諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【アメリカン・ルネサンス】【血を流すカンザス】米国開拓者精神(American Frontier Spirit)とは一体何だったのか?

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カール・マルクスは「ルイ・ボナパルトブリュメール18日(Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte、1852年)の冒頭で「世界史上の有名人物は二度現れるとヘーゲルは書いた。だが、ヘーゲルは次の言葉を付け加える事を忘れていた。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇としてと(Hegel bemerkte irgendwo, daß alle großen weltgeschichtlichen Tatsachen und Personen sich sozusagen zweimal ereignen. Er hat vergessen, hinzuzufügen: das eine Mal als Tragödie, das andere Mal als Farce.)」と述べています。まぁ実際の歴史上は「凡庸そうに見えて、気付くと皆から選ばてる様な人物」こそが危険なのですが、まぁイタリア王国ドイツ帝国の独立も神聖ローマ帝国への忘恩と詰る事しか出来なかった人ですし、時代の制約とも。

それはそれとして「2度目は茶番劇」を1960年代ヒッピー運動が「シャロン・テート殺人事件(1969年)」や「ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」を次々と引き起こしたカルト宗教を雨後の筍の如く登場させた状況と重ねる向きがある様です。

1967年の夏、サンフランシスコのヘイトアシュベリー地区にヒッピーファッションに身を包んだ10万人の若者が集まった。ベトナム運動反対運動や反政府活動と結びついたこのムーブメントは、自由と愛をモットーにしたもので、有名なミュージシャンや詩人も参加し、「Summer of Love」と呼ばれた。


だが、このヒッピーカルチャーは、ポジティブなことばかりではなかった。LSDなどの幻覚剤が乱用され、女性が見ず知らずの男性にタダで性交渉を提供することが、あたかも高尚な「愛の自由」の表現のように扱われた。

チャールズ・マンソンのカルト集団も、Summer of Loveの熱気の中で生まれた。獄中でデール・カーネギーの『人を動かす』やサイエントロジーの洗脳方法を学んだマンソンは、出獄すると、そのテクニックを使って心理的に脆弱な少女らを狙ってリクルートした。マンソンをビーチボーイズのデニス・ウィルソンと繋げたのも、これら信者の少女たちだった。ヒッチハイクをしていた少女2人をひろったところ、彼女らに加えて17人の少女らがウィルソンの家に住む込んでしまい、彼女らが「私たちのグル」としてマンソンを紹介したのだった。

インドを訪問した体験から、ウィルソンはマンソンの提案するライフスタイルに興味を持ち、ミュージシャンとしてデビューしたいマンソンを音楽プロデューサーに紹介するなどした。それが決裂したのをマンソンが逆恨みしたのが「シャロン・テート殺人事件(1969年)」のきっかけだと言われている。映画監督ロマン・ポランスキーの妻シャロン・テートを含む5人が殺されたのだが、元々のターゲットは、彼らではなく、この家に以前住んでいた音楽プロデューサーだったという。

妊娠しているテートが命乞いをしたとき、「ビッチ、お前に同情なんかはしないんだよ」と言って、何度もナイフで刺したのが、見た目が普通の少女だったということも、ショッキングな事件だった。

殺人博物館〜ジム・ジョーンズ

1931年5月13日 ジム・ジョーンズことジェイムス・ウォレン・ジョーンズがインディアナ州の貧しい家庭に生まれる。

  • KKKメンバーだった父は彼が12歳の時に家族を捨てた。以後、母親のリネット一人の手で育てられる。

  • 彼が生まれ育った町はいわゆる聖書地帯で、しかもファンダメンタリスト(聖書を文字通りに信じる宗派)が多い地域だった。不遇な彼は信心にのめり込み、常に聖書を携えるようになる。そして、宣教師の娘、マーセリン・ボールドウィンと結婚したのを機に聖職者の道を歩み始める。

  • 彼が布教の拠点としたのは貧しい黒人たちのゲットーだった。当然に実入りは悪く、猿を育てては売ることで運営資金を捻出していた。黒人に奉仕するジョーンズは差別主義者から「くろんぼ好き」と罵られ、家には投石され、火炎瓶さえ投げ込まれたという。

1960年頃、それでもめげずに布教を続けたジョーンズの人民寺院はかなりの信者を集めた。

  • 経済的にも潤い、実子のスティーヴンの他にアジア系2人と黒人1人の孤児を養子に迎えている。地域の福祉にも貢献し、貧しい人々にとっての真の救世主になるかの様に見えた。

  • しかし時代がそれを許さなかった。当時のアメリカは、反戦デモと公民権運動で沸き返っている。多くの黒人信者を抱えるジョーンズは、必然的にキング牧師やマルコムX、更には過激派のブラック・パンサーの影響を受けた。その教義は次第にファンダメンタリズムから離れ始め、差別のないユートピアを目指す共産主義へと接近して行ったのである。元ヒッピーの弁護士、ティム・ストーンが彼の参謀となったことでその傾向はさらに加速した。

  • キューバ危機(1962年)以降、核戦争を異常なまでに畏怖するようになり、やがて神託が降った。「近いうちに核戦争で全人類が死滅するだろう。但し、ブラジルのベロ・オリゾンテと、カリフォルニア州ユキアにいる者だけは生き残る」。

1965年、カリフォルニア州ユキアに拠点を移設。以降その言動は次第に過激になって行く。

  • ある時、創世記のカインとアベルの一節を朗読していたジョーンズは突然、聖書を投げ棄てて、聴衆に向って訴えかけた。「もしもアダムとイブが最初の人類で、カインとアベルしか子供がいなかったとしたら、ノドの地の住人たちはいったい何処から来たというのだ? あなたたちはそこに黙って座って、こんな出鱈目を読んでいていいのか? 私はでっち上げの神など信じない。空の上に天国などありはしない。我々が暮らしているこの世こそ、唯一の地獄なのだ」。聖職者というより革命家のアジテーション。だがこれが受けた。生活に苦しむ者の怒りを代弁していたからである。

  • その一方でジョーンズは過剰な性欲を持て余しており、有名になるにつれますます肥大化した。何人もの女と寝た後でも、まだオナニーできると自慢げに語っていたという。しかも、両刀使いだった。信者たちを男女を問わず喰いまくった。

  • 同時進行で被害妄想の傾向が強まって行く。「くろんぼ好き」と罵られ迫害されてきた記憶に精神を蝕まれたとも。彼を批判するマスコミには脅迫状を送り、無言電話をかけ続ける。最も恐れたのはマスコミに情報を流す脱会者で、その電話を盗聴し、脅迫するネタを掴むためにゴミ漁りまでした。やがてFBIやCIAに狙われていると本気で信じるようになり、盗聴を避けるため頻繁に電話番号を変え、窓から双眼鏡で尾行者を探す様になる。

  • 教義の内容も異常化し、夫婦の信者には性行為を禁じた。夫婦の絆が弱まれば、妻が彼のハーレムに加わることは容易になる。一方で、家庭がなくなるのであるから財産を手放しやすくなる。信者たちは全ての財産を彼に寄贈するという寸法である。まさに一石二鳥の妙案だ。ジョーンズが夢見たユートピアは、いつの間にか彼一人の欲望を満たすシステムへと変貌を遂げていたのだった。

  • この頃になると「今のあなたは昔のあなたとは違う」と脱会者が急増し始めた。エルマーとディアンナのマートル夫妻もその一例で、彼らが脱会を決意したのは、差別主義者でないことを証明するために白人信者が黒人信者の性器を舐めることを強要された時とされる。脱会したマートル夫妻はジョーンズ告発の準備を始めたが猛烈な嫌がらせに遭い、断念せざるを得なかった。なお夫妻とその娘は1980年2月、何者かに殺害されている。

