始まったイングランドスコットランドの後塵を拝していた)フランス絹織物生産の検査官に任命され、絹織物製造工程の改善を任される。1745年にはBasile Bouchon や Jean Falcon の先駆的成果を発展させて世界初の完全自動織機を開発し、半世紀以上も後になってジョゼフ・マリー・ジャカールが改良を施して繊維産業に革命を起こし、20世紀に入るとその「データ入力」という考え方がコンピュータに応用される事になるパンチカード・システムを発明。しかし彼の提案は職人に受けが悪く、街中で石を投げつけられた事すらあるくらいでその大半が無視された。

  • それでも1746年には科学アカデミー会員に選ばれ、1751年頃(Derry & Williamsは1768年としている)に開発した総金属製の旋盤は百科全書にも掲載されている。

世界初の自動車「キュニョーの砲車(1769年〜1771年)」の開発もパトロンだったショワズール宰相(1764年に亡くなったルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人の寵臣)が、1769年にルイ15世の愛顧を得たデュ・バリー夫人の取り巻きの手で更迭されるとそれっきりだった。

絶対王制末期のフランスでは万事がこんな風に王侯貴族の気まぐれ次第だったのである。

⑧18世紀後半に入ると「トルコ人(The Turk)」と呼ばれる「チェスを指す自動人形(オートマタ)」が人気を博す。ヴォルフガング・フォン・ケンペレンがマリア・テレジアを喜ばせる為に1770年に制作されてから1854年に焼失するまでの84年もの間、ヨーロッパとアメリカで展示されてきた行われたほとんどのチェスの試合に勝利。その相手にはナポレオン・ボナパルトベンジャミン・フランクリンの様な有名人も含まれていたが、実は1820年代前半に入るとロンドンのRobert Willisが入念な悪戯と看過されてしまう。実際それはこれはチェスの名人が内部に隠れて操作する一種の手品に過ぎなかったのである。 

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⑨こうして「自動人形(単数形オートマトン(Automaton)、複数形オートマタ(Automata) )」と「蝋人形」が競争し合う時代が幕を開ける事に。そして最後に勝ったのは…

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マリー・タッソー(Marie Tussaud、 1761年~1850年

フランスの蝋人形作家。マダム・タッソー(Madame Tussaud、 タッソー夫人)の呼び名と、ロンドンにマダム・タッソー館を設立したことで知られる。現在はロンドンの重要な観光名所となっており、アムステルダム、ベルリン、ハリウッド、香港、ラスベガス、ニューヨーク、上海、ワシントンD.C.にも分館が存在する。

  • マリー・グロシュルツ(Marie Grosholtz)として、フランスのストラスブールで生まれた。軍人であった父親ジョセフ・グロシュルツ(Joseph Grosholtz)は、マリーが生まれるちょうど2か月前に、七年戦争で戦死。母親のアンヌ・メド(Anne Made)は、マリーを連れてスイスのベルンに移住しドイツ出身の医者フィリップ・クルティウス(Philippe Curtius、 1741年~1794年)のもとで、家政婦として働き始める。この地でスイス国籍を取得した。
    ストラスブールKoi「ご注文はうさぎですか?(Is the order a rabbit?)」の聖地。フランク王国時代からフランス文化圏とドイツ文化圏の係争地であり続けてきたせいで両方の文化が入り混じり、欧州人の目から見てもとっさにドイツともフランスとも判断がつかない景色が広がる。それで日本のアニメ漫画GAME作品で「欧州のどこともつかない場所」のモデルに選ばれやすいという。一方「シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム(Sherlock Holmes: A Game of Shadows、2011年)では「係争地」故に爆弾テロの標的に。

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  • 内科医であったクルティウスは、蝋による造形術に優れ、解剖模型を制作していたが、のちに蝋人形制作を手がけるようになる。『回想録』(1839年)のなかでマリーはクルティウスを「伯父」と呼んでいる。コンティ公ルイ・フランソワ1世の知遇を得たクルティウスは、その勧めに応じて1765年からパリに移住し、蝋人形展示会のための仕事を開始した。同年、ルイ15世の公妾デュ・バリー夫人の蝋人形を制作。このときの鋳型が現存する最初期のものとなる。1767年になると6歳のマリーとその母親をパリへ呼び寄せる。
    *デュ・バリー夫人(Madame du Barry、1743年~1793年)…1764年にポンパドゥール夫人を亡くしたルイ15世に1769年に見染められた。「外交革命」の成果としてオーストリア・ハプスブルグ家から輿入れしてきたマリー・アントワネットとの対立で有名(マリー・アントワネットは娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受け、その出自の悪さや存在を徹底的に憎んだ)。庶民的で誰からも好かれるタイプだったが、革命裁判所で死刑を宣告され処刑された女性の中で唯一断頭台を直視出来なかった不覚悟者としても知られる。その時彼女は泣き叫び、処刑台の周囲に集まった恐ろしい群衆に慈悲を乞い、彼らの心を掻き立てたという。

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  • クルティウスの蝋人形展示会は1782年には、タンプル大通りで、のちの「恐怖の部屋」の原型とも言うべき「大盗賊の洞窟」("Caverne des Grands Voleurs")を開催。クルティウスはマリーに蝋人形細工の技術を教え、マリーはクルティウスを手伝いながら才能を示すようになる。1778年に最初の蝋人形を制作。ジャン=ジャック・ルソーがそれで、その後ヴォルテールベンジャミン・フランクリンの蝋人形を手掛けた。
    *要するに自動人形に新奇さで勝ち目がなく、猥褻物展示も厳禁とあっては、「有名人の再現」か「(ズンボを最初の成功に導いた)恐怖の世界」への回帰するしか勝負の道がなくなってしまったのである。

    http://www.la-ruche-sauvage.com/produits/cire-atelier.jpghttps://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcT-gBdZVIGQ6h7EFcP0BYuvmjuExOGv3AfeJtrirDOiLeuDv6YC

