諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【君の名は】やはり流れた「実はヒットなんてしてない」説。

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200億超えにしてはあまりにも周りで誰も見に行ってなさ過ぎる。他の映画の時はそんな事なかった。もしかしたら凄い大規模な詐欺で、皆盛大に騙されているのではないか?

【悲報】蛭子能収さん「シンゴジラ退屈すぎてずっと寝てたよ。君の名はアニメだから全く観る気がしない」 | やらおん!

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カントが提言した「物自体独Ding an sich、英Thing-in-itself)」と「独Ding、英Thing)」の認識差分問題、まだまだ現役みたいです。

そしてもう一つ日本のネット上で話題となったのが以下の話題。

ソース:YTNニュース(韓国語) "日本アニメーションだと思ったが…"広告話題

東西食品が作った広報アニメが話題になっています。美しい紅葉があたかも日本アニメのようで、この頃珍しい飲み物広告をマンファで表現して新鮮だという反応です。

キャプチャーされた場面だけ見て韓国マンファではないと思った、という反応もあります。しかし内容は極めて「韓国的」です。美しい秋空の下、写真を撮りにきた男性主人公が女性主人公をカメラで盗み取りしようとしたところ、見つかってしまいます。その後、女性が持っていた飲料水のビンを思い出します。

そしてインスタグラムのハッシュタグをたどってこの女性を捜し出し、連絡をとるのですが、女性の立場では少し恐ろしいという反応もあります。このため紅葉が美しいのとは別に内容が残念という意見もありました。一部では「新海誠を感じる」という反応もありました。

YTN PLUSチェ・カヨン、モバイルPD 

パクリ」と話題になってるけど、むしろ韓国バージョンの方がオリジナルの新海誠作品の画風に近いのが興味深かったです。その観点からすると「劣化コピー」というより「何をコピーすべきか正しく抽出出来なかった」残念感の方が大きい?

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なんというか「観客に提供してる風景」そのものが違い過ぎて「パクリ」云々指摘する気も起こらない感じ。新海誠監督作品を積極的に回覧してる国際SNS上の韓国勢にすら猫またぎされてるし、騒ぐまでもなし? それから「インスタグラムのハッシュタグを辿って通りすがりの女性の行方を知る内容が残念」なる指摘もかなりまっとう。「レッドタートル」にすら寄り付かなかった海外女子勢(国際SNS上において匿名で羽を伸ばしてる分だけリアル割れに敏感)の目にこの作品がどう映るか想像するだに恐ろしい。

また、こんな話も浮上してきました。

まぁ 「認識なんて破られる為にある」とも。そういえば私の場合、こうした判断に際して結構国際SNS上の評価基準を採用してますね。それが「読み違え」回避策として最も効果的だと信じてるからなんですが…サイバー倫理学の世界もこういう次元の話に中々敏感です。

過去からのメディア論 Facebookは大統領選を左右してもよいか:情報倫理学からの視点

まず,表現・言論の自由はなぜ必要か考えよう。

  • John Stuart Millは,言論の自由における社会的利益を挙げる。彼は,『自由論』で,私たちは絶対的に無謬(むびゅう)ではありえないから,多様な意見に耳を傾けなければ,真理に到達しえないと議論し,この観点から,言論の自由を擁護する。これが,言論・表現の自由の社会的利益の一つである(第2章)。

  • 米国においては,「言論の自由」を擁護するに当たって,「言論の自由市場」または「思想の自由市場」(market of ideas)の比喩が使われることがあるが,このアイデアの基は,Millの議論だともいわれる。

  • Millの主張の根拠は,およそ他者に危害を加えない限りは,判断能力のある大人の行為や生活に,政府や社会は干渉すべきではないという「他者危害原則(危害原則)」である。

ところで,世論に関する詳細な検討を加えたジャーナリスト・社会学者のWalter Lippmannによれば,マスメディアの機能は,私たちが環境に反応するために必要となる情報・知識を提供することである。

  • ただし,私たちは,複雑な環境そのものを知ることはできない。現代風にいえば,認知限界(認知心理学者Herbert A. Simonの用語でいえば「限定的合理性」)があるゆえに,複雑すぎる環境を認識できないので,環境を単純化するため,現実を抽象化したり一部切り取ったりする認知図式を活用せざるをえない。

  • Lippmannが指摘した「ステレオタイプ」も粗い認知図式の一種である。この認知図式を通して得られた疑似環境に対して,私たちは反応して行為する。

  • マスメディアは,私たちが直接経験できるわけではない時間的・空間的に離れた場所で起こった出来事について,その解釈も含めて環境に関する情報・知識を提供する。

  • マスメディアが提供する疑似環境に応じて私たちは自分の意見をつくる。そして,集合的な公衆の意見,すなわち世論(public opinion)を形成するに当たっても,マスメディアが提供する疑似環境の情報・知識はとても重要である。そして,世論は民主主義社会を動かすものであるから,世論もとても重要である。

  • ただし,Lippmannによれば,私たちは,皆が皆,自発的に政治上の全問題について健全な意見をもつようにはならないだろう。自分たちに影響ある,あらゆる社会的出来事について意見をもとうとすれば,苦労も時間も必要である。ところが,皆自分の仕事で忙しいのだから,誰も自分からあらゆる社会的出来事について意見をもちたいと思うとは考えられない。むしろ誰かが,皆が直接見聞できない世界の現実に基づいて,理解が容易な図面をつくり,そして,自余の人々はそれに従うこととなるだろう。そして,社会が複雑になればなるほど,この図面づくりを行う専門家が多く必要とされるだろうと,Lippmannはいう。

