諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【聲の形】「黒い桃」事件が加速させた「日本のナチスと戦い続けてきた京都アニメーション」なる国際理解について

改めて読み返すと少し唐突感もあるので少し補足。http://66.media.tumblr.com/07e86bcaebf870462d2d5374a7a64f76/tumblr_oea83gzBYR1qeyp9wo1_500.jpghttp://66.media.tumblr.com/eb4acee6e3482c64a2f1dddd49590d19/tumblr_oea83vcuq01qeyp9wo1_500.jpg

黒い桃事件(The case of Blackass)とは?

TVアニメ「たまこまーけっと(Tamako Market、2013年)」第7話(「聲の形」同様に監督山田尚子・脚本吉田玲子のコンビ回)における「南国から来たチョイちゃんが、銭湯で湯当たりして失神。尻以外水面下の状態でプカプカ漂ってるのを、ヒロインのたまこが見つけ「桃かなぁ?」とつぶやいた」エピソードを指す。これに連動する形で国際SNS上のアニメ漫画GAMEファンの間では以下の様な割とシビアなやり取りが交わされた。

  • だがその桃は黒い(But the peach is black.)」と心の中で突っ込みを入れたらPC(Political Correctness、政治的正しさ)的に負けなのかい?

    http://hishinumanouen.com/wp-content/uploads/2015/08/140705_2.jpg

  • Black is Beautyが信条の私らからしたらNo Problem。第一Plum=李(スモモ)には黒いのだってあんだろ? 第一Black Ass(直訳すると「黒い尻」。肌の浅黒い黒人やアジア人女性と白人のSexを題材とするポルノのジャンル)を勝手に追いかけ回して、勝手に罪悪感を抱いてるのはあんたら白人男性の方さね。
    シェークスピア作品に「黒犬に赤面なし」という常套句が頻出する事から「茹だったBlack Assって少しは赤らむのか?」みたいな突っ込みが入るかと期待したが「それを口にしたアカウントは殺処分確定」みたいな殺伐な雰囲気が漂ってたせいもあって、誰もそこまでは口にせず。

    https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSQ_78xft4sFjolPoJd9K5iku8NEkSdj_A65Ake5IJG0RYPpgOa

  • 何にせよ「日本の作品には五体満足の日本人だけが登場すべきである」と主張するナチス並みの優生主義団体が幅を利かせる日本でこんな事をやらかすなんてどえらい事だ。下手したら国内テロリストから暗殺の対象にされるんじゃね?
    *実はナチスの「優生主義行政」のモデルはタピュレーティング・マシンを用いた国民把握において先進国だったアメリカだったという皮肉があったりする。

もちろんこうした展開が日本国内で報じられる事はなかった。あくまで国際SNSの片隅を数日間賑わせただけに過ぎなかったし、それ自体は仕方のない事なのかもしれないが「聲の形」の日本における大ヒットが海外にまで報じられた時、どうして「監督山田尚子・脚本吉田玲子のコンビなら当然やってくれると思ってた」という声が一斉に上がったか説明するには、振り返ってこうした動きも「事件」として認定するしかなくなってくるという次第なのであった。

 ところで「日本では日本の作品には五体満足の日本人だけが登場すべきであると主張するナチス並みの優生主義団体が幅を利かせている。そして彼らはナチス同様テロも辞さない」という古くからある誤解、実は今日なお以下の様な情報の合算から補強され続けているのです。

  • 確かに日本には、物語の展開上その必要がない限り「(小指を詰めたヤクザを揶揄する)4本指の人」や「(傷痍軍人を揶揄する)五体満足ではない人」を映像に登場させてはならないとする放送禁止コードが存在する。
    放送禁止用語集
    *この制約を乗り越える苦肉の策として「体を部分的にサイボーグ化した登場人物」が活躍する様になったとも。実はそれ自体は日本人だけが苦しんだ制約という訳でもなかったし、そこからの発想の飛躍は欧米の方が凄かった。しかし何故かその一方では三浦建太郎[「ベルセルク(Berserk、1989年〜)」や荒川弘鋼の錬金術師(Fullmetal Alchemist、2001年〜2010年)」は日本の作品だし、国際的に物議を醸し出した「Katawa Shoujo(2013年)」も日本の同人誌起源だったりする。

    http://shimmie.katawa-shoujo.com/image/1.jpg

  • 日本の作品に日本人以外を登場させると「その差別的表現を国際正義は許さない。一刻も早く謝罪して公開を打ち切り、我々に謝罪金を支払え」と主張する市民団体が物凄い勢いで大量に群がってくる。
  • *追及を受けない数少ない例外の一つが白人金髪美少女で、この伝統は大正時代の夢野久作小栗虫太郎まで遡る(要するにロシア革命ディアスポラ化した白系ロシア人とか東ローマ帝国の伝承を継承する東欧人辺りが起源)。そして三国同盟期には「新しき土(Die Tochter des Samurai=『侍の娘』、1937年)」が制作されるなど「日本に嫁入りしてくる騎士道堅気のゲルマン美少女」がクローズアップされ、戦後に入るとオードリー・ヘップバーンの国際的カリスマ女優化を背景として少女漫画の世界から英国系(イングランドだとジェーン・オスティンが暮らしたコッツウォルズ(Cotswolds=「羊ヶ丘」の意) やスコットランド及びアイルランドの片田舎、つまりケルト系)の侵食が進行。
    夢野久作 死後の恋

