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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代日本祭政史②「倭国」から「日本」へ

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こうして豪族連合状態解体の為、あるいは「豪族連合状態解体」という現実に対応すべく自然発生した「氏姓(うじかばね)制度」には氏族間の内紛を激化させるという欠陥があり、これを克服すべく中華王朝の律令制度導入が試みられます。まぁ当時のアジアに実在した諸王朝では標準的判断とも。

天皇諡号への天孫思想の反映と畿内中央豪族の没落

実は氏族社会解体以前に「各氏族が他の氏族の起源神話に関心を持つ」事はなかったとする説がある。それなら日本書紀が発表された720年以前に「天孫降臨と同時に全ての臣下が天下ってきた」という発想がなかったかというとそうでもない。

それでは「(天孫思想による正当化を必要とする)畿内中央豪族」が何時成立したかというと、これが実に見定め難いのである。

  • 仁賢天皇代までは葛城氏が閥族として君臨し続けた。ただし雄略天皇代から、それまで政治的専権を続けてきた玉田宿禰系(南系)は排除された。
    *「玉田宿禰系(南系)排除」の逸話…五世紀中盤以降、河内の古市古墳群と和泉の百舌鳥古墳群にしか大王墓が造営されなくなっていった事ち何か関連すると目されている。

  • 葛城氏がヤマト大王家の閥族に抜擢されるのは仁徳天皇代からだが、それにからんで応神天皇代の閥族たる和邇属と衝突する逸話が伝えられており、四世紀後半から続いていた大王墓が佐紀盾列古墳郡だけに造営されていた状況が、四世紀末から五世紀初旬の過渡期を経て終焉した事との関連を疑われている。

  • 雄略天皇代からは、平群真鳥が大臣となって清寧天皇代、顕宗天皇代、仁賢天皇代も継続し。ただし仁賢天皇の没後に自ら大王になろうとしたので後の武烈天皇の命で大連の大伴金村が宗家の一部ごと滅ぼしたとされる。

日本書紀」に記録された第26代 継体天皇(在位507年-531年)の和風諡号は「男大迹王(おおどのおおきみ)」
*「継体天皇」という漢風諡号は熟語の「継体持統」が語源とされる。

  • この継体天皇をヤマト王朝に迎えたのは当時大連だった大伴金村と物部 麁鹿火の二人だったとされている。

  • 巨勢男人が大臣となり、さらに娘二人を安閑天皇に嫁がせて閥族化を狙ったが後継者を生み出せなかった。
    *当時の妃の分析から「佐紀盾列王統時代の主役だった和邇氏率いる尾張、近江、越前を中心とする近郊豪族集団の逆襲」と見る向きもある。実際「宮家・国造制」の施行開始期に比定されている。

  • また「日本書紀」欽明期冒頭には、この継体天皇の時代に皇親家間の骨肉の争いの調停者として秦氏が台頭してきた事を仄めかす描写がある。謎めいた言い回しで時期もぼかされているが、実は蘇我氏より先に渡来系官僚として抜擢されたのは秦氏であり、その秦氏もまた支持を表明した事で欽明朝が成立した事を暗示しているのかもしれない。

日本書紀」に記録された第27代 安閑天皇(在位:531年-535年)の和風諡号は「広国押建金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)」

日本書紀」に記録された第28代 宣化天皇(在位 536年-539年)の和風諡号は「武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)」

  • 蘇我稲目が初めて大臣となった(実は「大臣・大連制度」はこれ以前に遡れないとする説もある)。「大連の大伴金村の専横に対する牽制」とする説もある。

日本書紀」に記録された第29代 欽明天皇(在位 539年-571年)の和風諡号は「天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)」

  • 物部尾輿が大連となり、大伴金村を失脚に追い込んだとされる(実際には欽明天皇即位に当たって「継体天皇擁立集団」の首魁だった事が禍して和邇氏と供に失脚したとも。ちなみに尾張氏はその難を無事逃れたとされる)。

  • 仏教導入に際して蘇我稲目物部尾輿(と、それを後援する中臣鎌子)の衝突があったとされる(これを神社を拠点に東北支配を確立しつつあった物部氏への蘇我氏の干渉と見る向きもある)。

  • 「天」の字の和風諡号初出。後世芽生えた「臣姓氏族にとって(地方豪族の中央干渉を不可能とする「名代・子代制」が確立した)欽明朝は聖世」というイデオロギーとの関連が指摘されている。

  • 外交関係に目を向けると新羅伽耶諸国併合を完了し、蘇我氏所領内の蘇我遺跡(翡翠の勾玉を中心とする渡来人の巨大玉石工房)が運営を終了している。これについて「砂鉄を利用した国内の産鉄規模が相応レベルに達したので、鉄輸入の為に国策で玉生産を続ける意味がなくなった(むしろ玉製事業をヤマト大王家が独占する弊害の方が問題化してきた)」と指摘する向きもある。

  • おそらくこの時期に筑紫君を打ち倒した在地豪族の火君の協力を背景として「九州宮家」体制が完成したが、大伴氏失脚を契機に「物部氏=瀬戸内海系勢力」が要所を押さえた事もあって北九州の在地豪族が一時的停滞に追い込まれている。

  • ところでこの欽明期に当たる552年に柔然を滅ぼして突厥が自立。やがてモンゴル高原を中核として東方は遼河流域、西方はペルシャ帝国と国境を接するまでに巨大化した(突厥第一帝国)。この国が後世意外な形で東アジアの天下観に影響を与える事になっていく。
    突厥

日本書紀」に記録された第30代 敏達天皇(在位 572年-585年)の和風諡号は「渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)」

日本書紀」に記録された第31代 用明天皇(在位 585年-587年)の和風諡号は「橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)」

  • この天皇は崇仏派だったと目されている。それを背景に大臣蘇我馬子と大連物部守屋の対立がさらに激化。その崩御直後に蘇我馬子物部守屋と物部宗家も本拠地たるは河内国渋川郡大阪府東大阪市衣摺)を討って、蘇我大臣家の単独覇権を確定させた。
    蘇我馬子物部守屋の妹を妻としており、物部宗家の基盤は蘇我宗家に接収された。そしてまさにこの時期から北九州において蘇我氏陣営による「物部氏残党=瀬戸内海系勢力」掃討が始まるのである。

  • 最初は物部守屋と行動を共にしていた中臣勝海は押坂彦人大兄皇子に寝返った後で誅殺されている。
    *ちなみに押坂彦人大兄皇子は、蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者とされた人物であり、継体天皇の時代までその起源が辿れる「息長氏皇親領」を継承していた。そしてこの「息長氏皇親領」は息子である舒明天皇を経て孫の中大兄皇子(後の天智天皇)に継承され「乙巳の変(645年)」に財源と本拠地を提供したとされている。

  • こうした経済力強化を背景に創建された法興寺飛鳥寺)は、百済武寧王が首都プヨ(Buyeo)に建立した王興寺や、高句麗様式との共通点が数多く指摘されている。第一最初にこの寺に入ったのも高句麗僧と百済僧の二人だった。一方でその地下から仏舎利とともに大量の「副葬品」が発見され、それが古墳に埋設される「副葬品」とほぼ同じ構成だった点が注目に値する。その一方で仏像が搬入されるのはずっと後の事となる。
    *それまで首長単位で行われてきた「古墳造営事業」は氏族社会成立後に「氏寺建立事業」に継承されたとされる。実際のそれは全国各地の地方豪族達の祖霊崇拝の伝統の受け皿として機能したという訳である。その一方で「前方後円墳国家」時代から継承した要素もあった。正しい格式に従って建物を建て、仏像や仏具を用意し、僧侶を調達するにはこれまで以上にヤマト王権に対して従順に振舞わねばならないという辺りである。

  • また、この時の物部氏への勝利に関連して創建されたという伝承を持つ四天王寺では、金海大成洞遺跡(任那伽耶王墓群比定地)を思わせる「既存古墳潰し」が遂行された痕跡が見られる。
    *その一方でそれは渡来人系官僚氏族の一つである難波吉氏の氏寺が起源とする説もある。

