諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

オーギュスト・コントの「科学者独裁主義」、英国における「博物学から進化論へ」の流れ、そしてアメリカの「科学万能主義」

オーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年〜1857年)が社会学(Sociology)の必要を説いたのが1830年代。実際に社会学が学問として成立するのは1890年代以降。その間には国家学や社会統計学の著しい進歩もあったのにどうしてこんなにも間が空いてしまったのでしょうか?

理由は簡単。その間のヨーロッパ大陸にはまだ、学問の研究対象にしたくなる様な形で「社会(Social)」が存在していなかったからなんです。

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 ①サン=シモン(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon、1760年〜1825年)およびその弟子達は「フランスの実体は、王侯貴族や聖職者でなく産業者同盟(les indutriels)」としながら王政そのものまでは否定しなかった。しかしそれ故に(その実態はブルボン家からオルレアン家への王統交代に過ぎなかった)フランス7月革命(1830年)や(オラニエ=ナッサウ家を王統と仰ぐネーデルラント連合王国からの独立に際して新たに国王を招聘した)同年のベルギー革命やフランス第二帝政期(Second Empire Français、1852年〜1870年)には国王や皇帝の権力の後ろ盾を受ける事に抵抗がなく、思う存分その力を発揮したともいえる。ただしその代償として、そうした時代が終わった時に一緒に歴史の掃き溜め送りにされてしまったとも。

*戦国時代も前半は守護代守護大名に成り上がるなんて当時の身分意識に鑑みて原則として有り得ない事だった。だから一円領主と化した多くの元守護代達がこぞって傀儡の守護を報じていた。後世の人間がこれを「本当に不必要な措置だった。みんなただの馬鹿だったんじゃないの?」と嘲笑うのは実に容易い。

奇しくも全てはパレ・ロワイヤル(Palais-Royal)に始まり、パレ・ロワイヤルで終わったのである。

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  • オルレアン家は「フランス絶対王政の樹立者」ルイ14世(仏:Louis XIV、在位:1643年〜1715年)の弟アンジュー公フィリップを始祖とするブルボン家の分家。ちなみにこの兄弟は幼少時代を元来リシュリュー枢機卿の居館だったパレ・ロワイヤルにおいて母親のルイ13世王妃アンヌと(リシュリュー枢機卿の腹心だった)マザラン枢機卿と暮している。兄弟が生まれたのは父王ルイ13世との別居時代だし、スペイン出身の王妃アンヌは何かと宮廷で苛められていた。いろいろ想像力を刺激されるが、それについて公に触れられる事が一切なかったのがフランス王室の威光というものだったのである。

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  • フランス革命の発端となった「バスティーユ牢獄襲撃(prise de la Bastille、7月14日)」も「ヴェルサイユ行進(La Marche des Femmes sur Versailles、10月5日)」もオルレアン公の居城パレ・ロワイヤルから出発している。この事から最近はフランスでさえ「フランス革命の火蓋を切ったのは確かにオルレアン公の官製デモだったのかもしれない」なるコンセンサスがじわじわ広がりつつあるが、いかんせん「フランス王太子アングレーム公や革命貴族代表ラファイエットといった政敵を圧倒し、一気に時局のイニチアシブを握る」なる本来の目的は微塵も達成される事はなく、自らも暴走状態に突入した革命の犠牲となってギロチンの露と消えていく。

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  • 元フランス王太子だったアングレーム公がルイ19世として即位するのが阻止され、代わってオルレアン公が即位したフランス7月革命(1830年)。この時はイタリアで独立運動を繰り広げてきた炭焼党(イタリア語: Carbonari、フランス語: Charbonnerie)が実動部隊として活躍したが、その最大のパトロンもまたオルレアン公だったのである。ただし炭焼党は王党派と共和派の混合状態にあったので後者の不満が鬱積。その結果として発生したのがビクトル・ユゴーレ・ミゼラブル(Les Misérables、1862年)」のクライマックスで描かれた6月暴動。
    *ちなみに当時ヴィクトル・ユーゴーはオルレアン公の取り巻きの一人だったからこれを見殺しにした側だったし、作中でユーゴー自分を重ねた登場人物も現場にいながら玉砕を免れる。有名なドラクロワ民衆を導く自由の女神(La Liberté guidant le peuple、1831年)」も6月暴動以降は公開が取りやめたれ、ルーブル美術館に常設展示される様になるのは1874年以降。

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  • アレクサンドル・デュマ「「ダルタニャン物語(D'Artagnan、1844年〜1851年)」は主にオルレアン朝期に執筆された為、この様なオルレアン家の歴史に取材しつつそれを巧みに脚色した「オルレアン家賛歌」になっている。

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  • 二月革命(1848年)に際してオルレアン公が亡命直前まで籠城していたのもまたパレ・ロワイヤルだった。その結果、フローベールが「感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」で描いた様に陥落後に乱入してきた暴徒達の手によって徹底的なまでの略奪と破壊の対象となった。

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こうした「オルレアン公の暗躍」を支え続けたのは「フランス一の素封家」と称えられたその財力。しかも2月革命によって完全にフランスへの影響力を喪失した訳ではなく、以降もその暗躍はしばらく続く事になる。

ヴェッティン家(Haus Wettin)

家名は現ザクセン=アンハルト州のヴェッティン城に由来する。中世以来、主にドイツのザクセン地方、テューリンゲン地方を支配した有力な諸侯の家系。一時はポーランド王も兼ねたザクセン選帝侯の家系を本家とするが分家も多く、ザクセン諸公国の君主となった。その1つ、ザクセン=コーブルク=ゴータ家はベルギー、ブルガリアの王家となった他、イギリス、ポルトガルの王家にもつながっている。

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  • 822年に受爵したリクベルト伯爵まで遡れる男系名家で、現存する欧州貴族の家系ではロベール=カペー諸家に次いで古い家系とされ、ヨーロッパでも1,2を争うほど歴史のある名門でもある。978年にマイセン辺境伯となったリクダックもまたヴェッティン家出身といわれている。

  • 以後ザクセン=オストマルク辺境伯家やマイセン辺境伯家と婚姻関係を結ぶ。11世紀前半にディートリヒ2世がオストマルク(ラウジッツ)辺境伯となり、また、孫のハインリヒ1世はマイセン辺境伯位も兼ね、以後マイセン辺境伯位およびラウジッツ辺境伯位を同家が世襲した。1423年にはフリードリヒ1世が断絶したアスカーニエン家の後をうけてザクセン=ヴィッテンベルク公位を与えられてザクセン選帝侯となり、同家は旧辺境伯領とザクセン公領を合わせた広大な領地を一族で(時として分割相続を繰り返しながら)相続する事になる。
    *そもそもザクセンカール大帝ザクセン併合(772年〜804年)によって初めてフランク王国版図に編入され、かつその編入が隣接する地域のヴァイキング(北欧諸族による略奪遠征)を活発化させた曰く付きの土地である。結局それはザクセン族長に起源を有するリウドルフィング家のザクセン辺境公にマジャール人の東欧侵攻に鎮圧され、ドイツ王ハインリヒ1世がザクセン朝を開闢。その息子のオットー2世が962年に初代神聖ローマ皇帝オットー1世に即位してザクセン神聖ローマ帝国(962年〜1024年)が始まる事になる。神聖ローマ帝国皇統はその後、ライン川流域を本拠地とするザーリアー(Salier、1024年〜1125年、ローマ教皇を相手取った11世紀叙任権闘争で有名)や、イタリアと国境を接するシュヴァーヴェン地方(標準独: Schwaben, アレマン語: Schwobe, バイエルンオーストリア語: Schwobm)から出たホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年〜1254年、ドイツとイタリアを股にかけた教皇(Guelfi)と皇帝派(Ghibellini)の対峙(12世紀〜13世紀)で有名)やハプスブルグ朝(1273朝~1806)へと推移したが、ザクセン公国はその後も神聖ローマ帝国内で多大な影響力を発揮し続ける。

  • 15世紀半ばのフリードリヒ2世の二人の息子の間で分割相続が行われた後、エルネスティン家とアルベルティン家の二家に分かれた。

  • 賢明公、賢公(der Weise)と称されるエルネスティン家系のザクセン選帝侯フリードリヒ3世(在位1486年〜1525年)は(後にプロイセン王国の王室となった)ホーエンツォレルン家に連なるブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世ネストル(Joachim I. Nestor,、在位1499年〜1535年)の弟だったマインツ大司教アルブレヒトのドイツにおける贖宥状販売を告発した宗教改革マルティン・ルター(Martin Luther、1483年〜1546年)を保護してプロテスタントを承認し、ヴィッテンベルク大学を設立した功績で知られる。
    *全ての背景にあったのは、ザクセン選帝侯の歴代聖遺物コレクションだったとも。それはただ単に威信材としてのみ利用されてきただけではない。その拝観料が重要な財源の一つに位置付けられてきた。こうした既得権益がアルブレヒトの「指導要綱」およびドミニコ会員ヨハン・テッツェルらの贖宥状販売促進活動に著しく脅かされたので、ルターはこれに反論する形でヴィッテンベルク教会の門前に「95ヶ条の論題(1517年10月31日)」を張り出したとのだいう。さらにこうした情景の背後にあったのが「派手好き、イベント好き」でその名を知られたメディチ家出身のレオ10世(Leo X 在位、1513年〜1521年)の散財癖で、塩野七生は「神々の代理人(1972年)」の中で(あくまで報復的迫害を要求し続けるマインツ大司教アルブレヒトと「敵に回すと恐ろしい」ザクセン選帝侯の板挟みとなり、オロオロと手をこまねき続ける事しか出来なかった)この人物に「ドイツ人の一途さ、本当に面倒臭い」と言わせている。

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  • カソリック勢力とドイツのプロテスタント諸侯の対立は遂に宗教戦争に発展。ミュールベルクの戦い(Schlacht bei Mühlberg、1547年)でシュマルカイデン同盟に勝利したカール5世は、自身に敵対したヨハン・フリードリヒ(エルンスト系)から選帝侯の資格を剥奪し、味方したモーリッツ(アルブレヒト系)に褒賞としてこれを与えた。以降、選帝侯の資格はアルブレヒト系が継承していく事になる。
    *しかしカール5世はこの措置によってモーリッツの勢力が拡大する事もまた恐れ、ヨハン・フリードリヒの子息たちにテューリンゲンの各地の方伯として領土を与えてる事でヴェッティン家の分断統治を実現しようとした。

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  • カール五世の腹心ながらプロテスタントだったザクセン選帝侯モーリッツは、プロテスタント諸侯から「マイセンのユダ」と罵られ良心の呵責に苦しむ。その結果、プロテスタント側に最後まで残った唯一の拠点マクデブルクの攻略戦において裏切り、逆にカール五世を追い詰めてパッサウにおいてルター派容認する旨の和平条約「パッサウ条約(1552年8月)」を締結。これが神聖ローマ帝国連邦国家化を不可避としたアウクスブルクの和議(1555年)の原型となる。さらには八十年戦争(Tachtigjarige Oorlog、1568年〜1609年、1621年〜1648年)によってスペイン・ハプスブルグ家からオランダ独立を勝ち取るオラニエ=ナッサウ家(Huis Oranje-Nassau)のマウリッツ(抵抗運動の指導者に選ばれ暗殺されたウィレム1世の息子)を女婿に迎える。その勝利は有名な「マウリッツの軍事改革」に加えザクセン選帝侯の後ろ盾があってこそ実現されたものであり、これに従軍してドイツや北欧出身の傭兵達が新式戦法を叩き込まれた事がやがて「北方の獅子」ウェーデン王グスタフ2世アドルフ(Gustav II Adolf、在位1611年〜1632年)の台頭につながっていくのだった。
    *シュマルカイデン同盟の敗戦は「人質として(カール5世の本拠地たる)フランデルに連行され若くして客死したヘッセンプロテスタント諸侯の姫君の悲劇」なる伝承を後世に残す。やがてその物語は価格革命進行によって放棄された廃坑に隠れ潜むプロテスタントレジスタンスの伝承と融合し、グリム兄弟に採集されて「白雪姫(Snow White)伝承」として世界中に広まる事に。ただこれに関してはバイエルンの民話研究者が「この物語がバイエルンの敬遠なカソリック教徒の物語以外であったとは到底考えられない」と激しく異議を唱え続けており、今日なお起源論争が続いている。ちなみにグリム兄弟が白雪姫の伝承を採集したのはヘッセンなのでバイエルン民話研究者の主張にはかなり無理があるのだが、政治的配慮などから、あえて結論が出ない状態で放置されているらしい。ドイツ人の一途さ、本当に面倒臭い。まぁ日本の九州王朝説や飛騨王朝説あたりも大概だけど、宗教問題に関連してこないだけまだいい。

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  • 1697年にはフリードリヒ・アウグスト1世がポーランド王に迎えられ、1763年まで同君連合となったが、波乱が絶えなかった。1700年に開始された大北方戦争に巻き込まれて一時その地位を失い、1733年にはポーランド継承戦争が起こされる。ポーランド王国における王権は無きに等しく、大北方戦争スウェーデン語: Stora nordiska kriget、ロシア語: Великая Северная война、ポーランド語: III wojna północna、デンマーク語: Den Store Nordiske Krig、ドイツ語: Großer Nordischer Krieg、英語: Great Northern War、1700年〜1721年)以後のポーランドはほぼ列強の傀儡国家あるいは緩衝国に変貌していく。