  • 1789年以降はパリでフランス革命に巻き込まれる。ナポレオン・ボナパルトやマクシミリアン・ロベスピエールといった革命を彩る重要人物にも出会った他方、ブルボン王家とも良好な関係を保ち、とくに1780年から1789年の革命まで、ルイ16世の妹エリザベートの蝋人形教師として、ヴェルサイユ宮殿に居住。パレ・ロワイヤルで蝋人形展示会が開催されていた時、展示会を訪れたエリザベートにクルティウスがマリーを紹介したのが二人の関係の発端だったとされる。そして革命の2日前,1789年7月12日の抗議の行進に、クルティウス制作のジャック・ネッケルとオルレアン公ルイ・フィリップ2世の蝋の首が参加。しかしながら、王党派と疑われマリーは逮捕されてしまう。
    *一方クルティウスはにわか愛国者となって(パレ・ロワイヤルから出発した)バスティーユ牢獄襲撃に参加したとい吹聴する様になって「自称解剖学者」の仮面をかなぐり捨てた。そして革命が進行する節目節目に起きる事件に合わせて英雄とされた人物の蝋人形を作成。これを王宮の食卓を模したセットに配し続ける事で革命に翻弄されるパリっ子達の関心を集める事に成功したのだった。最初はルイ16世とその家族、次はジロンド党員達で、その次が保安委員会にダントンとロベスピエール。まさしくサド侯爵が「悪徳の栄え1787年)」で完成させる悪の哲学、すなわち「誰もが既存秩序からの無制限の解放を心の何処かで渇望しているが、実際にその夢が実現した際に顕現するのは権力者が自ら自由意志を放棄した奴隷を当人の意思と無関係に玩具として使い捨てる弱肉強食の世界だけである」という展開が現実を律する唯一の原理として顕現した時代であった。

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  • ギロチンによる処刑を待つ間に牢獄で出会ったのが、のちにナポレオンの后となるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネである。ギロチンによる処刑に備えて頭を剃られていたにもかかわらず、マリーが死を免れたのは、その蝋細工の技術ゆえであった。友人も含まれていたギロチンの犠牲者のデスマスクを作る仕事に就かされたのである。ルイ16世マリー・アントワネット、マラー、ロベスピエールデスマスクを作ったのもマリーだった。のちに、ロンドンのマダム・タッソー館に「恐怖の部屋」を作り、フランス革命に関連するグロテスクな展示を行うが、まさに実体験に基づくものであり、マリーだからこそできる仕事でもあった。
    *まさしくシャルル・ペローが「シンデレラ」に込めた寓意「確かに全ては権力者次第だが(思い掛けず良い後見人が名乗り出たりして)思わぬコネが生じる事もあるので自暴自棄になってはいけない」の顕現。ちなみにこれらのデスマスクから型抜きされた「生首」は蝋人形館の奥に設置された秘密室に展示されていたらしく、ナポレオンの沖に入り画師ダビッドがこっそり見物にやってきたという話も残っている。

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  • 1794年にクルティウスが57歳で死去したとき、自ら制作した蝋人形のコレクションをマリーに遺した。1795年に、マリーは土木技師であったフランソワ・タッソーと結婚する。マリー34歳、フランソワ25歳であった。その後、ジョセフとフランソワという2人の子どもに恵まれる。1802年、4歳の長男ジョセフを連れて、マリーはロンドンを訪れた。老齢の母、夫フランソワ、もう一人の息子、2歳のフランソワはパリに残された。ロンドンでは、ライシアム劇場で蝋人形展示の興行を行い、好評を博した。
    *クルティウスの始めたドキュメンタルな「権力者の食卓」展示はその後も継続され、ナポレオン1世、ルイ18世界、ルイ・フイリップなどの蝋人形が展示されては撤去されていったという。最初から最後までそこにあり続けたのは結局、食卓とその上に置かれた果物籠だけだったという。

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  • 1802年にライシアム劇場での興行を終えるが、ナポレオン戦争のためにフランスへ帰国することができなくなり、そのコレクションとともにスコットランドイングランドおよびアイルランドを巡る地方巡業の旅に出る。この後も、マリーがフランスへ帰国することはなく、母親と夫とは二度と会うことはなかった。次男のフランソワだけは,1821年または1822年にイギリスへ渡り、兄とともに母の仕事を支えることとなる。30年にも及んだ地方巡業を終え、ようやくロンドンに戻ったのは1833年のことであった。ロンドンでも数か所で興行し、ついに1835年、ベーカー街に常設の蝋人形館を開館。マリーが70歳代半ばのことであり、この後15年間、死ぬまでここで活動を続ける事にnaxtuta。1838年に『回想録』を執筆し,1842年に自身の蝋人形を制作。この蝋人形は、現在もマダム・タッソー館の入口に展示されており、マリー自身が制作した蝋人形のいくつかも現存する。1850年4月16日に、ロンドンで亡くなる。88歳であった。カドガン街の聖マリア・カトリック教会(Saint Mary's Catholic Church)に葬られる。

1835年にベーカー街へと根を下ろした「マダム・タッソーの蝋人形館」は、無数に存在したライバルに打ち克つ為に「新聞で大ニュースになった人物(政治的成功者と挫折者、大胆な事をやってのけた冒険者、悲劇的事件に巻き込まれた犠牲者、有名な結婚や訃報、殺人事件など和田になった全て)をその都度必ず加える」という戦略を採用。その都度観客が確認の為に押し寄せる運営スタイルを樹立した。

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絶対に「もう全部見たから行くに及ばない」と言わせない事で潜在需要を使い果たす可能性を払拭した訳である。

それにしても、欧州文化の中心地の推移にぴったり連動していますね。

  • 16世紀はヴェネツィア
  • 17世紀前半はオランダ(地中海沿岸から大西洋沿岸に)
  • 17世紀後半から18世紀にかけてはパリ(ただし大衆文化はロンドン)
  • 19世紀はロンドン
  • 次第にドイツや日本が影響力を増していく

