諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

共産主義とは要するに「ツンデレ」の事である?

「岡目八目」といいますが、後世の人間は全体像を俯瞰出来ます。その立場ゆえに当時とは全く違った判断基準から物事にアプローチ出来たりもします。

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その典型例が「20世紀の怪物」共産主義の話。

田口富久治「マルクス主義とは何であったか?(2001年10月24日講演)」

今日の講演をしめくくっておきましょう。

第一に、マルクスは、近代資本主義という経済=社会体制の本質や作動法則は、かなり正確に理解し分析しえていたと思うのですが、資本主義の経済体制の延命力、生きのびる力についての判断は大きく間違っていた。同じことは、レーニンを含めた後続世代のマルクス主義者、革命家についてもあてはまります。そして資本主義体制は、レーニンによれば、資本主義の最高の、また最後の段階になるはずだったのに、第二次大戦後もマルクス用語でいえば、国家独占資本主義体制として、あるいはフォード主義として、さらにはグローバル化時代におけるポスト・フォード主義を模索して生き続けているし、おそらくは二一世紀を通じて生き延びそうであります。

これに反して資本主義体制への対抗物として登場してきたはずの現存した社会主義体制は、一番早く成立したソ連体制も、二〇世紀の間に四分の三世紀存続しただけで自壊してしまいました。中国その他の残存した社会主義諸国も急速に商品経済化しております。「社会主義商品経済体制」なるものは、二一世紀の末までには、どうなっているのでしょうか。

第二には、このことを裏返したに過ぎませんが、マルクス主義者の社会主義共産主義の到来についての予測は、あまりに楽観的であり、それは一種のユートピア思想にすぎなかったといわれても仕方がないでしょう。

第三に、現存した社会主義の体験、とくに政治的社会的体験は、ソ連を見ても、東欧諸国を見ても、一九六五~七五年の文化大革命の中国の実状を見ても、その掲げた理念――プロレタリア民主主義等々――とはまったく逆に、基本的人権は保障されず、民衆の政治的参加の権利は実質的に保障されない。民主主義(アメリカの政治学者、ダールが、政権への異議申し立てと政治への実効的参与を標識とするポリアーキー)の反対物であったといえます。それはまたソ連、中国、その他の社会主義諸国において、数千万単位のテロや弾圧を伴うものでもありました。そしてそれを可能にしたのは、もともとは前衛政党の集権化を担保する民主集中制という組織原理であり、それを経済・社会の上からの監視と統合に拡大した組織原理でありました。このような非民主的で不自由の体験が歴史的に明らかにされている以上、もはやそのような体制が再復活する展望はまずはないと思われます。

しかしながら、第四に、政治理念(および政治思想)としてのマルクス主義の中には、無産のプロレタリア大衆の経済的社会的解放を通じての全民衆の解放、階級制度、とくに資本主義経済と資本主義的帝国主義権力が、下層勤労大衆、あるいは旧植民地・従属国の民衆に加えた抑圧あるいはその残存物からの解放の大胆な肯定など、これらの政治理念と政治思想はなお今はその輝きと意義を全面的に失ってしまっているとはいえないと思います。もちろん二一世紀を迎えた世界が直面している諸課題――環境問題、性差の撤廃の問題、核と戦争の危険の問題、南北格差の問題、人権抑圧の問題等――について、マルクス主義の理念と思想が、それらすべてに対応できるわけではないでしょう。

しかし、マルクス主義が、その父祖たちがそう信じていたように、人類の科学的、民主主義的、ヒューマニズム的伝統の継承者であり、展開者であるという初心にかえって、自己批判と再生の努力を重ねていくならば、それはこれまでの幾多のマイナス面にもかかわらず、人類の知的-道徳的遺産の一つとして、人類の歴史の上に残る可能性をもっているといえるのではないでしょうか。
*英国の歴史家アーノルド・J・トインビーは「 ヘレニズム 一つの文明の歴史(1962年)」の中で「そのヒューマニズム(人間中心主義)こそがヒトラースターリンを型抜きした」と指摘する。

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確かにここまでくれば、もうヒトラースターリンまであと一歩? 

