諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

かつて日本を席巻していた「絶対悪たる日本政府は一刻も早く手段を選ばず滅ぼさねばならない」史観について

割と現実はこの一言に集約されたりするものです。

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古川さんのツイート: "景気がよかったころの流行歌の「定年まで会社に勤めるだけの平凡な生活じゃつまらない」という歌詞にいまの若者が「その平凡な生活が欲しいんだ」という怨嗟の声を上げる現象をよくみるが、だいたいこれで言いつくされている観はある https://t.co/yD4VjmaAfL"

「海外に脱出した新左翼運動家が日本人を代表して世界中で大活躍をする(「人民の敵」をテロで倒し続ける)」船戸与一のハードボイルド小説(1984年〜1981年)がベストセラーに名を連ねていた時代の日本には、まだまだ海外で活躍する日本赤軍に同情的な層が確実に存在していました。

バブル崩壊によってその数は激減し、オウム真理教サリン事件(1994年〜1995年)以降ほぼ壊滅状態に。ただし全滅したわけではなく、むしろ人数減少によって一層先鋭化しつつ今日なお元気に布教活躍を続けています。まぁ日本だけでなく国際的に見てとれる傾向みたいですが。

 *そういえば「灰とダイヤモンド(Popioł i diament、1958年)」のアンジェイ・ワイダ監督も、むしろ祖国ポーランド民主化を達成して国際的資本主義社会の厳しい現実に投げ込まれた1989年以降、次第にそのカリスマ性を喪失していった。まさしく「罰がなければ逃げる楽しみもない」状態。船戸与一のハードボイルド小説やニール・ジョーダン監督作品「マイケル・コリンズ(Michael Collins、1996年)」やケン・ローチ監督作品「麦の穂をゆらす風(The Wind That Shakes the Barley、2006年)」にはまだ「ともすれば内ゲバ状態に陥りがちな自陣営への批判精神」が見て取れるが、それもまた「勝利を飾りつつある立場ゆえの精神的余裕」の産物だったらしく、以降は第三者がそれを指摘すると「ヘイトスピーチ」、身内がそれを指摘すると「敗北主義者」と糾弾して沈黙させる様になっていく。大日本帝国末期と一体何が違うのか。まさしく、記憶を喪失して自らが犯した殺人事件の犯人を追い続けるクリストファー・ノーラン監督作品「メメント(Memento、2000年)」の主人公状態。

いずれにせよ当時支配的だった価値観は急激に国際的に薄れつつあります。同じ歴史を繰り返したくなければ、完全に喪われてしまう前に相応の形で記録に残しておいた方が良いでしょう。

昭和61年(1986年)にインドネシアの日米両大使館に迫撃弾が撃ち込まれた「ジャカルタ事件」の実行犯だったとして、殺人未遂罪などに問われた日本赤軍メンバー、城崎勉被告(68)城崎被告が法廷で語ったところによると、昭和22年(1947年)に富山県で生まれ、貧しい幼少生活を送った。徳島大学工学部に進学したころ、ベトナム戦争に介入した米国が北ベトナムへの爆撃作戦(北爆)を開始した。

「日本が宣戦布告せず行った真珠湾攻撃は間違っていたと学校で教わったが、米国が同じことをした。反米デモに参加しているうちに左派団体からオルグ(勧誘)を受けた。首相佐藤(発言ママ・佐藤栄作元首相)の米国支援目的のベトナム訪問を阻止するために『羽田闘争』に参加した」

政治運動に没頭する一方、大学へは足が遠のいた。「単位が取れない状況になった。親のすねをかじり続けるよりは、早く独立して、労働者とともに闘おう」と考え、大学を中退。その後、「共産主義者同盟赤軍派」(赤軍派)からオルグされ、参加した。

城崎被告によると「将来的な武力による権力打倒」を志向していた他の左派セクトに対し、赤軍派は「今すぐに権力打倒が必要だ」と考えていた。そのため“革命兵士”の育成と資金獲得を兼ね、金融機関や通行人を襲う「M作戦」を計画、城崎被告も実行役を担った。Mは一般に「マフィア」の頭文字を取ったものとされるが、城崎被告は「マネーのMだと思っていた」という。結局、M作戦に参加した疑いなどで71年に逮捕され、ほどなく懲役10年の実刑判決を受けた。


