諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代日本の息吹③日本文化とアイルランド文化の縁関係は「色即是空、空即是色」

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ここでトム・ムーア監督の「アイルランド神話補完計画」について「キーパーがどんどん前に出てきてオフサイドを狙ってくる怖さがある」と述べてますが、それはつまり日本人も以下の様な認識の再精査という形で巻き込まれる事を意味しています。

鎌田東二「宗教と霊性(1995年)」

アイルランドの古代宗教と神道には三つの大きな共通構造と対照性が存在する。

先住民族と新参移住民族の習合的・重層的構造

  • アイルランド新参移住民族ユーラシア大陸西域より移り住んだのが紀元前600年頃。 その時すでに先住民族はドルメン(dolmen、支石墓)やメンヒル(menhir、巨石記念物)やストーンサークル(Stonehenge、環状列石)などの巨石文化を構築していた。そして新参移住民族は先住民族の残した巨石建造物や渦巻き模様を自分達の祭儀や象徵図形の中に取り入れ、さらなる洗練を加えたのである。

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  • 日本列島においては稲作と鉄器を携えた弥生人ユーラシア大陸東域から移住してきたのは紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけてとされる。その時すでにストーンサークル(秋田・大湯環状列石)やウッドサークル(石川真脇遺跡)や独自の土器(縄文土器)を持つ縄文人がいた。弥生人は全く異なる土器(弥生式土器)を造り、稲作農耕を広めながら東進していった。

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世界宗教と土俗信仰の習合的・重層的構造

③近代ないし近世におけるルネサンス的展開

まさしく日本とアイルランドは「 ユーラシア大陸の両耳」とも。

トム・ムーア監督のアイルランド神話補完計画の本質はアイルランド神話から純粋に娯楽性のみを抽出しようとする態度。これについて「全人類を不愉快な気持ちにさせる絶対悪だ。国際正義(アイルランド民族主義)は絶対にこの裏切り行為を許さない」なんて過激な反応をする人達が国際的に存在しています。自分たちこそ正義の進歩派で、残りは全員絶対悪たる守旧派と主張しています。本当でしょうか?

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むしろ21世紀にはトム・ムーア監督のアイルランド神話補完計画に反対する「正義の進歩派」こそ「全員絶対悪たる守旧派」と考えるのが国際的コンセンサスになりつつあります。彼らが「絶対悪」と化してしまうのは、それを「自分達だけは如何なる暴力を振るおうと、誰を巻き添えにしようと国際社会から絶賛しか受けない絶対正義である証拠」として使い続け様とするから。その為にアイルランド文化を純粋に娯楽として楽しもうとする人全てに食ってかかるから。その是非はともかく、そもそも彼らのアイルランド文化に対する理解そのものが時代遅れになりつつあるのが問題という次第。

アイルランド神話におけるフォモール巨人族(先住民側)とトゥアハ・デ・ダナーン(ダーナ神族、新参移住民族側)の関係を日本神話における国津神天津神の関係に対比させる概念そのものが時代遅れとなりつつある。

  • アイルランドそもそも大陸からブリテン列島に渡ってきた「新参移住民」はケルト人でなくイベリア人だったらしい。また「先住民」を特徴付ける渦巻き文様も「謎の巨石遺跡築造者」ではなく、同じくらい謎めいたピクト人(Picts)だったらしい。
    *こうした発見のせいで最近では「(新参移住民と先住民の戦いの総決算とされる)マグ・トゥレドの戦い(Cath Maige Tuireadh)」がその存在自体を疑われる展開を迎えている。