1972年 ジョーンズの右腕として人民寺院を成長させてきたティム・ストーンの妻グレースはジョーンズの愛人でもあり、この年彼の子供であるジョン・ビクター・ストーンを出産。皮肉にもこれが本格的破滅の序曲となった。

  • ジョーンズはこの子を「ジョン・ジョン」と呼んでたいそう可愛がったが、グレースはマートル夫妻の脱会を機に人民寺院に疑問を抱き始め、悩みに悩んだ挙句、遂に脱会を決意する。

  • ジョーンズの報復を恐れて居所を転々としていたグレースは、弁護士を雇って息子の養育権確認訴訟の準備を始める。これに怖気づいたのが夫のティム・ストーン。当時、人民寺院の後押しでサンフランシスコ地方検事補の職に就いていた為、スキャンダル化を恐れたのだった。

一方、ジョーンズは愛人に裏切られるわ、眼の中に入れても痛くない我が子を返せと訴えられるわで半狂乱となり、信者をまるごと率いて国外逃亡する決意を固める。

1977年 人民寺院は1000人近くの信者を引き連れて南米の小国、ガイアナのジャングルを切り開き、ジョーンズタウンを建設。

  • 合衆国での政界進出を目指すストーンはこれに同行しなかった。妻グレースに寝返ったののである。マスコミの批判も過熱し始め、ジョーンズは確実に追い詰められて行く。

  • ジョーンズが集団自殺のリハーサルを始めたのはこの頃からで、それを「革命的自殺」と呼んでいた。「圧政者への黒人の抵抗は、警察の権力行使による死を招くかも知れない。しかし、こうした死は殉教者として自らを捧げるものであり、いわば革命的自殺である」と主張したブラック・パンサーの指導者、ヒューイ・ニュートンからの受け売りで「尊厳を守るための自殺を通じた抵抗」を徹底して美化。

  • 同時にジョーンズタウンでにおけるジョーンズの言動は更に異常さを増していった。脱会を極度に恐れるあまり武装組織を配備して厳重に取り締まり、それでも脱走を企てるとリンチに処された。その者に娘がいれば、皆の前で裸にされてオナニーすることを強要されたという。

1978年11月14日 マスコミの報道や家族会の要請を受け、レオ・ライアン下院議員が報道記者たちを従えてジョーンズタウンを視察。

  • 特に目立った問題はなく事なきを得たかに思われたが、夜になると脱会希望者が記者たちに願い出た。「どうか助けて下さい」。翌日にそのことをジョーンズに詰め寄ると、彼は酷く傷ついたようだった。「私は打ちのめされた。もう死ぬかも知れない」。

  • 一行がジョーンズタウンを後にしようとすると、ラリー・レイトンという男がトラックに飛び乗った。「俺も連れて行ってくれ。ここから出たいんだ」。しかし、彼はジョーンズの指令を受けた刺客であり、空港には武装した一団が待ち受けていた。彼らが議員たちを銃撃し始めると、レイトンも銃を取り出して、脱会者たちを次々と射殺。

  • 「もうおしまいだ。間もなくアメリカの海兵隊がパラシュートで降りて来る。我々は皆殺しにされるのだ。ならばその前に潔く毒杯を仰ごうではないか。これは自殺ではない。革命的な行動なのだ」。ジョーンズがそう宣言すると、信者達にバリウムで割って飲みやすくしたシアン化物が配られた。赤子たちは注射を打たれた。逃げようとする者は銃殺された。

そして何度も劇映画などで再現された場面が続く。教祖がマイクで支離滅裂なことをしゃべり続ける中で、何百という信者が毒をあおり、苦悶しながら死んで行く。そして、すべてが死に絶えた後、教祖も自らの顳顬を銃で撃抜いて生存者は一人も残らなかった。

それならば、アメリカにとって「1度目」は何時だったのでしょうか?

生きてる感想 : アメリカ文学

アメリカは1776年に独立宣言をした。
それをはさむ1775年から1783年まで独立戦争
1861年から1865年までは南北戦争があった。

その間の1830年代からアメリカン・ルネサンスと呼ばれる文学の隆盛があり、ここで初めてアメリカ文学が一挙に世界文学レベルまで届いたという。

アメリカン・ルネサンス以前に、アメリカ人作家で初めて欧州で認められたワシントン・アーヴィング(Washington Irving, 1783年〜1859年)という人がいた。彼の短編集「スケッチブック(The Sketch Book of Geoffrey Crayon, Gent.、1819年〜1920年)」中の作品は、戦前の日本の旧制高校の英語の教材によく使われたそうで、昔の日本の知識人には馴染みの名前だったという。僕も父の本棚から、古くて質の悪い紙でできた旧制高校の英語のテキストを見つけて「リップ・ヴァン・ウィンクル」など数篇を読んだけれど、浦島太郎みたいな中世的な不思議な読感の短編で、なかなかのものでした。


そのあと、アメリカン・ルネサンスなんだけど、その明るい面担当として、エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803年〜1882年)の「自然論(Nature、1836年)」、ソロー(Henry David Thoreau、1817年〜1862年)の「ウォールデン‐森の生活(Walden; or, Life in the Woods、1854年)」、詩人ホイットマン(Walter Whitman, 1819年〜1892年)の「草の葉(Leaves of Grass、1855年〜1891年)」があり、暗い面担当としてはメルヴィル(Herman Melville、1819年〜1891年)の「白鯨(Moby-Dick; or, The Whale、1851年)」、推理小説というジャンルを発明したエドガ・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年〜1849年)の「モルグ街の殺人(The Murders in the Rue Morgue、1841年)」、そしてホーソーンNathaniel Hawthorne 1804年〜1864年)がよく挙げられる。

それも南北戦争とともに終わってしまう。愛国者ホーソーンもこの内戦には心を痛めて、このあたりで創作意欲が著しく減退し、終戦を終わらずに死んでしまう。

そのあと、ずいぶんと弾けた小説家マーク・トゥエインが1876年に「トム・ソーヤーの冒険」を書き、1884年には、ヘミングウェイが「アメリカ近代文学の散文スタイルはすべてこの一冊に源を発した」と激賞した「ハックルベリー・フィンの冒険」が発表されて、アメリカ文学はずいぶんと違う展開が始まることになる。本を読みながら音楽を聞くとして、ブルース音楽に似合う小説って、おそらくマーク・トゥエイン以前にはなかった。まだホーソーンの時代は、イギリスっぽいし、中世風の格調が特徴になっている。ホーソーンやポーはゴシック・ロマンス(つまり中世風の物語)の系譜の代表的な作家としてよく名前が挙がるし。

ここでいう「アメリカン・ルネサンス(American Renaissance)期」こそが 、概ねそれと考えられている様です。
*実際、エホバの証人ニューソートクリスチャン・サイエンスなどもこの時期の米国が発祥。

  • エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803年〜1882年)の「自然論(Nature、1836年)」とソロー(Henry David Thoreau、1817年〜1862年)の「ウォールデン‐森の生活(Walden; or, Life in the Woods、1854年)」は、ユニテリアン主義の立場を放棄して彼らが到達した超絶主義(transcendentalism)抜きには語れない。1836年ボストンに設立された「超絶クラブ」に由来するこの運動は、倫理的には理想主義、個人主義の立場に立ちつつ有限な存在のうちに神的なものの内在を認め、神秘的汎神論に傾いた。宗教的ロマン主義運動の一種と表現される事もあるが、要するに元来はヘーゲル同様カントの不可知論に背を向け「全ての背後に神を見る」神中心主義に傾いた新興宗教の一種。

