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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【レッドタートル】実は案外「セカイ系」作品?

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なんだ、海外だときっちり「Love Story」として宣伝されてるじゃありませんか。しかもヒロインは「魔女の象徴」たる赤髪。モデルは「オディッセア」に登場するアイアイエー島の魔女キルケーあたり? 当然観客の想像力はそっちの方に向かいます。

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まぁ異類婚譚は(海外ではポストジブリ本命とされている)トム・ムーア監督も好んで選ぶ主題だし、着眼点そのものは悪くない?

もちろんディズニー作品や、日本の漫画アニメGAME辺りを見慣れた女性層が「まず女の方からちょっかいを出し始める」「殺されても人間に化けて出て一生添い遂げる」「何か"男にとって女は永遠にミステリアスな海の様な存在"みたいな哲学的な終わり方」なんて「男の側にとってだけ一方的に都合が良すぎる展開」についてけるか(あるいはついていこうとするか)は全くの別問題。

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*女子は割と髪の毛の色そのものより「男子は気軽にCurly(チリチリ状態)が可愛いっていうけど、手入れが大変なの。朝起きるとモワッよ、モワッ!!」みたいな髪の毛の扱いそのものに関する会話を好み、国際的ヒットとなる様な作品はちゃんとその辺りまで踏み込んでくる(新海誠監督「君の名は」にも山田尚子監督「聲の形」にも「男は結局、ポニーテールに走るんだよな」みたいなネタが組み込まれてたし)。「売り上げが全て」とか「可愛い女の子がヒロインでないと売れない」といった商業至上主義って、こういう部分での配慮まで含んだ話だったりもする次第。

彼女達なら割と鼻で笑って「これだから芸術家気取りのフランス男って」の一言で済ませちゃったりしかねない。日本の国外に「セカイ系」に直接対応する表現はあまり見当たらないんですが、あえて探すなら「オリジナリティなんて片鱗もないのに、自分こそがセカイの中心のつもりでいる気障で芸術かぶれなフランス男の自惚れ(しかも理屈ばっかりこねてちゃんと色々調べない)」みたいなイメージがそれに当たるとも。

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それはフランス人の「自分達は古代ギリシャ・ローマ文明の後継者」意識に産物とも言われています。

エマニュエル・トッド「問題は英国ではない、EUなのだ」歴史家トッドはいかに誕生したか?

まず「人間とは何か?」「 国民とは何か?」といった問いを立てるのが「フランス 的思考」の特徴ですが、この点、私自身は典型的なフランス知識人とは異なります。そういう観念的問いから出発して物事を考えたことは一度もありません。そこから出発すれば間違いにしか至らないと、今でも考えています。内省的な思考をいくら繰り返しても、結局、外の現実に触れることはできません。こういう意味で、私はやっぱり経験主義者なのです。

なぜ知的なエラーが起きるのか? いきなり「人間とは何 か?」と自問し て、観念から出発するから歴史を見誤ってしまうのです。そうではなく、 まず無心で歴史を見る。すると、むしろ歴史の方が「人間とは何か?」という問いに答えてくれます。何よりも歴史を観察することが大事です。

「フランス 的思考」形而上学? あるいはコスモポリタン精神の産物たる普遍的自然への傾倒? それとも理性崇拝?

そもそも「南海漂流物」と「セカイ系」には微妙な関連が…

「南海漂流物」と「セカイ系」の微妙な関係

そもそも英国人海洋作家ヘンリー・ドヴィア・スタックプール「青い珊瑚礁(The Blue Lagoon、1908年、映画化1923年、1949年、1980年)」や夢野久作「瓶詰地獄(1928年)」などの主要展開は「幼少時に無人島に漂着した少年少女が成長するにつれ性的誘惑に敗れ、純潔を失い社会復帰が不可能になる(なので救援を待たず自殺したり、救援されても事故死して「死んでむしろ幸運だった」と言及されたりする)」というもの。

