諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【レッドタートル】【砂の女】【リップヴァンビンクルの花嫁】もしあれが「ロビンソン・クルーソー」なら?

最近マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督作品「レッドタートル ある島の物語(英題:The Red Turtle、仏題:La Tortue rouge、2016年)」について、ちょっとした数の投稿をまとめて行いました。このサイトの良いところは、それを誰がどういう検索ワードで引っ掛けてるか見せてくれる辺り。

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CATSUKA - Artworks by Michael Dudok De Wit for his animated...

この辺りが検索されてる範囲の限度なら、仕切り直した方が良さそうです。

  • マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督は画面内での展開を全て完全にコントロールしようとするタイプの監督で、そのアプローチは人間は何かに執着し抜く事によって三昧の境地に導かれる事もある」状況を描いているうちは完全に成功していました。

  • しかし、この作品において「人間は何かを諦める事によって逆に三昧の境地に導かれる事もある」といったテーマに挑戦した途端、ある種の根本的瑕疵を露呈する事になったのです。しかもそれがどんな瑕疵か、見る人によって「誰が何を諦めたか」解釈が異なる為についてのコンセンサス形成が難しい。そのもどかしさがこの作品の評価を難しくしているともいえましょう。
    *ここでいう根本的瑕疵って、マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の作風のそれというより欧米文明のそれという気がする。そして、その隙を突いてきたからこそ、現在の日本製コンテンツの国際的人気があるのだとも。

    https://66.media.tumblr.com/20ba19c3895de5bb14727d15c081bda7/tumblr_o79qyfC7KN1qe4mifo1_540.gif

  • 一方、国際SNS上の女子層は微積分計算によって極限値を算出する様な発想の飛躍を用いて一つの結論に到達しました。「かぐや姫の物語(2013年)」の高畑勲監督が一枚噛んでいる以上、この作品もおそらく究極的には「人間は生きてる事自体が罪で、一刻も早く死んだ方がマシ」と観客に伝えたいのであって、そういう作品はもう見たくないのだ、と判断したのです。誰も「違う、そういう作品じゃない」と擁護出来ない辺りに、この作品の根本的瑕疵がありそうです。
    *何が恐ろしいってそうした国際SNS上の女子層、その一方では庵野秀明監督作品「シン・ゴジラ」の内容を知って「私達は鎌田君!!」とか言い出してる。どうやらマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督、「魚に逃げ切られた僧侶」状態に陥った模様。殴って殺したら妻に化けて添い遂げてくれるなんて、ファンタジー世界だって有り得ない?
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そして全体的に状況を俯瞰すると、今年のエンターテイメント作品は「赤き死の象徴」大会になった趣があって、国際的SNS上での閲覧数でこういう順位がついたとも。

  1. シン・ゴジラ」の鎌田君…「怖がられても嫌われても一生懸命成長を目指す辺りが健気」と若い女性層の同情票を集める。

  2. 「君の名は」の彗星ティアマト…まさしく美(誰もがその美しさに息を飲む)と戦慄(迂闊に近づいた者は全て死ぬ)が同居するPicturesque概念の究極。ラブクラフト御大が目指して到達できなかった領域に到達した?

  3. 「レッドタートル」の赤海亀…「こんなにも男にとって一方的に都合が良い女(死神)なんてファンタジーの世界にもいねぇよ」と世界の半分(女性層)に猫またぎされる。 

そういえばどの作品も死を扱いながら「流血を伴う直接表現」は完全に避けてましたね。その辺りに21世紀的コンセンサスなるものがあるかもなのです。

このサイトのアクセス解析によれば、全体的に参照数は低調だったのですが、そんな中で相対的に「レッドタートルなる作品、海外女子には不評」なる話題が比較的検索に引っ掛けられた様です。やはり気にしてる人は気にしてるみたいなんですね、あの展開…

どうしても日本だと安部公房砂の女(1962年)」見立てが多くなる様ですね。それはそれとして Coccoの名前を見て岩井俊二監督作品「リップヴァンビンクルの花嫁(2016年)」を思い出しました。そういえばあれもやはり「死神物」。しかも「冥界神」と「地上の名代」が分離した本格的構造を採用した傑作。
*実は新海誠作品「君の名は」やトム・ムーア監督作品「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(Song of the Sea、2014年)」にも、この冥界神と地上の名代の分業」なる要素はちゃんと盛り込まれてる。ただし物凄くデリケートな扱いを要する話題なので、どちらも非常に複雑なアプローチをしている。その点は「リップヴァンビンクルの花嫁」も同じ。

実は物語文法的には「レッドタートル」の赤海亀を巨大クラゲに差し替えて、波打ち際に打ち上げられて乾涸びたクラゲから全裸のCoccoが這い出してきても全然アリなんですね。
*実は「ましろ」と「ななみ」のダブル・ヒロイン体制だった「リップヴァンビンクルの花嫁」って鴨志田一さくら荘のペットな彼女(2010年〜 2014年、アニメ化2012年〜2013年)」の本歌取りだったのかもしれないと思った。その上で「ただこの物語のましろはCoccoだったのです」なる設定変更が全てを破壊し尽くしていく様を楽しんだ。「死神に標的に選ばれた犠牲者」役を振られた黒木華や「地上の名代役を振られた綾野剛の演技も完璧だったけど、誰も「レッドタートル」と関連付けては語らない…「波打ち際に打ち上げられたアレの遺体から全裸のCoccoが這い出してきた」時点で全てが予測不可能の領域に突入しちゃうからかな?

そういえば、物語文法上「レッドタートル」 における「冥界神の地上の名代」って、あの「浜辺の蟹さん達」って事になるんですね。その事自体についてはウィリアム・ゴールディング(William Golding)「ピンチャー・マーティン(Pincher Martin: the Two Deaths of Christopher Martin、1956年)」と見立てた私も全面的に賛同せざるを得ないのですが…みんな「この作品において唯一無条件に可愛いと呼べる存在」とかベタ褒めしてるのがかえって怖い?