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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【セカイ系作品全盛期】2000年代前半に実際にあったのは?

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新海作品を語るときに欠かせないのは、「セカイ系」と呼ばれる、自分の周囲の大事な人間が、世界の存亡と同じ重みを持つという内容を持った作品の存在である。これらの作品が流行した直接的原因に、アニメ作品『新世紀エヴァンゲリオン』がある。世紀末を席巻した「エヴァブーム」に、多くのクリエイターが影響され、それ以後、庵野秀明演出のほとんどパロディーのような、無邪気な表面的模倣がアニメ界を中心に氾濫した時期があった。新海誠監督は、かつてそういうクリエイターの代表例であったといえる。

このような手法によって描かれるのは、多くの場合、男女のせつない恋愛と郷愁である。同じく、時代の強い影響のもとに描かれた漫画作品『最終兵器彼女』や、日本でもヒットした韓流ドラマ『冬のソナタ』がそうであったように、ときに残酷で汚い世界の中で、主人公たちの恋愛感情だけが純粋なものとして輝いていくという描き方は、最も保守的な部類の、あまりにもナイーヴな恋愛表現である。この男女間の変わらぬ信頼や貞節は、たしかに昭和の「君の名は」が持つ古典的観念とも通底しているように見える。ただ、新海作品を「メロドラマ」だとするのには抵抗を感じるのも確かである。新海作品には、もはや戻ることはない幸せな過去を振り返り続けるという後ろ向きな姿勢がひたすら描かれ、その自分を客観的な目で見ることに、ある種の自己陶酔的な暗いよろこびを見出すという屈折したコンプレックスが横たわっているからだ。

こういうタイプの評論は不思議なまでにその前夜の動きについて論じようとしません。

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今から思えば、当時は「自分達だけが現実社会を見据え、正しい考え方に辿り着いた」と主張したがる人に限って何も見ず、何も考えていなかったものです。ソ連崩壊(1991年12月)や、バブル崩壊(1991年3月〜1993年10月)や、角川春樹逮捕(1993年8月29日)による角川商法終焉、選挙に敗れたオウム真理教サリン散布事件(1994年〜1995年)によって「正解」が見失われたからこそ、誰もが試行錯誤でそれを再構築しようとやっきになっていた時代。ただし結果が目に見える形で表面化してきたのは2010年代に入ってからとなるのでした。

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  • TYPE-MOON、 同人18禁ゲーム月姫(2000年)」を発表…10万本以上のヒットとなり、エロゲー・メーカー最大手エルフの牙城を揺るがし始める。吸血鬼物の一種にして「異能バトル系」の嚆矢。

  • 「〈古典部〉シリーズ(Web掲載2000年、刊行2001年〜)」の米澤穂信…「(当時のトレンドにそぐわない)人を殺さない」作風ゆえに干されかけ、思い余って「さよなら妖精(2004年)」で東欧から留学してきた美少女を(以下自粛)。
    *「愚者のエンドロール(2002年)」のラストを登場人物の「私も人が死ぬ話は嫌いなんです」の一言で締め、危うく仕事を干されかけている。

  • 滝本竜彦NHKにようこそ!(2001年〜2007年)」安倍吉俊が原作の挿絵を担当。「ひきこもり系作品」全盛の2010年代から振り返ると極めて重要な作品となるが、当時「セカイ系」の議論対象となってない。ヒロインがヤンデレ気味で…

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  • ソードアート・オンライン(Web連載開始2001年11月〜)」の河原礫…時流に阿って物語中においてサチやユウキを殺してしまった事を今でも悔やんでいる。
    *2000年代後半に再発見され、以降大躍進する展開に。


