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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代日本祭政史③最後に勝ったのは「ぬーぼー系」日本人?

前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)」時代の日本(倭国)においては、まさしく前方後円墳の築造こそが「日本領土」たる証だったのです。

前方後円墳体制 - Wikipedia

http://www.mozu-furuichi.jp/jp/img/learn/about/about_column01_img.jpg

  • ところで物凄く「強烈」な反論を発見。21世紀に入ってなお「騎馬民族征服王朝説」はますます元気一杯?

  • ちなみに考古学上の編年史によれば、紀元前より九州北部内陸地域で連合王国を営んできた在地龍力者達が畿内(纒向)に移住したのは5世紀でなく3世紀後半。代わって沿岸部の海人族が台頭してきて4世紀に入ると祭祀の舞台を三輪山に移した畿内ヤマト王権との関係を急速に深めていく(所謂「三輪山=宗方=沖ノ島」三重祭祀)。そして5世紀はむしろ半島外交の九州北部独占の崩壊期。しかもこの時期の九州北部内陸地域で活躍するのは「葦北君」「筑紫君」「肥君」といった古代九州北部連合系と全く異なる別勢力。さらには装飾古墳(4世紀〜7世紀)を築造した謎の別勢力。
    *装飾古墳(4世紀〜7世紀)を築造した謎の勢力…壁画の内容から「船と馬の民」とか呼ばれたりする。現在の熊本県あたりを本拠地としていたらしい。おそらく砂鉄から鉄鋼を精錬する技術の全国伝播に一役買ったと目されている。

  • 確かに当時の史料には「筑紫君」が強力な騎馬隊を擁していたっぽい描写もあるけど、この時代までには上越経由で甲信越地方や東海地方に移住した高句麗系移民やその影響を受けて馬を飼いだした在地豪族達も結構な勢力になってる(伊達に出土する埴輪に人形ならぬ馬形が混ざってくる訳じゃない)。ましてや直接高句麗騎馬隊の遠征を受けた朝鮮半島南部諸国はいわずもがなで、それだけで圧倒的軍事優位が確保出来る時代なんてとっくの昔に終わっていたのである。第一間近には畿内ヤマト王権と縁深い(西都原古墳群を奥都城とする)日向騎馬隊なんてのも割拠していた。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/31/Saitobaru_Kofungun_air.jpg/230px-Saitobaru_Kofungun_air.jpg

 その一方で「ヤマト王権の完全なる影響圏外」なんてのも存在してました。

確かにこれらの地域でも一応前方後円墳は発見されています。問題はその分布の仕方。あたかも立ち入り不可能の地域を囲んで威圧するかの様な建てられ方をしてるのです。おそらく交通路確保の為に懐柔した隣接地の在地有力者や、現地に派遣した駐屯軍が威圧目的で築造したものでしょう(当時の隼人族居住区には対抗して築造された「なんちゃって前方後円墳」も存在する)。ところで日向国のそれが対隼人防衛ラインだったとしたら、周防国のそれは如何なる勢力に対する防衛ラインだったのでしょうか?

http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/43/0000088443/95/imgc9d67acc288blc.jpeg

考古学上の編年史が明らかにするの以下の2点。

  • 残された人骨や遺伝子調査から、大陸系や半島系や倭人系の混合が確認された。
  • 残された墳墓の様式は半島や大陸の影響を色濃く受けている。

ますます訳が分かりません。ちなみに文献資料にもちゃんと登場します。

http://pandapanda6289.up.n.seesaa.net/pandapanda6289/tsuruga/a0728005.jpg?d=a144594581

都怒我阿羅斯等:玄松子の祭神記

日本書紀垂仁天皇の条に、崇神天皇の御代、意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が、 日本へやってきたとある。 最初、穴門についた時、その国の伊都都比古(いつつひこ)が自分を国王だと名乗ったが信じられず退出し、 出雲国を経て笥飯(けひ)の浦に到着し、角鹿と名づけたとある。 都怒我阿羅斯等は、白石から生れた姫神を追って日本へ来たともあり、その姫神は、難波に至って比売語曽社の神となった。

