諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「高慢と偏見とゾンビ」と進化論(性淘汰)

いよいよ「高慢と偏見とゾンビ(Pride and Prejudice and Zombies)」封切りですね。

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日本国内には「原作に対する冒涜だ」という声もある様ですが、さにもあらず。

  • そもそも原作者のジェーン・オースティン(Jane Austen 1775年〜1817年)が自ら小説を書き始めたのはフランス革命(1789年〜1794年)やナポレオン戦争(1803年〜1815年)によって大好きなフレンチ・ゴシック小説の供給が途絶えたから。
    *そして彼女のこの「暇つぶし」こそがが英国口語小説発足の契機となるのだから、何とも皮肉なもの。フランス出身の英文学作家サマセット・モーム(William Somerset Maugham、1874年〜1965年)や日本に帰化したギリシャアイルランド人作家小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn、1850年〜1904年)や英文学について精緻な独自理論を打ち立てた夏目漱石(1867年〜1916年)などに絶賛される一方で、シャーロット・ブロンテ(Charlotte Brontë、1816年〜1855年)やマーク・トウェイン(Mark Twain、1835年〜1910年)やD・H・ローレンス(David Herbert Richards Lawrence、1885年〜1930年)といった英語ネイティブの作家には嫌われているという辺りもかえって興味深い。

    *ちなみに最近当時の原稿が発見されたが、編集者による文法ミスやスペルミスの訂正で真っ赤に染まっており世界中に衝撃を与えた。「それまで英国で全く刊行された事がなかったタイプの、誰でも気軽に読める平易な文体」は、それを刊行可能な状態にまでもっていった編集者の執念もあって完成したものだったのである。

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  • そして作品が執筆されたのは主にナポレオン戦争の最中。なのでさりげなく書き飛ばされているとはいえ「郷紳連中が連日の様に狩猟大会や舞踏会を開催するのは互いに大陸からの危険思想に感染してないか監視し合うため」なんて恐るべき本音が明かされたり、大陸に派遣される軍隊が招集されたり(ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーが「大転換(The Great Transformation、1944年)」の中で詳細に分析してるスピーナムランド制度(Speenhamland system、1795年〜1834年)が生み出した)貧者の大群があちこちを彷徨ってる場面が随所に挿入されている。

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    *これまでの映像化ではそういう場面は綺麗に排除されてきた。そう、ちょうどこれまで日本で美濃を舞台とするアニメ作品から日系ブラジル人の姿が排除されてきた様に。

    *そしてホフスタッターが「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」で示した様に「視野外に追い出された者達は、絶滅さえ免れたら必ずや復讐の為に舞い戻ってくる」という次第。それはジョージ・ロメロ監督が「Night of the Living Dead(1968年)」で初めて提示したZombie apocalypse物の基本ロジックでもある。

このマッシュアップ小説はこういう部分を「ゾンビが大量に発生し、大英帝国は国土防衛の為に戒厳令を敷いた」なる設定に差し替える事で成立しているのです。そもそも原作の基底に「(大陸からの危険思想に)感染する恐怖」が蔓延してるからこそ可能だった移植手術で、涙目になったのは「フランス革命=Zombie apocalypse」認定されたフランスの皆さんくらい。国際SNS上での海外女子の評価も上々だしとりあえず藐死は免れた模様?

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 スピーナムランド制度

1795年に始まるスピーナムランド制度は、物価連動制の院外救貧制度である。パンの価格に下限収入を連動させ、働いていても下限収入を下回る家庭には救貧手当が支給された。これはフランス革命の影響から物価が高騰するいっぽう、収入は増えず困窮する農民・市民が続出したためである。バークシャー州スピーナムランド村の治安判事は貧民の窮状を見かねて、対策を協議した。その結果、ギルバート法の院外救済の制度を拡大解釈し、パンの価格をもとに基本生活費を算出した。この基本生活費に収入が届かない家庭には、その差額分を補填した。

博愛精神から生まれたこの制度は、思わぬ副作用をもたらした。安い賃金でも差額を救貧費で埋めてくれるため、企業家たちが労働者の給与を切り下げだしたのである。救貧税は膨れ上がり、1810年ごろには当初の3倍以上に急増した。救貧税を負担していた農民は重税に耐えきれず貧民化し、いっぽうで貧民は働いても働かなくても収入がかわらず、勤労意欲を削ぐという事態まで引き起こした。

