諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「ピクチャレスク(Picturesque)」と「すさまじきもの」の間に横たわる壮絶なまでの差分について。

以下の投稿では、思わず勢いで「(日本語の)すさまじきこと」と「(英語の)ピクチャレスク(Picturesque)」を等式で結んでしまいました。

しかし当然考えてみれば、平安王朝文学における「すさまじきもの」は当時の日本文化、18世紀欧州における「ピクチャレスク(Picturesque)」は当時の欧州文化にそれぞれ深く根差した言葉。内容が完全に一致する方がおかしいといえましょう。

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そもそも「ピクチャレスク(Picturesque)」の原義は「絵画みたいにドラマチックな事」な事。それでは絵画みたいにドラマチックな事」なる表現は当時何を意味したのか。この設問自体が当時一般的だった「もし庭園を持てる身分になったら、それをどう設計したい?」なる思考様式と重なり、思いがけず壮絶な展開を辿る事になります。

主にイギリスの庭園美学において用いられはじめた概念であり、文字通り「絵のような」風景を意味する。

「ピクチャレスク」はイタリア語の「ピットレスコpittoresco」を起源とするが、この語が美的範疇として特別な意味をもつようになったのは18世紀のことである。

鳥山 祐介「19世紀前半のロシア文学とピクチャレスク概念」

18-19世紀初頭のヨーロッパの文学・芸術評論を解く上での重要概念の一つに、18世紀の英国に現れた美的カテゴリー「ピクチャレスク(picturesque)」がある。この概念が通常言われるような「絵のような」「絵のように美しい」といった意味を超え、特定の種類の美への志向性や特定の「視」の様式を規定する一つの制度として機能していたということは、既に数々の研究が示している。

  • そもそもピクチャレスクとは何か。ハグストラムが『姉妹芸術』で整理するところによれば、18世紀英国で用いられたこの語の意味は、大きく四つ、即ち「1. 絵のような、絵に描かれることができそうな」、「2. 描写の正確さ、写実性」、「3. 奇妙さ、奇想、多様性、不規則性、幻想性、グロテスク等」、「4. 快い不調和、粗野さ(roughness)、さらに自然の中の粗野な風景、岩山、滝、廃墟、サルヴァトール・ローザの描いたような風景といった対象への嗜好」に分類できるという。また、ローザやクロード・ロラン、カスパール・プッサンといった17世紀イタリアの絵画に描かれた風景を再生産した英国式庭園の制作原理において、この概念が大きな役割を果たしたことも知られている。これらの要素は、美意識としては18世紀初めあたりから存在していたものも多いが、18世紀末になってピクチャレスクという語のもとに整理され、理論的反省が加えられる。とりわけ注目すべき理論家が、ウィリアム・ギルピン(William Gilpin, 1724-1804)とユーヴデイル・プライス(Uvedale Price, 1747-1829)の二人であり、彼ら以降、ピクチャレスク概念の要点としてハグストラムの言う第3、4の要素が前面に出てくることになる。

  • ギルピンは、1768年の『版画論』の中でピクチャレスクを「絵画に適した、特定の種類の美を表す用語」と定義したが、後にこれに補足を次々と加えていく。とりわけ重要なのが、『ピクチャレスクな美、ピクチャレスク旅行、風景スケッチに関する三つの試論』(1792)でピクチャレスクを「美(beauty)」の対概念とした点である。彼によれば、美が滑らかさや端正さ、調和を特徴とするのに対し、ピクチャレスクは粗野でごつごつした外見を特徴とする。この定義は明らかにエドマンド・バークによる「崇高」の定義の影響下にあるが、ギルピンはピクチャレスクを特定の視覚的枠内に収まる美的カテゴリーとして、崇高の表象不可能性から明確に峻別した。一方、彼によれば、粗野な対象などが重視されるのは、それらが枠組みで囲まれた絵画という限定された空間の中に一つの構図、コンポジションを作り出すのに適している、端正な滑らかな対象物は単調な構図しか生み出さない、という観点からであり、「疲れ果てた馬車馬や牛やロバ」といった対象は絵の題材として大いに奨励されるものであった。

