ついに20世紀末に始まり、一時期はあれほど全盛を誇ったiモードにも終焉の時が。
だってみんないなくなっちゃったからね。
— 夏野 剛 Takeshi Natsuno (@tnatsu) 2016年10月28日
RT @sigekun: そんな中、悲しいというか残念なのは、NTTドコモそのものからリリースもなければ、公式Twitterでつぶやく、ということもなかったことです。本当にiモードに関連したことには冷たいように思います。
ところで、いかなる段階を経てスマートフォンはFirst Screen(何かあると真っ先に確認されるメディア)となっていったのでしょうか?
- パソコンの普及が始まる1980年代まで、コンピューターはとてつもなく巨大で音声入力によって操作するものとしてイメージされていた。
- パソコンモニターの前に座ってキーボードを叩いたり、マウスを操作する様になるとそれがFirst Screenという認識する人々が現れた。移動中はラップトップPCというイメージ。
- 「スマートフォンをFirst Screenとイメージする文化」は、そうした「パソコンをFirst Screenとイメージする文化」から派生する形で生じてきたか、あるいはそうでないかである。ちなみに統計によればスマートフォン・ユーザーはあまりネットサーフィンそのものはしないらしい。ここにもまた「パソコンをFirst Screenとイメージする文化」とのギャップが潜んでいる。
正直(コンピューターのイメージがメインフレームからパソコンに推移した時期同様に)単純なテクニカルタームだけでは説明し切れない部分もありそうです。
実は割と東大安田講堂陥落(1969年1月、大学側より依頼を受けた警視庁機動隊が学生運動家のバリケード封鎖を粉砕。同年の東大受験は中止)を契機として学生運動家達からバイブルの様に崇められていた「白土三平の忍者漫画」や「近未来における人類破滅を暗示するジュブナイルSF小説」などが一気に人気を喪失し、その空隙を埋める形で以下の様な20世紀一杯続くロングセラー作品が目白押しする事になったのと同種の展開を感じずにはいられないのですね。
- 「アニメ版サザエさん」…突然打ち切りになった「白土三平忍者アワー」の後番組としてスタート。
- 藤子不二雄「ドラえもん(原作1969年〜1996年)」…それまで掲載されてきた「人類の滅亡を暗喩するジュブナイルSF小説」に代わって児童誌の顔に。
- 山田洋次監督作品「映画版男はつらいよシリーズ全48作(1969年〜1995年)」…「今の人間の感覚には合わない」と弾劾され絶滅寸前だった伝統的任侠物のパロディとして製作されたTV版(1968年)が思わぬ反響を呼んで映画化が始まった。*ちなみにTV版の最終回で渥美清演じる寅次郎は死んでしまったが、それを惜しむ声が殺到したのが発端となっている。
肝心なのは人はその時何を日常から切り離し、何を新たに日常の一部として迎えいいれたかという部分ですね。
その意味では当時進行したのは「エンターテーメント業界からの政治性除去」第二段階ともいえるかもしれません。そしてこの時代を支えたメディアというと…
特定の手順によって、電波で小型受信機(通信機器)に合図を送るシステム。主に連絡を取りたい相手が持っている通信機器に情報を知らせるために用いる。日本ではポケットベル、または略してポケベルとも呼ばれる。個人需要が高く最盛期を迎えた1990年代(平成)の流行期には若者ユーザーからは更に省略され、ベルの愛称で親しまれた。英語ではpager(ページャー)またはbeeper(ビーパー)という。ちなみに台湾ではBBCALLという。
電気通信事業者による電気通信サービス(公衆呼出し)(日本ではNTTドコモグループ及びテレメッセージ各社が提供していた。)と、特定の工場やビル内などを対象に設置されたもの(構内呼出し)がある。
警察無線や消防無線の受令機も広義の無線呼出しである。こちらは無線電話の音声を受信でき、全対象者に命令の一斉伝達が、また聴いているであろう特定の相手を名指しすることで簡単な伝言が出来る。
2008年10月以降、日本で電気通信事業者による無線呼出しサービスを提供しているのは東京メッセージグループの東京テレメッセージと沖縄テレメッセージの2社だけである。
1958年に米国で世界初のサービス「ベルボーイ」が開始された。当時は、交換手に呼出番号を伝えるものであった。やがて、特定の電話番号に電話をすることで呼び出すものとなり、DTMFで電話番号やメッセージを送信できるように多機能化が行われた。
1995年9月に米国でReFLEX方式による簡易双方向通信サービスが開始されている。また、1990年代後半より、電子メールや事業者のホームページからの呼出しに対応したものも登場している。
米国では契約者が2002年末の1410万から2005年末には830万まで減少しており、中国でもサービスの停止が発表されており、世界的に無線呼出しサービスは消滅への流れを進めている。
ポケットベル B型 RC11。日本初のポケットベル。1968年製。未来技術遺産(重要科学技術史資料)第00087号。逓信総合博物館所蔵。
公衆サービスは1968年7月1日に、東京23区で日本電信電話公社により150Mc帯の多周波信号方式で開始された。開始当初の契約は4,751加入で、1969年3月末では11,708件の加入申し込みがあった。1971年3月末では、申込数39,090件、契約数13,672加入。申込みに契約が追いつかなかった、当時の人気のほどが伺える。ちなみに、公衆サービス開始前の1965年10月23日に放送されたNHK総合テレビの番組『スタジオ102』では、10月23日が電信電話記念日であることから、番組内でポケットベルの試作機が紹介された。
電波法令上は、信号報知業務と呼ばれ、「信号受信設備(陸上を移動中又はその特定しない地点に停止中に使用する無線設備であつて、もつぱらその携帯者に対する単なる合図としての信号を行なうためのものをいう。)と信号報知局との間の無線通信業務」とされ、単に音響を発する為の信号を送出するだけのものであった。また、送信局は信号報知局と呼ばれた。
1978年には、加入者の増加とともにより250MHz帯のFSK変調200b/sのNTT方式のサービスが開始された。
初期の利用者の多くは、業務上で外出の多い営業職・管理職・経営者であり、電子音による呼出音が鳴るだけであったため、呼び出されたら出先の公衆電話から事務所へ確認の電話を入れるという使用法であった。1978年には自動車電話がサービス開始されたが料金が非常に高額であったため、ポケットベルが唯一の個人向けの移動体通信であった。
CD-ROM(Compact Disc Read only memory)
コンピュータやゲーム機などで取り扱うデータが記録されているコンパクトディスク。1990年代までは標準的なハードディスク(当時、300–500MB程度)よりも多くのデータを格納できたし(540MB〜700MB)、プレス費が比較的安値だったので主に製品等の大量配布用に用いられた。
- 1985年 - フィリップス、PC/XT、PC/AT用CD-ROMドライブ「CM100」を発売。
- 1985年10月 - 三修社、日本初のCD-ROMソフトウェア「最新科学技術用語辞典」を発売。
- 1987年6月 - 富士通、CD-ROMドライブ対応のワープロ専用機OASYS 100GX-CDを発売。
- 1988年3月 - アップルコンピュータ、Macintosh用CD-ROMドライブ「Apple CDsc」を発表。
- 1988年12月 - 日本電気ホームエレクトロニクス、世界初のCD-ROMドライブ搭載家庭用ゲーム機PCエンジン用CD-ROMドライブ「CD-ROM2」を発売。
- 1988年12月 - ハドソン、世界初のCD-ROMゲームソフトウェア『ファイティング・ストリート』と『No・Ri・Ko』を発売。
- 1989年2月 - 富士通、CD-ROM標準搭載のパソコン「FM TOWNS」を発表。
- 1989年10月 - 日本電気、CD-ROM標準搭載のパソコン「PC-8801 MC」を発表。
- 1990年7月 - ソニー、8cmCD-ROM専用電子ブックプレイヤー「データディスクマン DD-1」を発売。
読み取り速度(読み込み速度、読み出し速度などとも呼ばれる)は初期には音楽用CDと同じ(1倍速、等速と呼ばれ、150キロバイト/秒の転送速度)であったが、次第に2倍速、4倍速と高速化し、2006年末では52倍速までに高速化した。しかしCD-ROMの材質として一般的なポリカーボネートの物性上、これ以上高速で回転させると遠心力によってディスクが変形・破壊されてしまう。CD-ROMの読み取り速度は既に工学的な限界を迎えている。52倍速時ではディスク最外周の速度は235km/hにも達するからである(ただしケンウッドは独自方式で72倍読み込みできる製品を販売)。これ以上の速度を望むならば、より記録密度の高い媒体(DVDなどの上位規格)を選択する他ない。もっとも、回転速度の上限は同じなので、DVDの読み取り速度もすでに頭打ちである。
1990年代前半はまだまだパソコン通信全盛期。しかし1990年代も後半に入ると「あやしいわーるど(1995年〜1998年)」「あめぞう(1997年〜2000年)」「2ちゃんねる(1999年〜)」などを経てインターネット上のマルチスレッドフロート型掲示板への移行が進行していく。
実は海外にも2chや「ふたばちゃんねる」の影響下で生まれた「4chan」や、2chのV速的発想から生まれたRedditなど類似例が少なくない。リアル人間関係(あるいは実名SNS)から離れ、匿名のコミュニケーションを求める心理そのものは世界普遍的とも。
それは当初はオーサリングソフト、後にはFlashが牽引した時代でもあったのです。こういうトレンドと絡めなかったせいで「個人用携帯端末」の黎明期は不遇が続きます。iモードが発案されたのは、まさにそういう苦境期の出来事だったとも。
【スマートフォン前史】Communicatorの時代…歴史のこの時点では端末に通信機能は付与されていない。インターネット回線のキャパも貧弱で、音声や画像や動画を大量に投入するマルチメディア・タイトルは主にCD-ROMで提供されていた。
- 1993年、アップルが米国内でNewtonを発売。このデバイスをPDA(携帯情報端末)と称したが、その概念がその時点で広まった訳ではない。
- 1994年、IBMが携帯電話とPDAを統合したIBM Simonを開発。操作は主にタッチスクリーンで行い、内部メモリにサードパーティ製のアプリケーションをダウンロードし動作させることも可能というスマートフォンに近い端末。他にも携帯電話とPDAを統合したビジネス向け情報端末が何種類か現れたが広く普及する事はなかった。
