現実社会はより冷酷です。「文武両道」というけれど、そもそも「文」の原義は「装飾」。軍隊を支える交通網と人材供給網と兵站網こそが基本インフラで、これを民政レベルで支える官僚制やその全てを正当化する宗教儀礼(政教分離後の「国家行事」)は全て上物に過ぎないという発想は近代社会を基礎付ける理念の一つ「法実証主義(英: legal positivism, 独: Rechtspositivismus)」にもしっかり継承されています。
*ここで重要なのはオーギュスト・コントが「超越的存在の介在を一切否定し、経験的事実のみに基づいて理論や仮説、命題を提唱し検証する態度」と規定した「実証主義(英: positivism、仏: positivisme、独: Positivismus)」の原義が「(神によって)置かれた」を意味するラテン語「positivius」に由来するという事。つまり「ポジティブ(positive)」という言葉は「経験によってのみ裏付けられた事実」なる枠組を離れて使われると必ずや何かしらの形で宗教的ニュアンスを含んでしまうものなのである。
ではこうした思考様式の原材料となった考え方とはどんなものだったのでしょうか。
太平洋戦争敗戦前の日本人は、社会の諸学問に、公共的あるいは個人的な行動においてはたらくいろいろな要素をどのように合目的的に再構成するかという問題について、たずねることができなかった。社会の学問はあっても、それは多くは「科学的」ではなかったのである。その為に公共的・個人的行動においては、慣習や直接的信条やいわゆる熟練した経験による見通しや勘にたよるほかはなかったのであった。
*神聖ローマ帝国同様、大日本帝國においても社会学は「国体を疑う危険な学問」として禁止されていた。この事実から出発しない限り「ドイツ・ロマン主義における社会性の欠如」「プロイセン王国の在り方を全面擁護したヘーゲルに反抗したマルクスの主張展開」「大日本帝国期日本におけるドイツ・ロマン主義への過剰なまでの傾倒」「戦後日本におけるマルクス主義への過剰なまでの傾倒」「(社会性の欠如した)セカイ系作品の流行」という一連の流れは読み解けないのである。
どうやらドイツや日本はこの件について最近まで「周回遅れ」状態にあった事を認めざるを得ない様です。主舞台となったのは英国、フランス、そして意外にもイタリア。
- ヘレニズム期ギリシャ(紀元前4世紀〜紀元前1世紀)を席巻したエピクロス(Epikouros、紀元前341年〜紀元前270年)の快楽主義(Epicureanism、Epicurism)やストア派のゼノン(Zēnōn, 紀元前335年〜紀元前263年)の禁欲主義(Stoicism)。
一見正反対だが(超越的存在の介在を一切否定し)五感で感じられる体験の総計のみを信じる」という点では表裏一体の関係にある。古代ローマ時代の哲人セネカ(Lucius Annaeus Seneca、紀元前1年頃〜65年)経由で(ローマ教会の教学に対抗すべく)ギリシャ・ローマ時代の古典を教養として学ぶフランスや英国や貴族に継承されてリベルタン(Libertin、フロンドの乱(La Fronde 1648年〜1653年)で絶対王政に敗北した屈辱から善悪の彼岸を超えて刹那的快楽に生きる決意を固めたフランス放蕩貴族)や効用主義者達(The Utilitarians、「全ての人間行動は快楽と苦痛の計算に還元可能」と豪語した英国経験哲学の一流派)を経てジョン・スチュアート・ミルの自由主義的政治哲学( libertarianism、自由は個人の発展に必要不可欠なものであり、それが他者に危害を加えない限り制約を受けるべきではないとする考え方)に至る。
- 日本平安王朝において空海(774年〜835年)が到達した真言密教、イスラム帝国においてガザーリー(Abū Ḥāmed Muḥammad ibn Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī 、1058年〜1111年)が到達したスーフィズム(Sufism、イスラム神秘主義哲学)の呪術論的世界観。「名指すもの(合目的に整えられた術式、コンピューター用語でいうところの「言語」)」を通じて「名指されるもの(合目的に整えられた対象である意味「神そのもの」、コンピューター用語でいうところの「OS/BIOS/CPU」)」に働きかける事によって「世界そのもの(コンピューター用語でいうところの「デバイス機器」)」に効果が及ぶとした。
*後者は(デカルトの機械的宇宙論の原点でもある)スコラ哲学の起源でもある。ただこの考え方、コンピューターなる確固としたインフラが構築されるまでは運用上メリットよりデメリットの方が大きかった。「処女の経血」とか「童貞の精液」とかガザーリーと空海がタッグを組んで「Wライダー・キック」を蹴り込んでくるレベルの脱線だよ!!