  • プライスは、ギルピンの理念を主に造園術の観点から推し進めていく。当時、18世紀の英国式庭園における非整形性には二つの方向性があり、一方で人気を博していたランスロット・ブラウン(Lancelot ‘Capability’ Brown, 1716-83)の庭園は、なだらかな草地や緩やかに蛇行する水の流れをふんだんに用いた平明な庭園であったが、1794年に『ピクチャレスクに関する試論』を著したプライスは、これを単調であり新興ブルジョワ階級の無趣味、画一的な価値観を示すものとして攻撃した。プライスはギルピンの考えを推し進め、「粗さ」「急激な変化」「不規則性」「錯綜」あるいは「珍奇さ」といった要素を重視すべきとする。また彼は、地面を滑らかにするブラウン一派をピューリタン革命期の急進派「レヴェラーズ=水平派」になぞらえ、景色における変化と社会における諸階級の共存を「全体」の協和、調和をもたらすものとして称揚するが、反フランス革命のパンフレットの著者でもあるプライスの保守反動的イデオロギーがここに反映されているとされる。さらに彼は視覚的な喜びを与える対象としてあばら家や乞食を挙げるが、ここには、これらが想起させうる社会的「悲惨」を特権的な「見る主体」の立場から眺めることで美学化してしまうという、ピクチャレスクの重要な一局面が表れている。

  • 英語のpicturesqueに相当するロシア語の形容詞はживописныйないしкартинныйである。とはいえ『18世紀ロシア語辞典』の«живописный»の項目には1798年、1803年の事例で「美しい、絵画に描かれるに相応しい」という語意が挙げられているものの、51793年ロシア科学アカデミーのロシア語辞典にはこの意味の記載はなく、必ずしもこれらの語の用例の集積がピクチャレスクの全貌を明らかにするわけではないことを示している。また、上記の18世紀末英国のピクチャレスクに関する理論的著作がロシア語に翻訳紹介された形跡は、筆者の知る限り確認されていない。従って、ピクチャレスクがある具体的な契機があってロシアに移入された、と考えるよりは、むしろ廃墟など特定の対象への嗜好性、多様性の重視、絵画的イメージの再生産に見られる引用性、表象の円環性といった隣接要素が文学作品や造園術に関する著作などを通して流入し、やがてピクチャレスクが一つの概念として漸次的に固まっていったと捉える方が、自然かつ生産的であると考えられる。

  • ここで興味深いのが、ピクチャレスクと密接に関わる英国式庭園やそれに関する言説の流入過程である。ロシアでは18世紀後半より、「貴族の解放令(1762)」で首都勤務から解放された貴族の多くが領地に関心を向けたことと、西欧の自然崇拝の思潮の影響とが重なって、宮廷を中心に庭園芸術への関心が増大する。ダーシコワは1770年の英国旅行の際に見た庭園を「上手く選ばれた自然の土地のようだ」と述べ、エカテリーナ二世ヴォルテールへの手紙(1772)の中で、「私は今では英国趣味の庭園がたまらなく好きなのです。曲がりくねった線、緩やかな坂[…]。そして真っ直ぐな線を深く軽蔑し、水を苛めて自然に反する流れを与える噴水を憎んでいます」と書いている。またポチョムキンは、ブラウン派の造園家グールド(Lancastrian William Gould)を招聘してペテルブルク等に英国式庭園を造らせており、英国の旅行家コックス(Archdeacon William Coxe)は、旅行記ポーランド、ロシア、スウェーデン及びデンマークへの旅』(1784)の中でロシアにおける英国式庭園の普及、イングランドスコットランドの造園家の活躍について記している。

  • 『経営雑誌』(1780-89)を発刊したボロトフは、同誌上に庭園論を盛んに掲載した。その中の一つ、ヒルシュフェルト『庭園芸術の理論』(Theorie der Gartenkunst, 1779-85)の翻訳では「絵になるような美しい景色」を絵画のアナロジーによって作り出すこと、奇妙な外観、対象の尋常ならぬ組み合わせや突然のコントラストの必要性といった、プライスの庭園論と呼応する考えが述べられている。「造園家は、絵になるような(картинный)美しい景色を様々な色彩や植物の緑で描き出すにあたり、風景画家に必要とされるのと同じ能力を持っていなければならないのである。そして、後者が絵具と絵筆によってカンヴァスの上に光景を作り出すのと逆に、前者は、自然が彼にカンヴァスの代わりに与えた土地の上に、樹木や潅木や草の織り成す様々な色彩でもって光景を作り出さなければならない。(自然は)この作品を山がちな地勢や岩、谷間、洞窟、大小の滝、そしてこれらの物の奇妙な外観だけでなく、その尋常ならぬ組み合わせや対照、配置における度を越えた無秩序、突如襲ってくるコントラストといったものによって形作る。」。またボロトフは『自然の美に関する書簡』(1790年代初め)で「自然の愛好者は、こうした緑を眺めるにしても、自然を楽しむ芸術についての理解を欠く普通の人間とは全く違った目で見る。自然の愛好者はそうした緑を見ながら、まず頭の中でその色を自分の知っている他の様々な色彩と比べ、その緑が持っている特性に心を和ませる」10 と述べているが、客観的な情報に基づかない感性を拠り所とするこうした特権意識は、ピクチャレスク美学にも特徴的なものであった。また彼は、自分の庭に白樺などロシア的な樹木がないことを自慢したクラーキン公爵などと逆に、11 造園の際植生などにおけるロシア的要素を重視したとして知られるが、このことは、ボロトフが英国の庭園をそのまま移植したのではなく、多様性や絵画性といったピクチャレスク的な理念を通して受容したことを示唆すると考えられる。

