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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代日本祭政史⑧大日本帝國に持ち越された律令制時代のUnfinished Business

日本の古代に発生した課題は全て古代のうちに解決した訳ではありませんでした。

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特に宗教問題。これがまたややこしい事に。

五代十国時代(907年〜960年)に入ると隣国が次々と崩壊。国内では律令制浸透によって伝統的宗教権威が崩壊。救済的措置として神仏習合がじわじわと進行します。

本地垂迹

日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え。9世紀頃よりそれぞれの神の権現号が見られる様になり、12世紀頃よりそれぞれの神の本地仏が定められていった。

  • 本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。

  • 本地という思想は、仏教が各地で布教されるに際し、その土地本来の様々な土着的な宗教を包摂する傾向があることに起因する。たとえば、仏教の天部の神々のほとんどはインドのヒンドゥー教を由来とする。この思想は、後に、後期大乗仏教で、本地仏大日如来の化身が、不動明王など加持身であるという概念を生んだ。

  • これに対し、垂迹という思想は、中国の『荘子』天運における迹(教化の迹)や、所以迹(教化を成立させている道=どう)に由来し、西晋の郭象(かくしょう)は『荘子注』で、これを聖王(内聖外王)の説明において展開させ、“迹”を王者としての統治・主導とし、“所以迹”を本質的な聖人として引用した。これを仏教に取り入れたのは後秦代の僧肇とされる。僧肇は『注維摩詰経』で、魏の王弼(おうひつ)などの“本末”の思想を引用し、“所以迹”を“本”と言い換えて、“本”を菩薩の不可思議なる解脱(悟りの内容)とし、“迹”を菩薩が衆生を教化するために示現した方便として使用した。

  • 日本では、仏教公伝により、古墳時代物部氏蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。

  • しかし7世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、天皇氏神であった天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すに至った。

  • 一方で、死霊などの小規模な民族神は、この本地垂迹説を用いずに区別した。例としては、権化神(権社神)に対する実類神(実社神)などである。このため、仏教側では権化神には敬意を表してもよいが、実類神は信奉してはならないという戒めも一部に制定された。これは仏教の一線を守るという考えのあらわれと思われる。

  • この本地垂迹説により、権現造りや本地垂迹の図画なども生まれ、鎌倉中末期には文学でも本地物(ほんじもの)と呼ばれる作品が創作された。

末法思想との関係平安時代末期に入ると院政や武士の台頭による政治の流動化、天災や戦乱による社会の混乱を背景として、末法の世の実感とそこからの救済願望が生まれた。そのため浄土信仰が盛んとなり、法然を始め新しい仏教諸宗派が登場したが、それは伝統的な神祇信仰の変容と再生も促した。この終末意識には粟散辺土観も影響した。仏教のインド中心の世界観では、末法の世の日本の人間は堕落していて救済されがたく、正当な教化の方法では救済できないとされる。そこで仏が仮に神の姿をとってこの辺土に現れ、厳罰をもって人々を教化し救済を志向したというのが、本地垂迹説の意図するところである。こうして神々は、共同体の神から個人を救済する神へと変貌を遂げる事になったのだった。

神本仏迹説

鎌倉時代中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。神道側の仏教から独立しようという考えから起こったものである。伊勢神宮外宮の神官である度会氏は、神話・神事の整理や再編集により、『神道五部書』を作成、伊勢神道度会神道)の基盤を作った。伊勢神道においては、現実を肯定する本覚思想を持つ天台宗の教義が流用されて神道の理論化が試みられ、さらに空海に化託した数種類の理論書も再編され、度会行忠・家行により体系づけられた。

本地垂迹説は、元寇以後の、日本は神に守られている「神の国」であるとする神国思想のたかまりの中で、ますます発展していった。

南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れた。慈遍は『旧事本紀玄義』や『豊葦原神風和記』を著して神道に改宗し、良遍は『神代巻私見聞』や『天地麗気記聞書』を著し、この説を支持した。吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。