  • ここで海の向こうに目を向ける。第一次突厥帝国は583年、モンゴル高原を中心とする東突厥帝国と、中央アジアを中心とする西突厥帝国に分裂。話は彼らが柔然に代わる以前まで遡る。北魏はそれへの備えとして北方に武川鎮軍閥鮮卑系武人集団)を置いた。そして突厥帝国の分裂は北周末期より貴族化が進み「関隴貴族集団」と名前を変えた彼らの工作が実った結果であった。
    *こうして最初の絶頂期を迎えた彼らは、後に律令制軍隊の根幹を為す事になる府兵制を考案。

日本書紀」に記録された第32代 崇峻天皇(在位 587年-592年)の和風諡号は「泊瀬部皇子(はつせべのみこ)」
*「古事記」では「長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)」

  • 大臣の蘇我馬子崇峻天皇を殺したが、特に処罰されてない。その事から背後に皇親家の支持があったと目されている。

  • 588年にはついに「関隴貴族集団」出身の楊堅が建てた隋国が中国全土を統一。これに対して高句麗が東突厥と結んで対抗する姿勢を見せたので両者の関係が次第に緊張感を伴うものになっていく。
    高句麗古墳壁画から領主生活を謳歌する風俗的要素が絶えて、四象図の様な純粋に宗教的なモチーフのみとなったのもこの時期以降で、その背後には存続を脅かされる緊張感の高まりがあったとも考えられる。

日本書紀」に記録された第33代 推古天皇(在位 593年-628年)の和風諡号は「豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)」
*「古事記」では「豊御食炊屋比売命」と記す。

  • 蘇我宗家全盛期。風土記によれば全国の領民はこの時代を「小墾田宮推古天皇が604年より運営を開始した日本初の朝廷)の時代」でなく「嶋大臣(蘇我馬子の渾名)の時代」として記憶していたという。蘇我馬子は葛城割譲を推古天皇に要求したが果たされなかった。その蘇我馬子が死後埋葬されたとされる石舞台古墳でも金海大成洞遺跡(任那伽耶王墓群比定地)を思わせる「既存古墳潰し」が遂行されている。

  • また『日本書紀』によると法興寺用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立することを誓い無事に勝利したので、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に寺を建てることにしたという。

  • ところで、この時代は600年に「日本書紀」に記録されていない第一回遣隋使が派遣され「倭王たる大王(オホキミ)は、アメタラシヒコ(「天に満ちる男」か「天より降ってきた男」の意味)と称し、大王后は君(キミ)と称し、後宮には600人-700人の女性が置かれ(全国中の巫女を大王宮に集めていた采女制に対応すると考えられている)、大王太子はワカミタフリと称する」「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。夜明け前から政聴を始め、夜明けと同時に弟にその業務を引き継ぐ(小帝国思想にかぶれていた五世紀頃の高句麗の政治思想の影響が指摘されている)」と隋の皇帝に報告して「義理なし(道理が通っていない)」と指摘された時代に該当する。
    *それで慌てて604年に「朝廷(大王が臣下より直接報告を受け、命令を下す)」型式の政務を行う場として小墾田宮を竣工し、高句麗百済を見習って「日本書紀」推古十一年(603年)12月5日条に記録された「冠位十二階」制が導入される。しかし前者は間もなく使われなくなり、「冠位十二階」制も大臣や大連といった最上級の姓に属する豪族はあくまで位階の対象外とされ、また記録を見る限り殆どの場合、冠位とその人物が属する姓の水準は一致していた(臣・連以外の姓より大徳が輩出された例は無く、村主・首以下の姓で小徳を輩出した例は無い)など限界ばかりが目に付いたと評価されている。

  • 一説に拠れば推古天皇こそ天皇号を初めて用いた日本君主とされるが、当時それが使われたにせよ仏教思想と関連付けられる事もあった匈奴の王号「天王」の異字の一つに過ぎなかったとする説もある。ちなみに第二回遣隋使(607年)が携えていった国書の書き出し「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」も、確かに『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」などを意識して捻りを加えてはあるものの、漢皇室と対等な立場にあった事を自認していた頃の匈奴の書簡にみられる文例の影響が色濃い。
    *そして推古十六年(608年)に派遣された第3回遣隋使は学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)や奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)や新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)、学問僧として新漢人日文(にちもん、後の僧旻)や南淵請安ら8人を隋へ留学させ、彼らが帰還して当時最新の学問を広めた事から新しい時代の幕が開けるのである(実際に帰国したのは舒明天皇の時代に入ってから)。中でも台風の目玉となったのは、蘇我入鹿を夢中にさせた「瑞兆説」ばかりか「易姓革命」理論も含んでいた「易学」の伝来だった。当時の有力豪族も子弟の大半は彼らの講義を受けたと考えられているが、後世に名を残したのは何と言っても蘇我入鹿中臣鎌足中大兄皇子の三人とされている。

  • 「習字木簡」と呼ばれる特別な遺構の出土状況からも明らかであるが、次第に日本全国に文字習得に向けての機運が広がり始めたのは、まさしくこの時代に端を発する。

  • 一方大陸では598年に高句麗が隋を攻撃する事件があり、隋が611年、612年、614年の三回に渡って高句麗親征を敢行するも全て失敗して617年から国内が内乱の坩堝となり、618年にはとうとう唐に取って代わられるという事件があった。この時、唐の初代皇帝となった高祖(彼もまた「関隴貴族集団」出身だった)は、競争相手を駆逐する間、東突厥に侵入の口実を与えない為、そのカガンに臣従していたが、こういう屈辱は相手を滅ぼさねば晴らせないと考えるのが「関隴貴族集団」の思考様式なのである。
    *それに加え627年からは百済に追い詰められた新羅が唐に救援を要請する様になった。こうして唐朝の目もまた次第に韓半島へ向けられる様になっていったのである。倭国からの使者にいくら失礼が多くても見限られなかったのは、下手に絶交すると高句麗との提携に奔られてしまう恐れがあったからだったとする説まである。

日本書紀」に記録された第34代 舒明天皇(在位 629年-641年)の和風諡号は「息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)」

  • 先代の推古天皇が死去した際に継嗣を定めていなかったので、蘇我蝦夷が自宅に群臣を集めて後継者について論じさせた所、その意見は田村皇子と山背大兄皇子に分かれた。そこであえて蘇我氏の血が一滴も流れていない田村皇子を立てる事にし、その結果舒明天皇が即位する事になった。
    *そうなった背景については諸説ある。①蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとした。②他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避した。③近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と、庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方も登場。それはそれとしてこの逸話は当時、ヤマト大王家の権力基盤は未だ脆弱で自ら後継者を指名可能な状態になかった事、蘇我大臣家の権力は確かに大伴氏や巨勢氏などの臣姓氏族を顎で使えるほどに巨大化していたが、その一方で「名代・子代」制度によって、それぞれが大領主でもある皇親家の発言権も増大しており、到底盤石とはいえない状態にあった事を明らかにする。
  • 「せっかく大陸に見習って用意した朝廷」に閑古鳥が鳴く一方で、実際の政治はこれまで通りのやり方で蘇我蝦夷の自宅で行われていた。「確かに正しくはないかもしれないが、それで問題が起こらなければ良いじゃないか」という豪族連合中枢のこうした姿勢こそが、むしろその子弟や地方官僚の間に「このままではいけない」という感情を広げ、文字習得の慣習の定着や、大陸動向に注目する傾向を生んでいったとも考えられる。
    *なにしろ御代のうちに最初の遣唐使(630年〜632年)が往復し、唐からの高表仁の返訪を受けた。 唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め僧霊雲、僧旻、僧清安、高向玄理らが帰国。百済新羅からの使節も訪れた。蘇我蝦夷の息子入鹿はことに易学、特に瑞兆によって政治的事件を飾り立てる中華王朝の華美な伝統に魅了されたという。

