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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「聲の形」見てきました。サイバーフェミニズムやウルトラフェミニズムの次段階?

「聲の形」見てきました。個人的には新海誠監督が「狂ってる」とまで絶賛した入野 自由の「声演」に圧倒されたり、結絃が想像していた以上に「SAO:マザーズ・ロザリオ編」のユウキで思わぬ場所で泣かされたり、「育ちの悪い美少女」植野に「嫌われる勇気」の原点を見たり…ちなみに(展開上仕方なかったとはいえ)この場面抜いたのは国際的に非難の対象となりそうな気がしました。

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それにしてもまさか冲方丁マルドゥック・スクランブル(原作2005年〜、漫画化2009年10月号 - 2012年)」の漫画化を手掛けた「聲の形(原作2011年〜2014年、アニメ化2016年)」の原作者たる大今良時が女性だったとは。まさしくタイトル通りの図式が完成してしまい、戦慄すら覚えます。
*それにしても今年は「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(Song of the Sea 2014年)」とか「レッドタートル ある島の物語(Red Tatle、2016年)」とかメインヒロインに喋らせない映画が本当に多い。川原礫アクセル・ワールド」のういういちゃんが「仲間が増えた」と泣いて喜んでる?

元来サイバーフェミニズムはウルトラフェミニズムから分岐したムーブメント。しかしなぜか日本のエンターテイメント業界では前者が2000年代後半、後者が2010年代前半に全盛期を迎えた感がありますね。どうしてそうなった?

完全なるゼロ年代のUnfinished Businessの回収展開。これに対するセカイ系評論の対応はどうなってるかというと…

ヴィントゲンシュタインの「語り得ないことについては沈黙しなければならない」ですか? 確かに「聲の形」だけ鑑賞して何か語ろうとしても自爆しか待ってないのですから、賢明な判断とはいえます。少なくとも海外における「Katawa Shoujo(2012年)」の大流行ぐらいは押さえておかないと、この作品のエンターテイメント史上の位置付けがどうなってるかさえ論じられません。セカイ系評論家の側からいわせれば「世界が自分達から急速に引き籠っていく不健全な展開こそ非現実的」という印象なのかな?
かたわ少女 - Wikipedia

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ちなみに聾唖者とサイバー空間の関係はグラハム・ベルが電話を発明した時代にまで遡ります。本当は彼が子供の頃から研究を重ねてきたのは電話ではなく聾唖者向けのボコーダーvocoderだったんですね(奥さんも聾唖者で手話でなく声で会話したかった)。光通信理論とか完成させてるし(ただしそれが技術的に実現可能となったのは特許保護期間が切れて以降)かなり未来を生きてた人だった次第。

 そもそも今更「『聲の形』はいじめっこ向け感動ポルノ」なんて得意げに語ってる人は、それ以前に「マルドゥック・スクランブル」のアニメ化が中止された時点、スティーグ・ラーソン「ミレニアム・シリーズ(2005年〜2007年)」のハリウッド映画化が「ドラゴン・タトゥーの女(The Girl with the Dragon Tattoo、2011年)」一作で終わってしまった時点、一時期あらゆる本屋で広大な面積を占めて平積みされてたピエール・ルメートル「悲しみのイレーヌ(Travail soigné、2006年)」「その女アレックス(Alex、2011年)」がほぼ撤去されていった時点で騒いでいるべきでした。

実はディズニー映画「マレフィセント(Maleficent、2014年)」の作中でマレフィセントがオーロラ姫の父王を塔の上から突き落として「これでやっと平等だ!!」と叫んだ時、既にウルトラ・フェミニズム勢の敗北は確定していたとも。しかも男性の抗議に屈する形ではなく、肝心の女性支持を完全に失う形で。こうした展開には既視感があります。例えばソ連崩壊(1991年12月)以降ピタリと発表されなくなった船戸与一の「国外逃亡した新左翼運動家が日本人を代表して世界中の原住民を救済すべく国際正義の敵を手段を選ばず殺して回る痛快勧善懲悪冒険活劇(1984年〜1991年」とか。