- 16世紀イタリア・ルネサンス期に人体解剖学を主導したパドヴァ大学やボローニャ大学で流行した新アレストテレス主義。すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」といった考え方。
*まず驚くべきは、中世において西ローマ教会の教学を伝統的に支えてきたボローニャ大学がこうした運動の震源地の一つになったという事。ただし当時のローマ教皇庁は、その延長線上において天動説までなし崩しにされてしまう事は望まなかったのであった。こういう恣意的線引きを嫌ったが故のオーギュスト・コントの「科学者独裁主義」だったという観点が重要。
- 英国における「時効の憲法(prescriptive Constitution)」理念の成立。歴史上にはある世代が自分たちの知力のみで改変する事が容易には許されない「実体」が存在するとした。経済人類学者カール・ポランニーも「大転換(The Great Transformation、1944年)」の中で英国囲い込み運動(16世紀、18世紀)を分析し「当時の議論や衝突において誰が正しく、誰が間違っていたか問うだけ無駄である。後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ」と指摘している。
*この考え方が当時同君統治状態だったハノーファー経由でドイツに伝わり、現地における啓蒙主義者達との論争からドイツ観念論が発祥する事になる。
1250夜『崇高と美の観念の起原』エドマンド・バーク|松岡正剛の千夜千冊
バークがフランス革命を批判したのは歴史と人間と政治の関係をオーガニックなシステムとみなしていたからで、フランス革命には「その関係がない」と看過したからだった。その意味でバークは社会有機体論の先駆者でもあったった訳で、この考え方はコンドルセ経由でオーギュスト・コントに継承される事になる。
おそらく最初の変化は既に火砲で武装した常備軍が戦争の主役となり、それを養う方策を探して経済学の発展が始まった16世紀から17世紀にかけて始まりました。そして気付くと「文」は飾りどころか(軍人を含む)官僚制として国家を支える主体への昇格を遂げていたのです。そして19世紀に入ると社会学が発祥し、その機構をさらに精緻化させていきます。産業革命もますます加速し、あらゆる局面において「情報処理能力」が極めて重要な意味を持つ事に。
ところでフランス革命期(1789年〜1794年)、「バブーフの陰謀(1897年)」などを企んだネオ・ジャコバン派は市民の経済状態の平等を回復しようとした「グラックス兄弟の改革(紀元前2世紀後半)」を理想視します。王政も気にくわないが、他人との意見調整が不可欠の議会政治も気にくわない。これが共産主義の「一党独裁」主義の起源とされています。
ところが19世紀末ともなるとエンゲルスの支持者が「コンピューターだけがこの世界を上手く回せる」なんて言い出すのです。ある意味人類としての主体性放棄、「領主が領民と領土を全人格的に代表する権威主義体制」への精神的退行とも。
社会主義経済計算論争(economic calculation controversy、1920年代〜1930年代)
社会主義経済の可能性について経済学者の間で起こった議論。オットー・ノイラートの「戦争経済から実物経済へ」に対してルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが「社会主義共同体における経済計算」で反論したことが発端となった。
- 設問は「社会主義経済において、生産手段は公のものとされ、生産量は国家が決定するため、市場や価格は存在しないことになる。このような経済が現実に適用できるものか」というもの。
- 否定派の意見としては「貨幣が存在しないとすれば価格もうまくつけられない」としたミーゼス、「すべての情報が集まらない以上、計算は不可能」としたフリードリヒ・ハイエクが有名。
- 肯定派としてはミーゼス、ハイエクの不可能論に対し「市場メカニズムを社会主義経済に導入することで社会主義は可能となる」としたオスカル・ランゲ、それに同調したアバ・ラーナーらが有名。
いずれにせよ誰も「計画経済がそのまま遂行可能」とは考えなかった。実際、計画経済システムの内在的な欠陥を市場メカニズムの導入により解決しようという試みがコスイギン改革やハンガリーにおいて進められたが、結果的に失敗している。
「社会主義計算」論争が生じたのは19世紀末だ。産業革命がもたらした壮絶な貧困を証拠として、社会主義者たち、マルクス主義者たちなど、自由放任の批判者たちは自由市場がつまりは失敗し、生産と分配についてコントロールできる優しい政府のほうが、財をもっと効率よく平等に割り振れるのだと論じた。「社会主義計算」論争が起きたのは、自由放任の支持者たちが市場のほうがリソースをうまく、あるいは少なくとも無限に賢い政府と比べてもひけをとらないくらいにうまく割り振れるのだ、と論じて、これが論争となった。