新羅の阿具沼の辺で、一人の女が昼寝をしていた。その陰部に日光がさし女は赤い玉を産んだ。 その玉から変じた美女・阿加流比売を、新羅の王子・天之日矛(あめのひぼこ)は妻とした。 ある日、天之日矛は気嫌を損ね、激しく阿加流比売を罵った。 阿加流比売は「私はあなたの妻となるべき女ではない。祖国へ帰ります」と言って小舟を操り、日本に戻って難波で暮した。

この天之日矛神話との類似から、都怒我阿羅斯等と天之日矛を同神とする説がある。

崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇)の崩御後、垂仁天皇に三年仕え、天皇に帰りたいかと聞かれ「帰りたいと答えた」。 そこで天皇は「先皇の名、御間城の名をとって国名とせよ」といわれ、赤織の絹を賜り、返された。 ここから国名は任那となった。ところが新羅の人がそれを聞いて怒り、兵を起こして蔵に納めた絹を奪った。 そこから任那新羅の争いが始まった。
 *実際の越前国敦賀郡は海流の関係からむしろ新羅との関係の深さで知られる。政治的意図に基づく細部の改竄は黙殺すべきであろう。

「イタケルの神話」の概要 上垣外憲一氏執筆

イタケルの神というのは実は大変おもしろいというか、多分、日本の神話に出てくる神様の中でも変わった神様です。それは一つは、このイタケルという神は新羅から来たということが『日本書紀』にはっきり書いてあるのです。イタケルというのは、『日本書紀』神代の上巻の出雲神話の中に出てきます。実は須佐之男命の子神であるということで出てくるのですが、字は「五十猛」と書きます。『日本書紀』の読み方ではイタケルというふうに読んでいますが、これは出雲の地元というのはおかしいですが、島根県大田市出雲大社のある少し西のほうですが、そこにイタケルの神が上陸したのだという伝説の場所がありまして、そこでは「イソタケ」というふうに呼んでいます。そういう読み方も可能かもしれないと思います。


まず、『日本書紀』の言葉を読んでおきたいと思います。こういうふうに『日本書紀』には出てきます。「ある文にいわく。須佐之男命の所行無状(しわざあづきな)し。故、もろもろの神たち、おほするに、千座置戸をもつてし、つひに逐ふ。」これは須佐之男命がいろいろと悪いことをしたので、罪になることをしたので高天原から追放されたということを書いているのです。『日本書紀』ほ「ある文にいはく」という形で、神話のバリアント、異本をたくさん載せています。これはその異本の一つで、多分、皆さんは余りご存じないお話ではないかと思います。


このときに、「須佐之男命、その子五十猛神を率いて新羅の国にあまくだりまして曽尸茂梨(そしもり)のところに居します。すなはち興言(ことあげ)して曰はく。この国ほ吾居らまく欲せじと曰ひて、つひに埴をもつ て船につくりて、乗りて東の方に渡りて、出雲の国の簸の川上にある鳥上の峯に到る」(岩波古典大系本による)。この話を見ますと、皆さんよくご存じの須佐之男命高天原から降りてきて、出雲の国の簸川の上流の烏上の峯というところに天降ったという話です。その中に、その子の五十猛神と一緒に新羅の曽尸茂梨というところに降りてきた、天降りしたということが書いてあるのです。さらに、ハニというのは埴輪の埴ですけれども、土で船をつくって、そして「興言して曰はく」といって、非常に勇ましく船に乗って押し渡ってきたような書き方をしています。こういうのを読みますと、すぐ騎馬民族征服説とかを考えたくなるのですが、それはちょっと置きまして、ともかく土の船ではありますけれども、船に乗って渡ってきた。それがもう一度天下りしたような形で鳥上の 峯に降りてきたというわけです。


その後の話は須佐之男命の例の八岐大蛇退治の話が加わっておりますが、そこはあまり違っていません。ところが、その終わりのところにまたイタケルの神の説明がしてあります。「初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を持ちて下る。然かれども、韓国に殖ゑずして蓋に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に播殖して、青山に成さずといふことなし。所以に、五十猛命を称けて有功の神となす。即ち紀伊国に所坐す大神是なり」というふうに言っております。