    それに「(開拓者として荒野と向き合わねばならない)アメリカ開拓精神(American Frontier Spirit)」を付加したのは、むしろ森での孤高のサヴァイヴァル生活を通じて自らの信仰心を徹底的に再構築したソローだった。そう、ちょうどモルモン教においてその役割を果たしたのが初代教祖ジョセフ・スミス・ジュニア(Joseph Smith, Jr.、1805年〜1844年)というよりユタ州への移住を果たした二代目教祖ブリガム・ヤング(Brigham Young 1801年〜1877年)だった様に。ただし世俗生活に背を向けた前者のマウンテンマン的ミニマリズムは、東海岸と西海岸の中継貿易によって経済的にも繁栄し「金は天下の回りもの」「金がないのは首がないのと同じ」といった現実論から世俗生活をも人格修練の場とみなす様になった後者と相当部分で重なりつつ鋭い対比を為す

  • 一方、大陸的合理主義の立場に立つ超絶主義(transcendentalism)に対し、むしろロマン主義運動の「自然の不条理」に深く魅入られた部分に共鳴して絶対反対の立場を採択したのがエドガ・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年〜1849年)とホーソーンNathaniel Hawthorne 1804年〜1864年)となる。

    *ディズニーアニメ「ポカホンタス(Pocahontas、1995年〜1998年)」作中においてヒロインの呼び掛けに応える精霊は、最初のタイミングではジョン・スミス船長を選ぶ事を肯定し、次のタイミングではジョン・ロルフを選ぶ事を肯定する。これは(人間が決っして経験を通じては到達不可能な)超越的存在による絶対的裁定なのか? それともあくまで個人的願望の投影に過ぎないのか? 両者の対立軸はまさにここにある。

  • エドガ・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年〜1849年)は、今日ではむしろ「英米における商業出版の勃興前夜、炎上マーケティングすら辞さず自らが責任編集する雑誌の売上を伸ばそうとした編集者」としての側面が注目される様になった。というのも欧州において「周囲からの雑音に一切惑わされず、善悪の彼岸を超越して自らの内側から込み上げてくる声にのみ従い続ける苦行者こそ至高」なるロマン主義的価値観が崩壊した時、「近代詩の父」ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821年〜1867年)が、(むしろ監獄や精神病院に幽閉された事によって文学的才能が開花し「理解者の獲得」がその創作活動の原動力となった)マルキ・ド・サドMarquis de Sade、1740年〜1814年)と並んで評価したのが彼のそういう部分だったからである。この「発見」より「人間を感動させるのは言葉や象徴の体系」とする象徴主義や、客観的観察を重視する自然科学的小説が芽生え、フランス近代文学が勃興するのである。
    *歴史上における最大の皮肉の一つ。「それぞれが徹底して主観を追求し抜く個人主義は、究極的には既存倫理概念を超越した共通の普遍的価値観で合流する」なるロマン主義共同幻想は、あくまで「(教会や国王の権威に裏打ちされた)領主が領民や領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」への共通憎悪に支えられていたのみであり、産業革命到来によってそれが効力を失うと一緒に霧散してしまう。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマと、それが引き起こす不毛な内ゲバ合戦を乗り越えるまでの力はなかったという次第。

    *「フランス文学者」坂口安吾は「ボードレールのエドガ・アラン・ポー論は、まだまだロマン主義的宿命感や悲劇主義の拘束下にあって、手段を選ばず読者を笑わせにくる噺家的側面を(おそらく故意に)見逃している」とし「風博士(1931年)」を執筆。しかし、そこには却って坂口安吾自身の内面における「求道者的側面と理解者獲得欲求の対比が、より克明に刻印される事になった。
    坂口安吾 風博士
    まぁこうした絶対矛盾の解消こそが「桜の森の満開の下(1947年)」や「夜長姫と耳男(1952年)」といった坂口安吾幻想文学の主題であり、「飛騨匠VS母権主義」なる異種格闘技戦めいた「飛騨女(ひだにょ)物」の起源もここに認められる。

    坂口安吾 桜の森の満開の下
    坂口安吾 夜長姫と耳男

  • マサチューセッツ州セイラム出身の「ホーソーンNathaniel Hawthorne 1804年〜1864年)」は、父方の祖先である初代ウィリアム・ホーソーンがクエーカー教徒迫害に関与し、二代ジョン・ホーソーンがセイラム魔女裁判の判事を務め、母方の祖先は近親相姦の嫌疑をかけられ迫害されてきた出自。それ故に善と悪や罪を扱った宗教的な内容の作品を多く残した。しかし「緋文字(The Scarlet Letter、1850年)」出版以降は英米における大衆向け商業出版の急拡大に脅かされながら失意のうちに亡くなる羽目に陥る。
    ホーソーン大して文才のない女流作家が、同じ女性読者の感性に訴えかける才覚に長けてるだけで(文才豊かな)自分より高給取りなのが解せない」なる言葉を残している。でもそれこそが(モルモン教徒もエドガ・アラン・ポーも「サバイバルの場」として選んだ)資本主義の世界なのだった。

  • メルヴィル(Herman Melville、1819年〜1891年)の「白鯨(Moby-Dick; or, The Whale、1851年)」は「エセックス号漂流事件(1821年)」と著者の鯨捕りの経験と当時の海洋小説の流行抜きには語れない。

    ナサニエル・フィルブリック「白鯨との戦い(In the heart of sea、原作2000年、映画化2015年)」は「白鯨」について「既に作品発表当時、ナンタケット島(Nantucket Island)の捕鯨産業は致命的衰退期に入っていた筈だが、それについての指摘がない」点に注目する。確かに親の代からエンターテイメント界に属し商業作家の道を貫き通したエドガ・アラン・ポーや、呪われた家系ゆえに最後まで純文学作家の立場に執着し続けたホーソーンと異なり、メルヴィルのスタンスはあくまでどっちつかず。

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    ①裕福なブルジョワ家庭に生まれながら経済破綻し船乗りとして実務を積む。

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    ②商業的トレンドだった海洋小説に飛びつきつつもホーソーンに心服。しかも「白鯨(1851年)」は、博物的衒学趣味やワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人(Der fliegende Holländer、1842年)」の如きロマン主義的悲観主義に耽溺した作品で決っして商業出版向け作品ではなかった。

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    ③生前は全く評価されず、死後30年を経てレイモンド・ウィーバ著「ハーマン・メルヴィル 航海者にして神秘家(1921年)」出版を契機に再評価が始まり今日では米国を代表する文豪の一人にまで上り詰める。

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  • こうした全体像を俯瞰して「時代的制約に拘束された思考の限界は行動によって乗り越えるしかない」としたのが詩人ホイットマン(Walter Whitman, 1819年〜1892年)の立場。「フランス文学者」坂口安吾が提唱した「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」式の焼け跡的行動主義を想起させる。

 欧州本国で異端とされた宗派の亡命先としても栄えてきたアメリカ。しかし19世紀に入るとそれらの生温い連携に飽き足らなくなったハードモードの信者達が次々と合理主義進学や新興宗教に飛びつく展開に。夜は夜明け前が最も暗い」といいますが、産業革命導入が本格化した金鍍金時代(1965年〜1993年)以前のアメリカはまさにそういう状態だったとも。