この論争は、マルクス主義学派が登場したときから始まっていたとはいえ、正式に「社会主義計算」論争を真剣に議論したのはワルラス派経済学者であるエンリコ・バローネだ。バローネは、1908 年論文「集産主義国家における生産省」でこれを論じ、続いてパレート (1896; 1906: p.266-9) も独自の考察を行った。バローネは、少なくとも原理的には社会主義経済でも資本主義と同じくらいよい成果を挙げられるはずだ、というのも価格というのはワルラス系の連立方程式の解でしかないと考えられるからだ、と論じた——その方程式を解くのが政府だろうと市場だろうと関係ない、と。
だが、社会主義システムのほうが実はもっと優秀だったりしないだろうか? この問題を提起したのはオットー・ノイラートだ。ノイラートは、第一次世界大戦中に、政府が「戦時経済」を実施して、それが雇用を高水準にたもち、景気変動を防ぎ、戦争のためになかなか効率よくリソースを仕切り、生産を最大化したようだということを指摘した。平時でも同じことができるのでは? ノイラートは、それが可能だと思った——ついでに、そういうシステムならお金がいらないという追加の利点もある。集産コントロールなら「実体価値」だけで十分だ。オットー・バウアーやエミール・レーデラーなど、第一次大戦後のドイツ社会主義化委員会に関わっていたマルクス主義者たちは、お金の廃止についてノイラートほど決然とはしていなかったが、それでも特に産業集中を前提とすれば、社会主義による解決策のほうが効率がよいと明確に考えた。
この問いかけはまた、フレッド・M・テイラーも1929年の有名なAER 論文で発したものでもある。そしてかれは、それを肯定的に回答した——確かに社会主義国家は、私企業経済と少なくとも「同じくらいの効率」を実現できる、ということ。そして集産システムでなら、初期所得(あるいは割り当て)の分配もまた政府がコントロールできる追加の変数となるという追加のメリットもある。これは市場経済にはない。消費はどうだろう? モーリス・H. ドッブ (1933) はさらに、消費者の独立性なんてそもそも過大評価されているとまで論じた。政府が生産だけでなく消費の決定もコントロールすれば、「非効率」の問題はなくなる、というわけだ。
ここで オーストリア学派が、ルードヴィヒ・フォン=ミーゼスという大砲をひっさげて参戦した。有名な1920年論文「社会主義コモンウェルスにおける経済的計算」で、ミーゼスは攻撃を開始した——社会主義経済における価格システムは必然的に劣っている、なぜなら社会主義システムで政府が生産手段を保有しているなら、資本財は最終財とはちがって単に内部での財の移転にすぎず、「交換対象」ではないので価格が得られない——したがって値づけされず、したがってこのシステムは必然的に非効率なのだ、と。
だがミーゼスの議論構築には誤謬があった——H・D・ディキンソン (1933) はすぐにそれを指摘した。というのも、バローネ と テイラーが示したように、世界をワルラス的連立方程式として見てそれを解こうとするなら、内的産物に値づけできないなどという問題は生じないのだ。というわけでボールはオーストリア学派のコートに打ち返され、それに反論する役目を受けて立ったのはフリードリッヒ・フォン=ハイエク (1935) だった。バローネとテイラーが夢見た連立方程式系は、あまりに多くの情報を必要とするし、それはどう見ても簡単に手に入るものではなく、それが得られても、必要な計算(何千もの方程式が出てくる)はむずかしすぎる、とハイエクは論じた。同様に、市場経済で提供される経済インセンティブは、集産システムでは再現できない。
パレート派の経済学者、特にテイラー (1928)、ヤコブ・マルシャック (1923)、オスカール・ランゲ (1936, 1938) 、アバ・ラーナー (1934) は、国家運営の経済は少なくとも同じくらい効率的になれると論じた——ただし、政府の計画者たちが価格システムを、市場経済と同じように使えばだが。これはもちろん、パレートの厚生経済学基本定理の適用でしかない。さらに、現実的な意味でいえば、市場経済だって市場の失敗にすぐにぶちあたる(たとえば不完全競争や外部性、取引費用など)し、そうなれば価格メカニズムでは効率的な割り振りができなくなる。完全に競争的なシステムであるかのように価格設定をする政府はこれを克服でき、したがってもっと高効率になれる、というのだ。
オスカール・ランゲの議論は特に強力だった。価格というのは、ある財と別の財の交換レートでしかない(あるいはパレート (1906: p.155) 式に言えば、それは「財の分配とその変換と関連した会計装置」なのだ)。それを意志決定者にとってのパラメータとみるにしても、それが中央計画者に提供されようと、市場に提供されれようと、国有企業の経営者たちが費用最小化を目指すよう支持されれば関係ないはずだ。市場が正しい価格を「見つけ」安定させるという機能はめざましいものではある。だが政府がワルラス派のいう「競売人」になればいい——模索過程を通じて価格を探すというわけだ。さらに、社会主義経済にはインセンティブがないという問題について、現代の資本主義経済だって、所有(株主)と経営者(CEOなど)との間の亀裂が増大して、インセンティブは同じくらい歪んでいるではないかとやりかえした (ランゲは、このために各種の制度学派の成果に頼った)。