おもしろいことに、この五十猛命というのを祭っているのは和歌山なんです。伊太祁曽神社という名前の神社があります。これは和歌山市の少し山のほうに入ったところにあるのですが、ちょっと盆地のようなところにある真ん中に伊太祁曽神社というのがあります。和歌山というのはいわゆる紀伊の国、木の国ということですね。植林の神が祀られるのにいかにもふさわしい。私は実は木曽の出身なので、伊太祁曽の「きそ」というのは何で「きそ」かなというのをつい思うのですけれども、林業ということにかかわっていろいろ名前がおもしろい、変わったところがあります。


例えば、宮城県には伊達神社があって、イタケルの神をお祀りしている。普通は伊達(だて)と読みますね。しかし、この関連の読み方からしますと「いだて」と読んだほうがいいのではないかと思いますが、こういうような言い方をされる場合もありますし、あるいは伊太氏(いたて)と読みますが、これは出雲の国でこういう名前で書かれている場合が多いようです。これはいわゆる『延書式』に神名帳というのがありまして、諸国の神社を書き出しているものがあるわけです。もちろん平安時代のものです。そこに出雲の国の、たしか六つだったと思いますが、いろいろなお社に、そこに一緒に祭られているという形であらわれてくるのです。一つだけ書いておきましたが、「玉作社坐韓国伊太氏神社」という書き方をしています。玉作はご存じのように出雲にある玉造温泉の玉造にあるお社なんですけれども、そこに「います」。ともかく一緒に住みついているというのか、祀られているというのか、そういう神様がいて、それが韓国の伊太氏神社である。イタケとイタテ、音が大変近いですし、恐らく同じ神と考えていいのでしょうけれども、こういう書き方をされて、ここでも韓国といって、新羅とはちょっと違う書き方でありますけれども、朝鮮半島から来た神様であることがはっきり示されているのです。それが主に紀州と出雲に祀られている。


これは一体どういう神様か。ここで読む限りは植林の神様であるということです。このイタケルの神様というのは、天から降ってきたときには木の種をたくさん持ってきた。しかし、韓国、朝鮮半島新羅のほうには植えないで日本に持ってきた。

そして、筑紫から始めて、ずっと日本を青い山にしていった。今は紀伊国に祀られているというのが『日本書紀』の文章です。紀伊国はご承知のとおり木国でして、大変温暖で雨が多いですし、山には豊かに木が生えていますね。そういうことを思うと、森林を扱う神である。それが紀伊国にあるというのは自然なのかもしれません。

ところが、このイタテという神様はいろいろ複雑な神格を持っていまして、製鉄、あるいはもっと正確に言うと鍛冶、鉄を鍛えて鉄製品をつくる。特に武器をつくる。どうもそういった神格も持っているようです。

能本県の江田船山古墳というところから出土した、銀象眼だったと思いますが、有名な鉄剣がありますが、その銘文の中に「作刀者名伊太□、書者張安也」とあり与(「探訪日本の古墳」西日本篇、有斐閣による)。張安というのはいかにも中国人風の名前で、漢文ができた人なのでしょうけれども、この鉄剣をつくった人物はイタ何とかである。私はやっばり伊太氏に結びつけていいのだろうと思うのですが、そういうことを見ますと、どうも鍛冶、つまり鉄を鍛えて剣をつくる人の名前にこういう名前があらわれてくるということは無視できないですね。それをどうやってつなげて考えるかということを私はいろいろ考えたのですが、こういうことではないか。

一つは、このイタケルの神話をよく考えてみると、これは韓国に植えずして日本に木の種をまいて、日本が青い山になった。逆に言うと、韓国ははげ山だということを暗に言っていると思うのです。韓国が青い山になるはずだったのに、木の種は播かれなかったのだから、韓国ははげ山で、日本は木が茂っている。そうしますと、これはなぜ日本に木が豊かなのかという一種の起源説話というふうにも読めると思うのです。