赤軍派は、労働者に先立って先鋭化した運動家だけで武力革命を行うべきだとする理論「前段階武装蜂起論」を掲げていた。

しかし、M作戦の失敗や、山小屋で軍事訓練中の赤軍派メンバーらが大量検挙された「大菩薩峠事件」(1969年)、赤軍派出身者らで結成した連合赤軍内ゲバで多数のメンバーを殺害した「山岳ベース事件」(1971年〜1972年)などで、同理論は破綻。

「M作戦で逮捕された後、山岳ベース事件が起き、知っていたメンバーが殺されてしまった。そのため、出所後にどのように生きるかは考えていなかった」という。またM作戦自体にも「人民のために闘うと言いながら、人民から略奪する行為で、当時から矛盾を感じていた」と語った。

受刑中の77年、転機が訪れる。連合赤軍と同様に赤軍派出身者らで結成した「日本赤軍」が、赤軍派の理論「世界根拠地論」(日本国外に拠点を作り、そこから世界各国の革命を推し進めるという理論)に基づいて、日航機をハイジャックして人質を取り、日本で服役・勾留中のメンバーらの釈放を求めた「ダッカ事件」が発生する。釈放要求リストの中に、城崎被告の名前も入っていた。

「逮捕前から、世界根拠地論は不可能だ、空論だと思っていた。だから日本赤軍に入るつもりもなかった。しかし刑務所にいるよりは自分を必要としてくれるところで、米国の帝国主義と闘うべきだ」と考え、釈放に応じることにしたという。また、ダッカ事件についても「解放してくれた人たちを批判することになるが、人民を盾に取ることは支持できない」などとも述べた。

城崎被告によると、ダッカ事件で釈放を実現させた日本赤軍からオルグを受け続けたが、拒否。その後、中東でイスラエルと支援する米国側と闘う「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」に参加。参加の動機については「米国・イスラエル帝国主義の侵略に対する対抗だ」と述べた。

今回、罪に問われたジャカルタ事件について、日米当局は「事件直前に東京サミット(先進国首脳会議)があり、国際テロ撲滅をうたった声明が公表された。それに対抗するための日本赤軍によるテロ行為」とみている。

しかし、城崎被告は初公判以来、一貫して無罪を主張。「重信(受刑者)とは面識があったし、日本赤軍とPFLPは共闘関係にはあったが、私は日本赤軍に参加したことはない。他人が日本赤軍のメンバーだと言っているだけだ」と、日本赤軍の作戦に基づいてジャカルタ事件を実行したとする検察側に反論。「事件当日は中東のレバノンにおり、事件には関与していない」などと無罪を主張している。

また犯行前後に使用された偽造パスポートに城崎被告に似た男の顔写真が使われていたことについては「写真はいくらでも偽造可能だ」と反論。迫撃弾が発射されたホテルの一室から城崎被告の指紋が見つかったことについても「米国は日本赤軍の犯行に見せかけようとしたと推測している。米中央情報局(CIA)あたりならやりそうなことだ」と述べた。

その一方、PFLPでは砲兵部隊に所属し、迫撃弾の運用方法などを学んでいたことや、PFLP所属中も日本赤軍のメンバーらと定期的に連絡を取り合っていたこと、レバノンの内戦が終結し、93年ごろに同国を離れて南アジアや東南アジアで潜伏していた時期、日本赤軍から一定の金銭的支援などを受けていたことは認めた。

レバノン出国後、城崎被告は潜伏先のネパールで96年に身柄拘束され、ジャカルタ事件について「別人がやった」などとして無罪を主張したものの、米国で禁錮30年の判決を受けた。模範囚として刑期が短縮され、2015年に釈放。日本に移送後、起訴された。