  • プリンセスチュチュ(Princess Tutu、2002年〜2003年)」…バレエをテーマにE.T.A.ホフマン流の現実世界とファンタジー世界の邂逅を描く。結末は当時のトレンドに合わせてトラウマ・レベルで残酷。
    *後に「くるみ割り人形」からのゲストであるドロッセルマイヤー老人は後に鬼頭莫宏「ぼくらの」のコエムシ、「魔法少女まどか☆マギカ(2011年)」のQBと合わせ「(絶対契約してはならない)悪魔系キャラ」というジャンルを形成。
  • 新海誠監督、自主制作アニメ「ほしのこえ(2002年)」発表高橋しん最終兵器彼女(2000年〜2001年)」、秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏(2000年〜2001年)」と合わせ「戦闘を宿命化された美少女(戦闘美少女)と、彼女を見守ることしか出来ない無力な少年」というジャンルを形成。

  •  同人伝奇系ゲーム「ひぐらしのなく頃に(2002年)」発売。ブレア・ウイッチ・プロジェクト(1999年)の影響が色濃い。美少女が、鉈で(以下自粛)。

  •  谷川流涼宮ハルヒ・シリーズ(2003年〜)」発表。初期には「宇宙人」「未来人」「超能力戦士」が世界を破滅から守る為に集結するという20世紀ジュブナイルSFへのオマージュ要素が強かったが、2000年代後半に入ると次第に日常物化していく。冒頭でいきなり同級生の女子が(以下自粛)。

  • TYPE-MOON、商業作品第1作「Fate/stay night(2004年、18禁ゲーム)」と奈須きのこ空の境界(2004年、「月姫」と共通の世界観を持つ小説)」を発表。聖杯戦争は、まさに「異能バトル」のバトル・ロワイヤル版?

  •  新海誠監督が商業作品第1作雲のむこう、約束の場所(2004年)」を発表。ヒロインの心を拘束している「ユニオンの塔(小説版によれば、並行宇宙の情報を収集する量子アンテナ)」は国家、戦争、民族といった「(絶望や憧れが伴う)誰もが手の届かないもの、変えられないもの」の象徴。
    *そして「秒速5センチメートル(2008年)」以降、この路線からの脱却が始まる。

2010年代から逆算すると、むしろ当時において重要だったのはこういう動きだった事になります。見えてくる景色が全然別物になりますね。
*米国では1970年代、映画とコミックの大手配給会社がリリースする作品がこぞって当たらなくなった。その一方でインディーズ系製作者が伸び、新しい時代の到来を準備した。日本で起こったのもそういう事?

そしてこんな作品が発表された時期でもあります。

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おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』第40話「どれみと魔女をやめた魔女(2002年)」

最初の「ハウルの動く城」企画が流れ(宮崎駿監督「千と千尋の神隠し(2001年)」に全リソースが集中したせい)、東映に戻った細田守監督の復帰後第一作。2006年8月20日にアニマックスにて放送された特別企画『東映アニメ36時間連続放送』内で視聴者投票のベストエピソードに選出された。

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こうの史代夕凪の街 桜の国

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1955年(映画・小説版では1958年)の広島市の基町にあった原爆スラム(「夕凪の街」)を舞台にして、被爆して生き延びた女性の10年後の、心の移ろう姿と、原爆症に苛まれるという当時の広島市民を突如襲った現実を描く。当時良心的に本陣を名乗っていた人々は「日本人の悲惨さばかり強調し、当時の朝鮮人が受けた悲劇を黙殺するのは帝国主義を一切反省してない傲慢で好戦的な日本人の証拠」とレッテル貼りして集中砲火を浴びせ、こうの史代は一時期断筆まで考えたという。気を取り直して書いたのが「この世界の片隅に(2007年〜2009年)」という位置付け。
*まぁ当時は、中高生の修学旅先にあえて韓国を選び、あちこちで土下座させて回るのが教師の間で流行した時代でもあったりする。