そうして、韓国に木が少なく日本に木が多い、その理由に鉄がからんでいるのではないかと私は思うわけです。それはどうしてかといいますと、これは三世紀のことを書いた書物というのは例の『魏志倭人伝』と同じく「魏志」でして、先ほど金関先生が引用されましたけれども、『魏志韓伝』というものの中に朝鮮半島の南部の三世紀のことが書かれているわけです。その中で、朝鮮半島南部の弁辰という言い方をしておりますけれども、大体、釜山からずっと洛東江という川をさかのばったその流域辺、大ざっばに言えばそう言えると思いますけれども、その地域から鉄が出る。そして南朝鮮の韓族、それから倭人もこれを採る。つまり、三世紀にそこから鉄が出て、その鉄を倭人も交易に来るということを書いています。この倭人を日本人、この日本列島に住んでいた人というふうに考えてみますと、その弁辰、朝鮮半島南部で出た鉄を日本人は交易で持ってきていた。実際、これはもう少し時代が下るかもしれませんけれども、古墳なんかから鉄[金廷]という鉄の板、あるいは延鉄と言っていいのですか。要するに延べ棒のような形の鉄がよく出てきますが、こういうものは恐らく素材の鉄ですね。そういった鉄素材が朝鮮半島から輸入されて、日本において鍛造して、そしていろんな鉄製品がつくられたというふうに考えられております。

森林資源の枯渇する理由はいろいろあると思いますけれども、農業そのものは森林を破壊しません。ところが、製鉄を非常に盛んに行ったとしますと、これは確実に山ははげていく。製鉄のためには大変な量の燃料を必要とするわけです。高熱を必要としますから、ともかくその高熱を得るために大変な量の燃料を使用します。こういう形で、製鉄の盛んな地域ではどんどん森林資源が枯渇していくというのが、ごく近代に至るまでの文明のパターンです。ですから、木を使い尽くした民族は鉄がつくれなくなって、結局、軍事力、生産力が落ちて没落するということになるわけです。これは近代に入って、イギリスなどで石炭からコークスを使うようになって木炭でなくて済むようになってから、こういう森林の呪縛から解放されるわけですけれども、それまでほ森林がなければ鉄ができない。

ですから、日本が青い山で向こうがはげ山という状況はまずあっただろうと思ます。古代のどの時期のことを言っているかというのは大変難しいですが、三世紀から四世紀ぐらいにかけて、この神話が生まれてくるような状況が日本列島と朝鮮半島の問にはあったということは言えるだろうと思います。

それからもう一つ、ここにはイタケルの神というのが植林の神であるように書かれていますね。ですから、これも自然林が非常に豊かなところでは植林の技術なんていうのは全く必要ないわけで、日本で起こるというよりは、木を大変切って森林資源の枯渇を感じていた朝鮮半島で植林の技術ということがまた考えられ、発展してきたということが十分考えられると思います。そういう点で、このイクケルという植林あるいは森林資源の神様が朝鮮からこちらに渡ってきたというのは、三世紀と言い切れるかどうか疑問ですけれども、その当時の状況から十分あり得ることだと思います。


次に住吉神社とこのイタケルの関係について考えてみたいと思います。住吉神社というのは大阪にもありますし、博多にもありますが、私が重要だと思うのは今の新下関の近くにある長門の国の一宮と言われている住吉神社です。『住吉大社神代記』といわれる書物の中にほ先ほど言った伊達神がちょっと出てきて、住吉神とイタケルの関係を推測させるのですが、それはこういう形です。「船玉神」、これは住吉神の子神であるとなっているのですが、その中で、船玉神というのは「紀氏神、志麻神、静火神、伊達神の本社なり」と書いてあります。本社というのはどういう意味でしょうか。もとの神様でしょうか。『神代記』では、住吉神の子神様が船玉神で、そして伊達神はまたその分身みたいな形に考えられています。ですから、住吉神の孫の神というか、子の神というか、そういう形で伊達神というのは考えられていることになります。

まず第一に「紀氏の神」というのが出てきているのが大変印象的で、先ほど伊太祁曽神社紀州にあると申し上げましたけれども、紀氏は本拠地が紀州になるわけです。これは『日本書紀』の中で「紀の臣」と言われている人は、先ほどから申し上げている朝鮮半島と大変関係の深い氏族として常にあらわれてきます。それはどういうことかというと、この辺は大変問題のある記述ですけれども、この紀の臣の将軍がいわゆる任那のほうに行って大変活躍したということが仁徳天皇、あるいはもう少し後の時期のこととして書かれています。多分、雄略天皇の時代ぐらいまで、ところどころに紀の臣というのが出てきます。このことが本当に大和朝延の朝鮮半島への経略ということを示しているかどうかはいろいろ疑わしい点があると私は思いますけども、しかし、紀の氏、紀の臣という紀州を本拠にしていると考えている人たちが大変朝鮮半島と関係が深い人たちであったということは言ってもいいだろうと思います。