事件の最大の争点は、ジャカルタ事件の実行犯は城崎被告なのかどうか-だ。城崎被告側は、「事件当日、ジャカルタにいなかった」と無罪を主張。これに対し、検察側は、当時の状況や城崎被告の不自然な行動から、「城崎被告以外に犯人はありえない」として有罪を立証しようとした。

被告人質問で検察側は「この裁判では、事件当日のアリバイがあると言っているが、同様のアリバイを米国での裁判では主張していないのはなぜか」「米国の獄中から支援者に送った手紙に、本当に冤罪(えんざい)なら怒りを書くはずなのに、そうした表現がないのはなぜか」などと質問。これに対し、城崎被告は「そうする必要がなかったためだろう」などと答えるにとどめた。

さらに検察側は、城崎被告がレバノンなどで日本赤軍と定期的に連絡を取り、支援を受けていた▽砲兵として迫撃弾を扱う技能を持っていた▽犯行前後に現場付近で城崎被告とみられる男の目撃証言がある▽ジャカルタで使われた偽造パスポートに城崎被告によく似た男の写真が使われていた-ことを被告人質問や証人尋問で明らかにするなど状況証拠を積み重ねることで、有罪を立証する方針とみられる。

城崎被告は被告人質問の最後、「米国の帝国主義、米国に追随する日本は倒さなければならない」と述べる一方で、「もう自分は高齢だから、自分がやるべきことではない。自由の身になったときは、故郷に帰って暮らしたい」と語った。


公判は今後、論告求刑、判決へと続いていく。

日本赤軍…警察の摘発などにより国内で勢力が低下していた共産主義者同盟の最左派「赤軍派」の幹部だった重信房子受刑者らが、革命拠点を海外につくる「国際根拠地論」に基づき、1971(昭和46)年にレバノンへ出国し結成した組織。イスラエルの空港で自動小銃を乱射して約100人を死傷させたテルアビブ空港乱射事件や、拘束中のメンバーの釈放を狙ったクアラルンプール事件(1975年)とダッカ事(1977年)を起こした。国内に残った赤軍派メンバーらは「連合赤軍」を結成したが、内ゲバによる殺人事件やあさま山荘事件などを引き起こし、瓦解(がかい)した。


ダッカ事件とクラルアンプール事件】…1977年年9月、日本赤軍日航機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させた上、乗客らを人質に取り、服役・勾留中の同志らの釈放や、身代金600万ドルを日本政府に要求した事件。福田赳夫首相(当時)は「超法規的措置」として要求を飲むことを決定。釈放要求のあった9人のうち、拒否した3人を除く城崎勉被告ら6人が釈放された。日本赤軍が在マレーシア米大使館などを占拠し、職員を人質に同様の要求をした75年のクラルアンプール事件でも5人が釈放されており、両事件での超法規的措置による釈放は計11人に上った。

 確かM作戦では国家公務員たる自衛官や軍人だけでなく(ダイナマイト窃盗の際に殺す可能性のある)土木関係者や(銀行強盗の際に殺す可能性のある)銀行員も「人民の敵として日本人すべてから嫌われており、殺しても日本の世論や国際社会は賞賛しかしない」と規定していた筈。まぁ誰だって罪悪感は持ちたくないですからね。彼らにとっては「絶対悪たる日本政府は一刻も早く手段を選ばず滅ぼさねばならない」と考える人間だけがポジテゥブで明るい建設的で健康的な人間であって、それ以外は(一刻も早く全員絶滅収容所送りにすべき)全てネガティブな引き篭もりと映る様です。
*そういえば竹宮恵子は彼らの男権主義に呆れて学生運動から足を洗い、漫画家に専念する様になったと告発している。そして最近の学生運動家はワザと点字ブロックの上にズラリと並んで座り込みを敢行したり、障害者右往トイレに落書きしたりするという。どうやら自分達の様なポジテゥブで明るくて建設的で健康的な男子が他の人間と同格に扱われる不平等の解消こそが彼らの運動の最終目的らしい。

府警などによると、反戦や大学への不満を訴える約40人の学生らが参加。吉田南1号館の出入り口6カ所を鉄柵や立て看板などで封鎖し、授業や大学事務が行えない騒ぎに発展した。

