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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】ハロウィンを祝うのに世界で最もふさわしい場所は?

アイルランド

ハロウィンを祝うのに世界で一番ふさわしい場所。
それは奈良県春日大社かもしれません。

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  WOON — Witches drove deep into the woods and met the...

  • アイルランド神話でも北欧神話でも妖精の古形を辿ると「放棄された古墳の主」といったイメージにたどり着く。

    恐らく古代ローマ人の考えていた「末裔が滅びて祀られなくなり人間界に現れて悪戯をなす様になった祖霊」なるイメージとも重なる。

    要するに夜の闇およびそれにそれに対する恐怖の具現化。
  • 彼らは同時に家に現れて見えない姿で共存したり、ペットに化けて居座ったりする存在でもあった。それなりに扱えば幸運をもたらしてくれたり、人間に益をなしてくれたりする存在だが、同時にポルターガイスト現象の元凶とされた。古代中国の妖怪観では「人界の外から里の境界内、特に葬式会場や墓地に安置された遺骸を狙う」魍魎、「年末年始といった年の節目を狙って屋敷内に入り込み貧乏や不運や疾病をもたらす」瘟神、「屋内にポルターガイスト現象を引き起こす」家鳴は兄弟とされる。古代ローマ人の信仰体系でもそのあたりは一緒くたにされていた。

原則として古墳時代の信仰を今日まで伝え続けている地域など存在しない事になっています。おそらく世界でただ一箇所、春日大社を除いては。

  • 前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)が単なる畿内豪族連合からヤマト王権へと変貌したのは佐紀盾列古墳群(奈良市北西部、奈良丘陵の南西斜面の佐保川西岸)に安定した間隔で大王墓が築造される様になった4世紀後半以降と考えられている。「古事記(713年完成)」「日本書紀(720年完成)」「新撰姓氏録(815年)」などによれば、この地は和爾氏や春日氏の所在地だったらしい。

  • この地は平安京遷都(794年)以降は山階(京都市山科区中臣町付近)を本拠地とする様になった中臣氏(藤原氏の始祖。忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどってきた氏族)とも縁深い。そして神仏習合時代には藤原鎌足藤原不比等藤原氏の氏寺として創建した興福寺と表裏一体の関係にあった春日大社が大躍進を遂げている。

  • 藤原北家の流れを汲む藤原摂関家と縁深かった彼らは手厚い庇護を受け、やがて大和国にある荘園のほとんどを領有する事実上の国主となった。そして大和武士や僧兵といった軍事力まで擁する様になり、比叡山延暦寺神仏習合の相手は日枝神社)と並んで「南都北嶺」と恐れられる存在にまで成長する。
    *戦国時代に入ってなお中央集権を寄せ付けなかったが、流石に織田信長豊臣秀吉には屈服。文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石と記録されている。江戸時代にも引き続いて2万1,000石の朱印を与えられ保護されてきた。

  • それまではどちらかというと天禄元年(970年)に藤原定昭が創立した一乗院や寛治元年(1087年)に藤原隆禅が創立した大乗院が皇族や摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えてきた。しかし明治維新に伴って慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こり、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は大打撃をこうむる。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗る様になる(奈良華族)。子院はすべて廃止、寺領は1871年(明治4年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまう(一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている)。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったという。ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったとか。
    興福寺の再興が許可されたのは、行き過ぎた廃仏政策が反省されだしたやっと1881年(明治14年)になってから。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身となる「古社寺保存法」が公布されると興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至った。 しかし、寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、所謂「信仰の動線」が欠落していると称される状態は当時の有様をそのままの形で留めている。

古墳時代から歴史的断絶が全く存在しない数少ない(唯一の?)聖地の一つ…しかし、むしろそれ故に「ハロウィンを祝うのに世界で最もふさわしくない場所」ともいえるかもしれません。なにしろそこにおわすとしたら「本物」なのですから。