 さて、どう感じましたか? ゼロ年代ではまだまだ客観視が難しかったけど、2010年代に入るとまだ客観視出来てない人の方がおかしく見える様になった概念の典型例かもしれません。

共産趣味 - Wikipedia

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ところで 「共産主義とは要するにツンデレの事だった」という考え方を 初めて知ったのは、共産圏における核開発競争の歴史について調べていた時の事でした。

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  • 何と中国共産党がそれまでの沈黙を破って「ソ連の核開発の非人道性」への徹底弾劾に踏み切ったのは、自らの核開発着手が契機だったというのである。常に高邁で理性主義的なイデオロギーを奉じながら、実際に実践に移されるのはそれに反する事ばかり。その後ろめたさから「政敵」を設定し、それに全の罪悪感を投射して非難し続ける事でしか精神的安らぎが得られない。何たる壮大な規模でのコミュ障!!
    中国の核実験
    JOG(186) 貧者の一燈、核兵器

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  • ソ連映画には「資本主義圏における腐敗の象徴」としてその車体の側面に「Ford」のロゴが入った真っ赤なスポーツカーが登場し観客達を魅了した。そしてさらに旧共産圏においては(その起源を辿ればゴールドラッシュ時代の労働者の衣装に過ぎない)ジーンズや(「大量生産と大量消費の強制による大衆搾取」という形で資本主義的暴力装置の一環を担うファーストフード産業の頂点)マクドナルドが富貴の象徴として憧憬の対象となったのである。何たる壮大な規模でのコミュ障!!

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  • 皮肉にもフランス革命に端を発する共産主義には「西洋的ヒューマニズム」および「啓蒙主義」を継承した側面が強く存在する。それ故に「サイバネティック情報工学」をどうしても受容出来ず、1960年代頃よりコンピューター科学の致命的停滞が始まるが、それが生んだのもまた「欧米社会におけるコンピューターとインターネットの自由な発展に対する限りなき憧憬心」だったのである。何たる壮大な規模でのコミュ障!!

    「西洋的ヒューマニズム(The Occidental Humanism)」…人体とそれを動かす理性こそ至高の存在とする人間中心主義。その起源は古代ギリシャ・ローマ時代まで遡る。フランスで生じた政治的浪漫主義の源泉でもあった。その選民思考ゆえに「蛮族はすべからず人間ではない」とする人種差別思想と容易に融和する。最近では移民問題と関わる皮肉が込められた「The Zombie Humanism」が対語として当てられる事が多い。 Zombieとはいうが辺境に居城を構える吸血鬼貴族や未開拓の森を徘徊する狼男や未発見の湖に潜む半魚人なども一緒くたにした表現だったりする。

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    啓蒙主義(英: Enlightenment, 仏: Lumières, 独: Aufklärung)」…ありとあらゆる知識を統合する事によって未知の領域から体制側を脅かすパラダイム・シフトの可能性は完全排除が可能とする主知主義的信念。絶対王政下で発達した「全ての権力の源泉を国家の頂点たる国王に求める態度」およびそれに連動する形で発達したガリカニスム (Gallicanisme、フランスのカトリック教会のローマ教皇からの独立、教皇権の制限を求める政治的、宗教的立場) への反動から生じた「教皇至上主義(Ultramontanism、フランスのスペイン系貴族やドイツのカソリック教徒が志向した立場。世俗主義(Secularism)や道徳相対主義を目の敵とした)」さらには逆説的な意味合いでオーギュスト・コントの「科学者独裁主義」と深い関係を有する。要するに「あらゆる秩序の頂点には単一者が立たねばならぬ」と断言した時点で「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが発動し表面化してくるシステムの事。

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    サイバネティック情報工学(Information Engineering)」…いかなる意味合いにおいても全体を超越的に統制する中心を持たない自由な情報網の無制限拡大状況において局所的に現れるフィードバック・メカニズム(Feedback Mechanism)に注目した情報理論。フィクションの世界においては当初これを「サイボーグ(Cyborg)」概念として受容したが、提唱者たるノーバート・ウィナーが志向したのはあくまでコミュニケーション(通信と制御)オリエンテッドな新たなる社会学だった。サイバーパンク運動はそれを受けたものとも。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマゆえに共産主義との両立は不可能?