当日、京大側から出動要請を受けた府警は大学近くの川端署に機動隊員ら約170人を待機させ、威力業務妨害容疑でバリケードを強制排除する準備を進めていた。しかし突入前の午後1時ごろ、バリケードの周囲にいた一般学生たちが「迷惑だ」などと自主的にバリケードを撤去。封鎖が解除された。

「学生自治とは何か」逆に運動家が一般学生から教わる展開。一方運動家の方は「バリケード封鎖は我々の伝統文化であり、全人類の未来の為にも決して絶やしてはならないのだ」などと伝統芸能保存論めいた主張をしている様です。もはやどちらが守旧派か分からなくなってしまいました。最終的にその主義主張オーギュスト・ブランキの「陰鬱なる永劫回帰論」めいた形に収束していくのかもしれません。

オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評:阿部重夫発行人ブログ:FACTA online

ニーチェとて別に「神」を完全に殺し得る(mortal)存在としてしかイメージしていなかった訳でもない。「ツァラトゥストラはかく語りき(Also sprach Zarathustra、1885年)」の中で彼は無心論者達が驢馬を神に見立てた祭祀を続ける様を活写する。「ああ所詮はお遊びさ。だがどうしてもこれまでは手放せないのだ」。まさしくフランス革命の到達点とも言われる「最高存在の祭典(La fête de l'Être suprême、1794年)」そのもの。

そもそも挑戦すべき対象なくして挑戦者は存在しない。カール・シュミットの政治哲学も「政治家が真っ先にやらねばならないこと、それは挑戦すべき対象の設定である」と述べている。急進主義なるもの、あくまで自らが世界の中心たる太陽として君臨する事は出来ないのである。

そういう意味合いにおいて「欧州で最も危険な革命家」オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)は遅れてきたサド侯爵かもしれない。

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彼は晩年、牢獄の中でこう綴っている。

「我らは何世紀も前から大気圏の柵につながれ、空しく自由もしくは歓待を求め続けている、哀れな囚人たちではないだろうか? 曙光と黄昏の光の中で、両回帰線間の太陽に照らし出される、あの蒼白きボヘミアンたち」

「我々の一人一人は、何十億という分身の形をとって無限に生きてきたし、生きているし、生き続けるであろう」

そこにあるのは無限の時間の中で必然的に生じる有限の反復――永劫回帰の憂鬱のみ。

監視塔から受刑者を一望し、一挙手一投足も見逃さないパノプチコンは、近代国家の成立と同期していた。ブランキも果てしなく獄窓が続く監獄を、その宇宙観に同期させたのだろう。受刑者はすべて個を剥奪され、同じ囚人服を着て、無限遠点からの国家の視線に照射されている。ブランキの言う「フォワイエ」(中心星)は国家であり、それを拒絶する彼はいくら「一揆主義」と貶められようと、マニフェスト(綱領)をつくらなかった。

革命に勝利なし。たとえ政権転覆に成功しても、新たな革命の打倒目標となるのみ」と豪語してあらゆる政体を否定した陰謀家。その胸中にはこんな無限の宇宙に戦慄するニヒリズムが宿っていたのである。
*「海外に亡命した新左翼運動家達が日本人を代表する存在として国際謀略で大活躍する船戸与一の冒険小説(1984年〜1991年)の登場人物にも多かったタイプ。それはスターリンが日本の能を好み、エイゼンシュテイン監督に「イヴァン雷帝の悪行」を八百屋お七の人形振りめいた演出で撮影する様に指示したのとも奇妙に符合する。

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さらに過去まで遡ると農民出身者を中心とする国民皆兵軍が武士の末裔を打倒した不平士族反乱(1874年〜1877年)、大日本帝国憲法発布(1889年)を契機として収束に向かった自由民権運動(1874年〜1890年)などが想起される展開に。

大阪事件(1885年)