  • 【日本】その先史時代が単なる縄文人(先住民側)に対する弥生人新参移住民族側)の征服では説明出来ない事が明らかとなった。どうやら渡来人新参移住民族側)は、ごく少人数の単位で幾世代にも渡って少しずつ「先住民」の中に入り混じっていったらしい。また農業指導といっても当時行われていた「稲作農耕」はあくまで雑穀栽培で、その中に米が含まれていたり、いなかったりしただけだったとも。そして考古学的に「稲作農耕」の証拠とされる遺物は先住民関連遺跡と新参移住民族関連遺跡の双方から発見されている。
    *むしろ肝心なのは多くの遺跡に痕跡を残す「(現地で材料が調達出来ない)鉄製武器や青銅製武器では(幾らでも現地で製造可能な)黒曜石製の鏃の集中投入への軍事的優位の永続は不可能だった」現実。その代り日本列島においては「(技術発展によって国産の青銅や鉄鋼が国内に行き渡るまで)大陸よりの金属輸入の独占権」こそが中央集権形成上の重要な権源となってきた。同様の展開を北欧におけるデンマーク王国ノルウェー王国スウェーデン王国などの成立過程に見る向きも存在したりする。

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  • 【日本】天津神弥生人)が国津神縄文人)を征服した」根拠とされてきた古事記(713年頃完成)や日本書紀(720年完成)の該当記事(「葦原中国平定」あるいは「国譲り神話」)と「出雲地方が実際に歩んできた歴史」の齟齬が発見された。
    アイルランドの史は実際に「イングランドに征服されては、遠征軍撤退後に残された代官を懐柔して半独立状態を回復する」歴史を繰り返してきたが「出雲地方が実際に歩んできた歴史」は、むしろ実際の出雲の歴史は「なまじ先進地域ゆえに国家統合に失敗し続けたイタリア都市国家群」に近かった。

  • 【日本】その初期国家形成過程は最近では「鬼界カルデラ噴火からの避難民流入が九州北部における人口過密状態を生み出す」「現地での紛争激化が連合王国を誕生させ、これに中華王朝が接近したのを警戒して瀬戸内海沿岸部や畿内に高地性集落や環濠集落が建ち並び、弥生都市交易網へと発展していく」「前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)が登場し、その主体がヤマト王権(4世紀後半〜)へと推移していく」といった全く異なる段階を経たと考えられる様になった。
    *渡来人がヤマト王権にまとまった単位で技術的影響を及ぼす様になったのは4世紀末以降。それまで倭人が近寄りがたい「河内潟」や「飛鳥潟」に集住して様子見していた彼らは、前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)の発展を支えてきたというより、むしろその終焉を予感して品部としての編入を受容したり、在地首長化したとさえ見て取れる状況だったりする。それまで河内国太秦の高地性集落の廃墟に隠れる様に住んでいて、ヤマト王権が河内に進出してくると一旦は現地開拓の協力者となって淀川改修工事を手掛けるも、その後山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)などそれまでヤマト王権の手の及んでいなかった地域に拡散して在地豪族化した秦氏の様な複雑なケースも存在し、その展開がヤマト王権の意向を受けてのものだったのか、それともヤマト王権に失望しての逃亡劇だったのか今日なお議論の対象となり続けていたりするのである。そもそも当時日本に渡ってきた渡来人の本質は「故郷における中央集権化の進行を嫌って逃げ出してきた自由人」。古事記や日本手記の記述と異なり百済新羅と直接関係があったというより、洛東江流域の出口を新羅に抑えられた加羅諸国、代替交易経路として栄えた栄山江流域や蟾津江流域出身の馬韓人、さらには高句麗から上越経由で甲信越地方に逃げ込んだ遊牧系諸族と日本列島、それもヤマト王権だけでなく全国各地の在地有力者との直接交流が活発化したというのが実態に近かったらしい。

アイルランド古代史における「キリスト教伝来」、日本古代史における「仏教伝来」がそれぞれの国において時代の画期となったのは、むしろそれ以降は現地における氏族伝承が文献記録に残される様になったからと考えられる様になった。