- 1996年、Palmが「PalmPilot」を発売し大ヒット。PDA(携帯情報端末)という用語と概念がやっと世に広まる。
- 同年、ノキアが発表した「Nokia 9000 Communicator」は、閉じた状態では縦長ストレート型携帯電話で、クラムシェル(折りたたみ型筐体)を開けば640×200ピクセル画面及びQWERTYキーボードが現れる構成だった。
【ポケベル】日本での展開(1985年頃〜1996年前半まで)
通信自由化
- 1985年の通信自由化により、電波法令上では、無線呼出業務と改称され、「携帯受信設備(陸上(河川、湖沼その他これらに準ずる水域を含む。)を移動中又はその特定しない地点に停止中に使用する無線設備であつて、専らその携帯者に対する単なる呼出し又はこれに付随する信号を受けるためのものをいう。)と信号報知局との間の無線通信業務」とされ、音響のみならず文字その他の情報も送出できるものとなった。また、信号報知局が無線呼出局と改称された。
高速化と低料金化
- 1986年には150MHz帯の割当ては全廃され、250MHz帯のみとなった。更に1987年に400b/s、1989年に1200b/sへと高速化が行われた。
- 1987年以降は、各地域に設立された地場資本中心の新規参入事業者がPOCSAG方式で事業を開始して競争が激しくなった。そのため、ポケベルの利用料金は安くなり、販売ルートもスーパーマーケットやコンビニエンスストア、鉄道駅の売店などに広がった。個人での契約も出現し、子供に持たせる親も現れるようになり、親子関係の希薄化・非行問題との関連が指摘され始めている。
- また、電電公社のポケットベル事業は1985年成立のNTTを経て1991年にNTTドコモグループに移管された。
- 一方、1988年から1989年にかけては、日本移動通信やDDIセルラーグループ(いずれも現在のKDDIのau事業)の自動車電話や携帯電話への新規参入があったが、まだその料金は一般の市民には高額であり、依然として業務でポケットベルを携帯させられていた従業員も多かった。
数字送信の開始によるポケベルブーム
- 1987年にはプッシュ信号 (DTMF) により数桁の数字を送れる機種のサービスが開始され、受信した方が表示された電話番号に電話をかけることが出来るようになり、業務での効率的な利用が可能となった。また、1990年代に入り個人契約でメインユーザーの一角になりつつあった女子高生を中心に、例えば「14106」=「アイシテル(愛してる)」というように、数字の語呂合わせでメッセージを送る一種の言葉遊びが1992年頃から流行し始め、1990年代中盤には個人対個人で他愛ないメッセージを送りあう道具として急速に普及し、頻繁に利用された。
- 数字で送り合うメッセージには方言も存在し、関西や九州の一部地域では「1410」=「アイシトオ(愛しとお)」というような使い方もされた。東海では「86]10[10ー 4106 0U3」=「パルコデカイモノシテルマユミ(パルコで買い物してる 真由美)」というように、[、]、ー、Uという記号も五十音の一部として活用する数字と記号が入り混じったメッセージが主流であり、地域毎に特徴があった。
- 数字のメッセージは「724106」=「ナニシテル(何してる?)」「4510」=「シゴト(仕事)」、「106410」=「テルシテ(TELして)」「114」=「イイヨ(良いよ)」のように半ば定型文的な使われ方をされたイメージがあるが、上記の東海の例のように複雑な日常会話レベルのやり取りを一部のユーザーは行っており、解読には暗号や五十音の語呂合わせの数字の共有、互いの行動傾向や趣味等を深く理解している必要があった。
ポストバブル期の社会風俗の象徴
- 社会に与えた影響も大きく、1993年に製作されたテレビドラマ「ポケベルが鳴らなくて」や、同名の主題歌がヒットし、さらには最盛期にかけて特定時間帯の輻輳によるメッセージ配信の遅延、発信用公衆電話の酷使による故障が相次ぎ、事業者は対応に追われるようになった。ブーム期の頃はテレビドラマや漫画などでも、女子高生を象徴するアイテムとして頻繁に登場した。その理由は、1993年に女子高生ブームが到来し1992年頃から東京の一部女子高生の間でブームになっていたポケベルとそれをメッセージコミュニケーションツールとして使う彼女達の姿をマスメディアが頻繁に取り上げたためである。その影響を受けてブームが全国的に波及し、女子高生ばかりでなく男子高生や大学生や若い社会人まで個人の利用者層を伸ばした。
- バブル時代まではサラリーマンのビジネスツールでしかなかったポケベルは、若者の出先でも気軽に連絡を取れるツールやコミュニケーションツールとして活躍するようになり、1996年の最盛期には個人契約が加入数の大多数を占めた。その背景には個人の自由に使える連絡手段を求める当時の若者からの需要があり、携帯電話の所有コストは高かったため、コストの低いポケベルへ流れたのが一つの大きな理由と考えられる。また、メッセージが直ぐに届く即時性、個人間の秘匿性の高いやりとり、多くの人と繋がる事のできるネットワークの広さ、時間帯を気にせず使える気軽さ、返したい時に返信すれば良い負担の軽さ、要件をストレートに伝える短い文もポケベル人気を支えた。
1996年(最盛期):文字送信も可能へ
- 1995年には無線呼出業務の定義が「携帯受信設備(陸上移動受信設備であつて、その携帯者に対する呼出し(これに付随する通報を含む。(中略))を受けるためのものをいう。)の携帯者に対する呼出しを行う無線通信業務」となった。
- 数字だけでなく、カタカナやアルファベットや絵文字のフリーメッセージが画面に表示できたり着信メロディに標準対応したタイプをテレメッセージ各社は1994年から、NTTドコモグループは1995年に投入。(ドコモは1991年より一部機種が有料オプションでカタカナ等のフリーメッセージに対応していたが利用者は少なかった。)誰でも読めるカタカナのフリーメッセージに対応した事によりメッセージでの会話の幅が広がり、センティーA・センティーB(ドコモ)やモーラ・テルソナ・アーキス(テレメッセージ)等の品切れになる程の人気機種も登場し、ポケベル人気は更に上昇した。漢字まで画面に表示できるタイプも登場し(定型文のみ対応。テレメッセージは1995年、ドコモは1996年。)、1996年には事業者によるが30桁の数字(カナで14文字)をメッセージとして受信できるまでになった。また、加入者の増大に対応するためFLEX-TD方式の導入が開始された。最盛期の1996年6月末には、約1077万件の加入者があった。
- カナのフリーメッセージ入力には「ポケベル打ち」というコード入力が必要で、一種の特技として電話機のテンキーで高速にこれができる人はユーザーから崇められ、テレビ等のメディアで驚きを持って紹介される事もあった。この頃ポケベル・ルーズソックス・プリクラ手帳は女子高生の三種の神器と呼ばれる事もあり、女子高生のマストアイテムとしての地位を確固たるものとしていたが、地方に目を向けるとポケベルは親世代からの評判は総じて良くなく基地局の未整備も相まって、持ちたくても持てず、或いは周りで実際にブームを感じる事無く非所有に終わる者も多かった。
- ポケベルにメッセージを送るために公衆電話に行列ができたり、メッセージを送り合う会った事もない友達を表したベル友という言葉が流行。対面コミュニケーション機会の減少による若者の人間関係の希薄化を危惧する声も多く、ポケベルのメッセージを送るための家庭電話の使い過ぎによる高額請求、偽造テレホンカードの過度な流通、ポケベルによるイジメや嫌がらせ、ポケベル依存症、学校生活の妨げになるとして教師が学校内の公衆電話を使用禁止にしたりメッセージを送れないように♯ボタンを接着剤で固定するなどの問題も噴出していた。
- また上記のベル友のように、当時の女子高生達(コギャル)を中心に様々なポケベルに関する略語が生み出され、下記のベル番やベルナン等、一般ユーザーにも広く利用される略語もあった。
◎ベル番(ポケベルの電話番号)
◎ベルナン(当てずっぽうのポケベルの番号にメッセージを送りナンパする、又はされる)
◎シカベル(ポケベルにメッセージが入ってもシカトする、又はされる)
◎空ベル(ポケベルは鳴ったがメッセージが何も入っていない)
◎イタベル(イタズラ目的でポケベルにメッセージを送る、又はメッセージが入る)
◎ウザベル(うざったい相手からポケベルにメッセージが入る)
◎鬼ベル・ガンベル(頻繁にポケベルにメッセージを送る、又はメッセージが入る)
◎ベルフレ(ポケベルフレンド。ベル友と同義語)
◎ケツ番(メッセージの最後=ケツに入力する数字の番号。自分の名前やニックネーム等を初期のポケベルのような数字の語呂合わせにして入力した。主に東海で利用された略語)1992年のブーム初期から1996年の最盛期にかけて数字のメッセージ又はカナのメッセージでポケベルをコミュニケーションツールとして利用し、個人ユーザーの中核をなした1970年代半ば辺りから1980年生まれぐらいまでのポスト団塊ジュニア世代を指してポケベル世代と言う場合がある。ブーム期にドコモのポケベルのCMのイメージキャラクターを務めた葉月里緒奈は1975年生まれで広末涼子は1980年生まれである。
女子高生がブームになったのはポスト団塊ジュニアが高校に在学していた1993年頃からだと言われている。女子高生の文化にマスメディアが焦点を当て、テレビなどでトレンドや記号として紹介されたこと、ブルセラなどの性的・社会的な問題などがあって「女子高生ブーム」が起きたと言われている。
そういったことにより、女子高生が通学時以外や休日でも制服を着て行動するようになり、また、高校生ではなくなったのに、あるいは在籍通学していないのに制服(なんちゃって制服)を着て街を徘徊してみせるなんちゃって女子高生まで現れるようになった。指定制服のない学校に通う生徒が、「制服風ファッション」でコーディネートするスタイルも「なんちゃって女子高生」と呼ぶ場合もある。
1993年。コカイン所持容疑で角川春樹が逮捕され所謂「角川商法」が完全破綻。それ以前にバブル崩壊もあってすでに破綻していたが主導者が去らない限り止まらないので誰かが密告したともいわれている。
*恐ろしい事に当時の日本の劇場では角川春樹監督作品「恐竜物語REX」と「ジェラシック・パーク(Jurassic Park、原作1990年)」が完全に同グレードの作品として上演されており、それこそがまさに1970年代に始まった「角川商法」の残光だったという次第。かくして培われた「愚民などいくらだってプロパガンダ次第で動員可能」なる共同幻想が完全崩壊するのは、さらに翌年のオウム真理教選挙出馬と、それに敗れた報復としてのサリン事件(1994年〜1995年)を待たねばならなかったとも。