玉音放送を聴いて家の外に飛び出したすずが見下ろす町の風景のなかに、一瞬、大韓民国の国旗、すなわち太極旗が掲げられるワンシーンについてだ。

〈太極旗が出てきてる一コマで朝鮮進駐軍の暴挙を表してるし、単純な反戦平和主義漫画ではない〉

〈玉音直後に太極旗が上がってたのはそういう愚連隊の乱暴行為が始まる合図かなと思った〉

「朝鮮進駐軍って何?」という人もいるかと思うが、これは在特会や『マンガ 嫌韓流』の山野車輪などのネット右翼が広めた完全なデマであり、彼らは当時の在日コリアンたちが終戦後に朝鮮進駐軍なる組織をつくり強姦や殺人などの犯罪を次々に犯したと主張しているが、根拠などまったくないシロモノだ。そうした情報を鵜呑みにしている人たちが、今回、作中で掲げられる太極旗を暴力のはじまりだと勝手に解釈し、それを「たんなる反戦平和じゃない理由」に挙げているのである。

もちろん、原作者のこうの史代氏にしても映画の片渕須直監督にしても、徹底的に時代考証を行って作品化しており、「朝鮮進駐軍」なるトンデモ陰謀論を採用しているわけがない。

むしろ、物語の舞台が軍港だった呉であり、そこでは大勢の朝鮮人たちが働かされていた史実を踏まえれば、作中の太極旗に込められているのは、この町で日本人と同じく在日コリアンたちが戦火に巻き込まれながら暮らしていたという事実であり、戦争によって大切なものを奪われた存在=戦争被害者としての主人公が、そのじつ大切なものを奪う側の存在でもあったことを知る場面だったのではないか。

現に原作では、この場面で主人公すずは「暴力で従えとったいう事か」「じゃけえ暴力に屈するいう事かね」「それがこの国の正体かね」と述べている。この台詞が映画ではカットされているため太極旗の意味が伝わりにくくなっているが、ここで描かれているのは“戦争という行為に一方的な正義など成立しない”ということだろう。

じつは、原作のこうの氏は、『夕凪の街 桜の国』が高い評価を受けた際に、一部で“日本人の不幸しか描かれていない”という批判を受けていた。作品では原爆スラムに暮らす女性が原爆症を発症し死に至るが、たとえば広島大学の川口隆行准教授は、その地域にたしかに存在した在日コリアンが作中では消されていることの意味をこう指摘した。

〈現実の広島市の都市空間から消滅した「原爆スラム」をマンガという媒体によって紙上に甦らせようとしながら、そうした忘却に抗うそぶりのうちに、コード化されたともいえる「原爆スラム」=朝鮮人というイメージの連結を密やかに切断している〉

〈『夕凪の街 桜の国』が、被爆六十年を目前に「日常の視点」を備えた「穏やかな」原爆の記憶を表象化しえたとすれば、その代償に支払ったものとは──いささか表現はきついかもしれないが──被爆都市の記憶の横領といった事態であった。イメージにおける排除空間の排他的占有といってもよい〉(『原爆文学という問題領域』創言社)

経緯を考えれば、こうの氏が『この世界の片隅に』で太極旗を描いたのは、こうした批判に対する「回答」だったと考えるほうが自然だろう。

それを、自分たちと同じヘイト思想に引きずり下ろそうとするのだから、度し難い。だいたい、ネトウヨたちは一方であの『永遠の0』を「反戦映画」だと言い張っていたのに、『この世界の片隅に』を「反戦映画ではない」として朝鮮を批判しているというのはどういう理屈なのだろう。

五十嵐大介「魔女(2003年〜2005年)」

魔女がテーマの連作集。トルコ、熱帯地方、北欧、日本とそれぞれ舞台の違う4つの作品から成り、単行本では描き下ろしの掌編2作も収録されている。2004年に文化庁メディア芸術祭優秀賞を受賞。またフランス語版が2007年アングレーム国際漫画祭ベストコミックブック賞にノミネートされている。

新海誠監督が「君の名は(2006年)」のストーリーがこの作品にインスパイアされる形で生まれた事を認めている。アニメ版は一見そうと見えないが、小説版やスピンオフ小説まで目を通すと全く別のヒロインを主人公とするストーリーが浮かび上がってくるのであり、確かに彼女は「魔女」そのものだったりする。