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  • こうした作品自体がスコットランド人作家ロバート・バランタイン珊瑚礁の島(The Coral Island: A Tale of the Pacific Ocean、1858年)」や国際的港町として栄えていたナント出身のフランス人作家ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記(Deux Ans de Vacances、1888年)」などの「健康過ぎて子供達からも飽きられてしまった孤島漂着物」に捻りを加え復活させようという意図で執筆されたものだった。当時はまだまだ少年達が大好きな「野蛮な世界の粗野さ」が適度に織り込まれたスコットランド人作家スティーヴンソン「宝島(Treasure Island、 1883年)」や英国作品「ピーター・パン(Peter Pan、初出1902年)」シリーズの様な傑作が次々と生まれる環境は整っていなかったのである。当時は「ハックルベリー・フィンの冒険(Adventures of Huckleberry Finn、1885年)」を発表した米国人作家マーク・トウェインの様に「自称モラルの守り手のみなさん」に目をつけられるとマスコミを総動員したネガティブ・キャンペーンの生贄にされ、社会人としての生命を抹殺される事もあった時代だったのである。

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  • さらに遡ると、1702年から1709年にかけて実際に無人島で生活したスコットランドの航海長アレキサンダー・セルカーク(Alexander Selkirk) の実話を基にしたダニエル・デフォーロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe、1719年〜1720年)」まで行き着く。この作品は「試練に決して屈しない近代人」を称揚する一方で「スペインとの領地獲得戦争に英国人を一人でも多く動員する」という裏の意図を内包していた。
    *当時多くの南洋物がこうした具合に植民地拡大政策を奨励する意図で執筆された事実もまたこのジャンルに色濃く足跡を残しているのである。
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    *また「ロビンソン漂流記」はヨハン・ダビット・ウィースの手になる二次創作「スイスのロビンソン(Der Schweizerische Robinson、初版1812年)」を経て「家族漂流物」という新ジャンルを生み出した。「宇宙家族ロビンソン(Lost in space、1965年〜1968年)」「ふしぎな島のフローネ(1981年)」はこの系譜。


  • こうした「南海漂流物の暗黒面」が作中で取り上げられる様になったのは、ある意味「十五少年漂流記」のパロディとして執筆されたウィリアム・ゴールディング「蠅の王(Lord of the Flies、原作1954年、映画化1963年、1990年)」以降とも。冷戦を背景に最終戦争の最中を描いたこの作品では、漂着した少年達の獣性が次第に解放され、最後は互いに殺し合う。
  • アメリカの小説家アレグザンダー・ケイのSF小説「残された人々(The Incredible Tide、1970年)」も「最終戦争後も争い続ける事をやめられない人類の醜悪さ」をシニカルに描いた作品だったが、これをNHK東映から原作として押し付けられた宮崎駿監督は「こんな世界観、子供達の代にまで押し付けるのが本当に正しいのか?」なる義憤に駆られてその内容を完全に換骨奪胎した「未来少年コナン(1979年)」を制作。

    *この路線の第二弾となるはずだったジュール・ベルヌ海底二万里(Vingt mille lieues sous les mers、1870年)」を原作とする「海底世界一周旅行」企画から宮崎駿監督「天空の城ラピュタ(1986年)」と庵野秀明樋口真嗣監督作品「ふしぎの海のナディア(1990年〜1991年)」は分岐した。

    *そういえばキングコングゴジラモスラといった特撮作品もまた歴史的背景として「南洋物独特のドロドロ」を背負ってきたのではなかったか? アメコミの世界においても、1970年代を席巻するウルヴィァリン躍進の契機となったのは南海における水爆実験を契機に覚醒した「生きてる無人島」クラコア(krakoa))の登場だった。