  • ところで、大陸では630年についに唐朝が東突厥を滅ぼした。モンゴル高原に兵を進めてイルリグ・カガンを捕獲したのであるが、それを受けて北アジアの遊牧系諸族はこぞって唐の皇帝を自分達の「天可汗」に選挙した。ついに高句麗を攻撃するに当たって後背の憂いを気にする必要はなくなったのである。

第35代 皇極天皇(在位 642年-645年)は重祚して「第37代斉明天皇」に。

  • 641年に舒明天皇崩御すると蘇我蝦夷はその皇后を642年に皇極天皇を即位させtた。あからさまなまでの傀儡化狙いであり、次を狙っていた山背大兄皇子派を激怒させてしまう。

  • 642年に倭国の「海外動向を凝視する世代」に「我々の時代がやってきた!!」と思わせる事件が勃発。淵蓋蘇文が180人に及ぶ穏健派貴族弑害を伴うクーデターを起こし、百済では義慈王(在位641年-660年)が貴族中心の政治運営体制に終止符を打つ為に王族とその母妹女子4人を含んだ高名人士40人を島流しにしたのである。
    *この様に手本とすべきモデルが二つあった事を念頭に置かないと、それに続いた倭国の「テロルの時代」の流れが正確に把握出来なくなってしまう。

  • 同年1月29日(642年3月5日)には安曇比羅夫百済の弔使を伴って帰国。同年4月8日(5月12日)には追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日。同年7月25日(8月25日)には蘇我蝦夷が雨乞いの為に大乗経典を転読させるも微雨のみで効果がなかった為に29日にやめる。8月1日(8月31日)、天皇が天に祈ると雷が鳴って大雨が降り雨は五日間続いたとされる。
    *巫女としての力を誇示した形で蘇我蝦夷は面目をなくした。

  • 同年9月3日(10月1日)、百済大寺の建立と船舶の建造を命じる。
    百済亡命者への同情を意味すると考えられている。

  • 643年7月には蘇我入鹿が「従者が白色の雀の雛を手に入れた。これは瑞兆だ」という巷説を流したとされる。そして同年10月に大臣職を襲名すると、いきなり11月上旬に「国政を天皇中心に戻すべきだ」とする「反動派」の盟主的立場にあった山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込むという暴挙に出た。
    *おそらく蘇我入鹿の念頭には高句麗型の革命イメージがあったのだと思われる。そしておそらく渡来系たる倭漢氏もまた、時代をそう読み解いて「入鹿の革命」に参画する決意を固めたのだった。この「入鹿の革命」の特徴は外交に当たっての基本方針をあくまで「唐・高句麗百済新羅との等距離外交を心掛ける」と定めた点で、そこには高句麗百済の革命の前提となった唐との対決姿勢への心酔がまるで見られない。おそらく、そういう姿勢を貫かねば蘇我氏にとって最も重要な支持基盤の一つである渡来系官僚層の分裂を招く恐れがあったのであろう。そしてあるいは、この方針なら秦氏欽明天皇の時代から整備が進められてきた東国騎馬隊の忠誠心をも繋ぎ止める目算が立っていたのかもしれない。

  • 日本書紀」によれば、この時山背大兄王は「秦氏に逃がしてもらって東国の部民を動員して再起を図ってはどうですか?」と提言され「それは問題をより複雑化させるだけだろう」と発言したされている。もし事実だったとしたらやはり彼も高句麗型の革命イメージを思い浮かべており、自らの命をその実現の為に捧げる覚悟を決めたか、あるいは「革命」そのものがイメージ出来なかったか、それとも秦氏及び東国騎馬隊が確実に味方になってくれる確証が持てなかったかのいずれかであろう。
  • 蘇我氏と真逆に百済型の革命イメージに準じる覚悟を決めたのが中臣鎌足といえよう。南淵請安の開いた塾で蘇我入鹿とともに秀才と並び称された人物である。『日本書紀』には皇極天皇3年(644年)に中臣氏の家業たる祭官への就任を求められたが、固辞して摂津国三島の別邸に退いたとある。もしかしたら蘇我入鹿中臣鎌足に伝えたかったのは「革命はもう終わった。供に再建の時代を生きよう」というメッセージだったかもしれない。しかし、その声が届く事はなく、その瞬間から両者はどちらかが倒れるまで戦い続ける宿命を背負う事になったのだった。

  • 645年6月12日(7月10日)、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日入鹿の父の蘇我蝦夷を自害に追い込む(乙巳の変大化の改新)。その翌日の6月14日(7月12日)、同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲る。日本史上初の譲位となった。新天皇孝徳天皇により皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号を奉る。
    *最近では「乙巳の変(645年)」を主導したのは父の舒明天皇時代に「朝廷政治」を蔑ろにされた恨みを抱えた孝徳天皇だったとする説の方が有力視されている。それはそれとして「中臣勝海が息長氏皇親領に駆け込もうとして誅殺された」逸話自体は後世の創作の気配が濃厚とはいえ、当時は中大兄皇子の所領となっていた「息長氏皇親領」の本来の持ち主たる息長氏と中臣の縁は深く、それ故に中大兄皇子を擁立せねばならない立場に追い込まれた可能性もまた無碍には捨てられない。しかし考えてみれば、中臣鎌足がイメージする革命の実現に重要なのは臣姓氏族といった貴族階層を排除してヤマト大王家に権力を集中させる事のみであり、その為には自らも目立ってはならず、だからこそ最初から一生顕職に就かない覚悟を最初から固める一方で、どの皇親家が最後にヤマト大王家として勝ち残るかは天意に任せるつもりだったとも。

  • 事件当日(「日本書紀」は三国の調の儀式の会場で起こったとするが、そのリハーサルを口実に呼び出したとする説の方が有力視されている)、海犬養勝麻呂も佐伯子麻呂も葛城稚犬養網田も恐ろしくて斬りかかれなかった蘇我入鹿を切り伏せる先鞭を付けたのは中大兄皇子だったが、その入鹿が皇極天皇の御座へ叩頭して「私に何の罪があるのか、お裁き下さい」という質問を投げ掛けた時に「皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとした」と答えたのは「入鹿の革命」の本質を彼がまるで理解していなかった事を暴露している。
    *むしろ私宮へ逃げ帰った古人大兄皇子が残した「韓人が殺した」の一言の方が問題の本質を突いている。要するにそれは韓人が手本を見せた二種類の理念の衝突だったのであり、ここで「百済型」が勝利した事が必然的に「左大臣阿倍内麻呂の死を待っての右大臣蘇我クラヤマダ石川麻呂の謀殺(クラヤマダ石川麻呂は「乙巳の変(645年)」の協力者だったが革命完遂の為に生かしておけなかったのであろう。次いで左大臣になったのは巨勢徳陀古、右大臣になったのは大伴長徳と随分小粒になった)」「古人大兄皇子の謀殺(ただしこれについては「皇太子」中大兄皇子によるライバル除去だったという説もある)」「難波京孝徳天皇を置き去りにしての倭京への遷都(「鎌足の革命」の核はあくまで「大陸型朝政の実現」ではなく「ヤマト大王家を中核とする中央集権の実現」だったので「蘇我氏を中心とする臣姓氏族によって運営される外朝の成功」は却って許し難いものに映った可能性が高い)」を伴ったと考えるべきなのである。

  • 大陸ではその頃、唐の太宗による高句麗遠征が敢行されていた(645年と645年の2回)。しかし高句麗は、何とか防衛に成功している。

日本書紀」に記録された第36代 孝徳天皇(在位 645年-654年)の和風諡号は「天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)」

  • 和風諡号に「アメ」の時代が入っている。という事は「天孫思想」の起源は次の斉明天皇の時代からだったとも考えられる。

  • 鎌足の革命」は皇極天皇から孝徳天皇に史上初めての譲位が行われ、皇極前天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした事によって「現在のヤマト大王が後継者を指名する権利」が確立した時点で半ば成ったといえる。事実この仕組み自体が後の天皇家成立の重要な契機となっていく。
    *ところで第一回遣唐使が父の舒明天皇の時代たる舒明2年(630年)、第二回遣唐使と第三回遣唐使がこの孝徳天皇の時代の末期に当たる白雉4年(653年)と白雉5年(654年)というのが示唆的である。つまり蘇我入鹿の時代は中断されていたという事である。 

