諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【トランプ大統領】【習近平国家主席】既に始まっている「アメリカ・ファースト」の時代に向けての布石合戦

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Mic — Poignant Ben & Jerry’s ad spreads message of hope...

2016年度大統領選挙においてトランプ候補が選ばれた事がどういう意味を持つかが表面化してくるのはまだまだこれから。ただ「国際SNS上の関心空間」の反応を眺めていても、既に確定してる変化というのはあります。それは「ファースト・アメリカ」を望む声が想像以上に幅広く広がっていると、アメリカ人自身が認識してしまったという事。

まぁそれ以前から大統領選挙過熱の裏側で「アメリカ国内における中東情勢への無関心の広がり」を指摘する声なら存在していました。そして、そうした流れが「ヒラリー候補の勝利は従来の中東積極後援政策の追認となるから避けたい」なる不穏な雰囲気を伴っていた事を、民主党陣営はもっと意識すべきだったのかもしれません。

そして現在アメリカは、国民投票EU離脱が決まって以降の英国人同様、自分達の深刻な分裂を発見して深く傷ついています。私は個人的には長期的に(対立陣営と対話する意思を全く備えてない)極右と極左を切り捨てた中道層が成立するのではないかと予測していますが(半ば願望に近い)、現段階では予断なんて一切許されない状況。いずれにせよ当面の間(下手をしたら数年)アメリカ人が今回のの結果を受けての内向きの対応に追われる事はまず間違いありません。おそらく最初の戦端が開かれるのは中絶問題とか銃規制問題といった「後回しにされてきた国内問題」辺り?

こういう展開をあらかじめ予測し、ずつと待ち望んできた国が日本の隣に存在します。日本人は日本人でこうした展開について、自らが主導する形での対応を覚悟すべきなのかもしれません。

「今日、われわれは中華民族の偉大な復興の新局面を切り開かねばならない」

米大統領選で共和党のドナルド・トランプ氏が勝利宣言した2日後の今月11日、北京の人民大会堂孫文の生誕150周年を祝う式典が開かれ、中国の習近平国家主席は同じ表現を4度繰り返した。欧米列強による国土の蚕食に抵抗した「救国の英雄」をたたえる重要講話の中で、習氏は台湾を念頭にした「祖国の完全統一」とともに、世界に君臨する超大国復活に向けた新たな展開を予告した。

長期戦略として世界の“核心”を目指す中国は、トランプ次期米大統領という世界秩序に生まれた変数をどう捉えているのか。多くの対米専門家はその外交政策の不確実性を強調するが、ほぼ共通するのは「米国によるアジア太平洋地域への関与の低下と、経済利益における米中の衝突」が生まれるとの予測だ。前者は中国が地域で突出した影響力を持つチャンスの到来を意味する。

中国人民大学米国研究センター主任の時殷弘教授はオバマ政権が進めたアジア重視の「リバランス(再均衡)政策」の行方についてこう語る。「トランプの経済孤立主義によって、再均衡政策の背骨だった環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)はへし折られた。その世界観から判断しても、外交面でも同盟国などへの影響力は弱まるだろう」

オバマ政権の再均衡政策は、習指導部が進めてきた露骨な海洋進出の封じ込めに失敗した。米国はアジアでの存在感強化を図る一方で、北朝鮮やイランの非核化、リーマン・ショック以降の世界経済の立て直しなど世界的な課題解決に向けて中国に協力を求め、その影響力増大を歓迎してきたためだ。

こうしたオバマ政権の融和姿勢は、中国の最高指導者鄧小平が打ち出した「韜光養晦(とうこうようかい)」(姿勢を低く保ち、強くなるまで待つ)の外交戦略を中国に放棄させた。

時氏は、南シナ海の領有権をめぐって争うフィリピンやベトナム、マレーシアなども米国への信頼が低下し、「そう簡単に中国に対抗することはできなくなる」とする。

ただ、安全保障面で米国が軍事力を大幅に削減するとの見方には、次期政権が共和党主導であることなどから否定的だ。

実際、トランプ氏の顧問であるアレクサンダー・グレイ、ピーター・ナバロ両氏は米外交専門誌「フォーリン・ポリシー」で、オバマ政権の再均衡戦略が「(中国の)侵略と不安定を地域にもたらす結果になった」と批判した上で、こう表明した。

「トランプ氏は米海軍の艦船を増強する。海軍力はアジア地域の安定にとり最も重要だ。現在も南シナ海を通じた巨額の貿易を保護し、中国の膨らむ野望を抑制している」

トランプ氏が発言通りの政策を展開すれば、中国が期待するような米国のアジア太平洋での関与低下は起きないかもしれない。

一方、オバマ政権が中国との間で南シナ海サイバー攻撃などの問題を抱える中、両国関係の決定的な悪化を防いできたのは、米中間の貿易関係だ。

しかし、トランプ氏は選挙期間中、中国からの輸入品に「一律45%の関税を課す」と“脅し”をかけており、南シナ海問題への姿勢と併せ、中国に対してはオバマ政権より強い姿勢に出るとみられている。

だが、中国は貿易黒字で得たドルを注ぎ込み1兆2千億ドル(約130兆円)近い米国債を保有する。米国は、中国がこうした「人質」を確保する中、どこまで対中政策で大胆な行動がとれるのか。

中国でも、トランプ氏の経済保護主義が米中の経済・金融関係に打撃を与え、苦境に陥っている中国経済に追い打ちをかける恐れがある、との懸念は根強い。

ある軍事関係筋は「中国の戦略は極めて単純だ」と指摘する。「いま取れないものは棚上げし、取れる状況になるのを待つ。それだけだ」(北京 西見由章、ワシントン 黒瀬悦成)

 日清戦争(1894年〜1895年)や日露戦争(1904年〜1905年)を分析すると見えてくる事…それはあれほどの大国だと常に内部に複数の政治的勢力間の対立を抱えていて、しかもそうした国内問題の延長線上において外交や侵略が遂行されるという事です。

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  • 清王朝の誰が日清戦争を主導していたのかなんて、幾ら調べても分からない。まず最初に「野蛮国(大日本帝国)が、さらなる野蛮化(議会制民主主義の導入)によって滅亡しようとしている(内閣総理大臣伊藤博文の解任動議で政界が揺れていた)。止めを指すなら今」なる認識があり、「朝鮮王朝を併合するなら今」「日本を併合するなら今」といった威勢の良い主張が飛び交った。いうなればある種の弁論大会。実戦でどれだけ大敗を重ねても「また大勝してしまいました」という嘘の流布にさえ成功すれば判定勝ちが飾れたから、誰もそれが現実には何を意味するか何て気にも留めなかった。最終的に全ての敗戦責任が現場に押し付けられたが、袁世凱の様な世渡り上手は生き延びて「朝鮮王朝の善導権」を手中に収めている。