*「怪奇/オカルト/超能力/UFOブーム(1960年代末〜1970年代)」の最中に始まったアニメ・ブームはカルト宗教に引き寄せられる層をアニメ・ファンの中に巻き込んだ。この事がオウム真理教事件と微妙な関連性を構築したとも。
【ポケベル】日本での展開 (1996年後半 - 1998年)
1994年に携帯電話端末の買切り制導入、同じく1994年に携帯電話の新規参入第二弾のデジタルホン(現ソフトバンク)とツーカー(現KDDI)両グループの事業開始、さらに1995年10月に各PHS事業者の事業開始となった1996年以降は携帯電話事業者同士、そして携帯電話事業者とPHS事業者のシェア争いが本格化し、安価であったPHSに対抗するため携帯電話の本体代や料金プランが急速に低下。
- これに伴い特に若い社会人の間でも携帯電話の普及が本格的に始まると(都市部ではPHSを選択する者もいた。)、1996年6月にピークを迎えていたポケベルの加入者数は緩やかに減少し始める。ただ、この時点では携帯電話、PHSがつながりにくい(通話可能でも電波が弱い、通話が不可能なエリアも多かった。)という弱点もあり、ポケベルと携帯電話或いはポケベルとPHSの2台持ちという兼用の仕方も見られ、ポケベルと携帯電話、ポケベルとPHSの一体型も発売される。
- 1996年にドコモが新人だった広末涼子をCMに起用して、広末人気が爆発的に上がるわりには、ヘビーユーザーであればあるほど所有コストがかさむFLEX-TD方式対応の新シリーズのポケベルの販売は期待された程ではなかったとされる(さらにポケベルの顔とも言うべき存在になった「広末」が大学に進学する1999年に、そのまま携帯電話のCMに起用する皮肉な結果になる)。
- 買切り制が導入された1994年からは法人契約のポケベルの解約が増加。1992年のブーム初期から最盛期の1996年にかけての爆発的な個人契約増加の裏では、医療機関を除き一般企業のポケベル離れが年々進んでいた。
1997年は首都圏の女子高生や女子大生間、地方の学生間を中心にブームは継続中で最後の流行期となり、この頃には一部の中学生までブームは波及していたが、6月のドコモを皮切りに各携帯電話事業者がショートメッセージサービス機能が内蔵された携帯電話を1997年末にかけて次々と発売。
- これを契機にメインユーザーの内の高校生層を除く10代後半から20代前半の若者が急速にポケベル離れを起こし(同時にPHS離れも始まり、若い社会人や大学生が通話やショートメッセージ用としてPHSを所有している例はあまり見られなくなって行き、2000年ぐらいまでは中高生からの支持を集めるようになるが、PHSの加入者数は1997年9月の706万件をピークに減少を辿る事になる。)、1998年中には全国的に高校生層を除く10代後半から20代前半の若者の主たるコミュニケーションツールは携帯電話に移り変わり、ポケベルを敬遠していた層にも受け入れられた。
- 現役中高生に関しては1998年中もポケベルはまだポピュラーな存在であり、在学中に親から携帯電話を買い与えられたり、ポケベルから携帯電話へ乗り替えたりする例はそれほど多くはなくPHSの普及も進んだものの、この年(1998年3月)に高校を卒業した者は進学や就職を機に携帯電話へ乗り替えたり携帯電話の新規購入をするのが一般的になっていた。
- このように1996年後半から1998年のポケベル衰退の原因は法人契約が携帯電話端末の買切り制導入と低価格化により携帯電話へ移行し減少した事と、個人契約は1996年後半から1997年前半は携帯電話の低価格化によりメッセージコミュニケーションに重点を置かなかった主に若い社会人層(一部大学生層も)が携帯電話へ移行(首都圏等の都市部においては一部高校生層も含めPHSへ移行した場合あり)、1997年後半から1998年内はメッセージコミュニケーションを必要とした主に大学生層(若い社会人層や一部高校生層も)が携帯電話へ移行(一部高校生層はPHSへ移行)したためである。
僅か2年半程で大多数の若い社会人と大学生の個人ユーザーを携帯電話に奪われ、ブームを牽引した高校生の個人ユーザーも携帯電話やPHSに食われ始めたため、更なるユーザー数の増加を見込んで設備投資を行っていたポケベル事業者の経営は圧迫された。加入者数は1996年12月末に1045万、1997年12月末に825万、1998年12月末に452万と推移している。
Flashの歴史(1996年〜1997年)
1996年 アメリカ合衆国のコンピュータ・ソフトウェア会社フューチャーウェーブ・ソフトウェアがアニメーション・データを作成するソフトFutureSplash Animatorと再生プラグインFutureSplash Player(フューチャースプラッシュ・プレイヤー)を開発。
- これをマクロメディアが会社ごと買収し「FutureSplash」の頭文字「F」と接尾「lash」をとって略称を「Flash」とし、Shockwaveシリーズに組み込んで「Shockwave Flash」とした(Macromedia Flash 1.0)。
- ファイルフォーマット名及び拡張子として使われている「SWF」は元々「small Web format」(スモール・ウェブ・フォーマット)の略であったが、マクロメディアによって「Shockwave Flash」の略として改称された(現在は再び元の略称へ改称)。作成ソフトはMacromedia Flashに改名された。
1997年 Macromedia Flash 2.0をリリース。
- 日本での本格的な流通が始まる。実際にはFutureSplashの直輸入版も一部店舗では取り扱われていた。
このころからすでに数多くの基本的な機能を備えており、またベクターイメージで描画する事により動画データとしては非常にデータ量を小さく出来た事から注目を集めたのである。
1997年 4月に(前年から続いてきた)ペルー日本大使公邸占拠事件が「特殊部隊突入による人質全員解放・犯人全員射殺」という結末を迎えた年。そして7月よりアジア通貨危機が始まった年。後者は1998年まで続き、ロシア通貨危機(1998年8月17日)やブラジル通貨危機(1999年1月)などを誘発した。
*「ペルー日本大使公邸占拠事件」…当時の日本におけるその筋の人達は「人質全員解放」ばかり喜んで「犯人全員射殺」を自業自得の結果としか受け止めない日本人の国民感情に戦慄した。こうした空気の醸成はオウム真理教サリン事件(1994年〜1995年)を契機に加速し、国内支持者を失った日本赤軍壊滅につながっていく。また、この事件を題材に「日本人は危ない。何度でも繰り返す。日本と名のついてないものにはいくらでも冷たくなれるのだ」と陰鬱に歌う中島みゆき「4.2.3」関連動画はYoutubeにUPされた途端に削除される事で有名。中国ネットにもそういう動画をUPしては削除され続けている人々がいるが、文字通り命懸けの政治活動と目されている。「この事件を契機にTVと視聴者の関係が変わった」とも。
*そしてアジア通貨危機による経済破綻を背景に、隣国韓国において史上初めて「選挙による平和裏な(死者を伴わない)政権交代」が達成された。前政権は「アジア通貨危機は日帝の陰謀。一刻も早く懲罰が必要だ」と叫び続けたが、韓国の有権者達の間にその声は届かなかった。
金泳三 - Wikipedia
ところで、それまで武力闘争を戦い抜いてきた運動家達はその後、狂牛病騒動(2008年)に便乗する形で再結集。「政権打倒を達成する聖戦はまだ終わっていなかった」と宣言して連夜の様に青瓦台突入を試みる様になると、それまで平和的デモを続けてきた一般市民が「ゾンビが墓穴から蘇ってきた」とネット上でこっそりぼやく様になる。
- 2月、「ポケットモンスター(POCKET MONSTERS)」シリーズ第1作(赤・緑)発売…小学生を中心に、口コミから火が点き大ヒットとなる。ちなみにこの時点ではポケモン図鑑はアナログのルーズリーフ・イメージで、ポケギアはまだ未登場。同月、マジック:ザ・ギャザリング(トレーディングカードゲーム)の第1回「アジアパシフィックチャンピオンシップ」開催。
*この時期までインターネットはそのキャパシティの限界からマルチメディア化達成には程遠い状態にあり、エンターテイメント業界もまたアナログ・イメージに拘束されていた。
- 5月、IBMのスーパー・コンピュータ「ディープ・ブルー(Deep Blue、1989年〜1997年)」がガルリ・カスパロフ(露)とのチェス対戦で初めて世界チャンピオンに勝利し開発目標を達成。
*1980年代に端を発する「人工知能ブーム」の一つの到達点だが、以降人工知能研究は目指すべき目標を見失ったり、当時の一般的マシン環境では研究不可能だった事もあり一時的低迷状態に陥る。エンジニアのうち少なくとも一部はウォール街のアルゴリズム取引開発に流れた。彼らがこのジャンルに見切りをつけて再離反するのは2010年以降。
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8月、マイクロソフトが1億5000万ドル相当のアップルコンピュータ株を購入。少なくとも3年間は売却しないと約束した上で両社は業務提携およびライセンス交換に合意する。同年9月、アップルコンピュータがMac OS 8を発売。全ては暫定CEOに復帰したスティーブ・ジョブズが業績不振に陥っていたアップルを潰さない為に打った起死回生策だった。
*以下の記事に「新CEOとなるティム・クックは、アップルが復活するために必要だった基礎体力を作った。ジョブズ体制がスタートする前のアップルは、カリフォルニアやアイルランドに自社工場を持ち、そこで生産したMacを、大手流通会社を通して世界に販売している会社だった。しかしクック氏はアップルの自社工場をなくし、中国などの製造会社に委託生産してもらい、しかも、その工場から直接販売店に納品するというシステムを築いた」とある。アップル社のリストラはアイルランドへの経済的打撃を伴ったのだった。
*「Mac OS 8」…アップルのNeXT買収(1996年12月20日)後、WWDC '97で発表されたRhapsody計画(後のMac OS X Server 1.0)までの繋ぎ。
- 9月、日本電気(現:NECパーソナルコンピュータ)がPC/AT互換機ベースのPC98-NXシリーズを発表し10月より発売開始。日本独自プラットフォームPC9800シリーズの終焉。
ITバブル(1997年〜2001年)
