読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【英国EU離脱】【米国大統領選挙】訳が分からなくなったら、出発点に戻る。

私も普段「未発見の歴史発掘」とかに熱中してるせいで、正史との関係性を見失い勝ち。定期的に発掘した断片とそれの擦り合わせを行わないと、いざという時に後肝心の立ち位置がブレまくってい色々大変な目に遭わされます。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol53/img/53_map.jpg

 宇野重規「ヨーロッパのデモクラシー」欧州統合の政治哲学的考察

ヨーロッパの特異性、それはイギリスやフランスやドイツといった個々の国民国家に先立ってヨーロッパという単位が存在したという事である。それはいつ形成され、どう発展していったのか。

  • 古代ローマ帝国は地中海を内海とし、地中海世界とでも呼ぶべき統一世界を形成したが、やがて東西に分裂。特に西ローマ帝国は早々にゲルマン諸族に滅ぼされてしまう。そしてさらにイスラム勢力が地中海の覇権を握った事で孤立した内陸部がヨーロッパという単位の母体となる。
    *一応これについては「ヘレニズム文化のコスモポリタン意識が古代ローマ帝国経由でヨーロッパに伝わった」とも考えられる。ここで肝心なのは、ヘレニズム文化コスモポリタン意識はイスラム勢力も継承し、これに仲介される形でヨーロッパに伝わった側面もあるという事。

    *多種多様過ぎて互いに共通点を持たなかったゲルマン諸族は、キリスト教化されて教区に区分される事によってのみ一つの単位にまとまる事が出来た。最初期の段階では、ローマ教会がこうした動きを主導した訳ではない。

  • アンリ・ビレンヌの名著「ヨーロッパの誕生 シャルルマーニュマホメット」をはじめとして、多くの著書がカロリング朝フランク王国がかろうじてイスラム勢力の侵入を食い止め、シャルルマーニュ大帝がローマ教皇に戴冠された800年をヨーロッパ世界の始まりと見做しているが、以降ヨーロッパ世界が一つに再統合される事はなかった。
    *というかむしろヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)とマジャール人侵攻によって(後に初代神聖ローマ皇帝に即位する)ザクセン辺境公、(後にフランス王統となる)パリ辺境伯、(後にイングランド王統となる)ウェセックス国王といった一部の例外を除いて綺麗に跡形もなく押し流されてしまったとも。しかしキリスト教化を武器とするヨーロッパという単位のフォーマット力は強力で、新たに襲いかかってきた「新蛮族」も丸呑みにしてしまう。かくしてノルマンディ地方とイングランド南イタリアに割拠するノルマン人の主導下、アストゥリアス西ゴート王国故地)、ブルゴーニュ(ブルグント王国故地)、ロンバルティア(ランゴバルト王国故地)を中心にロマネスク文化(Romanesque、10世紀末〜12世紀)が花開くが、十字軍運動(11世紀〜13世紀)が始まると次第に軍事的主体を北フランス諸侯に、文化的主体をイル=ド=フランス(パリ近郊)に明け渡しゴシック文化(Gothic、12世紀中旬〜15世紀)の時代へと推移。この間、イスラム諸王朝も東ローマ帝国も致命的なまでに衰退したが、ヨーロッパも14世紀に入ると飢饉や疫病流行に悩まされる様になり、いわゆる「大開拓時代(11世紀〜13世紀)」の終焉を迎える。

  • 常に複数の政治的勢力に分割されながら、それでも自らを一つの単位として意識し続けたのは、ローマ・カトリック教会の影響が大きい。すなわちローマ教会の組織を頂点に仰ぐ「キリストの体」というイメージ。そうした宗教的・精神的次元における統一と、政治次元における多様性が以降のヨーロッパという単位の基本的枠組みとなる。
    *とはいえアヴィニョン捕囚(1309年〜1377年)からローマ教会の権威失墜が始まる。教皇庁が世俗領主としての成功も望む様になり、チェザーレ・ボルジアのイタリア統一遠征(1499年〜1503年)が、そういう空気を背景に敢行された。