和歌山市内には有名な大谷古墳というのがあります。五世紀の中葉か末期の築造と考古学では言うようですけれども、ここからは恐らく朝鮮半島で製作されたであろう、あるいは朝鮮半島から来た人がつくったであろう有名な馬胃が出ているのです。これは鉄製のちょうど馬の顔の形のようにつくったとても精巧なマスクです。馬具、しかも馬の胄なので、こういったものはどうしても朝鮮半島と結びつけて考えなけれはいけないものでしょうし、紀の氏というものと大谷古墳から出た鉄製の馬具をつなげて考える人は多いと思います。

こういうことを考えてみますと、ここでも実は伊達神というのは朝鮮半島とつながってくるわけです。それから大谷古墳から鉄の馬胄が出た。鉄製品ということでも言えると思います。それから「静火の神」というのがあ りますが、「静火の神」の神格も、火を扱うのだなあということを当然思いますね。そうしますと、やはり製鉄、あるいは鍛冶ということと何か関係があるのではないかと思います。

そして長門の国にある、下関にある住吉神社の祭神は、『日本書紀』によれば表筒男命中筒男命底筒男命というふうになっています。これも実は朝鮮半島とかなり関係があるというのは、物語の中に、神功皇后のいわゆる三韓征伐のときにですね、この神が霊験をあらわした。そういうことが書かれているのです。神功皇后三韓征伐ははなはだ疑問の多い記述ではありますけれども、下関という位置を考えても、朝鮮との通行にこの神様が深い関係があったと言うことは言ってもいいのではないかと思います。

実は、この住吉神の名前が不思議だと、私は前から思っていたのです。表筒男命中筒男命底筒男命。だから、表と中と底を取ると、みんな筒なのです。ですから、結局ほぼ一つの神様を三つに言ったような感じがします。それで、どうしても私に連想されるのは、『日本書紀』 の「垂仁天皇紀」に出てきまして、これはミマキノスメラミコト、つまり崇神天皇のときの話として有名な、これはまた朝鮮関係で興味のある方はよくご存じだと思いますが、ツヌガノアラシトというのがその崇神天皇のときに福井県敦賀にやって来たという話がかなり詳しく載せられています。そのツヌガノアラシトは大加羅洛東江の上流のほうと言うのですが、どうでしょうかね。ともかく朝鮮半島の南部からツヌガノアラシトが敦賀までやってくる。そのときどういうふうに来たか。「穴門に 至る時に、其の国に人有り、名は伊都都比古、臣に謂りて日はく、我は是の国の王なり、吾を除きて復二の王無・・・」、こういうふうに言っているのです。

つまり、これはこういう話です。ツヌガノアラシトが、釜山と言ってもいいでしょうけど、そちらのほうから、穴門ですから長門のことですが、下関にやって来たときに、そこに人がいて、伊都都比古と言った。これが、「自分はこの国の王である。ほかのところにほ王様なんかいないから先へ行くな」と。ツヌガノアラシトは、よくよく見ても王様らしくないので、出雲の国を通って敦賀へやって来ました。それで崇神天皇にまみえたということになっているのです。

もちろん仮説ですが、住吉神社で祀られている筒男命というのは伊都都比古のことではないか。つまり、下関で「自分は王である」と言っていた伊都都比古ではないか。仲哀天皇の『日本書紀』の記述では、五十迹手(いとて)という者が下関の彦島というところで仲哀天皇に降伏したという話が出てきます。三種の神器のようなものを木にかけて、これも朝鮮式といいますか、先ほど金関先生が説明された木にそういう宝器をかけて、それを降伏の印に差し出すという物語なのです。ここで降伏して下関の彦島にいたという人物の名前が五十迹手と言うのです。これはやはり何らかの形で伊達や伊都都比古と関係があるのではないかと思うわけです。先ほど伊達神というのが住吉神の子神あるいは孫神だという考え方があると申し上げましたけれども、そうしますと、ちょうどその形に伊都都比古の話と下関の五十迹手の話は対比して考えられるのではないかと私は思ったのです。

