諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】東浩紀「もう批評家としてセカイ系は擁護できない」?

そういえばこの場面も「青=生の象徴」と「赤=死の象徴」がキーカラーとして対になってる事に気付いた。「生きる」とはどういう事か?「死ぬ」とはどういう事か? なぜか今年はこれをテーマとする作品ばかり日本で公開されてる気が…

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おそらく以下の考察の発端はこの記事における「新海誠作品が受容される国では、村上春樹作品も受容されてる」辺り?

同じ村上春樹作品でも新海誠監督のお気に入りは「ノルウェイの森(1987年)」でなく「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985年)」で、しかも「あの物語の閉じ方はない」が創作の原動力になってるみたいなんだけど。もしかしたら別の時間軸に入り込んでしまった?

そもそも新海誠「君の名は」なる作品は(ポップな部分だけ抽出した)映画展開と(ディープな部分を一切切り捨ててない)小説展開(スピンオフ含む)の二重構造になっていて、両者の関係をどう把握するかで解釈が全然異なってきます。どうしてこの界隈の人達って、その件について一言も言及しないんだろう?

そして「ディープな部分」を掘り下げると、どうしても「レッドタートル ある島の物語(英題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge)」についても触れざるを得なくなってきます。どちらも視野外でピクチャレスク(Picturesque)な超越的存在(すなわち「死」そのもの)が踊っていて、それとどう付き合うかって物語なので。どうやらこれが最近のトレンドらしく「料理人」の手腕は「怖いとも怖くないとも感じれらる絶妙な線引きをどこに敷くか」に問われます。とはいえ五十嵐大介海獣の子供(2006年〜2011年)」辺りに目を通してるとだんだん紙一重にしか思えなくなってくるのも事実。 
*というか鑑賞中に「そこで服を着せるか、臆病者め!!」と叫びたくなった。というかその服何処から出てきたの?何故突然消えるの?「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(Song of the Sea、2014年)」では「そこでガバッと脱がすのがセオリーだろ?」と思ったのと真逆の反応…

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同じ評論家の宮台真司は「この世界に起こらなければいけない事は全て1960年代に起こってしまった。それ以降人類には何も起こってないし、未来永劫起こらない。この事実を世界に納得させるのが評論家の仕事」みたいな立場に立ってますが、その域に入ってきたんでしょうか? もはや現実の展開に学ぶ必要性なんて一切ない?

  • リベラル系を自認するする人は、これがナポレオン戦争終焉後にプロイセン王国を全面肯定したヘーゲルの立場で、その絶対的諦念に対する徹底抗戦の姿勢こそが「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」と宣言する「社会学の祖」マルクスを誕生させた歴史を思い出すべき。

    *ただ当時のドイツの記録を見る限りこの流れ、ジンメルマックス・ウェーバーの掲げたコミュニケーション論の次元ではなく「新カント派としてのヘルムホルツ唯物論的認知学」を経てヘーゲル民族生物学の次元で継承されていく。「どうしてそうなった?」と、当時のドイツ人すら嘆いてる。

    *しかもこうした意味合いにおけるマルクスの人間解放精神は(よりにもよって)「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年)」のソレルとか、ネグリマルチチュード(Multitude)論へと継承されていく。これもこれでどうしてそうなった?」と頭を抱える事案。

  • ちなみに歴史は再び繰り返す。1971年におけるドイツ帝国創建を強烈に主導したプロイセン宰相ビスマルクもまたヘーゲルをこよなく愛好し、ドイツ帝国をそのままの状態に留め置こうとした。しかし大不況時代(1873年-1896年)もやっと終わりが見え始めた1990年に失脚を余儀なくされ、結果としてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が勝者となった事はドイツをさらなる不幸に導いていく事になるんだけれど「この世界に起こらなければいけない事は全て1960年代に起こってしまった」という思い込みが常に破られてきた例証として外せない。
    *ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世…三国干渉(1895年)を食らった上に日露戦争(1904年〜1905年)の背後で暗躍したこの人物の擁護は日本人として到底無理。とはいえ、その後ドイツに起こった事はさらに悲惨だった?

  • そこには平然と「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県と藩債処分(1871年)」「秩禄処分(1876年)」のコンボを完遂して一気に江戸幕藩体制解体を済ませてしまった日本人には到底理解しえない苦悩が存在する。マックス・ヴェーバーの「鋼鉄の檻(Gehäuse)理論」が抱える根本的憂鬱感もそれ。

    *このレベル差を自覚する事なく、そのまま強引に日本人へと適用しようとした結果が「エヴァンゲリオンのアレ(ドロドロの真っ赤なズッペ)」だったとも。まさしくただでさえ下痢美味なのに下剤を処方された様なもの?

    *最近はむしろ「窮屈なプロテスタント倫理が市場経済に欲望解放された近代的精神に拡張されたんだ」とか、あっさり割り切るのが主流らしい。まぁ健全化といえば健全化?

ちなみに最近Twitterで見掛けたTweetで最も衝撃を受けたのがこれ。

 「レッドタートル ある島の物語(英題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge)」でも「赤」は純然たる「死の暗示色」として描かれるのみなんだけど…誰も解説しないからこういう事になっちゃう?