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  • 1806年、神聖ローマ帝国の解体に伴いザクセン王国となる。時のザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世となった。普墺戦争(Deutscher Krieg、1866年)に際してはザクセン=アルテンブルク公国やザクセン=コーブルク=ゴータ公国プロイセン側、ザクセン王国ザクセン=マイニンゲン公国がオーストリア側について戦っている。ザクセン王国は当初中立の立場をとろうとしたがかなわず、その為にプロイセン軍による占領を受けて降伏を余儀なくされてしまう。かろうじてハノーファー王国ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト・アム・マインの様にプロイセンに併合される事自体は免れたが、形式上の自立のみを残してプロイセンに従属し、北ドイツ連邦への加入を余儀なくされている。

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  • 1918年のドイツ革命によってドイツ帝国は消滅し、ザクセン王国もまた消滅。

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そして1831年6月4日、ベルギー国民議会によってエルンスト系のザクセンコーブルク=ゴータ公エルンスト1世の弟レオポルトが国王に指名され、同年7月21日にレオポルド1世として初代国王に即位する。

初代ベルギー国王レオポルド1世(Léopold Ier、在位1831年〜1865年)

姪のイギリス王女ヴィクトリア(後の英国女王(在位1837年〜1901年)、初代インド女帝(在位1877年〜1901年)と甥のアルブレヒト公子の良き相談相手であり、2人からとても信頼され、慕われていた叔父でもあった。後にこの2人を結びつける役割も果たしている。2人を結婚させようと考えたのは、国王になったとはいえベルギーがあまりにも小さく、他の国々へもさらなる勢力拡大を図る為、ザクセン=コーブルク=ゴータ家とイギリス王室を結びつけようとしたためといわれている。また「ヨーロッパ一美しい王女」と溺愛するマリー=シャーロットをオーストリアハプスブルク家のマクシミリアン=フェルディナント大公と結婚させた。 フリーメイソンの会員でもあった。

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  • 1790年12月16日、コーブルクのエーレンブルク城でザクセンコーブルク=ザールフェルト公フランツ・フリードリヒの三男として生まれた。母はアウグステ・ロイス・ツー・エーベルスドルフ。

  • 1795年、5歳の時にロシアの近衛軍イズマイロフスキー連隊の大佐となり、それから7年後には少将になった。この時、祖国ザクセンコーブルク公国はフランス軍の占領下にあった。1806年にパリへ行った。ナポレオン1世と会った時、自分の副官になるつもりはないかと持ちかけられたが、レオポルトはこの申し出を断った。その後、レオポルトは兄たちに続きナポレオン戦争に加わることになった。

  • 1815年に陸軍元帥になった。この年ロシア皇帝アレクサンドル1世の親友として、皇帝と共にロンドンを訪れた。この時摂政王太子ジョージ(後のジョージ4世)の一人娘シャーロット王女に見初められ、5月2日に2人は結婚した。しかしシャーロットは1817年12月5日に息子を死産した後、間もなく死去してしまった。レオポルトはその後もイギリスに留まり、国から毎年5万ポンドの年金を給付されてしばらくは数々の趣味に没頭していた。

  • 1830年にはオスマン帝国から独立したギリシャから国王就任要請の打診をされたが、これを断った。しかし1831年6月26日には、前年にオランダから独立したベルギーから再び国王就任要請があり、今度は承諾することにした。7月21日にブリュッセルの王宮で初代ベルギー国王に即位した。

  • 1832年8月9日、フランス国王ルイ=フィリップ1世の娘ルイーズ=マリーと結婚した。ベルギー王家であるザクセン=コーブルク=ゴータ家はエルネスティン家の分家にあたる新興の家柄であったが、この婚姻により、ブルボン家及びハプスブルク家との縁が深まり、有力な家柄の一つとなった。

  • 1865年12月10日にブリュッセルで死去。

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同時期に即位した事もあり、フランスの新王統たるオルレアン家ともすかさず政略結婚しているあたりが興味深い。

フランス第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)開始に至る過程でまず真っ先に脱落したのは「私有財産の全没収」をスローガンに掲げ、国民の間に恐怖を撒き散らしてきた急進共和派だった。その結果として王党派が最大勢力となったが、王政復古にしか関心がない事が明らかとなって国民の支持を失う。その隙を突く形でルイ・ナポレオン大統領が躍進して皇帝ナポレオン三世が誕生する事になったのだった。

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  • フランスにおける既存のブルジョワ階層は国王や教会の権威を担保に取るのに慣れすぎていて産業融資に一切興味を示さなかった。ここで「馬上のサン・シモン」皇帝ナポレオン三世の人脈が生きてユダヤポルトガル人融資家のペレール兄弟の様な外国人サン=シモン主義者が続々と参入。やっと産業革命が回り出す。新興富裕階層が育ち、権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」とも「二百家」とも呼ばれる近代的エリート階層を現出させる事になる。
    *一方、この出遅れのせいでロスチャイルド家はフランスにおける市場シェアを大きく落とす事に。巻き返しの為に狙ったのがベルギーや東欧の鉄道建築事業だった。

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  • さらに皇帝ナポレオン三世は政敵たるオルレアン家の資産没収にも成功。やっとその暗躍に歯止めを掛ける事に成功した。

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この時代に始まった社会変化は不可逆的なもので、普仏戦争(1870年〜1874年)敗戦によってナポレオン三世が失脚した後もレディミスト(Légitimiste、正統王朝主義者)やオルレアニスト(Orléaniste:オルレアン家支持者)やボナパルティスト(Bonapartiste:ボナパルト家支持者)やウルトラモンタニズム(ultramontanism、教皇至上主義)やガリカニスム (Gallicanisme、国教会主義)が勢いを盛り返す事はなかった。そうした対立軸が消えた事と、次第にブルジョワ階層の間にシック(Chic)なる新たな美意識が広まっていった事はおそらく無関係ではない。ただ普仏戦争の痛手から回復する間もなく(産業革命による生産量や流通量の爆発的急増がもたらした側面もある)大不況 (1873年〜1896年)が始まってしまった事もあって、フランス国民がそうした変化を自覚するまでは相応の年月を必要としたのだった。

 学問の研究対象にしたくなる様な形で社会(Social)が存在していなかった」とはこういう事。少なくともフランスにおいては、おそらくまずフランス革命(1879年〜1794年)に端を発する「政治主導の時代」に決着がつかねばならなかった様です。
*一方ドイツにおいては「これからの時代にはもはや哲学は不要」と決めつけた俗流唯物論(vulgar materialism)への反駁として始まった新カント派 (Neukantianismus、1870年代〜1920年代)が衒学(pedantry)と教条主義(Dogmatism)の罠にはまってかえってその不必要性を自己証明してしまった後、科学的手段によるそれからの脱却をはかろうとして歴史学社会学の発達が始まったとされている。

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 ②一方、「啓蒙君主制(Enlightened Despotism)」と「科学万能主義(Scientism)」の狭間に現れたオーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年〜1857年)の「科学者独裁制(Scientists Despotism)」については、彼が王政復古反対運動によって公職を追放されて以降、ずっと在野の学者としてのみ過ごした事、および彼が「あらゆる科学を科学する学問」として構想した実証哲学(Philosophie positive)の総合性が、元来は「王政に対する代替案」と想定されていた事を抜きには「原則として」語れない。

  • ここで「原則として」というのは、既に「王政打倒」の必要性から解放されていたイギリスやアメリカや南米諸国においては全く別のアプローチが可能だったからであり、実際そういう方向で受容が進んだからである。それは一般にジョン・スチワート・ミル経由でスペンサーの社会進化論(Social Darwinism)に影響を与え、それが伝わったとされる。

  • フランスやドイツでは逆に「王政打倒」の必要性から解放された後に「(政治学的には不可欠な)総合性」が放棄され、これが学問としての再出発になったとも。とはいえ、神聖ローマ帝国における領邦国家状態の爪痕がまだまだ生々しいドイツには「 学問の研究対象にしたくなる様な形で社会(Social)」なんて存在してなかった。そういえばマックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」にしたって、主要研究対象として選ばれたのは「ドイツ社会」じゃなかった。

 「理想主義者(Idealist)」オーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年〜1857年)

社会学の始祖の一人に数えられるコンドルセ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年〜1794年)の段階的進化論を発展させる過程で「未来予測、およびそれに基づく計画立案とその検証は科学者が独占すべきである」なる科学者独裁主義の立場に到達し、それゆえに師匠と袂を分かったサン=シモンの弟子。
オーギュスト・コントと社会学の誕生

*ブラジルの国旗にもそのモットーが刻印されている。当時の影響力の大きさを偲ばせる。

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  • 自らは一介の在野学者としてその生涯を終えたが「英国人社会学者」ハーバート・スペンサーの「社会進化論(Social Darwinism)」経由でむしろ英米進歩主義的展開に大きな足跡を残す事になった。

  • 彼の独特の科学者独裁主義構想についても、第二次世界大戦後に「反知性主義の首魁の一人」アイゼンハワー大統領が「(政界にも多大な影響力を有する)軍産コングロマリット」の存在を仄めかしている様にかなりの部分まで実践に移されている。

  • おそらく「純粋に科学的方法論においてのみ未来を予測し、それに基づいて計画を作成して検証し遂行する」なるコンセプトそのものが19世紀後半から始まる社会統計学の発達や鉄道網拡大に端を発する「コンピューター誕生に至る産業発展の時代」の精神に合致していたのである。

  • 共産圏にはこうした思考様式のインフラが存在せず、その事が1960年代以降のコンピューターと通信技術の停滞につながっていく。

ちなみにマルクスが熟読したドイツの国家学者ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein、1815年〜1890年)の「今日のフランスにおける社会主義共産主義(Der Socialismus und Communismus des heutigen Frankreiches、1842年)」にコントの名はなく、従ってマルクス史観においてこの人物は存在しなかった事になっている。

1250夜『崇高と美の観念の起原』エドマンド・バーク|松岡正剛の千夜千冊

バークがフランス革命を批判したのは歴史と人間と政治の関係をオーガニックなシステムとみなしていたからで、フランス革命には「その関係がない」と看過したからだった。その意味でバークは社会有機体論の先駆者でもあったった訳で、この考え方はコンドルセに継承される事になる。

ニコラ・ド・コンドルセ(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年〜1794年)の人間精神進歩史

18世紀フランスの数学者、哲学者、政治家。社会学の創設者の一人と目されている。ドーフィネのコンドルセ侯爵領の領主であることから、日本では「コンドルセ」と略称されている。陪審定理や投票の逆理(コンドルセのパラドクス)など近代民主主義の原理を数学を用いて考察したことで知られる。

  • 1758年、パリのコレージュ・ド・ナヴァールに入学、数学の才能を認められ、パリのコレージュ・マザランで数学を学んだ。1765年に「積分論」を刊行し、1769年にフランス王立科学アカデミーの会員に推挙された。啓蒙思想家たちと親交を深め、百科全書に独占的買占などの経済学の論稿を掲載した。1770年代には解析を中心とする数学の理論研究の傍ら、1774年から1776年にかけて財務総監ジャック・テュルゴーの片腕として政治改革に関わる。

  • テュルゴーの改革は挫折に終わったが、政治と科学双方を射程に入れたコンドルセの思想はその後深化を遂げ、1780年代に「道徳政治科学の数学化」もしくは「社会数学」という学問プロジェクトに着手することとなる。道徳政治科学とは、当時まだ明確な学問的輪郭を与えられていなかった経済学の源流の一つであり、啓蒙の知識人達に共有されていた問題関心であるばかりか数学者達の関心をも集めていた。そこでコンドルセは、当時数学者ピエール=シモン・ラプラスらによって理論的な整備の進みつつあった確率論を社会現象に適用し、合理的な意思決定の指針を与えるような社会科学を目指したのである。1785年に出版された「多数決の確率に対する解析の応用試論」はその一環であった。この著作で彼はルソーの直接民主制を否定し、唯一の社会的義務とは、一般の「意志」に従うことではなく一般の「理性」に従うことだと論じて間接選挙制を支持している[1]。その結論を導くにあたっての理論的準備として確率に関する哲学的な議論も行い、信念の根拠としての確率という今日でいえば確率の主観説に近い立場を提示した。また、後に社会選択理論で「コンドルセのパラドクス」もしくは投票の逆理と呼ばれるものを一般化して提示した。

  • しかし、フランス革命の混乱による中断等で社会数学の試みは未完成に終わり、20世紀初頭までその内容と射程が正確に見直されることは少なかった。その一因には19世紀を通じて大きな影響をふるった実証主義の祖であるオーギュスト・コントコンドルセ評価が後世に与えた影響がある。「社会学」の創始者であるコントは、自らの「精神的父」としてコンドルセを挙げ、コンドルセの政治思想や歴史観を再解釈して評価した一方で社会現象の記述に数学を適用することを全く認めなかったのである。数学者からの低い評価も同様に影響した。唯一まとまった形で出版された1785年の「多数決の確率に対する解析の応用試論」が複雑な解析計算を展開する割にはごく一般的な結論しか導けていないことが批判の的となり、20世紀初頭、カール・ピアソンにより再評価されるまで忘れ去られることになったのである。

  • 今日定着しているコンドルセのイメージは革命期以降の社会的・政治活動に由来するものが多い。彼は人類愛と資本寡占への批判をも含む人道的汎人文主義者として1788年に「黒人友の会」出稿。1789年のフランス革命ではパリ・コミューン役員となり、1790年にはアベ・シェイエスらと1789年協会を設立、ヴァレンヌ事件以降、共和主義者の論客となり、1781年9月立法議会にパリから選出され、公共教育委員会議長となっている。1792年9月国民公会議員となり、議長を経て、憲法委員会に入り1793年2月ジロンド憲法草案を議会に上程。しかしながら同年のパリコミューンの事件でジロンド派は没落。

