諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

新海誠「君の名は」がヒットし得ない理由?

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本当に吃驚しました。これ一体何?

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羹に懲りて鯰を吹く」というか、ニューアカ滅んでルソーの「ジュリ または新エロイーズ(Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」が(後追いで真似した)ゲーテ「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、1774年)」同様、18世紀恋愛小説として最大級のヒットとなった事実すら信じられなくなっちゃった?

ルソーの「ジュリ または新エロイーズ(Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」

恋愛は幻想に他なりません。恋愛はいわば、自らに別の〈宇宙〉を創り上げるのです。恋愛は、存在しないもの、もしくは恋愛のみが存在を与えたもので取り巻かれています。感情を全てイメージで表現するため、恋愛の言語は常に比喩的なのです。

(そしてだからこそ)熱狂的に愛するか、苦悩によって死ぬか、そのどちらかしかないのです。

この「逆説」を忘れてしまった人達は「フェリーニカサノバ(Casanova Di Federico Fellini、1976年)」でも観て自らの「老い」を自覚すべきなのかもしれません。

flowerwild.net - あなたの心はカメラなの──『秘密の子供』

ロラン・バルト写真体験におけるアフェクション(affection、慕情)や時間の錯乱を、基本的に映画にはみとめていなかった。なぜなら、バルト曰く「映画は『写真』の狂気を飼い慣らす」からである。「少なくとも、虚構を用いる劇映画、まさに第七芸術と呼ばれるものはそうである。映画は人為的に狂気をよそおい、狂気の文化的記号を提示することはできるが、その本性からして(その映像の本質規定からして)、決して狂気そのものとなることはできない(……)映画の視像は夢想に属するものであって、追想性幻覚(エクムネジー)ではないのだ」。

*もしかしたらロラン・バルトは伝統的に「己の内からの命令に忠実に従って善悪の彼岸を超越していく英雄だけが尊い」としてきたロマン主義の終焉こそが「魔術的リアリズム(Magic Realism)」の始まりとなった事も単なる「虚構」に過ぎないと考えていたのかもしれない。
714夜『テクストの快楽』ロラン・バルト|松岡正剛の千夜千冊

こうした「現実にヒットしている様に見える方が虚構」的発言、恋愛映画「ベティ・ブルー 愛と激情の日々(仏題37°2 le matin、英題Betty Blue、1986年)」が国際的ロングランになった時に、フランスの評論家も口にしていた気がします。「我々の理論は、こんな文芸作品が一般受けするなんて虚構を決っして認めない」。
*実際、1992年に60分弱の未公開シーンを付け加えて公開された「インテグラル」は、文芸作品としての完成度を高めた一方、熱烈な一般層ファンを「私達が感動したラブストーリーはこんなじゃなかった」と激怒させている。原作あった「小説家が作品を生み出す苦悩」みたいな「評論家が喜びそうな部分」を思い切って削除したのが人気獲得の理由で、その追加が人気凋落の原因になったという教訓めいたエピソードなのである。ちなみにこの系譜では以降もリドリー・スコット監督「テルマ&ルイーズ(Thelma and Louise、1991年)」や浅野いにおおやすみプンプン(2007年〜2013年)」などが国際的ヒット作となっている。

まさしく地動説の完全勝利を全面否定して「それでも地球は世界の中心に留まり続ける!!」と叫ぶが如き蛮行。まさしく「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」と言い返すしかない状況。

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ではどうしてそんな番狂わせが起こるのか? もしかしたら「澪標(watermark)としてのエロス(Eros、性の誘惑)やタナトス(Thanatos、死の誘惑)とどう付き合っていくか」は(エリート=インテリ層=ブルジョワ階層が一般的に想定している以上に)万人向けの問題だからかもしれません。
*割と「あえて普通なら誰をもドン引きさせる様なガチのタナトス(Thanatos)を、ラブストーリーなるキャンディでしっかりコーティングする」って恋愛物の王道だったりするらしい。ただし「コーティングの中身はあんまりしっかり見せちゃダメ」という付帯条項はついてる模様…

つまり観客にとって「なぜ人々が運命の相手がいると思い込んでしまうのか」なんてどうでもよくて、むしろこの作品のアニメ版が「あえてそうした説明を全部抜いた状態で成立している」事が重要という話。

アニメ版「君の名は(2016年)」においては、立花瀧が宮崎駿監督「風立ちぬ(2013年)」の主人公たる堀越二郎や「言の葉の庭(2013年)」の主人公たる秋月孝雄の様に「(狂気すら感じさせる)創造への情熱」を剥き出しにしない。ただ(宮水三葉と自分を結ぶ唯一の鍵たる)糸守町をスケッチする場面においてのみ、その片鱗を見せる。
*まぁ基本的に彼の両手は何かを生み出す為というより、おっぱいを揉む為に使われた? ちなみにスピンオフ版では三葉の肉体を介して「ダイナマイトの扱いを知り、防災無線ジャックの技術を持つ高校生テロリスト」勅使河原克彦の「改心」に重要な役割を果たしている。

またアニメ版「君の名は(2016年)」においては、宮水三葉が日頃の訓練の成果もあって「宮水の女」としての能力をしっかりと継承しながら(米澤穂信「〈古典部〉シリーズ(Web掲載2000年、刊行2001年〜)」の千反田江留や「ひぐらしのなくころに(2002年〜2008年)」の古手梨花の様な形では)その重責を瀧にも鑑賞者にもほとんど意識させない。
*というか、そもそもこの種の作品のヒロインは、相手に逃げ切られる可能性がある限りそんなものは見せないのが定石。それに、どんなに隠しても「領主+シャーマニズム」の権威パワーは機能すべき時に機能してしまうものなのである。ちなみに新海誠監督は「君の名は」のストーリーが五十嵐大介「魔女」にインスパイアされて生まれたと述べている。そしてこの作品に登場する魔女は、まさに「私達は考えない。ただ知ってるだけなの。自分達のなすべき事を」と豪語して男達を恐れさせたり、ひれ伏させたりする地母神あるいはそれに仕える女官団的存在として描写されている。スピンオフ小説に登場する三葉の母二葉がまさにそういう存在で、彼女こそが彗星落下に対する下準備を全て整えた黒幕である可能性が示唆されているのである。

何たる叙述トリック…小説版やスピンオフ小説の世界にまで足を踏み入れるとそう思う。果てさて宮水三葉、「シャンブロウ(Shambleau)系ヒロイン」の仲間入りを果たすか否か?
*ちなみに国際SNS上では「風立ちぬ(2013年)」堀越二郎を置いて去ったヒロインの菜穂子について「療養所に残してきた男がいた」という噂が流れている。まぁ確かに菜穂子は「風立ちぬ(1938年)」を執筆した堀辰雄の別作品「菜穂子(1941年)」の女主人公名で、こちらは割と不倫キャラ。

これもインターネットの発達とともに歩んできた観客心理の変化のなせる技? とはいえ本質の部分はルソーの「ジュリ または新エロイーズ」やゲーテ「若きウェルテルの悩み」の時代、いや、それどころかアラベールとエロイーズの往復書簡の時代まで遡っても何も変わってない気もします。要するに「そこにラブストーリーを求める人達は、もとよりそれと無関係な部分は読み飛ばしてきた」という話…

要するにそういう事なのでは?