フリードリッヒ・ハイエクは、この新しい議論に応じて自分の立場をさらに磨き上げた。これは一連の重要な論文 (1937, 1940, 1945, 1948, 1968) で行われ、要するに国家運営経済が資本主義よりリソース割り当ての効率を高くできないのは、市場経済における価格メカニズムの伝える情報は、どんな計画者であれ獲得できる情報よりも多量だからだ、と論じた。これは情報と自己組織化に関する研究として、ハイエクのキャリアの後半で大きな役割を占めることになる。
この論争のおもしろい結果としては、ソ連自体において、ランゲが提案した技法が採用されたということがある。これはレオニード・ カントロヴィッチによる線形プログラミングの開発につながり、これにより計画経済における効率的な割り当ては、競争市場経済と実質的に同じように価格の利用が必要だということが示されてしまった。同じことをチャリング・C. クープマンスも、多市場シナリオにおける効率性の定式化された議論で示している。その結論で、集産主義経済は理想化されたワルラス派の世界では民間市場システムよりもよい結果は挙げられない——だが市場より悪い成果になるのが確実というわけでもない。要するに、二人はバローネのもともとの主張に戻ってきただけなのだった——少なくとも理論的には。オーストリア学派は、価格の「情報的」役割とインセンティブ問題に関するハイエクの立場を死守し続けた。
ミクロ経済学、特に価格理論のアプローチのひとつ。主として1つの財の市場における価格と需給量の決定をあつかう「部分均衡分析」に対し、多くの財をふくむ市場全体における価格と需給量の同時決定をあつかう理論を「一般均衡分析」と呼ぶ(ただし、部分均衡は注目する財以外をまとめて一つの財として捉え、明示的ではないがその均衡を考えていることになるため、一般均衡分析でもある)。レオン・ワルラスが19世紀に創始し、1950年代にケネス・アロー、ジェラール・ドブルー、ライオネル・マッケンジー、二階堂副包らの貢献により現在の整合的な分析手法となった。
消費者や生産者がすべての財の価格を与えられたものとして行動する完全競争市場の一般均衡モデルは、消費者や生産者の効用関数や生産関数を特定化しなくても、凸解析や不動点定理などでかなりの分析が可能な数学的に優れた構造を持つ。すべての財の市場の需給が一致する競争均衡価格の存在定理や、競争均衡における資源配分がパレート最適であることを言った「厚生経済学の第一定理」などが、一般均衡分析の重要な定理として知られている。これらの定理は仮定から結論を導く数学的な証明を追うことで理解可能であるが、2財2消費者を図示したエッジワースボックスでも直感的な理解は可能である。
一方、非競争的な市場の分析で、同一市場内で製品差別のない寡占の分析は、完全競争市場の一般均衡ではなく、非協力ゲーム理論によるものが主流になっている。
歴史のこの時点では「コンピューター」といってもパンチカード・システムくらいしか存在しなかったのですが、その登場によって人類の統計処理能力は飛躍的に向上しました。まぁ、それを受けてのこうした展開だったという次第。
そもそも「資本主義社会は間もなく自らの複雑化に耐え切れなくなって自壊する」はマルクスの死後刊行された「資本論第2巻(1885年)」に掲載されていた予言で、本当にマルクスの言葉だったか実に疑問。しかもこの発言を発端に次第に民主集中制(共産党独裁)や産業集中制(計画経済)こそが共産主義の実現すべき体制という話になっていきます。要するにフォイエルバッハから継承した人間疎外論や人間解放論は忘れ去られ、オーギュスト・コントやハーバート・スペンサーの「科学主義(Scientism)」に擬態したヘーゲルが蘇ってしまうのです。
*その発言が大不況時代(1873年〜1896年)のものだった事を考え合わせると世紀末不安と合わせ、20世紀末日本における五島勉「ノストラダムスの大予言(1973年〜1996年)」の様な効き方をした側面が見て取れるとも。そして「予言は外れた」という意識の国際的広がりが社会民主主義の流行につながっていったとも。
経済の資源配分を市場の価格調整メカニズムに任せるのではなく、国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制。生産・分配・流通・金融を国家が統制し、経済を運営する。原則的に全ての生産手段が公有とされる。主に社会主義国の経済体制であり、現在、純粋にこれを採用する国は少ない。 対立概念は市場経済(Market Economy)。また、計画経済と市場経済の利点を共に備えた参加型経済(Participatory Economics、剰余価値は全て生産者たる労働者自らが獲得するので非労働者による搾取がない)も存在する。