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  • ブルック・シールズが主演した「青い珊瑚礁 (1980年)」に至っては、無人島に少年少女が漂着したのも植民地獲得戦争の一環で(そうした歴史的背景を一切知らずに育った筈の)年若きカップルは、その純真無垢さゆえに「大人の築いた文明社会」が近隣で暮らす「人食い人種の世界」よりおぞましい修羅界である事を察知し、彼らに発見されると毒を飲んで一家心中を遂げる。観客がこぞって「これぞ人間。我々もまた人間として汚れた文明社会に屹然と背を向けるこの態度をこそ見習わねばならない」と感涙の涙を振り絞ったのもまた1980年代前半の現実であった。「何もわかってない大人社会の言う事なんて一切聞くな!!」なるメッセージの込められたスピルバーグ監督作品「未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind、1977年)」「E.T.E.T. The Extra-Terrestrial、1982年)」もまた大ブームとなった国際的左翼黄金期とはそういう時代で、その衝撃は資本主義圏だけでなく共産主義圏までをも揺がし「それって同じ大人のあんたらの云う事も信用ならないって事だよな」とする1990年代後半の「ニヒリズムに走る子供」へとつながっていく。

    *こうした展開を予言したとされるホフスタッター「アメリカの反知性主義(Anti-Intellectualism in American Life、1963年)」に「究極的な意味においてインテリが大衆の支持を勝ち得ないのは、その要望が強まるとあっけなく自らの在り方を全面否定してしまうその節操のなさにある」といった言い回しがあった気がする(うろ覚え)。実は「大同主義(絶対平等主義)」なんて案外インテリの妄想の中にしか存在しない(そういえばマルクスエンゲルスもレーニンも毛沢東周恩来も鄧小平も皆、ブルジョワ階層出身だった。一方本当に貧民出身だったスターリンは「大同主義」なんて歯牙にもかけずただひたすら政敵を粛清しつつ独裁を謳歌した。宋朝(960年〜1279年)を開闢した趙匡胤やその弟たる趙匡義がそうだった様に。明朝(1368年〜1644年)を開闢し発展させた朱元璋永楽帝がそういう存在だった様に)。実は大衆自身はむしろエリート階層に憎みながら依存し、むしろ傲慢な態度で「確かに俺達は社会的に優遇され、富裕層を形成している。しかしそれは一般人より余計に社会的責務を果たしている対価に過ぎないし、優秀な人材ならこれに身分を問わずどんどん加わってくるし、逆にその条件を満たさない旧族は脱落を余儀なくされる」と言い返されるのを好むとも。原則として「革命」はこのメカニズムが回らなくなった時に発生。あと概ね革命成功後、真っ先に粛清されるのは「ブルジョワ階層を率先して弾劾する事で革命全体のイニチアシブを握ろうとしたブルジョワ階層の裏切り者達」。

  • その一方で(南仏経由で)地中海の覇者であり続けたいフランス人の執念はジャン=ジャック・ベネックス監督「ベティ・ブルー 愛と激情の日々(仏題37°2 le matin、英題Betty Blue、1986年)」やリュック・ベッソングラン・ブルー(Le Grand Bleu、1988年)」に結実する事に。改めて「フランス三色旗の青は何なのか」について問い詰めたくなる。

    *「地中海沿岸に広がるあの景色」‥それは「太陽がいっぱい(Plein soleil、1960年)」や「ベニスに死す(英題Death in Venice、伊題Morte a Venezia、仏題Mort à Venise、1971年)」におけるイタリア沿岸部、カリフォルニア、湘南のの景色でもある。そういえば「シン・ゴジラ」も鎌倉から上陸してた。

こうした国際的な流れの中で日本はアジア再進出の契機になればと「アラーの使者(1960年)」「怪傑ハリマオ(1960年〜1961年)」「少年ケニア(1984年)」の様な作品を制作し続けてきた訳である。

シルヴェスター・スタローン主演、監督、脚本作品「ランボー/最後の戦場(Rambo、2008年)」には、ジャングルに埋もれたビルマの戦場跡に残る大英帝国軍や大日本帝国軍の足跡を辿りながら「ここは誰もがこなかった事にしたがってる忘れられた戦場なのだ。戦い自体は今も続いている」と述べる場面がある。この一言には当然、ランボー・シリーズで大儲けしてきたシルヴェスター・スタローン自身の自戒の念も込められている。

