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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「1990年代後半における少年少女達の荒涼たる精神状態」に関する同時代証言

1990年代後半の若者は国際的に自分の五感で感じられるものしか信じられなくなったり、デスゲームに投入される形でしか生きてる実感を回復出来ないといった、荒涼とした精神状態にありました。

要するにFalloutシリーズ(1997年〜)、Serial experiments lain(1998年)、庵野秀明監督作品「ラブ&ポップ(原作村上龍1996年、映画化1998年)」、上遠野浩平ブギーポップは笑わない(1998年)」がリリースされた時代。こうした状況を背景に高見広春バトル・ロワイアルBATTLE ROYALE、原作1999年、映画化2000年〜、漫画化2000年〜2005年)」や、Yoshiのケータイ小説Deep Loveシリーズ(2000年〜)」が登場してきた訳です。そう、iモードが登場し、ケータイ小説が人気を博した時代でもありました。

その一方で「新世紀エヴァンゲリオン(TV版1995年、劇場版1996年〜1997年)」の世界観は不思議なまでに、こうした流れと絡んできません。

一体どういう時代だったんでしょうか?
前史として「女子高生ブーム(1993年)」を挙げる声も。

女子高生ブーム

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女子高生がブームになったのはポスト団塊ジュニアが高校に在学していた1993年頃からだと言われている。女子高生の文化にマスメディアが焦点を当て、テレビなどでトレンドや記号として紹介されたこと、ブルセラなどの性的・社会的な問題などがあって「女子高生ブーム」が起きたと言われている。

そういったことにより、女子高生が通学時以外や休日でも制服を着て行動するようになり、また、高校生ではなくなったのに、あるいは在籍通学していないのに制服(なんちゃって制服)を着て街を徘徊してみせるなんちゃって女子高生まで現れるようになった。指定制服のない学校に通う生徒が、「制服風ファッション」でコーディネートするスタイルも「なんちゃって女子高生」と呼ぶ場合もある。

当時の日本については、こういう貴重な同時代証言が残されていたりします。

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榎本ナリコセンチメントの季節(1997年〜2001年)」

ビッグコミックスピリッツ』(小学館発行)に1997年45号から2001年18号まで連載された漫画(ただし一時休載期間あり)。現代の女子高生(性的にだらしない・自意識過剰)の生活や実態を描いた作品で、女性の視点で社会的問題や、売春、性行為などがリアルに描かれている。作品は季節ごとにまとめた構成となっており、秋、春、夏、冬の順番になっている。1巡目の「第1シリーズ」は、1話完結のオムニバス、「2度目の-」と冠がある2巡目の「第2シリーズ」は、季節ごとにストーリーや登場人物を設定しているシリーズ方式のオムニバスとなっている。1999年にWOWOWでテレビドラマとして放送された(全8話)。

 榎本ナリコセンチメントの季節(1997年〜2001年)」1巻後書きより

この作品を描くに当たって現代の女子中学生や女子高生を取材する事も行ってません。その意味ではこの作品の中核を為す私の少女時代への憧れはファンタジーの一種といえあるかもしれません。 

「少女漫画誌ではフェイク、青年誌ではファンタジー」

私はこの漫画を描くまで、一応少女漫画を描きたいなぁと思っていましたし、一応少女向けの雑誌でも描いてました。しかし私の漫画は何やら不思議に浮いているフェイク少女漫画に過ぎなかったのです。女子なのに少女漫画をあまり読まず育ってしまったせいかもしれません。私の漫画原体験は父の知人の貸本屋に入り浸って読んでいた水木しげる白土三平永井豪(しかも「あばしり一家」)で、その後もジャンプとサンデーで育ってしまい、少女雑誌を自分で買った事など今の今まで一度もありません。五歳下の妹が買っていて、大島弓子先生(萩尾望都山岸凉子竹宮惠子達と並んで24年組と数えられる一人)には大変憧れていたのですが。