  • ゴーゴリのピクチャレスクに対する姿勢はより複雑で、かつ意識的なものである。この点においてまず興味深いのが『アラベスク』の中の論文「彫刻、絵画、音楽」(Скульптура, живопись и музыка, 1831)〔6:23-27〕である。この中でゴーゴリは三つの芸術を比較対照し、彫刻を「ギリシア世界、美、官能、身体性、快感」に、絵画を「中世キリスト教世界、『人間と自然』『官能と精神』の調和の場、静かな興奮と夢想」に、そして音楽を19世紀、崇高、精神性、激情と精神の霍乱といったものにそれぞれ結び付けているが、こうした三分法はギルピンやプライスなどによる三つの美的カテゴリー「美」「崇高」「ピクチャレスク」に関する議論を想起させる。またゴーゴリは同じく『アラベスク』所収の論文「現代の建築について」(Об архитектуре нынешного времени, 1831)〔6:69-87〕で、19世紀の建築の単調さを批判し、多様性を生かした面白い建築を作ることの必要性を説いたが、ここには美とピクチャレスクとの対立の問題への彼の関心が表れている。

  • ピクチャレスクに関する彼の問題意識がとりわけ強く反映された作品が、小説『ローマ(断章)』(Рим (отрывок), 1842)である。34 この概念の起源とも深く結びついた、古代、中世、現代の各要素が混在するローマという町の多様性が、この作品では廃墟など数々のピクチャレスクな道具を用いて強調される。この作品の物語上の筋は、主人公の公爵がそうしたローマの魅力に次第に惹かれていく過程と、一方で完全なる美の化身として描かれるローマ娘のアヌンツィアータにも惹かれていく過程という二本の軸から成り立っているが、注目しておきたいのは、ローマが完全にピクチャレスク、絵画的であるのに対し、アヌンツィアータが彫刻性と絵画性の間を揺れ動く存在として描かれている点である。「彼女はどこへ行っても、既に一幅の絵を構成するのであった。例えば夕暮れに、銅の壷を頭に載せた彼女が噴水へ急ぐと、彼女を包む辺りの全ては妙なる調和に包まれ[…]」〔3:177〕「その噴水も、その群集も、あたかも全てが彼女のために、その華麗な美をとりわけ鮮明に見せるために、またあたかも女王が後ろに廷臣を引き従えているがごとく、彼女が全てを支配している様を際立たせんがために存在しているかの観があった」〔3:177〕といったように、彼女はある場面では絵画的な客体であるが、一方で「彼女の中の全てが、大理石が生気を得て彫刻家の鑿が輝いていた、あの古典古代の時代を思い起こさせた」〔3:177〕とあるように、彫刻的な対象でもある。公爵も彼女への思いを述べるにあたり「俺があの女に会いたいのは、別に彼女を手に入れてやろうというのではなく、ただ彼女をしげしげと見たいだけなんだ。彼女の全てを、その目を、その手を、その指を、その艶やかな髪の毛を見たいだけのことだ。キスなどしなくても、ただ彼女を眺めることができさえすれば十分なんだ」〔3:206〕と述べるが、このような官能性とただ見ることから生まれる静かな興奮との間の揺れは、先の論文「彫刻、絵画、音楽」における彫刻性と絵画性の問題として捉えることができる。この作品の終結では、公爵がアヌンツィアータとの面会を果たすにあたって一計を案じてもらうべく、以前公爵邸に住み込んでいたペッペという老人に会う。そこで、公爵がペッペに頼みを持ちかけたちょうどその時、公爵はふとローマの市街を見下ろし、町のあまりの美しさにアヌンツィアータのことも何もかも忘れてしまう。恍惚とした主人公と困惑する読者を置いてけぼりにしたまま作品は終わっているが、このことから、この小説は、美とピクチャレスクとが相対する中、最終的にローマの属性であるピクチャレスクが優位に立つ、という構造をとっているということができる。