    http://www.febe.jp/book_img/110259.jpg

    http://www.suruga-ya.jp/database/pics/game/502018643.jpg

  • New York Timesの様に相応の広告費さえ支払えば「ISISこそ国際正義。我々イスラム教徒は全アメリカ人が屈服するまで一丸となって戦い続ける」とか「パールハーバーを忘れるな。アメリカ人が日本人を一人残らず殲滅し尽くまで第二次世界戦の悪夢は終わらない」なんて提灯記事まで平然と掲載するメディアでは今日なお「安倍政権を倒すまで手段を選ばず戦い続けるのが全日本国民の総意だ」といった論調の記事が執拗に掲載され続けている。
    *そもそも、こういう話抜きに「幕末から続く無残絵の伝統」「太平洋戦争中の神風攻撃」「太陽族映画(1955年)がヌーベルバーグ映画に与えた影響(湘南と南仏沿岸とカリフォルニア沿岸の類似性の発見)」「日活ニューアクション映画や東映ピンキーバイオレンス映画へのタランティーノ監督の傾倒(まだ高層ビルが立ち並ぶ以前の原野の様な新宿近郊地帯をバイクで駆け巡る愚連隊のイメージが大友克洋AKIRA(1982年〜1990年、アニメ化1988年)」と重ねられる)」「仁義なき戦いシリーズ(1973年〜1976年)やバトル・ロワイヤル・シリーズ(2000年〜)などを手掛けた深作欣二監督の国際的カリスマ化(香港フィルム・ノワールなどに影響を与える)」なんてイメージの累積で「(イタリア人がマフィアや無政府主義者と共存している様に)Yakuzaや新左翼運動家と共存し続けてきた民族」といったイメージが累積されてきた。「TV普及に対抗すべく日本映画界が(TVでは絶対放映不可能な)エロやバイオレンスに特化してきた歴史的背景」とかは完全視野外。

まぁ実際のところ、私の観測範囲が限られている事もあって実際こうした考え方がどれだけ国際的に支持されてるかなんて正直言ってよくわかりません。そもそも国際SNSに時々乱入してくる「神は鯨を殺すのは人間を殺すより大罪であるとおっしゃっている(「ヨブ記」辺りが根拠らしい)」とか「ジャスティン・ビーバーを敬わない者は人にあらず(いわゆるBeliebers)」とか主張する層が普段どこに屯ってるかなんて調べた事もないですし。
*いわゆるBeliebers…最近やっと下火になって「反攻作戦」も一段楽ついた。その過程でFacebook上の拠点が幾つか殲滅されたらしいけど、詳しくは知らないし知りたくないと思ってる。まさしくインターネットの暗黒面…

http://s8.favim.com/orig/72/beliebers-family-justin-bieber-Favim.com-719636.jpg
*実は「十代前半の少女達は群体化すると飛蝗というかゴジラというかそういう恐るべき存在となる」なる国際SNS上のコンセンサス、Beliebers消滅に伴って揺らぎ始めている。これは対抗派閥として名を馳せたNaruto派(一時期は十代後半以上のインテリ女性が形成するコミュニティとの「武力闘争」で名を馳せた)やAvatar派(The Legend of Korra派とも。執拗なネガティブ・キャンペーンの継続で「The Last Airbender(2010年)」を改悪したシャマラン監督を悪夢のドン族に叩き込んだ)も「対消滅」の気配を見せている為。アメリカではオバマ大統領が「全合衆国国民に報告があります。私の娘が十代前半の危険ゾーンに到達しました。悪の道に誘惑する輩は全米国権力を敵に回す可能性があります事をここに宣言しておきます」みたいな冗談を飛ばすくらいメジャーなファクターで、キャブ・キャロウェイ「Minnie the Moocher(1931年)」やフリードキン監督映画「エクソシスト(THE EXORCIST、1973年)」が大ヒットした背景にもこの心理があるとされるが、何故か日本では静かに黙殺されてる感がある。

そもそもこうした日本における展開とは無関係に1970年代以降、左翼運動は国際的に生き延びる為に積極的に「ブルジョワ的偽善主義」と癒着する道を選んできました。悪名高き「禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)」まで通した事のあるアメリカでの展開はさらに苛烈。「神は鯨を殺すのは人間を殺すより大罪であるとおっしゃっている」がスローガンの反捕鯨団体なんてまだマシな方で「動物を殺すなんて可哀想。手段を選ばず全米の畜産家を廃業に追い込んで、食肉は全て輸入に切り替えよう」と連呼する「カナダやメキシコの畜産業者の回し者としか思えない連中」や陶酔状態で「神が実験動物を救出せよと命じている!!」なる直感に導かれるまま薬品会社の実験施設を次々と襲撃して回るギャング団同然の環境テロリストまで登場。21世紀から振り返ると、ある意味決定的な形でリミッターを解除したのはスピルバーグ監督映画「未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind、1977年)」だったとも。
*韓国でいう「江南左翼」。日本でいう「杉並左翼」?