  • 中世普遍論争からヘーゲルに至るまで、哲学の主題が普遍と個別の関係にあった事も、こうしたヨーロッパという単位の特異性と切り離して考える事は出来ない。
    *興味深い事にその源流はヘレニズム文化から出発したアラビア哲学で、西ヨーロッパの王侯貴族はローマ教学に対抗すべく古代ギリシャ・ローマ古典に没入するうちに次第にキリスト教普遍史観からの脱却を果たしていく。皮肉にもヘーゲル哲学は、この流れから置き去りにされたスペイン、神聖ローマ帝国オスマン帝国ロシア帝国などに属する理念だった。

  • しかしながら近代ヨーロッパは、この様な普遍世界の崩壊から始まる。まず宗教革命によってカソリック教会の普遍性が損なわれ、以降は王政がヨーロッパ史を動かす原動力となる。帝国ほど自らの普遍性を主張する事なく、かつ都市国家ほど特殊でもない中間的形態が次第に正当性を獲得し、世俗世界の自立を達成するのである。19世紀フランスの政治家でもあった思想家フランソワ・ギソーは「ヨーロッパ文明史」においてヨーロッパの歴史発展の原因は、それが単一の原理によって支配されなかった事にあるとする。似た様な規模の複数の政治社会が並立し、互いに競い合った事が発展の原因になったというのである。
    *中央集権化の第一歩は、何よりもまずそれまで伝統的に自立を認められてきた都市や集落への介入権の確保だった。「魔女狩り」というムーブメントがここに関与してくる。

    *そして西ヨーロッパの先進諸国では次第に「ルネサンス期(14世紀〜17世紀前半)」から「啓蒙期(17世紀後半〜19世紀前半)」にかけて国民国家への移行が着々と進められてきた。ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」、ダーウィンの「種の起源」、マルクスの「経済学批判」が発表された1859年を一つの契機と見る向きも。19世紀後半に入るとこの流れにイタリア王国ドイツ帝国が合流してくる。時期を同じくして(南北戦争を経た)アメリカや(明治維新を迎えた)大日本帝国の台頭が始まる。

  • ここまでは欧州固有の展開だったが、やがて成長した王政は主権国家を形成し、新たな均衡状態を迎える。三十年戦争(1618年〜1648年)を終わらせたウェストフェリア条約締結によって世界初の国際協調体制が成立したのだった。これが拡大発展して世界各地を統合する事によって今日の国際社会が形成される。

    *スイスとオランダの独立を認めざるを得なかった神聖ローマ帝国にとっては敗亡に向けての日々の始まり。祖国に見切りをつけた領民達は19世紀に入るとアメリカへと移民していく。

  • ところが20世紀に入ると覇権は次第にアメリカに移り、ヨーロッパという単位が世界の一地域に転落。「世界の一部としてのヨーロッパ」という認識が次第に浸透して定着するとアメリカや日本に対する相対的地盤沈下を強く意識する様になり、第三極としての「一つのヨーロッパ」が志向される様になる。1980年代に入ってから欧州統合に向けての動きが加速したのは、何と言ってもこうした危機意識の高まりが原因であった。
    *とはいえ第二次世界大戦後のアメリカやソ連の覇権はそのまま20世紀末まで続いた訳でもなかったりする。

欧州統合。それは普遍から個別に向かったヨーロッパという単位にとって単なる歴史の逆転ではない。少なくともアメリカをはじめとする他の諸勢力と対抗するという一点においては閉じられた政治体を志向しとしているのである。欧州史における初めての経験と言わざるを得ない。しかもそれは、フランソワ・ギソーのいう「ヨーロッパ発展を支えてきた競争原理」の放棄に繋がるかもしれない賭けなのである。
*まぁ実際に足を引っ張ったのは過去の歴史の累積が生んだ貧富格差だったとも。

「保守思想」の祖・エドマンド・バークが考えたこと

山本:「保守思想」の原点であるエドマンド・バーク*に遡って、英国国教会の流れを組む本来の「保守思想」が日本にうまく合致するのかと言うと、そういうわけでもない。宗教的なバックボーンが違いますからね。
エドマンド・バーク(1729-1797)…18世紀の英国で下院議員として活躍した政治家・思想家。『フランス革命省察』というフランス革命を批判する内容の著作を公刊したことから、「保守主義の父」として知られる。宇野氏によると、バークの保守主義は、歴史的に培われた制度や慣習を保守しながらも、自由を尊重し、秩序ある漸進的改革を目指すものだとされる。