 ところでダニエル・デフォーロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe、1719年〜1720年)」は(無人島で孤立しても)近代人(利潤を最大にするため合理的に行動する経済人)であり続ける為の条件を「日誌と帳簿をつけ続ける」点に求めました。
カール・マルクスも「資本論(独: Das Kapital:Kritik der politischen Oekonomie 、英: Capital : a critique of political economy、第1部1867年、第2部1885年、第3部1894年)」の中で「経済学はロビンソン物語を愛好する」としたし、ドイツの社会学者マックス・ヴェーヴァーも「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus、1904年〜1905年)」において、あくまだ当時のイギリス中流階級の行動原理を貫き通すロビンソン・クルーソーに資本主義的人間の典型を見ている。

実はその信条、貝原益軒が日本初の体系的教育書「和俗童子訓(1710年)」の中でこう書いているのと重なります。

貝原益軒「和俗童子訓(1710年)」

七歳より和字(かな)を習はしめ、又おとこもじ(漢字)をもたらはしむべし。淫思なきを古歌を多くよましめて、風雅の道をしらしむべし。是また男子のごとく、はじめは、数目ある句、みじかき事ども、あまたよみおぼえさせて後、孝経の首章、論語の学而篇、曹大家(そうだいこ)が女誡などをよましめ、孝・順・貞・潔の道を教ゆべし。十歳より外にいださず、閨門の内にのみ居て、おりぬひ、うみつむぐ、わざを習はしむべし。かりにも、淫佚(いんいつ)なる事をきかせ知らしむべからず。小歌、浄瑠璃三線の類、淫声をこのめば、心をそこなふ。かやうの、いやしきたぶ(狂)れたる事を以て、女子の心をなぐさむるは、あしし。風雅なる善き事を習はしめて、心をなぐさむべし。此比(ころ)の婦人は、淫声を、このんで女子に教ゆ。是甚だ風俗・心術をそこなふ。幼き時、悪き事を見聞・習ては、早くうつりやすし。女子に見せしむる草紙も、選ぶべし。古の事、しるせる書の類は害なし。聖賢の正しき道を教えずして、ざれ(戯)ばみたる小うた、浄瑠璃本など見せしむる事なかれ。又、伊勢物語源氏物語など、其詞は風雅なれど、かやうの淫俗の事をしるせる書を、早く見せしむべからず。又、女子も、物を正しくかき、算数をならぶべし。物かき・算をしらざれば、家の事をしるし、財をはかる事あたはず。必ずこれを教ゆべし。

*当時の研究によれば「女子を淫俗から遠ざけておくには誰にも接触させず座敷牢に一人で閉じ込めておくしかない」といった厳格主義っぽい言い回しの箇所は「中華王朝の掲げる理想ではそうなっているが、日本における実践は不可能。ならばせめて毎日日記や家計簿をつける習慣をつけさせ、読物や芝居に狂って破産するリスクを抑え込むべきである」といった具合に意訳するのが正しいらしい。

こうした思考様式を「こんなくだらない考え方しか出来ないから何時までたってもイギリス人は世界中から笑い者にされ続けてるんだ」と頭から馬鹿にし続けた結果、イギリスばかりかドイツやアメリカや日本にも抜かれて二等国に転落する憂き目を見たのがフランスという国の悲劇(喜劇?)。近代以降は「散々上から目線で威張り散らしておきながら、実際に戦うと必ず敗れ、ほとぼりが冷めるまで暫くの間は従順にしている」歴史を繰り返してきた為に「Cheese-eating surrender monkeys」なんて不名誉な渾名まで頂戴する羽目に陥りました。

まぁ、国籍問わずみんなフランス系男子にはこんな態度なのも「この程度で気を悪くする様なら、そいつってフランスで暮らす様になって日の浅い移民か何かに違いない」なんて確信が行き渡ってるからだったりして。まったくもって損だか得だか分からない民族性です。
*しかし女子は別に男子から優しくされたいばっかりでもないので、かえってそれに魅かれる向きもある模様。(アメリカよりフランス文化の影響を色濃く継承してるのが自慢の)カナダ出身のジャスティン・ビーバー辺りも平然と「女の子はみんな深層心理の中じゃ、フランス訛りの男の子に夢中になりたいのさ」なんて口にしてたし。何その岡村靖幸みたいな憎まれ口? KPOPアイドルの一部が模倣を試みてるっぽいけど生兵法は怪我の元…