  • アイルランド】すなわちアイルランド古代史におけるフォモール巨人族(原則として何の伝承も残さなかった謎めいた巨石文明)とトゥアハ・デ・ダナーン神族(ダーナ神族、各氏族の伝承の最初に語られる神々)の間に境界線を引いたのも、おそらくこれ。こうした伝承は、その多くが「さまざまな姿に変身しながら聖パトリックの時代まで生き延びた超自然的存在がアイルランド人修道士に語った」体裁をとっている。歴史のその時点において既に「謎めいた巨石文明の築造者」についての記憶は失われており、かつ当時はまだ実在し未開の森を闊歩していたピクト人は完全視野外に置かれていたのだった。

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    *トム・ムーア監督作品「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、 2009年)」は、この問題について「語られなかっただけで、当時のアイルランド人はフォモール巨人族的なるものやピクト的なるものと隣接して暮らしていた」「アイルランド人写経僧はそうした要素を象徴次元で取り込もうと試み、その結果としてケルト文様を編み出した」という新たな観点を提供。しかもこのプロセスを「修道院の写経僧が森の奥における不死の少女と封印された蛇の対峙を解消するLove Story」として描く事でアカデミー賞にノミネートされるまで至る。

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    *どうも既視感があると思ったら、まさしく幽玄能の世界。例えば「定家」に登場する「蔓(既に人間性を完全に喪失し、賀茂神社の斎院だった式子内親王への執着心だけが全てとなった藤原定家の怨霊)」にケルト文様への取り込みで救済を与える物語とも読める。その次元において「ダーナ神族的なるもの」と「フォモール巨人族的なるもの」は既に合一を遂げていたとする新解釈。
    *まぁ、それをいうなら「パイレーツ・オブ・カリビアン初期三部作(Pirates of the Caribbean、 2003年〜2007年)」における「フライング・ダッチマン号のデイヴィ・ジョーンズ船長(Captain Davy Jones)と海の女神カリプソ(Calypso)の悲恋」も「定家」っぽくて、アメリカではむしろことらのパクリと思われてたみたいだけど。ここでは「蔓」が海の生物の触手や藤壺に…しかも「呪い」は消えるのでなく対象を移すのみ…

  • 【日本】「前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)」の実相が「古事記(713年頃完成)」や「日本書紀(720年完成)」には極めて限定された形でしか記録に残されなかったのは、これらの文献が「8世紀まで存続した有力氏族の伝承を集めて編纂したもの(すなわち5世紀後半より本格化する氏族間闘争の結果も反映した内容)」だったからと考えられる様になった。その世界観においてはむしろ北方系の流木信仰と南方のトーテムポール信仰の偶然の一致が「心の御柱信仰」や「高木神信仰」の源流となり「仏塔信仰」へと継承されていった事の方が重視される。それはそれで当時の倭人心理の貴重な証言となっている。

    *「古事記」をドイツ語に訳出したドイツ人教授が指摘する様に「そこから始まった何か」として日本神道は再規定されるべきなのかもしれない。三輪山信仰は、出雲神道はこの問題とどう関わってきたのか。実はケルト人問題にも(あくまで陽気な)アイリッシュ派閥と(どこまでも陰鬱さがつきまとう)スコティッシュ派閥の対峙という問題が存在し、トム・ムーア監督作品「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(Song of the Sea、 2014年)」はこの次元の問題を扱った作品とも見て取れる(戦ってる相手は土着したヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)の末裔が持ち込んだ「北欧神話的陰鬱さ」とする向きもある。「全てを象徴次元で処理する」戦略には、そういう解釈上の曖昧さを残せる利点も存在するのである。ますます各時代における精神的制約を超えて生き延びる能の精神そのもの?)。

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  • アイルランド】【日本】こうした観点が国際的に普遍的価値を認められやすい一方、氏族戦争(Clan War)にまつわる道義論は世界中から耳を塞がれる。「教皇派(Guelfi)と皇帝派(Ghibellini)の対立史? 源平合戦? ロミオとジュリエットもオトラント城奇譚も耳なし芳一も泣ける。でも現代人の観点からすれば当時の血族間の対立構造そのものには等しく価値がない!!」。「アイルランドを始めて統一したブライアン・ボル上王(941年頃 〜1014年)の偉業」とか「大伴氏と物部氏蘇我氏藤原氏の果てしないドロドロ抗争」も「等しく価値がない」。ブライアン・ボル - Wikipedia