 ところで国際SNS上の関心空間では、どうしても女子のトレンド推移に目移りしやすいのです。というか段々、野郎どもがただひたすら「おっぱい!! おっぱい!! おっぱい!!」とか連呼してるだけのゴブリン軍団の如き存在にしか見えなくなってきます。この差がどこから生じるかというと‥

  • 「群れる」…各投稿の回覧数のメリハリがはっきりしてるのでトレンドが把握しやすい。当然この流れは当事者にも観測されるので「フィードバック効果による選択と集中」が引き起こされる。

  • 「飽きる」…トレンドが可視化されやすいので「飽きるのも早い」「経験の蓄積が繰り返しを忌避する」「結果として機械学習(Future Selection)効果による関心対象の系統進化もまた可視化されやすい」なる連鎖が起こる。当然この流れもまた当事者に観測されるので、この流れもまた「フィードバック効果による選択と集中」を引き起こす。

  • 「呟きが意味を持つ」…おそらく「呟く」比率そのものにそれほど男女差はない。異なるのは「フィードバック効果による選択と集中」を伴う確率。これもそれぞれが自らと周囲のトレンドの系統進化を把握してるから起こる事。

しかも「購買は市場における投票権」なる意識がはっきりしてるのが恐ろしい。渡辺航弱虫ペダル(2008年〜、アニメ化2013年〜)」、藤巻忠俊黒子のバスケ(The Basketball which Kuroko Plays、2009年〜2014年、アニメ化2012年〜)」、古舘春一ハイキュー!!(2012年〜、アニメ化2014年〜)」、京都アニメーションFree!(2013年〜)」辺りに至っては既に「作ってる」のか「作らされてる」のか判らない領域に…いやもちろん、それこそがエンターテイメント業界が目指すべき境地って話もある訳なんですが。

まさしく古くはマイケル・クライトン「アンドロメダ病原体(The Andromeda Strain、1969年)」、最近では庵野秀明監督「シンゴジラ」の世界。「観測者側の一方的観測を前提とする」既存の統計マーケティング技法にとってのナイトメア。なにしろ「カンニングし放題の試験において最終的に答案に記入される答えの比率を算出する」みたいな大変厳しい数理モデル設定が必要となる上、統計をまとめる過程すら全部盗み見られていて「フィードバック効果による選択と集中」が発生し続けるのです。

しかし考えてみたらこういった傾向、インターネット普及によって可視化/加速する以前から既に指摘されていたとも?

  • 英国進化論学者チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin、1809年〜1882年)は「種の起源(On the Origin of Species、1859年)」から12年後に発表した「人間の由来(The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex、1871年)」の中で「産む性は選ぶ性」とし、性淘汰(sexual selection)仮説を提唱。またオーストリアの動物行動学者コンラート・ローレンツ(Konrad Zacharias Lorenz, 1903年〜1989年)は実際に「雌が代々見た見掛けばかり格好良い役立たずの雄を選び続てきた結果滅んだ種」の実例を幾つか報告した。

  • 国際的に「ラブコメ元祖」と仰がれている英国女流作家ジェーン・オスティン(Jane Austen、1775年〜1817年)は作中で「殿方は自らの自由意志と個性を尊びます。これを上手く逆手に取って相手から告白させるのが女子の本懐」「自らの高慢と偏見のせいで殿方を選びそこなうのは女子の恥」「ゴシック小説のヒロインが全くゴシック小説を読んでおらず、毎回懲りずにゴシック小説に有り勝ちな罠に引っ掛かるのは馬鹿の極みです。本当の女子はそこまで馬鹿じゃありません」と述べている(ジェーン・オスティンのラブコメ三原則)。考えてみればこれって結婚によって「新しい血」を引き込み続ける事で生業を毛織物から綿織物や金融業に乗り換えて生き延びてきた英国ジェントルマン階層の生き様と表裏一体。
    *「ゴシック小説のヒロインが全くゴシック小説を読んでおらず、毎回懲りずにゴシック小説に有り勝ちな罠に引っ掛かるのは馬鹿の極みです。本当の女子はそこまで馬鹿じゃありません」…この基準の成立がまさにそれまでのゴシック小説との分岐点となる。「推理小説の中で推理小説ファンが目の前の事件について薀蓄を語る」なんてパターンの先祖筋でもある? まぁメタ構造が入ってきて、いきなりオタクっぽくなっちゃうんけれど「ノーサンガー僧院(Northanger Abbey、1817年初版)」はそれが引っ掛けになった推理小説としても読める様になっていて驚く。