ITバブルとは、1990年代後半から2000年頃に、アメリカや日本でIT関連企業の人気が高まり、株価が急騰した事の総称です。ここでは、ITバブルが起きた原因と、崩壊の理由について分析します。
- ITバブルが起きた原因の一つは、1990年代後半が世界的に過剰流動性が高まっていたことです。1990年代は、日本のバブル崩壊や欧米の経済低迷などで、日・米・欧州共に金融緩和(政策金利が下げられる)の時代でした。そこへ、1997年頃からのアジア通貨危機や、1998年に世界最大のヘッジファンド=LTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント)が破綻したことで、新興国やヘッジファンドへの投資マネーが一気に引き上げられます。金融緩和でだぶついていた資金が、大きな投資先を二つ失った訳です。
- 一方、1990年代はIT関連企業の注目度が高まってきた時代でした。アメリカでは、自動車(GM)や家電(GE)などの企業が死に絶え、産業構造の転換が急務だった時代で、IT~コンピュータやインターネットの関連企業がその有力候補となっていました。
- それを決定付けたのが、マイクロソフトがWindows95を大ヒットさせ、世界的にパーソナルコンピュータが普及し始めた事です。そして、マイクロソフトの創始者=ビル・ゲイツは、自社株の高騰によって、世界一の大富豪となったことが、ITバブル加速のもう一つの原因でした。多くの企業が第二のマイクロソフトを目指してIT事業に参入し、多くの投資家がビルゲイツの成功に肖ろうと、IT企業に株式投資を始めます。
- 当時の株価バブルはすさまじく、マイクロソフトの株式時価総額は、1999年のピーク時に6000億ドル(約60兆円)を超えました。
- しかし、巨額の利益を上げていたマイクロソフトはまだマシで、赤字続きだったアマゾンの時価総額が300億ドルを超えたり、AOL社のPERが700倍(時価総額1600億ドル)を超えたり、誰もが何の企業かすら分からなかったシスコ社の時価総額が5000億ドルを超えて世界一になったり、等と明らかに株価がバブルの企業が大半でした。
- ITバブルの潮流は日本にも影響し、NTTドコモが時価総額日本一(42兆円)になりました。携帯電話事業はおろかヤフーBBを始める前のソフトバンクですら、時価総額21兆円でトヨタ自動車(16兆円)を越え、たった60億円の黒字見通しに過ぎなかった光通信の時価総額が6兆円以上になるなど、IT関連株の驚異的な高騰が起きました。そして孫正義氏は、ソフトバンクの株価高騰で日本の長者番付トップになります。
しかし、IT関連企業の株価の高騰は、余りに行きすぎたものであり、バブルだったのです。ITバブル崩壊の理由は、単に人々が熱狂から冷めたからです。
- PERが100倍以上だとか、赤字なのに株価が高騰しているというのは、明らかに異常な状態です。冷静に考えれば、そのような企業に投資することは極めてハイリスクであり、株価が高いうちに売り抜けようと思うのが、人間心理というものです。バブルというのは、トランプのババ抜きをしているのと同じで、先に抜けた人が得をして、最後まで掴んでいた人が損をします。一種のチキンレースです。
- ゆえに、一端「売り」が優勢の相場になると、全ての投資家が我先にと、売り抜けの行動に走ります。米ナスダック総合指数は、2000年3月に高値5132ポイントを付けましたが、2001年9月には1300ポイント台にまで下落、1年半で70%以上暴落しました。
バブルの形成がゆっくりなのに対して、崩壊が短時間に一気に起きる理由は、投資家の心理を考えれば当然の成り行きだからです。
Flashの歴史(1998年〜1999年)
1998年 Flash 3のベータ版公開と同時にShockwave Flash (SWF) 仕様のオープン・スタンダード化を発表。
- 同年発売されたMacromedia Flash 3からインタラクティブ関連の機能が強化され、次第に「アニメーションソフト」の枠にとどまらない発展をするようになる。
1999年 Macromedia Flash 4発売。変数、文字列処理、条件分岐ができるようになる。
- ウェブサイトの一般ユーザーに広くFlashが認知されるようになったのはこの時期以降となる。数々の企業サイトで採用されるに至っていたが、特にフォークデュオのゆずの公式サイトは、そのほとんどをFlashで構築した上「ゆず一家の家の中」を探索するアドベンチャーゲーム風の演出をそれに取り入れていた。
- デジタルアニメよりも制作コストや人材費、時間コストなどが更に抑え込めた事から個人制作のFlash作品が増え始める。個人制作Flashの「投稿型コミュニティ」や、自動リンクを用いて主催者が気に入った作品を登録する形式で紹介するウェブサイトが派生し始めた。
そして1999年5月、2ちゃんねる開設、その利用者増加にしたがって、同掲示板内での内輪受けを狙ったFlash作品からも大きな流行が起こる様になっていく。
1998年 4月にイギリスとアイルランド共和国の間でベルファスト合意(Belfast Agreement)が締結され、その後アイルランドは国民投票により北アイルランド6州の領有権主張を公式に放棄。この流れに抗議する形で8月15日、IRA暫定派の分派「真のIRA」が北アイルランド・ティロン州の州都オマーのショッピング街で自動車自爆テロを敢行し一般市民29人を殺害し約220人を負傷させる(「オマー爆弾テロ事件(Omagh bombing)」)。過去30年間の北アイルランド紛争における最大級の大惨事のひとつ(単一の爆弾で引き起こされた事件としては犠牲者数最大)となってIRA穏便派はおろかアイルランド全国民を心情的に敵に回してしまい3週間後の9月8日、自ら休戦宣言(2000年再開)。
*日本のその筋の人達が「山岳ベース事件(1972年〜1973年)」や「あさま山荘事件(1973年)」によって国民感情を敵に回した事を決っして認めない様に、アイルランドのその筋の人達も「オマー爆弾テロ事件(1998年)」によって国民感情を敵に回した事を決っして認めない。その瞬間より彼らは「人民そのものが復讐すべき人民の敵」と認識する自己撞着状態に陥っていく。中島みゆきが「423」で触れた正義の多義性問題。その延長線上にシモーユ・ヴェイユの次の言葉が現れる。「悪に対立するものとしての善は、ある意味では、対立するすべてのものがそうであるように、悪と同質である」。
258夜『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ|松岡正剛の千夜千冊
考えてみればこの観点自体は「海外に脱出した新左翼運動家が日本人を代表して世界中で活躍する(テロで巨悪と戦う)」船戸与一のハードボイルド小説(1984年〜1991年)でも繰り返し描かれてきたし「状況によっては自らも悪と認定される可能性」もそこでしっかり描かれてきた筈だった。人は案外、そうやって時代から取り残されていくのかもしれない。温度を相対的にしか感じられない蛙がゆっくりと茹で上げられていく様に。
当時における「それまで正しとされてきたものへの不信感の広がり」は、後世の人間には容易な事では想像もつかない。例えば当時の日本のエンターテイメント業界は「自分の五感を通じて経験できるものしか信じられない」トレンドにはまり込んでいく。
*アイルランドの場合、背景にあったのはケルトの虎(Celtic Tiger)と呼ばれた1995年に始まり2007年にバブルが崩壊するアイルランドの急速な経済成長。愛国者から「国辱」と罵られながらそれを支え続け、かつバブル崩壊状態からの経済再建に貢献したのはマイクロソフト、インテル、デル、アップル、グーグル、フェイスブックといった外国の大手IT企業だった。EU諸国とは独占問題で衝突している米国企業も多く、大陸にはそうした企業の下請けと成り下がっているアイルランドを露骨に「裏切り者」扱いする論調すら存在する。
*とはいえ繁栄の裏側でアイルランド語とアイルランド文化の忘却が進んだのもまた事実で、バブル崩壊後にはその復興を志向するトム・ムーア監督の様な人物も現れてきたという次第。その一方で「こんな偽りの繁栄が許されるものか!!」と叫ぶ人達が絶えないのも、実は故なき事じゃなかったりするのである。
- 英国のPDA(Handheld Computer、持ち運べる程度の小型サイズの携帯情報端末)メーカーのPsionがOS開発部門をSymbian Software Limitedとして分社化。Ericsson、Motorola、Nokia、松下通信工業等共同出資のジョイントベンチャー企業となる。
- 9月、Google設立。同月英国放送協会(BBC)が世界初の地上デジタルテレビ放送を開始。
*以降は次第に「SEO(Search Engine Optimization:検索エンジン最適化)」の概念が広まる。「全てがデジタル化していく時代ならではの現実を測る新しい価値観」の登場。というより「検索エンジンこそがインターネットのFirst Screenとなった」という表現すら見受けられる。実際、検索こそがネットサーフィンという側面もなきにしもあらず。
- 3月から11月にかけて雑誌連載企画・アニメ作品・ゲーム作品を統合したメディアミックス作品「serial experiments lain」が展開。コミュニケーション用コンピュータネットワーク端末「NAVI(ナビ)」が普及した世界で「存在は認識=意識の接続によって定義され、人はみな繋がれている。記憶とはただの記録にすぎない」なる世界観の下でリアルワールドとコンピュータネットワーク・ワイヤード(Wired = 繋がれたもの)に遍在する「lain」なる存在を中心軸に「仮想空間だけでなく現実世界にも絶対的客観性など存在しない現実」を突き付けた。
*放送当時はアニメーション制作にデジタル環境が導入されはじめた(放送に堪えられるクオリティの内容をパソコン上で作れるようになった)時期であり、3Dモデリングによる無機的な表現が目立つ一方で、脚本の小中千昭が撮影・Macintoshで編集した手触りのある画面が使われたり、時には実写がそのまま利用されたりと、あらゆる情報媒体が混在している。最先端の機械好きが集まって自分でやれることを全てやった。アップルネタ、NeXTSTEPネタ、BeOSネタに加え後半には(放送開始直前に発表された)初代iMacまで登場するが、それも本作の製作者にコンピュータマニアが多かったから。この作品の独特なカラーと雰囲気はそうしたハッカー的な色彩の強い環境から生まれている。