    *歴史的に重要なのはその後アイルランドではノース系首長と先住民系首長の対立が解消した事(より正確にはノルマン朝イングランドが遠征軍を派遣する様になってそれどころではなくなった)。そして日本の氏族闘争も平安京への遷都(794年)を契機に新次元へと突入した事(良い意味でも悪い意味でも春日大社/興福寺はそれ以降も歴史上に足跡を残し続けるけど。法隆寺清水寺がその支配下から脱したのはなんと戦後になってから)。

③最も要注意なのが、この近世以降各国の民族主義を主導してきたとされる「新ルネサンス系」の流れ。エンターテイメント方面への利用を考えた場合、とりあえずその民族主義的側面とオカルト的側面は完全排除しなければならない。しかしこれを大義名分として散々振りかざしてきた宗教的・政治的勢力にとっては、そうした動きそのものが「国際正義に挑戦する絶対悪」と映るらしい。

むしろこの次元では「レッドタートル」と同じくらい「百獣の王(LES ROIS DES ANIMAUX)」は「政治的に正しい」と言い出したフランス文化ファン(フランス人だけで構成されている訳ではない)に軍配を上げたい。どうやら最近の若者は国際的に「政治利用されないものは全て等しく無価値である」みたいな20世紀的価値観そのものに、ウンザリしているらしいのである。

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  • 地動説が天動説に取って代わった「コペルニクス的転回」によほど懲りたのか、18世紀は「この世界に存在する全ての知識を統合する事により(パラダイムシフトを引き起こす)未知の領域を可能な限り潰す啓蒙主義の時代となる。その最終的到達点がフランス革命(1789年〜1794年)で、当時の理神崇拝にウンザリした人々がロマン主義運動を始める。

    啓蒙思想によるキリスト教教理の変質

  • そして、なぜか民族固有文化を極端に奉じる立場は、必ずといってよいほどヘーゲルのいう民族精神(Volksgeist)や時代精神Zeitgeist)に付帯する「個人にとっては、これとの完全一体化を果たし、与えられた責務を全うする事だけが自己実現である」なる前近代的全体主義(領主が領土と領民を全人格的に代表する伝統的権威主義)に行き着いてしまうのである。

    65夜『神道とは何か』鎌田東二|松岡正剛の千夜千冊

  • その誘惑は一般にカント哲学でいうところの「物(独Ding、英Thing)」と「物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)」の対比に耐えられないところからくると考えられている。最近の若者からすれば「コンピューター稼働の仕組みが分からないから、コンピューター使用を恐れてる原始人なんてまだ生き延びてるの?」の一言で一刀両断。その一方で「人類は全ての管理をコンピューターに一任した方が幸福になれる」なる前時代的幻想に執着し続けているのはむしろ老人達の方だと揶揄する。

    *それはそれとして、確かに大日本帝国末期の「日本民族」やナチス台頭期の「ドイツ民族」には世界恐慌を発端とする強烈な存続不安が存在し、これが独特の視野狭窄を引き起こす引き金になった事実は揺るがない。だが現在、むしろ同様の存続不安に脅かされておかしくなっているのは「安倍先天性ナチス独裁政権は、15年以上に渡る単独統治を経てその正統性を担保された日本共産党志位和夫委員長が必ずしや倒す」「琉球民族を日本人扱いする人間は、例え同じ沖縄人だろうがレイシストとして粛清対象となる。殺すべき人間を殺すべき時に殺せない似非平和主義者は我々本物の平和主義者が殺し尽くす。ナチズムとの戦いに憐憫は禁物」と精神分裂症気味の主張をしてる人達の方ではなかろうか。いずれにせよ、完璧な楽園など、その基準を自由に定められる絶対的権力者の脳内にしか存在しない。そしてその定義がいかにもっともらしくても、無批判に受容させられる側にとっては悪夢としかならない。