神仏習合

神仏習合は、8世紀の大和・奈良時代にはじまり、千年以上にわたって日本人の宗教意識に根をおろしてきた。神社神道は、日本原始宗教(蛇信仰)の構造を今も伝える農耕儀礼中心の地域信仰である。儀礼中心で教義を欠き、その神は地域限定であって、創唱宗教がもつ普遍性や超越性をもたない。日本の古代国家成立期である6~7世紀頃、朝鮮・中国・北アジアから高度に発達した大陸の宗教である仏教道教儒教が伝えられ、日本の宗教はめざましく展開をはじめたのである。神仏習合の進行は、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説によって教義的基礎をもつにいたった。本地垂迹説によれば、日本の神々は仏、菩薩の権の現れ(権現)であり、仏法を守護する護法の善神とされた。仏が本体であり、神は投影なので、当然仏は神よりも尊い存在というものである。

本地垂迹説は、仏教を主体とする神道説の発達を促した。代表的な二代流派は、天台系の山王一実神道真言系の両部神道である。実はインドでは7世紀に仏教が衰退したことで、ヒンドゥー教の一派・タントラ教から秘密の教義体系を受け入れ、真言密教が成立した。真言(呪文)を唱えて、災いを除き福を招くことを説いている。真言宗天台宗はこの密教系の宗教で、加持祈祷の体系が整っていた。日本人の信仰観は基本的に現世利益信仰なので、違和感なく受け入れたのであろう。また法華系では、法華三十番神説と呼ばれる法華神道が唱えられた。


仏主神従の天台・真言神道説に対抗して、鎌倉中期から伊勢外宮の神職、度会氏によって伊勢神道が大成された。日本最初の神道を主体とした神道説であり、仏教道教儒教を取り入れた習合神道であった。またそれに影響されて、室町末期に吉田神道が現れた。吉田神道は、江戸時代をつうじて全国の大半の神社を影響下においたのである。


こういう神仏習合の流れに対して異なる立場も存在し、幕末まで受け継がれた。その一つは、神道側の仏教拒否の伝統である。皇祖神を祀る伊勢神宮と日本最古の創建とされる出雲大社は、仏教化を拒みつづけた。また、江戸時代に朱子学が官学に採用されたことで、神道儒教を一体とする神儒習合の神道説があいついで唱えられ、排仏運動を活発にした。幕末には平田篤胤の提唱する復古神道も現れた。一方、仏教側にも神道を拒否する有力な流れが存在した。ひとつは、親鸞の系統である。本願寺門徒真宗)は、仏法は法(真理)であり人間は法によってのみ救われるとし、神祇は霊であり霊の力にすがって現世利益を求める心、霊の祟りを怖れる心を超えることが法による救いであると、神祇不拝を基本教義の一つとしている。また法華系では「神天上の法門」と呼んで神祇不拝を説いた。これらの異なる流れはあっても、全体として日本人の宗教意識は明治維新にいたるまで、神仏習合を当然のように受け入れていたのである。

平安時代末期からは「選択仏教」が新たに登場。信仰の主体が権力者から伝統的地方共同体へ。主たる収入源も中央政権から拝領する寺社領から檀家よりの御布施に。

鎌倉新仏教(易行・選択・専修)

しかし同時進行で国家権力と宗教の癒着もより深く進行する事に。

諸国の神社は、室町中期以来の争乱で神事もすたれ荒廃したが、室町幕府と結ぶ吉田神道の台頭によって、神道復興の気運が高まった。この吉田神道に大きな影響を与えたのが、伊勢神道(外宮神道)である。また16世紀の半ばに伝来したキリシタンカトリック)は、南蛮貿易の進展とともに、近世的統一者の保護と禁圧のはざまで、着々と全国的に進出しつつあった。新旧の仏教勢力を完全に制圧し終えた豊臣秀吉は、寺社領の検地をおこない、没収と再寄進によってその封土化をすすめた。豊臣秀吉吉田神道の強い影響をうけている。


徳川家康による江戸幕府は、織豊政権の宗教政策を基本的に受け継ぎ、仏教神道の二重国教制によって、全宗教の統制支配をさらに強化した。この宗教政策の総仕上げが、キリシタン禁止を理由とする宗門改め、寺請け制の新設である。キリシタン信者でないことを定期的に検証する宗門改め制は、人民を監視するこのうえない武器であり、寺院が壇徒の身柄を保障する寺請け制は、寺院に封建支配の末端としての人民管理の役割を課した。民衆は、例外なく特定の寺院の壇徒になることを強制され、旅行にも嫁入りにも檀那寺の証文が必要となり、葬式も檀那寺の仏葬以外は原則として許されなかった。