  • 海外の日本史マニアの一部は明らかに織田信長より妹のお市の方に関心を寄せている。要は「日本のハプスブルグ家=戦略的血統ハンター」という側面が熱いらしい。何しろ天下が織田家、豊臣家、徳川家と推移していく過程でその全てに自らの血を引き入れ、皇室とまで縁を結んでいる。世界にはこういうのにあやかりたいというニーズが確実に存在するらしい。
    *お陰でこの筋では浅井長政の名前が意外と海外で広まっていたりして吃驚。

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最近ディズニーが迷走状態に陥ってLove Story供給を怠る様になり、その漁夫の利を得る形で日本のアニメ業界が「新たなLove Story供給減」として国際的に注目を集めています。それ自体は實に結構な話ですが、ここで問題となってくるのは「どうしてディズニーはブレーキを踏まずにはいられなかったのか?」という辺り。

*ネットを検索する過程で「女子大の授業ではディズニーのヒロイン像の変遷に関する論文提出が定番になってるけど女子大生はかなりウンザリしてる」みたいな話を知った。まぁ「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」とか「眠れる森の美女(Sleeping Beauty、1959年)」なんて受動的ヒロインを通り過ぎて「ただの遺体(しかばね)」状態。当時を振り返ると日本においてすら江戸川乱歩横溝正史が主導する形で「美少女=無残に殺されていく悲劇の犠牲者か、逆に冷徹に殺しまくって自業自得で滅んでいくサイコパス」みたいな図式が厳然と君臨し、その反動として1980年代に入ると山岸凉子日出処の天子(1980年〜1984年)」とか吉田秋生吉祥天女( 1983年〜1984年)」とか萩尾望都の一連のフェミニズム系作品が登場してくる訳で。まぁいきなり直視するには重すぎる話題だし、それなら「マフィセレントがオーロラ姫のパパを塔の上から突き落としてハッピーエンド」という展開に納得がいくかというとそういう話でもないし。

その一方で国際SNS上の海外女子は例えば「氷菓(原作2000年〜、アニメ化 2012年〜)」あたりを鑑賞しながら次々と「レベルアップ音」を鳴らし続けます。
*「お願いだから女帝が男を手玉にとる手口とかメモって回覧しないで!!」とかマジに思った。まぁ生贄にされるのは「どうして美少女キャラ画像をコレクションしようとすると四人に一人は男の娘なのか」とか低レベルの問題で悩んでる海外男子な訳だけど。

*ちなみにこの問題、エンジニア向けサイトのGitHubにまで飛び火してるらしい。かくも「男女平等」の実現は難しい?

野郎どもがただひたすら「おっぱい!! おっぱい!! おっぱい!!」とか連呼するだけのゴブリン軍団に留まってる間に、一体何が進行しているんでしょうか?
*あんまり格差が開くとZombie化問題が浮上してきちゃうぞ?

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まぁこうした話を踏まえると、以下の様なエピソードも全く別物に見えてくる訳で。

「恋愛ゲーム」ってどんなユーザーがあそんでいるんでしょうか。

伊勢:やっぱり、30〜40代の女性が多いですね。よく「オタク向け」だと思われているのですが、ごく「ふつうの人」があそんでいるんですよ。ちなみに、時間帯でいうと「深夜2時ごろ」にピークがきますね。あとは「日曜の午前」とか、子どもがテレビ見ているときにやっているのかも。どうしてふつうの人が、ここまで「恋愛ゲーム」をやるんでしょう。

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どんな欲求があるんですか。

伊勢:ひとつ、すごく大きいなと思うのは、「浮気したいけど、浮気できない」という女性の隠れた欲求です。ほんとは「浮気してみたい」と思っているけど、実行するまでの勇気はない。それをゲームで妄想することで、解消しているというか。たとえば「もし別の人と結婚していたら…」と妄想したり、突然の「イケメンとのロマンス」を待ち望んでしまう気持ちって、誰にでもあると思うんですよね。

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なるほど。

伊勢:もうひとつは「つかれた心を癒されたい」という欲求ですね。日本人ってみんな、仕事とかでつかれているじゃないですか。あとは「欲求不満」というのもあると思います。ちょっとエロめのイケてるキャラが出ると、ブワッと人気が出てしまうことが多くて。これはガラケー時代の話ですけど、「官能小説」のような濃厚なゲームって、めちゃくちゃ儲かっていたんですよね。

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恋愛ゲームで人気がでる「二次元キャラの法則」ってあったりしますか?