ここで、 そもそも日本文化と共通点が多いのはアイルランド文化だけだろうかという問題が急浮上してきます。「ユーラシア大陸の両耳」はそれぞれ世界から孤立してきた末に直接出会った訳ではないのですね。

①そもそも能はアイルランド伝統芸能というより、英国伝統芸能そのものに似ているのである。成立した時代も近い。

演劇というものはまず幕が開いて、客席が暗くなり、舞台に照明が当たって、というイメージがいまは一般的でしょう。しかしエリザベス朝当時では客席も舞台も明るいまま、太陽の光のもとで芝居をしていましたし、舞台に幕もありませんでした。

グローブ座は、三階建ての円形(二十角形)の劇場でした。舞台の前の地面が立ち見の平土間で、頭上は青天井です。雨が降ると平土間の客は濡れますが、平土間に張り出した舞台には屋根がついていました。平土間を取り囲む三階建ての回廊席にも屋根がありましたが、そこにすわるには追加料金が要りました。上演は大体夕方の6時くらいから始まり、8時か9時くらいまで。イギリスでは夏場は日が長いので9時頃まで明るいのです。ただし冬場は5時か6時頃から暗くなってしまうので上演できません。一座は巡業に回ったりします。またイギリスは雨が多くて、平土間の観客は困るだろうと思われるでしょうが、しとしと降る霧雨がほとんどなので、少しくらい濡れても構わないという文化的な習慣があります。もちろん土砂降りのときには、上演は中止です。屋根付きの室内劇場が初めて作られるのは1608年。そこでは蠟燭(ろうそく)の明かりのもと、芝居が上演されました。

幕の仕切りがなく、観客のただなかに役者が出てくるので、虚構世界と観客のいる空間とのあいだに境界がありませんでした。舞台装置もなく、衣裳をつけた役者が出てきて台詞を朗唱し所作をするだけです。二本の柱で屋根を支え張り出した舞台の形は能舞台と非常によく似ていますし、抑揚を整えた台詞の朗唱も日本の狂言に近いところがあります。ですから、シェイクスピアを知るためには、ぜひ狂言を観ることをお勧めします。

能や狂言で「翁(おきな)」や「三番叟(さんばそう)」を舞うときなど、役者が神の依(よ)り代(しろ)となります。その迫力が、能や狂言が今日まで続いている理由だと思います。おそらくシェイクスピアの芝居も、俳優が役を演じるというよりも、生身の人間としての役者がたとえばハムレットの依り代として舞台に登場するというのに近かったのではないでしょうか。一人の人間がもがき苦しみ、やがて悟りを得て死んでいくさまを、観客は現実に目の前で起こっている事件という感覚で観たのではないか、と思うのです。つまり、近代的な理性に囚われた見方ではないということです。

狂言では役者が「これから都へ参ろう」と言って舞台をぐるりとひとまわりし、「何かと言ううちに、はや、都じゃ」と言えば、もう舞台は都に移っています。それと同様に、舞台装置のない“なにもない空間”で言葉と衣裳だけで演じるシェイクスピアの役者たちも「ああ、アーデンの森に着いた」と言えば、そこはもうアーデンの森に舞台が替わるというわけです。これは近代演劇のリアリズムとは違います。

シェイクスピアの戯曲にはほとんどト書きがありません。人物の登退場以外はほぼ台詞ばかりなので、近代演劇の綿密なト書きに慣れた現代の俳優は、戸惑うことも多いようです。ただし翻訳によっては「エルシノア城。銃眼城壁のうえの狭い歩廊。左右は櫓(やぐら)に通じる戸口。星のきらめく寒い夜。見張りのフランシスコーが矛(ほこ)を手に……」云々といった詳細なト書きが入っていることもあって、これはかつて旧ケンブリッジ版『ハムレット』を編集したジョン・ドーヴァー・ウィルソンという人が、ご親切にも書き加えたものです。ウィルソンにとっての演劇はあくまでも近代演劇だったからです。