幕藩体制のもとで、仏教は国教としての公的位置を保障され、寺壇関係の制度化によって、経営の安定を得ることができたのである。しかしその反面、仏教各派は、室町末期まで展開してきた自主的で活気にみちた布教活動を抑圧され、政治権力の支配下でその権威づけに奉仕する存在となった。その結果、時が経つにつれ宗内は沈滞し、破壊僧の続出などの退廃がとめどなく進行した。このようなことから反仏教感情が民衆にひろがり、排仏の広大な基盤が形成されたのである。神道仏教に準ずる国教として公的位置を与えられ、排仏・神道優遇の政策をとった水戸、岡山の一部の藩では、仏教側との対立が先鋭化した。幕府が官学として朱子学を採用したことから、神儒一致を説く神道説があいついで唱えられ、儒者神道家・経世家たちは仏教批判の論陣をはり、時流に迎えられたのである。民衆の反仏教感情は、仏教の枠にとらわれない現世利益神・救済神への関心をかきたてた。日本の神々について易しい説教をする神道講釈が聴衆を集め、日本が神国であるゆえんが強調された。そうして幕末の神道の興隆へとつながっていったのである。

民衆の間では、神仏への畏敬の感情が脈々と生き続け、地域集団の神社信仰と家の宗教である仏教信仰を基本としていたが、幕府が設定した宗教統制の枠を踏み越えて、生活に根ざした新しい救済の宗教を生み出し育てていったのである。仏・菩薩・神々に病気なおし、開運など身近な御利益を求める現世御利益信仰が流行し「はやり神」が次々に登場して人々の信仰を集めた。民衆の生活の場に僧侶や神職の宗教者は存在せず、山伏・巫女・ひじり・行者・陰陽師・呪い師などの雑多な宗教者が活発に動き、民衆の信仰を導いた。また19世紀にはいると、信仰心のあつい農民などが神がかりして教祖となり、新しい救済の宗教を広めるようになり、天理教金光教などの習合神道系創唱宗教が登場した。また法華信仰の在家信者の運動も、各地でさかんになった。

江戸時代にほぼ60年ごとに流行した伊勢への集団参宮の「おかげまいり」は、幕末に近づくにつれ、偉大な神の力によって世直しされるという願望と結びつき、全国的な広がりをもつ大きな騒動に発展した。特に文政・天保のおかげまいりでは、500万余といわれる民衆が全国各地から参宮におしよせ、天から伊勢皇大神宮をはじめ様々な神仏の札が降り、村々でおかげ踊りが始まった。群衆は各地で役人や真宗の僧侶と衝突し、沿道の地主や富商の家に勝手に上がりこみ乱暴を働いたりした。おかげまいりが示す伊勢信仰の高揚は、日本の祖神とされる伊勢皇大神を代表とする神道の神々への興隆に連なっていた。

倒幕の政治運動は、日本の神々に根ざす宗教的権威をもった天皇の存在を絶対化する平田派国学と後期水戸学によって、思想的に導かれた。平田篤胤の説いた復古神道は、惟神(かんながら)の道への復古を説き、仏教儒教習合神道をはげしく排撃した。そしてキリスト教に学び、霊界を重んじ死後の審判を説いて、完結した救済の宗教としての神道を志向していた。

 江戸幕府倒壊の前夜、1867年夏に「ええじゃないか」騒動が巻き起こった。全国各地で、空から伊勢皇大神宮をはじめ有名寺社の札が降り、民衆は世直しの時が来たと狂喜し、「ええじゃないか」の繰り返しで終わる卑俗でなげやりな歌を歌いながら、仕事も何も放棄して踊り狂い、地主や富商の家に上がりこみ酒食を要求した。この騒動が過ぎ去った後、江戸幕府は倒れ、天皇の古代的宗教的権威を擁する新政府が登場していた。また民衆の現世利益神、救済神であった伊勢の神も、天皇の祖神で国家の最高神天照大神に変貌していたのである。

