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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【国際SNS上の関心空間】【Social Justice Warrior】「カナダなら5秒で凍死する」「結婚まで処女でいるって汚らわしい事なの?」

日本のLove Story(特にアニメ漫画GAME)では何故か「カップルが一緒に川に落ちる」イベントが非常に多いのです。それが国際的に知れ渡ったのは竹宮ゆゆことらドラ!(原作2006年〜2009年、アニメ2008年〜2009年)」以降だったとも。

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★ FLY HIGH!! ★

で、深夜、地元の橋の上を散歩していたカップルが足下の濁流を眺めながらこんな会話をしたという投稿がTumblrを流れました。

女「(おそるおそる)日本のアニメとかだと、好きな人と一緒に飛び込んで愛の強さを確かめたりするよね」

男「(おそるおそる)よ、よせよ。カナダなら5秒で凍死する。愛を確かめ合う時間もない」

で、数十時間に渡って「カナダなら5秒で凍死する」が流行語に。(メキシコ人ら南米系向けの)スペイン語訳や(ブラジル人向けの)ポルトガル語訳も出回りました。「結婚まで処女でいるって汚らわしい事なの?」なるブラジル人少女の叫びが、たちまちスペイン語や英語にも翻訳されて世界中を駆け巡ったのと逆バージョン。どちらも長続きしなかったのは前者が(街中にまで熊やヘラジカが出没する)カナダ、後者が(未婚者の純潔を尊重する)カソリックをからかうEthnic Joke判定を受けたからとされています。もしかしたら規模が大きくなり過ぎた時点でSocial Justice Warriorの皆さんが動いたのかもしれません。以前書いた「匿名性がかえって自らの所属アイディンティティへの意識を先鋭化させる」とはこういう事。
*いずれにせよ関連投稿はその後まとめて削除され、現存してません。ちゃんと日付を記録をとっててれば年表に乗せられたのに…記憶が正しければ2010年から2011年の間にあった出来事。要するに国際SNS上の関心空間が形成される前夜の景色という事になります。

すらるど フィンランド人「-33℃でマツダのエンジンをかけてみた。かかった」海外の反応

チェコ すまん…-33℃の土地とか存在するのか?

バンクーバー、カナダ ↑-33℃になる場所なんか、北米でそこら中にあるぞ。

●カナダ 俺の車なんか-45℃でエンジンかけたことあるぞ。

●カナダ アルバータ州の冬はかなり寒いんだよ。1月の平均気温は-29℃だ。

●カナダ 俺はカルガリーで-55℃の中、愛車のエンジンをかけたことがあるぞ。ランサーだ。

*日本だと「ゴキブリが怖い人間は、北海道に引っ越せばいい。道東や道北の冬日はマイナス20度以下に達する事も少なくないのだ。ゴキブリはこの極寒の環境を生き延びられない」「ゴキブリも生き延びられない環境って、人間の生存環境としてどうなん?」といったやりとりに対応?

 

http://www.classicforwards.com/wp-content/uploads/2013/01/europe-according-americans.png

 江戸幕藩体制下の文化史年表を起こしてみてしみじみと思ったのが、所謂「300年の鎖国」が日本文化停滞に直結しなかったのは、序盤には「京都と大阪」、中盤には「関東と関西」、後半には「三都(京都・大阪・江戸)と全国の田舎」といった文化的対立があったからだという事。さらには「能と人形浄瑠璃や歌舞伎」なんて芸能対立も。琉球王朝の場合も「中華王朝と江戸幕藩体制の両属状態」が独自文化形成に重要な役割を果たしました。

もちろんそこには愛だけでなく憎悪や嫉妬や怨嗟、服従と非服従の堂々巡りみたいな決して建設的とは言えないネガティブな感情も渦巻くので「何でも政治に結びつけずにはいられない人々」は概ねこれをノイズとして除去しようとするのですが、彼らの勝利はそのまま文化的発展の終焉につながる事が多かったりします。案外それはヘレニズム時代(紀元前323年〜紀元前30年)まで遡るコスモポリタニズムが最初かから内包していた爆弾なのかもしれません。