伊勢:やっぱり「鬼畜、俺さま、ドS」のキャラは人気ですね、もうびっくりするほどに。まえに、男子を育成するゲームで、「性格要素ドリンク」を売ったことがあって。これをつかうと自分の「好みの性格」に変えられるんです。そうしたら「鬼畜、俺さま、ドS」が、ものすごく売れましたね。逆に「弟、ワンコ、草食」みたいな、かわいい感じの性格は、ぜんぜん売れませんでした。やっぱり「ただのいい人」って、ゲームでも現実でもモテないんですよ。優しすぎるとおもしろくないからだと思っています。ちなみに「王子さまとイケない契約結婚」という、うちで一番売れているタイトルでも、やさしくて弟みたいな子はずっと人気がなくて…。わりと「オタク受け」は良いんですけどね?

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なるほど、おもしろいですね。

伊勢:あと「ステータスの高いキャラ」はモテます。つまり、お金持ちだったり、高い地位を持っていたりすると、ゲームでもモテてしまうんですよ。具体的には「社長」「医者」「セレブ」などの設定でしょうか。そういう「キャラの設定」だけでも、人気に影響したりもするんですよね。あと、同じ王子様であっても、「王子の第二後継者」とかになるとモテません。「どうせ王子になれないんでしょ、お金もないんでしょ」と思われてしまうのかな。笑

こういう心理も性選択(Sex Selection)の構成要素の一環んなのかな?

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 直感的に思った事。しかしたらこれっても「ピクチャレスク(Picturesque、美と戦慄の有り得ない形での同居)」概念が絡んでくるんじゃないの?

鳥山 祐介「19世紀前半のロシア文学とピクチャレスク概念」

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そもそもピクチャレスクとは何か。ハグストラムが『姉妹芸術』で整理するところによれば、18世紀英国で用いられたこの語の意味は、大きく以下の四つに分類できるという。

  1. 絵のような、絵に描かれることができそうな
  2. 描写の正確さ、写実性
  3. 奇妙さ、奇想、多様性、不規則性、幻想性、グロテスク等
  4. 快い不調和、粗野さ(roughness)、さらに自然の中の粗野な風景、岩山、滝、廃墟、サルヴァトール・ローザの描いたような風景といった対象への嗜好

また、ローザやクロード・ロラン、カスパール・プッサンといった17世紀イタリアの絵画に描かれた風景を再生産した英国式庭園の制作原理において、この概念が大きな役割を果たしたことも知られている。

これらの要素は、美意識としては18世紀初めあたりから存在していたものも多いが、18世紀末になってピクチャレスクという語のもとに整理され、理論的反省が加えられる。とりわけ注目すべき理論家が、ウィリアム・ギルピン(William Gilpin, 1724-1804)とユーヴデイル・プライス(Uvedale Price, 1747-1829)の二人であり、彼ら以降、ピクチャレスク概念の要点としてハグストラムの言う第3、4の要素が前面に出てくることになる。


ギルピンは、1768年の『版画論』の中でピクチャレスクを「絵画に適した、特定の種類の美を表す用語」と定義したが、後にこれに補足を次々と加えていく。とりわけ重要なのが、『ピクチャレスクな美、ピクチャレスク旅行、風景スケッチに関する三つの試論』(1792)でピクチャレスクを「美(beauty)」の対概念とした点である。彼によれば、美が滑らかさや端正さ、調和を特徴とするのに対し、ピクチャレスクは粗野でごつごつした外見を特徴とする。この定義は明らかにエドマンド・バークによる「崇高」の定義の影響下にあるが、ギルピンはピクチャレスクを特定の視覚的枠内に収まる美的カテゴリーとして、崇高の表象不可能性から明確に峻別した。