  • 6月14日山岳派憲法が可決。恐怖政治に反対したため7月8日逮捕令状が発せられ、ヴェルネ夫人宅の9月間の隠遁生活中のとき「人間精神進歩の歴史」を執筆。その後、令状通りに逮捕され獄中で自殺。51歳だった。

「人間精神進歩の歴史」は、オーギュスト・コント社会学の基礎となる小論で、人間の精神は、天文学、占星学、純粋数学、神学といった人間の精神と社会活動から離れている学的領域から、やがて文学、経済学、論理学、社会科学といった人間の行動と生活を論理的に究明する人文科学へと発展し、そうした進化の延長線上において初めて心理学や社会科学が生まれるとする。

フランスの啓蒙主義者達は自分達を「ギリシャ・ローマ文明の時代の古代民主制の再建車と認識していましたが、実際には「ヘレニズム文化が生んだコスモポリタン精神の継承者」だったとも。

そしてオーギュスト・コントの科学者独裁構想には、現代人の観点からすればもう一つ根本的欠陥が存在していました。彼は数学者でもあったコンドルセから出発しながら「人類を統制するのはあくまで数理ではなく、哲学でなければならない」という立場に執着し続け、自らの学問体系からも数学の排除に努めたのです。「社会」には統計学の普及を通じて発見された側面もあったにも関わらずです。

こうして欧州大陸側が「政治の時代」にあった頃、英国論壇を支配していたのは全く別種の議論でした。そしてフランス啓蒙主義の破綻を尻目に博物学が進化論へとリニューアルを遂げるのです。

マルサス「人口論(An Essay on the Principle of Population、1798年〜1826年)」

トマス・ロバート・マルサスによる人口学の古典的著作。正確な題名は、初版と第二版以降で以下のように異なる。

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  • 初版「人口の原理に関する一論 ゴドウィン氏、コンドルセー氏、その他の諸氏の研究に触れて社会の将来の改善に対する影響を論ず(An Essay on the Principle of Population, as it affects the future improvement of society, with remarks on the speculations of Mr. Godwin, M. Condorcet and other writers.、1798年)」

  • 二版以降「人口の原理に関する一論、または人類の幸福に対する過去および現在の影響についての見解:人類の幸福に対する影響を引き起こす悪徳の将来の除去や緩和についての見通しの研究による(An Essay on the Principle of Population, or, a View of its past and present effects on human happiness : with an inquiry into our prospects respecting the future removal or mitigation of the evils which it occasions.、1803年〜1826年)」

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著者のトマス・ロバート・マルサスは古典経済学の発展に寄与した経済学者であった。

  • 1766年2月13日に牧師の家庭に生まれ、ケンブリッジ大学で学んだ。

  • 1798年に『人口論』を執筆した当時、イギリスではフランスとの戦争や物価の高騰などの経済問題が出現しており、対策として救貧法改正の是非が議論されていた時期であった。またフランス革命の影響で、ウィリアム・ゴドウィンらの啓蒙思想家により、社会改良による貧困や道徳的退廃の改善の実現が主張されていた。このような情勢の中でマルサスは人口の原理を示すことで革新派の理想主義を批判しようとした。

  • 初版は匿名で出版され大きな反響を呼んだ。1803年には大幅な訂正や増補を加えて、著者名を付けて第二版を出版した。以後、版を重ねるごとに増補を加えて1826年に出した最後の第六版では初版の約五倍の語数に達している。

  • ケインズは、マルサスの評伝の中で、初版を「方法において先験的かつ哲学的、文体は大胆にして修辞的、華麗な言い回しと情緒に富んでいる」と評したが、第二版以降は「政治哲学は経済学にその席をゆずり、一般原理は社会学的歴史の先駆者による帰納的検証に圧倒され、青年の頃の輝かしい才気と盛んな意気は消えうせている」と記述した。

まずマルサスは基本的な二個の自明である前提を置くことから始める。

  • 第一に食糧(生活資源)が人類の生存に必要である。
  • 第二に異性間の情欲は必ず存在する。

この二つの前提から導き出される考察として、マルサスは人口の増加が生活資源を生産する土地の能力よりも不等に大きいと主張し、人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する、という帰結を導く。

  • 人口は制限されなければ幾何級数的に増加するという原理は理論上における原理である。風俗が純潔であり、生活資源が豊富であり、社会の各階層における家族の生活能力などによって人口の増殖力が完全に無制限であることが前提になっている。この理論的仮定において繁殖の強い動機づけが社会制度や食料資源によって一切抑制されないならば、人口増は現実の人口状況より大きいものになると考えられる。

  • ここでマルサスは米国において、より生活資源や風俗が純潔であり、早婚も多かったために、人口が25年間で倍加した事例を示し、この増加率は決して理論上における限界ではないが、これを歴史的な経験に基づいた基準とする。そこで人口が制約されなければ25年毎に倍加するものであり、これは幾何級数的に増加することと同義である。

  • 生活資源は算術級数的にしか増加しないという原理は次のような具体的な事例で容易に考察できる。ある島国において生活資源がどのような増加率で増加するのかを考察すると、まず現在の耕作状況について研究する必要がある。もし最善の農業政策によって開拓を進め、農業を振興し、生産物が25年で2倍に増加したという状況を想定する。このような状況で次の25年の間に生産物を倍加させることは、土地の生産性から考えて技術的に困難であると考えられる。つまりこのような倍加率を指して算術級数的な増加と述べることができる。この算術級数的な生活資源の増加は人口の増加と不均衡なものであると考えられる。

次にマルサスはこのような人口の飛躍的な増加に対する制限が、どのような結果をもたらすかを考察している。

  • 動植物については本能に従って繁殖し、生活資源を超過する余分な個体は場所や養分の不足から死滅していく。

  • 人間の場合には動植物のような本能による動機づけに加えて、理性による行動の制御を考慮しなければならない。つまり経済状況に応じて人間はさまざまな種類の困難を予測していると考える。このような考慮は常に人口増を制限するが、それでも常に人口増の努力は継続されるために人口と生活資源の不均衡もまた継続されることになる。人口増の制限は人口の現状維持であり、人口の超過分の調整ではない。

  • このような事実から人口増の継続が、生活資源の継続的な不足をもたらし、したがって重大な貧困問題に直面することになる。なぜなら人口が多いために労働者は過剰供給となり、また食料品は過少供給となるからである。このような状況で結婚することや、家族を養うことは困難であるために人口増はここで停滞することになる。安い労働力で開墾事業などを進められることで、初めて食料品の供給量を徐々に増加することが可能となり、最初の人口と生活資源の均衡が回復されていく。社会ではこのような人口の原理に従った事件が反覆されていることは、注意深く研究すれば疑いようがない。

  • このような変動がそれほど顕著なものとして注目されていない理由は歴史的知識が社会の上流階級の動向に特化していることが挙げられる。社会の全体像を示す、民族の成人数に対する既婚者数の割合、結婚制度による不道徳な慣習、社会の貧困層と富裕層における乳児の死亡率、労賃の変化などが研究すべき対象として列挙できる。このような歴史は人口の制限がどのように機能していたのかを明らかにできるが、現実の人口動向ではさまざまな介在的原因があるために不規則にならざるをえない。

  • マルサスの悲観的予言にも拘らず以降人口爆発が起こったが、特に先進国では食糧不足も起こっていない。このような結果をもたらしたのは科学技術の発展により、農作物の生産量やその輸送方法が劇的に改善したからと考えられている。なかでも、ハーバー・ボッシュ法などによって化学肥料が発明された事の役割がきわめて大きい。

ちなみに18世紀リベルタン(libertin:信仰を放棄した放蕩児。ありとあらゆる既存秩序を軽蔑し、刹那的な快楽のみに人生の救済を求める涜神的な退廃貴族)の掉尾を飾るマルキ・ド・サドはこの著作に触れ「フランス全体が人口爆発によって破滅を免れる為、王侯貴族や聖職者が毒の散布による庶民の間引きを敢行する」という設定を好んで使う様になった。どうやらそうした試みについての議論が流行していたらしい。

ダーウィン(Charles Robert Darwin、1809年〜1882年)の「進化論(Darwinism)」

イギリスの自然科学者。卓越した地質学者・生物学者で、種の形成理論を構築。

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  • 全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけて、彼が自然選択と呼んだプロセスを通して進化したことを明らかにした。

  • 進化の事実は存命中に科学界と一般大衆に受け入れられた一方で、自然選択の理論が進化の主要な原動力と見なされるようになったのは1930年代であり、自然選択説は現在でも進化生物学の基盤の一つである。また彼の科学的な発見は修正を施されながら生物多様性に一貫した理論的説明を与え、現代生物学の基盤をなしている。

  • 進化論の提唱の功績から今日では生物学者と一般的に見なされる傾向にあるが、自身は存命中に地質学者を名乗っており、現代の学会でも地質学者であるという認識が確立している。

エディンバラ大学で医学、ケンブリッジ大学キリスト教神学を学んでいるときに自然史への興味を育んだ。そして5年にわたるビーグル号での航海によって、チャールズ・ライエルの斉一説を理論と観察によって支持し、著名な地理学者となった。またその航海記によって人気作家としての地位を固めた。

  • ビーグル号航海で集めた野生動物と化石の地理的分布は彼を悩ませ、種の変化の調査へと導いた。そして1838年に自然選択説を思いついた。そのアイディアは親しい数人の博物学者と議論されたが、より広範な研究に時間をかける必要があると考えた。

  • 理論を書き上げようとしていた1858年にアルフレッド・ラッセル・ウォレスから同じアイディアを述べた小論を受け取り、二人の小論は即座に共同発表された。「種の起源(1859年)」は自然の多様性のもっとも有力な科学的説明として進化の理論を確立。『人間の由来と性に関連した選択』、続く『人及び動物の表情について』で人類の進化と性選択について論じた。植物に関する研究は一連の書籍として出版され、最後の研究はミミズが土壌に与える影響について論じている。

  • ダーウィンの卓越性が認められた結果、19世紀において王族以外で国葬が執り行われた五人のうちの一人となった。ウェストミンスター寺院でジョン・ハーシェルアイザック・ニュートンの隣に埋葬されている。2002年BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第4位となった。

1809年2月12日にイングランドシュロップシャーシュルーズベリーにて、裕福な医師で投資家だった父ロバート・ダーウィンと母スザンナ・ダーウィンの間に、6人兄弟の5番目の子供(次男)として生まれた。父方の祖父は高名な医師・博物学者であるエラズマス・ダーウィンであり、母方の祖父は陶芸家・企業家であるジョサイア・ウェッジウッドである。

  • 祖父同士は博物学者として、父ロバートと叔父ジョサイア2世(母スザンナの弟)は実業家としてダーウィン家とウェッジウッド家は親密であり、両親など数組の婚姻が結ばれ、近しい姻戚関係にあった。母スザンナはダーウィンが8歳の時に没し、キャロラインら3人の姉が母親代わりをつとめた。ロバートは思いやり深かったが、妻の死によって厳格さを増し、子供たちには厳しく接することもあった。
  • ウェッジウッド家はダーウィンの誕生当時は既に英国国教会を受け入れていたが、両家とも元々は主にユニテリアン教会の信徒だった。ダーウィン家はホイッグ党の急進的でリベラルな考え方に同調していた。一族の男性は密かな自由思想家で非宗教的だったが、父ロバートはしきたりに従って子どもたちに英国国教会で洗礼を受けさせた。しかしダーウィンは兄妹や母と共にユニテリアンの教会へ通った。

ここでまさかのユニテリアン。英国産業革命を主導したマンチェスター新興資本家階層をも精神的に支えてきたユニテリアン。

  • 子供のころから博物学的趣味を好み、8歳の時には植物・貝殻・鉱物の収集を行っていた。父ロバートは祖父とは異なり博物学に興味はなかったが、園芸が趣味だったため幼少のダーウィンは自分の小さな庭を与えられていた。また祖父と同名の兄エラズマスは化学実験に没頭しておりダーウィンに手伝わせた。ダーウィンは兄をラズと呼んで慕った。

  • 1818年からシュルーズベリーの寄宿舎校で学んだ後、16歳(1825年)の時に父の医業を助けるため親元を離れエディンバラ大学で医学と地質学を学ぶ。地質学のロバート・ジェームソン教授はジェームズ・ハットンの考え方を冷たく批判し、学生のダーウィンはそれを信じた。しかし、血を見ることが苦手で、麻酔がまだ導入されていない時代の外科手術になじめず、また昆虫採集などを通じて実体験に即した自然界の多様性に魅せられていたことから、アカデミックな内容の退屈な講義になじめず、学位を取らずに1827年に大学を去ることになる。

  • この頃、南米の探検旅行に同行した経験がある黒人の解放奴隷ジョン・エドモンストーンから動物の剥製製作術を学んだ。ダーウィンは彼を「非常に感じが良くて知的な人」と慕った。これは後にビーグル号の航海に参加し生物標本を作る際に役立った。2学年目にはプリニー協会(急進的な唯物論に魅せられた博物学の学生たちのクラブ。古代ローマ博物学者大プリニウスにちなむ)に所属し、海生生物の観察などに従事。ロバート・グラントの海洋無脊椎動物の生活環と解剖学の研究を手伝った。ある日、グラントはジャン=バティスト・ラマルクの進化思想を称賛。ダーウィンは驚いたが、その頃祖父の著作を読み類似した概念を、そしてその考えが論争的であることを知っていた。大学の博物学の授業は地質学の火成説と水成説論争などを含んでいたが退屈だった。また植物の分類を学び、当時ヨーロッパで最大のコレクションを誇ったエディンバラ大学博物館で研究を手伝った。