ちなみに日本には独自に両国や浅草の見世物小屋などで培われた「生人形(活人形)」の伝統が存在し、近代日本においては医療用標本の国産化に貢献した上で今日においては「日本のレストランの前に飾る蝋細工」にその技術が継承されています。

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日本における生人形(活人形)の歴史

人形細工の見世物興行自体は江戸時代初期からあったが、幕末になると急速に技術が向上。明治期に大流行して数多く制作されたが、美術品というよりも見世物としての面が強かった為に興業が終わると廃棄されてしまう事が多く、現存するのは頭や手足といった部分だけのものが多く、更には海外に所蔵されているものも少なくない。

  • 日本にはそもそも江戸時代の天正年間(1573年〜1593年)上流階層を起点に末端にまで広まった「豪華な雛人形を飾る習慣」、そして「人形浄瑠璃江戸前歌舞伎の競争」や「浅草の見世物小屋」といった独自の伝統的人形文化が存在した。

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  • そして天保7年(1836)に両国で興行された「寺島仕込怪物問屋(てらしまじこみばけものどんや)」という見世物が日本で最初の「お化け屋敷」とされる。これは「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」や「東海道四谷怪談」といった怪談物芝居の名場面を、からくり人形によって再現したものであり、それが大当たりした事から同様の見世物が急増。中でも、泉目吉(いずみめきち)の化物細工が江戸っ子達の間で評判が高かった。目吉は芝居や怪談噺などで用いられる小道具を専門に製作していた細工師で、天保9年(1838)の「変死人形競(くらべ)」、嘉永元年(1848)の「身投げ三人娘人形」における人形の迫真性でその評価を勝ち取ったのである。
    学芸員コラム れきはく講座

  • 1852年(嘉永5)大坂で、人形師大江新兵衛が張り子細工で等身大の役者似顔人形をつくって興行。翌1853年(嘉永6年、黒船来航年)には江戸で、京都の大石眼竜斎が両国橋の盛り場に同様の見せ物を出し当たりをとった。

  • そして1854年安政1)大坂・難波新地で九州熊本の松本喜三郎が30歳の頃に異国人物人形を張り子細工につくり「活人形」として興行したのがこの名の始まりとなる。喜三郎は、翌1855年江戸・浅草観音の開帳にこの活人形を見せ物興行し、さらに1856年には浅草奥山で興行して評判となった。歌川国芳が浮世絵に残した「松本喜三郎 生人形 異国人物人形 安政3年1月(1856年)」松本喜三郎 生人形 観世音霊安政3年1月(1856)」などが有名。
    *「異国人物人形」…「黒船来航(1853年)」以降の外国への関心の高まりに便乗して「椿説弓張月(1807年〜1811年、曲亭馬琴作・葛飾北斎画)」の主人公たる強弓の武将鎮西八郎為朝の南海諸島巡りで邂逅する異形の住人達を人形化した見世物。

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  • 松本喜三郎(1825年(文政8年)~1891年(明治24年))」肥後国(現・熊本県)の商家に生まれ、やがて数十体の人形にテーマ性を持たせて製作し展示するようになった。幕末の1854年嘉永7年)以降、大坂(現在の大阪)に於いて「鎮西八郎島廻り」、江戸(現在の東京)にて「浮世見立四十八癖」他を見世物にし興行。そして維新後の1871年明治4年)から1875年(明治8年)にかけて「西国三十三所音霊験記」を浅草の奥山で興行。この作品が西日本の各地を巡回し、後にお里沢市で有名な人形浄瑠璃「三拾三所花野山」(「壺坂」)の祖形となる。また絶作の「本朝孝子伝」も有名。義足の制作にも力を入れたが完成しなかった。「谷汲観音像(浄国寺所蔵)」「聖観世音菩薩像(熊本・来迎院所蔵。松本喜三郎晩年作品)」などが現存。

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  • 「初代安本亀八(1826年(文政9年)~1900年(明治33年)」…熊本迎宝町、現在の熊本県熊本市出身。仏師の家系に生まれ、その道を志すが明治維新以後、廃仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事がなくなる。活人形師として兄と共に上方へ出て初興行。江戸で興行した『忠臣蔵』などの演目も庶民に大人気を博した。明治8年(1875年)には上海で興行を行い海外進出。国内では明治10年(1877年)の内国勧業博覧会に等身大の美貌の活人形を出展、世間を驚かせ人気を集めた。当時の日本では活人形師として松本喜三郎と双璧をなしたという。明治13年1880年)、内務省博物局開設の「観古美術会」創設に参加し審査員をつとめる。明治31年(1898年)、初代・亀八改め亀翁に改名。長男の亀二郎が二世・亀八を襲名(長男は翌明治32年(1899年)に鹿児島で客死、三男が三世を急遽襲名)。明治33年(1900年)、初代の亀八は75歳で死去。文化人としての評価も高かった。墓は世田谷区烏山の高龍寺にある。

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    「相撲生人形(熊本市現代美術館蔵 1890年(明治23年))」…「日本書紀」にある野見宿禰当麻蹴速の力比べの場面が題材。同年の第三回内国勧業博覧会に出品するつもりで制作したが期日に間に合わず、完成後に浅草寺の境内に飾った。これを見たアメリカの収集家・フレデリック・スターンが購入し、2年後デトロイト美術館に寄贈・収蔵されていたが,2005(平成17年)年熊本市が購入し、現在の収蔵先に。

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  • 平田郷陽1903年明治36年)~1981年(昭和56年))」重要無形文化財保持者つまり「人間国宝」。東京生まれで14歳の時初代安本亀八の門弟であった父のもとで活人形製作の修行を始める。1924年大正13年)以降は父の跡を継いで二代郷陽を襲名し端正なリアリズムを追求した。1927年(昭和2年)には青い目の人形の答礼人形として市松人形を製作。当時人形は芸術と認められていなかったので1928年(昭和3年)から創作人形を目指す同志と白沢会を結成,1935年(昭和10)には日本人形社を起こす。翌1936年には同士6人とともに第1回帝展に入選、以来帝展、文展日展等で活躍する。日本政府の依頼でベルギーやフランスでの万国博覧会に衣裳人形を出品。作風は、初期は生人形師らしく写実的だったが、次第に抽象的なデフォルメを加え、様式化・単純化に向かった。その反面、確固とした存在感と繊細な感情表現が、郷陽作品の特色である。