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  •  ロシア宮廷の誰が日露戦争を主導していたのが誰だっただって、幾ら調べても分からない。太平天国の乱(1900年)のドサクサに紛れて満州進駐を果たした陸軍はシベリア鉄道増強が完了するまで戦端を開きたくなかった。一方、少しでも中国に近い場所に軍港を持ちたかった海軍は朝鮮半島内に次々と前進基地を築いて大日本帝国を挑発し、宣戦布告させる事に成功した。また停戦が決定してからも極東に軍を派遣する命令書が盛んに飛び交っていた。内乱鎮圧の為に全ての部隊が出払っていたから実際の派兵が行われる事はなかったが、もちろん命令書の発行者はそんな実状は全く知らなかったし、また例え知っていたとしても、おそらく気にさえ留めていなかった。

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  • ただまぁ日中戦争開始(1937年)から第二次世界大戦敗戦(1945年)までの大日本帝国もあまり人の事はいえない。腐敗はすでにシベリア出兵(Siberian Intervention、1918年〜1922年)の時代にはもう顕在化していたと指摘する向きもある。日本を占領下に置いたGHQは、大学が少数精鋭の政治的エリート養成期間としてのみ機能し、貧乏人は軍隊に入って戦功を挙げる事でしか立身出世が望めないグランドデザインそのものに問題があったと判断し教育革命に着手した。現在から振り返ると、割と当を得た処方箋だったと言わざるを得ない。アメリカもアメリカでフロンティア消滅(1890年)からしばらくの間同じ問題に苦しめられたから、類推が効いたとも。

こんな有様だから共産主義に移行したとも、また共産主義に移行したくらいではこの問題の完全解決には至らなかったともいえそうです。「プーチン独裁」の支持者がロシアに意外と多いのも、習近平主席が中国共産党の集団指導主義から脱却して独裁を志向してるのも、要するに「この状態よりはマシ」という認識。「スターリニズムとは何か」についても、元来はこの観点から分析しないと本質は見えてこないとされています。

  • 英国は薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)、フランスは公益同盟戦争(1465年〜1477年)とフロンドの乱(1648年〜1653年)を通じて伝統的貴族連合が政治的影響力を決定的に喪失。日本はさらに不気味で壬申の乱(672年 )直後には天武天皇絶対王政が成立し、明治維新に際しては「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県と藩債処分(1871年)」「秩禄処分(1876年)」といった一連の政策が比較的スムーズに進行している。天皇の権威は絶対というより、外国に侵略される危機が迫ると何の躊躇もなくリセットボタンに指を伸ばす不思議な民族気質。日清戦争に際しても清国の脅威が迫るとたちまち議会論争が収まって一致団結して粛々と戦争を遂行し、清朝官僚を「何その誘い受け?」と呆れさせる一幕があった。18世紀末から19世紀初頭にかけての北海道を巡るロシア帝国と江戸幕藩体制の駆け引きもそうだが、要するに「少しでも隙を見せるとたちまち襲い掛かってくる隣国」の存在が「日本の不思議な民族気質」を滋養した側面も?

  • 要するにロシアや中国はこうした国民国家形成に向けてのプロセスをきちんと踏んでいない。特に中華王朝の場合は王朝交代の都度、軍閥割拠状態にリセットされる伝統的悪癖が存在してきた。辛亥革命(1911年〜1912年)に際してもフランス軍将校に対して中国人が「我が国はヨーロッパの10倍偉大なので、ヨーロッパに一人のナポレオンが現れるタイミングで、10人のナポレオンが同時に現れるのです」と自慢げに語ったという逸話が残されている。もしかした国の規模というより民族気質の問題かもしれず、実際シンガポールリー・クアンユー率いる人民行動党の独裁で上手く回ってきた。中華王朝も皇帝独裁がちゃんと機能している間は相応に有効に機能するのを常としてきた。

以下の問題も、こういうした歴史を踏まえた上で判断を下さないといけません。

中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報は16日、日本が「奄美琉球」(鹿児島、沖縄)の世界自然遺産登録を目指していることに関連し「琉球諸島は日本固有の領土とは言えない」とする専門家の論文を掲載。中国ではここ数年、沖縄に関する日本の主権に疑問を投げ掛ける論調が出ており、自国領と主張する沖縄県尖閣諸島に対する日本の領有権を崩すための世論工作とみられる。「奄美琉球」の世界遺産登録に関しても、中国は尖閣まで対象地域が拡大しかねないと懸念している。

論文は、19世紀後半に明治政府が琉球を併合した「琉球処分」に関し「琉球は独立国で、中国が長く宗主国だったが、日本に占領された」と強調。カイロ宣言ポツダム宣言は、強引に占領した土地から出て行くよう求めているとして「日本は琉球諸島を領有できない」と訴えた。「日本が琉球諸島を自国の領土にする目的で世界遺産登録を利用するなら、戦後の国際秩序への挑戦だ」と決め付けた。(共同)

 まず「中国にとっては外国人の目には侵略行為としか映らない振る舞いが、武力行使を伴う弁論大会に過ぎない」という前提から出発しなければいけません。誰かが「チベットは伝統的に中国固有の領土だった」とか言い出すと、軍隊が派遣され反対者の粛清が始まります。所詮は「弁論大会」に過ぎないので、それが本当かデタラメかなんて誰も気にしませんが、とにかく特定の意見が優勢になると軍隊が動きます。実状把握も適当なので、それが国を滅ぼすほど致命的な失政でも平気で遂行されるのが恐ろしい所。しかし歴史の全貌を俯瞰してみると、さらに凄まじい景色が浮かび上がってくるのです。

琉球王国 - Wikipedia

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  • 実際の史料に残された琉球は14世紀より各地の按司(城(グスク)を築いて周辺の集落を傘下に収めた小国家)を束ねた三つの国、すなわち察度が治める中部の中山、承察度が治める南部の南山(山南)、怕尼芝が治める北部の北山(山北)にまとまり、この三山時代が約100年続く。いずれも中国の明朝に朝貢して正当性を主張し合ったが、1429年頃に南山の佐敷按司であった尚巴志が急速に勢力を伸ばして全島を統一。首里城を王都とする琉球王国第一尚氏王統(1429年〜1462年)が開闢される。とはいえ統一後も依然として地方の諸按司の勢力が強く、ついに王府が有効な中央集権化政策を実施することはなかった。そのため王位継承権争いなどといった内乱が絶えず、さらに喜界島親征といった無謀ともいえる膨張政策を取ったため、政権としては63年間で瓦解。