  • 日本でも幕末直前期(19世紀初旬)は、神仏習合の馴れ合い状態への不満から国学研究が盛んとなり、天理教金光教、黒住教などが次々と創始されている。

当時を読み解くもう一つの鍵が「領主が領土と領民を全人格的に代表する権威主義体制」としての農本主義の崩壊期に該当した事かもしれません。ルイジアナ買収(Louisiana Purchase、1804年)やメキシコ割譲(1848年)を契機に始まった西部開拓時代(1860年代〜1890年)、そしてそれに続いて欧州、特に西ヨーロッパとの経済格差が次第に顕著となっていく東欧諸国やオーストリア=ハンガリー二重帝国、馬鈴薯飢饉1840年代)によって壊滅的打撃を負ったアイルランドイタリア王国独立によってむしろ貧窮した南イタリアなどからカソリック系貧農が大挙して押し掛けてきます。そうした時代が始まる以前の米国は、二つの政治的派閥に分断されていたのです。

ジェファーソン流民主主義(Jeffersonian democracy)

1790年代から1820年代のアメリカ合衆国で支配的だった2つの政治的概念と動きのうちの1つを表すときに使われる言葉。第3代アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソン(任期1801年〜1809年)が指導者だったので、その名前を冠している。ジェファーソンがアレクサンダー・ハミルトンの連邦党に対抗して設立した民主共和党を指して使われる事が多い。

  • その信奉者は「自作農」(ヨーマン)と「一般大衆」(プレーンフォーク)を優先し、民主主義と政治機会の平等を提唱。商人や製造業者の貴族的なエリート主義とされるものに敵対し、工場労働者を信頼せず、また恐怖感の残るイギリス統治制度の支持者に対する監視を続けた。

  • 特に市民としての義務を重んずる共和制の原則を遵守し、特権階級、貴族政治および政治的腐敗に反対。

言い方を変えれば「中央集権の介入を拒みつつ、家父長制や奴隷制などを護持しようとした農本主義的伝統の信者」とも。

連邦主義(Federalism)

英語の Federal Theology は契約神学という、神の前での誓約共同体を信仰の基礎とする会衆派教会などの立場を意味する。アメリカ連邦制の基礎の一つとなったメイフラワー誓約( Mayflower Compact)にはこの契約神学の影響が見て取れる。 

対立するジェファーソン流民主主義の立場からすれば「英国流貴族主義者、インテリ・ブルジョワ階層、商人、製造業者、工場労働者、ホワイトカラーといった一切信じられない連中の寄り合い所帯」という事になる。

(19世紀後半より人口が爆発的に増加した)都市住民と(南部奴隷州や西部開拓地の名残たる)地方住民の対立図式」そのものは、今でも根本的には変わってない?

 そもそも国際SNS上の関心空間では、しばしば「何で南北戦争(American Civil War, 1861年〜 1865年)だけが特別視されるか判らない」なる呟きが見受けられます。実際「アメリカン・ルネサンス期の米国」は(対インディアン戦争も含め)既に様々な武力衝突に満ちていたのです。建国以来の自由州と奴隷州の対立は益々悪化し、数多くの新興宗教が興っただけでなく伝統的開拓集落の住人達から悪害されて新天地を求め、ビーバーの毛皮も鯨も狩り尽くされる一方、新たにカリフォルニアやカナダで金鉱が発見されて山師達が群がった時代。こうした混沌状態こそが、元来の意味での「アメリカン・ルネサンス期」という次第。
*まぁオリジナルの「イタリアン・ルネサンス」だって似た様な混沌の坩堝だったとも。

 アメリカン・ルネサンス期(1930年代〜1960年代)の米国 

1803年奴隷制問題】ルイジアナ買収(Louisiana Purchase)

1808年1月奴隷制問題】奴隷輸入禁止法の発効

  • 米国では1787年の憲法制定会議において連邦政府が国際的な奴隷貿易を1808年に廃止することを容認する合意が形成され、1798年までにジョージア州を除く全ての州が個別に奴隷貿易を廃止するか制限する法律を成立させている。しかし実際にはこの頃でも奴隷貿易は続いていた。1804年までに北部全州が奴隷制度を廃止(ニュージャージー州の段階的廃止決定が最後)。ただし奴隷解放は段階的で、1860年の国勢調査でも「永久奉公」の者が少なからず残っていった。そうした改革を主唱していたのはキリスト友会(クエーカー)、ペンシルベニア奴隷制協会およびニューヨーク奴隷解放協会。また権勢ある連邦党政治家ジョン・ジェイとアレクサンダー・ハミルトンおよび民主共和党のアーロン・バーが指導していたニューヨーク奴隷解放協会は1799年に奴隷制度の段階的廃止を決定。解放された奴隷数は1863年以前のアメリカ史で最大となった。

  • ちなみに英国議会でも1807年3月25日に奴隷貿易法(Slave Trade Act、)が成立。大英帝国全体での奴隷貿易が違法と定められ、英国船で奴隷が見つかった場合の科料は1人あたり100ポンドとされた。ナポレオン戦争が激化した時期と重なっている。ナポレオンがフランス革命の時に廃止された筈の奴隷を復活させる後ろ向きの決断を下し、フランス領のカリブ海諸島に黒人を奴隷にする軍隊を派遣したのを受けての対応という側面もあり、英国は様々な局面でフランスより道義的に有利な立場で戦う事が出来た。
    http://cfile21.uf.tistory.com/image/27134434563179F32FF264
  • 実際には罰則が緩かったので奴隷貿易はひき続き行なわれ続け、イギリス海軍に捕まりそうになった船長は科料を減らすために奴隷を海に突き落とす事もしばしば行われた。また南アフリカの英領ケープ植民地では、1809年にホッテントット条例(英: The vagrancy and pass laws of 1809)を施行。これが廃止されるのは反奴隷制度協会創立(1823年)や1824年の罰則強化(Slave Trade Act 1824)、さらには「奴隷貿易に関わる事は海賊行為と見なし、死刑に値する」という宣言(1827年)を経た1828年になってから。

1820年奴隷制問題】ミズーリ妥協(Missouri Compromise) アメリカ合衆国南部の文化に深く根付く奴隷制度問題。これについて建国の時から奴隷州と自由州の間で意見対立が続いてきたが、なんとかそれをバランスさせようとした。また奴隷所有者の利益と奴隷制度廃止運動家の抗議との平衡を取る目的もあった。

血を流すカンザス(Bleeding Kansas)あるいは流血のカンザス(Bloody Kansas)あるいは境界戦争(Border War) - Wikipedia

  • アメリカ合衆国憲法奴隷制度が保たれなければ批准されなかった可能性が強い。憲法には5分の3条項があり、アメリカ合衆国下院議員の各州定数を決める根拠として、州人口に州内奴隷人口の5分の3が加算されていた。これは奴隷州と自由州の利益のバランスを取るためのものだった。
  • 国が拡大し、新しい州を自由州として受け容れるか、奴隷州として受け容れるかという問題が生じたときに、奴隷制度に関する議論が大きくなり、どちらの方向に進むにしても権力の脆弱なバランスを崩す恐れがあった。1820年のミズーリ妥協はこのバランスを保つために行われた。

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1920年代〜1930年代奴隷制問題】リベリア植民地建設

  • ヘンリー・クレイジェームズ・モンローのような著名な指導者を含んでいたアメリカ植民地協会(A.C.S.)が、アメリカの黒人をアフリカに戻すことで、奴隷制度を廃止する提案を推進し国中の白人から広い支持を獲得。しかしむしろアフリカ系アメリカ人の多くは逆に反対。ボルティモアの裕福な自由黒人ジェイムズ・フォーテンなどが「その様な無謀な計画が実践可能とは思えない」と意見表明している。