おそらく背景にあるのは「国際正義はナチズムやファシズムの台頭を許さない!! 手段を選ばず排除するのが絶対正義!!」と主張する人達の行動が、気づくとナチスファシストそのものになり果ててしまっているのと全く同じ問題。そもそも国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 、NSDAP)はヴァイマル共和政(Weimarer Republik、1919年〜1933年)や共産主義系市民団体が失政と内ゲバによる虐殺合戦の果てに大統領内閣制なる事実上の独裁制まで台頭した段階で「国際正義は社会民主主義共産主義の台頭を許さない!! 手段を選ばず排除するのが絶対正義!!」と主張する事によって台頭した訳で、気付いたら振る舞いがそっくり同じになってしまうのはある意味当然の話。

*戦前の廃娼運動は自分の夫に下賤な女を近づけたくない上流階級の妻達の嫉妬心が原動力。戦前から終戦直後にかけての日本人は現代人には想像もつかないほど身分によってそれぞれ分断された生活圏に生きていて、その感覚の延長戦上でHays Codeの「映像作品に黒人を出すな」なる規定を受容して「映像作品に黒人を出すのはレイシズム」と主張する人権団体が支持を集めた。白人至上主義に対抗して黒人至上主義を掲げるNation of Islamは同時に「男尊女卑は黒人が守るべき伝統である」と主張して多くの一般黒人(特に女性)を敵に回し、韓国左派は民族同胞に阿って「日本人や東南アジア人や黒人や身障者を同じ人間扱いする方がよっぽどまともな血統の健常者への侮蔑であり、レイシズムなのである」と主張。彼らに陶酔するその筋の日本の若者達もすっかりこの考え方に同調している。こういう状況下「ナチスこそ一刻も早く地上から絶滅すべき絶対悪で、彼らの即時打倒を叫び続けてきた我々は絶対正義」なる主張を信じろという方が無理がある。まぁ彼らが政権奪取に成功したら楽園実現の為に「はいその通りです」と答えない人間は一族郎等どころか密告を躊躇った知人一同ごと絶滅収容所送りにされてしまうらしい。相手からすればその程度の瑣末な存在と対話する意義など最初から存在していない様なのである。
与謝野晶子 私娼の撲滅について
今日における黒人の政治的傾向について

文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。ただし他人に実害を与える場合を除く」なるジョン・スチュアート・ミル「自由論(On Liberty、1859年)」流の自由主義にだって「何でも他人に実害を与えると決めつけて取り締まるSocial Justice Warriorの皆さんが最終勝者になる事が多い」なんて欠陥を抱えています。彼らが拠り所にしているのは「犯罪は模倣によって拡散する」とした1890年代のタルド犯罪学。しかし実はそれ自体が言わんとしたのは実は「人間を腐敗させる徴候の一切を認識外に追いやる事に成功すれば、人間は必然的に善人にしか育たなくなる」なんて楽園回帰論なんかではなく「犯罪者は(先天的遺伝要因というより)後天的環境的要因が生む」という話であり、そこから導き出されるのは「Social Justice Warriorの勝利はSocial Justice Warriorの拡大再生産を生むが、人間が多種多様な存在である以上、その正義が一つに結実する事はなく、やがて自分たちの信じる正義だけが唯一の真実と信じる人々の間で殺し合いが始まる」なる絶望的な未来ビジョン。これまで幾つもの年表を投稿してきましたが、概ね極右とと極左は同時に現れ、同時に衰えていく様です。米国における「オルタナ右翼Alt-Right)」の台頭も、隙あらば政府ち資本主義の打倒を叫ぶ極左の暴走や社会におけるSocial Justice Warriorの「勝利」と無関係ではない様で、SNS上の中道派は双方から距離を置いてますが、これ自体は歴史上何度も繰り返されてきたプロセスの再現に過ぎません。