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  • 各地の諸按司首里に移住・集住させて中央集権化に成功したのは第二尚氏王統(1462年〜1879年)時代に入ってから。明国に対しては朝貢国として形式上その臣下となることを強いられつつ、石垣島(1500年)、与那国島1522年)、奄美群島北部(1571年)を次々と服属させてこれらの国々に対しては宗主国として振る舞った。実際「朝鮮王朝実録」明宗1545年条には琉球への漂着民が残した証言として「王は紅錦の衣を着て、平天冠をかぶり、一人の僧侶と対面して紫禁城遥拝の儀礼を行っている」なる言葉が残されている。その一方で琉球国王朝貢の負荷に苦しみ、これらの属国から壮絶なまでの搾取を行っていた。民間交易の分野では東南アジアやにおいて華僑やマラッカ人の向こうを張って活躍していたという話もあるが、王室がその分配に預かる事は決してなかったのである。

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    *「明朝の臣下にして周辺諸国宗主国…中華冊封体制下においてはあちこちで見られた景色で、例えば東南アジアではタイ王国などがそうやって周辺諸国を属国化していた。朝鮮王朝も対馬藩をそういう風に扱っている。ただしあくまで本国からして「(デタラメでも声が大きければ勝つ)弁論大会」の世界なので、各国とも実体として結構適当にやっていた。まぁ中華皇帝が格好良いと思ったら、自分が中華皇帝として振る舞いたくなるのが自然な心理で、そういう世界においては農民は国王の贅沢を維持する為に徹底して搾取され、商人は秘密結社を稼ぎを分捕られたくないばっかりに非合法結社などを結成して地下に潜ってしまう。アジアの多くの国々が自力近代化に失敗したのも、逆に開発独裁の成功例を輩出したのもこうした伝統のせいといわれている。
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    1515年ごろに東方についての書物を著したポルトガル人のトメ・ピレスは、琉球が中国と盛んに交易した様を伝え、琉球人の気質について「彼らは正直な人間で、奴隷や娼婦を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこれについては死を賭ける。レキオ人(琉球人のこと)は偶像崇拝者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」と記した。こういう民間貿易に従事した「気高い琉球商人達」は、琉球王朝正史に一切登場しない。日本史だと大名に癒着する御用商人が株仲間(全国各地の富商や富農の水面下のネットワーク)に殲滅されて幕府も彼らの存在を公認せざるを得なくなったし、朝鮮王朝史だと行政を牛耳る両班官僚達に嫌気がさした肅宗(1674年〜1720年)が全国各地の富商や富農と直接結んで絶対王政を構築したりしているのだが、残念ながらそういうダイナミックな展開が全く見られなかったのが琉球王国史の特徴と言わざるを得ないのである。無論、公式記録と実像の間には相応のズレが存在した筈だが、記録が残っていない以上歴史的に掘り下げる事は出来ない。

  • 16世紀後半になると豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢を命じる。明の冊封国であった琉球国王は一旦拒否したものの、実際には文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ際には日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担っている。その一方で琉球王朝は火薬の原料となる硝石を産したが、この事実は当時日本に知られておらず、その供給を受けられたのは明国のみだった。
    *まぁ、これもまた「嘘も方便の弁論大会の世界」では当たり前の日常風景に過ぎない。日韓共同チームが対馬藩に残された歴史文書を検分した時、朝鮮王朝と江戸幕府の双方を手玉に取ったやり口のあまりの酷さに双方が沈黙したという逸話も残されている。

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    1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を進発。徳川家康からの日明交易仲介依頼を拒絶し、江戸幕藩体制に対して一貫して侮蔑的態度を取り続けてきた結果であった。3月8日には奄美大島に到着して解放者として歓待され、3月26日には沖縄本島に上陸、4月1日には首里城にまで進軍。琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めたが、ほとんど逃げ回るばかりで一方的敗北を喫する。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城(琉球征伐)。これ以降、琉球王国薩摩藩付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持し続ける。琉球が支配を始めてから年月の浅かった奄美群島薩摩藩直轄地となり王府から分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。
    *かくして琉球王国は「両属国」という「嘘も方便の弁論大会」の世界でもとびきり胡散臭い存在へと昇格する事に。対馬藩は少なくとも江戸幕府の陪臣の立場と朝鮮王朝属国の立場を二枚舌で使い分けただけだが、琉球王国に至っては「薩摩藩の属国」にして「明朝・清朝の朝貢国」にして「周辺諸島の宗主国」。しかも清朝から「貴様ら、まさか日本と通商しているのではあるまいな?」という問い合わせに対して涼しい顔で「いいえ、我々が主に通商しているのはトカラ国です」と平然と答えている。トカラ国? 何それ? まさしく「嘘も方便の弁論大会」の本領発揮というべきか。
    「トカラ列島宝島考」齋明紀童謡考

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    *だが、それはそれとして幕末倒幕運動の主力となった薩摩藩が、長州藩と並んで江戸幕藩体制下において武家階層人口が異様なまでに突出した軍事国家であった事、その皺寄せで領民搾取が酷かった事、そのシステムに琉球王朝も巻き込まれた事自体については同情を禁じ得ない。特に搾取が酷かったのは琉球王朝宗主国として仰ぐ最底辺の周辺諸国で、ちゃんと解毒しないまま食べると中毒死するソテツを食べる習慣が始まったのもこの地域からとされる。世界恐慌期には沖縄本島でさえこれに助けられ「ソテツ地獄」なる表現が広まった。皺寄せが頂点に到達したのは、薩摩藩を経営破綻から救った「調所笑左衛門の改革」の時代とされるが、その時代にすら沖縄本島の人間がそこまで追い込まれる事はなかったのが、後々まで怨嗟を残した主要因となったとも。まさしく「弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者達を叩く」修羅の世界?
    ソテツ)奄美ではソテツ地獄どころか、ソテツガナシと尊称していたそうです。 - 安渓遊地

  • 1853年(琉球暦:咸豊3年、和暦:嘉永6年)5月に黒船が那覇に来航し、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めた。黒船は翌1854年にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港した。ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。
    *当時のアメリカときたら…とはいえこの時の「小笠原諸島琉球王朝は日本ではない」なる認識が後世のGHQの「小笠原諸島沖縄県鹿児島県奄美群島は日本から切り離す」なる判断に影響を及ぼした可能性はあくまで捨て切れない。