  • 西アフリカの海岸で小さな集落を作る幾つかの試みのあとで、A.C.S.は1821年から1822年にリベリア植民地を建設。それから40年間にわたって、多くの元奴隷と自由黒人の移住を支援した。不十分な衛生状態や免疫の欠如などから疫病が頻発。移民の多くはすぐに死んでしまったが、生存者が1847年に独立を宣言。しかし植民地化支援は奴隷制度廃止論者の動きによって、1840年代から1850年代にかけて減衰していく。アメリカ系リベリア人は1980年のクーデターの勃発までリベリアを支配し続けた。

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1830年モルモン教徒問題】ジョセフ・スミス・ジュニアモルモン教末日聖徒イエス・キリスト教会)を創始する。

  • 1844年までに合衆国中に幾つかの地域社会を設立。中でも著名だったのが、オハイオ州カートランド、ミズーリ州インデペンデンスおよび、イリノイ州ノーブーだったが、教会は内部の不一致や他の開拓者との紛争の為に開拓地から追い出され、最終的にはノーブーも1846年に捨てざるを得なくなった。

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1838年モルモン教徒問題】モルモン戦争(Mormon War)
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  • カートランドを追われたモルモン教の教祖ジョセフ・スミスはミズーリーに移住。そこに信者が集結し、カナダからの改宗者も加わってみるみるうちに巨大な共同体が形成される。

  • ここでもカートランド同様、「モルモン軍」なる独自軍隊と「ダナイト団」なるジョセフの私設軍隊を保有するモルモン教徒共同体と地域住民の間に軋轢が生じた。州知事であったボッグズは市民軍にモルモン教徒を攻撃することを命じ、モルモン教徒と州政府が武器を持って戦うとる展開に。そして10月30日、ホーンズミルに入植していたモルモン教徒が自警団に攻撃されて17人が殺害され、15人が負傷する事態となる(ホーンズミルの虐殺)。

  • 10月31日、ジョセフら指導者が州に降伏し11月1日に戦争終結。モルモン教徒の州外追放が決定。ジョセフら指導者はリバティの牢獄に投獄され、ジョセフ自身は1844年、カーセージの牢獄で銃撃戦の末に憤死したが、残りは賄賂を使って脱獄。後、やがて二代目教祖となるブリガム・ヤングに率いられ、1847年ソルトレークに到着。

1940年代 毛皮取引が崩壊。欧州におけるビーバーハットの流行が終わり、かつ乱獲によってビーバーもいなくなった為。

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1848年モルモン教徒問題】米墨戦争(Mexican-American War、1846年〜1848年)終結によってメキシコ割譲が決定。ブリガム・ヤング率いるモルモン開拓者が切り開いたユタ州植民地がアメリカ合衆国の領土に組み入れられる。
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  • 同年よりカリフォルニア・ゴールドラッシュ(California Gold Rush、1848年〜1855年)開始。所謂モルモン・トレイルの交通量が急増。

  • 数年間の間に数万人も訪れた山師達の喉を潤す為に果樹園が栄え、ナパ、ソノマ周辺及び金の見つかったアメリカ川近くのサクラメントでワイン用ぶどうの栽培が始まった。

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1850年モルモン教徒問題】ユタ準州(Utah Territory)創設
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  • その指導スタイルをしばしば独裁制と非難されてきたヤングはアメリカ合衆国議会にディザレット州を創るよう請願したが1850年妥協によってそういう仕儀となり、ヤングはその知事に任命された。

  • ヤングは知事と教会大管長を兼務し、宗教面と経済面の事柄を指導。独立と自給自足を奨励し、ユタの中の都市や町および隣接する州の都市や町がヤングの指示で設立された。

  • やがて中央から派遣されてくる官僚達とモルモン教国家ユタの軋轢が激化。最大の争点はモルモン教徒が神の戒めと称して堂々と多妻結婚を実施していた事だった。

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1854年奴隷制問題】カンザスネブラスカ法(Kansas-Nebraska Act)成立
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  • カンザス準州ネブラスカ準州を創設し、アメリカ人開拓者に土地を開放する法律。2つの準州が州に昇格するときに、住民主権の考え方を取り入れ奴隷制度を認めるか否かを住民に決定させるという取り決めも行っており、実質的にミズーリ妥協を撤廃する内容だった。

  • この住民に決めさせるという概念は現在「住民主権」と呼ばれ、アメリカ合衆国上院議員で、上院領土問題医委員会委員長を務めていたスティーブン・ダグラスが提唱したものだった。住民主権は、西部や北部の新領土に奴隷制度を拡大できる可能性を与えるものであり、南部州に譲歩する試みだった。この原則は、カンザス準州内で「無断居住者主権」とも呼ばれ、ルイス・カス上院議員によって実行を阻まれた。カスはそれにも拘わらず、「ワシントン・デイリー・ユニオン」に掲載された文書でそれに理論的な構造を与えることで「住民主権の父」という呼称を貰った。さらにカスは1848年に民主党の大統領候補にも指名されることにもなった。

  • 当初、カンザス準州に入って来てそこを奴隷州にする奴隷所有者は少ないと思われていたのだが、それは奴隷を活用して利益を出すにはあまりに北方にあると考えられたからである。しかし、ミズーリ川に沿ったカンザス準州東部は、隣接して対岸にあるミズーリ州の「ブラックベルト」同様、奴隷を使用する農業に適していた。そしてミズーリ州のその地帯では州内奴隷の大半が働いていたのである。

  • カンザス準州に州政府を作り、そこをどのような州にするかという問題が、その境界を越えて高度に政治的なものになった理由は他にもある。奴隷州と自由州の境界にあたるミズーリ州は、その北にアイオワ州、東にイリノイ州という自由州に接するという奴隷州としては他に無いような所に位置していた。州内の大半に奴隷がおらず、奴隷所有者数は州人口に比べるとかなり少ないものだった。そしてカンザスが自由州としてアメリカ合衆国に加入すると3方を自由州に囲まれる事になってしまう。奴隷州では奴隷解放奴隷制度廃止運動や奴隷の逃亡が当たり前のように起こっていたのでそれはミズーリ州の奴隷所有者にとって脅威以外の何物でもなかったのである。またアメリカ合衆国上院では各州に2人の議員が割り当てられることになっている。当時奴隷州の数と自由州の数が拮抗していたので、州の追加はそのバランスを崩し、奴隷州の既得権益を阻害する可能性をはらんでいた。

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1854年11月奴隷制問題】「ボーダー・ラフィアン(Border ruffians、境界を越えた暴漢)」と呼ばれた武装した奴隷制度擁護派の男達数千人(大半はミズーリ州出身)が、州境を越えて準州内に入り、準州からアメリカ合衆国下院に送る代議院1名の選出を支配しようとした。
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  • カンザス準州に最初に来た組織された移民は、奴隷州、特に隣接するミズーリ州からの市民だった。彼等はカンザス準州に奴隷州拡大のために来ていた。これら移民によってレブンワースとアチソンに奴隷制度擁護派の開拓地が設立された。

  • これとほぼ同時期、北部の反奴隷制度組織、中でもニューイングランド移民援助会社が、カンザスに数千人の開拓者を移動させ、そこを自由州にするための資金を集めていた。これらの組織は、トピカ、マンハッタン、ローレンスなど準州内に自由州開拓地を設立するために貢献。奴隷制度廃止運動家の説教師ヘンリー・ウォード・ビーチャー(1852年に出版された『アンクル・トムの小屋』の著者ハリエット・ビーチャー・ストウ夫人の弟)は、同士の開拓者をシャープス銃で武装させる資金を集めており、これは「ビーチャーの聖書」と呼ばれる精度の高いライフル銃の部隊になった。1855年夏までに武装して戦う準備を整えた約1,200人のニューイングランドのヤンキーが新準州に向かったと目されている。南部では、北部人3万人がカンザスに下ってきているという噂が流れていた。ボーダー・ラフィアンズの「革命」はそうした動きに先手を打つ為に遂行されたのである。