宇野:「保守とは何ぞや?」と聞くと、皆さん必ずバークを出してきますよね。彼がフランス革命を批判したことから、「抽象的な理念による革命はいけなくて、漸進的な改革を良しとするのが保守だ」というようなことをおっしゃるんですが、「本当にバークって、それだけを言った人なのかな」と思うことも多いんです。

というのも、バークはとても深い人物なんですね。体制派に見える側面もあるが、実はそうでもない。彼はアイルランドという、グレートブリテン(以下、英国)の中ではマイノリティの出身で、王様とはケンカするし、英国と敵対しているはずのアメリカの独立革命は擁護するし、さらに東インド会社のような植民地支配に対しても文句を言ってしまう。

彼が国王にまで噛みついたのは、「自由を大切にしながら少しずつ変えていく、それがイギリスの良き伝統だ」という信念があったからです。

山本:バークははっきりと「アメリカ人の自由に対する考え方は、我々と同じなのであって、擁護されるべきだ」と言ってしまうわけですよね。イギリスにとっては、植民地が独立されかねない瀬戸際の状態で、野党の理論派であるバークが、自由の考え方はイギリスの培うべきものと等しいと言い始めた。宇野先生の『保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで』でもきわめて正確にその思想について解説されていますが、彼は単なる野党的な批判をするのではなく「自由とは何か」をきちんと考えて、それがたとえイギリスの直接の国益にならなかったとしても、考え方が合致しているものに関しては擁護しています。

宇野:バークは議会や政党も非常に重視していました。政党とは国益のためにあるのであって、その実現の方向性をめぐって、分かれて競い合うものなんだと。だから対立はしても体制の全面的批判はしない。あくまで今の国政を前提に改革を目指すものなんだと。

山本:彼は父親が国教徒で、母親がカトリックという家庭で育ちましたから、そもそも多様性をはらんでいたわけですね。そこでうまく整合性を取っていくために、自由という概念やブリティッシュ・コンスティテューション(英国国体)に関する考え方などが整理されていった。だからこそ当時としても非常に破壊力のある批判ができたと思うんです。ただ、それをうまく日本に持ってくることができなかった。

宇野:それは大切な視点です。元々バークは文学青年ですし、美学の研究からスタートしているのですが、均整のとれた美ではなく、ある種の危うさを持った崇高さの概念からスタートしているんですね。

その根っこには、自分の中の軋み合うようなアイデンティティと、多様な人間が一緒に生きていくんだという前提があったと思います。そこから人間が一緒に生きていくためのマナーとか、共存のための作法みたいなものを洗練させてきたのが、彼の保守思想であり、本来のイギリスの保守思想なんでしょうね。

バークにとってフランス革命が気にくわなかったのは、「答えが一つ」だったからだと私は考えています。つまり、様々な声を許すのではなく「これが正解だ」「これが歴史の進歩だ、社会の発展だ。だから作りなおせ」というのがイヤだったんだと思います。

つまり、みんなで様々な伝統を使いながらやっていくのが社会の発展なのに、答えは一つだと決まっていて、あとは力づくで実現するのが「進歩」だと言われると、それにはついていけないと。

山本:社会の知恵というのは、複数の世代に渡って築き上げられてきた”合理性の塊”なんですよね。それは、真の意味での多様性の包摂だったり、少数の意見の尊重だったりする。

バークも「我々が大事にするべき価値とはなにか、伝統とはなにか?」ということを押さえて再定義し、社会情勢の変化や他国との関わり合いの中で、「ここは合わないから、改善してこう」と進んでいくのが「改革」だと考えたはずです。大切なのは、あくまで「改革」であって「革命」ではないと。だからこそ、フランス革命を批判したんだろうと思います。