支持者が全滅するまで突っ走り続けずにいられないのが急進左翼の宿痾とも。

とはいえ女性は全体としては、なかなかしたたか。

  • そもそも大衆消費文化台頭の最初の端緒はブルジョワ婦人が「超絶技巧派」フランツ・リストや「天才的舞踏家」ニジンスキーに熱狂するあまりファン・クラブを結成したあたりにあるとされている。
    503夜『恋愛と贅沢と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト|松岡正剛の千夜千冊
    *江戸時代日本ではこの展開、吉原芸者VS町娘VS歌舞伎役者の展開にもつれ込む(そもそも深川は対抗意識から吉原に行けない歌舞伎役者が開拓した遊び場)。しかも当時のゴシップ記事(すでにそういう類が存在してるのが江戸時代)を見ると「イケメン歌舞伎役者の家に押掛女房が3人も!! しかもそれぞれが三味線とか舞踏の専門家で弟子達を味方につけ全然決着がつかない!!」とか壮絶な展開に。

  • ブコメの起源に至ってはジェーン・オスティン(Jane Austen、1775年〜1817年)「ノーサンガー僧院(Northanger Abbey、執筆1798年〜1799年、出版は死後の1817年)」における「殿方は自分に自由意志と個性があると信じたがっています。その幻想に付け入る形で望ましい男性にプロポーズさせる事こそが我々の手腕なのです」なるイデオロギーが大源流。
    *このコンセプトの完全映像化に世界で初めて成功したのが京都アニメーション制作「氷菓シリーズ(原作Web公開2000年、刊行2001年〜、アニメ化2012年〜)」とも。京都アニメーションはこういう方面でも既に地道に功績を挙げ続けてきた次第。

時は遡って「社会学元年」と目される1859年。マルクスは「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の中で「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」と述べ、ダーウィンも「種の起源(On the Origin of Species、1859年)」の中で「適者生存(Survival of the fittest)も淘汰(selection)も、雌雄異種を前提とする生物においては雌が誰をどういう基準で雄を選ぶかで決まる」とした性選択論を展開。この二つが合流したのが「ラブコメの大原則」で、その意味においては唯物論をその行動主義によって完成させたのは女性とも?
*ちなみに海外の「本格派」フェミニズム勢の熱狂のせいで海外においては織田信長の妹にあたるお市の方の人気が凄い。言われてみれば何この血統図状態ではある。

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私もこのサイトへの投稿で散々思い知らされてきたけど「知のあるべき自然状態」なるもの、新海誠監督「君の名は。」のティアマト彗星並にそれ自体はただひたすら美しいだけな一方で、人間に対してはただひたすら残酷なだけなのですね。

  • 大人数が一丸となって知力の限りを振り絞りさえすれば、確かに世界の事象の大半を特定の知識体系に統合するのは不可能ではない。だが時が到れば必ずしやパラダイム・シフトの波が残り1%の闇の中から襲い掛かってくる。

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  • この時、それまで知識の統合によって支持を集めてきたインテリ層は恐るべき二択を迫られる。「(時流に逆らった悲劇の)英雄として死ぬか(長いものには巻かれる)悪党呼ばわりされながら生き延びるか?」。歴史のその時点ではどっちが正解か分からないのもこの選択の恐ろしさ。

    https://www.filepicker.io/api/file/NiqiLIASVWKDoDoLrFB7

ダンテ「神曲(La Divina Commedia、地獄篇、1304年〜1308年頃、煉獄篇〜1319年、天国篇1316年〜1321年)」の「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ(Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate)」ですか? 「神曲」は、当時の知識人の共通語であったラテン語ではなくトスカーナ方言で執筆され、多くの人に読まれる事によって新時代の画期となりました。ルターの「95ヶ条の論題(95 Thesen)」がラテン語からドイツ語に翻訳される事で初めて本格的破壊力を得た様に。それを思えば、上掲の様な展開が文学の世界から漫画やアニメの世界に持ち込まれる事によって初めて「地獄の蓋が花開く」状態に突入したのも別に予想外の展開って訳でもない?