実は、この五十迹手というのも大変おもしろいので、『筑前国風土記逸文』では、「高麗の国の意呂山に天降った天日槍の末」。つまり、オロ山と心うのは蔚山だと言われますが、韓国の新羅の地域ですね。そこに天降った天日槍の子孫が五十迹手だと言われております。だから、五十迹手というのは新羅から先祖が来たということになりますね。

それからもう一つ、下関で新羅と関係があるということを申し上げたいのは、長門の国の二宮は長府というところにある忌宮という神社ですけれども、それは仲哀天皇を祀っています。そこの伝承というのは、仲哀天皇の宮があった。豊浦宮と言っていたと言うのですけれども、そこに実は新羅の国の賊が攻め寄せてきた。そして、仲哀天皇はみずから矢を射てこれを撃退したというのがその忌宮に伝えられています。忌宮がある長府というのは、ご存じだと思いますが、下関から少し瀬戸内側に入ってきたところの海岸部です。住吉神社とは本当にすぐ近くです。そこに二宮の住吉神社があって、長府に忌宮があります。こちらが仲哀天皇の本拠地だったという伝説になっています。

こういうことを考えますと、私は下関にいた伊都都比古というのは新羅系ではないかと思うのです。それが祭っていた神か、あるいはその人を神格化あるいは祖先神として扱ったものが五十猛あるいは五十迹手神ではないかと思います。

『隋書倭国伝』

7世紀初頭においてなお、日本には謎の国があった。

  • 明年、上遣文林郎《裴清》使於《俀国》 。(大業4年(608年)、隋皇帝は文林郎裴清を倭国に遣わした)。
  • 度《百済》、行至《竹島》、南望《聃羅国》、経《都斯麻国》、迥在大海中。百済を経て多島海を越え、南に済州島を望みつつ対馬を経て、さらに大海を渡った)。
  • 又東至《一支国》、又至《竹斯国》、又東至《秦王国》、其人同於華夏、以為《夷洲》、疑不能明也。(そこから東に向かって「一支国壱岐国とも筑紫の西にあった国とも)」「竹斯国(筑紫とも九州島とも)」「秦王国(豊国とも長門とも)」を過ぎた。その習俗は中華そのもので、ここが「夷州(台湾)」と聞かされる。多分に疑わしいが肯定も否定も出きない)。
  • 又経十余国、達於海岸。(さらに十余国を過ぎて海岸に到達した。)
  • 自《竹斯国》以東、皆附庸於《俀》(「竹斯国(筑紫とも九州島とも)」より東は全て倭国に属するという)。

ここで問題となるのが「(豊国とも長門ともいわれる)秦王国」なのは言うまでもない。確かにその辺りに「倭国の様なそうじゃなさそうな訳のわからない国」があったのは確からしい。

周防国(すおうのくに)

かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。7世紀に周芳国として設けられ、7世紀末に周防国に改称した。当初は大島郡、熊毛郡、都濃郡、佐波郡吉敷郡の五郡からなっていたが、養老5年(721年)に熊毛郡から玖珂郡が分けられ六郡となった。

  • 藤原宮(藤原京)木簡に「周方国」・「周防国」と表記。 平城宮平城京)木簡に「周芳国」・「周防国」と表記。

  • 日本書紀』では、天武10年(681年)の「周芳国、赤亀を貢ず」が初見で、『続日本紀』では文武天皇元年(697年)に周防国であるが、翌年には周芳国献銅鉱となっている。しかし文武天皇4年(700年)には周防総領任官の記述が有るのでどちらも使われていたと思われる。

  • 読みは長く「すおう」、ハ行転呼が起きる前は「すはう」と言われてきたが、古代の日本語では母音が連続することはないため/suhau/という読みは不自然であり、当初は諏訪と同じく「すわ(歴史的仮名遣:すは)」と読まれていたと考えられている。

  • 7世紀代に光市大和町田布施町の境にある標高約360メートルの石城山(いわきさん)に山城が築かれた。これが学術用語でいう神籠石(こうごいし)という遺跡である。石城山には延喜式内社である石城神社が山頂に鎮座しその本殿は国の重要文化財に指定されている。