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  • 活人形はそれまで日本で「浮世人形」や「きめこみ人形」と呼ばれてきた「性器や乳房も含め服の下までリアルに作り込まれた木製人形」の系譜に位置付けられるが(開帳ショーやダッチワイフにつながる系譜とも)、明治五年(1872年)その圧倒的リアリティのに目を付けた大学東校(現在の東大医学部)が松本喜三郎に人体模型と内臓模型の製作を依頼し、彼の完成させたそれが日本における解剖模型の最初のテンプレートとなった(オリジナルは長らく灯台に保存されてきたが、やがて故郷の熊本医大に引き渡され、そこで第二次世界大戦中に消失)。
    *「シチリア島の伝統的蝋細工師ズンボと欧州解剖医学の邂逅」と重なる歴史的展開を感じる。

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  • 二代目安本亀八は東京に進出して美しいマネキン人形を制作する店を興して銀座松屋のショーウインドウを飾った。しかも「彼女達」に服を着せる仕事は松屋の女重役で同じ熊本出身の村山満女子が独占していたという。大正から昭和にかけて開かれた衛生博覧会の人体模型も数多く制作していたと推測されるが、当時の東京は既にライバルがひしめいており全く嚙んでいなかったとしても何ら不思議はない。

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かくして東京のあちこちで人形制作が行われている怪しい状況こそが江戸川乱歩横溝正史の都心を舞台とする作品の背景となっていく。

こうした全体像を背景として19世紀に入るとドイツ・ロマン主義の外国への「輸出」が始まるのです。 そしてその過程でドイツ・ロマン主義は次第に必ずしも「ドイツ人によるドイツ人の為の」ドイツを舞台とする物語とは決め付けられなくなっていきます。作品世界全体を彩る「タナトス(Thanatos、死への誘惑)」すら抹消されてしまうケースが出てくるのです。

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  • E.T.A.ホフマン「砂男(Der Sandmann、1817年)」…幼少時から目を抉られる恐怖に脅えてきた青年が、両眼を象嵌されてない人形への恋や高台より望遠鏡で覗ける景観との遭遇を経て完全に発狂にし自殺を遂げる」悲劇。江戸川乱歩の「押絵と旅する男新青年掲載1929年)」や「蟲(1929年)」はこうした悲劇の別バージョンの模索。一方、フランスのロマン派作曲家レオ・ドリーブの手になるミュージカル「コッペリア(Coppélia、 ou la Fille aux yeux d'émail 、1870年初演、舞台はポーランド農村に変更)」において、人形師コッペリウスが産み出した「被造物」コッペリアは本当に単なる人形に過ぎない。しかも途中で中身が主人公を恋い慕う村娘に入れ替わり「恋敵」のコッペリアを破壊してハッピーエンドとなる。

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    *扱いがややこしいのが、この「コッペリア」及び「メトロポリス」をヒントに生み出されたと推測される手塚治虫リボンの騎士」のヘケート。何しろバージョンごとに扱いが異なる。

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  • ラ・シルフィード(La Sylphide:1832年)」…三大バレエブラン(Ballet Blanc:白のバレエ)の一つ。舞台はスコットランドだが、欧州人の想像力においては「ドイツの森」と「スコットランドの森」にイメージ互換性がある(要するに「キリスト教の威光も届かぬ闇の奥」といったイメージ)。望まぬ結婚に風の精シルフィードが割り込んできて新郎を誘惑。相思相愛となった上で森の奥で心中を果たす。残された新婦は本当の思い人と結婚するという筋書きだが、他二作同様ここにも「神秘的な白衣の乙女=若くして未婚で死んだ娘が転じた森の怨霊」という含みが見て取れる。
    *ちなみにロシア・バレー団の演目「レ・シルフィード(Les Sylphides;初演1907年)」はショパンが深夜の森に出現した風の精シルフィードととりとめもなく語り合うという芸術家とインスピレーションの関係をモチーフにしたバレーで、直接の関係はない。

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  • 「ジゼル(Giselle、1841年)」三大バレエブラン(Ballet Blanc:白のバレエ)の一つ。ティオフル・ゴーチェ(Theophile Gautier)が脚色を担当。主人公が死装束で踊る唯一のバレエ作品で、元話とされるのはハインリッヒ・ハイネがフランスに伝えたオーストリア地方の伝説。それによれば結婚を目前にして亡くなった娘達は妖精ウィリとなり、夜中に森に迷い込んできた男性を死ぬまで踊らせるのだという。

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  • ワーグナー楽劇「ニーベルングの指環(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」…ヒロインのブリュンヒルデ(古ノルド語Brynhildr、英語Brunhild)はワルキューレ(Walküre)の一人。神々の長にしてヴァルハラ城の主人たるヴォータン(Wotan)の娘とされるが、元来は式神の様に人間らしい魂など一切備えぬ人馬一体の存在で、父に命じられるまま戦場の勝敗を定め、死者を特定し、亡くなった王侯や勇士の魂魄(エインヘリャル)を選り分けてヴァルハラに運びもてなすだけの存在にすぎない。だがある戦場で間違った側を勝たせ、死すべき運命にあった身重の女を逃してしまう。罰として炎の壁(ロキの化身)に囲まれた牢獄内で眠らされるが、逃した女が生んだ英雄ジークフリート(Siegfried)に救出され、恋に落ちて結婚する。とはいえ実はそうした展開自体が全てヴォータンが始めた「大いなる計画」の一部だったのであり、その一環として夫のジークフリートは命を落とす。あまりの理不尽に怒り狂うブリュンヒルデ。それで夫を葬る荼毘に愛馬グラーネ(Grani)共々自らの身を投じ、炎(ロキの化身)と洪水(ラインの娘達)の助力を得てヴァルハラ城に捨て身の特攻を敢行。その結果、ヴァルハラ城はあっけなく崩壊するが、それこそまさに「大いなる計画」の目指す最終目標だったのである。しかし「大いなる計画」はヴォータンが始めた時点からそういう内容だったのだろうか? そもそも全ての因縁はラインの娘達が騙され、ロキが騙したヴァルハラ城建国期まで遡る。