*今でも国際的にカルト人気を誇り続けているこの作品だが「コミュニケーション用コンピュータネットワーク端末NAVIが普及した世界」なる設定の割に不思議なまでに「スマートフォンの出現を予告した作品」とはいわれない。確かにこの作品は「ファン音が静寂を破りCPUの動作熱が室温を押し上げるデスクトップ・コンピューター」や「ゲームへの没入によって異界への入口感を感じさせてくれたゲーム専用機」などの存在感を生々しく描く一方で「誰もが電車内でスマホやノートPCを弄ってるあの景色」は決して描かないのである。そういう意味では「20世紀ハッカー文化の総決算」として振り返られ続けている側面も存在する。
*それにしてもこの時期の日本の(特に少年少女達の)閉塞感は酷かった。 - また日本ではこの年に取引所集中義務が廃止され取引所外取引システム(PTS)が登場。証券市場の市場間競争が始まった。欧米でもATSやMTFと呼ばれる取引所外取引システムが拡大し既存の証券取引所にならぶ主要な取引の場に成長。2000年中旬よりコンピューター・アルゴリズムを利用した人手を介さない発注や、超高速の取引を繰り返す高頻度取引(HFT)が大きく拡大する展開に。
HFT、PTS、ダークプールの諸外国における動向
*その前史として1983年に発売され1987年には普及台数が1200万台近くに達っしたファミリーコンピュータ(ファミコン)を端末に利用した商業システムが挙げられる事も。1988年より試験運用を開始し、バブル景気を当て込んだ「株式市場データ在宅確認システム(野村證券と提携)」は1991年のバブル崩壊によってそれまでとなったが「在宅競馬投票システム(JRAと提携)」は2000年代に入ってなお現役で稼働を続けていた。
1999年 3月に能登半島沖不審船事件が起こった年。この時、海上自衛隊が法に縛られて好き放題振る舞う不審船の逃亡を阻止し得なかった事への反省が大幅な法改正につながり、九州南西海域工作船事件(2001年)において不審船を自爆沈没に追い込む展開へとつながっていく。また4月にコロンバイン高校銃乱射事件が起こった年。アメリカ合衆国コロラド州の高校で、生徒二人が銃を乱射した後に自殺した事件である。さらに近郊20キロ〜30キロ圏内でオーロラ銃乱射事件(2012年、映画館内の銃乱射事件)、アラパホー高校銃乱射事件(2013年)が勃発している。
*前者は「国防意識とは何か」とか、そういう次元の話。
*後者はまさしくタルド犯罪学における「模倣論」をそのままなぞる展開。
1318夜『模倣の法則』ガブリエル・タルド|松岡正剛の千夜千冊
*正直、これらの事件そのものに特別な時代性がある訳ではない。「2点間の最短距離は直線」というフラットな状態が回復された事の確認に役立つだけである。ごく簡単に言うと「サリン事件(1994年〜1995年)を起こしたオウム真理教も相応の主義者だったのであり、主義者故に敬われなければならない」という発想の排除が完了し、巻き添えで「日本赤軍の応援者」も消滅した。わずか数年前まで「日本人だけ助かればそれで良い日本人の再発見」に世界が崩れる様な衝撃が伴い、アイルランド民族主義への敬意から「高度成長が始まったアイルランドは、その阻害要因とならない様に英国と停戦協定を締結した」という表現が逆立ちしても許されない独特の空気が確実に存在したのに、これが完全に霧消した。だからこの年表でも以降の時代にはもう政治の話は出てこない。ただしエンターテイメント業界がこの変化を認識し、それに追いつくまでには相応の歳月を費やす事になる。
*そもそもアメリカのゾンビ映画も割と「Comic Code全盛期にはゾンビを登場させる事自体時が禁じられていた事」「既存価値観の崩壊が引き起こす(死が剥き出しとなって現れ、生物としての強さのみを問われる)サヴァイヴァル状況にいきなり投げ込まれる感じ」が楽しめないと何が面白がられているかよく分からないまま終わる事が多い。
コミックス倫理規定委員会 - Wikipedia
*そしてアメリカでも、この感情への原点回帰がトレンドとなり、ゼロ年代には「実録系サヴァイヴァル物」が流行する事になる。
- 2月、NTTドコモ、iモードサービスを開始
- 同月、米国で「マトリックス(Matrix)」公開(日本では9月)。作中でスライド式の携帯電話NOKIA8110、通称「バナナフォン」が極めて重要な役割を果たす。
*「マトリックス」という作品自体「仮想空間だけでなく現実世界にも絶対的客観性など存在しない現実に直面せざるを得ない不安の蔓延」を背景に大ヒットした作品と言える。
*同年、日本でiモード対応のNM502iを発売。デザインも大きさも8110と異なるが同じスライド式。
*1980年代のノキアはMikromikkoのブランド名でパーソナルコンピュータを生産していたが、のちにこの部門はInternational Computers, Ltd. (ICL) に売却され、さらに売却先は富士通シーメンスと合併し、携帯電話部門に進出。しかし携帯電話部門の競争は激しくて経営は振るわず、1988年にはCEOのカリ・カイラモが自殺を遂げている。1990年代に入ると深刻な経営危機に陥り、それまでの多角経営を見直して大規模な業種の再編成を行った。携帯電話、携帯電話インフラ、他の電気通信分野に業務を絞り、テレビ受像機製造やパーソナルコンピュータ部門から撤退したのである。
- 11月、「ポケットモンスター(POCKET MONSTERS)」シリーズ第二世代(金・銀)発売…ポケモン図鑑が電子手帳イメージとなり、ポケギアが登場。連絡先登録機能付電話・時計・地図・ラジオの機能が一体化した総合端末。連絡先登録に限りがあって、それを最良の状態に保つ為の登録・削除作業に追われるが、実は海外においてはまさにこの要素こそが「自分が最初に出会い、かつ現在なお最高であり続けている理想のSNS」なる高評価につながっていたりする。
*実際、TumblrやPinterestやSoundcloudの様な匿名SNS上の関心空間における各アカウントの行動は、社実際の社会生活に密着した実名SNSでなく「目的達成の為にどんどん現在は有用でなくなったフォロワーを削除していく」ポケギアの連絡網管理に起源を有するという意見も存在する(というか、自らそう自称しているアカウントが少なくない)。ちなみにそのポケギアも、ポケモン第四世代(ダイアモンド&パール、2006年)以降は登録数が無制限になった代わりに削除も出来なくなった。
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同年、カナダではリサーチ・イン・モーション (RIM) が「BlackBerry(ブラックベリー)」を発売。当初は「電子メールも使えるキーボード付きポケットベルと」でもいうべき存在だったが、次第にPIM機能のグループウェアとのセキュアなリモート連携・プッシュ型電子メール・音声通話機能や、インターネット上のウェブサイトの閲覧、さらに機種によってはマイクロソフトのOfficeアプリケーションファイルやPDFの閲覧・編集機能も備えたスマートフォンに変貌を遂げていく。
携帯電話は1999年2月にドコモのiモードサービス、4月に現auのEZwebの全国サービスが開始。携帯電話事業者のwebサービス開始に伴う電子メールサービスやショートメッセージサービス機能が内蔵された携帯電話が普及し多機能化していくと一般ユーザーにとってのポケベルの存在意義が薄くなり、1999年12月末には加入者数が241万件まで激減した。
- 2000年にauがガク割サービスを開始。他携帯電話事業者もこの頃には激安プランを提供している場合もあり、高校生への携帯電話の普及が進み始めポケベルの契約数を支えた学生にとってもポケベルの魅力は全く無くなってしまった。
- 1999年5月、新規参入事業者で最大手であった東京テレメッセージ(初代)がシステムの高度化の設備投資の資金を回収できず会社更生法の適用を申請して倒産。また、その他の各地に設立された新規参入事業者はNTTドコモに加入者を移管し、2001年までに首都圏1都3県および沖縄本島を除き事業を停止。
- この頃から、自動販売機やタクシー・バス車内に端末を設置し、配信されたニュース速報や緊急防災情報、広告等を電光表示板で表示するという使われ方も行われるようになった。そのため、NTTドコモでは、それまでのサービス名「ポケットベル」を、2001年1月に「クイックキャスト」(英単語クイック (Quick) とマルチキャストから作った造語)に変更。
- しかし日本全国単位としては唯一ポケットベル事業を手がけるNTTドコモも、2004年6月30日に新規契約の受付を終了、2006年10月に解約金を無料にし、そして2007年3月31日でサービスを終了した。 500箇所までの同報用途の代替サービスとして、iモードメールを利用した「グループキャスト」を提案している。
首都圏で唯一サービスを行っていたYOZANは、2008年10月1日に会社分割を行い、ポケットベル事業を行う新会社「東京テレメッセージ」を設立した。その後、東京テレメッセージは2011年に無線呼出事業の将来性に目をつけたMTSキャピタルの100%出資子会社となり280MHz同報無線システム事業に本格的に取り組むことになり現在に至る。
Flashの歴史(2000年〜2002年)
2000年 Macromedia Flash 5発売。
- ActionScriptが搭載され、プログラミングの機能が大幅に強化されたため、プログラマたちもMacromedia Flashを使うようになる。
- それ以前からいわゆるMADムービーの制作ツールとして多用される様になり「サザエさん」や「ドラえもん」のコミックソング等を素材に使用した作品が数多く公開された。一方で個人制作ながら表現において高レベルの水準に到達した「つきのはしずく(森野あるじ、2001年〜)」や、脚本に注力されFlashに興味の無い一般層も抵抗無く作品世界へ引き入れた感動系の始祖「キミとボク(やまがらしげと、2001年〜)」など、黎明期を代表する作品が発表されていく。
- 猫(アメリカン・ショートヘア)と青年の出会いから別れまでを描いた「キミとボク」は、作者やまがらしげとの実体験を基に構成されており、2011年には実写映画化されるに至った。商業作品としての実写映画化はFlashアニメーション世界初となる。キャッチコピーは「たった二人の 静かな静かな物語」。
2002年、Macromedia Flash MX(Flash Player 6)発売。MXは「miracle experience」の略称。
- 同年初頭、2ちゃんねるにFLASH・動画板が設立され投稿の中核となった。作品におけるアスキーアート多用が特徴。比較的キャラが決まっているので、一から設定する必要がない、画力の差がそれほどでない、などの利点があったからである。掲示板内の有志で様々なテーマに沿った「発表会」も主催されるなど、制作者同士の情報交換が頻繁に行なわれた。他にも作品に「泣ける系」「PV系」などの独特なジャンル分けを行ったり、Flash制作者を「Flash職人」と呼称するなど、独自文化を形成。
