「聲の形」、それは「21世紀のフィルム・ノワール(Film Noir)」とな?
原作者がこの作品以前に手掛けたのが「マルドゥク・スクランブル」漫画化だったからウルトラフェミニズムやサイバーフェミニズムの観点からツッコミが入る可能性については視野に入れてたけど、一体何周遅れなの? 少なくとも1980年代における「(性別逆転物としての)女流ハードボイルド・ブーム」を経ての21世紀なんですが…
引用元はそれなりに客観性が貫かれてますが、もしかしたらそうでないリベラル派の皆さんは、今日なお「日本の映画やTVに黒人が登場するのは人道的に許されないレイシズムだから一切許されない」と主張する団体が放置され続けているのに便乗して「日本の映画やTVに身障者が登場するのは人道的に許されないレイシズムだから一切許されない」と騒いでおられるのかもしれません。もし自分で気づいておられないなら、まさに「マルドゥック・スクランブル」のシェル並みの記憶改竄能力?
国際的にはそっちの方がよっぽど重症のレイシズムなんですが。ちなみに京都アニメーションって以前から前者の方面でもガンガン攻めてる会社。当然「聲の形」でも原作通り普通に日系ブラジル人親子とか登場します。むしろ海外のアニメ漫画GAMEファンが心配してるのは「むしろこっちで例によって例の如く日本の狭量な市民団体から執拗な抗議や嫌がらせやがあるんじゃね?」みたいな話。
*むしろ国際SNS上では「たまこマーケット」のとあるエピソードで、この娘に「美白クリームで顔だけ白くしてどうすんの?」と言わせた時の方が激震が走ってました。なにしろ黒人とかアジア人は普通に頷いてたけど、インド人がピンポイントで食らった形になってしまい…
『聲の形』にはブラジル人の姪ッ子ちゃんがいて、どう読んでも山田尚子案件なキャラなので山田監督なのは納得なのですが、今のとこ出てくる気配がまったく無いのが気になりますね 幼すぎて話には関わらないけど、あの世界観を支えているのは美容室と姪ッ子だと思うから。
— 鈴木ピク@俺ガイル2期リメイク切望 (@pumpkin_crack) 2016年8月4日
映画パンフ読んでてて聲の形の舞台が岐阜県らしいと知って、あぁだから主人公の姉の夫がブラジル人なのかと改めて思った(岐阜は工場労働などで移住してきたブラジル人が多い)。マンガ読んでたときはまぁこんなこともあるよな程度の認識だったんだけど、ちゃんと日常の風景として描いてたんだな。
— UMA-k (@UMA_k_) 2016年9月27日
障害者を描くのに配慮は必要だが、過剰に特別扱いしない事も必要で、見失いがちなバランス感覚ってものをちゃんと維持するのが重要だと思うが、聲の形はそこに対して意識的に成立させてたと思うし、日常におけるブラジル人の作中への取り込み方を取ってみてもその辺のバランス感覚が優れていると思う。
— UMA-k (@UMA_k_) 2016年9月27日
「ガンガン境界線を攻める」というニュアンスでいうと、「聲の形」と監督も脚本も同じ「たまこマーケット」第7話における「黒い桃」事件の方が国際SNS上を震撼させたとも。だから「山田尚子はヒース・レンジャーが演じた伝説のジョーカーそのもの」なんて意見も飛び出してきちゃう?
それはそれとして、これだけ材料がで揃えば「2010代におけるトレンド」について自前の仮説の一つくらいは組ってられます。それがどれだけ真相に迫ってるかどうかはともかくとして…
①平坦化(fraternize)の時代
高橋弥七郎「灼眼のシャナ(刊行2002年〜)」、鎌池和馬「とある魔術の禁書目録(刊行2004年〜)」、川原礫「アクセル・ワールド(刊行2009年〜)」「ソードアート・オンライン(Web連載2002年〜、刊行2009年〜)」佐島勤「魔法科高校の劣等生(Web連載2008年〜、刊行2011年〜)」などを手掛け21世紀を代表する天才カリスマ編集者となった三木一馬。自著「面白ければ何でもあり(2016年)」によれば上智大学理工学部物理学科卒業後、2000年にメディアワークス(現在のKADOKAWA アスキー・メディアワークス事業局(AMW)の前身)に入社して翌2001年に『電撃文庫』編集部に配属となるまで完全に理系畑の人間でラノベどころか文学らしい文学に一切触れた事がなかったという。
名物ラノベ編集者・三木一馬氏はなぜ独立したか « マガジン航[kɔː]
むしろその事が圧倒的優位になってしまうほど1990年代から2010年代にかけてのエンターテイメント業界におけるコンテンツ内容の変貌は著しかった。とはいえ普遍的に偏在してきた原理原則自体は確実に存在する。
- 人間は案外簡単に頻繁に超越的規範に従ってられなくなり「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」行動主義に走る。
- もちろんそうした振る舞いの多くは成功しないし、たとえ成功しても多くのケースで「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが新たな超越的存在を台頭させてしまう。
- それでも成功させたければ、その都度異なる処方箋が必要となる。普遍的解決策などない。それで改めて「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」行動主義に訴える必要が生じる。