しかし、当時はそもそも役者に台本すら配らなかったのです。著作権のない時代ですから、金に困った役者が台本を別の劇団に売って、儲けようとしたら困るからです。ではどうやって稽古をしたのかといえば、役者ごとに台詞ときっかけだけを写した書き抜きを配りました。つまり役者は相手役の台詞も知らないし、通し稽古で初めて芝居の全貌を知るということになります。それぞれに自分の台詞だけが書かれた巻物(roll)を持って稽古したので、のちに役のことをロール(role)と呼ぶようになったというわけです。

シェイクスピアは劇団の役者として常に現場にいましたから、いちいちト書きを書かなくてもその場で段取りをつけられます。演出家は存在しないので、シェイクスピア本人か、あるいは一座の花形役者であるリチャード・バーベッジが仕切ったのだろうと言われています。歌舞伎の“ニン”(仁)ではありませんが、近代的な役作りをしなくても、道化方は道化役、女形(おんながた)は女役、荒事(あらごと)のできる立役(たちやく)は荒事をするというふうに決まっていました。また、女優がいないのも歌舞伎や狂言と同じです。オフィーリアのような若い女役は、おそらく十代前半の少年が演じたはずです。喜劇で男装する女性の役も、面白いことに男性である少年が元々演じているわけです。

エリザベス朝演劇の台詞は、基本的に韻文のリズム(韻律)に乗せて朗々と語られます。韻文とは、アクセントによって一行に一定のリズムがある文のことです。シェイクスピアの台詞は、弱・強のリズムが各行とも五回ずつ繰り返される“弱強五歩格”という形式が基本です。“A little more than kin, and less than kind”というリズムです(ハムレットの第一声、「叔父にして親父と、血縁関係は強まったが、情のつながりは弱まった」という意味)。だから幼い少年がたとえばオフィーリアが嘆く場面を演じても、朗唱する台詞の節回しさえ叩き込まれれば、韻文が自然に嘆き節になってくれるわけです。シェイクスピアは、ときおり散文(行ごとに一定のリズムが繰り返されない文)を混ぜて変化をつけながら、まるで楽譜のように台詞を書いたのです。

ところでシェイクスピアは晩年になってから、ロマンス劇と呼ばれる空想的な物語劇を書き始めます。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』『テンペスト』といった作品です。

ロマンス劇では、必ず不思議な出来事や奇跡が起こります。その頃の演劇界では、かなり近代的な、リアリスティックで緻密(ちみつ)な劇が流行し始めていました。シェイクスピアはおそらくそれに反発して、奇想天外で、神々のお告げや魔法によって波瀾万丈の人生が描かれる、民話的・寓話的な劇を書きました。心の問題を描くには、近代的な理性によるリアリズムに拘泥(こうでい)してはいけないのだと、ロマンス劇によって対抗したのでしょう。ハムレットも、きわめて知的な人間であるにもかかわらず、最後は理性だけでは駄目なのだという境地に至りました。シェイクスピアは、実は一貫して反理性派だったのです。感性を失ったら、人間はおしまいだと思っていたにちがいありません。