自由民権運動の激化運動の一つ。朝鮮に政変を起こして大日本帝國打倒の前線基地化すべく爆弾を製造したり強盗事件を起こした。

  • 国内における自由民権運動が政府の弾圧のため閉塞したため、海外に進出することで日本の国威を発揚し、また国内改革をも図ろうと考えたものである。

  • 大井憲太郎を中心に、景山英子や旧自由党の一部が参加。朝鮮半島に渡って改革派の独立党(金玉均ら)を支援し、立憲体制を築こうという計画が立てられた。

  • 爆弾を製造したり、資金を集めるため強盗も行われたが、実行前に計画は漏れ、139人が逮捕された。大井らは1889年、憲法発布の恩赦によって出獄した。福田英子(景山の改姓)の著書、『妾の半生涯』には、このときの収監の状況が描かれている。

  • 北村透谷自由民権運動に参加していたが、大阪事件の際強盗に誘われたため、悩んだ末、運動を離脱した。しかし、のちに発表した長詩「楚囚之詩」には、この事件のおもかげがあるといわれている。

 1887年、大阪市天王寺区にある壽法寺で大阪事件関係者の慰霊祭が行なわれ、慰霊碑が建てられた。1995年に石碑が再建されている。

そもそもこれらは大衆運動というより「薩長土肥閥の権力独占に反対するそれ以外の武士達の反乱」 として出発しており、これを大義名分に掲げる運動自体、米騒動(1918年)の時代にまでその足跡を残していたりします。その時は米不足に拍車をかける為に倉庫を襲って備蓄米を溝川に流したり、御用盗(軍資金調達の為の強盗)に邁進したり、暴徒を扇動して鈴木商店や工場を焼き払わせたりしました。ちなみにそれまで職場だった工場を自ら焼き払った工員は当然翌日から路頭に迷う羽目に陥ります。こうして失業者を急増させる事も計画の一部だったと考えられています。
与謝野晶子 食糧騒動について

実は大杉栄(1885年〜1923年)の様な無政府主義者もリアルタイムで糾弾してるのですが、最初から大衆への配慮など一切眼中になかったのですね。この伝統は講座派時代における「福本イズム(大衆をあくまで政治的エリートが好き勝手にして良い従属物としかみなさず、外敵との対決より内ゲバでの勝利を称揚する政治的態度)」の圧勝(1926年〜1927年)とコミンテルンの「27年テーゼ(今の日本はブルジョワ階層による天皇制打倒に邁進すべきとした。やはり大衆はあくまで政治的エリートが好き勝手にして良い従属物としかみなされない)」によるその全面否定、1970年代安保における中核派の躍進などにつながっていきます。

福本イズム考(2005年)

まぁ過去の歴史に鑑みると何か大事件でも起こらない限り、2010年代末、いや下手をすると2020年代一杯この状態が続くのでしょう。ちなみに琉球処分(1872年〜1879年)に際して身分制存続に固執する琉球王朝士族守旧派は清国に救援を求める密使を派遣。しかし現地官僚からは「とりあえず蜂起して数千人から数万人死ね。そしたら遠征軍を派遣して征服下に置く大義名分が発生するから」などと冗談とも本気ともつかない答えしか引き出せず、その答えを持って帰る訳にもいかず現地で自害しています。一方、最近では「琉球人を同じ日本人とみなすレイシストは国際社会が人道的に許さない。例え同じ琉球人であっても」なる主張までちらほら見掛ける様になり、時あたかもアイルランド内戦前夜の如し。

果たして沖縄人はポーランドアイルランドの前轍を踏んで「平和実現の為の殺し合い」に邁進していく道を選ぶのでしょうか。最近、沖縄人が本格的に反対運動でも起こらない限り、もはやその流れは食い止められない気がしてきました。なにしろ「その筋の人達」の発想って「大阪事件(1885年)」以来、まったくブレてないのです。

http://yaz1966.tumblr.com/post/152559651892/大きなことを成し遂げた人が後輩に指導をしたくなるのではなく自分の可能性が過去ほどは無くなった

yaz1966.tumblr.com

 案外大事なのはこういう事の連鎖として全体像を俯瞰する態度かもしれなくて。