  • エディンバラ大学で良い結果を残せず、父はダーウィンを牧師とするために1827年ケンブリッジ大学クライスト・カレッジに入れ、神学や古典、数学を学ばせた。ダーウィンは牧師なら空いた時間の多くを博物学に費やすことが出来ると考え父の提案を喜んで受け入れた。しかしケンブリッジ大学でも、はとこウィリアム・ダーウィン・フォックスとともに必修ではなかった博物学や昆虫採集に傾倒した。フォックスの紹介で聖職者・博物学者ジョン・スティーブンス・ヘンズローと出会い親しい友人、弟子となる。学内では、ヘンズローが開設した庭園を二人でよく散歩していたことで知られていた。後にヘンズローとの出会いについて、自分の研究にもっとも強い影響を与えたと振り返っている。また同じく聖職者で地層学者だったアダム・セジウィッグに学び、層序学に並々ならぬ才能を発揮した。同時に当時のダーウィンは神学の権威ウィリアム・ペイリーの『自然神学』を読み、デザイン論(全ての生物は神が天地創造の時点で完璧な形でデザインしたとする説)に納得し信じた。自然哲学の目的は観察を基盤とした帰納的推論によって法則を理解することだと記述したジョン・ハーシェルの新しい本や、アレキサンダーフンボルトの科学的探検旅行の本を読んだ。彼らの「燃える熱意」に刺激され、熱帯で博物学を学ぶために卒業のあと同輩たちとテネリフェへ旅行する計画を立て、その準備としてアダム・セジウィッグのウェールズでの地層調査に加わった。また、ビーグル号で博物学者としての任務を果たす準備ともなった。

  • この時代には音楽や狩猟(ただし、後者は後に「残酷だから」とやめることになる)を趣味としていた。また一年目の1827年夏にはジョサイア2世やその娘で将来の妻になるエマ・ウェッジウッドヨーロッパ大陸に旅行し、パリに数週間滞在している。これは最初で最後のヨーロッパ大陸滞在だった。

1831年に中の上の成績でケンブリッジ大学を卒業。 多くの科学史家はこの両大学時代をダーウィンの人生の中でも特に重要な時期だったと見ているが、本人はのちの回想録で「学問的にはケンブリッジ大学も(エディンバラ大学も)得る物は何もなかった」と述べている。

  • 1831年ケンブリッジ大学を卒業すると、恩師ヘンズローの紹介で、同年末にイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船することになる。父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型のブリッグ船は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対したが、叔父ジョサイア2世の取りなしで参加を認めた。専任の博物学者は他におり、ロバート・フィッツロイ艦長の会話相手のための客人としての参加だったため、海軍の規則にそれほど縛られることはなかった。しかし幾度か艦長と意見の対立があり、のちに「軍艦の中では、艦長に対して 通常の範囲で意見表明するのも反乱と見なされかねなかった」と述べている。

  • ビーグル号は1831年12月27日にプリマスを出航した。南米に向かう途中にカーボヴェルデに寄港した。ダーウィンはここで火山などを観察し、航海記録の執筆を始めている。そのあと南米東岸を南下しバイーアを経てリオデジャネイロに立ち寄ると、正式な「艦の博物学者」だった艦医マコーミックが下船したため、非公式ながらダーウィンがその後任を務めることになった。ビーグル号が海岸の測量を行っている間に、内陸へ長期の調査旅行をたびたび行っている。モンテビデオを経て出航からおよそ1年後の1832年12月1日にはティエラ・デル・フエゴ島についた。ビーグル号はこの島から若い男女を連れ帰り、宣教師として教育し連れ帰ってきていたが、ダーウィンフエゴ島民と宣教師となった元島民の違いにショックを受けた。フエゴ島民は地面に穴を掘ったようなところに住み、まるで獣のようだ、と書き記している。東岸の調査を続けながら1834年3月にフォークランド諸島に立ち寄ったとき、ヘンズローから激励と標本の受け取りを知らせる手紙を受け取った。

  • 1834年6月にマゼラン海峡を通過し、7月に南米西岸のバルパライソに寄港した。ここで病に倒れ1月ほど療養。ガラパゴス諸島のチャタム島(サン・クリストバル島)に到着したのは1835年9月15日であり、10月20日まで滞在した。当時のガラパゴス諸島は囚人流刑地。諸島が地質学的にそう古いものとは思えなかったため(現在ではおよそ500万年と考えられている)、最初ゾウガメは海賊たちが食料代わりに連れてきたものだと考えていたが、ガラパゴス総督からゾウガメは諸島のあちこちに様々な変種がおり、詳しい者なら違いがすぐに分かるほどだと教えられ、初めてガラパゴス諸島の変種の分布に気づいた。なお、この時、ダーウィンガラパゴス諸島から持ち帰ったとされるガラパゴスゾウガメ、ハリエットは175歳まで生き、2006年6月22日に心臓発作のため他界している。

  • 一般にはガラパゴス諸島ダーウィンフィンチの多様性から進化論のヒントを得たと言われているが、ダーウィンの足跡を研究したフランク・サロウェイによれば、ダーウィンガラパゴス諸島滞在時にはゾウガメやイグアナ(ガラパゴスリクイグアナおよびウミイグアナ)、マネシツグミにより強い興味を示した。しかしまだ種の進化や分化に気がついていなかったので、それは生物の多様性をそのまま記載する博物学的な興味だった。鳥類の標本は不十分にしか収集しておらず、それらが近縁な種であるとも考えておらず(ムシクイなど別の鳥の亜種だと考えていた)、どこで採取したかの記録も残していなかった。ガラパゴス総督から諸島の生物の多様性について示唆を受けたときには既に諸島の調査予定が終わりつつあり、ダーウィンはひどく後悔している。鳥類標本については後に研究に際して同船仲間のコレクションを参考にせざるを得なかった。また標本中のフィンチ類やマネシツグミ類がそれぞれ近縁な種であると初めて発見したのは、帰国後に標本の整理を請け負った鳥類学者のジョン・グールドだった。

  • 1835年12月30日にニュージーランドへ寄港し、1836年1月にはオーストラリアのシドニーへ到着。その後、インド洋を横断し、モーリシャス島に寄港した後6月にケープタウンへ到着した。ここでは当時ケープタウンに住んでいた天文学者のジョン・ハーシェルを訪ねている。またヘンズローからの手紙によって、イギリスで自分の博学的名声が高まっていることを知らされた。セントヘレナ島ではナポレオンの墓所を散策している。8月に南米バイーアに再び立ち寄ったが天候の不良のため内陸部への再調査はかなわなかった。カーボヴェルデ、アゾレス諸島を経て1836年10月2日にファルマス港に帰着した。航海は当初3年の予定だったが、ほぼ5年が経過していた。

後にダーウィンは自伝で、この航海で印象に残ったことを三つ書き残している。

  • 一つは南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていく様子に気づいたこと。
  • 二つめは南米で今は生き残っていない大型の哺乳類化石を発見したこと。
  • 三つ目はガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほど南米のものに似ていること。

つまりダーウィンはこの航海を通して、南半球各地の動物相や植物相の違いから、種が独立して創られ、それ以来不変の存在だとは考えられないと感じるようになった。またダーウィンは、航海中にライエルの『地質学原理』を読み、地層がわずかな作用を長い時間累積させて変化するように、動植物にもわずかな変化があり、長い時間によって蓄積されうるのではないか、また大陸の変化によって、新しい生息地ができて、生物がその変化に適応しうるのではないかという思想を抱くに至った。

  • ダーウィンはこの航海のはじめには自分を博物学の素人と考えており、何かの役に立てるとは思っていなかった。しかし航海の途中で受け取ったヘンズローの手紙から、ロンドンの博物学者は自分の標本採集に期待していると知り自信を持った。サロウェイは、ダーウィンがこの航海で得た物は「進化の証拠」ではなく、「科学的探求の方法」だったと述べている。

  • ヘンズローが手紙をパンフレットとして博物学者たちに見せていた為、ダーウィンは帰国した時、すでに科学界で有名人だった。シュールズベリーの家に帰り家族と再会すると急いでケンブリッジへ行きヘンズローと会う。ヘンズローは博物学者がコレクションを利用できるようカタログ作りをアドバイスし、植物の分類を引き受けた。息子が科学者になれると知った父は息子のために投資の準備を始めた。ダーウィンは興奮しコレクションを調査できる専門家を探してロンドン中を駆け回った。特に保管されたままの標本を放置することはできなかった。

  • 12月中旬にコレクションを整理し航海記を書き直すためにケンブリッジに移った。最初の論文は南アメリカ大陸がゆっくりと隆起したと述べており、ライエルの強い支持のもと1837年1月にロンドン地質学会で読み上げた。同日、哺乳類と鳥類の標本をロンドン動物学会に寄贈した。鳥類学者ジョン・グールドはすぐに、ダーウィンクロツグミ、アトリ、フィンチの混ぜあわせだと考えていたガラパゴスの鳥たちを12種のフィンチ類だと発表した。2月にはロンドン地理学会の会員に選ばれた。ライエルは会長演説でダーウィンの化石に関するリチャード・オーウェンの発見を発表し、斉一説を支持する種の地理的連続性を強調した。

  • 1837年3月、仕事をしやすいロンドンに移住し、科学者やチャールズ・バベッジのような学者の輪に加わった。バベッジのような学者はその都度の奇跡で生命が創造されたのではなく、むしろ生命を作る自然法則を神が用意したと考えていた。ロンドンでダーウィンは自由思想家となっていた兄エラズマスと共に暮らした。エラズマスはホイッグ党員で、作家ハリエット・マティノーと親しい友人だった。マティノーは貧しい人々が食糧供給を越えて増えることができないように行われた、ホイッグ党救貧法改正の基礎となったトマス・マルサスのアイディアを推進した。またダーウィンの友人たちが不正確で社会秩序にとって危険だと言って退けたグラントの意見にも耳を傾けた。

  • ダーウィンの調査結果を議論するために行われた最初の会合で、グールドは異なる島から集められたガラパゴスマネシツグミが亜種ではなく別の種だったこと、フィンチのグループにミソサザイが含まれていたことを告げた。ダーウィンはどの標本をどの島から採集したか記録を付けていなかったが、フィッツロイを含む他の乗組員のメモから区別する事ができた。動物学者トーマス・ベルはガラパゴスゾウガメが島の原産であると述べた。3月中旬までにダーウィンは絶滅種と現生種の地理的分布の説明のために、「種が他の種に変わる」可能性を考え始めた。7月中旬に始まる「B」ノートでは変化について新しい考えを記している。彼はラマルクの「一つの系統がより高次な形態へと前進する」という考えを捨てた。そして生命を一つの進化樹から分岐する系統だと見なし始めた。「一つの動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理である」と考えた。

  • 種の変化に関する研究を発展させると同時に、研究の泥沼に入り込んでいく。まだ航海記を書き直しており、コレクションに関する専門家のレポートの編集も行っていた。ヘンズローの協力でビーグル号航海の動物記録の大著を完成させるための1000ポンドの資金援助を政府から引き出した。南アメリカの地質に関する本を通してライエルの斉一説が気の遠くなるような長い時間支持されてきた事を認める。

  • ヴィクトリア女王が即位したちょうどその日、1837年6月20日に航海記を書き終えたが修正のためにまだ出版できなかった。その頃ダーウィンは体の不調に苦しんでいた。9月20日に「心臓に不快な動悸」を覚えた。医者は全ての仕事を切り上げて2、3週間は田舎で療養するよう勧めた。ウェッジウッド家の親戚を訪ねるためにシュールズベリーを尋ねたが、ウェッジウッド家の人々は航海の土産話を聞きたがり休む暇を与えなかった。9ヶ月年上のいとこエマ・ウェッジウッドは病床の叔母を看護していた。ジョスおじ(ジョサイア・ウェッジウッド2世)は地面に沈み込んだ燃えがらを指して、ミミズの働きであることを示唆した。11月にロンドン地質学会でこの話を発表したが、これは土壌の生成にミミズが果たす役割を実証的に指摘した最初のケースだった。

  • ウィリアム・ヒューウェルが地質学会の事務局長に推薦。一度は辞退したが、1838年3月に引き受けた。ビーグル号の報告書の執筆と編集に苦しんでいたにもかかわらず、種の変化に関して注目に値する前進をした。プロの博物学者からはもちろん、習慣にとらわれず農民やハトの育種家などからも実際の経験談を聞く機会を逃さなかった。親戚や使用人、隣人、入植者、元船員仲間などからも情報を引き出した。最初から人類を推論の中に含めており、1838年3月に動物園でオランウータンが初めて公開されたとき、その子どもに似た振る舞いに注目。6月まで何日も胃炎、頭痛、心臓の不調で苦しんだ。残りの人生の間、胃痛、嘔吐、激しい吹き出物、動悸、震えなどの症状でしばしば何もすることができなくなった。この病気の原因は当時何も知られておらず、治癒の試みは成功しなかった。現在、シャーガス病、あるいはいくつかの心の病が示唆されているが、明らかになっていない。6月末にはスコットランドに地質調査のために出かけた。平行な「道」が山の中腹に三本走っていることで有名なグレン・ロイを観察した。後に、これは海岸線の痕だ、と発表したが、氷河期にせき止められてできた湖の痕だと指摘され自説を撤回することになった。この出来事は性急に結論に走ることへの戒めとなった。体調が完全に回復すると7月にシュールズベリーに戻った。