  • 1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰琉球藩王に「陞爵」して華族に列した。さらにこの時あえて冊封の儀を執り行って琉球藩を明治政府の冊封国としている。1872年10月10日には琉球藩の負債20万両を政府が肩代わりした。また1873年7月29日に琉球藩より「貧しいので年貢をまけてくれ(具体的には賦米等の名目並びに砂糖納を廃止し、年に8200石の常額としてくれ)」、という請願があり、1874年6月23日、その通りの対処が行われたが藩内の百姓に藩政府が課す年貢が軽減された事実は一切ない。藩政府は負債が全てなくなり、3万円の小遣までもらったが、人民に還元する事は一切無かったのである。
    *同時進行で、琉球の命運を決めるさらに重要な事件が展開していた。所謂「宮古島島民遭難事件」。1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難する。乗員は漂流し台湾南部に漂着。船には役人と船頭・乗員合計69名が搭乗していた。乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致されてしまう。しかも先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日に遭難者達は集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首する。12名の生存者は漢人移民に救助され、台湾府の保護によって福建省福州経由で宮古島へ送り返される。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は「台湾人は化外の民(国家統治の及ばない者)」として黙殺。仕方なく翌1872年(明治5年)、琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良が日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。さらに1873年(明治6年)、備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こる。これにより台湾征討の声は政府内外で国論となり、欧米列強の在日外交官達も次々にこれを支持。同年特命全権大使として清国に渡った副島外務卿が随員の柳原前光を用いて宮古島民台湾遭難事件などの件を問いたださせたが、やはりこの時も清朝の外務当局は「台湾人は化外の民(国家統治の及ばない者)」と繰り返し責任を回避し続ける(この時清国官僚が「もちろん誰にだって自由はある。これは毛唐どもがいってる偽者の自由の話ではない。真の文明国たる中国の威光に歓喜し、自ら喜んで隷属する本物の自由の話だ」なる名言を残している)。そういう状況下、西郷従道が独断で九州各地で徴募した二個大隊3,000名を江戸幕府から引き継いだ小さな軍艦3隻に搭乗させて出動。日本政府もこの動きを追認せざるを得なくなった。かくして台湾出兵(1874年5月〜6月)が成立した事により「琉球は日本領」という認識が国際的に広く認知される契機となったのである。ちなみに西郷従道軍は原住民討伐だけでなく、ドサクサ紛れの現地植民も視野に入れていたが、あまりに疫病被害が酷くそちらは断念せざるを得なかった。実は琉球王統が自ら属国たる宮古島の為に討伐隊を派遣するシナリオもあったのだが、清朝同様にあえて黙殺する道を選ぶ。この事が以降の展開に深い影を投げ掛ける事になった。「自分が守り切れない相手の裏切りを責めるな」なる近代ルールがアジアにも及び始めたのである。

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  • 明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。そのため1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として前肥前鹿島藩佐賀藩支藩)主の鍋島直彬が赴任する。これにより琉球王統の支配は終わった(琉球処分)。琉球の王族は、日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展したが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、のちの日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定した。
    *朝鮮独立運動は当時まで遡るとされるが、この時代に実際にあったのは「(公益上有利な)両属状態の維持嘆願」と「琉球王朝特権階層の既得権益保全要求」であった。特に琉球藩宮古島在番役人達が自分達に従わない原住民を次々と虐殺した「サンシー事件(1879年)」は、明治政府に琉球王朝特権階層からの既得権益剥奪を躊躇させ、沖縄近代化を致命的なまでに遅らせた偉業として「その筋の人達」から今日なお褒め称え続けてられているとされる。その一方で清国に渡って現地官僚に両属状態の維持を嘆願した密使は「まず抵抗運動で数千人から数万人死ね。そうしたら遠征軍を派遣して日本軍を討伐し琉球を中国領にする良い口実になる」と言われてしまい、その話をそのまま本国に伝える訳にもいかず現地で自害を遂げている。アメリカ合衆国大統領グラントの調停決裂も、その内容が「清国と日本で琉球王朝を仲良く半分に分ければ良いじゃありませんか。それで問題は完全解決です」という内容だったので、まず琉球王統が拒絶したのが大きかったとされる。

  • 琉球処分に不満を持つ旧支配層の一部は旧宗主国の清国に亡命して清政府に「琉球王国の再興」を働きかける者も現れた。このように清に脱出し、琉球王国の再興に奔走した人士を「脱清人」というが、次第に沖縄県の中国併合を正当化する政治団体へと変貌を遂げていく。県内にも琉球王国の再興を求める「頑固党」とそれに反対する「開化党」が存在し、1894年日清戦争が起こると、頑固党は清国戦勝祈願祭を行い、開化党は日本の戦勝祈願祭を行うなど、対立を続けた。実際八重山石垣島では日清戦争の開戦が伝えられると、日本の戦争祝賀の運動会が開かれ、終戦後には凱旋祝賀会が開かれている。日清戦争で清が敗北した事で琉球王国の再興は絶望的な状況となった。頑固党はこれを期に急速に衰えて開化党による急速な内地化が図られていく。また、日本の主権は認めるものの、尚家による統治を求める公同会運動も起きたが、これも明治政府に却下され、終息に向かい、以降組織的な独立運動は一旦完全に絶えた。

そもそも中華王朝文化自体がそういうものなのですが、琉球王国の振る舞いは武家政権のそれというより、平安時代の公家政権のそれに近い気がします。

それではこの問題、中国側からはどう映っていたのでしょうか。

中国人による沖縄県への認識 - Wikipedia

中華人民共和国中華民国の公式の認識に反し、一部のメディア、歴史学者、政府・軍関係者、その他の中国人が琉球処分沖縄返還国際法上の根拠はなく合法的主権がないとする主張や、中国も主権を有しているという主張を繰り返してきた。

1883年〜1885年 清仏戦争

  • これに敗戦してベトナム宗主権を喪失した衝撃から、清朝における論調が「中華王朝を心から慕う冊風国は、放置しておいても決っして欧米列強には従わず自力で彼らを撃退して中国傘下に戻ってくる」といった楽観論から「最後に残った冊風国たる朝鮮王朝を保全するには併合しかない」といった強硬論に推移。

1874年 

  • 5月〜6月 台湾出兵。これに際して明治政府が清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった事は紛争の引き金になりかねない大失策であり、清国の実力者李鴻章やイギリスの駐日大使パークスが激しく反発。国際世論もこれに味方した事に気を良くして清国内でも「台湾も琉球も清国文化圏(化内の民)。すなわち台湾出兵とは単なる野蛮人の侵略行為であり、欧米列強は一刻も早くこの野蛮国を滅ぼすべき」といった議論が盛り上がった。

  • 7月12日 1872年9月28日時点で外務省扱いとされた琉球内務省扱いとなる。

  • 8月、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉。大久保はルジャンドルとフランス人法学者ボアソナードを顧問として台湾問題を交渉し、主に総理衙門大臣の恭親王と交渉。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日「日清両国互換条款」が調印され、そこにおいて清は日本軍の出兵を保民の義挙と認めている(清国はこの事件を不是となさざること)。日本はさらに生蕃に対し法を設ける事を求め、1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国間互換条款互換憑単によると清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費。また、清国が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった。
    司馬遼太郎「飛ぶが如く(1972年〜1976年)」によれば、この事件を契機に清朝側が立てた記念碑には自らの自画自賛しかなかったという。「嘘も方便の弁論大会」の面目躍如。