①計画の機能を初めて本格的に取り上げたのは「反デューリング論(オイゲン・デューリング氏の科学の変革、1878年)」およびその抜粋版たる「空想から科学へ(Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft、1880年)」を執筆したフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels、1820年〜1895年)とされる。
*マルクス以前の社会主義者にまとめて空想的社会主義(英:utopian socialism, 独:Utopischer Sozialismus)のレッテルを貼り「全員ただの引きこもりで現実社会に爪痕一つ残さなかった」と決め付けた端緒。
- カール・マルクスも「資本論第(独: Das Kapital:Kritik der politischen Oekonomie 、英: Capital : a critique of political economy)1部(1867年)」において生産が「自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれる」とはしている。
- 複雑極まりない経済動態を当局者が完全に把握し、需給を調整したりするのは極めて難しく、コンピュータを用いてこれを解決しようという試みもあった(社会主義経済計算論争、1920年代〜1930年代)。
②実践の原型はソ連におけるレーニンのゴエルロ・プラン(GOELRO plan、1920年〜)、スターリンによる第一次五カ年計画(1928年〜1932年)などに求められる。
- ヨシフ・スターリンが1928年に制定した第一次五カ年計画では1932年までに達成すべき統制数値をゴスプラン(国家計画委員会)により定め、企業の再国有化や農業集団化を実施し、各組織に対して生産計画数値であるノルマの達成を厳命する指令型の計画経済メカニズムの基礎を再構築した。
- ゴスプランの研究者であったフェリドマンのモデルに従い、重工業優先の発展戦略(二部門モデル)により、コンビナートと呼ばれた工業地域の計画・建設、天然資源(石炭など)の大規模な開発が進行。既存の農村はコルホーズと呼ばれる協同組合方式の集団農場に編成され、開拓地に設置されたソフホーズ(国営農場)と共にその後のソビエト農業の基本構成単位となり、この開発モデルは第二次世界大戦後のアジア諸国で採用されることとなる。この政策に反対したブハーリンなどは追放され、やがて多くのネップマンやクラーク達などと共に大粛清の犠牲となった。
- この工業化・集団化政策と、ロシア革命によって世界経済から相手にされなくなり孤立したことが功を奏した。1930年代の世界恐慌で欧米の資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに19世紀のドイツや明治維新後の日本を凌ぐ前代未聞のペースの工業化と高い経済成長を達成したのである。このことは欧米から驚嘆され、強制労働など、スターリン体制の闇の実態について知らなかった知識人の間では理想視された。
- ただし1933年、第一次世界大戦後の国際社会で共に孤立化し、それ故に協力関係を保っていたドイツに反共のナチス政権が誕生すると有力な投資元を失い一層孤立化が進行する。
③世界各国(特に枢軸国)がまず大きな影響を受けた。
- 満州国の産業開発五カ年計画(1937年〜。1939年以降日本の生産力拡充計画に組み込まれる)。
*日本本土でも企画院事件(1939年〜1941年、多数の企画院職員・調査官および関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された事件)などにより不発に終わったケースもあるが、革新官僚らはソ連の計画経済に感化されていた。実際、経済新体制確立要綱(1940年)でも計画経済を目指す事が明記されている。
- ナチス・ドイツでは、私有財産権は保護されたものの、四カ年計画(Vierjahresplan)が作成された。
*1933年からの第一次は失業解消とドイツ富国化を約したスローガン的なもの。1936年からの第二次の目標は戦争に備えてのドイツの国際的自主性確保。特に食料と原料を外国に頼らない自給自足の経済活動(アウタルキー)の樹立。ナチス政権のNo.2であるヘルマン・ゲーリングが計画の全権(ドイツ語: Beauftragter für den Vierjahresplan)となり、計画を遂行する四カ年計画庁は国家省庁として大きな権力を握ったが第二次世界大戦勃発(1939年9月)以降は次第に軍需省などに主導権を奪われていく。
- イタリアは、第二次世界大戦が勃発する1939年まで国有企業が占める割合がソ連に次いで最も高く、事実上ソ連の経済体制とほとんど変わらなくなった。