ところが今回青年誌で描く機会を頂いた所、どうでしょう。少女漫画を描く時に微かながら如実に感じてきたフェイク気分を一切感じずに済んだのです。それはこの作品を描くに当たって私が女である事をいい事に、汚れた積年の下から引っ張り出した過去の実体験をネタにしたりしているせいです。

例えば私は実際にカラダには一つも触れず、ただひたすら手を繋いでくる痴漢に遭遇したり、ポルノ小説家のオジさんのマンションに通ったり、女子高生の時にすごい年下の男の子(当時の小学五年生)に恋い焦がれたり、愛の証にカラダを求めてくるボーイフレンドに応えられず苦悩したりしてきたのです。無論ものすごい事実の歪曲がなされていたり、全くの捏造も混ざっているので実録漫画とは異なります。読者の方々から「女性ならではの感性」とか「リアルな女子高生を描いている」といった感想を戴きましたが、心苦しく思ってるくらいです。私は確かに女性なもので、女性の目からしか世界を見られない訳で、感性が女なのも仕方ありませんが、その一方で少女であった時期はほんのちょっとで、それもはるか昔の事です。ザ・不良の友達とつきあって煙草こそ吸っていたけど、私が中学生だった当時は校内暴力が大フィーバー。不良といえばツッパリハイスクールロックンロール状態で、男子のズボンは太いほど良く、女子のスカートは長ければ長いほど良いとされてました。「金ドンの良い子・悪い子・普通の子」が流行した時代でもありましたが、そのうち良い子でも悪い子でもない普通の子で、自分の青春をライブで謳歌するのを躊躇ってしまい、しかも初恋の相手がオヤジであった為に妙に客観的で、少年少女の淡い恋とか「初めてのキッスはレモン味」といった体験も全てすっ飛ばしてしまったのです。この作品を描くに当たって現代の女子中学生や女子高生を取材する事も行ってません。その意味ではこの作品の中核を為す私の少女時代への憧れはファンタジーの一種といえあるかもしれません、渡韓と手を繋いで三駅分並んで立っていた時のあの感じ。クラクションが遠く聞こえる男のマンションの隔絶された感じ。中学の時にRCサクセションの「トランジスタラジオ」を気取って屋上で煙草を刷った時のあの感じ。初めて自分の膣に指を入れた時のあの感じ。中学時代に良く見た「飛ぶ夢」における空中に引っ張り上げられたい衝動と地面に叩き付けられたいという衝動が残したあの感じ。子供の頃、母の実家の前にあった学校の池に一人で遊びにいっておっこちたり、その裏手にあった神社で蝉時雨の最中で虫取りをした時にふと意識したあの感じ。そして、こうした断片的記憶を何一つ忘れまいとする私自身の執念。あたかもこの作品を通じてあるべきだった少女時代を生き直そうとしてるかの様で、だからこの作品をファンタジーとして読んで頂く事を望みます。

もし今の少年少女がこれを読むならば「コドモは読むな!!」と、遥か昔の日々に欲情するほど汚れた大人の羞恥で思います(男性というのは彼岸の人たる女の目に映る眺めに憧れ過ぎるきらいがあるなぁ、彼岸の人の一人として思います。足下に汚れた積年を詰んでいるのは私も同じですし、少女時代の思い出そのものだって遙か昔の断片的記憶に過ぎないのですから)。何故だか申し訳ない気持ちすら感じますが、出来る事なら君達が今感じている「あの感じ」が、私の記憶にある「あの感じ」がどこまで似てるのか是非聞いてみたいものです。

榎本ナリコセンチメントの季節(1997年〜2001年)」2巻より

他人の中に自分を入れるなんて怖くて出来ない。俺が何で星好きか分かる? 手が届かないからだよ。ガキみたいだろ?