一方、彼によれば、粗野な対象などが重視されるのは、それらが枠組みで囲まれた絵画という限定された空間の中に一つの構図、コンポジションを作り出すのに適している、端正な滑らかな対象物は単調な構図しか生み出さない、という観点からであり、「疲れ果てた馬車馬や牛やロバ」といった対象は絵の題材として大いに奨励されるものであった。

  • 「ワイ川旅行記(Observations on the River Wye、1782年)」でギルピンは次のように述べる。「自然の巨大さは人間の理解力を超えている。自然は巨大なスケールで製作する。[…]一方、芸術家は一定の範囲に縛られているため、ピクチャレスクの原理という小さな法則を定め、その目の範に収まる小さな自然の表面の一部を自分の目に適応させる」。

プライスは、ギルピンの理念を主に造園術の観点から推し進めていく。当時、18世紀の英国式庭園における非整形性には二つの方向性があり、一方で人気を博していたランスロット・ブラウン(Lancelot ‘Capability’ Brown, 1716-83)の庭園は、なだらかな草地や緩やかに蛇行する水の流れをふんだんに用いた平明な庭園であったが、1794年に『ピクチャレスクに関する試論』を著したプライスは、これを単調であり新興ブルジョワ階級の無趣味、画一的な価値観を示すものとして攻撃した。プライスはギルピンの考えを推し進め、「粗さ」「急激な変化」「不規則性」「錯綜」あるいは「珍奇さ」といった要素を重視すべきとする。

また彼は、地面を滑らかにするブラウン一派をピューリタン革命期の急進派「レヴェラーズ=水平派」になぞらえ、景色における変化と社会における諸階級の共存を「全体」の協和、調和をもたらすものとして称揚するが、反フランス革命のパンフレットの著者でもあるプライスの保守反動的イデオロギーがここに反映されているとされる。

さらに彼は視覚的な喜びを与える対象としてあばら家や乞食を挙げるが、ここには、これらが想起させうる社会的「悲惨」を特権的な「見る主体」の立場から眺めることで美学化してしまうという、ピクチャレスクの重要な一局面が表れている。
*逆にPicturesqueの概念をエドモンド・バーグの「美と戦慄の有りえない形形での同居」という定義に引き戻したのがCosmic Horrorのラブクラフトとか「シャンブロウ(Shambleau、1933年)」のC・L・ムーアといった米国パルプマガジン全盛期(1920年代〜1930年代)の作家達とも。

 あ、だから国際SNS上の海外女子陣はこんな事に興味を示してきたのか。

  • 竹宮ゆゆことらドラ!(原作2006年〜2009年、アニメ化2008年〜2009年)」における豪華マンションと安賃貸アパートの対比

  • 西尾維新化物語(原作2006年〜、アニメ化2009年〜)」における戦場ヶ原家の転落

  • Koi「ご注文はうさぎですか?(Is the order a rabbit? 原作2011年〜、アニメ化2014年)」における「千夜とシャロの境遇差」

     

その意味では「高慢と偏見」へのゾンビ投入はある種の「補完」になってるとも。

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そういえばディズニー作品でも今日なお不朽の人気を誇り続ける「シンデレラ(Cinderella、1950年)」「アラジン(Aladdin、1992年)」「塔の上のラプンツェル(Tangled、2010年 )」もまた、揃って「宮廷は華やかに栄えていました。しかし、その頃…」のパターンなんですね。

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国際SNS上の黒人女性達が揃って「ディズニーは分かってない。あたしらが見たいのは「プリンセスと魔法のキス(The Princess and the Frog、2009年)」なんて腑抜けた話じゃなくて、マーベル・コミックが供給してくれたBlack PantherとStormのLove Storyみたいなドラマチックな奴なんだ!!」と叫んでるのもこれ。シンデレラでアラジン(フリン・ライダー)な元コソ泥のStorm様が、その実力でインテリで大金持ちで将来性も有望な王子様(王様)のBlack Pantherのハートを射止める物語…確かにこれこそが「完成型」?

この投稿の中で「バルコニー・システム(The balcony system、ハッピーエンドからの逆算でカップルが乗り越えていく障害を設定していく古典的ラブストーリー作劇方法)」について触れてますが、実際に用意される「障害」には偏りがある様です。ぶっちゃけ「二点間を結ぶ線が直線を描かない時は時空間の側が歪んでる」パターンだと思ってほじくってたら、こんなの出てきちゃいました?