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    *全体的に曖昧で多義的解釈の余地があるこの物語を巡る有名な解釈の一つ。ここではヴァルハラ城建設期における「騙した側の主体」ヴォータンと「騙された側の主体」アルベリヒ(Alberich、指輪に「死の呪い」をかけたニーベルング族の長)を表裏一体の関係と見る。ちなみに「Alberich」の語源は「Alb-lih(エルフ王)」。メロヴィング朝起源譚には名祖メロヴェクス (Merovech) による開闢を助けた「異世界の兄弟」として登場。ただし(記紀における「大国主による建国を助けた後に常世国に渡った少名毘古那」の様に)それっきり姿を消す。

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    *問題解決の鍵は要するに「ヴァルハラ城建設期に誰が誰を騙したか」はっきりさせる事。アルベリヒは「ラインの娘達」を「騙して」入手した指輪でニーベルング族を従える。そしてさらにロキに「騙され」その指輪を巻き上げられる。では「ヴォータンとロキの関係(「主君と忠臣の関係」にして「征服者と被征服者の関係」)」「ヴォータンとアルベリヒの関係(同じ征服者同士)」「ラインの娘達とロキの関係(同じ被征服者同士)」をどう見るか。音楽的展開から推測するしかなく「ヴォータンとアルベリヒの存在は表裏一体」とか「ロキはヴォータンの忠臣を装いつつ、始終叛旗を翻す機会を虎視眈々と狙い続けてきた(それはブリュンヒルデとグラーネの関係とも重なる)」といった解釈はここから導出されたもの。
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    *音楽的展開上さらに興味深いのは、多くの人間が「ヴァルキューレの主題」と思い込んでいるのが実質上「グラーネの主題」で「殺戮衝動の解放」を暗喩する点。そして「ワルキューレの騎行」が描写するのは「(ヴォータンが遣わした人馬一体なるヴァルキューレ達の完全統制下にある)人間同士の戦争」だが、クライマックス時点では「グラーネの主題」が奏でられた後に(ヴァルハラ城を滅ぼす)「ロキの力(炎)」と「ラインの娘達(洪水)」の解放が続く。要するにこれをどう考えるかという事なのである。ちなみにハリウッド映画版「ソー(Thor、2011年〜)」シリーズは「全ての黒幕はロキだった」という立場に立つ。

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    *それはそれとして伝承によれば元来ワルキューレは天女の様な白鳥の羽衣を持ち、それを身にまとうことで白鳥に変身したりもする(これを男に奪われるエピソードも存在する)。以外と「白のバレエ」と類型的に重なる部分が多い。
  • 白鳥の湖(Лебединое озеро;1877年初演)」…三大バレエブラン(Ballet Blanc:白のバレエ)の一つ。ワーグナーのオペラ「ローエングリン(Lohengrin;1850年初演)」からの影響が指摘されているチャイコフスキー作品。ドイツの作家ヨハン・カール・アウグスト・ムゼーウスによる童話「奪われたヴェール」が元話で物語の舞台はE.T.A.ホフマンくるみ割り人形」と同じくドイツ。ジークフリート王子は深夜山奥の白鳥湖において悪魔ロットバルトに白鳥へと姿を変えられた娘オデットに出会い、彼女を助けようと思い立つが彼女と瓜二つの悪魔の娘オディール(概ねオデットと一人二役)の奸計に阻まれる。以降の展開は版によって異なるが、初版含めジークフリートもオデットも助からない悲劇的エンディングが多い。

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    *悲劇的結末が多いのは、もしかしたら白鳥湖が冥界の暗喩で、オデットは突然死のせいでまだ自分の死を受け容れられてないだけの小娘で、物語全体が「生者と死者の恋」だからかもしれない。

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  • メトロポリス(Metropolis、1926年)」ヴァイマル共和政時代のドイツで製作されたモノクロサイレント映画。監督フリッツ・ラングオーストリアユダヤ人のインテリ)、脚本 テア・フォン・ハルボウ(後にナチス支持者となるドイツ貴族)。2026年、「脳」(インテリ=エリート=ブルジョワ階級)と「手」(労働者階級)に二分された未来都市メトロポリスは調停者「心」の出現を心待ちにしていた。そしてある日「脳」の頂点に立つ絶対的支配者フレーダーセンの息子フレーダーは、ストライキの気運が生じた「手」を必死で押さえ込む若くて美しい指導者マリアに邂逅して恋に落ちる。そうした様子を監視していたフレーダーセンは危機感を覚え、旧知の錬金術師ロトワングに命令してマリアを誘拐させて彼の創造した「人形(人間の劣化版パロディ)」にその魂を複製させる。フレーダーセンはこの「人形」を使って労働者の団結を崩す程度の事しか考えていなかったが、実は錬金術師ロトワングはかねてよりメトロポリスを滅ぼす機会を虎視眈々と狙っており、好機到来とばかりに暴動を煽って街を破壊し尽くし「人形」共々巻き添えとなって死んでいく。その時になって初めてフレーダーセンはフレーダーとマリアの邂逅を(不幸に終わった)自分と妻の結婚と重ね合わせて容認。ついに「脳」と「手」の調停が達成される。
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    *実は「脳」は最初から1枚板だったのではなく伝統護持を主張する守旧派と生産効率を追求する進歩派の間に対立があった。二人の結婚によってその感情は一時的に緩和したが「一切の工場の完全破壊」は(職場を失って翌日以降食べていく手段を失った)労働者ではなく「守旧派」の勝利
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    *「人形(人間の劣化版パロディ)」…歴史のこの時点ではまだ「ロボット」や「アンドロイド」という表現は普及してない。「人間の劣化版パロディ」という表現は、それが恋敵フレーダーセンに「奪われた」フレーダーの母の代替物として創造された事を暗喩している。