  • 父の遺志を継ぐかの様に難波宮で「朝政」を遂行してきたが、突如として本人の意志を無視して倭京への遷都が強行され、その衝撃から立ち直れないまま病死。
    *「中大兄皇子側が蘇我赤兄を送り込んで仕掛けた罠に嵌った」とも「母方の実家たる阿部氏の水軍を主力とする難波勢力による本格的な政権転覆計画が立てられていた」ともいわれるが、孝徳天皇の子である有間皇子も反逆罪で処刑されて生涯を終える事になった。

  • こうしている間にも647年に高句麗遠征が敢行されているが、やはり高句麗は撃退に成功

日本書紀」に記録された第37代 斉明天皇(在位 655年-661年)の和風諡号は「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」

  • 「後継者指名権の獲得」の次にヤマト大王家が目指したのは倭国小中華主義だった。「巨大建造物の建造熱」も「遣唐使派遣による最新文物(特に道教)の導入熱」も「阿部比羅夫の蝦夷探検(その時獲得した虜囚を唐の皇帝に見せびらかしている)=唐に滅ぼされた百済の再建支援(「華夷弁別」に基づく世界観において百済に「夷」の役割を押し付けようとした)」も全てそのキーワードで括れる。

  • まともに往復する遣唐使は第4回(659年〜661年)で一旦最後となる。百済が滅ぼされてしまったせい?

  • その一方で唐は656年の高句麗遠征も失敗に終わると「高句麗を倒す為には、まず百済を滅ぼさねばならない」と考える様になり、660年にこのミッションをあっさり遂行。
    *この時点で「鎌足の革命」はその存続意義そのものを問われる事になったか、この時期、中臣鎌足は活躍らしい活躍を一切見せていない。

日本書紀」に記録された第38代 天智天皇(在位 662年-672年)の「和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)」

  • 難波からだけでなく清水港からまで増援を繰り出したのに白村江の戦い(663年)で唐と新羅の連合軍にあっけなく破れる。
    *「清水港」…「日本書記」初登場。百済救援軍を自ら編成して将軍に任命されて出陣した在地豪族廬原君臣の本拠地であった。なんとこの廬原君臣の末裔は「桶狭間の戦い(1560年)」に今川方として参戦して粉砕されるまで在地首長としての命脈を保ち続ける。

  • しかしこの敗戦によって日本全国が目覚めた。特に現地で粉砕された地方豪族の間に「生き延びる為に必要なのは、唐の最新文化への倭国の適応だ」という感情が広がったのが大きい。
    *その緊張感を背景に国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済難民を東国へ移住させ、天智6年(667年)には都を奈良盆地の飛鳥から大津(琵琶湖南端)の近江宮へ移し、国内の政治改革を急進的に進めたが669年に亡くなった中臣鎌足の残した「鎌足の革命」を尊重する立場から、政権最晩年まで大臣職を設けなかった。

  • 670年には、日本史上最古の全国的な戸籍「庚午年籍」が作成された。防衛計画を練る為に全国の地方豪族が一致団結した結果とも考えられるが、とにかくこうして律令制導入の準備が着々と進められていく事になったのである。

  • 671年になって初めて外朝の人事が発表されたが、その多くは壬申の乱で運命が暗転している。
    ◎「太政大臣=大友皇子弘文天皇)」
    ◎「左大臣=蘇我赤兄壬申の乱を大友側として戦って敗れ、捕縛されて子孫とともに流刑)」
    ◎「右大臣=中臣金(壬申の乱を大友側として戦って斬られ、子孫も流刑)」
    ◎「御史大夫=蘇我果安(壬申の乱で大友側として山部王や巨勢人らと数万の兵力を率いて進発したが、巨勢人と共謀して山部王を殺して進軍を滞らせ、帰京後に自殺)」
    ◎「御史大夫=巨勢人(壬申の乱で大友側として山部王や蘇我果安らと数万の兵力を率いて進発したが、蘇我果安と共謀して山部王を殺して進軍を滞らせた。本人は一族とともに配流されたが、蘇我果安の子とされる巨勢奈弖麻呂は後に官人として大納言にまで昇進した)」
    ◎「御史大夫=紀大人(大友側重臣だったが、何故か壬申の乱後も罰されなかった。同族の紀阿閉麻呂の活躍に免じて許されたとも、実は大海人皇子への内通者だったともされる)」

第39代 弘文天皇(在位 672年-672年)の諱は大友(おおとも)又は 伊賀(いが)

日本書紀」に記録された第40代 天武天皇(在位 673年-686年)の和風諡号は「天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)」
*極めて道教的な諡号である。

  • 鎌足の改革」の完成型。大臣を一切任命せず、政治を皇親家のみで独占しつつ中下級官人の登用制度を整え、「八色の姓」制定などを通じて皇親家と中央貴族と地方豪族の定義をそれぞれ大胆に改編していった。
    *この時期には専ら唐と断交して新羅とのみ交際していたが、後に「武則天のクーデターによる武周成立の隠蔽」など様々な工作を行っていた事が発覚して新羅は信用を失った。

第41代持統天皇(在位 686年-697年)の和風諡号は『続日本紀』大宝三年(703年)条では「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)、『日本書紀養老4年(720年)条では「高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」
*また「持統天皇」という漢風諡号は熟語の「継体持統」が語源とされる。

第42代文武天皇(在位697年〜707年)の 諱は珂瑠(かる)もしくは軽(かる)。和風諡号は「続日本紀」707年(慶雲4年11月12日)では「倭根子豊祖父天皇(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと)」、「続日本紀」797年(延暦16年)では「天之真宗豊祖父天皇(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと)」

  • 大宝元年8月3日(701年9月9日)に大宝律令が完成し、翌年公布している。 また混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。

  • 公式記録「続日本紀」には妃や皇后を持った記録は無い。皇后及び妃は皇族出身であることが条件であり、即位直後の文武天皇元年8月20日(697年9月10日)に夫人(ぶにん)とした藤原不比等の娘藤原宮子が妻の中で一番上位であった。他に、同日嬪となった石川刀子娘と紀竈門娘がいる。
    *ただし、宮子を当初から夫人であったとするのは「続日本紀」編者の脚色で、当初は石川・紀と同じく嬪であり、慶雲4年以降に夫人に昇格したとする説もある。

  • 皇后は皇族出身であることが常識であった当時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に内定していた段階で、将来の皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、何らかの原因で持つことができなかったか、若しくは記録から漏れた(消された)としか考えられない。
    *このことについて梅原猛はその著書「黄泉の王」で、文武の妃は紀皇女だったが、弓削皇子と密通したことが原因で妃の身分を廃された、という仮説を「万葉集」の歌を根拠に展開している。紀皇女についてはその記録すらがほとんど残っておらず、将来の皇后の不倫という不埒な事件により公式記録から一切抹消されたというのがこの説の核心となっている。

第43代元明天皇(在位707年〜715年)の和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと)」

第44代元正天皇(715年〜724年3月3日)の和風諱号は「日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)」

どうやら「古代日本祭政史」の終着駅は「第八回遣唐使(700年~705年)を契機とする世界観のパラダイムシフト」だった模様。 

ところで「続日本書紀」に「斉明天皇は699年に牽牛子塚へと改葬された」という記述があるのが気になります。

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藤原京(690年着工,694年に飛鳥浄御原宮から遷都,704年完成)

持統天皇代(称制686年~690年、在位690年~697年)の政策を継承した文武天皇代(697年~707年)の都であるが、奥津城はあくまで飛鳥としていた様である。