 ②そもそもアイルランド文化は日本だけでなく世界の文化に影響を与えてきた。

田中雅子「アイルランドの文学(2000年11月10日)」

アイルランドは、音楽だけでなく、文学もたいへんさかんで世界的な評価も高い。ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865年〜1936年)、ジョージ・バーナード・ショウ(1856年〜1950年)、サミュエル・ベケット(1906年〜1989年)とシェイマス・ヒーニー(1939年〜2013年)とこれまで4人ものノーベル文学賞受賞作家を輩出している。また20世紀文学の最大の金字塔とも評される「ユリシーズ」を書いたジェイムス・ジョイス、イギリスの文壇に旋風を巻き起こした「サロメ」「ドリアン・グレイの肖像」のオスカー・ワイルド、「ドラキュラ」のブラム・ストーカーや「ガリヴァー旅行記」のジョナサン・スウィフトもみなアイルランド人だ。
シェイマス ・ ヒーニーの世界を読み解く(1)
シェイマス ・ ヒーニーの世界を読み解く(2)
カソリック系(被支配者側)でなくプロテスタント系(支配者側)という理由でこうした列記の場合は「アイルランド文化への礼儀として」除外されるが「ドイツ観念論と英国保守主義の父」エドマンド・バーク(Edmund Burke、1729年〜1797年)も「その創作神話を通じて芥川龍之介文学とクトゥルー神話形成に決定的役割を果たした」ダンセイニ卿(Lord Dunsany、1878年〜1957年)もやはりアイルランド人。さらにいうなら「米国においてファンタジーと資本主義の両立を果たした」ウォルト・ディズニー(Walt Disney, 1901年〜1966年)もまたプロテスタントアイルランド人と(ヘッセンでグリム兄弟に童話を伝えたユグノーの末裔たる)プロテスタントドイツ人の血を引く。
1250夜『崇高と美の観念の起原』エドマンド・バーク|松岡正剛の千夜千冊
2夜『ペガーナの神々』ロード・ダンセーニ|松岡正剛の千夜千冊

アイルランド文学の歴史は詩から始まる。

  • アイルランド最古の文学は現存する最古の詩は、紀元前千数百年にケルトの一部族、ミレジェン族の王弟アマギーンが書いた天地自然をたたえた詩だったといわれている。これはギリシャを別にすれば、ヨーロッパ最古のものとされている。
    *この景色、イスラム世界帝国が地中海沿岸を席巻する7世紀以前には(東ローマ帝国と地続きの)アフリカ北岸およびイベリア半島の方が「暗黒大陸ヨーロッパ」より文化的優位に立っていた事を視野に入れると全く違って見えて来る。

  • 9世紀〜12世紀にかけて発展する古典文学はゲール語で書かれており、説話と宗教に関する福音書が中心だった。説話や民話はその後のアングロアイリッシュ文学(英語で書かれたアイルランド文学)にたいへん大きな影響を与えている。特に1150年にグレンダロッホの主教 フィン・マグゴーマンが編んだ 「レンスターの書」 はとくに有名である。またキリスト教福音書の中では8世紀に書かれた「ブック・オブ・ケルズ(Book of the Cells)」 がその完成度の高さ、芸術的価値で最高峰とされる。

  • 1541年からイギリスによるアイルランドの統治が始まり、特に1649年のクロムウェルの侵攻以来、ゲール語で書かれた書物への弾圧が厳しくなっていく。そんな中、英語で書かれたアイルランドの文学として最初に登場するのが、ジョササン・スウィフト(1667年~1745年)による「 ガリヴァー旅行記(1726年)」である。

  • 19世紀後半~20世紀初頭にかけては文芸復興またはケルティックルネッサンスと呼ばれる文学界の盛り上がりの時期がやってくる。ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865~1939)がアイルランド文学協会(1891年)、アイルランド国民文学協会(1892年)をつくった。彼はこれを母体として同志をつのり「アイルランド農民の妖精物語と民話(1888年)」などの民話集の編纂をしたり、民話にインスパイアされた独自の詩の世界を完成させていった。

  • また同じ頃、戯曲の分野においても様々な作家達が出てくる。「キャスリン伯爵夫人 (1892年)」 は、アイルランド文芸座の旗揚げ興行となり、ここからグレゴリー夫人(1851年~1932年)、ジョージ・バーナード・ショウ(1856年~1950年)、ジョン・M・シング(1871年~1909年)、ショーン・オケーシー(1880年~1964年)らの戯曲家が育っていった。

1994年4月30日、ユーロビジョン・ソング・コンテストの幕間にホスト国であったアイルランドが披露した約7分間のパフォーマンスが元になって生まれた舞踏劇「リバーダンス(Riverdance)」は、アイルランド文芸復興運動のハイライトをなぞる。