この頃から、サーバーの運営費を稼ぐため、2ちゃんねるは事業化の道を進む。2002年5月には有料登録システム2ちゃんねるビューアが導入され、他にも検索サービス(2ちゃんねる検索)、プロバイダー事業なども手がけるようになった。
2000年、Symbian Software LimitedはEPOC OSをSymbian OSに名称変更。スマートフォン向けOSとして転身を図る。同年、NOKIAはSymbian release6を搭載した9210 Communicatorを発売。
*携帯電話としても使えるPDAという位置付け。
- 10月、アップル・コンピューターが最初のiPodを発売。その時点ではマッキントッシュ専用のデジタルオーディオプレーヤーに過ぎず、Windows対応は2002年発売の第2世代以降。iTunesとの同期機能を備えることにより、自宅での環境をそのまま外へ持ち出すというコンセプトをより鮮明とし、ミニディスク市場からの占有率獲得を目指した。
*2000年に正式にアップル・コンピューターCEOに就任したスティーブ・ジョブズは、同時進行で2001年から2003年にかけてはMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える作業を淡々と遂行。
- 10月、日本でJ-PHONE(現ソフトバンクモバイル)とシャープが共同開発した「写メール」携帯発表。翌月よりJ-PHONEより発売開始。日本でカメラ付き携帯電話が爆発的に普及する契機に。
*携帯電話とデジタルカメラの機能を単に一つにまとめただけでなく、撮った画像をメールに添付して送ったり、インターネット上の画像投稿掲示板に直接アップロードできるなどの一体化ならではの機能を持つのが特徴。「写メール」なる造語によって写して送るというコンセプトが明瞭になり「写メ」なる略語が自然発生的に生まれた。
- 11月、NTTドコモが次世代移動体通信サービスの名称を「FOMA」に決定。当初はトラブル続きだったが、2002年3月から着々とサービスエリアの拡大を続け、2004年2月にmovaよりソフト面で高性能となった900iシリーズが登場。2005年より従来のiモードmovaからFOMAへの移行が軌道に乗った。
2002年 QWERTYキーボードタイプのPDA市場が急激に縮小。Symbian OS搭載PDAはキーボードレスタイプのPalmやPocketPC(Windows Mobile前身)等のPDAに販売シェアを大きく奪われ、販売不振を理由に一般消費者向け販売からの撤退を発表。
- この年以降、BlackBerryが音声通話に対応。
*「Sidekick (HipTop)」は2002年1月の見本市・International CESでは「音声通信ができるBlackBerry」という捉えられ方で歓迎されたが、US200ドルを下回る低価格製品であり、カメラ機能はDDIポケットが自社PHS用に発売していた「トレバ」というオプションハードとそっくりの外付けオプションだった。
- 夏、Nokiaが携帯電話としては初めてSymbian OSを搭載したNokia 7650を欧州のボーダフォン向けに発表。欧米初のカメラ付き携帯でもあった。ディスプレーが2.1インチ/176×208ピクセル/4096色、内部メモリー4MBのみ、カメラはVGAとスペック的には貧弱だったが端末のデザインは曲面を多用し、10キー部分が若干湾曲してスライドするギミックは映画マトリックスで有名になったバナナフォンことNokia 7110のテイストを取り入れ見た目的には未来を感じさせてくれる仕上がりで相応のヒット作品となる。
*Nokiaはさらに後継機として本体を小型化し、GSMも3バンド対応してワールドワイドでの利用が可能となったNokia 6600を発売。これがビジネス層をも捉えて累計販売台数が1500万台に達し、スマートフォンの代名詞と呼ばれるほどのベストヒットとなる。
- 12月、KDDI/沖縄セルラー電話連合の各auブランドが「着うた」提供開始。携帯電話の着信音をMP3やAACなどのフォーマットで符号化された30秒程度の長さの楽曲にするサービスで、2003年12月よりボーダフォン日本法人(現ソフトバンクモバイル)、2004年(平成16年)2月よりNTTドコモも同様のサービスを開始。
*従来の着信メロディのデータ量は多くて50キロバイト程度だったが、100キロバイトを超える場合がほとんどで、パケット料金定額制の登場以降、ダウンロード数を飛躍的に伸ばしていった。通常の着メロでは楽曲使用料が作曲家にしか払われないが、着うたならレコード会社に使用料が支払われるため、レコード会社が着うたに対して積極的に取り組んだのも展開の加速に役立ったと考えられている。
2003年 11月には九州通信ネットワークがアステル九州のサービスを終了。PHS事業者初の撤退だった。データ通信への特化などで携帯電話との差別化を図るも音声通話ユーザの解約を主としたPHS全体契約数の減少は続き、2004年中に総数500万台を割る展開となる。
- 4月、PHS事業者であるDDIポケット(現・ソフトバンクモバイル/ウィルコム沖縄連合 Y!mobileブランド)がAirH" PHONE(現・AIR-EDGE PHONE)向けにパケット定額サービスを開始。それに続く形で同年11月には携帯電話ブランドであるau(KDDI/沖縄セルラー電話連合)がCDMA 1X WINのサービス開始と同時にEZフラット(のちのダブル定額)としてパケット定額制サービスを開始した。
*このことが業界に大きな衝撃を与え、2004年末までにはNTTドコモやボーダフォン(現・ソフトバンクモバイル)もパケット定額制サービスを開始したことで、当時の主要な移動体通信事業者の全てが参入するという結果をもたらす事に。
- 12月、日本の地上デジタルテレビ放送が大都市圏(3大都市圏)で開始される。
Flashの歴史(2004年〜2006年)
2004年春 Macromedia Flash MX 2004(Flash Player 7)がリリースされる。
- ActionScript 2が搭載され、動画配信もサポート。Mac OS 9、Windows NT、Windows 95に対応する最終バージョンとなった。
2005年4月 アドビシステムズがマクロメディアを買収。プレイヤーはAdobe Flash Playerに改名されたが、作成ソフトは新バージョンの発売までMacromedia Flashの名称のまま販売が継続された。
- 同年春の日本では「恋のマイアヒ」など商用音楽を無断転載して公開していたFlashを逆に企業が注目し、プロモーションとして大々的に抜擢する異例の「大出世」があった。
- 同年秋にリリースされたMacromedia Flash 8 Professionalではアニメ、グラフィック関連を中心に大幅なバージョンアップが行われ、また新規層向けの機能制限版Macromedia Flash 8 BASICも同時リリースされた。
Caramelldansen(キャラメルダンセン) は、スウェーデンの音楽アーティスト「Caramell」による2001年発表の楽曲。ニコニコ動画では「ウッーウッーウマウマ(゚∀゚)」と呼ばれており、エグジットチューンズからアルバムが発売された。MAD動画に使用されているのは、原曲をおよそ1.2倍速にした「Speedycake Remix」(非公式)と呼ばれる。
- 2005年くらいに、PCゲーム「ぽぽたん(2002年〜2004年、アニメ版2003年)」のOP動画を使ったFlashによる動画が海外サイトに登場。後にYouTubeに転載され海外で人気に。
*『キャラメルダンセン』 (Caramelldansen) のMADムービーにて使用された、いわゆる「ぽぽたんダンス」はゲーム版のOP動画から使われたもので本来は1、2秒程度のごく短いものである。これは『ぽぽたんPo!』及び『おしえて! ぽぽたん』に収録されている。なお、アニメ版『ぽぽたん』とゲームでもPC初回版の『ぽぽたん』にはそれぞれに全く違ったOPが付けられている。
- 2008年2月にアイドルマスター「ウッーウッーウマウマ(゚∀゚)」がニコニコ動画で人気になり、MADが増え始める。
*THE IDOLM@STERは2005年7月26日に稼動を開始したアーケード用シミュレーションゲーム(公式ジャンルは「アイドルプロデュース体験ゲーム」)。ユーザ間ではXbox 360版との区別のため『アケマス』の呼称も使用される。2001年ごろ、新アーケード用筐体「リライタブルステージ」の第2弾として開発がスタート。ゲームセンターに足を運んでもらうには「呼び込みをするのなら女の子がいいのでは」と考えたのがきっかけで「女の子に会うならアイドル」「アイドルで対戦するならオーディション」と連想でゲームのイメージが固まっていった。窪岡俊之が担当したキャラクターデザインは、同時期の美少女を前面に押し出した作品に登場するデザインの流行とは違う方向性となっており、多くのゲームプレイヤーにも好感を持ってもらおうと、比較的大衆向けの絵になっている。その為にキャラクターの性格や魅力もあって女性プレーヤーも少なくない。なお窪岡は2002年にナムコが発売したクイズゲーム『青春クイズカラフルハイスクール』でもキャラクターデザインをしていた経歴がある。また、本作では、2Dグラフィック(あるいはセルアニメ)に近い表現を実現するため、また窪岡のキャラクターデザインに近い出来上がりを求めるためにトゥーンシェーディング技法が採用された。2002年秋のアミューズメントマシンショウにプロトタイプ段階のものを「(仮称)アイドルゲーム。」として参考出展したが、そこから具体的な形となるまでには3年の歳月を要している。社内では「売れない」と否定的な声があったが、店頭のテストプレーで長蛇の列ができるほどであったことから開発は続行され、2005年7月にリリースされた。2010年5月28日に、本作のネットワークサービスの運営終了が発表され、2010年9月1日1時59分(8月31日25時59分)をもって終了することが発表される。ネットワークサービス終了後は携帯電話サイト内にあるアーケード連動コーナーが閉鎖されるため、連動機能が使用できなくなるほか、全筐体がオフラインとなった(引き続きプレイは可能だが、一部の機能が使用できなくなる)。そして部品調達難に伴い、2016年9月に筐体の修理サポートが終了することが発表される。