興味深いのが、ゴーゴリ「死せる魂」第1部第11章、チチコフがNN市を馬車で逃げ出す場面に現れる、ロシアに関する語り手の詠嘆である。「ロシアよ! ロシアよ! 私はお前を眺めている、わが妙なる麗しき遠地からお前を眺めている。お前のうちにあるものは貧相で散漫で居心地が悪い。眼を愉しませたり驚かせたりする、奔放な芸術の奇跡によって飾られた奔放な自然の奇跡もなければ、断崖の上に聳え立つ、多くの窓を備えた数々の大宮殿のある町もなく、建物の上や、滝の轟きと絶え間ない水飛沫の中に根を下ろしたピクチャレスクな木々やキヅタもない[…]。お前のうちにあるものは全て、茫漠として平板である。お前のところでは背の低い町々が平原の間に点か記号のように慎ましく顔を出しているだけで、眼を惹きつけるものは何もない。しかし、何という不可解で神秘的な力が私をお前に惹きつけるのだろう? どうしてお前の物悲しい歌、広く長い国土の津々浦々を伝わる歌が絶えず聞こえ、耳に鳴り響くのだろう? この歌の中には何があるのだろう? 何が私を呼び、何が慟哭し、何が私の心を鷲づかみにするのだろう? どんな声音が痛ましく接吻し、魂に食い入り、私の心臓に絡みつくのだろう? ロシアよ!〔5:210-211〕」。ここで述べられるのは、面白味のないロシアの風景におけるピクチャレスクの不在である。そのことを受け止めた上で語り手はロシアへの思いを述べるが、注目したいのは、このロシアの吸引力が「お前の物悲しい歌」「声音」といったように音響、音楽の隠喩によって語られている点である。即ち、ピクチャレスクに惹かれる語り手も「ロシア」がそれと異質であることを認めており、「ロシア」はむしろ、上述の三分法でいう崇高のカテゴリーに近いものとなっている。ロシアの風景がピクチャレスクという視覚表象を拒むものとされるのも、この文脈から解釈することができる。『ローマ』がその内的構造において美からピクチャレスクを志向する作品であるのに対し、『死せる魂』は、当時ゴーゴリの生活拠点であったローマというピクチャレスクな場から、崇高、ロシアを眼差した作品なのである。

根本が単なるミリオタなせいか「ピクチャレスク(Picturesque)概念不在のロシア」といわれても、第二次世界大戦の一環として戦われた独ソ戦における「進めども進めども一切変わらぬ風景」といったイメージしか思い浮かびません。まぁこれは日中戦争において大日本帝国兵士の経験とも重なる様です。現代人でもシベリア鉄道に乗れば誰でも追体験可能とも。要するに地域によって多種多様な自然が広がる景色を当然のものとして受容している島国の人間にとっては「何日も何日も寝台列車に乗り続けているのに景色が一切変わらない理不尽な状況」そのものがピクチャレスク(Picturesque)という困った事態が現出してしまうのですね。あくまで旧植民地に残してきた既得権益に執着し続ける欧州諸国に対して、日本があっけなく大陸進出の夢を捨てられたのは、このトラウマが原因ともされています。

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それはそれとして、ここで最も肝心なのは「ピクチャレスクは美(beauty)の対概念と規定された。なるほど確かに美が滑らかさや端正さや調和を特徴とするのに対し、ピクチャレスクは粗野でごつごつした外見を特徴とすると規定された点においてはエドマンド・バークの崇高(Sublime)の概念の影響が色濃く見て取れる。しかし同時に特定の視覚的表現の枠内に収まる美(beauty)と、その表象不可能性を特徴とする崇高(Sublime)もまた明確に峻別されたのである。その結果としてピクチャレスクが意味するものはむしろ「枠組みで囲まれた絵画」なる限定空間において一つの構図、コンポジションを作り出す美(beauty)の引き立て役としての「貧相な荒屋」や「疲れ果てた馬車馬や牛やロバ」といった粗野な対象に限定される事になった」という下りかもしれません。重要なのは、あくまで「端正で滑らかな対象だけで構成された風景は単調な構図しか生み出さない」なる現実への対処。むしろそのさらなる外側からの侵食に崇高(Sublime)の本質を見たエドマンド・バークの理念や、ラブクラフトが好んで使った表現でいうところの「瀆神的なまでに名状し難き何か」は絵画的完成を阻むノイズとしてフィルタリングされてしまう展開となりました。まぁ需要に素直に応じるのが商業主義の根本なので、それはそれで仕方のない事かと。
新海誠監督作品「君の名は」における「映像化された部分」にも、この限界が見て取れる。結局のところ「外側」なんて、商業主義の世界では「マーシャル・アンプのオーバードライブ音」みたいに「元来歪む筈のない頑強なシステムまで歪んでいる」といったイレギュラーな形でしか表現し得ないとも。

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それなら日本語における「すさまじきこと」の原義はどうなっているのでしょう?