日本においてすら「左翼陣営が一枚板主義回復に成功していった1970年代後半〜1990年代前半」をむしろ「我々がありとあらゆる大義名分から解放されていった自殺的プロセス」と揶揄する向きが皆無ではない模様。当然「一瞬たりともそんな妄想にとらわれる人間は全員、阿部「先天的ナチス」政権を支持する引き篭もりネトウヨ連中同様、将来は全員絶滅収容所(左翼史観的のはむしろより人道的で収容者全員を幸福な気持ちに導いたラーゲリ?)送りだぞ!!」なる脅迫概念も同時進行で高まりつつ今日に至る訳ですが。
*おそらく「ニーチェの怪物と戦う者は自らも怪物とならないように気を付けねばならない。汝が深淵を覗き込むとき、深淵もまた汝を覗き込んでいるのだ」は、まさにこういう時に使う言葉なのだと思われ。

こうした動きの背後にタルド模倣犯罪学→Hays CodeやComic Codeといった米国倫理規定→占領期日本でGHQが組織したPTAの流れを見る向きも。

そして岐阜はこうした展開の最前線となり続けてきました。大垣市を舞台とする「聲の形」の前哨戦となったのは美濃加茂市を舞台とするライトノベル白鳥士郎のうりん(原作2011年〜、アニメ化2014年)」。

実はこうした騒動なんてあくまで瑣末。本当の問題は「のうりん」アニメ化に際して(原作では美濃地方を描く上で欠かせず、原作もそれを踏まえて展開する)日系ブラジル人の存在が「自主検閲」によって完全排除された点にあったりします。まさしく「それがこの世のたった一人の人間しか不快にさせないとしてもレイシズムは成立する」と豪語する日本の左翼陣営大勝利の図式。確かに海外からは「まさにナチスの優生主義そのもの」という指弾しか受けないでしょうが、勝利には違いないので、もっとみんなで肩を抱き合って歓喜にむせび泣いて欲しいところです。
*ちなみに日系ブラジル人、飛騨には全然いない様なので飛騨を舞台とする作品に登場しなくても全然問題なし。美濃ではまことしやかに「あそこは人間の住む場所じゃない。そもそも人間より牛の方が多い」とか「もし日本で動物に育てられた野生児が発見されるとしたら、それは飛騨以外に有り得ない」と語られてるのが原因とも?

http://koenokatachi.up.n.seesaa.net/koenokatachi/image/KOEKATA_62_005c.jpg?d=a1

http://pbs.twimg.com/media/Csi-vJ4VUAA3fCB.jpg

そういう前提が世界中に浸透した上での「日本にはもっともっと山田尚子と吉田玲子のコンビの様な傍若無人な天才達が現れねばならぬ」なる国際的コンセンサスなんですね。

キモい? 日本人には有り得ない考え方? まぁ「しかるべき時」とやらが来たら私もおそらく絶滅収容所(あるいはちゃんと人間を更生させるより人道的なラーゲリ)送りは免れないと思われ。

なぜインド人は西葛西に住むのか? 以外と大きいのが西葛西の西側を流れる「荒川」の存在だ。

「土手から眺めていると、なんだか、故郷コルカタカルカッタ)を流れる聖なる川、ガンジスを思い出して、心が落ち着くんです。河口が近いから川幅が広いでしょう。よく似てるんですよ……」。チャンドラニさんは遠い目をしながらしみじみとこう話す。


荒川の土手を散歩したり、河川敷でクリケットをして遊んだりするインド人も少なくないそうだ。

*以前から「荒川沿岸部の休日におけるインド人密度凄い」とは感じてたけど、そういう事か…

なにせ「インド人のベットタウン」江戸川区の住人なんで全然他人事とは思えません。例えばこれから西葛西を舞台とする作品が制作されたとして、それにインド人が一人も登場しないとしたら、少なくとも地元では「ナチス的優生主義」呼ばわりされるでしょう。まぁ要するにそういう話な訳で…

とりあえず強引なまとめ。

アメリカには「日本の市民団体はナチス並み」と考える向きがある。

  • 大半は誤解(ただ「メデイアの自主規制」にはより悪質な側面も存在する)。

  • 大元の起源は「GHQが占領下日本でPTAを組織したり、映像倫理規定を押し付けた事」(そもそも「黒人を登場させてはならない」は米国でもあったHays CodeやComic Codeの解釈の暴走)

  • 禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)制定や禁煙ファシズムの横行で世界を吃驚させてきたのはむしろアメリカ。

そもそも「ナチス優生学理論はそもそもアメリカのそれのパクリ」という説も。