要するに本当に重要な変化とは「一般人の自由への耐性」が拡大していくプロセスなのかもしれません。「自分の自由が認められる事」は「他人の自由に我慢する事」と表裏一体の関係にあり、欧米では概ねそうした寛容主義は、誰も「カソリックこそ世界唯一の真実」と考える事もプロテスタントこそ世界唯一の真実と考える事も許されなくなったアウクスブルクの宗教和議(Augsburger Reichs- und Religionsfrieden、1555年)や、ヴェストファーレン条約(羅Pax Westphalica、独Westfälischer Friede、英Peace of Westphalia、1648年)締結を最初の契機として広まったと考えられています。

日頃ネット上で「本当の目的は毎日をHighに生きる事だけで、どこまで本気でどこからがJokeか分からないが、いずれにせよ実際には何も信じてないニヒリスト」たる4chan民に接していると、こういうのも実は冗談で書いてるだけかもしれないとか思ってしましまいます。 実はあえて劇場版「君の名は(2016年)」と「この世界の片隅に(原作2007年〜2009年、アニメ化2016年)」との違いを探すななら「どれだけLove Storyとしてトリミングされているか」くらい。小説版やスピンオフ小説で明かされる前者の五十嵐大介海獣の子供(2006年〜2011年)」めいた重厚な設定がLove Storyとしてトリミングされるのは仕方がないと思う反面、こうの史代も「長い道(2001年〜2004年)」「さんさん録(2004年〜2006年)」では当たり前の様にLove Storyトリミングを用いており、しかもその結果醸し出された独特の雰囲気は凝り性の片渕須直監督の手によってしっかり劇場版「この世界の片隅に」にもフィードされてたりします。「決定的な境界線」など実は何処にも存在してないのですね。

それより「セカイ系評論家」東浩紀には「セカイ系から空気系へ」と論評していた時代にこうした作品が発表され、むしろ最近では国際的にこちらの方がゼロ年代を代表する作品と目されている事についてどう考えているかコメントして欲しいものです。

今から振り返ると実は2010後半とは「この世界に実在する現実は一つだけで、他は全て欺瞞」なる共同幻想に基づいて誰もが「自分が知ってる現実だけが真実」なる主張を通そうとする闘争が完全に意味を喪失していく最初の時代だったのかも。だからこそ「異類婚や彼岸と此岸の交流が悲劇しか生まない」物語が崩壊し、「ほのぼの日常物」や「学園異能バトル」が流行する一方で五十嵐大介が「リトル・フォレスト(2002年〜2005年)」「魔女(2003年〜2005年)」「海獣の子供(2006年〜2011年)」を、こうの史代が「長い道(2001年〜2004年)」「夕凪の街 桜の国(2004年)」「さんさん録(2004年〜2006年)」「この世界の片隅に(2007年〜2009年)」を、志村貴子が「放浪息子(2002年〜2013年)」「青い花(2004年〜2013年)」を発表。新海誠監督作品「秒速5センチメートル(2007年)」と併せ2010年以降が「人生がFPS化される時代」すなわちコミュニケーション志向(Communication Oriented)、対象関係論志向(Object relations theory Oriented)、ピクチャレスク志向(Picturesque Oriented)が三大柱となる新たな評価軸を準備する事に。むしろ「この世界にたった一つだけ確実に信じられる現実世界が存在する」なる発想の方が幻想と化し、忘れ去られていく時代。

*最近の若者はフランシス・コッポラ監督作品「地獄の黙示録(Apocalypse Now、1979年)」を鑑賞しても「当時のCGってショボかったんですね」くらいにしか思わないらしい。それより実際の兵器について徹底的に調べ込んふだ上で、その最高の見せ方を追求した広江礼威BLACK LAGOON(2001年〜2014年(中断)、アニメ化2006年、2010年)」や片渕須直監督作品「この世界の片隅に(2016年)」の方がずっとリアル。実在する兵器さえ登場させれば「リアル!!」と絶賛された1980年代までの価値観とは隔絶の感がある。

日本は「平和な国」だからこそ、こうした時代への対応が後手後手に回るという皮肉。

一体どうすりゃいいですかね?