その一方で枕草子第二十五段「 すさまじきもの…」における「すさまじきもの」は「興醒めなもの」と現代語訳される事が多い様です。しかしむしろラブクラフト神経症的解釈を応用して「普段は視野外だが、意識し出すと途端に決っして目が離せなくなる様な何か」と捉えた方がしっくりくるかもしれません。当時の日本においては、朝廷中心に回る宮廷生活こそが至高ですから、その仲間入りを果たした以上、最高のノリノリ状態で毎日を過ごすのが権利であり義務。しかし、それでもなおその陶酔状態に割り込んできて水を差すのが「すさまじきもの=興醒めなもの」という理解。

枕草子 - 第二十五段 『すさまじきもの…』 (原文・現代語訳)

興ざめするもの、昼に吠える犬。春の網代。三月、四月の紅梅色の着物。牛が死んでしまった牛飼い。赤ん坊が亡くなってしまった産屋。火をおこしていない炭櫃や囲炉裏。博士が続けて(奥さんに、跡取りとなる男の子ではなく)女の子を産ませたこと。方違え(占いで凶とでた方角に直接進むのを避け、あえて回り道する事)に行ったのに、おもてなしをしない所。まして節分の(時期に行う方違えでおもてなしをしない)場合は、大変興ざめです。

人が地方からよこした手紙で、贈り物がないもの(は興ざめです)。(地方の人も)京から届く手紙に贈り物が添えられていなくてはそのように思っているでしょう。しかしそういう(贈り物がセットではない京からの)手紙は、見聞きしたいと思っていることを書き集めてあり、京に起こっていることも伝え聞くことができるので(贈り物がなくても)とてもすばらしいものです。

また、必ず来るはずの人の所に迎えの牛車をやって待っていると、牛車が来る音がするので、やって来たようだと人々が出てみると、牛飼いは車を止めず、そのうえ車庫に引き入れて、轅をばたんと下ろすので、「どうしたのか」と聞けば「今日はよそへいらっしゃるというので、こちらへはおいでになりません」などと言い、牛だけ引き出して去ってしまうのは興ざめです。

また、家の内に迎え、通ってきていた男性が来なくなってしまうのも、ひどく興ざめです。しかるべき身分で、自分が宮仕えしているところの女性のもとに婿を取られ、気が引けているのも実におもしろくありません。

赤ん坊の乳母が、ほんのちょっとと言って出かけた間、赤ん坊をあれこれあやして、乳母に「早く帰ってきなさい」と言ってやったところ「今夜はどうしても参上できません」と返事があったときは、がっかりするだけでなく、ほんとうに憎らしく困ってしまいます。これが乳母ではなく、愛する女を迎えにやった男だったら、ましてどうでしょう。待っている人があるところに夜が少し更けて、こっそり門をたたくので、胸が少しどきどきして、人を出して尋ねさせると、別の関係ない男が名乗ってきた場合も、ひどく興ざめだと言っても言い足りません。

修験者が、物の怪を調伏するといって、たいそう得意顔で(物の怪を乗り移させる人に)独鈷や数珠などを持たせて、蝉の(ような苦しそうな)声をしぼり出してお経を読んでいるのですが、少しも(物の怪が)去る様子もなく、護法もつかないので(お祓いをうけている人の関係者が)集まり座って念じていたのですが、男性も女性もおかしいと思っていると、(修験者は)時が変わるまで(お経を)唱え疲れてしまって「まったく憑かないですね。立ちなさい。」といって、数珠を取り返して「あぁ、まったく効果が無いなぁ。」と言って、額から上の方へ(髪を)かき上げ、あくびを自分からして、ものに寄りかかって寝てしまったこと(は興ざめです。)

たいそう眠たいと思うときに、たいして思っていない人が、揺り起こして、無理に話しかけるのは、とても興ざめなことです。

官職任命の儀式に官職を得ない人の家(は興ざめています)。今年は必ず(官職を得ることができるだろう)と聞いて、かつてこの家にいた者たちで、今は散り散りだった人々、田舎じみたところに住む人々が皆集まってきて、(この家に)出入りする牛車の轅も隙間なく見えています。(官職に任命されるよう、家の主が)お参りに行く供に、私も私もと参上申し上げ、物を食い酒を飲み、騒ぎあっていましたが、(任命式が)終わる明け方まで、(使者が)門をたたく音もしません。おかしいなと思って、耳をたてて聞いてみると、先払いする人の声がして、上達部の方々は皆(任命式のあった宮中から)退出なさいました。話を聞くために前の晩から寒がってふるえ(ながら外で様子を探って)ていた下人が、とても憂鬱そうに歩いてやってくる様子を見る人々は、(任命されたかどうかを)伺うことができずにいます。(その場に初めからいなく)よそから来た者は、「殿はなんの位になられましたか。」と尋ねると、その返事に「どこそこの前の国司です。」と必ず答えます。(家の主が役職に任命されることを)本当に頼みにしていた者は、大変嘆かわしいことだと思っています。早朝になって、隙間なくい合わせていた者たちは、一人二人こっそりと退出していきます。古くから仕えている者、そんな風に(その場を)離れることができそうもない人々は、来年の(国司が交代する)国の数を、指を折って数えたりなどしています。体をゆすって歩いていた者たちも、とても滑稽で興ざめなものです。