  • 姉キャロラインとエマの兄ジョサイア3世が1838年に結婚すると結婚を意識し始める。1838年7月に、動物の繁殖を書き留めたノートに将来の見通しについて二つの走り書きをした。“結婚”と“結婚しない”。利点には次のように書いた。「永遠の伴侶、年をとってからの友人……いずれにせよ犬よりまし」。欠点については次のように書いた。「本のためのお金が減る、おそろしいほどの時間の無駄」。

  • 結局11月にプロポーズし、1839年1月に結婚。父から戒められていたにもかかわらず自分の非宗教的な考えを話す。エマは受け入れたが、愛情を伝えあう手紙のやりとりで、二人の差異を共有しあう率直さをほめると同時に、自分のユニテリアンの強い信仰と夫の率直な疑念によって二人が来世で離ればなれにするかも知れないと懸念を打ち明けた。エマは信仰心が篤く「いくら追求しても答えが得られないこと、人が知る必要のないことにまで必要以上に科学的探求をもちこまないでほしい」とも書いている。ダーウィンがロンドンで家を探している間にも病気は続いた。エマは「もうこれ以上悪くならないで、愛しのチャーリー、私がいっしょにいてあなたを看病できるようになるまで」と手紙を書き、休暇を取るよう訴えた。結局ガウアー通りに家を見つけ、クリスマスにはその「博物館」へ引っ越した。1839年1月24日にロンドン王立協会の会員に選出され、5日後の1月29日にメアの英国国教会でユニテリアン式にアレンジされた結婚式が行われた。式が終わると二人はすぐに鉄道でロンドンへ向かった。12月には長男ウィリアムが誕生した。

1839年にはビーグル号航海の記録がフィッツロイ艦長の著作と合わせた三巻本の一冊として出版され好評を博した。これは1843年までに全五巻の『ビーグル号航海の動物学』として独立して出版され、その後も改題と改訂を繰り返した。続いて1842年から『ビーグル号航海の地質学』全三巻が出版された。

  • ロンドンで研究を続けているときに、トマス・マルサスの『人口論』第六版を読んで次のように述べている。「1838年11月、つまり私が体系的に研究を始めた15ヶ月後に、私はたまたま人口に関するマルサスを気晴らしに読んでいた。動植物の長く継続的な観察から至る所で続く生存のための努力を理解できた。そしてその状況下では好ましい変異は保存され、好ましからぬものは破壊される傾向があることがすぐに私の心に浮かんだ。この結果、新しい種が形成されるだろう。ここで、そして私は機能する理論をついに得た...(C.R.ダーウィン 『自伝』)」。マルサスは人間の人口は抑制されなければ等比数列的に増加し、すぐに食糧供給を越え破局が起きると主張した。ダーウィンはすぐにこれをド・カンドルの植物の「種の交戦」や野生生物の間の生存のための努力に応用して見直し、種の数がどのようにして大まかには安定するかを説明する準備ができていた。生物が繁殖のために利用できる資源には限りがあるので、好ましい変異を持った個体はより生き延び彼らの子孫にその変異を伝える。同時に好ましくない変異は失われるだろう。この結果、新種は誕生するだろう。1838年9月28日にこの洞察を書き付け、くさびのようなものと記述した。弱い構造は押し出され、適応的な構造は自然の経済の隙間に押し込められる。翌月一杯をつかって、農民がもっともすぐれた個体を繁殖へ用いるのと比較し、マルサス的自然が「可能性」によって変異を取り上げ、その結果「新たに獲得した構造のあらゆる部分は完全に熟練しており完璧だ」と述べた。そしてこのアナロジーを自分の理論でもっとも美しい部分と考えた。

  • 今や自然選択の理論のフレームワークが固まった。彼の研究は畜産学から植物の広範な研究まで含んだ。種が固定されていないという証拠の発見、アイディアの細部を洗練するための調査を行った。10年以上、この研究はビーグル号航海の科学的なレポートを出版するという主要な仕事の陰で行われていた。

  • 1842年のはじめにライエルに宛てて自分の考えを伝え、ライエルは盟友が「各々の種の始まりを見る事を拒否する」と記した。5月には3年の研究を経て珊瑚礁に関する研究を発表した。それから「ペンシルスケッチ」と題して理論を書き始めた。9月にはロンドンの不衛生と喧噪を避けてロンドン近郊のダウン村に引っ越した。1844年1月11日にジョセフ・ダルトン・フッカーに自分の理論を「殺人を告白するようなものですが」と添えて打ち明けた。フッカーは次のように答えた。「私の考えでは、一連の異なる点の生成と、漸進的な種の変化があったのかも知れない。私はどのように変化が起こったのかあなたの考えを聞けて嬉しい。こんなに早くこの問題で安心できるとは思わなかった。」

  • 7月までには早く死んだときに備えて「スケッチ」を230ページの「エッセイ」に拡張し、もしもの時には代わりに出版するよう妻に頼んだ。11月には匿名で出版された進化に関する著書『創造の自然史の痕跡』が幅広い論争を引き起こした。この本は一般人の種の変化に対する関心を引き起こし、ベストセラーとなった。ダーウィンはその素人のような地質学と動物学の議論を一蹴したが、同時に自身の議論を慎重に見直した。1846年には地質学に関する三番目の本を完成させた。それから海棲無脊椎動物の研究を始めた。学生時代にロバート・グラントとともに行ったように、ビーグル号航海で収集したフジツボを解剖し分類した。美しい構造の観察を楽しみ、近縁種と構造を比較して思索した。

  • 1847年にフッカーはエッセイを読み、ダーウィンが望んだ重要な感想を書き送ったが、継続的な創造行為へのダーウィンの反対に疑問を呈し、まだ賛同しなかった。1851年にはもっともかわいがっていた娘のアニーが10歳で死去した。8年にわたるフジツボの研究は理論の発展を助けた。彼は相同性から、わずかに異なった体の器官が新しい環境で必要を満たすように十分機能することを発見した。またいくつかの属でオスが雌雄同体個体に寄生していることを発見し、二性の進化の中間的な段階を示していることに気付いた。

  • 1848年には父ロバートが没した。医者として成功した父をダーウィンは生涯敬愛していた。この頃のダーウィン家は父や叔父の残した財産の運用で生計を立てていた。100ポンドで中流の暮らしができた当時に、夫妻は父と叔父から900ポンドの支援を受けていて、晩年には年8000ポンドの運用益があったと言われる。ダーウィンと同じように医者を目指し挫折した兄エラズマス(Erasmus)ものちにダウンに移住し、父の遺産で優雅な隠遁生活を送っていた。1850年には世界航海から帰国したトマス・ハクスリーと知り合っている。

  • 1853年に王立協会からロイヤル・メダルを受賞し、生物学者としての名声を高めた。

1854年に再び種の理論の研究を始め、11月には子孫の特徴の差異が「多様化された自然の経済の位置」に適応していることで上手く説明できると気付いた。

  • 生物の進化は、すべての生物は変異を持ち、変異のうちの一部は親から子へ伝えられ、その変異の中には生存と繁殖に有利さをもたらす物があると考えた。そして限られた資源を生物個体同士が争い、存在し続けるための努力を繰り返すことによって起こる自然選択によって引き起こされると考えた。

  • 遺伝についてはパンゲン説(パンゲネシス)という説を唱えて説明した。これは「ジェミュール(Gemmules)」という微小な粒子が体内を巡り、各器官で獲得した情報を蓄え、生殖細胞に集まり、特徴・形質が子に受け継がれ、子の体において各器官に分散することで親の特徴を伝える、という説である。ダーウィンは、ラマルクと同じように獲得形質の遺伝を支持していたのである。

  • メンデルの遺伝の法則は当時まだ知られていなかった。当時は遺伝物質の融合説(遺伝を伝える物質があったとしても、それは子ができる過程で完全に融合する)が広く知られていたが、ダーウィンメンデルが行った実験と同じように、スイートピーの交雑実験で形質が必ずしも融合するわけではないとつき止めていた。しかしフリーミング・ジェンキンが行った変異は融合するから集団中に維持されないという批判に上手く応えることができず生涯ダーウィンを悩ませた。また変異がどのように誕生するのかを説明することもできなかった。ダーウィンは当時の多くの科学者と同じく進化と発生を区別しておらず、食物や発生中の刺激によって新たな変異が生まれると考えた。この問題は後に突然変異が発見されるまで解決されなかった。

  • 自然選択を万能な物と見なしたウォレスはクジャクの羽やゴクラクチョウの長い尾羽など、一見生存の役に立ちそうもない性質にも適応的な意味があるのだろうと考えた。ダーウィンはその可能性を否定もしなかったが、多くの生物で雌がパートナー選びの主導権を握っていることに気づいており、生存に有利でない性質も雌の審美眼のようなもので発達することがあるのではないかと考えた。そして自然選択説とは別に性選択説を唱えた。さらに性比(多くの生物で雄と雌の比率が1対1になるが、一部の生物では偏りがあること)や性的二型の問題を初めて科学的に考察する価値があると考えた。特に性比に関しては生物進化の視点から説明できると考え、後に頻度依存選択(頻度依存淘汰、生存と繁殖可能性が自然環境に左右されるのではなく、グループ中のその性質の多寡に依存する、つまりある性質が「少数派である」ことだけで生存と繁殖に有利に働くこと)と呼ばれることになる概念を先取りしていた。しかし、これらの問題は複雑なので後世に残した方が安全だろうとのべ、明確な答えを残さなかった。

  • 新たな種が形成されるメカニズムを種分化と呼んだが、どのようなメカニズムでそれが起きるのかは深く追求しなかった。そのため彼の死後、自然選択だけで種分化が起きるかどうかで議論が起こった。

1856年のはじめには卵と精子が種を海を越えて拡散するために海水の中で生き残れるかどうかを調べていた。フッカーはますます種が固定されているという伝統的な見方を疑うようになったが、彼らの若い友人トマス・ハクスリーははっきりと進化に反対していた。ライエルは彼らの問題意識とは別にダーウィンの研究に興味を引かれていた。ライエルが種の始まりに関するアルフレッド・ウォレスの論文を読んだとき、ダーウィンの理論との類似に気付き、先取権を確保するためにすぐに発表するよう促した。ダーウィンは脅威と感じなかったが、促されて短い論文の執筆を開始した。困難な疑問への回答をみつけるたびに論文は拡張され、計画は『自然選択』と名付けられた「巨大な本」へと拡大した。ダーウィンはボルネオにいたウォレスを始め世界中の博物学者から情報と標本を手に入れていた。アメリカの植物学者エイサ・グレイは類似した関心を抱き、ダーウィンはグレイに1857年9月に『自然選択』の要約を含むアイディアの詳細を書き送った。12月にダーウィンは本が人間の起源について触れているかどうか尋ねるウォレスからの手紙を受け取った。ダーウィンは「偏見に囲まれています」とウォレスが理論を育てることを励まし、「私はあなたよりも遥かに先に進んでいます」と付け加えた。

  • 1858年6月18日に「変異がもとの型から無限に離れていく傾向について」と題して自然選択を解説するウォレスからの小論を受け取ったとき、まだ『自然選択』は半分しか進んでいなかった。「出鼻をくじかれた」と衝撃を受けたダーウィンは、求められたとおり小論をライエルに送り、ライエルには出版するよう頼まれてはいないがウォレスが望むどんな雑誌にでも発表すると答えるつもりですと言い添えた。その時ダーウィンの家族は猩紅熱で倒れており問題に対処する余裕はなかった。結局幼い子どもチャールズ・ウォーリングは死に、ダーウィンは取り乱していた。この問題はライエルとフッカーの手に委ねられた。二人はダーウィンの記述を第一部(1844年の「エッセー」からの抜粋)と第二部(1857年9月の植物学者グレイへの手紙)とし、ウォレスの論文を第三部とした三部構成の共同論文として1858年7月1日のロンドン・リンネ学会で代読した。

  • ダーウィンは息子が死亡したため欠席せざるをえず、ウォレスは協会員ではなくかつマレー諸島への採集旅行中だった。この共同発表は、ウォレスの了解を得たものではなかったが、ウォレスを共著者として重んじると同時に、ウォレスの論文より古いダーウィンの記述を発表することによって、ダーウィンの先取権を確保することとなった。

  • この発表に対する関心は当初ほとんど無かった。8月に学会誌として印刷され、他の雑誌でも何度か取り上げられたため手紙とレビューがいくつかあったが、学会長は翌年の演説で革命的な発見が何もなかったと述べた。ダブリン大学のサミュエル・ホートーン教授は「彼らが新しいと考えた全ては誤りだった。正しいのは古い考え方だった」と述べた。ダーウィンは13ヶ月間、「巨大な本」の要約に取り組んだ。不健康に苦しんだが科学上の友人たちは彼を励ました。ライエルはジョン・マレー社から出版できるよう手配した。

1859年11月22日に発売された『種の起源』は予想外の人気を博した。初版1250冊以上の申し込みがあった。

  • もっともこれは自然選択説がすぐに受け入れられたからではない。当時、すでに生物の進化に関する著作はいくつも発表されており、受け入れられる素地はあった。この本は『創造の自然史の痕跡』よりも少ない論争と大きな歓迎とともに国際的な関心を引いた。病気のために一般的な論争には加わらなかったが、ダーウィンと家族は熱心に科学的な反応、報道のコメント、レビュー、記事、風刺漫画をチェックし、世界中の同僚と意見を交換した。