1894年〜1895年 日清戦争

  • 大日本帝國議会が内閣総理大臣伊藤博文の解任動議で紛糾している隙を突いて朝鮮王朝における影響力を決定的なものにしようとしたが、さすがの「嘘も方便の弁論大会」も、連戦連敗の末に多額の賠償金を支払わされた顛末を「連戦連勝の末の大勝利」と自画自賛し続けた事で破綻。
    *そもそも19世紀に入ると清朝は「就地自籌(地方の治安維持を郷紳の組織する「郷勇」や「郷団」といった自警団に委ねる代わり、現地での徴税を許す事)」が常態化しており、朝廷が「以民征夷」と絶賛した太平天国の乱(1900年)もまた欧米列強の連合軍にあっという間に粉砕されてしまう。この時清朝がスローガンを「復明興漢」から「扶清滅洋」に切り替えた義和団をあっけなく切り捨て、討伐令を出した事が倒清運動を加速させる展開を生んだとも。
    近現代における中国の民族意識

1912年 辛亥革命 

  • 中華民国が発足して袁世凱が大統領に就任。それが彼の皇帝即位と退位(1916年)なる思いもかけない形で終焉を迎えると、後はお決まりの軍閥割拠状態に突入。
    *そもそも日清戦争に敗れるまで清国には「廃満復仇(満州人による支配体制打倒のみがと漢人を自由にする)」感情があるばかりで「中国人アイデンティティ」はまだ形成途上にあった。日本に倒清運動の拠点が出来て亡命清国人が集い、日本語文献からそれを学ぼうとする動きも始まったが、1904年に「昇官發財(官吏になり、財産を築く)」なる格言まで生んだほど立身出世と密着した科挙制度が廃止されるまで、本国の動きがそれに呼応する事はなかったとも。

1919年 五四運動

  • 第一次世界大戦に参戦した大日本帝国軍の山東駐留(1914年〜1922年)、中華民国による対華21ヶ条要求受諾(1915年)、軍閥を不当に助ける西原借款などへの不満が、1919年パリ講和会議ヴェルサイユ条約で解消されなかった事から勃発。
    *実は一番根深かったのが最後の西原借款だったとも。また大日本帝國軍の山東駐留に激怒したのは中国人というより米国資本家階層で、日本に融和的態度をとったウィルソン大統領までまとめて弾劾運動の対象とされている。
    西原借款
  • 同時期にはロシア革命(1917年)、民族自決主義をうたったウッドロウ・ウィルソンの十四か条の平和原則(1918年)、三一運動(1919年)といった帝国主義に風穴を開ける義挙が相次いだ。その一環として遂行され、中国におけるナショナリズムの高揚を促進させた」「五四運動は中国共産党によって主導された」とされる事もあるが、実際に五四運動や三一運動を焚きつけた勢力として確認可能なのはウィルソン主義者に陶酔して暴走気味だった諜報員や宣教師達のみ。しかもウィルソン大統領が1919年10月2日に脳梗塞を発症して執務遂行が不可能になり、代わって国政の決裁を見る事になった妻のイーディスが活動終了を訓令すると一斉に手を引いている。中国共産党はまだ存在していなかったが、この作戦での中国人協力者の一部が後に中国共産党に入党した事実なら確認されている。
    *もちろん米国政府の公式文書でその足跡が比較的容易に辿れるからといって「ウィルソン主義者に陶酔して暴走気味だった諜報員や宣教師達」が全ての仕掛け人だったとは限らない。例えば三一独立運動ではロシア革命に陶酔した朝鮮人留学生達が日本と全欧米列強に一斉宣戦布告した「2.8.独立宣言」、各教区同士の縄張り争い、守旧派儒学者達による朝鮮王朝復興運動、日韓併合(1910年)で使い捨てにされた一進会朝鮮総督府に対する報復計画といった複合的要因が見られ、さらに同様に混沌とした勢力の一斉蜂起だった日本の米騒動(1918年)の影響を見てとる向きもある。その一方で中国にも米国における中国人移民排斥への抗議として1905年に始まり、1919年以降も繰り返されていく日貨排斥運動の伝統が存在した。
    2.8.独立宣言(1919年)
    日貨排斥 - ウィキまとめ

    *ちなみに当時のアジアにおける左翼運動はクロポトキンバクーニンといった無政府主義への傾倒に端を発しており、ロシア革命についてもボルシェビキ独裁の実態が伝わってくるにつれ共産主義とは距離を置く様になっていく側面が存在する。その一方で共産主義者は「ライス・クリスチャン」ならぬ「ライス・コミュニズム」、要するに経済支援で食い詰め者を集める事でその勢力を拡大していったのだった。さらに国民党や大日本帝国の密偵なども暗躍。かくして「四重スパイや五重スパイはザラ」という混沌とした状況が準備される事に。

1924年〜1927年 第一次国共合作

  • 軍閥および北京政府に対抗して中国国民党と中国共産党が共同戦線を張った(中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式)。しかしやがて決裂し国共内戦に突入。
    *かくして、まだまだ未成熟な段階にあった民族意識に代わって「党意識」が国民統合の中核を為す様になったが「我々は西洋の十倍偉大なので、西洋に一人の英雄が現れるタイミングで、同時に十人のナポレオンが現れるのです」という次第。

1937年〜1945年 第二次国共合作

  • 国共内戦によって壊滅寸前の状態に陥った共産党は、コミンテルンの方針もあり西安事件(1936年)を契機に国民党との直接対決を回避する方向を目指す。その一方で蒋介石国民政府もまた北京盧溝橋事件と上海での日本軍との軍事的衝突を契機とする日中戦争1937年〜1945年)の矢面に立たされ、共産党の殲滅どころではなくなった。
    *西洋からの民族主義受容が最も進んだのはこの時期とされるが、そこで手本とされたのはスターリン率いるソ連共産党ヒトラー率いるナチス。まだまだ「党意識」の延長線上でしかそれを想像出来ない段階にあったのである。どの国でも国民が総動員される国土防衛戦争は民族主義の萌芽となり得るが、当時の中国が大日本帝國軍の跳梁を許したのは、そういう動きが起こらなかったからだった(当時の中国人インテリは南京を失陥するまで「一匹の野良犬に湖の水が飲み干せるか? やがて自滅するに決まってる」くらいにしか考えていなかった。重慶遷都を余儀なくされてからは少しは変化があったかもしれないが、ちゃんとした形では記録に残ってない)。中国共産党に至っては抵抗を主導するどころか高みの見物を決め込みつつ着実に漁夫の利を得ていったのだった。