そしてこのシンプル極まりない原理原則から逸脱しようとする動きは全て何らかの形で時空間の歪みを伴い、後継者達の存続確立を確実に引き下げていくのである。ある意味そうした拘束からの完全開放というのは21世紀に入って初めて実現した。だから誰もがゼロベースで再出発すべきなのだが「罰がなくなったから逃げる楽しみもなくなった」停滞感に捕捉されて脱落していくクリエーターが思うより少なくなかった気がする。
そういえば三木一馬は編集者となる以前に真面目に精読したのはカール・セーガン「コスモス (COSMOS、1980年) 」くらいだったという。
- 同時進行でTV番組化され、日本に「核の冬」「テラ・フォーミング(地球工学を用いて他惑星の環境を人間が居住可能な形に変化させる)」「宇宙カレンダー(ビッグバンに始まる宇宙の歴史を“1年という尺度”に置き換えた比喩)」などの概念を広めたこの作品、同時に「進化とは時間と死の積み重ねである」という名言も残した。
- 進化論? むしろレマルク「西部戦線異状なし(Im Westen nichts Neues、原作1929年、映像化1930年、1980年)」の台詞「新兵はベテランの何倍もの勢いで死んでいく。逆を言えばこの段階を乗り越えたのがベテラン」を思い出す。その一方で種として安定した再生産段階に入った事は不死性を担保してはくれない。彼らは別の日に死んでいくだけなのである。例えば司令部報告に「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」と記載される様な日に、実にあっけなく。
死はそういう形で部分的に偏在するだけで、究極的には誰もこれから逃れられない。この現実を前にして誰が一体何を語り得るだろうか?
- この問い掛け自体は中世から存在し続けてきた。そしてイタリア・ルネサンス期には、その産物にして科学実証主義(Scientific Positivism)の母体となった新アリストテレス主義が誕生。今日なおこれが最終解答として君臨し続けている。「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」。
- 今度は(一時期、ハーラン・エリスンの同居人だった!!)グスタフ・ハスフォード「フルメタル・ジャケット(The Short-Timers/Full Metal Jacket、原作1979年、映画化1986年)」に登場するジャングルの法則を思い出す。「ジャングルに足を踏み入れる人数は、常に無事生還する人数より少ない。しかし生還者はそんな事、気にも留めない。死者も気に留めない。ジャングルも気に留めない」。Meme論的には「ハートマン軍曹」と「微笑みデブ」を後世に残した。
「もっとポジティブになれよ!!」とか言い出す人には「そもそもポジティブの語源って何だか知ってる?」とあえて問い返したい。この時問題となるのは「(常に統合社会学樹立を志向し失敗し続けている)実証主義(Positivism)」の対語として存在してきた「反実証主義(Antipositivism)」の多様性(Diversity)や多態性(Polymorphism)。ここでいう平坦化(fraternize)とは、ある意味実証主義(Positivism)そのものなのだけど、別にそれ自体が最終解答としての正当性を保証されてる訳ではないのである。あくまでただ「今のトレンド」の域は出ていない。
②コミュニケーション・オリエンテッド(Communication Oriented)の時代
誰もが真っ先に脳裏に浮かべるのは、所謂「バルコニー・システム(The balcony system、ハッピーエンドからの逆算でカップルが乗り越えていく障害を設定していく古典的ラブストーリー作劇方法)」だろう。ただし以下に注意。
- 当然由来はシェイクスピア「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、1595年前後)」なのだが、そもそも原作がハッピーエンドに終わってない。
- 「ハリウッドではそういったテンプレートが脚本チエックに使われている」と暴露したのは脚本家兼雑誌ライターのジェームズ・M・ケイン。その直後に発表した処女小説「郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice、原作1934年、ブロードウェイ戯曲化1946年、フランス映画化1939年、イタリア映画化1942年、米国映画化1942年、1981年)」は、妻とその愛人が夫を完全犯罪で殺そうとするも、次第に歯車が狂い出して全てが露見し「二人して地獄で末永く暮らす」結末を迎えるという内容だった。
要するに…
- 「バルコニー・システム」なんて律儀に守ってるだけでは駄作しか書けない。
- それ自体は遵守したとしても(登場するカップルが全ての障害を乗り越えてハッピーエンドを迎えるのでなく、あらゆる共謀が破綻して完全な破滅を迎えるという)パラダイム・シフトは起こせる。
こうした含みもあっての「暴露」だったかもしれないという事。ちなみに最近は「(風紀番長に成り果てたリベラル層の推し進める)政治的正しさ(Political Correctness)強要への反感の高まり」から完全なる予定調和的結末は忌避される傾向が強まっている。
またこのバルコニー理論で設定される「障害」、おそらく女性観客を当て込みたければ何かしらの形で性淘汰(Sex Selection)理論を意識しないといけない模様。
*例えば新海誠監督作「君の名は」は「田舎の巫女VS東京のイケメン」なる非対称構図を設定した時点でこの課題を一発クリアしている。