Amazon書評より

「面白いんだけど、難しいですね」という言葉には、「すごいものを読んだ気がするのだけど、素直に好きとは言えない」というニュアンスがある。実はこの言葉を発した時点で、その人の中に相反する二つの感情がぶつかりあっている事が判る。本能は、この漫画を「好き」と言っているのだ。しかしもう一つの思いが、手離しで好きと言う事にためらいを感じさせているのだ。

実はマンガやアニメ好きの人間には、保守的な人間が多い。記号化され、パターン化された、自分が見慣れたものを読む、あるいは観る事で、安心したいという無意識の思考に凝り固まっている傾向が圧倒的に多い。ゆえに、見慣れないものに対する拒絶反応が強い。未知のものに出会うと、面白がるよりも先に警戒し、恐れるのである。「好奇心」よりも「排他的感情」が先に来るのである。そして、知識がなければ物事は理解できない、と思い込んでしまっている。

つまり、五十嵐大介の漫画は「普通の人が知らないようなマニアックな知識が詰まった作品」だと思っているのだ。それは大きな勘違いですよ、と言いたい。

誤解を恐れずに言ってしまおう。五十嵐大介の漫画は、大いなるホラ話である、と。


これは、五十嵐さんの漫画を貶めるために言っている訳ではない。物語というのはそもそも創作されたもので、はなから「法螺」性を内包しているものである。言ってみれば、物語というのは、それ自体がホラなのである。

『魔女』という漫画は、世界の様々な辺境を舞台に、近代文明と一線を隔した価値観や文化の中で生きるシャーマニックな女性の姿を、奔放な想像力で紡いだ作品である。そこは、中近東のエキゾチックなバザールだったり、南米の密林の奥地だったり、北欧の寒村、あるいは南方の孤島だったりする。NHKの知識・教養系のドキュメンタリーと幻想物語が融合したような作品である。日本人には馴染みのない風習や祭り、文化などが描かれていて、予備知識がないと理解できないような錯覚を多くの読者が受けるらしい。

しかし、実はそうしたものは、五十嵐さんによる虚実ないまぜになった巧みな「創作」であり「遊び」なのだ。

例えば、『魔女』第1集に収録されている「KUARUPU」は、南米のジャングルに暮らす先住民族の呪術師と、そこに侵攻しようとするアメリカ帝国主義との闘いを描いた物語である。ここに登場する原住民は、かつてNHKスペシャル『ヤノマミ』や、ノンフィクションノベル『ピダハン-「言語本能」を超える文化と世界観』などで紹介された人々にそっくりで、まるで五十嵐氏本人が取材した事があるような、ものすごい存在感を持って描かれている。しかし五十嵐氏は、台湾などの近隣の東南アジア(と、フランスのアングレーム)以外はほとんど海外に足を運んだ事のない方で、想像力で描かれたものなのだ。


それを読み解くキーワードは、女呪術師「クマリ」の名前である。実はこの「クマリ」って、ネパールの生き神の少女神から採った名前なのである。南米の密林の呪術師なのに、名前は東南アジアの生き神さま・・・なのだ(笑)。

特にね、この「KUARUPU」は、「いや、ボク、南米の先住民とかよく知らないんで・・・」みたいな及び腰の意見をよく聞くのだが、何を恐れるのか?完全な創作なのですよ。

他にも『魔女』第2集の「PETRA GENITALIX」の冒頭、北欧の山中の村で行われる十二夜の行事がある。ヨーロッパ各地に残るこうした祭りは、悪霊の仮装をして霊力を授かり、旧年の災厄を追い払う事が目的だが、実はここに出て来る「クランプス」は、オーストリアの山間地帯の村祭りに登場する鬼なのである。さらに、漫画の中でクランプスの身体から下がっている巨大な鈴は、スイスの村に伝わる別の祭りの「クロイセ」という来訪神から採られている。クロイセもまたクランプスと同じように、大晦日に災厄を祓い福を招く神なのだが、ここでも、舞台を北欧なのに、オーストリアとスイスの祭りが混在しているのが分かる。