    「中国四千年は戦乱、内乱の繰り返し。権謀術策、陰謀の素よ。おまけに頑強な思想戦士の中国共産党が地下で根を張ってた。そこに島国育ちの日本人が『地域ボスの馬賊を手なずければ勝てる』という日清日露戦争の感覚で出てったんだから、散々な目に遭って当然よ。僕がいくら共産党の実態を報告しても上が握り潰す。代々そうだから自分の代に共産党ができた事になると治安不十分の責任を問われ、昇進に響く。北支那方面軍が正式に共産党対策を部隊をつくったのは敗戦の二年前という御粗末さよ。事情を知らない内地は「勝った勝った」と浮かれたが、その実は河北州86県だけで日本の3倍という広野の拠点城郭と鉄道沿線を押さえただけ。点と線しかなくとても占領といえたもんじゃない。そして「共産党、国民中央軍が住民を抱き込んで包囲すりゃあたちまち全滅」って不安心理が日本軍を残虐行為に走らせる訳だが『刃向かえばこうなるぞ』って見せしめのつもりが、残念ながら残虐行為の質は向こうが上でね。それで却ってカッとなった現場がどんどん敵討ちに走って戦線が拡大していったんだ。こんな実情は内地にはほとんど知られず「勝った、勝った」の大本営発表がまかり通ってたとか。報道機関も軍の統制下に置かれて事実の報道も禁じられる事が多かったとか。そんな本土から民間で楽をしてきた召集兵が送り込まれてきて、いきなり高い地位について、優柔不断とまずい指揮でどんどん戦死者ばかりを増やしていったのよ。おまけに共産ゲリラの罠に簡単にはまる。統率力もないから無茶な殺戮も抑えられん。そうやってエキスパートを最前線で失い、補充兵で穴を埋めてくもんだからどんどん士気が落ちて軍紀も乱れていったのも当然じゃ。それが中国戦線の実際の姿よ」

1949年

  • 12月7日、蒋介石総統率いる中国国民党政府が、首都を中国共産党に実効支配された南京から、臨時首都として台湾島の台北に移転。以降、台湾島地域および金馬地区などのみを実効支配する国家として1950年までに再編成される(台湾国民政府)。中国国民党政府も中国共産党孫文を弾圧した中華民国とは敵対関係にあり、果たしてどちらが後継国なのか、そもそもどちらも後継国ではないのかについて今日なお決着がついていない。
    *日本は、1951年のサンフランシスコ講和条約および1952年の日華平和条約において、台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄したが、それらの帰属先が明言されていないため、台湾島地域の国際法上の領有権は「未確定である」という見方(台湾地位未定論)がある。

20世紀後半 やっと内面化された形で中国人意識の形成が始まった。
これからどう変わる? 中国人の意識と暮らし

  • 1945年以前に生まれた「戦争と建国の世代」は新旧社会の鮮明な対比に深い印象を受け、同時に富強となった現在の中国に対しても深い感銘を受け、それを共産主義の成果と素直に受容した。

  •  1946~1955年の間に生まれた世代は文化大革命によって人生においてもっとも重要な時期を浪費したと考えており、次の世代に対し、自分たちが若いころ実現できなかった夢や希望を託す感情が強い。

  •  1956~1967年の間に生まれた世代は、生まれるやいなや3年連続の自然災害や文革に相次いで見舞われ、理想主義に一切の幻想を持つ事なく育った。1980年代の中国の思想解放運動を推進した重要な力となり、かつまた80年代の改革・開放の発展の潮流に身を投じた若き精鋭部隊となった。

  •  1968~1979年に生まれた世代は「サンドイッチ世代」と呼ばれる。その知識体系が、前世代的なイデオロギー主導の体系のそれと、グローバルな知識を人々が共有する以降の世代のそれにまたがるからで、後世代の体系との間にあるからだ。その前の世代の知識体系は体系であり、後の世代はともに享受する体系である。日常生活で享受する物資的条件がどんどん良くなり、比較的整った現代的な正式教育を受けた最初の世代でもある。

  • 80年代以後に生まれた世代は「一人っ子世代」と呼ばれる。中国社会が経済の高度成長の道をひた走り、中国が次第にグローバルな経済の重要な構成部分となっていく時代に育った。育った社会環境も非常に恵まれていたので、それ以前の各世代とは価値観、趣味、心の中の偶像、社会的責任感など全てが異なっている。

1976年

1978年

  • 12月 - 中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で改革開放路線を決定、鄧小平が最高実力者に。

1979年

  • 1月、アメリカと国交正常化。アメリカでは台湾関係法が成立。

1989年

1996年

  • この年、琉球大学が実施した調査では「沖縄は完全に独立すべき」と答えた県民は3%にも満たなかった。

2005年

  • 4月 日本の国連安保理常任理事国入りに反対するなどして中国各地で反日デモが発生。そして4月18日、中国北京市反日デモがあった際は「沖縄を中国に返せ」と書かれたビラが出たと、沖縄県沖縄タイムスが報じた。
    *次第に「反日デモを装った反政府デモ」に発展して弾圧対象に。

  • 8月1日 中国の国際問題専門誌・『世界知識』は、「戦後の日本による米国からの琉球接収は国際法上の根拠を欠き、その地位は未確定のままだ」と主張した。時事通信は、中国のメディアに沖縄の日本帰属に疑問を呈する論文が登場するのは異例だと報じた。

  • 2005年、2006年、2007年にかけて、琉球大学准教授の林泉忠がアイデンティティ国際調査と題し、沖縄県・台湾・香港・マカオの4地域を比較して、地域の人々の本土(日本や中国大陸)への帰属意識の調査を行った。「各地域が独立すべきか、すべきではないか」の調査も行い、4地域の意識の違いを発表している。それによれば「沖縄独立」の是非をめぐる見方は以下。
    2005年 独立すべき 24.9% すべきでない 58.7%
    2006年 独立すべき 23.9% すべきでない 65.4%
    2007年 独立すべき 20.6% すべきでない 64.7%

2006年

2009年

  • 12月 中国北京市で中国人歴史研究者らによるシンポジウムが開かれた際、日中歴史共同研究の中国側委員も務めた北京大大学教授・徐勇は「明治政府による琉球併合も、戦後の沖縄返還国際法上の根拠はない」との主張をおこなった。これに対し、琉球大学名誉教授・上里賢一は「徐教授は過激な反日派ではないのに、こうした議論を展開している。中国政府も、中国共産党も、公式見解と異なる主張を黙認しているのが怖い」と話し、「米軍普天間飛行場の問題が焦点化した時期のシンポジウム開催に、意図的なものを感じた」として、参加を断った。早稲田大学特別研究員・三田剛史も、徐教授のような議論は戦前に多かったが、戦後は息を潜めたとし、今世紀に入り、「中国は沖縄に対する権利を放棄していない」と主張する研究論文が発表され始め、関連した論文は06年以降だけで一気に約20本も出た、と話した。また、論文急増の理由を「研究の自由の幅が広がったからとも、沖縄の基地問題を巡る日米両政府への反発をにらんだ動きとも考えられる」と分析し「日中関係基地問題の行方次第で、さらに広がるかもしれない」と指摘した。