    ちなみにニューアカにはある意味(射撃制御装置の延長線上で通信理論について論じた)ノーバート・ウィナーの主著書「サイバネティックス 第2版(Cybernetics, Second edition、1961年)」が純粋に線型代数学に拠ってフィードバック・メカニズムを論じているのに付け込む形で「(非線形科学を援用する形で共産主義の根幹にある)フィード・フォワード理論の復権を果たす」といった目的意識が存在した。その衒学性(pedanticly)をソーカル事件(1994年))に突かれて挫折を余儀なくされたが、その一方で実際に(線型代数学から導出された)フィードバック理論と非線形科学をどう融合させるべきかなる課題自体は21世紀に持ち越される形となっている。

    ソラリスの陽のもとに(Solaris,1961年)」でその名を知られるポーランドのSF作家スタニスワフ・レム。彼はこの様な状況を生み出した共産主義的妄執を「アントロポモルフィズム(Anthropomorphism、神人同型主義)」と呼んで弾劾した。その起源は絶対王政下の欧州。ピョートル大帝(在位1682年〜1725年)がロシア帝国に持ち込み、レーニンやスターリンが復活させて共産圏全体に広まったとも。そしてこれに対抗すべく全く正反対の存在として「人智が全く及ばない絶対他者惑星ソラリスを設定。これを既存秩序への挑戦と受け止めて黙殺を決め込んだ共産圏よりむしろ資本主義圏に多大な足跡を残すことになったのである。

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    ある意味その尻尾の1本が新海誠監督「君の名は(2016年)」におけるティアマト彗星だったとも。平気で人も殺すのに、ただひたすら美しいだけのヒマラヤ山渓の様な存在…


    そもそもの発想の起源はエドモンド・バーク(Edmund Burke、1729年〜1797年)が「美と崇高が共存するあらゆる宗教概念の起源」としたピクチャレスク美学(The concept of the picturesque)。「ハノーファー王国(1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあり、普墺戦争(1866年)に敗れてプロイセン王国に併合されるまで存続)」経由でドイツに伝わって大論争を巻き起こしたが、その落とし子がまさに「美と崇高との感情性に関する観察(1764年)」を発表したカントや、彼の「(認識の制約外に実存する)物自体(Ding an sich)」と「(経験の対象たる)物(Ding)」を峻別する態度に反駁しようとしたヘーゲルの創始したドイツ観念論(deutscher Idealismus)だったという次第。

    そしてこれらへのさらなる反駁から生まれたのがフォイエルバッハの人間解放哲学やマルクス主義の系譜となる。そうした全体像を俯瞰してみると、やがて「あらゆる知識を統合し(パラダイムシフトを引き起こす)未知の領域を完全消失させる事によって永遠の繁栄を謳歌しようとした絶対王政下欧州の啓蒙主義を再発見して夢中になっていったのも、もはや必然としか感じられなくなってくる。

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    ちなみにこのピクチャレスク美学(The concept of the picturesque)、アメリカに伝わるとラブクラフトのCosmic Horror、すなわち所謂「クトゥルフ神話」の原型として展開される事になる。何たる瀆神的展開…いやまさにこの「宇宙的恐怖」こそがヘーゲルをしてカントの「(認識の制約外に実存する)物自体(Ding an sich)」と「(経験の対象たる)物(Ding)」を峻別する態度の全面否定に走らせた主要因だったとは考えられないか? こうした意味合いにおいて新海誠監督「君の名は(2016年)」に登場するティアマト彗星は「出発地点」にして「最終到達地点」だったともいえる。そもそもヒマラヤ山渓や隕石に向かって「お前も人間だ!!」とか「お前に人間に対する愛はないのか!!」とか叫んでどうなるよ?

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 まぁ共産主義それ自体については「近世を経験してない国なら、どうしても経る必然性があった歴史的段階」という擁護論もある様です。起源はグラムシ辺りでしょうか。

その一方で最近の日本では新たにこの前提から再出発して「日本人は所詮、近世も近代も経験してない野蛮な未開人に過ぎないのだから、一刻も早く共産主義化を達成して国際社会に追いつかねばならない事がますます明らかとなった」なんて極論も横行している模様。ちなみにこの考え方自体については既視感がないでもありません。

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自由党総理 板垣退助日清戦争に際しての党員向け解発表(1894年12月16日)」

明治27年(1894年)7月25日、日清戦争豊島沖海戦で始まると新聞がさかんに戦争熱を煽り立てたが、政治の中枢にあたった人々は戦争の長期化に警戒的だった。財政問題とロシア東漸が不安だった為である。当面は戦争経費として陸海軍予備費が充当されたが、来年度予算については議会の了解が必要であった。議会は夏場休会となっていたが、明治28年1月、第8国会が開催される予定となっていた。各政党(第1党は民党と呼ばれた自由党、第2党は官党国民協会、次は改進党であった)は、11月から12月にかけて、戦争にたいする意見を集約して発表したが、中でも注目を集めたのが12月16日開催の自由党大会における板垣退助総理の見解発表である。