 中世に入っても勢力の変遷は少なく、執権北条氏一族の支配から幕府滅亡によって大内氏の支配が続き、中世末に入って毛利氏の領国となって明治維新を迎えた。

長門国(ながとのくに)

かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあった。

  • 一説によると、下関市豊田湖湖畔に日女尊(ヒメコ・ヒミコ:俗に卑弥呼とはもともとは中国側が使う卑語・蔑称)の冬の居城があり、更に安徳天皇西市陵墓参考地が日女尊の墓とされる(安徳天皇の陵墓は下関市赤間神宮横にある。明治期に正式に認定されたが、安徳天皇が葬られた場所という伝承があるため陵墓参考地に指定されている土地は当該土地を含め10か所以上あるという)。

  • 日本書紀』によれば、大化6年(650年)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上した。天智4年(665年)には長門国が初見される。この間に改められた。 穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。穴門国造の領域と、阿武国造の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置された。7世紀後半に長門国に改称した。
    *草壁 醜経(くさかべ の しこぶ、生没年不詳)飛鳥時代の官吏。姓は連。穴戸(長門国の古称)の国司。草壁氏(草壁連・日下部連)は開化天皇裔の皇別氏族で、彦坐王の子である狭穂彦王の子孫とされる。大化6年(650年)麻山(おのやま)で捕らえた白い雉を孝徳天皇に献上。この瑞祥によりに盛大な儀式が開かれて元号が「白雉」に改められるとともに、醜経も褒美として大山の冠位と多数の品物を与えられた。

  • 665年(天智天皇3年)には、筑紫国大野城や基肄城と並んで、長門国に名称不明の城が築かれた。675年(天武天皇4年)には、畿内陸奥国長門国を除いて、国司は大山位以下を任じることが定められた。陸奥国長門国が特別扱いされたのは、海を隔てて朝鮮半島と向かい合う辺境の要地にあるためで、同じく辺要の九州は、筑紫大宰を上に持っていた。こうして、一時は他国より格上とされた長門国ではあるが、後に周防総領が置かれるとその管轄下に入ったと考えられる。

  • 奈良時代長門国は、銅を多量に産した。国司直営の銅山から採掘された銅は、都に送られて東大寺の大仏の原料になった。また貨幣の原料としても重宝され一時長門国司が廃止されて鋳銭使が設置され長門の行政・貨幣鋳造を司った。鋳銭所の所在地は下関市長府逢坂・安養寺に比定されている。

  • 源氏と平氏が権力争いを展開した時代の末期、平氏知行国であった中で厚東氏、豊田氏の両氏が勢力を伸ばし、1185年には壇ノ浦の戦いの舞台ともなった。

  • 1276年に鎌倉幕府元寇に対処するため長門探題が置かれた。

  • 室町時代には周防国山口を本拠地とする大内氏守護職となり守護代として鷲頭氏や内藤氏が務めた。この大内氏は九州のうち豊前国筑前国までを勢力圏としていたが、後に安芸国の毛利氏に取って代わられる。

江戸時代には萩に藩庁を置く長州藩の所領であった。寛永年間には馬関が北前船が寄港地として繁栄し、幕末には明治維新への拠点となった。

古代山城(こだいさんじょう)

九州地方北部・瀬戸内海周辺にあった古代日本の山城、飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて西日本各地の山に築造された防衛施設などの総称。

  • 従来、文献に見える山城は「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ(さんじょう))」、見えない山城は「神籠石式山城(こうごいししきやまじろ(さんじょう)、神籠石系山城)」と呼び分けられてきたが、近年の発掘調査により両者の違いが必ずしも明確でなくなりつつあり、これらをして「古代山城」と総称される傾向にある。

  • 文献に見える城は12ヶ所(狭義の朝鮮式山城11ヶ所と中国式山城1ヶ所)、見えない城は16ヶ所(神籠石式山城)あり、合計28ヶ所を数える。基本的に山1つを防御施設としたもので、山の頂上付近を土塁・石塁で区画しており、大規模なものでは区画の外郭線が数キロメートルに及ぶ。