  • 登録有権者による投票は半数に満たず、ある場所では600人以上の投票者のうち合法投票者の数は20人に過ぎなかったが、とにかく奴隷制度擁護派がこの選挙で勝利した。当時のカンザス準州には約1,500人の登録有権者がおり、その全てが実際に投票したわけではないのに、投票総数は6,000票以上にもなった。さらに重要なことは、彼らが最初の準州議会議員の選挙が行われた1855年3月30日にも同じことを繰り返し、奴隷制度擁護派の勝利に終わらせた事である。かくして奴隷制度擁護派で固められた準州議会が1855年7月2日、ポーニーで招集されたが一週間後にはミズーリ州境のショーニーミッションに移され、そこでカンザス準州奴隷制度を合法化する法を成立させ始めた。

  • こうして出来上がった未登録ミズーリ州人投票者による違法政に対抗すべく1855年8月、自由土地派の一集団が結集。準州議会で成立した奴隷制度擁護の法を拒絶する決議を行った。この集会ではトピカ憲法を起草し、影の政府を作った。フランクリン・ピアース大統領が1856年1月24日にアメリカ合衆国議会に宛てたメッセージでは、トピカの政府が正当な指導層に対する「革命」であると宣言していた。

  • 1857年にはカンザス憲法制定会議が招集され、奴隷制度擁護派の「ルコンプトン憲法」と呼ばれることになる憲法案が起草されている。奴隷制度に反対する投票を行う手段が与えられていなかったので、奴隷制度廃止運動側は批准投票をボイコット。それでもルコンプトン憲法ジェームズ・ブキャナン大統領に受け容れられ、ブキャナンは議会にその受容と州成立を促したが、議会はこれに同意せず、選挙を再度行うよう命じた。2度目の選挙では奴隷制度擁護派がボイコットし、奴隷制度廃止運動側が憲法案を否定することで勝利を宣言。最終的にルコンプトン憲法は、それが住民過半数の意志を反映しているか明らかではなかったので、廃案とされた。

  • 1859年半ばには「ワイアンドット憲法」が起草されている。この憲法案には議会を制している奴隷制度廃止運動側の見解が盛り込まれており、選挙民の投票では2対1の比率で承認され、1861年1月29日、カンザス準州はその条件に自由州を求めることとして、合衆国にカンザス州として加入した。

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1855年10月〜12月奴隷制問題】ワカルーサ戦争(Wakarusa War)
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  • 「血を流すカンザス」発端。その言葉は「ニューヨーク・トリビューン」紙のホレス・グリーリーが初めて使ったとされている。この衝突がもたらした結果は直接南北戦争の前兆となった。暴力沙汰が1859年に終息するまでに、全部で56人が死んだ。

  • 1855年10月、ジョン・ブラウン奴隷制度と戦うためにカンザス準州に入ってきた。

  • 11月21日、チャールズ・ドーという自由州人が奴隷制度擁護派の開拓者に撃たれ戦争状態に突入。この戦いで唯一の死者はトマス・バーバーという自由州人だった。バーバーは、12月5日に侵入者の主力が宿営していたローレンスから6マイルほど(約10 km) の地で、銃で撃たれ殺された。
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1856年5月奴隷制問題】ローレンス襲撃(Sacking of Lawrence)
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  • 1856年5月21日、ボーダー・ラフィアンズの一団が自由州人の地盤であるローレンスに入り、自由州人のホテルに火を付け、新聞社2社とその印刷機を破壊し、家屋や店舗を荒らした。

  • 翌5月22日午後、アメリカ合衆国上院議場で、サウスカロライナ州選出の民主党下院議員プレストン・スミス・ブルックスマサチューセッツ州選出の上院議員チャールズ・サムナーを襲い、その杖でサムナーの頭を殴った(Caning of Charles Sumner)。サムナーは出血したその血で目が見えなくなり、よろめき歩いた末に倒れ、意識不明になった。ブルックスはその杖が折れるまでサムナーを殴り続けた。他の上院議員数人がサムナーを援けようとしたが、拳銃を構え「そのままにしておけ」と叫ぶローレンス・キート下院議員に妨げられた。

  • この事件は、その前にサムナーがカンザスでの奴隷制度擁護派の暴力沙汰を非難するために行った演説で、ブルックスの親戚議員アンドリュー・バトラーを侮辱したことに対する報復だった。サムナーはこのとき頭や首に受けた傷がもとで、3年間上院の議場に戻って来られなかった。サムナーは反奴隷制度派の殉教者になった。

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1856年5月奴隷制問題】ポタワトミー虐殺(Pottawatomie massacre)
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  • こうした騒動がジョン・ブラウンを動かし、カンザス準州で一群の男達を率い、ポタワトミー・クリークの奴隷制度擁護派開拓地を襲うことになった。

  • 5月24日夜、ブラウンの息子のうち4人を含むこの集団が奴隷制度擁護派の男5人をその家から連れ出し、幅広刀で切って殺した。ブラウンの部隊はジェローム・グランビルとジェイムズ・ハリスをハリスの小屋に戻らせた。

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1856年5月〜7月奴隷制問題】ブラックジャックの戦い(Battle of Black Jack)
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  • 6月2日、ジョン・ブラウン奴隷制度擁護派のヘンリー・C・ピート(後の南軍大佐)の他22人を捕虜にとする。

  • 同年、公式の準州都がローレンスからわずか2マイル (3 km) 離れただけのルコンプトンに移される。同年4月、連邦議会下院調査委員会の3人がルコンプトンに到着し、事態の調査を行った。委員会報告書の大半は、ボーダー・ラフィアンズの干渉で選挙が不適切に行われたことを示していた。しかし、ピアース大統領は委員会の推薦するところに従わず、奴隷制度擁護派の固める議会を、合法のカンザス準州議会と認め続けた。7月4日、ピアースは連邦軍を派遣して、トピカにおける影の政府の集会を解散させた。
    http://bloximages.chicago2.vip.townnews.com/lufkindailynews.com/content/tncms/assets/v3/editorial/4/09/409fda4e-bc94-11e5-988f-7f11db99793f/569aafb610878.image.jpg?resize=760%2C494

1856年8月〜10奴隷制問題】オサワトミーの戦いBattle of Osawatomie)
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  • 8月、数千の奴隷制度擁護派が軍隊を結成してカンザス準州内に行軍した。

  • 8月30日、ブラウンとその追随者幾らかが奴隷制度擁護派400人の兵士と交戦。この敵対関係はさらに2か月も続いた後、ブラウンがカンザス準州を離れ、新しい準州知事ジョン・W・ギアリーが就任。やっと両者の間に和平がもたらされた。

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1857年モルモン教徒問題】ユタ戦争(Utah War、〜前哨戦)
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  • ジェームズ・ブキャナン大統領にとって多妻婚問題は奴隷制と同じくらい重要な懸案事項だった。そして判事達は数多くの微妙な問題をはらむ奴隷制問題より先にモルモンの多妻婚問題を解決するべきと考え、準州知事の非モルモン教徒への差し替えを提案する報告書を作成。

  • ブキャナンは取り立てて調査を行うことなく報告書を受け入れ、新知事を準州内のユタ準州の砦に配備された2500人程度の規模の軍に迎えさせた。ヤング側はこれを上回る3000人の兵を徴募して対抗姿勢を見せる。この時、ヤングの腹心ヒーバー・C・キンボールが 「私達は迫害され財産を奪われ続けて来た。今、私は体中の血が乾ききるまで戦う。そしてそれを支えてくれる『妻達』がいる」と演説して士気を高めたとされる。