東京奠都を経て、版籍奉還が行われ、官制の大改革が実施された。大宝律令の古制にもとづいて、神祇官太政官の二官をおき、神祇官を最高位とした。国教の布教が、再興された神祇官の新しい重要職務とされたのである。そして「大教を宣布する詔」がでて、神祇官による「大教」の布教活動が実行に移される段階を迎えた。明治維新の当初には、神道といえば一般的に習合神道をさしていたため、意識的に神道という用語を避けて、大教・神教の語がもちいられたが、神道の国教化は「大教」の名で新たに体系づけられた天皇崇拝中心の神道教義を、組織的に布教し全国民の宗教を統一することを目的としていた。宗教国家の体制はこうして急速に形を整え、政府は国民に新たな国教を布教するために宣教使を設け、神祇官の管下に入れたのである。


神祇官の再興による神道国教化は1871年には頂点を迎え、社寺領の上知命令、神社の社格制定、氏子調べ制度の新設など、国教樹立のための重要措置があいついで実施された。さらに神社はすべて国家の宗祀であるとの太政官達が出され、全神社の公的性格が確定したのである。全神社の本宗とされた伊勢神宮に対しては、神祇官直接の指揮下で改正が行われた。内外宮の別を明確にし、内宮を上位におき、祠官の職掌を改め、伝統的に御師がもっていた大麻(神札)や神宮暦の製作配布権をとりあげるなど、伊勢神宮はこの改革で、大教の本宗にふさわしくつくり変えられた。

そして大政奉還後に成立した新政府の発布した「慶応4年3月13日(1868年4月5日)の太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)や「明治3年1月3日(1870年2月3日)の詔書(通称「大教宣布」)」を契機に発生して明治4年(1871年)頃まで荒れ狂った「廃仏毀釈」運動が起こります。それまで本地垂迹説や神本仏迹説といった神仏習合思想によって誤魔化してきた「日本人の信仰対象は何か?」という問題が改めて表面化してきてた形でした。

*「廃仏毀釈」運動…元来は神道仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが仏教施設の破壊などに発展。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。その一方で「1871年(明治4年)正月5日の太政官布告(通称「寺社領上知令」)によって国が境内を除き寺や神社の領地を接収。

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拝仏毀釈運動

1868年、太政官神仏分離を布告したのを機に、排仏毀釈の実力行使が全国各地にひろがり、明治初年の拝仏毀釈運動は、幕末に薩摩、津和野藩で実施された排仏政策を原型としていた。幕末の政争で、長州藩と連合して倒幕王政復古を主導した薩摩藩では、水戸藩にならって排仏に着手していたのである。薩摩藩では幕末に国学がさかんになって排仏の気運が高まり、藩主島津斉彬は、日本は皇道の国であり仏法は不要であると宣言した。全寺院を廃止し、2964人におよぶ僧侶を還俗させ兵士にし、金属の梵鐘(ぼんしょう)仏具類を武器に改鋳することを目的としていた。排仏政策は徹底され、1868年以降数年間は、一人の僧侶も一寺も存在しなくなったのである。


薩摩藩と連合して王政復古を主導した長州藩では事情はまったく違っていた。長州藩真宗西本願寺)の強固な地盤であり、維新直後には、長州出身の僧侶が西本願寺の主導権を握って、新政府を支持し、財政的にも大きく貢献した。神祇官へ進出した津和野系国学者は、神仏分離による排仏の強行に熱心であり、薩摩系の高官は、この直線的な神道国教化政策を支持したのである。しかし長州藩系の有力者たちは、排仏に消極的で、仏教が新しい護国の宗教として再確立することを期待し様々に運動したが、結局実をむすぶことはできなかった。

全国をおおった排仏毀釈運動の数年間で、仏教の国教としての権威は失墜した。政府がとった仏教への打撃政策には、幕末に神道化を実行した薩摩藩と津和野藩の経験が、直接反映していたが、穏便な津和野方式よりも徹底的な薩摩方式の影響が大きかった。この薩摩方式を全国各地で実行に移せば、収拾のつかない混乱がおこり、時には抵抗が激化するのは当然のことであったが政府は、激化する各地の排仏毀釈運動をあえて抑止せず、成り行きに任せる態度をとりつづけた。これは仏教に手痛い打撃を与えて、日本最大勢力である仏教を近代天皇制国家に奉仕する護国の仏教につくり変え、政府による宗教支配を貫徹するねらいがあったからである。