何たるネチネチと細かいツッコミの連続… ところで日本の王朝文学、特に女房文学は法華経提婆達多品における「竜娘即身成仏譚」の影響が色濃いとされています。

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文殊師利(もんじゅしゅり)の言わく、
裟竭羅(しゃから)龍王の女(むすめ)有り。年始めて八歳なり。
智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、
諸仏の所説の甚深の秘蔵悉く能く受持し、
深く禅定に入って、諸法を了達し、
刹那の頃に於いて、菩提心を発して不退転を得たり。
弁才無礙にして、衆生を慈念すること、猶、赤子の如し。
功徳具足して、心に念い口に演ぶること、微妙広大なり。
慈悲仁譲、志意和雅にして、能く菩提に至れり。

  • とにかく女で子供(8歳)で人間ですらない存在が即身成仏を遂げる衝撃。「女なんかが成仏出来るか!!」と男権主義者の菩薩(自ら菩提を求めつつ衆生を導く立場にもある行者)がツッコミを入れると、みるみるうちにおち○ちんを生やして「男の娘」に変身。「その下らない偏見が貴様の成仏を妨げているのだ!!」と論破してしまう豪快さ。これに当時の日本人はすっかりやられてしまったのである。
    *能でも数多くの作品が題材に選んでいるし、曲亭馬琴滝沢馬琴)「南総里見八犬伝(1814年〜1842年)」も伏姫が毎日これを音読しているうちに飼犬の八房(法華経が八巻なのにちなむ)に菩提心が宿って伏姫を妊娠させる所から始まる。

  • どうしてこんな説話が生まれたのか。概ね法華経は紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけてゆっくり段階的に成立したと考えられている。当時はガンダーラ(西北インド)やマトゥーラ(北インド)仏像芸術の庇護者として名高いクシャーナ朝(1世紀後半?〜375年)が成立して中国とペルシア、ローマをむすぶ内陸交易網が整えられ、南インド沿岸がローマ帝国などの西方諸国との季節風貿易で繁栄する前夜。ローマ帝国時代の金貨が大量に出土し、インドからは綿織物や胡椒が輸出されていたと考えられている。そうした時代に向けて次第に台頭していく新興ブルジョワ階層を在家信徒として擁した仏教教団が、その社会的地位上昇を正統化すべく編纂したと考えられている。だから「子供>大人」「女>男」「商人>王侯貴族」といった「下剋上」図式があちこちに散見され、日本では女性や商人だけでなく(公家への対抗勢力として台頭した)武家からも愛されたという次第。そもそもインドにおける仏教への帰依者はバラモン教的身分秩序の底辺層が多く、特に大乗仏教を生んだ大衆部はその傾向が強かったというのも大きい。
    *在家信徒が修行者の生活を支えつつその供給源となる仏教教団のシステムはマニ教経由で地中海沿岸部にまで伝わり、元マニ教徒だった聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年〜430年)の手になる「キリスト教世界における修道院システム」成立に重要な役割を果たしたとされる。一方教学方面では、むしろクシャトリア(王侯貴族)階層のそれとキリスト教圏における「両剣論」の間に相似性が認められる。

    *両者を仲介したのがヘレニズム文化の伝統が色濃いアフリカ北岸だった事は、アフリカ各地でしばしば中華王朝時代の陶器が出土している事とも呼応するし、そもそも地中海沿岸は(インドのカーリー信仰と縁深い)フェニキアのアスタルテ(Astalte)や、コリントスアフロディテ(Aphrodite)といった「航海の女神」信仰と縁深く、これらが各地の「豊穣の女神」と習合を起こしている。ただしキリスト教がこれら異郷の女神達を公式に習合する事はなかった。実際にはアイルランドのアンヌ(聖母マリアの母)信仰や、カソリック教圏におけるマリア信仰の様な体裁で吸収が進んだにも関わらず。