宇野:つまり、「自分と意見が違うやつは出て行け」みたいな態度は「答えは唯一だ」という独善的な発想で、それは本来の保守思想じゃないんですよね。

加えて「今の世代のことだけを考えてはいけない」という発想も大切です。バークは「過去の人々とのパートナーシップ」とも言っていますが、過去の世代が大切にしたものも受け継ぐし、場合によっては未来の人達の利益も考えていかなけばならない。

ナショナリズム復古主義とは区別して考えるべき

山本:そう考えて行くと、民族主義的な人もそうですが、いわゆる保守的態度をとっている人が、「我々は保守だ」あるいは「保守本流だ」「保守主義者だ」と言っていることの傲慢さというか勘違いというか、本来のバークの思想としての保守主義ともっともかけ離れた考え方だと思います。これに対しては、どこかで修正をかけていかなければいけないのに、なかなか合理的な説明を果たす機会に恵まれず、結果として広く誤解がひろまってしまっています。解説を怠っていますよね。

実際には「保守とは何か」ということに関して、深い議論が戦後だけでなく戦前にもあり、場合によっては江戸時代の良かった面の掘り起こしも必要なはずです。日本が守るべき日本の伝統、知恵の再発見という観点があまり見受けられないのは残念なことです。「日本人とはなんぞや」みたいなものも含めて、次の世代にいかにブリッジをかけていくのか、という視点で考えなければいけないのではないでしょうか。

宇野:「ブリッジをかける」というのは良い言葉ですね。保守主義者って、やっぱりブリッジをかけていく人のことだと思うんです。革命でスパンと切っちゃうんじゃなくて、どう繋いでいくかという視点を持っている人。

歴史の転換点って、結構危うい時もあったと思うんです。日本でも明治維新と敗戦という2つの大きな断絶がありましたが、その断絶を認めながらも、どうやって連続性を持たせて繋いでいくかが知恵の見せ所でした。自分達が昔から大切にしてきた価値は何かということを、常に今の世代から確認し直し、検証していける、そういう態度が必要ですよね。

山本:本当は、日本にもバークのような考え方を持っている人たちがいると思うんですね。そういう方々が、分かりやすく「これが保守主義の本流のものですよ」と提示していただけたらいいなと。バークが何を考えて、どういう主張をしたのかということを理解し「自由」という重要な起点から考えて、何を伝統として残すべきなのかを、もう一度みんなで再考する必要があると思います。

今まで言われてきた、いわゆる日本の”保守”というのは、「保守的態度」なのであって、違うものなんですよと、うまい具合に説明したいといつも思っています。単に国民が天皇を崇敬する伝統を守るのが保守なんだと言われても、それが本来の意味での保守主義とは違うということになるはずなんですけど、そういう人達も「保守」を名乗るわけですよ。

宇野:仰るとおりです。保守主義というのは、まず、ナショナリズムとは区別するべきです。むしろ多様性に開かれていることが大切ですし、恣意的に過去と紐付けてしまうような、ある種の復古主義とも違うわけです。

要するに、社会が変化しているということを認めながらも、急速な変化に対してはスローダウンしてブレーキをかけ、検証しながら、前に進んでいくということでしょう。

だから、ただ「昔はよかったな」というのとも違います。着実に前に進むんですが、過去との連続性を大切にしながら進んでいく。そういう意味での「保守主義」が本当に日本にあったのかというと、不安になりますね。

この流れ、トランプ勝利に終わった2016年大統領選挙後の「冷静な」米国人の動きとも重なります。おそらく、これから「とにかく国民分断状態は放置出来ない」 と、互いに歩み寄る中道派と、ヒャッハー状態に突入した極右と極左の乖離がますます進むんじゃないでしょうか。

 まぁ、正直エドモンド・バークには気をつけなきゃいけない部分もあります。ユニテリアン派聖職者ジョゼフ・プリーストリー(Joseph Priestley、1733年〜1804年)との論争の顛末とか…

 手放しで褒めちぎったナンタケット島のその後の顛末とか…

とはいえ大筋は外してないし、今は信じるしかないとも。

 最近は何だかパゾリーニ監督の「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマより、ジョン・スチュアート・ミル「自由論(On Liberty、1859年)」の「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合はこの限りではないジレンマの方が重く感じられる様に。まぁどちらも究極的には同じ事を言ってる訳ですが。