キリスト教の解禁

幕末において、欧米列強のアジア植民地化の脅威、開国後に外国貿易の発展がもたらした物価の高騰など、外圧に対する危機感は異常なまでに深刻なものがあった。外圧に直面しつつも、欧米列強と連携し、それを利用して政局の主導権を握ろうとする擁幕、倒幕のいずれの勢力にとっても、欧米諸国の強大な国力と先進的な文明はおそるべき脅威であった。しかも、その精神的背景には、国禁のキリスト教があり、開国にともなうキリスト教の進出を完全に食い止めることは不可能な状況にあったのである。

しかし神道国教化政策をかかげる新政府は、欧米の先進文明を積極的に導入しながらも、キリスト教の進出を断固として阻止する方針をとった。キリスト教を「邪宗門」とする太政官の高札は、日本と締盟している諸国の宗教を侮辱するものとして、キリスト教諸国の外交団の抗議を招いたが、新政府は新旧キリスト教の動向をきびしく監視し、禁教の手をゆるめなかった。1868年、御前会議で浦上の全キリシタンを流刑に処することが決定される。浦上キリシタンの弾圧は、すでに幕府倒壊直前の長崎奉行所の処置が外交問題化していたが、新政府による大弾圧は、外交団のごうごうたる非難を招いた。新政府は、当初農民たちは政治犯であると説明し、弾圧が知れ渡ると、日本の国内問題であるとしてはねつけたのである。

浦上キリシタンの多数は、流刑先で信仰を守って根強い抵抗を続け、日本政府のキリスト教弾圧に対する外交団の抗議は、時とともに大きな外交問題に発展していった。神道仏教の側はキリスト教の排撃を唱えたが、殖産興業・富国強兵を至上命題とする政府は、欧米諸国との友好関係の強化と不平等条約の改正を急務としていたので、キリスト教の解禁はもはや動かしがたい大勢となっていったのである。浦上キリシタンをはじめとする日本人キリスト教信者の不屈のたたかいと、これを支援した欧米諸国の市民と政府の抗議活動によって、ついにキリスト教の解禁が実現し、日本における信教の自由は歴史的な第一歩をふみだした。

神道国教化政策の変遷

明治維新当初、新政府の宗教政策の中心に進出した復古神道をはじめとする各派の神道家たちは、反外教意識を軸にキリスト教弾圧を実行し、仏教への打撃政策をつうじて大教による一元的なイデオロギー支配を実現した。 祭政一致の古代的スローガンに心酔していた神道家達は、神祇官によって多分に空想的な神道国教化政策の構想を打ち出したが、文明開化・富国強兵をめざす指導層は、キリスト教解禁を不可避とみており、反キリスト教、排仏思想を純粋に推し進めようとした神道家たちの政策は、早くも時代遅れとなり、方向転換をせまられたのである。廃藩置県の翌年、神祇官は神祇省に格下げされた。

排仏毀釈の嵐は廃藩置県を境に鎮静化し、政府の急激な神道国教化政策も転換して緩和される方向に向かった。キリスト教解禁はすでに規定の方針となっていたが、1873年キリシタン禁止の高札も撤去され、キリスト教の布教が黙認されることとなった。仏教各宗は、キリスト教進出の危機を熱心に唱え、この一点で失地回復の契機をとらえようとしていた。仏教の僧侶は神職者に比べて、数の上でも圧倒的に多く、また教化力においてもはるかに勝っていたのである。政府は大教と相いれない本質をもつ世界宗教の進出を防ぐために、仏教をはじめ民間の諸宗教を動員して対抗する決意を固めた。

1872年神祇省は廃止され、新たに教部省が設置された。教部省では国民教化運動の一大展開を目指し、宣教使にかわって教導職をさだめ、「三条の教則」を通達した。それは「第一条、敬神愛国の旨を体すべき事、第二条、天理人道を明らかにすべき事、第三条、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむる事」の三条であるが、これは敬神愛国と天皇崇拝を全国民に教え込み、朝旨、すなわち天皇の命令への絶対的服従を徹底させるという意図があったのである。