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    *実は物語構造全体がワーグナー「指輪」のそれに拠っている。「錬金術師ロトワング=ヴァルハラ城建設時から虎視眈々とそれを滅ぼす機会を狙ってきたアルベリヒ」「フレーダーセン=最後にはヴァルハラ城陥落を容認したヴォータン」「ロトワング及びフレーダーセンの思うがままに操られる「人形」=ロキ」「ロトワング及びフレーダーセンの思うがままに働かされてきた「労働者」=ニーベルング族」といった具合。そしてワーグナーはロンドンを訪れ「これぞニーベルハイム(アルベリヒがニーベルング族を隷属させていた地下都市)」と述べ、それまで国民的叙事詩ニーベルングの歌」の映像化に取り組んできたフリッツ・ラングとテア・フォン・ハルボウの夫婦はニューヨークを訪れ「ヴァルハラ城は実在した!!」と唱和して本作品の制作を決断したのだった。

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    *そしてこの物語には恐るべき続きが存在する。小説版の頭辞においてフリッツ・ラングは「機械文明を放棄しただけで円満解決が図れる筈がない」と批判的コメントを述べているが、ハルボウはむしろ「今こそ脳と手を調停する心が登場せねばならない」という確信を強め、ナチスの熱狂的信奉者になっていくのである。一方、彼女と決別したフリッツ・ラングはアメリカへの亡命を余儀なくされ「(悪女が探偵を破滅させる)フィルム・ノワール」の世界へと没入していく。
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    *「ナチスの熱狂的信奉者となっていく」…「内ゲバに終始して何の成果も出さない左翼陣営」に対するドイツ国民の失望が背景にある。とはいえ元々貴族出身だし「メトロポリス」展開上も「労働者の蜂起」にはネガティブな意味合いしか与えられてない。ちなみに当時はフレーダーセンばかりかその息子フレーダーや(日和見主義者)マリアも滅び、最終的に生き残った労働者達が勝利の雄叫びを上げて終わる「極左バージョン」も編集さfれたという。

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    *これはもう歴史上最大の皮肉としか言い様がないが、急進派が暴走して国民の間に「このままだと彼らに殺される」という恐怖を浸透させるからこそ、その後独裁政権が容易に全権を掌握出来てしまう(というより、それなしに全権掌握などおぼつかない)という側面が確実にあるのではなかろうか。思想の左右は関係ない。皇帝ナポレオン三世を誕生させたのは王政復古を焦る王党派の休診勢力だったし、大日本帝国軍国主義に追い込んだのは皇道派の暴走だったではないか。

しばしば「英国人の作劇はみんなシェークスピア起源」「アメリカの恋愛ドラマは原則として(「ロミオとジュリエット」に基づく)バルコニー理論に沿って展開する」なんて言われてます。同じ意味合いにおいて、国際的に「ドイツ・ロマン主義の足跡」は確実に残っています。

 さて、それではこの「不気味の谷の境界を彷徨ってきた人形達」と「ドイツ・ロマン主義の足跡」は一体どう交わってきたんでしょうか? 想定可能な「感染ルート」は多岐に渡ります。

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①そもそも人類は民間宗俗の世界においては「(しばしば百鬼夜行型怪異の目撃譚と結びつく)夜の闇の恐怖」「古塚に居つく何か」「家に憑く何か」などを一緒くたに扱ってきた。実はワルキューレや海豹女房の伝承もしっかりこれに紐付けられている。その一方で古代ギリシャ古典や錬金術の世界は「自然界に偏在する精霊」を扱ってきた。要するにそうした境界線が曖昧になって「人里離れた森や湖に集う精霊(未婚のまま死んだ乙女の死霊)に邂逅すると生きては帰れぬ」なる(不気味の谷の境界線上を彷徨う人形達と重なる)ピクチャレスクな状況設定が新たに広まったのがロマン主義運動時代の特徴だったとも。

②「スターウォーズSTARWARS 1977年)」のジョージ・ルーカスは大の怪奇映画ファンで「魔人ドラキュラ(Dracula、1931年)」のオープニングで流れた「白鳥の湖」を同様にオープニングで流したがったし「ハマー怪奇映画の顔」ピーター・カッシングをデススター総督ターキン役にキャスティングしたし、後に銀河皇帝に(ベラ・ルゴシ演じるドラキュラ伯爵の様に)ハンガリー訛りで喋らせた。またC3POのモデルが「メトロポリス(1927年)」に登場する偽マリアなのは当人も認めている。

③日本では伝統的に「タナトス(Thanatos、死の誘惑)」概念が「無残絵」や「グラン・ギニョール(Grand Guignol)」と結びつけて考えられてきた。それはさらに荒俣宏帝都物語(1985年)」と深い関わりを持った「東京グランギニョル1984年〜1986年)」などのアングラ劇団、花輪和一および丸尾末廣といった現代の無惨画師達、アングラ演劇に造詣が深く(学生時代に寺山修司の演劇実験室◎天井桟敷に傾倒していた)後に「少女革命ウテナ(1997年)」「輪るピングドラム(2011年)」「ユリ熊嵐(2015年)」などを手掛けていく幾原邦彦の手などを経て「新世紀エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1997年)」における「眼帯をつけ包帯を巻いた綾波レイ」のイメージに辿り着く。
*この過程でE.T.A.ホフマンエドガー・アラン・ポー流入。ちなみに「谷崎潤一郎の門人だった大坪砂男E.T.A.ホフマン「黄金の壺」「砂男」のもじり)の孫が虚淵玄」なんてサラブレットみたいな系譜も存在。