④一方、1938年にナチス迫害を逃れる為にオーストリアからスイス経由でアメリカに亡命したロシアのオデッサ生まれのウクライナ系ユダヤ人ガーシェンクロン(Alexander Gerschenkron、1904年〜1978年、オーストリア学派の一人)の初期の業績はソ連の計画経済の統計的欺瞞を追及することに当てられた。
- その一方で後に「後進性の優位」論(先進国と後進国の共存状況で、後者は前者が先進技術を取り入れることによって経験しなくてはならなかったいくつかの段階をスキップすることができる)によって明治維新後の日本やソ連の工業化過程を説明している(キャッチアップ型工業化)。
ガーシェンクロン著「歴史的観点から見た経済的後発性」がもつ今日的意義
④戦後は中華人民共和国やベトナム社会主義共和国の様に社会主義を標榜する国だけでなく韓国やマレーシアといった開発独裁下の東南アジアでも五カ年計画が採用されている。ただしその運用はソ連や東欧諸国に比べて弛緩していた為、皮肉にも経済改革(市場経済化)をスムーズに準備した。特に中華人民共和国では毛沢東時代から既に経済の分権化が進んでいたと指摘されている。
経済学者の野口旭は「社会主義経済が崩壊したその根本的原因は、市場経済と比較した場合の効率の悪さ・生産性の低さにある。社会主義最大の問題点は、計画経済よりもむしろ『分配と所有の不平等が存在しない社会』を標榜することで経済の効率化を望む人々のインセンティブを阻害してしまったことにある」と指摘している。
その一方、エンゲルスが大不況時代(1873年〜1896年)渦中の1885年段階において「資本主義社会は間もなく自らの複雑化に耐え切れなくなって自壊する」と予言した事は五島勉「ノストラダムスの大予言(1973年〜1996年)」と同様の効果を生み出しました。世紀末までの熱狂的ブームの持続と予言が外れたことによるブームの急速な終焉。要するにエンゲルスの死後突如として表面化してきたベル・エポック(Belle Époque)なる資本主義的繁栄期について残された共産主義者達は上手く説明出来なかった次第。そして代わって社会学や社会民主主義が注目を集める展開となります。
ところで社会民主主義の重要な源流の一つとなったのは「我々が自由意思や個性と信じ込んでるものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」なる提言で欧州思想史に「資本論」以上の爪痕を残した残したマルクス「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の出版にも尽力したパトロンの一人ラッサール。
織穴 on Twitter: "みんなだいすきラッサールおじさん https://t.co/K5Cfyy09SM"
- 大ドイツ主義の立場からイタリア王国やドイツ帝国の独立を決っして認められず「こんなの当然歴史上の一時的間違いに過ぎない。やがてハプスブルグ帝国は両国とも再併呑する。その方が両国民にとっても幸福な結末なのだ」と予言したマルクスやエンゲルスに対し「両国の分離は歴史的必然。再併合なんてありえない」と断言して名を上げる。
- ドイツ帝国建国の立役者たるプロイセン王国宰相ビスマルクを説得し「収入制限選挙にかこつけて議会を牛耳り、既得権益の保全しか念頭にないブルジョワ階層を国家と労働者で挟撃する」国家福祉主義のグランド・デザインを固める。
*マルクスの反応は「俺を裏切ったな。こうなったら絶交だ。だけどお願いですから仕送りは絶やさないでください。人類の未来の為に」というものだったという。
さらにこんな主張も後世に大きな足跡を残しました。
豊富な法知識を駆使した私有財産概念の推移を巡る論文。
法律制度は特定時における特定の民族精神の表現に他ならない。この次元における権利は全国民の普遍精神(Allgemeine Geist)を唯一の源泉としており、その普遍的精神が変化すれば奴隷制、賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害された事にはならないと説く。
普遍精神(Allgemeine Geist)…一般にルソーがその国家論の中心に据えた「一般意志(volonté générale)」概念に由来する用語とされるが、その用例を見る限り、初めてこの語を用いたD.ディドロの原義「(各人の理性のなかにひそむ)法の不備を補う正義の声」、あるいはエドモンド・バーグの「時効の憲法(prescriptive Constitution、ある世代が自らの知力のみで改変する事が容易には許されない良識)」を思わせる側面も存在する。
その結論は「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的内容だった。
すなわち初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきたとする。