  • ダーウィンは人間については「人類の起源にも光が投げかけられる」としか言わなかったが、最初の批評は『痕跡』の「サルに由来する人間」の信条を真似して書かれたと主張した。

  • 初期の好ましい反応のひとつであるハクスリーの書評はリチャード・オーウェンを痛打し、以後オーウェンダーウィンを攻撃する側に加わった。オーウェンの反発は学問的な嫉妬が動機だったとも言われ、私的な交流も途絶えることになった。

  • ケンブリッジ大学の恩師セジウィッグも道徳を破壊する物だとして批判した(が、セジウィッグとは生涯友好的な関係を保った)。ヘンズローも穏やかにこれを退けた。

  • 進化論の構築に協力していたライエルはすぐには態度を明らかにせず、最終的には理論としてはすばらしいと評価したが、やはり道徳的、倫理的に受け入れることはできないと言ってダーウィンを落胆させた。『昆虫記』で知られるファーブルも反対者の一人で、ダーウィンとは手紙で意見の交換をしあったが意見の合致には至らなかった。

ダーウィンはあまりの反発の激しさに「この理論が受け入れられるのには種の進化と同じだけの時間がかかりそうだ」と述べた。しかしフッカー、トマス・ヘンリー・ハクスリーなどの支持者の支援を受けてこの学説は次第に社会における認知と影響力を拡大していったのである。

  • 博物学者のベイツやミュラーも支持者に名を連ね、進化論を補強する様々な資料を提供した。アメリカではハーバード大学の著名な植物学者だったエイサ・グレイが、ドイツではエルンスト・ヘッケルが進化論の普及に努めた。

  • 英国国教会の反応は様々だった。恩師セジウィッグとヘンズローはこの考えを退けたが、自由主義的な聖職者は自然選択を神のデザインの道具と解釈した。牧師、博物学者チャールズ・キングズレーは「まったく立派な有神論の概念」と見なした。1860年に出版された7人の英国国教会自由主義神学者による『エッセイ・アンド・レビュー』は創造説を痛烈に批判していたため、英国国教会の指導部によって異端と攻撃された。しかし、この本はダーウィンへの批判の注意をそらすことになった。その中でベーデン・パウエルは奇跡が神の法則を破り、彼らの信念は無神論的だと主張し、同時に「ダーウィン氏のすばらしい著作は自然の自己進化の力の壮大な原理[を支持する]」と称賛した。エイサ・グレイは目的論についてダーウィンと議論し、彼の有神論的進化と自然選択は自然神学と相反しないというパンフレットは輸入されて配布された。

  • 1860年にはオックスフォード大学で、ハクスリー、フッカーら支持者とウィルバーフォース大司教ら反対者による討論会が行われた。一般に知られるように、大司教が一方的に論破されたわけではなく(ウィルバーフォースは「種の変化に反対はしないが、ダーウィンの説明には反対である」と述べた。また生物学の知識がなかったため聖書と感情にのみ基づいて論じ、議論はかみ合わなかった)双方が勝利したと主張した。聴衆は立派に弁じた両者に盛大な拍手を送った。しかしこの討論は進化論の知名度を押し上げることになった。1877年、ケンブリッジ大学ダーウィン名誉博士号を贈った。

  • ウォレスが1858年に送った最初の手紙では(初めてウォレスがダーウィンに手紙を送ったのは1856年頃と言われる)、種は変種と同じ原理で生まれるのではないか、そして地理や気候の要因が大きいのではないか、という物だった(当時の創造論では種は神が作った不変なものだが、亜種や変種は品種改良などで誕生しうるという説が強かった)。しかし同年に再び送られてきた次の手紙ではマルサスの『人口論』が反映されておりダーウィン自然選択説に近いものになっていた。しかしこの頃ダーウィンは生態的地位や適応放散にまで考察が及んでいた。翌年出版された『種の起源』を読んだウォレスは「完璧な仕事で自分は遠く及ばない」と述べている。

  • ダーウィンの親しい友人グレイ、フッカー、ハクスリー、ライエルでさえ様々な留保を表明したが、それでも若い次世代の博物学者たちと供に常にダーウィンを支持し続けた。ハクスリーが宗教と科学の分離を主張する一方で、グレイとライエルは和解を望んだ。ハクスリーは教育における聖職者の権威に対して好戦的に論陣を張り、科学を支配する聖職者と貴族的なアマチュアの優位を転覆しようと試みた。この試みではオーウェンもハクスリーと同じ側にいたが、オーウェンは誤ったヒトと類人猿の脳の解剖学的差異に基づき、ハクスリーを「ヒトの類人猿起源」を主張したと告発した。もっともハクスリーはちょうどそれを主張していた。2年にわたるハクスリーのキャンペーンはオーウェンと「保守派」を追放することに劇的に成功した。

  • ダーウィンは自然選択の発見をウォレスに断りなく共同発表としたことを、手柄の横取りと受け止められることを畏れた。しかしウォレスはむしろその行為に満足し、ダーウィンを安心させた。自然選択以外は多くの点で意見を異にしていたにもかかわらず、ウォレスとダーウィンの友好的な関係は生涯続いた。しかし当事者以外でこの行為を誤解した者もおり、手柄を横取りしたという批判を避けることはできず、この形の批判は現在でも残存している[14]。ダーウィンは後年、生活に困窮していたウォレスを助けるため、グラッドストン首相に年金下付を働きかけるなど支援を行っている。

種の起源』は多くの言語に翻訳された。そしてハクスリーの講義に群がった様々な分野の次世代の研究者の関心を引きつけ、彼らの主要な科学のテキストとなった。ダーウィンの理論は当時の様々な運動に取り入れられ、大衆文化のカギとなった。ダーウィニズムという語は非常に広範な進化思想を含む用語となった。

  • 1863年のライエルの『Geological Evidences of the Antiquity of Man』は進化に批判的でダーウィンを落胆させたが、先史時代への大衆の関心を引いた。

  • 数週間後、ハクスリーの『自然における人間の位置』は解剖学的に人類は類人猿であることを示した。ヘンリー・ベイツは『アマゾン河の博物学者』で自然選択の経験的な証拠を提供した。友人たちの活動は1864年11月3日のダーウィンのコプリ・メダル受賞をもたらした。その日、ハクスリーは「科学の純粋さと自由、宗教的ドグマからの解放」を目指すXクラブの最初の会合を開いた。

人生の最後の22年間も病気の度重なる発作に悩まされたが研究を継続した。

  • 理論の要約として『種の起源』を出版したが、しかし「巨大な本」の論争的な面については十分に述べていなかった。論争的な面とは他の動物からの人類の誕生と、ヒトの精神能力・高い社会性の原因についてである。さらにまだ有用ではないが装飾的な美しさを持つ生物の器官について説明していなかった。娘が病気にかかったときには実験中だった植物や家畜をおいて一緒に海沿いの保養地へ行き、そこで野生のランに興味を引かれた。これは美しい花がどのように昆虫をコントロールし他家受粉を確実にするのかについて革新的な研究へと繋がった。フジツボと同様に相同器官は異なる種で異なる機能を持つ。家に帰るとツタ植物で一杯の部屋で病に伏した。この頃ダーウィンを訪れた客はドイツでダーヴィニスムスを広げたエルンスト・ヘッケルも含まれた。ウォレスはますます心霊主義の方向にのめり込んでいったが、それでも強力な支持者のままだった。ダーウィンの「巨大な本」の最初の部分は大きな二巻本、『植物の変異』に増大した。そのため人類の進化と性選択に関して記述することができなくなった。彼は自然選択に関する第二のセクションを書いたが存命中には未発表のままだった。

  • ライエルは人類の先史時代について論じ、ハクスリーは解剖学的にヒトが類人猿であることを示した。1871年にダーウィンは『人の由来と性に関連した選択』で多数の証拠を提示して人間と動物の精神的、肉体的連続性を示し、ヒトは動物であると論じた。そしてクジャクの羽のような非実用的な動物の特徴を説明する性選択を提案し、ヒトの文化進化、性差、身体的・文化的な人種間の特徴を性選択によって説明し、同時にヒトは一つの種であると強調した。絵や図を多用した研究は拡張され、翌1872年には『人と動物の感情の表現』を出版した。これは写真を利用した初期の本の一冊で、人間の心理の進化と動物行動との連続性を論じた。どちらの本も人気があり、ダーウィンは自分の意見が一般に受け入れられたことに感動し「誰でも衝撃を受けることなくそれについて話している」と述べた。

そしてダーウィンはこう結論した。「人類とその高貴な特性、困窮している人への同情、人間にとどまらずささやかな生命さえも慈しむ心、神のような知性、太陽系の運動と法則への理解、あるいはそのような全ての高尚な力、[とともに]人間はその体の中に未だつつましい祖先の痕跡を残している」。1882年明けから心臓に痛みを覚えるようになり体がいっそう不自由になる。1882年4月19日に、ケント州ダウン村の自宅で死去した。彼はダウン村のセントメアリー教会に葬られると考えていたが、同僚たちは科学の優位性を一般の人々に印象づける好機と見なした。フッカー、ハクスリー、ラボックといった友人たち、王立協会会長ウィリアム・スポティスウッド、フランシス・ゴルトンらは家族を説得し、報道機関に記事を書き、教会と王室、議会に働きかけた。ダーウィンは同年4月26日に国葬に付されウェストミンスター寺院に埋葬された。

  • ダーウィンは当時の多くの人と同じように人種平等主義者ではなく、また女性は能力が劣るとも考えていた。しかし一般的な差別主義を共有してはいなかった。人種間の生物学的な差異は非常に小さいので、人種を異なる生物種と考えるべきではないと主張していた。奴隷制度に反対し、ビーグル号艦長のフィッツロイと衝突したのも奴隷制度に対する意見の相違だった。フィッツロイが「(奴隷たちが)現在の状態に満足していると答えた。だから彼らは奴隷でいて幸せなのだ」と言ったのに対し、「主人の前でそう言ったのだから、本心かどうか分からない」と答えフィッツロイの怒りを買った。ブラジルでは主人による奴隷虐待の場面に遭遇しており、ブラジルを出航するときに、奴隷虐待を二度と見ることがないのがうれしく、この国は二度と訪れないだろうと書き残している。帰国後には奴隷解放運動を支援した。

  • また「いわゆる人種を異なる種としてランク付けする」ことに反対し、被支配国の人々を虐待することに反対した。当時の作家は自然選択を自由放任主義の弱肉強食の資本主義、人種差別、戦争、植民地主義帝国主義など様々なイデオロギーに用いた。しかしダーウィンの自然に対する全体論的な視点は「一つの存在の上に他が依存して存在する」であって、ピョートル・クロポトキンのような平和主義、社会主義自由主義的な社会改革、無政府主義と協力の価値を協調した。ダーウィン自身は社会政策が単純に自然の中の選択と闘争の概念から導かれてはならないと主張した。「社会ダーウィニズム」と言う用語は1890年頃から使われ出したが、1940年代にリチャード・ホフスタッターがウィリアム・サムナーのような改革や社会主義に反対した自由放任の保守主義を攻撃するために使い出すと軽蔑的な意味合いを持つようになった。それ以来、彼らが進化から導き出される道徳的結論と考えることに対して用いられる罵倒語となった。

  • 優生学に関してはいとこのフランシス・ゴルトンの1865年の議論に興味を覚えた。ゴルトンは遺伝の統計分析が道徳や精神的能力は遺伝することを明らかにし、動物の品種改良の原則は人間に応用できると主張した。『人間の由来』でダーウィンは弱い者が生きて家族を持つことは自然選択の利益を失うことになると指摘したが、弱者への援助を控えることはわれわれの同情の本能を危険にさらすと警告した。彼は人の共感能力や道徳心も自然選択によって形作られたと考え、現代でも道徳心が薄い人間は成功できないではないかと述べた。またダーウィンにとって教育はより重要だった。

  • ゴルトンが研究を出版し、「生まれつき能力がある人」の中で近親婚を推奨したとき、ダーウィンは実際的な困難を予想して「唯一実現可能な人種の改善計画だが、まだ夢想的だと恐れる」と述べ、単に遺伝の重要性を公表して個人に決定を任せる方を好んだ。ダーウィンの死後1883年にゴルトンはこの考えを優生学と名付け、同時に生物測定学を発展させた。自然選択説メンデル遺伝学によって一時的に失墜していたとき優生学運動は広範囲にひろがった。ベルギー、ブラジル、カナダ、スウェーデンアメリカ合衆国を含むいくつかの国で断種法の強制となった。特にナチの優生学ダーウィンのアイディアの信用を傷つけた。

  • 道徳や社会正義に関する概念を記述的にのべることは倫理的な「である-べきである」の問題を引き起こす。トマス・マルサスは資源供給を超えた人口増加が破綻をもたらすと主張した。これは1830年代に収容所や自由放任経済が正当化されるのに用いられた。進化は社会的含みがあると見なされていた。ジェームズ・スチワート・ミル経由で受けたオーギュスト・コントの影響が色濃いハーバート・スペンサーの『社会静学(1851年)』は人間の自由と個人の解放のアイディアの基盤にラマルク的進化の概念を用いた。ダーウィンの進化理論は「説明」の問題とされた。