  • 当時は「血塗られたカンザスミズーリ戦争」の最中だったが、それが公然たる戦争ではなく、孤立し散発的な事件の寄せ集めに過ぎなかった為に政府軍は干渉する事なく通過。

1857年9月11日モルモン教徒問題】マウンテンメドーズの虐殺(Mountain Meadows Massacre)
マウンテンメドウの虐殺

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  • 9月6日 45歳の農民アレクサンダー・ハンチャー率いるアーカンソー発の移民団がシーラ市近くのメドウ(ユタ準州ワシントン郡)に宿営。ほとんどが家族連れで一部ミズーリーの出身者を含んでいた。カリフォルニアの鉱山で売りさばく為に大量の牛を引き連れていた。シェラネバダの雪を避ける南回りのルートを辿ってきたのだが、ネバダ砂漠に入る前にゆっくり休養を取ろうと考えての宿泊だった。

  • ハンチャー隊のルートがユタの中心を通るものだったので、モルモン側はエキセントリックになった。その年の夏にアーカンソーで使徒パーレー・P・プラットが殺されていて、一行がそこから来ていたこと、憎きミズーリーの出身者が一行の中にいたこと、また、彼らの中にジョセフ殺害に加わったいた人物がいるという噂も流れて来たからである。シーラのモルモン教徒は一行を攻撃するか、放置するかで悩み、結局ヤングに指示を仰ぐべく手紙を出した。
    *このときどういうやりとりがあったかについて、今日なお議論が多い。曰く「レナード・J・アーリントンは、ヤングが同じ日のその事務室で伝言を受け取ったと報告している。ヤングがパロワンとシーダー市でモルモン教徒が目論んでいることを知ったとき、ハンチャー隊は妨害されず領土内を通過すべしという手紙を送り返したが、その手紙は、ヤングの手紙は2日遅れの1857年9月13日に到着した」。曰く「ヤングは知事として連邦政府に対し、ユタ準州内を通過する移民を守ると約束したが、同時に地元先住民族の指導者に移民の荷車隊から牛を盗む許可を出した。」

  • 9月8日攻撃開始。シーラを管轄するアイザック・ヘイトとウイリアム・デーフの二人が軍に攻撃を命じ、ジョン・D・リーが攻撃の実行部隊を指揮した。先住民の攻撃に見せかける為、先住民の中に変装した手勢を紛れ込ませていた。一行のうち10名程を射殺するもひるまず馬車を盾に反撃、リーはかえって数十人の手勢を失い、そのまま膠着状態に陥る。

  • 9月11日、一計を案じたモルモン側がリーが白旗を立てて一行の元に出向く。リーは一行が「先住民に完全に包囲されていて逃げ場がない。生き延びるなら降参し、我々モルモンの保護下に入るしかない」と伝えた。ハンチャー一行はモルモン教徒とは言え同じ白人であるから大丈夫であろうと判断して武装解除に応じたが、そこから大虐殺が始まった。まず男達はが射殺され、次は女達。かろうじて生き延びたナンシー・ハクは「(モルモン教徒は)逃げ切れず命乞いする女性の頭を銃座で砕いた」との証言を残している。この虐殺で生き残ったのは18人の子供だけだった。生き残った子供達は地元のモルモン教徒の家庭で世話された。

  • 翌日、デーフが現場にやって来た所、既に約120の死体は先住民によって身包みはがされ、腐乱が始まって異臭が立ち込めていた。リーはデーフが 「しばらく黙り込み、顔は青ざめていた。そして『こんなに大勢だったとは』とつぶやいた」と述べている。モルモン教徒はこの虐殺を全て先住民の仕業とし、関与した面々に秘密を守る事を誓約させた。 そうした一部始終がリーによってヤングに報告された事だけは間違いない。

  • 虐殺の調査に派遣されたアメリカ合衆国陸軍の士官ジェイムズ・ヘンリー・カールトンは即座にモルモン教徒が犯人と確信。現場で発見された約40人分の遺骸を埋葬し、地元の木で作った大きな十字架を作らせ、その横木に「復讐するは我にあり、と神は言った。私が償おう」と彫らせ、その地には岩のケルンを作らせた。その上に石灰岩の板を置き「ここで、1857年9月に120人の男性、女性および子供達が虐殺された。彼等はアーカンソー州から来ていた」と彫らせた。この記念碑はマウンテンメドーズを抜けてスパニッシュ・トレイルを通る旅人への警告として2年間立っていたとされる。ある者の話では、ヤングが側近を連れてマウンテンメドーズに現れ、ケルンと十字架を破壊させたという。このとき「復讐するは我にあり、私は少しだけ関わった」と叫んだという。しかし別の者はケルンや十字架が朽ち果てたので、1864年にアメリカ軍によって立て直されたと証言している。 

1857年〜1958年モルモン教徒問題】ユタ戦争(Utah War、ディザレット防衛)
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  • 政府軍は本格的に遠征軍を派遣。モルモン教徒軍は数の上で1,000対1の劣勢となったが、連邦軍の牛を取り上げ物資荷車を焼く事に成功。これはモルモン教徒の有名な指揮官ロット・スミスの貢献が大きかったと考えられている。政府軍は冬の到来とともに11月にはワイオミングに撤退を余儀なくされる。戦意が下がった政府側では、非モルモンでヤングにもコネクションを持つトーマス・ケインなる人物に和平交渉を依頼。大統領もこれを了承した。

  • ケインは1958年2月にソルトレークに到着、秋に和平が成立した。ヤングはソルトレイクシティに火を放って追随者達をメキシコまで連れて行く計画を立てたが、最後のところで思い止まったのである。政府がモルモン教徒を処罰しない代わりに政府もユタを占拠しない。この条件でならヤングに代わる政府からの知事を受け入れるという内容。ただし新知事カニングについてヤングは「カニングは準州の知事だが、私は神の国を治めている」と嘯いたとされる(後にブキャナンから恩赦を賜った)。

  • しかし政府側はマウンテンメドーズの虐殺についてだけは、以降も追及の手を緩めなかった。カリフォルニアやミズーリーやアーカンソーだけでなくモルモン教徒の間ですら真相究明を求める声が絶えなかったからである。それでもヤングが徹底して非協力的態度を貫き通したのは、事実が明るみに出れば和平が壊れかねないからだった。裁判でも検察はヤングの関連を主張し続けたが、重要参考人が記憶違いを理由に証言が退けられるなど不調。何より陪審員の8人がモルモン教徒で無罪を主張し続けていたので審議が進まない。

  • 結局、ヤングは匿い続けて来たリーに全責任を負わせる形で政治的決着をはかった。かくして18年間教団に匿われてきたリーがついに1875年逮捕され、裁判にかけられる。リーは確かに自分が実行犯だったがあくまで指導者の指示に従っただけと主張。ところが、リーに襲撃を命じたヘイトはアリゾナ砂漠で行方不明になっており、デームの証拠は全てもみ消された後。またこの裁判の陪審員は全員モルモン教徒だったが、なんと全員一致でリーの死刑を支持 かくしてリーは1877年、殺戮の現場に連れて行かれて銃殺刑に処せられた。最後に「私はこうして今、汚い策謀の犠牲となる。しかし、無罪を主張したことに偽りはなかったと宣言する」なる 言葉を残した。そしてその処刑の5ヵ月後、ヤングも死去。

  • 現在、虐殺のあった跡地には記念碑が建てられている。リーの子孫とハンチャーの子孫が共同で建てたもの。両者は歴史の流れの中で劇的な和解を成し遂げたのだった。

1858年奴隷制問題】メルダジーン虐殺(Marais des Cygnes massacre)「血を流すカンザス」最後の大きな暴力沙汰。
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  • ボーダー・ラフィアンズが5人の自由州人を殺害した本事件に触発され活発化した。