さらに教化の機関として、仏教側の熱心な運動によって大教院が設置された。開院式では、神前の一方には烏帽子直垂(えぼしひたたれ)姿の神官、他方には僧衣または烏帽子直垂をつけた僧侶が着座し、神前の八足机には魚鳥野菜を盛り、神官に続いて僧侶も神饌をささげ、柏手を打って礼拝した。こうして神官と僧侶が神勤の奉仕をし、ともに「三条の教則」を説教する神仏合併布教が全国的に行われることになり、明治維新当初の神仏分離は、わずか五年で逆転したのである。こうして神仏合併布教による活動は形の上では整ったが、寺院に神を祀り、僧尼が柏手をうって神を拝する光景は、不自然であり異様なものだった。教部省神道主導で、仏教や民間の諸宗教を挙げて国民教化に動員する方針であったが、内部では神道仏教の紛争が絶えないことから、開明的な政府指導層の間では、この政策を疑問視する風潮が強くなっていったのである。


国民教化運動がもたらした、もうひとつの局面は、民間宗教への禁圧の激化であった。近代天皇制国家は、その成立の当初から、国民を思想的に支配するために、宗教の取り締まりと禁圧に力を入れた。キリスト教の禁止と仏教への打撃策を軸とし、民間宗教の禁圧が始まったのである。禁止取り締まりの対象となった神がかり・呪術・祈祷は、古来民衆の間で広く行われていたが、教導職の資格をもたない者の布教活動の処罰をした。教部省による民衆の宗教生活への干渉は、国民啓蒙政策という理由であったが、同時に国家神道を確立するための地ならしとなり、下からの自主的な宗教運動を「淫祠邪教」として弾圧する行為を正当化する役割をはたした。特に、幕末維新期にうまれた民衆宗教(如来教黒住教天理教金光教など)は、国民教化政策による干渉・圧迫・弾圧で、著しい苦境に立たされることになった。明治10年代に全国的に発展し、やがて近代の代表的な民衆宗教となった天理教金光教の両教は、国家神道の確立とともに、国家神道の従属を意味する基本教義の改変を迫られることになったのである。

1872年、アメリカに駐在していた森有礼薩摩藩出身)は、外国人が日本の宗教弾圧に疑問を寄せるのに答えて、英文で「日本における宗教の自由」と題する小冊子を著わし、総理大臣・三条実美に建白した。その中で「仏教神道という相反する信仰を結合せんとする」政策を無価値とし「その創作された宗教をわが国民に対して押しつけようとする試み」をきびしく非難した。これは政治と宗教を混同して、信教の自由を認めない政府の宗教政策を、はじめて正面から理論的に批判したものであった。また同年、ヨーロッパ留学中であった西本願寺の僧・島地黙雷長州藩出身)は、政府に建白書を送って「三条の教則を批判し、政教の混同は国家にとって不利益をもたらすと論じて、大教院の分離を建議した。ヨーロッパから帰国した島地の提唱で、真宗各派は連合して反対運動に乗り出し、1875年、真宗4派が大教院を脱退したのである。このことにより太政官は神仏合同布教を教部省に通達し、翌年大教院は解散した。二年余にわたる国民教化運動は解体し、教化活動は各宗が教院をもうけて自主的に行うことになったのである。

祭神論争

1875年真宗4派が大教院を脱退し、大教院が廃止される形勢となったので、神官教導職は神道の半公的な中央機関として、神道事務局を設立した。神道事務局の設立には、真宗4派の大教院脱退ではずみのついた仏教側の巻き返しに対抗して、神道を統一された宗教として確立しようとする意図が込められていた。1880年同局の神宮遥拝所が東京日比谷に建設されることになったが、神道界ではその祭神をめぐって激しい内紛がおこったのである。