ダーウィンは「ある動物が他の動物よりも高等だと言うのは不合理だ」と考え、進化は進歩ではなく目的もないと見なしたが、『種の起源』の出版のすぐあとから批判者は「生存のための努力」というダーウィンの説明をイギリス産業の資本主義をマルサス主義的に正当化するつもりだと言ってあざけった。そしてダーウィニズムという用語は自由市場の発展に関する「適者生存」と言う概念、エルンスト・ヘッケルの人種差別的な進化観など他の多くの進化に関する思想にも用いられていく。

あくまでこうした混沌とした状況下で「系統進化」論に到達した事こそが革新性。ここで興味深いのがそうしたダーウィンに対するマルクスエンゲルスの態度。

「人間原理の探求」渡辺久義

マルクシズムがいかにダーウィン進化論を頼りにしていたかは以下のエピソードからも伺える。もしダーウィンを疑うようなことを口にしたなら、エンゲルスはさぞ烈火のごとく怒ったであろう。

  • 種の起源(1859年)』を読んだマルクスエンゲルスはわが意を得たりと喜び、「イギリス人の書いたものだから」などと半ば軽蔑しながらも大歓迎している。その数年後『資本論』が出たとき、マルクスは署名本をダーウィンに送った。更に後、その英語版が出版されたとき、マルクスダーウィンにこれを献呈しようとしてご意向を伺ったが、どういうわけかダーウィンは断っている。

  • マルクスとほとんど一心同体の)エンゲルスにとっても、ダーウィンはきわめて有り難い存在であった。マルクスの葬式のときに読み上げた弔事の中で、彼はダーウィンを称えてこう言った。「カール・マルクスは百年にそう多くは出ない傑出した人物の一人でした。チャールズ・ダーウィンは地球上の生物界の発展法則を発見しました。マルクスはそれに従って、人間の歴史が自らを動かし発展させていくあの根本法則、同意を得るのに容易く、十分に単純で自明な、あの法則の発見者でした。」

  • 『空想から科学へ』の中でも、エンゲルスダーウィンを称えてこう言っている。「自然は結局においては形而上学的にではなく、弁証法的に動くものである。それは不断の循環運動をいつも同じようにくり返さない一つの現実の歴史なのである。この点で誰よりも先にあげられるべき名はダーウィンである。彼は、今日の一切の有機的自然、植物も動物もしたがってまた人間も、幾百万年にわたる絶え間ない進化の過程の産物であることを証明し、それによって自然についての形而上学的な見方に強烈な打撃を与えた。」(岩波文庫、五六頁)。「大工業と世界市場の成立はこの闘争を世界的にすると同時に、これを前代未聞のはげしいものとした。個々の資本家のあいだでも、全産業と全国家のあいだでも、自然的もしくは人為的生産条件のよしあしが、死活を決定する。敗者は容赦なく一掃される。これはまさにダーウィンの個体の生存競争だ。それが一層の凶暴さをもって、自然から社会へと移されたのである。」(同、七四頁)

今日エンゲルスの『自然弁証法』などは読むに耐えないが、エンゲルスと同じ言い方で(「法則を発見した」「証明した」!)、ほとんど同じことをくり返しているドーキンズは読むに耐えるのか?。

とはいえマルクスエンゲルスの評価は要するに「引き篭もって空想する事しか出来ないニートの英国人にしては良くやった」レベル。そもそも当時の英国における「博物学から進化論へ」の流れのうち、ダーウィンしか視野に入ってない当たりが視野狭窄というか、大陸的ヒューマニズム(英雄崇拝的人間中心主義)なのでしょう。それで後世の唯物史観においては「当時の英国でまともな研究をやっていたのはダーウィンくらいだったが、当然ながら偉大なるマルクスの足元にも及ばなかった」がコンセンサスとなっていきます。

ダーウィンによれば、進化のモメントとは自然選択=自然淘汰なのである。まだマルクスの想像の段階では、いらなくなったものが自然に朽ち果て、真に必要とされる社会の構造的な要素の民衆的な要求として、資本主義システムは共産主義に、自然発展として取って代るだろうということだった。ところがここで、マルクスは左翼の性質についてその本性を見誤っていたといえる。それは現在の社会において、左翼というのが具体的にはどういう拡がりをもって生態しているものなのかということを考えたときによく見えてくるだろう。現在では左翼の現実的生態性とは、自然淘汰的な進化論的志向とは、明らかに逆の在り方において実在しているものだからだ。そして左翼が社会的に「正しく」存在しうるとき、それは必ず進化主義的な自然選択の原理とは異なる、むしろ自然選択の原理に反逆する形で左翼が存在しているという事実である。

19世紀のこの当時、マルクスはまだ左翼とは進化主義と矛盾しないと考えていたのだ。現実の左翼とはどうだっただろう。左翼とは大体において二つの相対する傾向性を最初から、矛盾を抱えながら孕んでいるものだ。それは進化主義によって左翼革命が実現されると考える傾向の派と、逆に進化主義によって人間たちの中で自然淘汰されることを防ごうとする傾向の派である。進化主義によって自然淘汰されることを防ごうとする左翼の傾向とは、必然的に人権主義的になり、人々の間では平等を要求し、この世に生まれてきてしまった存在であるからには、無条件に我々の生存を肯定せよという要求の仕方になる。それに対して進化主義によって「より優秀な社会」へと導入していくことを革命だと考える派は、必然的に社会運動の手法においてマキャベリズム的なものを帯びてくることになる。
マルクスパリ・コミューン(仏Commune de Paris、英Paris Commune、1971年)に際して「プロレタリアート階層の代表を自称する急進派共和主義者によるブルジョワ階層に対する略奪と虐殺」を「まさに適者生存の法則の発動だ」と大絶賛する一方、逆にパリ・コミューン側が殲滅されて事態が収束するとフランス嫌いのドイツ人的立場から「人道的に考えて本来殲滅されるべきだったのは、フランスとフランス人の方だった。やがて歴史がそれを証明する」と予言した。実際のフランス共和政は皮肉にも赤旗(急進派共和主義者)を三色旗(王党派やブルジョワ階層とも共存を目指す穏健派共和主義者)が圧倒する形で始まったのだが「こんな不道徳的な妥協が長続きする筈がない」と決めつけた訳である。歴史のこの時点において共産主義は既にこんな矛盾を内包していたのだった。その系譜は「共産主義ベトナム民族の存続を許さない」と宣言してカンボジア国内における民族浄化に着手し、逆にベトナムの侵攻を招いて滅んだ「ポル・ポト政権の正義」にまで継承されていく。

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そういえば現在国際SNS上で主流をなしている「Meme(インターネット遺伝子)論」って、一応ドーキンズ起源とされてますが「それぞれのアカウントの投稿という具体的観察対象を社会学的に分析しようとする時、個々の共通因子を時系列に従って系統進化論的に扱うのが一番効率的」というだけで、オリジナルのドーキンズの主張なんて何%残ってるか分かったもんじゃありません。マルクスの主張にしたって、本当に歴史上に爪痕を残したのは「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」なんて考え方が当時としては斬新だった上部構造/下部構造論くらいで、今日なおその「唯物史観」とか「プロレタリアート階層の人間解放論(別名「ブルジョワと中産階層は殲滅対象」論)」に執着し続けてる人達って…

適者生存(survival of the fittest)

ハーバート・スペンサーが「Principles of Biology(1864年)」の中で発案した造語・概念、およびその影響をうけたチャールズ・ダーウィンの概念。

  • 元来は社会進化論の提唱者である哲学者のハーバート・スペンサーがに「Principles of Biology(1864年)」で発案した造語・概念であり、当時から広く知られ様々な人に影響を与えた。

  • この考え方を知ったチャールズ・ダーウィンは「種の起源 第6版(1872年)」で採り入れた。 ダーウィンの進化論においてはそれは「個々に生存競争(struggle for existence)に努める生物の個体のうち、最も環境に適した形質をもつ個体が生存の機会を保障される」と表現された。

  • その後、支持者によって「生物に変化をもたらすメカニズムを的確に表現する」と見なされ、普及した。ただし比喩的表現であって科学的な用語ではなく、生物学でこのメカニズムに対して用いられる語は「自然選択」である。
    *「自然選択」…種内のある個体の遺伝しうる形質が最も環境に適しているなら、その個体より増えた子孫は、その種の中で、より増え広がる確率が高くなる。結果的に現在生存している種は、環境に適応し増え広がることの出来た「最適者」の子孫ということになる。

  • 時に「適者=強者」と解されたり「弱肉強食」と言い換えられることもあるが、環境にもっとも適応した結果の適者という理論のため、「強い・弱い」といった価値尺度は意味がない。もちろん捕食者が「強」で被捕食者が「弱」であるという解釈も成り立たない。
    *この種の議論は古代ギリシャの著述家プラトンの手による『ゴルギアス』中のカリクレスの有名な弱肉強食説に対するソクラテスの反論などに見える。そもそも「弱肉強食」を「自然の掟」と見なすような素朴な自然観においてはダーウィンの学説を持ち出す必要すらない。

  • 「適者生存」における「適者」とは、この造語の発明者であるスペンサーにおいては個体の生存闘争の結果であるのに対し、ダーウィン自然選択説では個体それぞれに生まれつき定められている適応力に重点が置かれる。これは、進歩的社会思想と進化論を同一次元で考えたスペンサーが進化の原動力を個人の意識的な努力に求めたがったのに対し、ダーウィン自然選択説は本質的に決定論的であり、個体それぞれの生存闘争は確率論的な地平に取り込まれるべき理論であることを意味する。

ダーウィンはスペンサーの考察力を評価しつつ「彼が自然の観察により注意を払ってくれたなら」という趣旨のことを書簡で書いている。

そもそも前近代まで適者生存(survival of the fittest)理論は氏族間闘争(Clan wars)と関連付けて論じられてきた感があります。 

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現代人の感覚からすれば、当時どうしてそこまで強固な形で「適者生存(survival of the fittest)論」が「弱者必滅論」と結びつけられていったか想像だに出来ない側面があります。何しろ最後にはとうとう「最終戦争論」にまで辿り着いてしまうのです。とにかくこうした不安の高まりがやがて第一次世界大戦(1914年〜1918年)を引き起こす展開に。

そして「総力戦時代仮説の時代」が始まってしまうわけです。
*欧州においてはその開始時点においてやっと「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」からの完全脱却、すなわちロシア革命(1917年)、ドイツ革命(1918年〜1919年)、ハプスブルグ帝国とオスマン帝国の解体などが達成された。

国際的には以下を結びつけて一つの時代区分と考える仮説も存在する(総力戦体制論)。

  • 欧州先進諸国が第一次世界大戦(1914年〜1918年)期の総力戦で被った痛手の大きさは、当時激減した自由商品貿易が総生産額に占める割合が1970年代までそれ以前の水準に復帰する事はなかった」という統計的事実…日本の戦国時代でいうと「小氷河期到来に伴う全国規模での略奪合戦の激化」。

  • この時期における「万国の労働者が国境を越えて連帯しようとする世界革命志向と各国も成立した労働者主導主導型政権が政府の力で市場を制御下に置こうとする国家主義志向の衝突」…日本の戦国時代でいうと一向衆などの惣村土一揆の全国ネットワークと各地国人一揆の対立と共働。

  • 世界恐慌発生に伴って1930年代に進んだブロック経済化」…日本の戦国時代でいうとスケールメリットを追求する小田原北条家の様な新世代戦国武将の台頭と楽市楽座による御用商人選定過程。

  • 「冷戦発生に伴う世界の二分化」…日本の戦国時代でいうと織田信長包囲網の構築と挫折。

そしてこの仮説では現在を「既にその軛から脱しているが、次に目指すべき体制が見つかってない過渡期」と考える。

 

そういえばイアン・フレミングのスパイ小説「死ぬのは奴らだ (Live And Let Die、原作1954年、映画化1973年)」の中にこんなやり取りがあります。「我々のモットーは『我も生き、彼も生きる(Live and Let Live)』だ」「そんな甘っちょろい事言ってる側が滅びるんですよ。私のモットーは『我も生き、彼も生きる(Live And Let Die)』です」。冷戦時代の東西対立の雰囲気を良く表してますね。カール・シュミット流「敵友理論」の行き着く果て。第二次世界大戦(1939年〜1945年)が終わり、1950年代に突入してなお欧米諸国は相互不信に伴う緊張感の高まりから脱却出来ずにいたのでした。
*ちなみに最近の英語スラングでは「Live and Let Live」は「Live And Let Die」とほ同義で「そんな奴(死のうが生きようが)放っておけ」みたいなニュアンスに使われもするらしい。

*ちなみに1970年代といえばハリウッド大作映画凋落期。当時の映画人気を支えていた非白人系観客を呼び込むべく007映画にも「黒人搾取映画」や「カンフー映画」の要素がどんどん投入されるってオチまでついた。ジェームズ・ボンドの腕時計がカシオの電卓時計だったりもした時代。「カラー怪奇映画大手」ハマー・プロに至っては「ドラゴンVS.7人の吸血鬼(The Legend of the 7 Golden Vampires、1974年)」なる迷作を最後に店仕舞いを余儀無くされてしまうが、この試みが所謂「キョンシー映画」制作の発端となる。60年代後半のヒッピー運動の背後にもあった「欧米文明没落の予感」は実際にはこういう形で顕現する事になったのだった。

ただアメリカではこうした流れとは全く別の展開があったのでした。

  • 金鍍金時代(Gilded Age、1865年〜1873年)においてはスペンサーの社会進化論(Social Darwinism)と自由放任主義(laissez-faire)が深く結びつき、恐慌下における不況対策への反対運動といった形で足を引っ張っていた。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e5/The_Bosses_of_the_Senate_by_Joseph_Keppler.jpg