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1861年〜1865年奴隷制問題】南北戦争(American Civil War)

  • 戦争に便乗し、カンザスミズーリの州境ではさらにゲリラ的な暴力沙汰が繰り返された。

    http://cdn.history.com/sites/2/2013/11/Battlle-of-Chickamauga-Hero-H.jpeg

1862年9月奴隷制問題】奴隷解放宣言(Emancipation Proclamation)
奴隷解放宣言

1962年モルモン教徒問題】 モリル(Morrill)反重婚令の制定(連邦法) 

1863年8月奴隷制問題】ローレンス虐殺(Lawrence Massacre)
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  • 1863年8月21日、ウィリアム・クァントリル率いる南軍のゲリラ部隊Quantrill's Raidersがローレンスを襲撃。

  • ローレンスは以前から奴隷制度廃止運動を支持しており、ミズーリ州西部の奴隷制度擁護派郡部にある農園やプランテーションを攻撃し破壊することで知られていた、自由州の民兵と自警団であるジェイホーカーズとレッドレグスの中心であるという評判があった。

1865年12月奴隷制問題】アメリカ合衆国憲法修正第13条(Thirteenth Amendment to the United States Constitution)批准
アメリカ合衆国憲法修正第13条

  • 公式に奴隷制を廃止し、奴隷制の禁止を継続すること、および制限のある例外(犯罪を犯した者)付きで、自発的ではない隷属を禁じたアメリカ合衆国憲法の修正条項の一つ。

  • その批准の前は、デラウェア州ケンタッキー州でのみ奴隷制は合法のままであった。他の全ての州では州の行動および連邦政府奴隷解放宣言によって奴隷は解放されていた。奴隷解放宣言を発したエイブラハム・リンカーン達は、奴隷解放宣言が一時的な戦争の手段と見なされるかもしれないことを心配し、奴隷制がまだ合法である2州の奴隷を解放することに加えて、永久的な奴隷制度廃止を保障するための手段としてこの修正条項を指示したのである。

  • 第38アメリカ合衆国議会により1865年1月31日に各州の議会に提案された。1865年12月18日のアメリカ合衆国国務長官ウィリアム・ヘンリー・シーワードの宣言で、36州のうち27州の議会により修正条項が批准されたことが布告された。修正条項の提案から1年以内に必要な全州の4分の3の州から批准されはしたが、1865年に州になっていた36州のうち最後になったミシシッピー州が批准したのは、130年後の1995年のことであった。

文字に。第1回【町山智浩「ジャンゴ 繋がれざる者」紹介】 - 小生、大人失格。

赤江 西部劇で黒人の方って、あまり見かけたことないですよね?

町山 実際は、西部には黒人の人がいっぱい居たんですよ。西部劇っていうのは、南北戦争が終わってからの後の時代なんですね。南北戦争が終わったんで、奴隷の人たちは解放されたじゃないですか。だから西部に流れていって、ガンマンとかカウボーイやってたんですよ、黒人の人たちは。ただ、アメリカの西部劇っていうのは、白人ばかりでやったという嘘があったんですよ。だから、最近歴史的に色々調べるようになってから、黒人のガンマンやカウボーイが出てくる映画が増えて来てるんです。

1890年 フロンティア消滅宣言(国税調査の結果に基づく)
フロンティア

  • 1890年の暮れ、雪の降り積もるサウス・ダコタのウーンデットニー(Wounded Knee Massacre)でスー・インディアン約350人が軍隊に包囲され、武装解除の間に起こった争いで300人近くが殺される。この時点で米国インディアンの組織的抵抗は最後となった。
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  • 米国歴史家フレデリック・J・ターナーが「アメリカ史におけるフロンティアの意味(1892年)」の中で後に「フロンティア学説」と呼ばれる主張を発表。その最大の特徴はアメリカ史をヨーロッパ史の延長線上に位置付ける北東部重視主義を退け「アメリカの歴史の特質は西部開拓に伴うフロンティア拡大に従って民主主義が増進した事にある」とした点で、彼に拠ればフロンティアの個人主義が民主主義を促進し、粗野ながら精悍な精神力、自由から生まれる快活さといった特質が獲得されたという。しかし南北戦争後のアメリカ合衆国では産業化や工業力が進み、すでにフロンティア時代の生活様式や精神生活は失われたとした。「フロンティアは過ぎ去り、それとともにアメリカ史の最初の時代が終わった」のである。

    https://halfbroguide.files.wordpress.com/2016/01/american_progress.jpg?w=535&h=407

1896年 ユタ準州がアメリカ45番目の州として承認される。

  • 1880年に第3代大管長兼預言者になったジョン・テイラーは、ヤングの路線を引き継いで多重婚を奨励し、合衆国政府と決定的に対立。政府側はエドモンド反多重婚法(1882年)を成立させると、それに従わないモルモン教徒を何百人も投獄。テイラーも逃亡して1887年死亡。この年、合衆国はエドマンズ−タッカー(Edmunds-Tucker)法が成立してモルモン教会解散、財産差し押さえ、投票権剥奪などが強行された。1885年頃よりメキシコへのコミュニテー建設が盛んとなったのはその影響とも。
    20世紀転換期米メキシコ国境地域の「曖昧な領域」性 :モルモン教徒メキシコ移住とビリャ懲罰遠征隊

  • 1889年に第4代大管長兼預言者になったウィルフォード・ウッドラフは、1890年に「神から多重婚制をやめよ」との啓示があったとした。しかし1901年には第五代大管長ロレンゾ・スノーが多妻婚容疑での逃亡生活の末、旅先で死去。1904年には第六代大管長ジョセフ・F・スミスが多妻婚に関する連邦法違反で有罪判決となるそして同年「複数の妻をめとる者は破門にする」との方針が打ち出された。しかし実際には多重結の習慣は1950年代まで秘密裏に続けられたとも。

    http://reach.blackrivertech.org/wp-content/uploads/2012/04/Spirit-of-America.jpg

ネット上には「(「ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」を起こした)ジム・ジョーンズと(モルモン教の教祖)ジョセフ・スミス・ジュニアはどこが違うのか?」なんて厳しい指摘もある様ですが、両者は何よりもまず「対応すべき現実」が全く異なっていて、だから全然違った結果を迎える事になったとも。
*まぁ同性愛を頭ごなしに否定するもんだから、国際SNS上の関心空間だけにとどまらず「お前らの本命はMILF(Mom I'd Like (to) Fuck)だかんな」とか決めつけられて、大変な展開になってたりもするんだが、それはそれ。とはいえ「Mormon MILF」の闇はあまりに深い…

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-f2-f0/tada627/folder/933469/13/31141213/img_1?1147405559

エマーソンの超絶主義(transcendentalism)だって、ソローの「ウォールデン‐森の生活(Walden; or, Life in the Woods、1854年)」が新たな命を吹き込まなければ、おそらく現在まで生き延びられませんでした。

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「君が何を見てるかではなく、君に何が見えてるかが大事なのだ」

「(開拓者として荒野と向き合う事を強要する)アメリカ開拓精神(American Frontier Spirit)」は、こういう形で後世に影響を残したんですね。

現在は過去を土台にして出来上がっているのですが、現在の中に過去そのものは〝物質的には〟存在しないような気がします。
食べてしまったご飯はもう無いのだし、今日楽しかったことはもう終わってしまい、過ぎ去ってしまいました。
なんだかパラドクスめいています。

おそらくは、そういう事…