③環境オリエンテッド(Environment Oriented)の時代
単純なエコ論でも反ヒューマニズム(人間しか信じられず、しばしば絶対王政や独裁政権に行き着く英雄中心主義)論でもなく、むしろFPS(First Person shooter)的。「環境がキャラクターを生み出すのか、キャラクターが環境を生み出すのかもはやどうでも良くなる三昧状態」だが、それでもフォーカスが「環境」に向かうのは、それがまさに自らの主観視点だから。欧米のアニメ漫画GAMEファン層は「狩猟本能への回帰」なんて呼んでたりもする。その意味では平坦化(fraternize)の一環とも。
一般に恋愛とロマンス(俗語で執筆される読物)を最初に結びつけたのはルソーの「ジュリまたは新エロイーズ( Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」とされるが、「青春」ラブ・ロマンスと呼べるのはこれにインスパイアされて生まれたゲーテの「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、1774年)」以降。「あまりにも限られ過ぎた世界認識方法。その枠内においてどうやって世界観を構築するか必死になる」展開抜きに「青春物」とは呼べないのである。
より厳密にいうとここにさらにエドマンド・バーク(Edmund Burke、1729年〜1797年)が提唱した「畏怖を伴う審美」「あらゆる宗教や美学の起源」とされるピクチャレスク美学(The aesthetics of the picturesque)が絡んできます。とはいえそれがそれとして機能するには、たとえ一時的にせよたカントが認識可能な「物(独Ding、英Thing)」のさらに外側に配した「物自体(独Ding an sich、英Thing in itself)」として「居る様な居ない様な」独特の存在感を漂わせなければなりません。
*料理でいうと様々な素材の味をまとめる出汁みたいなもの?
そもそもここまで基準が「厳格化」したのは科学実証主義の精度が(一般人にはついていけないレベルまで)引き上がってしまった結果に過ぎないとも。
- 演繹的推論…そもそも提唱者たるデカルト(René Descartes、1596年〜1650年)は幾何学や代数といった厳密な根拠を有する論理体系にしかこれを認めなかった。後にジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico, 1668年〜1744年)が「歴史もまた人間の行為事実の無からの積み重ねで構築されてきた」と主張し近代史学の歴史が始まるが、いずれにせよ「二点間を結ぶ最短距離が直線にならない時は、空間の側が歪んでる」と判断可能なレベルでの厳格な検証手段として実用に耐えねば「科学」としての役目は果たせない。
- 帰納推理論…提唱者たるフランシス・ベーコン(Francis Bacon, Baron Verulam and Viscount St. Albans、1561年〜1626年)の理念はジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年〜1873年)「論理学体系(A System of Logic, Ratiocinative and Inductive、1843年)」を経て統計学や正規分析と結びつきロナルド・フィッシャーが1912年から1922年にかけて開発した最尤推定(maximum likelihood estimation、MLE)やトーマス・ベイズ(Thomas Bayes、1702年〜1761年)のベイズ推定(Bayesian inference)へと行き着いた。
コンピューター技術発展の援用を受けながら20世紀一杯粘った「科学的マルクス主義」を迷信として葬り去ったのがまさにこの思考様式。
「行き過ぎて科学万能主義(Scientism)の前轍を踏んでないか?」と考えるのは至極御尤も。問題は「それならどちらに半歩戻るべきか?」なんですね。それ絶対的指針が存在しないのが、要するに「平坦化(fraternize)」「コミュニケーション・オリエンテッド(Communication Oriented)」「環境オリエンテッド(Environment Oriented)」の世界という事。再び多様性(Diversity)や多態性(Polymorphism)を武器とする反実証主義(Antipositivism)」の暗躍が始まるの? 近年における機械学習(Feature Selection)の進歩はその突破口と成り得るの? クオリア(単数形quale、複数形 qualia、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面)理論が復活するの?
クオリア - 哲学的な何か、あと科学とか
「脳とクオリア」
ちなみに私のこのサイトでの一連の投稿でも「フランス人のいうシック(chic)とは何か?」なんて設問は持て余し気味。将来、綻びて全面崩壊に至るとすればやはりここから?
英語ネイティブに、誰がchicかと聞いたら、多くの人はオードリー・ヘップバーンと答えるでしょう。
何、この恐るべき禅問答? もはやフランス人である必然性すら存在しないの? どうして何時の間にか国際的に「日本も既に攻略済み(しかも金髪、問答無用で金髪)」なんて話になってるの?(戦慄)