- ちなみに「ウッーウッーウマウマ(゚∀゚)」の部分の本来の歌詞は「u-u-ua-ua」であり、mの音が入らない為、普通に聞くと「ウアウア」或いは「ウワウワ」と聞こえるのだが、誰が何と言おうとニコニコではウマウマである。
- またサビの歌詞の出だしが「バルサミコ酢 やっぱ要らへんで」に聞こえることも、この動画が流行った要因となっており、MAD動画のニコニコ市場には「バルサミコ酢」が張られることが恒例となっていたが、以下のエグジットチューンズから発売のアルバムが張られてクエイクホールディングスはきっと、ウッーウッーウハウハ(゚∀゚)であろう。
- この歌詞は「両手をあげて、お尻を振って踊ろう」という意味なので動画の踊りはあながち間違っていない。
2006年 商用音楽を無断使用していたFlash『WALKING TOUR』が絵本化され、その際に同梱されたCDに収録のFlashに、当初は無断使用されていたプラネテスの「PLANETES」と同じ黒石ひとみによって新規に書き下ろされた曲が使われた。
- また同年春には『菅井君と家族石』で注目されていたFROGMAN(蛙男商会)によって全編Flashで制作されたテレビアニメーションシリーズ『THE FROGMAN SHOW(TV放映2006年4月〜6月、劇場版2007年3月)』が制作され、テレビ朝日・朝日放送にて放映。映画化やゲーム化なども行なわれている。
全編Flashで制作された「The Frogman Show」
Flashのバージョンアップに従ってFlashに搭載されているスクリプト言語であるActionScriptが高度化され、ウェブブラウザ上なら軽快に動作し、比較的容易な開発環境にあるFlashを使用した数多くの大規模なネット・ゲームやコミュニケーション・サイト、動画配信や地図ナビゲーション、Flash Liteを使用した携帯アプリなど、スクリプトベースで「作品」が制作される機会が増えた結果であった。
2004年 他社と比較して(約14Mbpsの通信速度を達成する)3G端末の市場投入が遅れていたノキアの挽回が始まる。
- 夏、Nokia 6630が発売される。日本からも当時のボーダフォンから702NKとして発売された。ディスプレーサイズと解像度は7650から変わっておらず、当時の日本のケータイと比べても見劣りするものだったが、逆にその高性能ゆえに海外輸出の道がない日本の携帯について「ガラパゴス」と揶揄する声が上がったりもしたものでる。
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11月、KDDIならびに沖縄セルラー電話の各auブランドが着うたフルのサービス開始。携帯電話で従来の着うたをフルコーラス(1曲全体)でダウンロードできるサービスで、のちにソフトバンクモバイルでも2005年(平成17年)8月よりサービスが開始され、NTTドコモでは2006年(平成18年)6月よりサービスが開始された。
*価格は着うたおよび着うたミニが1曲主価格帯80円~100円程度(消費税別)だったのに対し、着うたフルは1曲主価格帯200円~400円程度(消費税別)となっている。データ量は前者では1曲あたりおよそ200キロバイト程度だったが、後者はおよそ5メガバイトまで配信する事が出来る様になった。*平成17年(2005年)〜平成21年(2010年)の有料音楽配信売上推移
2005年 ライブドアがニッポン放送の株を35%取得して買収騒動が勃発。ホリエモンは衆院選に立候補するも落選。また「電車男」の映画とドラマが放映される。ドラマの平均視聴率は21.9%と高い数値と誇った。電車男の影響でオタクがブームと化し秋葉原は観光地へ。
- 2月15日 Youtubeがサービスが開始。最初の動画が投稿されたのが2ヶ月後の4月23日。翌年Googleが買収。
- 9月 アップルとモトローラが“iTunesケータイ”として「ROKR(ロッカー)」という携帯電話を投入。通信方式がGSMのみで日本では利用できなかった機種だが、当時、海外では鳴かず飛ばずと伝えられた。
- ちなみに2005年時点でmixiは有効ユーザーID数が100万人を突破。当時は招待制のSNSでmixi招待はプレミアものだった。一方Facebookは学生限定SNSとして運用されており、アメリカでも学生以外は登録出来なかった。ユーザー数は10万人前後。
2006年 IT産業の礎の建設に携わり、そしてこの20年余りの期間の大半を通じてライバルとして敵対してきた2人の大物であるMicrosoftのゲイツ氏とSunのマクニーリー氏がそれぞれの会社の経営リーダーの立場から退いた。業績不振で苦しむOEM各社をしり目に、この数年間とどまるところを知らない勢いに見えたDellも困難に直面し、3年間にわたって維持してきたPC市場でのトップシェアの座をHewlett-Packardに明け渡した。そしてMicrosoftは、かつての宿敵だったLinuxベンダーのNovellと提携した。
- 昨年12月7日にユーザー数、200万人を突破したmixiが約660万人と1年で3倍以上のユーザーを獲得。Yahoo!の2006年検索ワードランキング(掲載期間は来年1月9日まで)では長年1位をキープしていた2ちゃんねるを抜き去り、1位を獲得、新語・流行語大賞でもトップテン入りを果たした。ネットをあまり利用しない人でさえ「SNSという言葉は知らなくてもmixiならば知っている」という程にSNSの代名詞的存在に。ただし携帯電話をメインとしたSNSではGreeやDNAが伸びる。
Flashの歴史(2007年〜2008年)
2007年4月 アドビのクリエイティブ製品群であるAdobe Flash CS3 Professional発表。この機会に合わせて作成ソフト(9.0)の名称もAdobe Flashに改名された。第8版まではMacromedia FlashとFlash Playerがほぼ同時にリリースされていたが、このバージョンより同期が維持できなくなる。
- Windows 98に対応する最後のバージョン。
- Windows、Mac OS用のFlash Player 9のリリースは2006年6月(開発環境は現在、Adobe Flash CS3 ProfessionalかFlex 2およびFlex 3)。
- Linux環境について見ると、Flash Player 8はそのリリースが見送られ、2006年6月28日にリリースされたFlash Player 9がWindows、Mac OS用よりも数ヵ月遅れた2007年1月にリリースされている。Linux用のリリースが遅れた理由は、多くのLinuxディストリビューションに対応させる必要から、開発に相当時間がかかったためであるとされる。
- 同年12月3日にリリースされたFlash Player 9 update 3 (9,0,115,0) からMPEG-4 (H.264, AAC, HE-AAC) に対応。以後バージョン10.3まで同形式再生時はSSE対応CPU必須となった。
2008年10月15日 Adobe Flash Player 10.0リリース。このバージョンからダウンロードのページにあるチェックボックスを手動で外さない限り、McAfee Security Scanなどが自動的にインストールされるようになった。旧版のアンインストールについては、Adobeから「Flash Player Uninstaller」がリリースされており、それを利用するとすべてのブラウザのFlash Playerが削除される。
- Flash Playerは本格的なプログラミング言語であるActionScriptの処理系を含んでいる為にFlashデザイナーやFlexプログラマーは任意の機能を実現出来る代わり、信頼性の保証がないサーバから読み込まれたプログラムも動作するせいでセキュリティ上の懸念が存在してきた。
- 一応はサンドボックスモデルに基づいたセキュリティ機構が実装されている。ローカルストレージや周辺機器へのアクセス、ダウンロード元と異なるドメインのサーバとの通信は制限されており、例えば自由に読み書きできるローカルストレージはWebブラウザのCookieに相当するSharedObjectに限られ、ファイルの読み書きにはユーザの選択による許可を必要とする。この為に通常ならFlashによってシステムが破壊されたり、ローカルファイルに保存した情報が盗まれることはないが、Flash PlayerやPDFに埋め込まれたFlashを再生できるAdobe Readerにはシステムのクラッシュや悪意のあるプログラムの実行を許す脆弱性が過去にいくつか発見されている。
多くのユーザはWebブラウザに組み込まれたFlash Playerを有効にした状態でWebを利用しているので、それらの脆弱性を突くJSRedir-RやTROJ PIDIEF.INのようなウイルスは修正アップデートが公開されるまでの間に急速に感染を拡大した。
2007年 この年までにNokia Symbian OSのシェアは40%まで到達。
- 1月、アップルコンピューターが米国で「iPhone(アイフォーン)」を発売。
*Mac OS X から派生したiPhone OS(現iOS)を搭載し、マルチタスク非対応(OS4.x以降は制限付きで対応)、アプリケーションのインストールは公式サイトのApp Store経由のみなどの制限が課され、従来のスマートフォンとは一線を画した、日本の高機能携帯電話に近い仕様が特徴であった。
Appleはホーム画面を埋めるだけの数のアプリを持っていなかった。アプリストアもローンチ時にはなかった。
思い出すのが難しいが、iPhoneが2007年にローンチした時、それは世界が初めてみる最高のスマートフォンというだけのものだった。コピーペーストすることもできず、「それ用のアプリがあるよ」の広告キャンペーンの展開や開発者が何十億ドルの収益を生むようになるのはそれからまだ数年先のことだ。
ソフトウェアのエンジニアはAppleにアプリの開発をすると連日提案した。Appleはローンチ初日からプラットフォームになることができたということだ。しかし、Appleはその提案を断り、代わりに開発者にはウェブアプリの構築を促した。
それについて考えてみてほしい。AppleはiPodでこれ以上にない成功を収めていたし、何十億ドルも銀行に入っていて、大量の熱狂的なファンに支えられ、プレスの反応も友好的だった。Appleはローンチ初日からプラットフォームを構築することができたが、そうはしなかった。彼らは、大勢のオーディエンスに解放する前に、プロダクトの中核となるユースケースを磨き上げる必要があると気がついたのだ。現在、iOSはコンピューティングの歴史上最も重要なプラットフォームの一つになったが、これも最初は魅力的なプロダクトとして始まった。