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無残絵 - Wikipedia

幕末から明治初年にかけて、当該時期における不穏な時代世相と「血みどろ芝居」「血みどろ見世物」の流行を背景に制作された浮世絵の様式のひとつ。歌川国芳が描いた「鏗鏘手練鍛の名刃」の「血みどろ芝居」の場面が発端。

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国芳の門下生だった落合芳幾と月岡芳年が各14枚ずつ担当した競作「英名二十八衆句(1866年〜1867年)」

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月岡芳年の「東錦浮世稿談(1868年〜1869年)」

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彰義隊の戦場跡のスケッチに赴いて以降の月岡芳年「魁題百撰相(明治時代)」。主題の大部分は戦国時代の人物だが、図柄から明らかに上野戦争を題材に描いている。血糊の量が抑えられる一方で「タナトス(Thanatos、死の誘惑)」性への傾倒を強めた。

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多くは、芝居の中の殺しの現場などをテーマとしており、画中に血液、血痕などを殊更に色鮮やかに描いている。芥川龍之介谷崎潤一郎三島由紀夫江戸川乱歩らの近現代作家の創作活動に強烈な刺激を与えたといわれる。

 「グラン・ギニョール(Grand Guignol)」

フランスのモンパルナスにあった「グラン・ギニョール恐怖劇場(Le Théâtre du Grand-Guignol、1897年〜1962年)において特に1901年から1926年にかけて大人気を博した「人気女優が「ヒロインが理不尽な形で惨殺される寸劇」の主役を連続して演じる」上演スタイル。

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ロバート・E・ハワードも「英雄コナンシリーズ(1932年〜1936年)」の中で、江戸川乱歩も1930年代通俗小説の中で好んで用いた。イタリアのジャーロ映画も基本はこれ?

手塚治虫は明らかに ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環(1848年〜1874年)」の影響色濃い「メトロポリス(1927年)」の影響を色濃く受けている。また宝塚で上演されたミュージカル「コッペリア(1870年)」の影響を受けて「リボンの騎士(1953年〜1967年)」を描いたりもしている。

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⑤同じく「メトロポリス(1927年)」の影響色濃いフランスの漫画家メビウスジャン・ジローの別ペンネーム)の影響なら大友克洋宮崎駿谷口ジロー松本大洋らも受けた。

松本零士ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環(1848年〜1874年)」の大ファンとして知られている。
*独特のメカ感覚と美女の配置により「宇宙戦艦ヤマト(1974年〜1977年)」「銀河鉄道999(1977年〜1981年)」などで一世を風靡。ただ「宇宙海賊キャプテンハーロック(1977年〜1979年)」同様、世紀末感を先取りした「新竹取物語 1000年女王(1980年〜1983年)」は「機動戦士ガンダム(TV版1979年〜1980年、劇場版三部作1981年〜1982年)」に完敗。

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宮崎駿監督は好きな作品としてE.T.A.ホフマンくるみ割り人形(The Nutcracker、1816年)」や江戸川乱歩「幽霊塔(1937年)」を挙げている。おそらく原則としてジョン・ディクスン・カーの「怪奇物」や横溝正史の金田一幸助シリーズの様に「全般を通じて怪奇な雰囲気が漂うが、最後は全ての謎が解決されて大団円となる物語」が好き。実際、チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形(1892年初演)」にはそういう結末を迎えるバージョンもある。
*「プリンセスチュチュ(Princess Tutu、2002年〜2003年)」の影響もあって海外のアニメ漫画GAMEファンの間では「くるみ割り人形」に登場するドロッセルマイヤー老人 が鬼頭莫宏「ぼくらの(2004年〜2009年)」のコエムシ、「魔法少女まどか☆マギカ(Puella Magi Madoka Magica、2011年)」のQBと並んで「絶対気を許しちゃいけない悪魔タイプ」に分類している。また廃屋物ならE.T.A.ホフマンも手掛けているが、この分野国籍を問わず意外と超常現象か神経症落ちが多い。
くるみ割り人形原作
黒岩涙香 幽霊塔
エルンスト・テオドーア・アマーデウス・ホフマン Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 岡本綺堂訳 世界怪談名作集 廃宅(Das öde Haus、1817年)

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情況証拠ならいくらでも並ぶのですが、何しろ水面下での漸進的な展開だったのでなかなか決定打が見出せません。まぁその分だけ「新世紀エヴァンゲリオンNeon Genesis EVANGELION、TV版1995年、旧劇場版1997年〜1998年)」における綾波レイエヴァンゲリオンの正体などが衝撃的で後世界に大きな爪痕を残したとも。その存在の登場によってパズルのピースが幾つか組み合わさって以降それがマスターピースとして認識される様になっていったというか…

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1997.4.16 Wed. エヴァンゲリオンと黒死館殺人事件

エヴァンゲリオンが提示する謎も、結局ギミックにすぎないのではないか。あんな感じの衒学的なものって周期的に流行するし、少しでもマニアの素質があるひとなら一度や二度は引っかかったことがあると思う。けれど、そんな衒学的なものをしばらくたって見返すと、こんなにみすぼらしかったかと驚くことがあるし、エヴァンゲリオンもそのたぐいではないかと思う。

このいろいろ日記の最初の方に書いた黒死館殺人事件もまさにこのたぐいだった。いわゆる衒学的な記述ばかりで、小説の体をなしていないし、第一つまらない。今読むと、見るも無惨である。江戸川乱歩夢野久作はえらい違いである。


私も、昔はそんな衒学的な流行に引っかかったこともある。大学時代のニューアカの流行とプロレスの第二次UWFの流行がそれにあたると思う。

ニューアカの流行って、今考えればかなりむなしかったかもしれない。結局、中沢新一って、オウムの問題になにも答えられなかった訳だし、栗本慎一郎はさっぱり訳が分からないおやじになっている。スキゾとかパラノなんていまどきまじめな顔で口に出せる人はいないと思う。いまどきの大学生でドルーズ・ガタリなんて読むやつがいるのだろうか。