2010年

  • 6月 2009年9月、菅直人首相が喜納昌吉に対し、「沖縄は独立した方がいいよ」などと語っていた事が判明。一部の中国のネットサイトは、絶賛したり、「沖縄は一度独立させ、中国の属国にしよう」との意見があったりした。また、複数のサイトでは日本の主権には正当性がない、とする「沖縄奪還論」が多数あった。

  • 8月26日 中国網(チャイナネット)で、清華大学学者・劉江永は、歴史及び国際法上、日本は沖縄を強制的に併呑したのであり、合法的主権はないとし「中国は沖縄を取り戻すべきだ」と言っても、それはまったく滑稽な話となり、中国政府はかつて沖縄に対して主権を有したことはなく、中国が沖縄を取り戻すことには歴史的根拠に欠け、国際法上の支持もないからだと主張した。その上で「中国政府も一貫して沖縄が日本に属することを認めてきた」と指摘。一部の学者は、中国は沖縄を取り戻すべきだと主張しているが、それは民間の極めて少数の意見に過ぎず、しかも中国の主流の声または中国政府の姿勢を示すものではない、と主張した。また、中国社会科学院日本処の学者・呉懐中は、中国も沖縄に対し主権を有しているとした上で、「中国の学者が中国は沖縄の主権を取り戻すべきだと主張することは、空騒ぎする日本の学者にとって警告となる」とし、「中国の学者が沖縄を借りて日本を反撃することは、歴史的角度または現実的角度から見て、日本に対しては完全に過度に非難できない刺激となり、中国が発言権を取り戻す上でも大きな助けとなる」と主張した。

  • 9月18日 中国北京市反日デモの際に、「琉球を返せ」と書いた、Tシャツやプラカードを掲げて主張した。

  • 9月19日 中国商務省研究者・唐淳風は『環球時報』で、沖縄は明治政府が19世紀末に清国から奪い取ったもので、日本政府は今も沖縄住民の独立要求を抑え込んでいるとし、かつての琉球王国住民の大部分は福建省浙江省、台湾付近の出身で、言葉も制度も中国大陸と同じだったとした。また、魚釣島については中国領であることは明白で「日本には中国と話し合う資格もない」と主張した。これに対し、宮崎正弘は、「中国は沖縄を独立させようとしているのです。そうして沖縄と安全保障条約を結び、自軍を駐屯させると。今までもチベット人ウイグル人の土地をそのやり方で奪ってきましたから」と指摘した。

  • 9月 香港の有力誌・『亜州週刊』は、尖閣諸島問題の発端はアメリカが、施政権を勝手に譲ったのが原因だとして、尖閣諸島の主権を争うなら、中国は、沖縄の主権の帰属についても合わせて議論すべきだ自社の意見を掲載した。

  • 10月16日 中国成都市の反日デモの際に、デモの先頭集団は「琉球回収、沖縄解放」の横断幕を掲げていた。解放とは解放軍による解放で、政府に軍事力発動をけしかけていると毎日新聞が報じた。

  • 11月8日 中国商務省研究者・唐淳風は『環球時報』で、「1879年に琉球王朝が廃止されてから1945年の敗戦まで、日本政府が沖縄に対して残酷な統治を行った」と決めつけた。また、終戦間際には現地軍に県民の皆殺しを命じ、「米軍占領の直前に日本軍は26万人を殺し、虐殺の規模は南京大虐殺に次ぐものとなった」とし、「1972年の本土復帰後、日本政府が沖縄を国内植民地として扱った」などと主張した。「沖縄の米軍基地問題をめぐって日本政府と沖縄住民の対立が深まり、沖縄独立の機運を高めた」とし、「沖縄の独立闘争は沖縄だけの問題ではなく、全世界の圧迫を受けている民族をいかにして解放するかという大きな問題だ」と主張した。また、日本政府は沖縄の陸海空自衛隊の配置を強化し、日米同盟を頼みとして再び沖縄を中国封じ込めの最前線基地にしようと企てているとし、「沖縄独立闘争の主な目的の一つは中国の戦略的安全にある」と主張した。

2011年

  • 2月10日 中国人民解放軍海軍の張召忠少将はCCTVの『今日関注』のインタビューで、「第二次世界大戦前に日本が書いた地図をみても、釣魚島が日本の領土であるとの記載はない。そして、琉球諸島も日本の領土ではないことが分かる。したがって、釣魚島は中国の領土なのだ。」と語った。

  • 11月 琉球新報が行った県民意識調査で「今後の日本における沖縄の立場(状況)について」という質問に対し、以下の回答があった。現行通り日本の一地域(県) 61.8%、特別区(自治州など) 15.3%、独立 4.7%

2012年

  • 7月12日 韓国の東亜日報によると、中国国防大学戦略研究所長の金一南少将は、中国の国営ラジオ局(中央人民廣播電台)とのインタビューで、「釣魚島(沖縄県尖閣諸島の中国名)に関しては日本側に必ず、行動で見せてやらなければならないが、問題の視野をさらに広げて沖縄の(中国への)帰属問題を正式に議論しなければならない」と述べ、そもそも琉球処分そのものが無効であると述べた。

  • 7月17日 鳳凰衛視に、新華社を出典として「中国的神聖領土釣魚列島」と題した記事が掲載された。和訳すると、「中国の神聖な領土尖閣諸島」という意味合いになる。なお、新華社の資料からは、「神聖的領土釣魚諸島」という題を確認することができる。

  • 11月14日 中国、韓国、ロシアによる「東アジアにおける安全保障と協力」会議の席上、中国外務省付属国際問題研究所のゴ・シャンガン副所長は「日本の領土は北海道、本州、四国、九州4島に限られており、北方領土竹島尖閣諸島にくわえて沖縄も放棄すべきだ」と公式に演説した。そのためには中国、ロシア、韓国による反日統一共同戦線を組んで米国の協力を得たうえで、サンフランシスコ講和条約に代わって日本の領土を縮小する新たな講和条約を制定しなければいけない、と提案した。モスクワ国際関係大学国際調査センターのアンドレイ・イヴァノフは、この発言が中国外務省の正式機関の幹部で中国外交政策の策定者から出たことに対し、多かれ少なかれ中国指導部の意向を反映していると述べている。