  • 第一幕の見せ場の一つ「キャサリーン伯爵夫人(The Countess Cathleen)」は、アイルランドノーベル賞文学者、アイルランド文芸復興の指導者のひとりで、かつ20世紀最大の作家のひとりであるウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 1865~1939)が1899年に創った戯曲の題名から取られている。妖精シヘも同じイェイツのアイルランドの妖精に関する作品の中に登場する。

  • イェイツが作家として活動を始めた1890年代後半は、アイルランド文学界はまさに大きな転機にさしかかっていた。ゲール語あるいは英語で書かれたアイルランド文学がめざましい復興をしめしたのである。それ以前の支配者イギリスの影響を受けた小説や詩とは対照的に、国民の大義に意識的に貢献しようという全体的雰囲気が支配的となってきていた。この文芸復興運動に重要な役割を果たしたのがイェイツである。

  • 1896年にイェーツはアイルランドに帰国し愛国的劇作家グレゴリー夫人と共鳴し1899年アイルランド文芸劇場を設立した。この劇場は、アイルランド文芸復興運動の最大の拠点のひとつとなる。イェーツは、アイルランドの作家たちにイギリスやヨーロッパの影響から脱し、作品をアイルランドの生活と伝統に基づいたものにするよう運動した。イェーツはこの劇場が世界有数の劇団となり、アイルランド文芸復興とよばれるアイルランドの文学的再生の拠点へと発展するのを、演出家として、また劇作家として助けたのである。

  • この劇場のために創作された戯曲としては他にイェーツの愛人モード・ゴンを主役とする愛国的散文劇「キャスリーン・ニ・フーリハン(1902年)」や韻文体の悲劇「デアドラ(1907年)」がある。また、同時期グレゴリー夫人はゲール語叙事詩を素材とする「ムイルヘブネのクーフリン(1902年)」と「神々と戦士たち(1904年)」を書いている。

ビル ウェランがリバーダンスの中で取り上げたケルト的な要素、ゲール語の歌などは、この時期のイェーツ、グレゴリー夫人の思想的影響が強く反映されている。
*だが当時の政治的現実はあくまで過酷だった。アイルランド独立運動を全面的に支持したグラッドストン(William Ewart Gladstone、1809年〜1898年)率いる英国自由党ホイッグ党末裔)は、つまらない内輪のスキャンダルによるその自滅と、普通選挙開始で発言力を増した英国国民の離反によって二重の打撃を被って英国保守党(トーリー党末裔)に対して決定的打撃を被る事に。
グラッドストン

 ③そして先にも述べた様に、当時のケルト文芸復興運動(ケルティックルネッサンス)はさらに「ウェールズケルトは余裕がある、 アイルランドケルト楽天的だ。 しかしスコットランドケルトだけが昏く悲しい」の名言でお馴染みのスコティッシュケルト復興運動をも伴った事でややこしさを増す事になる。
ふたりのマクラウド―スコティッシュ・ケルトの誇り― / いやしの本棚

*出雲神道の幽冥観は、時として新大陸への出港を派手な葬式で祝うアイルランド人の根っから楽天的な民族性(絶えず泥酔していて酒に目がない靴屋の妖精レプリカーンを連想させる)より(絶えず荒海の脅威に曝され続ける状況が生んだ)スコティッシュケルトの陰鬱さと結びつけて語られる。その一方で、こうした二重性は皮肉にも「(日本海側の流木信仰と南方から流入したトーテムポール信仰の「偶然の一致」が生んだ)心の御柱=高木神信仰」とも重なってくるのである。

まさしく 「色即是空、空即是色(縁はある様でない。ない様である)」の世界。鎌田東二氏の意見に代表される様な「日本文化とケルト文化の間には縁(えにし)がある」という直感そのものまで否定される訳じゃないけど、21世紀には随分と違った語り方を心掛ける必要がある様です。というか、そもそも「島ケルト文化」という概念そのものが瓦解しちゃった状況にどう対応するかって話な訳で。