また、最近のヴァーリトゥーズの流行には、第二次UWFのような香りがして、はじめから乗れなかった。

けれど、すれっからしのおたくな人がエヴァンゲリオンで盛り上がる気持ちは分かる。そういう衒学的なネタって盛り上がりやすいし。それに、その手のおたくのひとは、制作者の意図を越えて勝手に面白がっているわけだし。また、そういうものにまだ耐性がないうぶな若い人が引っかかるのはわかる。けれど、どちらでもないいい大人が面白がるものじゃないよなぁ。やっぱり。

そんなことを考えていたら、泉麻人が同じようなことを書いていた。彼は、若い頃友だちに連れて行かれたこむずかしいアングラ演劇を思い出したという。気持ちは分かるぜ。けど、ほかにあんまりエヴァンゲリオンを批判している人がいないのが不気味である。まあ、批判するような人ははじめから見ないか。

小栗虫太郎 黒死館殺人事件

バーリトゥード - Wikipedia

1990年代において最高峰の大会となっていたのは、World Vale Tudo Championship (WVC) とInternational Vale Tudo Championship (IVC) であり、1990年代を通してブラジルのテレビやペイ・パー・ビューで放映されていた。
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WVC も IVC も、ブラジルの経済活動の中心地であるサンパウロに拠点を置き、後の総合格闘技のスターたちの多くに、世に出る機会を提供していた。しかし、サンパウロ州が、バーリトゥードの試合に、スポーツ行事としての認可を与えることを禁じるようになると、両団体とも衰退し、2002年以降は興行が行なわれなくなった。

新世紀エヴァンゲリオン」が革命的だった点

TVアニメだけでは意味不明な完結方法をとった。

作者の言いたい事を見てる方が考えないといけない事でしょう。使徒って何?人類補完計画って何? みんな同じだったと思います。暴走するロボット(あえてロボットと書きます)など世界観そのものが謎だらけです。登場人物もクセだらけで何を考えてるのか分からないし成長もしないので想像力をかき立てられます。後はちょっとエッチな感じでしょう。


心理描写だと思います。個人的には。哲学で言うところの真の自分、自己存在の意味、自分と他人、等のすごく根源的な物について、特に最終回近くで、むりやりな描き方をしていて、それが、とても深い深い本質的なものを描いてるような気がします。ただ、言葉ばかりの回が延々続いて、見てて辛かった・・。でも好きな人は、大大好き、という内容だと思います。宗教の神、哲学の真の自己、この2つは、表現する上での2大テーマで、人のもっとも根源的な2つなので、それはなんどもなんどもアニメでも描かれてるんですが、ただこんなダイレクトに直接に描いたのは、エヴァが初めてですねー。知る限り。ガンダムの富野さんも、エヴァが主張するようなことを描こうとしてますが、ただ、彼はそれをぼかして作品中で自己について、ダイレクトではなく、ストーリーとして表現してます。エヴァはあまりに直接にこれを描きました。それに対して富野さんは、「そらあかんやろう?」(大阪弁では言わなかったと思いますが)、とかいってたような記憶があります。多分、それは裏技、というか、反則のように、富野さんには受け取れた、のではないか、と想像します。(憶測です)

ネットで内容に関する批評や論争が繰り広げられた。そして、インターネットによる口コミから一般人はもちろん芸能人まで巻き込んで、この作品が広く知れ渡る、その展開がそれまでのアニメにはないほどに非常に早くなった。放送から短期間でそこまで広がる現象が多くのマスコミにて取り上げられた。そこが革命的な点。

実際、原則論としては「新世紀エヴァンゲリオン」は「何か新しい考え方を提供した」というより「視聴者に色々考えさせ、議論させた」点こそが偉大だったのではないでしょうか。それでは、こういう話はこれまで見てきたドイツ・ロマン主義と一体どういう関係にあるのでしょうか。

  • 「ドイツ・ロマン主義の根幹はタナトス(Thanatos、死の誘惑)で、それは現代のゴス(Goth)文化に継承された」なんて言説もある。この観点からすれば、日本のエンターテイメント業界は2000年代後半を境としてゴス(Goth)文化との決別を果たしたとも。
    *原作大塚英志・作画田島昭宇の「多重人格探偵サイコ MPD PSYCHO(1997年〜2016年)」辺りを読み返すと変遷時期がもっと細かく分析出来そうな気がする。

  • またドイツ・ロマン主義は何故か「メトロポリス(Metropolis、1927年)」における「悪役」フレーダーの振る舞いに典型的に現れている様に「悪はこちらが決然とした態度で臨み続けていれば、必ず驚きのあまり勝手に自滅していくか、反省して向こうから土下座してくる」なる不思議な確信を内包している。背景はいろいろ複雑なのだが、どうやらカール・シュミッツが厳しく弾劾した「ロマン主義者の決断力不足」と表裏一体の関係にある心理らしく、現在では殆どのドイツ文化人が「全体主義社会を招き戻す」と非常に危険視していたりする。さて、日本における残存度は…そもそもいかなる基準で測ればいいの、これ?
    *何しろ「ドイツ・ロマン主義の継承者」ハルボウだけでなく「ドイツ・ロマン主義の批判者」カール・シュミッツもナチスの協力者に成り果てている。警告は素直に受けとさせてもらうが、処方箋はこちらで調合するしかない状況…

ここで興味深いのが、冒頭に掲げた「フェリーニカサノバ(Casanova Di Federico Fellini、1976年)」や「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成出来る」発言の語源たるパゾリーに監督の遺作たる「ソドムの市(Salò o le 120 giornate di Sodoma、1975年)」といった鑑賞者を悲観の極みに到達させる作品群に限って、それ自体には「タナトス(Thanatos、1975年)」が欠如している点。製作者がイタリア人だから?

その一方で綾波レイら「セカイ系ヒロイン」は(消費者の要請によって)自らの宿命から解放される道をたどる事に。