「そもそも日清の戦争は、我国空前の挙にして、しかも空前の困難なり、しかれども東洋の形勢早晩この事変に際会するは吾人の久しく期する所にして、我が国威を宣揚して、東洋平和の長計を立てるは、実にこの時にあり、ゆえに征清の挙は、ここにやむに得ざるに出て、しこうして国民の異議なき所なり。

しかれども征清の師、初めて出しより、軍人は身命をいたし、国庫は資材を消費し、予備後備の兵および軍役夫等産業を廃するもの十数万なり。陸海には船馬を徴発し、公債に恂兵に、余族救恤に、すべて社会の常態を撹乱するもの勝れて数うべからず、ゆえをもって一国経綸の任にあたる者、ただその意を戦闘に馳せて後患の恐るべきを察せざれば、その結果は信に憂うべきものあるべし。

国家の軍国に処する、なお人身のその病に処するがごとし。政治家はその医なり、保養摂生、もってその漸衰を救わざるべからず。しこうしてこの戦後を善くするの策は、一にして足らざるべし。思うに退て消極のことを守るは、良謀に非ず。しかれども進て積極のとを取らんとするも、また財源許さざるを奈何ともするなし。

要するに、吾人は軽しく敵を恐れず、また軽しく敵を侮らず、慎重静粛に、交戦の目的を達し、また経済上の競争に一歩を譲るなきをもって期せんと欲す、今や日清交戦の時に際し、区々の異向をもって、全局の大事を誤るを欲せず。

官民一致、もって事に従うべし。しかれども古より戦勝歓喜威武の発揚に伴って、政治上権力の中央に集合して個人自由の侵融と見ることあらば、吾人は威力に屈せず、権勢を恐れず、我が自由平等の大義を発揚し、もって国家をしてこの過ちなからしめんことを勉むべし。国家多事、諸君請う努めよ」

板垣退助57歳の発言である。すでに自由党から極左派は離脱しており、これが残った圧倒的多数派のコンセンサスでもあった。第一次大戦のさいのヨーロッパ各国の自由党領袖の発言と比べてなんら遜色ないばかりでなく、あくまで戦争による権力集中を警戒するなど、リベラルとしての矜持はきちんと示している。戦間期の日本の自由主義政治家と比較すれば、根性の違いも桁違い。国民はこのような板垣自由党をよく支持し、戦後の伊藤博文内閣では、板垣を内相に登用するしかなくなっていく。

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*一部日本人はむしろこうした動きについて「せっかくアジアの絶対悪たる大日本帝國を葬り去る絶好のの好機だったのに当時の日本の自由主義者は心の底から腐り果てていた。この時命懸けで反戦運動を繰り広げ、朝鮮半島どころか日本本土まで清国軍に明け渡してさえいれば日本人は(たとえ彼らに全財産を奪い尽くされ、強姦され尽くした果てに皆殺しにされたとしても)少なくとも世界史に汚名を残す日中戦争の加害者にだけはならずに済んだのだ」という立場から徹底弾劾する。彼らにしてみれば自由民権運動に便乗してテロ行為を繰り消した自由党極左派だけが当時の日本を代表する唯一の「正しい日本人」だったのであり、こういうタイプの日本人には、そうした歴史観にに基づいて朝鮮戦争(1950年〜1953年)において兵站線破壊を目論む火炎瓶闘争を戦い抜いた過去も存在するので他の解釈など絶対に成り立たない。この歴史観に基づくなら日本において強盗を繰り返し、そうやって備蓄した軍資金によって朝鮮王朝をクーデターで打倒し、全朝鮮人を軍事力として総動員する形で大日本帝國打倒との最終決戦を遂行しようとしていた大阪事件(1885年)も「大塩平八郎の乱(1837年)や米騒動(1918年)と並ぶ)日本の戦前史にその名を残した数すくない筋金入りの平和主義運動の一つ」という事になってしまう。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」とはまさにこういう状況を指す。
与謝野晶子 食糧騒動について

*それはそれとして「最後の超然内閣」清浦内閣(1924年)が打倒されて日本の議院内閣制の本格稼働が始まってなお憲法上の「軍官の議院内閣制に対する優位」を放置し続けた事はまた別途弾劾されねばならないだろう。なにしろ、それは(2.26事件(1936年)後の粛軍人事により統制派軍人が行動派軍人に圧勝した結果としての)軍国主義の台頭や革新官僚1920年代に現れた統制派軍人と組んで影響力を増した官僚層)に「悪用」されてしまったのだから。これについては一応「日本の運営について政治家も財界人も匙を投げたから、彼らが火中の栗を拾いに行かざるをえなかったのだ」なる同情論も存在する。当時の革新官僚の代表格だった岸信介を母方の祖父とする安倍総理などがこの立場に立つ。そしてそうした立場ゆえに上掲の様な「日本人を全人格的に代表する筋金入りの平和主義者達」から今日なお総攻撃を浴びせられ続けているのである。