  • ちなみに当時の仏教教団は盛んに仏塔(ストゥーパー)を建立しており、これが日本伝統の「心の御柱」信仰と相性が良かった事も日本に仏教が根付いた鍵の一つとなっている。
    ペルシャの河神アナーヒター(Anāhitā)と同源と考えられているインドの河神サラスヴァティー(सरस्वती)が日本に伝わって弁財天(神仏習合では宗像三女神の一柱たる市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視)となったのも、海商ネットワークにおける航海安全と財運アップを願う心理が合致したからとも。

ただし日本の女官文学は「些事が気になる神経症的性分」や「愛憎の深さが引き起こす修羅場」を頭ごなしに否定して即身成仏する道は選びませんでした。むしろ一旦、そうしたドロドロした部分を全てを出し切って、その過程で自分自身への客観性を養う事で心の平安に辿り着くのが本命と考え、かくして藤原道綱母蜻蛉日記」や菅原孝標女「更科日記」といった日記文学の傑作が誕生する事に。その一方で華やかな宮廷生活に心身ともに没入し「精神的平穏への到達」をあくまで拒み抜いた清少納言の「枕草子」は、同時代の紫式部(彼女が残した「源氏物語」もまた当時の「女人成仏物」を代表する一作)などから「このミーハー女めがっ!!」などと罵られつつ、当時の時代精神の一環をまた別の形で現代に伝える事になった次第。

紫式部…いうまでもなく彼女が残した「源氏物語」もまた当時の「女人成仏物」を代表する一作。「源氏物語玉の小櫛」「玉勝間」「馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)」といった源氏物語注解本を残した本居宣長は、国学者の立場から「この作品は完全に仏教と無関係だから素晴らしい」としたが、当時の「女人成仏」のシステムを理解してなかったとしか思えない。

『紫日記』黒川本

清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり かく 人に異ならむと思ひ好める人は かならず見劣りし 行末うたてのみはべれば え心になりぬる人は いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ をかしきことも見過ぐさぬほどに おのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ

【現代語訳】清少納言は、得意顔でとても偉そうにしておりました人(です)。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしております(その)程度も、よく見ると、まだたいそう足りないことが多い。このように、人より特別優れていようと思いたがる人は、必ず見劣りし、将来は悪くなるだけでございますので、風流ぶるようになってしまった人は、ひどくもの寂しくてつまらない時も、しみじみと感動しているようにふるまい、趣のあることも見過ごさないうちに、自然とそうあってはならない誠実でない態度にもなるのでしょう。その誠実でなくなってしまった人の最期は、どうしてよいことでありましょうか。(いや、よくないでしょう。)

完全に言いたい放題。まさに「泥は吐き尽くしてこそ成仏する」女房文学の鑑。この酷評に加え「女の才はかえって不幸を招く」なる中世思想のせいで、鎌倉時代に書かれた「無名草子」「古事談」「古今著聞集」などには清少納言の落魄説話が満載される事になりました。まぁこれは他の女流作家も辿った道ではありましたが。「竜娘即身成仏譚」も「変成男子譚(女子はそのままでは成仏出来ないので、一旦男子に変貌しなければならない)」に読み替えられたりしてしまいます。

実は悲しい『枕草子』清少納言の思い出

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そもそもよく考えてみれば、こうした宮廷生活に没入するミーハー精神は元来、当時の男性貴族のものだったりするのですね。自分に代わって政敵が昇進すると嫉妬に狂って復讐を企てたりとか全然男らしくないですが、それが当時の朝廷での男性文化だったりした訳です。

大鏡…白川院政時代(1086年〜1129年)の成立。文徳天皇即位から後一条天皇の万寿2年(1025年)に至る14代176年間の宮廷史について大宅世継(190歳)と夏山繁樹(180歳)なる長命な二人の老人が雲林院の菩提講で語り合い、それを若侍が批評するという対話形式。
*「源氏物語」の影響が色濃い女性の手になる仮名文の編年体物語風史書栄花物語(1028年〜1107年成立)」の延長線上に登場。こちらは六国史日本書紀続日本紀日本後紀続日本後紀日本文徳天皇実録日本三代実録)の後継たるべく宇多天皇の治世から起筆し、摂関権力の弱体化した堀河朝の寛治6年2月(1092年)まで、15代約200年間の時代を扱った。この「栄花物語」について相模女子大学の待井新一教授は「評価すべきは、女手(おんなて)といわれる仮名で物語風に歴史を書いている事で、女性にも読んでもらう史書を目指し女性による女性のための歴史物語を完成させた点、はじめて歴史と文学とを結合させ歴史を身近なものにした点が歴史的画期」としている。

「今鏡」…1170年以降の成立。「大鏡」の後を受けて後一条天皇の万寿2年(1025年)から高倉天皇のまでの13代146年間の歴史を紀伝体で記す。長谷寺参りの途中で大宅世継の孫、かっては「あやめ」という名で紫式部に仕えた150歳超の老婆から聞いた話を記した形式。
*藤原,村上源氏両氏の歴史を主として記す。