  • この状態の克服を「科学主義に目覚めた少数精鋭派の主導する改善運動」によって克服していったのがアメリカ進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1920年代)。その言動や振る舞いにはコントの「科学者独裁主義」といった欧州進歩主義思想との共通項が色濃く見て取れるが、実はこれまでその件が大きく取り上げられる事はなかった。何しろ当時についての分析では「アメリカで自然発生したアメリカ固有の動きである」と主張するホフスタッターら「愛国派」と「唯物史観などで予告された普遍的歴史展開である」と主張するルイス・ハーツら「社会自由主義派」の勢力関係が拮抗し、第三者が発言可能な状態になかったからである。
    リチャード・T・イーリーと革新主義期アメリカの民主主義

    http://www.americanyawp.com/text/wp-content/uploads/LoC-01990u-WJB-Shall-the-People-Rule1.jpg

  • 正直「この時期の動きは米国エリート階層の関心が社会進化論(Social Darwinism)および自由放任主義(laissez-faire)から社会自由主義(Social Liberalism)に推移していく過渡期に表面化した様々なベクトルの動きの集合に過ぎず、その全体像を俯瞰的に語るのは不可能」という意見すらある。何しろ後の経営工学につなっていく「効率改善運動」から悪名高き禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)制定まで含む動きだったのだから無理もない。

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  • ただどの運動も「(科学あるいは特定の宗教観に基づく)全体統制だけがアメリカを困難から救う」なる熱狂的信念に突き動かされて進行した点は共通する。しかも当時の論客の主張を分析すると(コンドルセから継承した)「社会有機体理論」や「進歩主義史観」さらには(サン=シモンとも重なる)「"砂状の個人"に連帯を訴える態度」といったコントの科学者独裁主義との共通因子が次々と発見されるのでる。
    *こうした人々は確かに民族主義的要素の強過ぎるドイツ歴史学派の主張を忌避しつつ「(19世紀フランスで流行し、サン・シモンやコントも熱中した)科学主義導入によるキリスト教的普遍倫理の強化運動」を積極的に摂取。目指していたのはあくまで「科学主義の達成」ではなく「(産業革命によって破壊された)伝統的コミュニティの復興」で、だからこそ社会進化論や自由放任主義だけでなく社会自由主義をも拒絶した。

なるほど。要するに全ての背景にあったのは「科学化によってリニューアル化されたジェフッァーソン流民主主義」だったのかもしれないという事ですね。
*ジェフッァーソン流民主主義(Jeffersonian democracy)…家父長制や奴隷制といった伝統的営為を死守すべく、中央集権介入を断固拒み続ける態度。現在では支持者が激減している。

http://lassiterhistory.weebly.com/uploads/5/8/7/3/58730895/_8579777.jpg?368

特に南部のそれは南北戦争(1861年〜1865年)によって一旦完全に破壊されたが、以降次第に復旧されてきた。KKKを美化したD.W.グリフィス監督「國民の創生(The Birth of a Nation、1915年)」が大ヒットとなり黒人迫害が激化したのもなさにこの進歩主義時代。全ては表裏一体の関係にあったという事?

<第12回> 『國民(こくみん)の創生(The Birth of A Nation)』 « なぜ『フォレスト・ガンプ』は怖いのか ― 映画に隠されたアメリカの真実 ―

<第13回>『國民の創生(The Birth of A Nation)』 « なぜ『フォレスト・ガンプ』は怖いのか ― 映画に隠されたアメリカの真実 ―

<第14回>『國民の創生(The Birth of A Nation)』 « なぜ『フォレスト・ガンプ』は怖いのか ― 映画に隠されたアメリカの真実 ―

そして思わぬところで思わぬ名前が出てきました。

スペンサーが社会ダーウィニズム(Social Darwnism)を用いて経済的、社会的不平等を正当化した極悪人というのは大いなる誤解である。リバタリアン雑誌『リーズン』の編集者デーモン・ルートの「ハーバート・スペンサーという不運な事例」によると、これはリチャード・ホフスタッターという極左の歴史家が書いた本「アメリカ思想における社会ダーウィニズム(Social Darwinism in American Thought、1944年)」が原因らしい。半ば意図的にスペンサーの評判を落とそうという記述に満ちていたようだ。

スペンサーの言葉として有名な「適者生存」的観点にしても、かれ自身はこのようなプロセスの過酷さは人間同士の自生的な思いやり(sympathy)によって和らげられるだろうし、そうであるべきだと述べていたという。また、スペンサーが初期のフェミニトスであり男女間の完全な法的、社会的平等を擁護していたこと、当時隆盛を誇った「帝国主義」を徹底的に批判していたことは特に強調しておく必要がある。つまり、スペンサーは「正義」の人だった。ルートはむしろ優生学的思考が当時「進歩派」と目されてきた人物に見られる点を指摘している。例えば進歩的大統領として著名なセオドア・ルーズベルトは黒人に選挙権を与えた憲法修正15条は間違いだったと述べたという。なぜなら、黒人は白人に対し20万年遅れているからだ!
セオドア・ルーズベルトはドイツ系アメリカ人やイタリア系アメリカ人についても似た様な事を言ってる。要するに「愛国的アメリカ人以外はいらない」主義者だったのである。また電話の発明で有名なグラハム・ベルも独特の優生学的思想の持ち主だった。

リチャード・ホフスタッター(Richard Hofstadter、1916年〜1970年)

アメリカ合衆国の政治史家。

  • ニューヨーク州バッファローユダヤ系の父とドイツ系の母の間に生まれる。1933年にバッファロー大学に入学し、哲学と歴史を専攻する。この修業時代、バッファロー大恐慌の重苦しい影響下にあり、その環境が若きホフスタッターの知的関心に寄与する。大学では青年共産主義同盟(The Young Communist League)に入り、1936年に結婚することになる左翼の女子学生フェリス・スウェイドスに出会う。コロンビア大学で修士、博士号を取得。

  • 1938年に「熱狂ではなく、義務感」から共産党に入党。1939年のソ連によるナチ・ドイツとの協定により、ホフスタッターはアメリカ共産党だけではなくソ連マルクス主義全般に対する幻滅を経験したが、同時に資本主義に対する嫌悪は、生涯にわたって保ち続けられる。

  • 1940年代には自由放任主義と社会進化論を結びつけて激しく弾劾する「アメリカ思想における社会ダーウィニズム(Social Darwinism in American Thought, 1860-1915、1944年)」を発表する。

  • ブルックリン大学・ニューヨーク市大学・メアリーランド大学の教授職を歴任し、母校コロンビア大学ではアメリカ史を担当した。1956年に「改革の時代ー農民神話からニューディール(The Age of Reform、1955年)」、1963年に「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」でピュリッツァー賞を受賞。

  • 晩年には18世紀中葉から現代にいたるアメリカ史三巻を18年かけて書くことを計画していたが白血病で急逝したことにより、幻の大作となった。

ホフスタッターの史学研究方法は、アメリカ歴史学における与論解釈(Consensus-approach)の最初の例として紹介されることがある。

  • 対照としてわかりやすいのは、当時アメリカの進歩的で急進的な歴史解釈として定着しつつあった、政治現象を経済的利害によって動機づけるやり方である。チャールズ・ビアードの『合衆国憲法の経済学的解釈(An Economic Interpretation of the Constitution of the United States, 1913)』に代表されるような、マルクス唯物史観からドイツ哲学の背景を抜き去った単純な歴史理解にホフスタッターは反対していた。

  • 彼は南北戦争の原因として、産業基盤の相違よりは奴隷解放論者たちの宗教観を強調し、さらに北西部に「黒人恐怖」が行き渡っていたという逆説的な状況も忘れずに書く。ホフスタッターは、一人の人間に矛盾した動機が共存するように、民主主義の伝統をもつアメリカ史を動かしたといえる「与論」は対立する諸動機によって形成されたと考えた。しかし多数派の「与論」からは斥けられた主張は、忘れ去られるのでなければ「与論」に反逆して、マッカーシズムのような暴力・言論弾圧のような病理として現れる。

  • 後年のホフスタッターは与論史学(Consensus-History)の限界を感じ、アメリカ史を新しい方法で見直そうとしていたと考えられる。その一部が1970年の論文「American Violence」や未完のアメリカ史において発表された。

研究テーマが限定され散漫であり、壮大で一貫した展望をもたないホフスタッターの最大の貢献は、「アメリカ史の複雑さを再発見したこと」とされる。彼は古文書・古典ではなく、当時一般の読書界に流通した出版物を扱い、歴史上の行為者へ感情移入しようとする。その長所や魅力は伝記の分野で発揮された。現代アメリカに対する分析は、政治家のみならず知識人・右翼の心理にまでおよび、今でも重要性を失わない。

この人「自分にだけは彼らも心を開いてくれる」と盲信して学生運動バリケードに近づいて酷い目に遭ったエーリック・フロムと違ってヒッピー運動や公民権運動の側から「大人達」がまとめてどう見えているかちゃんと心得てて、それでこれまでの歴史観を全部捨てて、新しい歴史観を再構築しようとしてたんですね。

社会学史 - Wikipedia
*明らかに「マルクスのみが偉大であった」史観から書かれた貴重な史料。

社会学(仏: sociologie)という術語は最初にフランスの随筆家アベ・シエイエス(1748年〜1836年)によって造語された (ラテン語: socius、「仲間」; および接尾辞 -ology、「~の研究」、ギリシア語λόγος「知識」より)。 

  • この術語はこれとは独立に1838年にフランスの思想家オーギュスト・コント(1798年〜1857年)によって新語として再発明・紹介された。コントは初期には自身の研究を「社会力学(仏:physique sociale)」と称したが、この言葉は他の人々、特にベルギーの統計学者アドルフ・ケトレー(1796年〜1874年)によって専有されていたのである。

  • コントの社会学スキームは19世紀人文主義者に特有のものであった。全ての人間の生は個々の歴史的段階を通過し、そしてもしこの発展を把握できれば社会的病理の処方箋を書けるようになると信じていたのである。このスキームでは、社会学は「学問の女王」となるはずであった。 
    唯物史観では「歴史段階説はマルクスの独創」とするが、実際はスコットランド啓蒙主義コンドルセの発案でマルクスはそれをコピペしてきたに過ぎない。そしてコントはそのコンドルセに私淑していたから影響はあって当然。

  • 後半生では、かつて伝統的信仰に担われていた結合機能を果たすために、実証主義社会の「人類教」を発展させた。1849年には「実証主義暦」と呼ばれる改暦を提案。側近のジョン・ステュアート・ミルは「良いコント(『実証哲学講義』の著者)」と「悪いコント(世俗宗教的な『機構』の著者)」を明らかに区別していた。

  • 『機構』は失敗したものの、チャールズ・ダーウィンの『種の起源(1959年初版)』を契機に世俗的ヒューマニズム組織が激増。特にジョージ・ヤコブ・ホリョークやリチャード・コングリーヴといった世俗主義者の著作が世間に影響を与えた。ジョージ・エリオットやハリエット・マーティノーといった英語圏におけるコントの信奉者は彼が『機構』に記した盛大な儀式のほとんどを否定しつつ、人類教という概念自体とコントが「他者のための生(仏:vivre pour altrui、Altruismという単語の由来)」を至上命令としたこととは好んだ。

 ハーバート・スペンサー(1820年〜1903年)はしばしばコントの追随者とみなされるが、彼は生前からこのことを嫌っており、コントを全く読んだことがなかったことを自叙伝に記している。

全体像をまとめるとこんな感じ?

  • 良くも悪くも「科学者のみ」がコントの信条。元来それは王侯貴族や聖職者が威張る王政の代替案という側面を持っていたが、非現実的とみなされ実践される事はなかった。そして英米には最初から「王政から解放される必要性」そのものが存在しなかったのである。

  • ハーバート・スペンサーも「科学のみ」という立場に立った。それがジョン・スチワート・ミルを介してのコントからの影響か、科学者としての態度を貫いた帰結だったかまでは分からない。
    *欧州科学主義は、大陸側より英国において徹底していた。

  • 「歴史なき大国」アメリカはスペンサーの「科学主義」に熱狂してそれを受容した。ホフスタッターのプロパガンダと異なり、その影響は「社会進化論と自由放任主義の邪悪な結婚」に止まらなかった。また現段階ではあくまで仮説に過ぎないが、米国進歩主義者達が「科学化によってリニューアル化されたジェフッァーソン流民主主義」を構築する過程で学んだ欧州の「キリスト教倫理的社会主義」の中にコントの思想も含まれていた可能性がある。
    *欧州の「キリスト教倫理的社会主義」を学んだ…という事はマルクスが「空想的社会主義」と決めつけたフーリエやオーエンにも見直しの機会が巡ってくる事を意味している。皇帝ナポレオン三世の王妃も一時期熱狂していた様にそれは「敬虔なキリスト教徒を社会主義に巻き込む方法」としてかなり優秀だったし、一旦巻き込まれた「敬虔なキリスト教徒」は下手な無神論者より強烈な組織力と推進力を発揮するのが常だった。ただ暴走すると「禁酒法」とか制定してしまう。

現代人の観点からすればホフスタッターの「科学万能主義はアメリカで自然発生した」も随分と怪しい。それなら「問題を特定し、処方箋を編み出し、計画に従ってこれを実践するのが科学」 とする米国流プラグマティズムPragmatism)は何処から来たのか? そもそも「プラグマティズム」という表現、何故ドイツ語語源なのか?

社会科学発達の歴史の闇は、あくまで深いのです…