この遥拝所は神道の中央神殿であった大教院の神殿を継承するものであったから、その祭神は従来どおりの造化三神(アメノミナカヌシ・タカムスビ・カミムスビ)と天照大神が考えられていた。これに対し、出雲大社宮司千家尊福(せんげたかとみ)は、幽冥界の主宰神、大国主命を加えて五柱を祭神とするように主張した。五柱説の理論的背景となった復古神道教義は、神道を顕幽の二界、すなわち生と死にかかわる教えとしていたので、顕界を主宰する天照大神と幽界を主宰する大国主命を祀る必要があるとして、どこまでも教化重視の態度を強調したのである。しかし、千家と並ぶ神道界の実力者であった伊勢神宮宮司大教正、田中頼庸(たなかよりつね)は、顕幽両界のことはすべて祭神四柱の神徳にそなわっていると反論し、五柱説を斥けた。


祭神論争は千家を支持する出雲派と、田中支持の伊勢派に二分する形勢となり、神道界内部の対立を浮き彫りにした。両派の対立で神道界は紛糾し、神道の権威を守るうえからも重大な事態となったのである。祭神論争をめぐる混乱は、神道界のみでは到底収拾できなくなり、ついに政府に解決を求めるに至ったが、結論を見出すことはできなかった。1880年明治天皇の命で、東京に神道大会議を開くことがきまり、会議は結局、天皇の名によって事態の収拾を図るための手続きの場となった。宮中の神霊は、天照大神天神地祇・歴代皇霊をさしており、遥拝殿の祭神は、天照大神のみを表記することに改めたために、出雲派の主張は斥けられ、伊勢派の四柱も姿を消した。

祭神論争の決着によって、神道を宗教として確立しようとした出雲派の路線は、完全に否定され、神道界では祭祀と宗教を分離し、明治維新当初の祭政一致の国是に立ち帰るべきとの主張がさかんになった。

1889年の勅令第12号によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止される一方で「宗教ではない」とされた国家神道は宗教を超越した教育の基礎とされた。翌1890年には教育勅語が発布され、国民道徳の基本が示される。

まぁこうした話は明治10年(1877年)の「西南戦争」において「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県と藩債処分(1871年)」「秩禄処分(1876年)」といった一連の近代化政策に反対して蜂起した不平士族側が勝利していたら「中華王朝の伝統と神道儒教に基づいて一切の近代化を拒絶し欧米列強に徹底抗戦し抜く尊皇攘夷国家」なんてものが成立していただろう事と併せて考えないといけません。それは日本が近代化の為に中華王朝の律令制を出発点とする伝統的法体制を振り捨て、近代法に乗り換えていく時代でもありました。ただ宗教政策の近代化はそうスムーズには運ばなかったのです。

ところで伊藤博文は明治15年(1882年)3月3日、明治天皇憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発。はじめベルリン大学の公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けています。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行政について学んでいます。

寛容(トレランス)という言葉が用いられるようになるが、言葉の意味が従来とは違って来ている。すなわち、この言葉は本来苦痛を忍ぶことを意味し、迫害される側で使うものであった。それが権力を持つ側のものとして語られるようになる。権力を持つ者にとっては、異質的な信仰は問題にしなければ苦にならない。つまり、これは緩くしておくこと(ラティテュード)、無関心(インディファレンス)にほかならない。
伊藤博文は「(マルクス主義にほぼ全面的に流用された)今日のフランスにおける社会主義共産主義(Der Sozialismus und Kommunismus des heutigen Frankreich, Leipzig 1842, 2. Aufl. 1847年)」の著者でもあるローレンツ・フォン・シュタインより直接この考え方を伝授されたという。当時の伊藤博文の日記には、その時の感動が克明に記されている。

 どうして伊藤博文が大喜びしたか、今となってはよくわかりますね。

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こうした問題が一応の解決をみるのは第二次世界大戦後、GHQにより「神道指令」が出されてこうした体制が一斉されて以降となります。

神道指令 - Wikipedia

1945年(昭和20年)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書「国家神道神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称。

覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものである。 当初は政教完全分離を目指し、神道行事を一切排除する内容となっていたが、日本社会の実情にそぐわず混乱を招いたため、1949年(昭和24年)を境に適用条件が大幅に緩和された。

大東亜戦争」や「八紘一宇」の語の使用禁止や、国家神道軍国主義、過激なる国家主義を連想するとされる用語の使用もこれによって禁止された。

 しかしこの頃から代わってGHQの組織したPTAなどの「大活躍」が始まります。

もしかしたら「日本の古代」はまだ全然終わってなんてないの?

さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流しているのでしょうか…