神仏崇拝とは神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。
農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。ギルドの廃止や自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。
これは「ハノーファー王国(1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあり、普墺戦争(1866年)に敗れてプロイセン王国に併合されるまで存続)」経由でドイツが受けてきた英国からの影響の総決算ともされています。実際社会民主主義運動は英国におけるフェビアン協会(Fabian Society)の展開とも密接な関係にあったのです。
しかしながら「民族精神の統合」なんて言い出されると、たちまちドン引きするのが「移民国家」アメリカ。その為、この国における共産主義思想の展開は非常にややこしいものとなります。
- 1930年代にはアメリカ共産党員だったホフスタッター(1939年の独ソ不可侵条約締結に抗議して脱退)が、フランクリン・ルーズベルト大統領を擁護する形で「アメリカの社会進化思想(Social Darwinism in American Thought, 1860-1915、1944年)」において自由放任主義と社会進化論を結びつけて徹底弾劾。
- しかし冷戦開始に伴って「反知性主義者達」の反撃が始まりマッカーシー旋風(McCarthyism、1950年〜1954年)が吹き荒れる。
マッカーシズム/赤狩り - さらに「反知性主義者」代表格のアイゼンハワー大統領はその退任演説(1961年1月17日)の中で軍産複合体(Military-Industrial Complex)の存在を名指しで攻撃。
アイゼンハワーの離任(退任)演説(1961年1月17日)
軍産複合体(Military-Industrial Complex)という概念は、アイゼンハワーがこの言葉を使うからあったようだ。しかし、アイゼンハワーの頭にあった概念は、第二次世界大戦後、急激にアメリカの中で成長した体制である。よくある誤解は、これを単に軍部と軍需産業界の結びつきと捉える概念である。アイゼンハワーの演説草稿では、これをもともと「軍産学議会複合体」としてあったが、大統領が議会を非難するのは拙いという理由で「議会」という言葉を削ったように、また現在では「軍産学複合体」という言葉でも使われるように、アメリカの金融資本、産業資本、軍需産業、政府、官界、議会、産業別利益団体、ほとんどの有名大学を巻き込んだ学界、労働界、ほとんどの有名マスコミを含んだジャーナリズム界、広告・広報業界、退役軍人の団体、各州地方の利益団体、宗教界などなどを巻き込んだ広範な概念である。その萌芽はマンハッタン計画を中心とした「核兵器開発」体制とその後の展開に典型的に見られるという。
*要するにここで弾劾されたのは進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1920年代)の成長を牽引した「科学独裁主義(Scientific Despotism)」の暴走した姿。アイゼンハワーは慎重に進歩主義時代そのものは弾劾しない様に言葉を選んでいる。
ホフスタッターは「アメリカの反知性主義(Anti-Intellectualism in American Life、1963年)」の中で「この様な不毛なネガティブ・キャンペーン合戦の繰り返しはアメリカ政治に対する国民の信頼感を失墜させるのみ」と指摘しましたが、時すでに遅し。ベトナム戦争泥沼化に便乗したヒッピー運動や黒人公民権運動の加熱を食い止めるには至らなかったのです。それを恥じて晩年は自らの歴史観の全面再建に取り組みましたが、結局果たせないまま終わっています。
そもそも計画経済の遂行には、どうやら「領主が領土と領民を全人格的に代表する権威主義体制」が必要らしいのです。少なくともそうした伝統を持たないアフリカ諸国では全く機能しませんでした。開発独裁の成功例がアジアにしか存在しないのはその為とも。
その一方でマルクスがフォイエルバッハから批判的に継承した人間疎外論や人間解放論は「暴力論(Réflexions sur la violence、1906年初出、1908年初版)」のソレルを経てファシズムやナチズムやスターリニズムといった全体主義思想に継承される事に。 その過程で再び原型を完全に喪失してしまいます。よっぽど共産主義思想との相性が悪いとしか思えない? ボローニャ出身のパゾリーニ監督(父親がファシスト英雄で当人が共産主義者というハイブリッド・タイプ)の指摘する「究極の自由主義は専制の徹底によってしか達成されない」ジレンマが歴史のどこかの時点で必ず炸裂してしまうのです。
民主主義が無力なのは大衆が訓練を受け一枚板に組織されていないから。彼らが力を得るにはさらにその組織が特定の時代精神の体現者として編纂される必要があり、この段階に至って初めて民主主義は本来の力を発揮する。