スティーブ・ジョブズより賢いのなら問題はないが、そうでないと思うならカスタマーの課題を解決することに注力し、サービスやプロダクトがその課題解決において市場のスタンダードになってからプラットフォームになることを考えるべきかもしれない。 - 9月、アップルコンピューターがiPhoneのiOSと互換性のあるiPodの進化版iPod touchを発売。
*歴史のこの時点においてアップルコンピューターの日本における総売り上げの約5割、米国における総売り上げの8割をiPodシリーズが占めていた。
- またこの年よりネットブックやUMPC(Ultra-Mobile PC)によるPocketPC機の駆逐が始まり、通話機能を持たないPDAとして残ったのはiPod touch、iPad、Android搭載タブレットくらいとなった。
- この年の前年CD-ROMの性能向上が限界に到達する一方でAmazonがAWSを発表。そして2004年より稼働したFacebookのマルチメディア(静止画・GIF・音声・動画)対応が始まる。マルチメディア配信のサーバサイド対応の端緒。
*2010年代に支配的プラットフォーマーとなるAWS、Apple Store、Facebookが一斉に動き出した年という次第。
2008年 iPhone登場以降、一気にフルタッチディスプレーがトレンドとなる。Nokiaも初のフルタッチスマートフォン、Nokia 5800 XpressMusicを投入。しかしながらSymbian OSのフルタッチUIの出来はあまり満足できるものではなかった。
- 6月、ノキアがシンビアンを買収し、各モバイル端末ベンダーとアプリケーションプロバイダとで構成されるSymbian Foundation(シンビアン・ファウンデーション)を創設して、SymbianOSをEclipse Public Licenseのもとで一般公開する計画を発表。
*創業メンバーとして、ノキア、Sony Ericsson、モトローラ、NTTドコモ、AT&T、韓国LG Electronics、Samsung Electronics、スイスSTMicroelectronics、米Texas Instruments(TI)、英Vodafoneの10社が発表されたが、実際にはモトローラと韓国LG Electronicsは不参加で設立される。Android OS登場前の最盛期は60社以上の企業が参加していた。
- 7月、日本でも第三世代携帯電話に対応の「iPhone 3G」がソフトバンクモバイルから発売される。発売3日間で、全世界でiPhone 3G本体100万台の売り上げ、800本以上のソフトのリリース、1000万本のiPhone用ソフトのダウンロードを達成し日本のスマートフォン市場を拡大させた。
- 10月、米T-Mobile USAが初めてAndroid OS1.0を搭載したHTC Dream(T-Mobile G1)を発売。
*AndroidはGoogleのAndroidオープンソースプロジェクト(AOSP)を中心として開発されたプラットフォームで、サードパーティでは、Open Handset Alliance(オープン・ハンドセット・アライアンス) (OHA) を中心として開発が進められている。OHAにはKDDIや NTTドコモ、クアルコム、インテル、モトローラ、HTCといった携帯電話関連の企業が名をつらねている。Googleが中心となっているため、Googleのアプリケーションが中心のスマートフォンOSでGmail、Googleカレンダー、YouTube等のGoogleのサービスが利用可能である。またAndroid Studioを使ってWindowsでもMacでも簡単にアプリケーションの開発ができ、APK(アプリケーションファイル)を読み込んでAndroidスマートフォンへのアプリケーションのインストールが可能である。またGoogle Play(旧称 Android Market)といわれる、アプリケーションのポータルも立ち上がっている。
2009年 Nokiaは原点回帰で傾斜式にスライドするQWERTYキーボードを内蔵したN97を発売。
Flashの歴史(2010年〜2011年)
2010年4月 アップルがSafariがクラッシュする原因の大半はFlash Playerによるものだとし、動作が重くセキュリティ問題を抱えるFlashは携帯機器には不向きであるとして、iOS上では動作しないようにすると発表。またFlashの代替として、プラグインを必要としないHTML5を強く推奨。
- ただしこの時点でHTML5はまだ仕様が確定していない発展途上の段階であり(正式の仕様が勧告されたのは2014年)、実装状況はブラウザによって異なっていた。そのため、Flashを完全に置き換える要素にはなっていなかった。
- GoogleもHTML5を強く推進し、また独自の動画規格WebMを開発。AndroidをFlashに対応させたり、Google Chromeのデスクトップ版にFlash Playerを内蔵させてきたが2016年第4四半期中に無効化を正式発表。
2010年 年始の段階ではSymbian OSはスマートフォンのオペレーティングシステム(OS)のシェア1位だった。
- 4月、NTTドコモがSO-01Bを発売
*以降はNTTドコモがSH-10B、ソフトバンクモバイルがSoftBank X06HT、auがIS01などを順次リリース。これを契機として次第にアンドロイド携帯の普及が始まる。 - またこの年、2006年9月26日以降(日本語版は2008年以降)一般にも開放されて急速にユーザー数を増やし実名SNSのFacebookのサイトのアクセス数がGoogleを抜き話題になる。2011年9月には世界中に8億人のユーザーを持つ世界最大のSNSとなり、2012年10月に10億人を突破。
2011年 Symbian OS搭載端末の売り上げは8150万台。これはiOS搭載端末の9310万台と肩を並べる実績だった。
しかし既にこの年にはもう、リッチコンテンツ(静止画、GIF、音声データ、動画)使用量増大は始まっていたのだった。
- 10月、iPhone 4sからKDDI / 沖縄セルラー電話連合(各auブランド)の発売が開始される。
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7月、岩手、宮城、福島の3県を除く44都道府県の全局が地上アナログテレビ放送の通常番組を終了。同日24時(25日0時)までにはアナログ放送の停波が完了。
*岩手、宮城、福島の3県については東日本大震災の影響を鑑み地デジ完全移行を最大1年延期する特例法が施行され、これに伴い、被災3県に於ける放送局の停波は2012年3月31日に延期された。
2012年 IDCの調査によると2012年のスマートフォンOSシェアはAndroidが68.8%、iOSが18.8%で両者合わせると約9割。Symbianは新機種が1機種しかなかったこともありわずか3.3%に転落。
*2010年代前半にシェアを伸ばしたAndroid OSはスマートフォン市場の過半数を占めるまでに成長。市場は次第にAndroidとiOSの2強による寡占状態となっていく。
この年にはもう「メディアリッチ化」と「スマートフォンのFirst Screen化」が誰の目にも明らかになっていた。
- 3月、東日本大震災の影響で延期されていた岩手、宮城、福島3県の地上アナログテレビ放送の通常番組を終了。同日24時(1日0時)までにアナログ放送の停波が完了し、日本全国で完全デジタル化が完了した。これで、日本のアナログテレビジョン放送は完全に廃止され、約60年の歴史に幕を閉じた。
- この年、株式公開したばかりのFacebookの株価が「モバイル対応の遅れ」を原因に暴落。ネット上のトラフイックのモバイルシフトは、それくらいの勢いで急激に進んでいたのだった。
*2000年代中旬から次第に音声や画像や動画を大量配信する環境が整い、スマートフォンからの携帯電話からのアクセスもそれを前提に発展を遂げてきた原則として言葉でなく画像や音声や動画の回覧によってコミュニケーションを成立させている「国際SNS上の関心空間」成立も、そうした展開抜きでは語れない。
- しかもこうした動きは(Facebook上の実名アカウントとは別に設定される裏匿名アカウントが集う)国際SNS上にの関心空間へのユーザーシフトをも伴っていた為、これをどうマネタイズすべきかについて新たな議論が巻き起こる展開に。
*何が困るかといって、匿名で関心空間に集まる様な集団は互いの意見に左右されるのみで広告の影響を受けにくい。それどころか「広告を出さねばならないほど売れてない」と認識してる側面すらちらほらと見受けられる。しかもそうした関心空間が存在する国際SNSが儲かるかというとそうでもない。
NYU教授、YahooによるTumblr買収は過去10年で最悪の企業買収*ついでながら、日本だと匿名掲示板ユーザー流入が止まらないTwitterも、それゆえにこんな感じ。
2013年 Strategy Analyticsはこの年の世界のスマートフォンのOS別シェアでGoogleのAndroidプラットフォームは79%を占めたとした。世界全体でのスマートフォンの販売台数は9億9000万台で、そのうち7億8120万台がAndroid。これは新記録だという。
*ただし成長率は鈍化しつつあり、何も手を打たねば売り上げは停滞するとも予測。
Flashの歴史(2015年)
全体像を俯瞰するとこうなりそうです。
- 1990年代初頭に始まった人間の意識のイデオロギー的拘束からの解放が一応1990年代末までに完了。その空隙を埋めるべく新たなタイプのエンターテイメント、そして(パソコン通信の延長線上としての)匿名掲示板やSNSが口論の場として台頭してくる。
- リッチコンテンツ(静止画・GIF・音声・動画)の供給を1990年代前半からスタンドアローン形式で担ってきたCD-ROMが、2007年頃よりその座を大容量サーバによるオンライン形式での配信に譲り始める。スマートフォンの普及が始まるのもこの時期から。
- 両方の流れが合流して「国際SNS上の関心空間」が立ち上がったのが2012年頃。iモードやFlashやSymbian OSや(テキストベースの)匿名掲示板は要するにこの端境期の徒花とも。
予想通り「iモードどこいった?」展開に。それにしても2012年以降の展開が急激。
最近では「インターネットはスマホ普及によってユーザーを端末化した」なんて表現までちらほら見掛けます。そもそも我々が生きてる世界の構造そのものが変わってしまったという認識を持つべきなのかも?