「水鏡」…1195年頃成立。時代を遡って神武天皇から仁明天皇まで57代の事跡を編年体で述べる。73歳の老婆が、長谷寺に参籠中の夜、修験者が現れ、不思議な体験を語るのを書き留めたという体裁。
*「扶桑略記」などを資料としており,仏教説話を多く取り入れている。
「増鏡」南北朝時代(1336年〜1392年)の成立。寿永3年(1183年)の後鳥羽天皇の即位から元弘3年(1333年)後醍醐天皇隠岐に流され京都に戻るまでの15代150年の事跡を編年体で述べる。嵯峨の清凉寺へ詣でた100歳の老尼が語る昔話を筆記した体裁をとっているが、現存の本においては尼は最初の場面だけの登場になっていることから、当初は他の「四鏡」と同様に尼が登場する最後の場面が書かれた部分が存在していたとする説もある。
*「源氏物語」や「栄花物語」の影響を受け,流麗な擬古文で叙す。

 こうした伝統は7歳で「南総里見八犬伝」を読破し、14歳で歌塾「萩の舎」に入門して当初は王朝風文学を目指した樋口一葉の「にごりえ(1895年)」や「たけくらべ1895年〜1896年)」を通じて日本近代文学に接ぎ穂されたと考えられています。まぁ東京朝日新聞専属作家の半井桃水に師事して井原西鶴なんぞも読み込まされてますから、さらに色々混じってますが「ドロドロの果てに到達する諦観」なる基本構造は、割とそのまま。
樋口一葉 にごりえ
樋口一葉 たけくらべ

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一方「竜娘即身成仏譚」の「子供」の部分については、どうやらどこかで儒学における童心説と混ざったらしく、北原白秋ら児童文学者の目指した「(遊びに耽って時間の経過を忘れる)三昧の境地」へと発展する事に。
*「童心説」…福建省泉州府晋江の回教徒家庭出身で、イエズス会マテオ・リッチの友人で、女性にも学問を講義した異色尽くめの泰州学派(陽明学左派)儒学者李卓吾(1527年〜1602年)の提唱した学説。人間は生まれながらにして良知を先験的に備えているが、知識や道理といった外からもたらされるものによって次第に曇らされ失われるとした。赤子の心に人間の本来的姿の顕現をみた孟子哲学の過激版とも。明治時代の有識者はこれとカント哲学を同一視していた。

それでは今現在この流れがどうなっているかというと、例えば「国際SNS上の関心空間」では「十代前半までに厨二病を患わない人間は情熱が足りない。十代後半以降も厨二病を患ったままの人間は分別が足りない」なんて展開に。

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日本語のChunibyouなる表現も一応伝播はしてますが、欧米だと突然「クラスの男子全員をチェーンソーで皆殺しにしたい!!」とか言い出す女子や「将来は非合法の道に生きる人々がしばしの憩いを求めて集うバーのバーテンダーになりたい」とか言い出す男子(大抵、突然アカウントを消して逃亡する)。所謂Gothタナトス(Thanatos、死の誘惑)に魅入られちゃった人達)やWeaboo(日本文化こそ至高と主張する人達、単なる日本文化ファンとは峻別されている)」はもう一段根深くて一生戻ってこれない人も多かったりします。ちなみに日本の腐女子に該当するSlashやストリート・フアッションに身をやつしてスケートボードスノーボードに興じるThrasherやサーフィンに熱中するSurfer などは、一生そのままなのでこの範疇で語られる事はありません。ただ同性婚が認められてLGBTQ系の人々の普通度がアップしたり、大麻が合法化されたりすると、その都度「世界が狭くなっていく」閉塞感を感じたりもします。普段交わされてる会話を見るに直接の関係はあまりなさそうなんですが「罰が減るほど逃げる楽しみも減っていく」重苦しさみたいなものの影響は確実に受ける模様。

*「カウンター・カルチャーとしてのロココ趣味」なんて日本人には到底ついていけない展開もこうした展開と無関係ではない。起源は不明ながらシンディ・ローパー「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン(Girls Just Want to Have Fun、1984年) 」やマドンナの「ライク・ア・バージン(Like a Virgin、1984年)」のフェミニン路線がカウンター・カルチャーとして流行した1980年代とも。肝心なのはあくまで「親公認の玩具なんてつまらない」みたいな反骨精神の拠り所になるかならないかなのだった。

少なくとも、こうしたトレンドに匹敵する規模では残ってない様です。日本もかつてと比べると随分、世界が狭くなっている?