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【遷都前】奈良県橿原市見瀬町に6世紀後半に築造された見瀬丸山古墳(総重量不明、横穴式石室は全長28.4mで全国第1位の規模。玄室長8.3m、最大幅4.1m、高さ4.5m、羨道長は長さ20.1m、幅1m以上、高さ1.5m。一枚の長さ4.8mの巨大な自然石6枚で天井を覆う。石棺の材質は流紋岩質溶結凝灰岩で加古川付近の竜山石)。全長318mの前方後円墳奈良県下で最大、日本全国でも6位、間違いなく古墳時代後期後半に築造されたものの中では最大規模を誇る。被葬者としては欽明天皇が比定されている。蘇我氏が築造を総指揮したと考えられている。

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【遷都前】奈良県明日香村に7世紀初頭に築造された石舞台古墳(総重量2,300t、古墳の傍らを流れる冬野川の上流約3km、多武峰の麓から切り出された花崗岩を使用、玄室長約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道長約11m、幅2.5m)。封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではないが2段積の方墳、上円下方墳、あるいは下方八角墳と推測されている。被葬者としては推古天皇三十四年(626年)五月条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とある蘇我馬子または蘇我稲目が比定されている。

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【遷都前】舒明天皇(息長足日広額天皇)陵(奈良県桜井市大字忍阪。横穴式石室をもつ上円下方墳で、下方部三段、上円部は二段と記録されている)。641年に百済宮で崩御し、滑谷間岡(なめはさまおか)に葬られたが,643年に大和朝倉の忍阪(おしざか)の押坂陵に改葬されたとされている。また「日本書紀」舒明記には「639年百済川のほとりに百済宮を作り、九重の塔を建てた」とある。「奈良大安寺資財帳」には、聖徳太子が亡くなる時に何故か山背大兄ではなく田村皇子(蘇我馬子の娘、法提郎女と結婚し、その間に古人大兄皇子を儲けて厩戸皇子より長生きした事から蘇我氏の力を背景に629年に即位して舒明天皇となる)に「熊凝(くまごり)村の道場を授けるので、立派な寺にするように。」と遺言したという記事が残っている。また、この忍阪の所領は元々息長氏の所領で後に中大兄皇子の手に渡り「乙巳の変(645年)」の財源として活用された事でも知られている。

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【遷都前】天武天皇は飛鳥に戻って都の造営を始めた時、都を守る公の大寺院として全く新しい寺を創建するのではなく、天武天皇2年(673年)に美濃王と紀訶多麻呂に命じて当時の技術では最高峰だった九重の塔を有する百済大寺を移して高市大寺(後の大安寺)としたとされる。壬申の乱の翌年に当たるこの年は天武天皇の父舒明天皇の三十三回忌、母斉明天皇の十三回忌にも当たっていた。

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【遷都中】奈良県明日香村に築造された檜隅大内陵/野口王墓古墳(鎌倉時代に盗掘に会い、その記録が「阿不幾乃山稜記」「明月記」などに残るが、それによれば切石積の石室は2室からなり、玄室内には、天武天皇の夾紵棺と持統天皇の火葬骨を納める金銅製の蔵骨器が棺台の上に置かれていたという)。8角形の5段築造で、東西45m、南北50m、高さ9m、墳丘の周囲全長約120m。周囲に石壇をめぐらす。日本書紀によれば持統天皇元年(687年)に築造され、翌年にまず天武天皇を埋葬。次いで大化薄葬令により天皇としては初めて火葬された持統天皇が大宝3年(703)に合葬された。

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【遷都中】持統天皇代(称制686年~690年、在位690年~697年)に呪歌要素の強い宮廷儀礼歌を大量に残したのが柿本人麻呂高市黒人である。両者(どちらも個人ではなかったとする説が有力視されている)はそれぞれ独自の様式を樹立したが古墳時代から続く伝統の拘束をまだ充分に脱しているとは言い難い。おそらくこの時代に想定された「未来に継承すべき新しい伝統儀礼」を創造しようとしたが、そうした未来がそのままの形で訪れる事は決してなかったのだと考えられている。

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【遷都中】同じ奈良県明日香村に築造された牽牛子塚に斉明天皇が改装されたのは、恐らく文武3年(699年)と見られている。この古墳は最近の調査で総重量550tの石が使われている事が判明した。中でも最大なのは埋葬施設の横口式石槨に使われた推定約80tの凝灰岩で、約15km離れた二上山西麓(奈良・大阪府県境)から木製の大型橇「修羅(しゅら)」で運ばれたと推測されている。そのまま地面を引き摺るには約1400人、丸太のコロを用いたとしても数百人の動員が必要だったと考えられている。また石槨を壁のように取り囲む16個の石英安山岩の巨石(1個約5t)や、八角形の墳丘の裾に敷き詰められた凝灰岩も同じ二上山西麓から運ばれたものらしい。

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【遷都中】ところで、それまで唐と断交してまで交流を続けてきた新羅と決裂した倭国は、文武4年(700年)まで大宝律令の撰定に参加していた栗田真人(小野氏と並ぶ外交氏族。どちらも近江及び山背国を本拠地とする和邇氏末裔)を使節団長とする久し振りの遣唐使を派遣している(701年出発,705年帰国)。この時に武則天皇帝に謁見して宮廷で「身のこなしが上品」と賞賛され盛大な歓待を受けたと中国史書に載るが「続日本紀」に「現地に上陸して初めて唐が滅んで国号が周に変更されていた事を知った」「『我が国は(以前貴国に朝貢していた)倭国を滅ぼして政権交代した日本である(従って既に従来のの外臣国とは違う)』と説明したが『面白い冗談だが宮廷では通じない』と事前に諭された」といった逸話もあり「絶賛」には色々裏がありそうである。

*おそらくこの時に新羅とのみ交際していた時代に倭国改め日本が構想していたビジョンが御破算になり、その結果藤原宮からの再遷都が敢行されて、ビジョン再構築を主導した栗田真人が正三位まで昇進する事になったのだと考えられている。

【遷都後】同じ奈良県明日香村にある中尾山古墳(元禄時代に奈良奉行所与力の玉井与左右衛門が実見し、長さ四尺、横三尺の石の存在を確認。埋葬施設は凝灰岩と花崗岩の切石で造られた横口式石槨で、骨蔵器を収める石槨規模は内法で約90cm四方、墓道は幅3.2m、深さ1.3m)対辺長約30mの三段築成の八角形墳で、被葬者としては文武天皇が比定されている。

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平城京(707年審議開始,708年遷都の詔発布,710年旧暦3月10日藤原京より遷都)

奈良県奈良市に建てられ、遷都と同時に奥津城まで近隣に新設された。そして最初の元明天皇の葬送に際してこそ全長280mの立派な前方後円墳が築造されたとされているが、以降は天然の小山がそのまま流用される様になっていく。これも唐の影響かもしれない。

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  • 平城京は、遷都が実施された時点では内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度だったが、建設予定地面積だけは当時世界最大の国際文化都市であった長安に匹敵する。多くの研究者は「藤原京ではそれだけの空き地が確保するのが不可能だった事」を遷都の理由に挙げている。

  • より重要なのは、遷都から天平5年(733年)までの間に、自然の情景を詠み込む叙景歌に優れた山部赤人、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女といった個性的な歌人の詠み歌が輩出し『万葉集』に収録された事である。

こうした変化も全て「第八回遣唐使(700年~705年)を契機とする世界観のパラダイムシフト」と連動する形で起こっている。

唐の高句麗冊封と道教流伝(621年〜624年)

高句麗が唐に班暦を請うと唐は高句麗冊封し天尊像と道士と「道徳経」を遣った(621年〜624年)。

  • 「三国史記」「高句麗本紀」栄留王7年(624年)春2月条にこうある。「王遣使如唐請班暦。遣刑部尚書沈叔安、策王為上柱国遼東郡公高句麗国王。命道士以天尊像及道法往為之講老子。王及国人聴之。……八年、王遣人入唐、求学仏老教法、帝許之(高句麗の栄留王は624年に唐に使臣をやって暦書を請うた。唐の太祖李淵は刑部尚書の沈叔安を高句麗に遣わし王を冊封した。かつ道士に命じて天尊像と道法を持って高句麗に行かせ『老子』(『老子道徳経』)を講じさせた。栄留王と国人はみなこれを聴講した。その後、栄留王の8年(625)に王は人を唐にやって仏老の教法(仏教道教)を学ぶことを求めると、唐帝李淵はこれを許した)」さらに625年に仏道を学びに人を遣った件は、『冊府元亀』巻999にも見える。