このように、五十嵐さんの漫画は、様々な地域の文化や風習、宗教などがリアルに描かれているように見えて、実は色々なものをミックスして遊んでいるのである。

もっと判りやすい例を挙げよう。同「PETRA GENITALIX」で、見習い魔女のアリシアが都会へ出る時に履いているのはルーズソックスである。もはや死語だが(笑)この漫画が描かれた当時、女の子の間で流行っていたものだ。もちろんこれは日本で流行したもので、北欧の山奥の村に住む少女がルーズソックスを所有している訳がない。これは、「大いなる魔女」ミラと「見習い魔女」アリシアの、ふたつの世代の差を表現するための記号・・・つまり、ルーズソックスを履かせる事で、読者はアリシアが「今どきの若い女の子」だという事を無意識に理解するのである。これは読者が日本人である、という事を踏まえての確信犯的な表現であり、五十嵐さんはリアリズムに凝り固まるタイプではなく、巧みに「それらしい嘘」を作品の中に忍ばせる漫画家だという事が判ると思う。


だから『魔女』という作品は、設定なども敢えてあいまいにしているのである。「SPINDLE」の舞台となる街は、明らかにトルコのイスタンブールで、アヤ・ソフィア寺院としか思えないモスクが登場する。キリスト教(及びそれ以前の原始宗教)とイスラムの様式が融合した建造物だと説明される事からも、それは間違いない。しかし作品の中では地名も寺院の名前も明示していない。


「PETRA GENITALIX」の中でも、バチカンとしか思えない巨大宗教組織が登場する。しかしどこにも「キリスト教」や「バチカン」といった名称は出てこない。
実はこの作品の中に登場するのは、あくまで「アヤ・ソフィア寺院を思わせる」「バチカンらしき」ものであり、そのものではない、と考えた方が自然なのである。つまり『魔女』という作品は、我々が生きるこの世界の寓話であり、実在のものを描いている訳ではない、いわば「もう一つのあり得るかもしれない世界」を描いた物語なのである。

例えば、ヒロイック・ファンタジーというのは全てが創作された世界である。それは我々の日常世界とはかけ離れている。では人はファンタジーに接する時、その見慣れないものを拒絶するだろうか。答えは否、である。どんなに非日常的なものでも、ファンタジーと判っていれば人は「そういうもの」だと割り切って受け入れる事ができるのである。五十嵐さんの漫画もまた、ファンタジーなのだ。ただ、それは100%創作されたものではなく、我々が暮らす世界に存在する様々なものを足掛かりにして、想像力を羽ばたかせているだけ、なのである。

だから、ちっとも難しくないのだ。大事なのは、物語を通して五十嵐さんが何を読者に伝えようとしているかを感じる事であり、そこに描かれている細部のギミックを理解するための知識があるか、ないか、という事ではないのである。

*これぞまさにアングラ演劇などの世界で培われ、榎戸洋司幾原邦彦経由で「新世紀エヴァンゲリオンNeon Genesis EVANGELION、TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」の世界に持ち込まれた「(視聴者を煙に巻く)衒学的テクニック」そのもの。

ところで幕末から明治初期に掛けて流行した「無残絵」は以下の三段階を経たとされています。

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  • 残酷芝居や残酷見世物が流行し、当時の浮世絵師がそれを模写する様になった。
  • 血糊の増量など絵画ならではの過剰な残虐表現が追求された。
  •  戊辰戦争1868年〜1869年)により死体が身近になると血糊の使用量を抑えたり、あるいは逆に全く使わずに同種の残酷さを表現する試みが中心となる。

まさにアンドロメダ病原体。ドーキンスミーム(meme)論でも、坂口安吾の「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」式行動主義でも結果は同じなのですが、次々と全くの別物への変貌を遂げていき、しかもその遺伝子を芥川龍之介谷崎潤一郎三島由紀夫江戸川乱歩といった近現代作家に伝える展開に。当時の日本で起こったのもこういう事だったのでは?