こうして全体像を俯瞰するとフランスは「(地中海沿岸の)南仏」とか「(英国との関係が歴史的に深かった大西洋沿岸の)ナントやボルドー」とった土地でも舞台に選ばない限り、海洋文学のジャンルでは(船員出身作家の層が伝統的に厚い)英国の後塵を仰ぐ事になっちゃうのですね。(北海への出口はハンブルグ、地中海への出口は(今はイタリア領の)トリエステに限られる)ドイツやオーストリア同様、基本的には「陸国」なんですね。それなのに(いやだからこそ)「何時の時代の何処の場所かも不明な南の孤島」を選んだ時点で「レッド・タートル」は「環境オリエンテッド」なる最新トレンドに背を向けた形になったとも。

さらには既存の南海漂流物の物語文法全てに背を向け「今こそフランス人が本物の南海漂流物を見せてやる!!」とやらかした感あり。このままでは「これだから自分たちだけが世界の中心だと信じ込んでる芸術家気取りのフランス人男性クリエータは!!」と叩かれて終了かもしれません。
*不思議な事に Zagtoon制作のCGアニメ「Miraculous: Tales of Ladybug & Cat Noir(2015年〜)」とかフランスのゲームスタジオDONTNOD制作の「ライフ イズ ストレンジ(Life Is Strange、2015年〜)」といった国際的人気作品に限ってフランスで評判が悪い。「外国人に媚を売る裏切者」とか「フランスらしさを貫けてない」とかそういう色眼鏡で見られてしまうせいらしい。そういう展開がますます「これだから自分たちだけが世界の中心だと信じ込んでる芸術家気取りのフランス人男性クリエータは!!」という声を大きくしていく悪循環…

こういう部分をジブリがどうフォローしてるかというと…

鈴木プロデューサーは、ビット監督がスタジオジブリを訪問した際に宮崎駿監督が伝えた“3つの思い”を明かした。「1つは10年間、本当に粘り強く頑張りましたねと。ねぎらいの言葉でしたね。10年の間にはいろいろあったんだろうから、くじけそうになった時もあったでしょうと。でもそれを最後までやり通したのが、まず第1に素晴らしいと」。

さらに「2つ目は、僕も聞いていて新鮮だった」と続け「いま、世界のアニメーションの情勢は、良い意味でも悪い意味でも日本のアニメーションの影響を与えている。あなたの作品を見る限り、日本の影響を一切うけていない。それは見事である」という称賛の言葉を明かす。

そして3つ目の話は、宮崎監督のアニメーターとしての真意だったという。「いま、日本の状況は手描きからCGへと移行する転換期。そうした時に、ジブリもそれをどう選択するか、厳しい選択を迫られている」という前置きのうえ、「彼はアニメーターだから、うらやましかったんでしょうね。本作を見ながら、『素晴らしいスタッフと作品を作っている』『このスタッフがほしい』『このスタッフがいれば俺もやれるかな』と僕にもらした。引退したんですから考えてほしいんですがね(笑)」と語った。

このインタビューを読んでますます鑑賞意欲を喪失。ここでまさかの「フォローする気皆無」?

  • 「やり通したからえらい」…「時間をかけたなりの出来栄え」というニュアンス皆無

  • 「全然日本の作品の影響を受けてない良い」…予告編見ただけでもフランス映画っぽさに溢れてるけど、その事への言及皆無。そもそも宮崎駿監督が好きそうな欧州作品の要素皆無。バンド・デシネ(bande dessinée)っていったら、とりあえず「メビウス」だよね? 

  • 「このスタッフがいれば俺もやれるかな」…「俺だったらこうは作らない」といったニュアンスの手塚治虫的嫉妬心剥き出し宣言にしか見えない。

さらに日本版ではポスターから女性登場人物が完全に排除されてしまいました(予告編にはちょっとだけ出てくる)。 

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一体、観客の想像力を何処に向けて誘導しようとしてるの?