  • 旧唐書』巻199「東夷伝・高麗」にも次のようにある。「武徳七年、遣前刑部尚書沈叔安、往冊建武為上柱国遼東郡王高麗王。仍将天尊像及道士往彼、為之講老子。其王及道俗等、観聴者数千人(太祖李淵は武徳7年(624)に前刑部尚書の沈叔安を派遣し、建武(栄留王)を冊封して上柱国遼東郡王高麗王とした。それとともに天尊像と道士をかの地に送り、高麗王のために老子を講じさせた。高麗王と修道者および俗人など、聴講する者は数千人にのぼった)」

  • 『通典』巻186「辺防二・東夷下・高句麗」には次のようにある。「大唐武徳四年、遣使朝貢……又遣使請道教。詔沈叔安将天尊像并道士至其国、講五千文、開釈玄宗、自是始崇重之、化行於国、有踰釈典……七年二月、遣使内附、受正朔、請頒暦、許之(武徳4年(621)に高句麗が唐に遣使して朝貢し、その後、さらに遣使して道教を請願した。そこで高祖李淵は、沈叔安に詔して天尊像と道士を高句麗に遣り、五千文(『老子道徳経』)を講じさせ、道教の奥深い趣旨を解釈してみせた。これ以後、高句麗では道教を尊崇するようになり、その教化がかの国に行きわたり、仏教を越えるほどになった。武徳7年(624)2月に高句麗が遣使して頒暦を求めたので、これを許した)」。

なぜ冊封道教を利用したのか。小幡みちる氏は唐初の建国をめぐる李淵らと道教の関わりを検討し、「当時の高祖には、老子を遠祖として帝室を神秘化し、さらに中華世界の象徴として道教を用いようとする意識があり、高句麗冊封に際しても、こうした宗教的威光により国際秩序を保たんとしたものと考えられる」と述べている。ここでは、冊封における道教の性質あるいは機能を「帝室の神秘化」と「中華世界の象徴」にあると指摘している。

  • 「帝室の神秘化」…唐の建国に際して道教勢力老子による予言や老子の李姓を使った予言などをし、李淵らに協力していたことにもとづいている。唐の道教は、宇宙の根源たる神秘的な「道」と、その顕現である老子に結びついた存在として皇帝を位置づけているのであるから、その意味では「神秘化」という側面があったと考えるのは妥当である。ただし、道教の流伝が冊封と同時にあったことから推すと、冊封の恩恵として君が臣に対しておこなう贈与の側面がより重要なのではなかろうか。それがよく示された例として、時期は若干後だが、太宗の時に西の天竺諸国でもやはり老子像と『道徳経』を請い受けた国があった。『旧唐書』巻198「西戎・天竺」には次のようにある。「五天竺所属之国数十、風俗物産略同。有伽没路国、其俗開東門以向日。王玄策至、其王発使貢以奇珍異物及地図、因請老子像及道徳経(五天竺に属する国は数十あり、習俗や物産はほぼ同じであるものの、そのなかの伽没路国では、習俗として東門を開いて朝日に向かうという点でほかと違う。唐からの使者である王玄策が到着すると、国王は使いを出して珍奇な物と地図を献上し、かわりに老子像と『道徳経』を請願したのであった。ここで、その国は地図を貢納している。地図の貢納は唐に帰順して臣下となる(冊封される)意味を持つ。その国の習俗では朝日に向かって門をあけるとのことで、東に位置する唐への帰順の意志を示している。そのかわりとして老子像と『道徳経』が求められている。ここから類推すれば、高句麗の場合も冊封の証として、遣使・朝貢に対して天尊像(老子像)・『道徳経』・道士が贈与されたものと思われるのである。ここで天尊像(形像)と『道徳経』(経典)と道士(師)という、仏教の「住持三宝」(仏像・経巻・僧)に相等するものの贈与として表記されていること、また、形像と経典の役割について、初唐以前の成書と考えられる『太上洞玄霊宝業報因縁経』巻6に天尊の語ったこととして、次のようにある。「国主に災いがあり、兵乱が各地におき、星宿の異常、天気の不調、農作物の不作、疫病の流行など国土の不安があった場合、宮観を建て、子孫を生み育て、大衆を動員して、役割をもたせ、いろいろな災厄や不祥は、すべてわたし天尊に告げれば、大いなる功徳をいたすぞ……国人たちに教法を聴かせ布施・懺悔させよ。そうすれば救いの功徳は不可思議であるぞ」。さらに、衆生の信仰心に個人差が五種類ある。第一が「我が真像の随応の化身を造る」つまり天尊像を造ること。第二に「経教の三洞の大乗を抄写す」つまり写経すること。第三に「観を置いて人を度し、堂を立てて殿を造る」つまり道観の経営。第四に「斎を修め道を行じ、礼懺・誦経、讃歎・焼香する」つまり行道。第五に「一切無量の福田を布施する」つまり捨身。以上の『太上洞玄霊宝業報因縁経』の記述にもとづいて唐の道教贈与をみると、天尊像と『道徳経』は礼拝の対象であるだけでなく造作と写経のモデルであり、それらをモデルに形像を造作し写経する行為は国家の安定をもたらすと考えられていたことがわかる。したがって、これらを贈与する唐の側は、臣下たる国王に宗教的な威信を示すのみならず、実質的な治世の威力の贈与という意識であったと思われるのである。

    「中華世界の象徴」…これは夷狄の教えたる仏教との対照において道教の性質・機能を強調した意見である。小幡氏は、高祖から太宗李世民のころの人である傅奕の仏教批判をとりあげ、武徳7年の高句麗への道士派遣は、道教を中華世界特有のものとの観念が影響しているのであろう、という。たしかに傅奕「減省寺塔廃僧尼事十有一条」(武徳4年)に「伏犧・神農・黄帝・ らの政治は李氏老 の風に合致し、舜・禹・湯王・文王の政治は周公・孔子の教に符合する」とあるように、道教儒教とならんで中華の上古の伝統に結びつけられている。しかもこの傅奕の意見は、唐から高句麗道教が送られたのと同じ時期の長安宮廷における主張であり、小幡氏がこの点に注意を喚起したのは重要であろう。この意見に導かれてさらに検討をすすめれば、道教儒教でいう堯舜の政治と同様な、伏犧・神農のような優れた政治をもたらす「風」があると傅奕はいっており、その語は「教」と対句になっている、つまり道教の「風」と儒教の「教」は同様なものとして並称されているのである。傅奕は北周の通道観の学士で隋のときに道士、唐の高祖に仕えて太史令となって、その後も仏教に対する道教の優越を述べつづけた。当時の仏道論争では、道教側はたしかに仏教を夷狄のものと批判したが、それと同時に、この傅奕の意見のように、道教は「風」「教」=教化の資格を備えていると主張してもいる。それゆえ仏教側はこの点を攻撃するのである。僧の法琳「辯正論」第二では傅奕のいう「風」を批判して次のようにいう。「詩経に、一国の政治は一人の基につながるが、これを風という、とある。天子に風があればこそ、天下を教化することができるのだ。それゆえ教と称することができる。[老子が説く]道は天子ではないから、風があるわけにいかない。風がないということであれば、どうして教化を広げられるか。教化することができるような風がないのだから、[道教儒教仏教と同じように]あらためて教と称することはできないのである」。これを主張した法琳は、のちに李世民から審問を受けた。そして李世民の出自を老 の李氏と認めずに隴西の拓跋氏と述べたりして李世民の怒りをかい、流刑に処されて640年に没した。その法琳の傅奕に対する反論では、道教には教化の「風」が存在しないことを主張しているのであり、これを逆にみれば、傅奕の主張の重要点の一つに教化の問題があったことが理解される。つまり傅奕の主張は、道教が中華だから優れているだけではなく、道教は天下を教化するという点で優れているのであり、中華でなければ「風」も「教」もありえないのである。対して仏教は中華の教に反する夷狄の教だから、かえって混乱を招くのであり、それゆえ排斥すべきなのである。傅奕と法琳のその後の処遇から、李世民には傅奕の説こそ説得力を持っていたことがわかる。