2013年

  • 5月8日 中国共産党機関紙、人民日報は沖縄県について「独立国家だった琉球を日本が武力で併合した」などとして、第二次世界大戦での日本の敗戦時は「琉球の帰属について議論するべき時だった」と主張する論文を掲載した。同日沖縄県知事公室地域安全政策課が中国に対する県民の意識調査結果を公表、89.0%が否定的な印象を表明した事を明らかにしている。

  • 7月5日 中華人民共和国国営通信社の中国新聞網のフォーラムには、今後2020年から中国は台湾、ベトナム、インドとの戦争後、尖閣諸島と沖縄を取り戻すための「六場戦争」を行うとする戦争計画を発表した。

  • 8月15日 中国共産党機関紙、人民日報は「尖閣のみならず、沖縄も日本の領土でない」「ポツダム宣言で確定した日本の領土に釣魚島(尖閣諸島)は含まれていない」「中国に対して拘束力を持っていないサンフランシスコ平和条約で「沖縄返還」と言われても無効」で「米国は勝手に沖縄を日本に戻す権利はない」との中国社会科学研究の最高学術機構「中国社会科学院」世界歴史研究所の研究員の意見を載せた。

  • 2013年12月、琉球民族独立総合研究学会の共同代表の一人である友知政樹(沖縄国際大学教授)が、教え子を含む県内の現役大学生を対象に配布したアンケートで、140人から回答を得たとして調査結果を発表。結果は反対44%、賛成6%、分からない49%となり友知政樹は、独立に賛成を示した学生の36%が、実際に独立を考えた事があると分析した。

2014年

  • 7月 「ニュースの巨人(TBS)」において国際政治学者のペマ・ギャルポが「沖縄は中国領だった」と中国が主張していることを語った。ペマは中国が「何々民族というのは国の統一には邪魔だ。我々は大中華民族である」としてチベットを占領しているのと同じように「沖縄の琉球の人たちも古来より我が大中華民族の一員である」「故に沖縄独立を支持するのが我が中華人民共和国の義務だ」という思想が中国にあることを語った。そして中国は日本が沖縄を支配するより先に琉球王国と外交があったことを根拠として「沖縄は中国のものである」と主張しているという。 

本当に「嘘も方便の弁論大会」と「相手の隙を突いての軍事行動(ただし「相手に隙がある」という認識そのものが誤っている場合もある)」だけで基本的振る舞いは説明出来てしまうから困りもの。ただし両者の関係がどうなってるかは外国人はおろか、おそらく中国人の大半にとってブラックボックス。弊害が著しくなると独裁への機運が強まり、皮肉にもそれが上手くいってる間だけ相応の歴史が刻まれるという側面も。
*その一方で「その筋の人達」の間で「サンシー事件」や「アイルランド内戦」を美化する動きがあるのが気になる。独立賛成派が5%を切ってる現状では「琉球人は日本人という奴は同じ琉球人でもレイシスト」なんて機運を盛り上げて沖縄人同士を殺し合わせ、そのドサクサを突いてイニチアシブを握る手しかないのかもしれない。実はただ単に「山岳ベース事件(1971年〜1972年)」の名誉回復を狙ってるだけかもしれないけど。

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そもそも「中国人による沖縄県への認識」以前に「中国人とは何か?」という話になってしまう様です。しかも「近代的価値観を受容した新世代」が実際の政治の現場で影響力を発揮する様になるには、まだまだしばらくかかりそう。

こうした歴史を背景に、現在習近平国家主席は現在「独裁を志向するモード」に入っているとされています。ロシア人にとってのプーチン独裁同様、それが良い事なのか悪い事なのか外国人には判断つきかねますね。そもそも「議会制民主主義の方がまだマシだ」なる基本信念も共有されてない世界の出来事ですし。

不正を摘発するぞといわれたら、誰も逆らえないという今の中国の状況こそが、習近平主席を支える最大の権力基盤になっていると言えるかもしれません。それは、裏を返せば、そこまで中国共産党が、汚職や腐敗に蝕まれ瀕死に近い状態に陥っている事すら暗示させるものともいえます。

*「毛沢東思想」なるキーワードは、中国では「汚職などなかった清廉潔白な時代へのノスタルジー」や「ファースト・チャイナ」の感情を惹起するという説も。要するに「反資本主義」?

中国企業が開発したスマートフォン用の「ファームウエア」が、利用者に無断でテキストメッセージの内容などの個人情報を収集していたことが16日までに分かった。被害規模は不明だが、米紙ニューヨーク・タイムズは「世界中の格安スマホの利用者が大きな影響を受けている」と指摘している。米政府は広告目的の情報収集か中国政府の諜報活動かは定かでないとしている。

相変わらず「嘘も方便の弁論大会」とか「個人を重視する近代的価値観の軽視」などとは無縁の模様。なお日本のメディアも50歩100歩?

国際青年環境NGO A SEED JAPAN メディアCSRプロジェクト<日本のメディアの構造問題>

ニューズウィーク日本語版2016年8月23日号
揚上英(中国内モンゴル自治区出身の静岡大学教授)
「友好人士拘束事件が示す日本の空想的中国研究の破綻」

現地の実情とは乖離した研究と中国共産党政権無批判は日本の中国学の「伝家の宝刀」だ…打算的で利益優先の中国研究をイデオロギー面で支えているのは、日本独特の左翼思想とマルクス主義的精神文化だ。19世紀末の明治維新の直後からどの国よりも多数のマルクスやレーニンの著作を翻訳した日本には、ソ連や中国以上に強い共産主義礼賛の伝統がある。共産主義の危険な思想を広げる運動家やアナーキストでさえも「象牙の塔」で守られてきた。

彼らにとってソ連が崩壊した後は唯一中国だけが「憧憬の地」であり続けてきた。「理想の共産主義国家」には労働者問題はあってはいけないし、人権弾圧の事実もあるはずがない。ましてやチベット人ウイグル人、モンゴル人が主張する様な民族問題なども「文明人と夷狄(野蛮人)」の対立という漢民族史観で中国を研究してきた日本の中国研究者は耳を貸さない。

こうして中国の本質を知る中国人の研究を日本人は無視してきた。だが先月には「日中友好」を献身的に支えてきた日中青年交流協会の鈴木理事長がスパイ容疑で中国当局に拘束されている。日本人だけではない。日本の大学に勤めながらも、常に北京当局を擁護する発言を繰り返し、中国政府の代弁役を演じてきた人物も昨年までに、複数名拘束される事件が発生している。

むやみに中国を賞賛せずに現実の我が国を見よ、と習政権がメッセージを送っている。そんな訳はあるまいが、純朴な日本人はまだ夢から覚醒してないところが悲しい。

まぁ、アメリカのメディアと違って2016年の大統領選の結果を外した事を反省してないし、極左無政府主義者の暴動を「アメリカ国民にもまだ良心は残っていた!!」とか報じてるし、これから先はますます現実世界からの乖離が加速していくのかもしれません。