  • 当然新聞などのマスメディアの記者・編集者がその図面づくりの専門家として期待されるわけだが,新聞のニュースは現実の出来事すべてを取り上げて,鏡のように正確に反映したものだというわけではない。何か現実の中から突出してきた事実の兆しのようなものを取り上げ,それを認知図式に従ってわかりやすく書いたものにすぎない。

  • ニュースは一つの事件の存在を合図し,その合図の中に隠されている事実に光を当て,相互に関連付ける。そして,人々がそれをよりどころとして行動できるような現実の姿を(一定のゆがみをもつものとして)浮かび上がらせる。社会的諸条件が認知・測定可能な形を取るようなところ以外では,ニュースと真実は同一物ではない。

Lippmannは,読者の意見や好みの偏りによって,新聞の論調が決められる危険性があると述べている。ところが,個別の新聞の政治的見解やその他意見の偏りを正すべきだとは,主張していない点に注意しよう。

  • Lippmannの議論を補うならば,不完全かつ歪曲(わいきょく)を伴っても現実の環境を推定させる疑似環境を提供する機能は,個別の新聞やメディアが提供するわけではなく,多様な政治的立場や読者の好み・偏りを反映する多数のメディアが全体としてつくりあげている一種のエコシステムが担うものだと考えられる。このエコシステムを健全に維持するため,言論・表現の自由が必要なのである(ただし,言論・表現の自由さえあれば,言論のエコシステムが健全になるとは限らない)。

  • Millが指摘するように,私たちは可謬的(かびゅうてき)存在であるから,社会には多様な言論が存在する方が,さまざまな対立する意見を比較検討して,真理へと至ることができるようになる。その多様な意見や解釈を提示する多様なメディアがあってこそ,私たちの直接見聞が届かない領域を含む現実へと至ることができる。ここに言論・表現の自由の必要性がある。

  • すなわち,LippmannとMillの議論に従えば,多種多様な政治的立場やその他の意見・解釈が存在し,同時に,それらが自由に表現・出版できるという社会であれば,個別の一つの記事や番組,あるいは個別のメディアの政治的立場やその他の意見・解釈が偏向していても構わない。言論・表現の自由の下で,私たちはさまざまな意見や解釈を戦わせることで,やがてはそれらの不完全な点や誤りなどを認識し,より真理へと近づいていくことができるはずだからである。そして,社会的意思決定に役立つように,私たちを取り囲む環境をよりよく認識できるようになる。

翻って,現在のインターネットはどうだろうか。

  • SNSは,多数の知り合いやフォローする有名人のシェアするニュースや意見,解釈などに満ちていて,私たちにとっては,まるごと一つの世界や現実の反映のようにみえるものである。

  • 一見したところ,従来のメディアの世界のような多様性があるようにみえるものの,自分自身が選択した,あるいはSNS側が気を利かせて(?)私好みに調整してくれたニュースや意見,解釈が提示されているにすぎない。したがって,現実を反映する疑似環境としては極めて限定的であるとともに,私個人の好み・関心が影を落とす認知図式によってゆがんでいると考えられる。

  • そのうえ,SNS側で,それと知らせずにそのSNSのよしとするニュースを提示し,SNSが好ましくないとするニュースをブロックするならば,当然のことながら,現実に対する見方はさらに偏ったものとなる。

ただし,マスメディアなどのメディアが人間に及ぼす影響はそれほど単純ではない。人間は自分自身の必要や興味・利害によってマスメディアの情報の取捨選択や解釈を行うという理論は,すでに60年代には,「利用と満足」の理論として,マスコミュニケーション効果研究にはあった。さらに,近年においては,情報の受け手が所属するサブカルチャーの影響を受けると指摘する研究もある。

  • SNSがやっかいなのは,おそらくマスメディアよりも強く人々の意見を左右するのではないかと推測できる点である。なぜならば,サブカルチャーの影響を人々が強く受けるとしたら,SNSでは,自分が所属するネットワークの人々の意見や解釈と,SNSの取捨選択したニュース,意見・解釈などが混在して提供されることから,後者を前者と混同して,私たちはSNSが取捨選択して提示した情報・意見・解釈をより強く受容しやすくなるかもしれない。この仮説に関しては,経験的研究を待つほかない。

私たちはメディアによる影響を受ける一方,人的ネットワークにおけるおしゃべりや意見・解釈の交換によって,サブカルチャーや社会全体の「世論」づくりに参加することもできる。この点で,SNSボトムアップでの世論づくりの重要なツールとして期待しうる。しかし同時に世論調査の道具として利用される危険もある。SNS側の自主的なルールづくりや,社会に対する「こうしたことはしない」という宣言(いわば,学協会の倫理綱領のようなもの)が必要と思われる。

案外、基底にあるのは古代ギリシャ・ローマ時代から継承されてきたヘレニズム文化のコスモポリタン精神とも。

そして、あらためて以下が一斉に出揃った「1859年のパラダイムシフト」の大きさを感じました。はっきりいって「それ以前の人間がどうやってそれなしに考えをまとめていたのか」想像するのも億劫になるくらい。

  • ジョン・スチュアート・ミル自由論(On On Liberty、1859年」における「他者危害原則(危害原則)」…他者に危害を加えない限りは,判断能力のある大人の行為や生活に,政府や社会は干渉すべきではない。

  • カール・マルクス「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」における「上部構造/下部構造論」…我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない。

  • チャールズ・ダーウィン種の起源(On the Origin of Species、1859年初版)」における「系統進化論」…進化なるもの、淘汰を通じて系統的に展開する。

ただし、いまだにこうした考え方をどう統合すべきかまでは完全には明らかとなってません。この画期を契機としてカント哲学の見直しが始まり、多くの人間が認識論的解決を試みてきたにも関わらず。この戦い、新たなるパラダイムシフトに到達するまで、まだまだかかりそう?