しかし李世民は、傅奕の排仏論に全面的に依拠して仏教を排斥したわけではなかった。むしろ仏教道教かという選択ではなく、両者を含めて儒教も兼ねた、隋代以来の三教の鼎立を重視したとみるべきであろう。以上を総合すると、道教には天下を教化していにしえの理想的な政治(無為自然の治世)をもたらすような「風」があるとみられていたのであり、それゆえ唐の皇帝は、道教は臣下の礼をとる冊封の国においても、理想的な政治をもたらす一種の治道であり、道士と天尊像と『道徳経』はその治道をもたらすと認識していたのであろう。冊封に際して道士と天尊像と『道徳経』を下賜するのは、主君から臣下への恩恵としての贈与であり、それが結できる。[老子が説く]道は天子ではないから、風があるわけにいかない。風がないということであれば、どうして教化を広げられるか。教化することができるような風がないのだから[道教儒教仏教と同じように]あらためて教と称することはできないのである」。

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実際に道教信仰が行われていたかどうかは別として、むしろ興味深いのは(道教的要素があちこちに盛り込まれた)高句麗壁画古墳の発展史の方である。
古代の支配階級はなぜ己の奥津城を壁画で飾ったのか?

  • 4世紀〜5世紀初旬‥亡命中国人による遼東壁画古墳の導入期。安岳3号墳(墓誌銘によれば埋葬者は357年に没した遼東からの亡命中国人冬寿)や徳興里古墳(墓誌銘によれば埋葬者は408年に没した鎮某)が有名。そもそも石室に墓誌銘を残すのも、墓主を巨大で恐ろしげに描いて悪霊の侵入を防ごうとするのも中国式埋葬法の特徴でその域を抜けていない。

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  • 5世紀中…四方の壁の四神像の「風俗画的要素」の共存。墓主夫妻はむしろ優しく微笑む満ち足りた慈悲深い領主として描かれ、領民達の日常場面を見守る。双楹塚(5世紀末築造)などが有名。

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  • 5隻末〜6世紀…次第に描かれる内容が四方の壁の四神像のみに絞られていく。湖南里四神塚、江西大墓、江西中墓などが有名。

    http://1.bp.blogspot.com/-o7QsonCYYNc/T-DuLw0gcoI/AAAAAAAAhHs/pZuP2e_RQkM/s1600/K5-58.jpg

 この足跡は確実に7世紀末〜8世紀初頭にかけて奈良県高市郡明日香村に築造されたキトラ古墳(第8回遣唐使帰還以前)や高松塚古墳藤原京期)につながっていく。

唐の新羅冊封と道教流伝(738年)

高句麗同様、新羅でも冊封神秘化目的で公伝された道教そのものが歴史上大きな意味を持つ事はなかった。その一方でインテリ層が自由回達な道教的粉飾を好んだ事実もまた動かない。

  • 新羅道教の関係を考える際に問題となるのは、新羅の伝説が多く神仙思想で脚色されている点である。たとえば、新羅の始祖である赫居世は仙桃聖母から生まれたという伝説がある。『三国遺事』「感通第七」や『東国輿地勝覧』巻21によれば、中国の皇女が未婚で妊娠したのを責められて半島にわたり、そこで生まれたのが海東の初王、赫居世であり、彼はのちに天仙となったが、母は地仙となって慶州西岳の仙桃山に隠れ住んだので、人々はそこに聖母祠を建てて祀った、という。たしかにここでは「天仙」「地仙」という道教のタームがみられ、「仙桃」は西王母を想起させ、「天仙聖母」は泰山の碧霞元君信仰との関連を思わせるものがある。しかし、こうした神仙思想の語彙やイメージで脚色された伝説の背後に、儀礼をともなう道教信仰の実践が関係しているか、伝説だけからは判断できない。それゆえ、こうした神仙説話の存在だけをもって、道教がおこなわれていたと断言することはできない。慶州の聖母廟では、なんらかの祭祀がおこなわれていたようだが、それが道教の儀軌にもとづいていたかは不明である。それを、その祭祀に関わる説話に神仙思想が見られるから、その祭祀は道教だったとも断言できない。朝鮮には中国典籍が大量にもちこまれており、説話を書くにあたり、それらに学んで神仙思想や道教の語彙によって中国風に書いたとも考えられる。このような神仙思想や説話は、それだけからでは道教の受容の実態を考えることはできない。また、有名な聖徳王18年(719)の甘山寺阿弥陀像・弥勒像の銘文には、阿弥陀像の銘文に「荘周玄道」「逍遥之篇」、弥勒像の銘文に「五千言之道徳」「荘老之逍遥」などとあって、「仏教と共に、山水に親しみ老荘を読むことで、神仙説あるいは道教的世界に深く心を寄せている」金志誠という人物のいたことがわかる。これはおそらく金志誠一人の趣味ではなく、当時の知識階層に一定程度普遍的に存在した風潮であったと想像される。こうした風潮が後述するような、個人の修道をめざす金可記のあり方や、内丹を実践する道教といった側面につながっていく下地となったであろうと予想されるが、この銘文の文言は、むしろ世俗を離れた静かな生活をあらわす修辞という性質が強く、もし金志誠が宗教実践をしていたとすれば、それは道教ではなく仏教であったろう。

  • 新羅道教受容の史料は、孝成王2年(738)に唐の玄宗新羅へ使臣 を遣わして、国王に『道徳経』を贈った記事である。『三国史記』巻9「新羅本紀・孝成王」に次のようにある。「二年春二月。唐玄宗聞聖徳王薨、悼惜久之。遣左賛善大夫 、以鴻臚少卿往弔祭、贈太子太保、且嗣王為開府儀同三司新羅王。……帝謂 曰、新羅号為君子之国、頗知書記、有類中国。以卿惇儒故持節往、宜演経義、使知大国儒教之盛。……三月、遣金元玄入唐賀正。夏四月、唐使臣 以老子道徳経等文書献于王(738年2月に唐の玄宗は聖徳王の昇遐を聞いて、左賛善大夫の を鴻臚少卿として遣わして弔祭させ、故王に太子太保の職を贈り、また嗣王(孝成王)を開府儀同三司新羅王に冊封した。玄宗は に「新羅は君子の国と称せられ、書記のことが発展していて中国に似ている。そちは学問に篤いので、とくに信任状を持たせて行くから、よく経義を演述して、大国の儒教の盛んさを知らしめよ」といった。3月、孝成王は金元玄を唐にやって新年を祝賀し、翌4月に は『老子道徳経』などの書物を王に献上した)」。これも嗣王の冊封とあわせての『道徳経』の下賜である。さきに使臣の金元玄が新年の参賀をすませるのを待って『道徳経』が下賜されている。また、 は儒学者であることが強調されているのに『道徳経』の献上をおこなっており、儒教道教があわせて示されている。玄宗道教を非常に尊崇していたが、やはり儒仏道三教の鼎立を基本的な政治理念としていた。それは玄宗がみずから『道徳経』と『孝経』と『金剛般若経』に注釈を書いたことからよく理解できる。玄宗新羅に『道徳経』を下賜した翌年には『御注孝経』を下賜しているが、このことから考えれば、この『道徳経』も御注本だったであろう。新羅仏教国家であり、玄宗が遣使に対して儒教を強調し、かつ『道徳経』を下賜したのは、冊封された臣下の国である新羅に三教による治世の道を示す意味があったと思われる。ところで、唐が経典を他国に贈与するときには、内容(政治的効果)と時機が問題とされる。それがよくあらわれている例として、吐蕃への下賜の問題がある。開元19年(721)に吐蕃から『毛詩(詩経)』『礼記』『春秋左氏伝』『文選』下賜の請願があり、これについて唐政府の議論がわかれた。これら儒教経典が唐みずからよってたつ用兵や権謀を、とかく唐に対して攻勢に出てくる吐蕃に知らしめることになるので唐にとって不利だという意見と、吐蕃礼経を知らず徳義にくらいから、唐との「明約に負むき、国恩をうらぎる」のであり、『毛詩』(儒教経典)によって「声教を薫陶する」(唐の天子の徳による教化)こそが「混一車書、文軌大同」をもたらすことになるので唐に有利だ、という意見が出された。玄宗は後者をとって経典を下賜した。したがって玄宗は、経典による教化の有効性を信じて優先したことがわかる。このときは、一年前から吐蕃との関係が落ち着いてきて、赤嶺という地で唐と吐蕃との境界確定に際して石碑を建て「約以更不相侵」と明約した時機だった(37)。このことから、経典の下賜には時宜への配慮も関係していると考えられ、冊封における『道徳経』の贈与は、政治的な安定や秩序への要請とむすびついているのであろう。玄宗による新羅への738年の『道徳経』下賜は、聖徳王の昇遐後、孝成王の立った直後というタイミングである。また翌年に玄宗が『孝経』を下賜したのも、同様に故王に対する嗣王の意を汲んだものであろう。