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ここでまさかの板垣退助。まさかの土佐。「板垣死すとも自由は死せず」? だがここでいう自由はあくまで「日本人の自由」さらなる狭義としては「土佐人の自由」に限定される。革マル派の闘士がまず真っ先に襲いかかったのが同じ学生運動家だった様に。

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ニューズウィーク日本語版2016年8月23日号
揚上英(中国内モンゴル自治区出身の静岡大学教授)
「友好人士拘束事件が示す日本の空想的中国研究の破綻」

現地の実情とは乖離した研究と中国共産党政権無批判は日本の中国学の「伝家の宝刀」だ…打算的で利益優先の中国研究をイデオロギー面で支えているのは、日本独特の左翼思想とマルクス主義的精神文化だ。19世紀末の明治維新の直後からどの国よりも多数のマルクスやレーニンの著作を翻訳した日本には、ソ連や中国以上に強い共産主義礼賛の伝統がある。共産主義の危険な思想を広げる運動家やアナーキストでさえも「象牙の塔」で守られてきた。

彼らにとってソ連が崩壊した後は唯一中国だけが「憧憬の地」であり続けてきた。「理想の共産主義国家」には労働者問題はあってはいけないし、人権弾圧の事実もあるはずがない。ましてやチベット人ウイグル人、モンゴル人が主張する様な民族問題なども「文明人と夷狄(野蛮人)」の対立という漢民族史観で中国を研究してきた日本の中国研究者は耳を貸さない。

こうして中国の本質を知る中国人の研究を日本人は無視してきた。だが先月には「日中友好」を献身的に支えてきた日中青年交流協会の鈴木理事長がスパイ容疑で中国当局に拘束されている。日本人だけではない。日本の大学に勤めながらも、常に北京当局を擁護する発言を繰り返し、中国政府の代弁役を演じてきた人物も昨年までに、複数名拘束される事件が発生している。

むやみに中国を賞賛せずに現実の我が国を見よ、と習政権がメッセージを送っている。そんな訳はあるまいが、純朴な日本人はまだ夢から覚醒してないところが悲しい。

*「モスクワの長女(フランス共産党の別名)」ならぬ「北京と平壌の長女」が日本?

* 「フランスの頑固なマルクス原理主義」だって「ロシア人も吃驚!!」状態とされるけど、大阪事件(1885年)時代から進歩が止まったままの「日本のの頑固なマルクス原理主義」に至っては「中国共産党も吃驚!!」状態とな? いやそもそも日本のそれ、共産主義とかマルクス主義ですらなくて「ヨーロッパで最も危険視された急進派共和主義者オーギュスト・ブランキの「永久革命論」じゃね?

まぁ確かに「自由民権運動における路上闘争に勝利して以降、我々だけが日本人の唯一の代表者であり、日本政治の唯一の実体で有り続けている」と主張する側と「1930年代に大日本帝国軍国主義化したのは、政治家と財界人が揃って国政を投げ出したからだ。我々は二度と同じ過ちを繰り返さない」と主張する側の間には、これから先も妥協が生じる余地なんて一切存在しないでしょう。ここではあえてどちらが正しいかについて論じません。なにしろ「そもそも自由党とは一体何だったのか?」から始めたら話が長くなる、長くなる… 
自由党 (日本 1881-1884) - Wikipedia
自由党 (日本 1890-1898) - Wikipedia
憲政の常道 - Wikipedia

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それはそれとしてこの状況、最終的にヒトラー率いるナチスが漁夫の利を得た、社会民主主義共産主義の「(国民感情を置き去りにした)終わりなき内ゲバ合戦」を想起させます。過去投稿から再引用すると「全てが過ぎ去った後の身勝手な反省に気をつけよ」って奴ですね。いずれにせよ「二点間を結ぶ最短距離が直線にならないなら、それは空間認識の方が歪んでいる」なのです。

共産主義ツンデレ」もまさにこれ。では実際にはどう歪んでいるの? 本当に明らかにしなきゃいけないのは、むしろそっちの方かと。