*「訓練を受け一枚板に組織された大衆」が勝ったって、それはもはや民主主義ではないの気もする。おそらくソレルを含むアナルコ・サンディカリスム (Anarcho-syndicalism、無政府組合主義)における「労働者」の概念の援用。元来はドイツのスパルタカス団(ソビエト連邦の様な地域ごとの労農協議会による分割統治を志向)や革命的オップロイテ(フランスのアナルコ・サンディカリスム運動同様に特権を確約されたギルド復活を志向)同様、「絶対王政以前の中世的分権状態への回帰」を目指す立場。だが、その部分を民主集中制(共産党独裁)や産業集中制(計画経済)に差し替えてしまうとファシズムやナチズムやスターリニズムといった全体主義思想と区別がつかなくなる。マルクスが批判的に継承したフォイエルバッハの人間疎外論や人間解放論はむしろ「分離主義」として弾圧対象となる。
塚原史「暴力論の系譜――今村仁司とジョルジュ・ソレル――」
*皮肉にもソレル当人は「職人の自らの天職への没頭が即創造的行為となる時代への回帰」を目指していただけだったとも。ただ実際の社会はマルクスの指摘する通り「我々が自由意思や個性と信じているそれは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」有様なので、労働者はこのシステムを破壊する為にまず一枚板となって動く軍隊として訓練され組織されねばならぬとした。ベルクソンの「エラン・ヴィタール(élan vital、生命の飛躍)」哲学の影響も受けての提言だったが、ここでいう「労働者」を「国民」や「民族」に差し替える形でファシズムやナチズム、ひいてはスターリニズムといった全体主義思想は成立したのだった。
1212夜『時間と自由』アンリ・ベルクソン|松岡正剛の千夜千冊
こうした問題も引き起こした「ソレル流マルクス主義」を批判的に継承しようとしたのがキリスト教民主党と共産党の連立政権が成立した1960年代後半イタリアで伝説的活躍を見せたアントニオ・ネグリのマルチチュード論となります。
1029夜『構成的権力』アントニオ・ネグリ|松岡正剛の千夜千冊
一言で要約するとそれは「国際的帝国主義の統制志向をぶっちぎるべく、カンブリア爆発を人為的に引き起こせ」といった内容で、全体像を俯瞰すると「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なる行動主義の高頻度(High Frequency)とも見て取れるのです。
ここまでくると古くはマイケル・クライトン「アンドロメダ病原体(The Andromeda Strain、1969年)」や「ジュラシック・パーク(Jurrassic Park、1990年)」「ロスト・ワールド -ジュラシック・パーク2-(The Lost World、1995年)」、最近だと庵野秀明監督「シン・ゴジラ」の世界。
一般に 社会学(英sociology、仏Sociologie、独Soziologie)を勉強する人間はまず最初、こう教わります。
社会学は一般に2つの主張から構成される。
ここでいう社会現象に共通する一般的要素として何に注目するかが問題となる。
- ユダヤ系ドイツ人ゲオルク・ジンメル(Georg Simmel、1858年〜1918年9)は「社会学の問題(1894年)」以降、「相互行為(複数の人間のたがいに関連しあった行為、あるいはそれぞれの個人の別の個人に対する対面態度)」に注目。
- ユダヤ系フランス人エミール・デュルケーム(Émile Durkheim、1858年〜1917年)は「 社会学的方法の基準(1895年)」以降、「社会的事実=制度(個人を拘束する安定した相互作用のパターン)」に注目。
- ドイツ人マックス・ウェーバーは「理解社会学のカテゴリー(1913年)」以降、「行為(意図をもった人間の行動)」に注目。
でも、もはやインターネット上で観測されるトレンドの高頻度(High Frequency)展開(カンブリア爆発の如く物凄い勢いで系統が発展していき、しかもそのうち9割以上が種的安定状態にすら到達する事なく数時間で死に絶えていく)をこのうちどれかに落とし込もうという動きは見られません。ドーキンスのMeme(情報遺伝子)モデルが分析の主流となったのもそのせい?
「政敵(資本主義社会や同じ共産圏の大国)に憧憬も罪悪感も一緒くたに投影してきた」共産主義的ツンデレの原点はこれなのかもしれません。「商業的発展によって複雑化の一途をたどる社会は、やがてそれに耐え切れなくなり自壊する」実例なら共産主義国にこそ溢れてる訳で。一足先にその段階を「卒業」したロシアの歴史学すら「共産主義とは、近代未経験の後進国がそれを疑似体験した後で使い捨てにする瘡蓋(かさぶた)の様な歴史的段階にすぎない」なんて言い出してる有様ですし。
さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流してるんでしょうか?