これらの山城は古代に役目を終え、一部の城跡では中世に山城や寺社などが設置され現在に至っている。

  • 狭義の朝鮮式山城…「朝鮮式山城」の名称は、天智天皇2年(663年)8月の白村江の戦いでの倭軍敗北後に、これらの城が百済将軍の指導の下で築城されたことに基づく。『日本書紀』では、天智天皇4年(665年)8月に百済将軍の答ホン春初が長門に城を、憶礼福留・四比福夫らが筑紫に大野城・椽城を築城したと見える。近江大津宮遷都や水城築城と同様に、唐・新羅からの侵攻を意識した施設であった。文献では高安城・茨城・常城・長門城・屋嶋城・大野城・基肄城(椽城)・鞠智城・金田城・三野城・稲積城の計11ヶ所が記され、これらが狭義の朝鮮式山城とされているが、うち長門・茨・常・三野・稲積の5ヶ所は所在地が明らかでない。所在地が明らかな城では、遺構として石塁・土塁・建物跡などが見られる。なお『日本書紀』の壬申の乱の記事では三尾城(滋賀県高島市付近か)の存在が見えるが、これも近江大津宮の北方守備(対日本海ルート)として築かれていた朝鮮式山城の1つとする説がある。

  • 「中国式山城」または「大陸系山城」…その名称は、文献に見えるも朝鮮式山城には属さない怡土城(福岡県糸島市)を指す。築城時期は朝鮮式山城(7世紀後半頃)から下る8世紀中頃で、その背景としては唐の安禄山の乱の影響に備えたとする説や、藤原仲麻呂による新羅征討計画(実行に移されることはなかった)の拠点とする説などがある。遺構としては土塁・望楼跡・城門跡などが見られる。朝鮮式山城が攻撃相手に城内を見せない構造を採るのに対して、怡土城では山の斜面にたすき状に築き城内を見通される構造を採るなどの特徴があり、攻撃的性格の強い城とされる。

  • 「神籠石式山城」…その呼称は初めて発見された高良山の遺跡の呼称に由来する。その後各地で高良山に似た列石や石塁の遺構が見つかり、これらを巡り霊域説・山城説に分かれて議論(神籠石論争)が展開されたが、現在では山城跡が定説となっている。百済の技術を基にした山城と見られる点では、この神籠石式山城も「広義の朝鮮式山城」の範疇に入る。現在見つかっているものは16ヶ所。遺構の特徴としては、切石を並べた列石を土塁の土留め石とする点や、列石区画の内側には特に建物跡が見られないという点が挙げられる。これらの山城は年代を示す遺物の出土が少ないため、その存続年代が明らかでない。上記の朝鮮式山城と同様の7世紀後半頃と推測する説などがあるが定かではなく、朝鮮式山城・神籠石式山城の年代の前後関係が注目されている。

ちなみに文献に見られる古代山城の築造史は以下。
天平外交史年表 724(神亀1)~764(天平宝字8)

藤原仲麻呂による新羅征討計画天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇仲麻呂との不和により実行されずに終わる。藤原仲麻呂蝦夷押勝)は新羅討伐に成功したら敬福を百済王に据える計画だったといわれている。

どう見たって「白村江の戦い(663年)」敗戦後のどさくさに紛れて対大陸防衛ラインに組み込まれ、東大寺大仏建立事業の巻き添えとなって併合されたとしか思えない展開ですね。

ただ朝鮮式山城築造事業を指揮していたのは亡命百済人で、大仏建立事業を率いていたのも多種多様な渡来氏族だったので、あまり「日本に併合された」という意識は持たずに済んだのかもしれません。そして…

日本が独自近代化に成功したのも、もしかしたら前方後円墳体制どころか、江戸幕藩体制にすら組み込まれる事を良しとしなかった彼らの反骨精神ゆえだったのかもしれません。ちなみにフランス語の「新しい(Nouveau)」を語源とする「ぬーぼーとした奴(ヌッと突っ立ってるだけでボッとしている使えない奴)」なる表現、ベテラン長州兵が新兵に浴びせる罵詈雑言が起源だったとされています。

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要するに「微笑みデブ」かぁ…原義からすると彼らこそが「ぬーぼー系日本人」となりそうな気もするのですが…