また当時の新羅のインテリ達は数多く「神仙世界を石で再現した庭園」を数多く残しており、斉明天皇天武天皇に色濃い影響を与えたと考えられている。

飛鳥京跡苑池

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飛鳥時代の庭園は神仙蓬莱思想が中心である。園内に須弥山石像や酒舟石などの彫刻物を飾る。この遺跡では直線の五角形の池に比較的大きな中島があり、画面右側からこの島に渡る木橋の柱らしきものが発掘された。また、この島の左方面には石積の小島がり、更にその左側には流水施設が発掘されている(現在は埋め戻されている)。この飛鳥京跡苑池には須弥山石像などの人工造形が置かれていて、平城京にある東院や宮跡は大分赴きが異なる。飛鳥時代新羅百済の影響が大きく、有名な雁鴨池を、ごく小さくしたような印象を受ける。今回発掘された中島の造形は単なる自然の風景を写したというよりは、神仙蓬莱の思想の反映と考えると、鶴島を象徴していると考えることもできる。となると亀島は何処に となるが、この時代は彫刻物で亀を作るとしたら、現在飛鳥の河原寺近くにある亀石がここにあったとも想像できる。

 

斉明天皇の道教への耽溺

宝皇女、皇極天皇(在位642年〜645年)、重祚して斉明天皇(在位655年〜661年)は舒明天皇(田村皇子、在位629年〜641年)皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇皇后)・天武天皇の母。道教を好み土木工事や建設工事を好んで行った。宮や庭園の建設には多くの石が用いられたが、石の持つ永遠性に不老長寿を重ねていたとも言われている。

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  • 道教では最高神を「天皇大帝」と称し、これが元となって「天皇」という称号が生まれた。いつから「天皇」と呼ぶようになったかが問題だが,日本書紀が書かれた時代はすでに「大王」ではなく「天皇」と称されていたので一般的には天武天皇からとされる。日本書紀では天武天皇以前の大王の記述の際も「天皇」という称号を使っているが,斉明天皇道教とのつながりが深かったことを考えて,実際は天武天皇より前の斉明朝から使われていたのではあるまいか。

  • 後飛鳥板蓋宮に移ると多武峰の2本の欅の大木がある辺りに道教の「道観(仏教でいう寺院。日本書紀では「観(たかどの)」と記述)」を建て「両槻宮(ふたつきのみや。槻(つき)は欅の木で特にその大木には神が宿ると考えられていた)」と称した。この宮を天帝の宮殿である「天宮(あまつみや、仙人達の住む天上の宮。不老不死の理想郷)」とも呼んでいた。おそらくこの地を仙人の住む特別な聖域に見立てていたのである。この多武峰の周囲を囲む様にして垣が造られ,まるで冠の様だった。その一部と思われる石垣が亀形石造物の周辺から出土している。後になって多武峰の山頂に藤原鎌足を祀った談山神社が建てられた。

  • また吉野にも離宮を造営している。聖なる神仙境と見立てやすかっただけでなく、吉野近くの宇陀から東吉野にかけては水銀の産地であり水銀朱が採れたからである。これを加熱すれば(道教で不老長寿の薬とされる)水銀が抽出される。水銀朱の混ざった聖水を飲み続ければ若さが保たれると考えられていた。朱の赤色は中国では皇帝の色。日本でも古墳時代より身分の高い人物に使われてきた色である。

  • 亀は長寿のシンボルでもあり道教の神仙思想でも重視される。不老長寿の仙薬がある三神山の一つ「蓬莱山(ほうらいさん)」は亀の背中に乗っているとされるからである。国際日本文化研究センターの千田氏は著書「飛鳥・藤原京の謎を掘る」の中で「多武峰は天宮であるから蓬莱山になぞらえることができ,その麓にそれを支える大亀を配置した」と解説している。つまり亀形石造物が発見された場所一帯は神仙境に見立てられていた可能性がある。

  • 斉明天皇はこうした広大な石像庭園の他に,後に「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と呼ばれる事になる運河をのべ3万人を動員して築造。隋の煬帝(ようだい)が大運河の建設や高句麗との戦いで人々を苦しませ国を滅ぼした故事に擬えられた。その運河を利用して200艘もの船を動員して石上山(:天理市石上神宮付近)の石を宮の東の山に運んで石垣を造った。「日本書紀」斉明2年(656年)条にも「宮の東の山に石を累ねて垣とす」とある。この石垣の造営にはのべ7万人が動員された。

ところで天武・持統天皇陵,牽牛子塚古墳(斉明天皇陵?),天智天皇陵(京都山科),束明神古墳(草壁皇子陵?),中尾山古墳(文武天皇陵?)などは全て他の古墳と異なり八角形をしている。斉明天皇も好んだ道教の宇宙観に基づくもので、古代中国は八方位を重要視していた。それは宇宙を象徴するものであり,その中心にある北極星天皇大帝なる宇宙最高神と目されている。
*2010年9月,明日香村教育委員会は牽牛子塚古墳の発掘調査から,墳丘外周を八角形に巡る敷石帯などが見つかったと発表した。墳丘の底面は対辺約22メートルの八角形となることが分かった。「中大兄皇子(天智天皇)の母・斉明天皇とその娘間人皇女の合葬陵であることが考古学的見地で確証的レベルに達した。」としている。

改めて拾い直すと次の時代に飛躍する直前の景色はこんな感じ。

  • 唐が第4回遣唐使(659年〜661年)と同時期の660年に百済を滅ぼしたので、630年から続いてきた国交が断絶する。「白村江の戦い(663年)」で唐に逆らう無謀を思い知らされる。

  • 第8回遣唐使(701年〜704年)の派遣。その主目的は唐との正式な国交回復と、国号の「倭国」から「日本」への変更の通達だった。

  • 生還者達からの報告によって藤原京(694年~710年)の限界が明らかとなる。それを克服すべく平城京への遷都(710年)を敢行。養老律令(717年〜757年)の編纂が始まる。古事記(712年)や日本書記(720年)や万葉集(7世紀後半〜8世紀後半)が完成する。

  • 7世紀末〜8世紀初頭にかけて奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)にキトラ古墳(第8回遣唐使帰還以前)や高松塚古墳藤原京期)の様な大陸風彩色古墳が築造されたのはまさにこの端境期。

当時の倭国や半島三国に関する資料を漁っていると、否応なく「究極の自由主義は専制によってのみ達成される」なるジレンマを思い出させられます。「中華王朝に憧れる→何でも真似をしたくなる→とりあえず隣国全てを見下して従わせようとする」みたいな、悪循環。冊封史観が抱えている根本的欠陥って奴かもしれません。

そしてキトラ古墳高松塚古墳のデザインコンセプトの凄みって、完全にその領域から脱却して埋葬者の冥福しか祈ってない辺りとも?