時々あたしは自慰をする。その行為を何時から覚えたのかは思い出せない。ただ、昔弟とした「手術ごっこ」は楽しかった。その時、感じたかどうかは覚えてない。でも、あれからずっとあたしは自分の中の欲望を嫌悪している。きっとあたしは永遠に誰ともつながらない。

榎本ナリコセンチメントの季節(1997年〜2001年)」3巻後書きより

子供時代の世界はとても狭いものです。その狭い世界で子供は初め世界は自分のものだと思っています。それがそうではない事、自分の知らない世界が存在する事を知るのが少年少女時代。その時になって初めて彼らや彼女達の視線は「世界の外側」に向けられますが、まだ大人達が自分達と同じ人間である事など思いもよりません。セックスとは、そうした彼らが世界と最初に切り結ぶ刃なのだと私は考えています。政治経済文学社会全てが、まだTVの向こう側に過ぎない頃から、将来の夢より愛する人より先に何かが自分の身体の奥から自分自身の欲望として込み上げてくる。他人が他人の顔をしていても驚くには値しません。自分が他人の顔をする事、それこそが胸騒ぎを引き起こすのです。

願わくばこの作品が痛いほど掻き毟らんばかりでなくとも、そっと手を触れるほどにでも、あなたの傷口に届きます様に。

「自分を少女と信じて疑わない狂気の老女の様に踊る」

大野一雄という舞踏家の公演を見に行きました。彼の舞踏は(山海塾などで有名な)暗黒舞踏に位置するのですが、要するに90歳を超える男性が白面に化粧して深層の令嬢の様な白いレースのドレスを着て、愛らしく小首を掲げてゆらゆらと踊っていました。何だか物凄く感動したのです。「男性の老人が、まるで自分を少女と信じて疑わない狂気の老女の様に踊る」のが倒錯大好きなオトメ心をクリーンヒットしたのです。カーテンコールでは黒の男性用礼服に着替えて「英雄ポロネーゼ」か何かに乗せて颯爽と踊りました。踵を返す時、被布から禿げ落ちた白粉が照明に光って飛び散るのです。まるでティンカーベルの粉みたいに。あの粉を振り掛けてもらったら飛べるのよ、ステキ! などと31歳のババアの胸にオトメ心が再生されて、つい涙ぐんでしまいました。そして果たせるかな、花束を捧げに舞台の前に大勢集まった彼のファン達は皆、お年を召した御婦人方だったのです。まるで92歳の年老いた男性に自らの失われた少女期の再来を見る様な憧れる目をして、手に手に花束を抱えて揃って微笑んでいるのでした。大野氏はグレタ・ガルボの様な唾広の帽子を被り、鼻を受け取ってはそれに顔を埋めていました。そこにいたのは紛れもなく乙女達でした。

どうして私は大野一雄という舞踏家の公演にそこまで感動したのか。それは男性であり、老人でもある最も少女から遠いところから演じて見せつけられた、すでに傷心していながら傷心以前の純粋な存在たる(と信じていた)少女に固執してきた私自身の戯画だったからです。他人が自分の顔をしていた事へ胸騒ぎを覚えたからです。

私のやっている事はこういう事なのかもしれません。いや多分そうなのです。「自分をまだ少女と信じて疑わない狂気の老女として踊る」という事です。何ともぞっとしない話ですが、花束の乙女達の魂のみは真であった様に(きっと絶対にそうなのです)この作品も魂ばかりは真であったら良いなぁ、と思っています。それが描けているかどうか判るのは、これを読んで下さる方々それぞれの心だけです。私にはわかりません。私はただ自分の昔日の忠実な再現を試みるばかりです。

「セックスとは、少年少女が世界と切り結ぶ最初の刃」

この作品はセックスをテーマとし、しかもその対象を少女達におけるそれに志して限定しているのですが、なぜそうしているかというと言うまでもなく彼女達(または彼達)が、セックスというものに初めて立ち向かう年頃にあるからです。子供時代の世界はとても狭いものです。その狭い世界で子供は初め世界は自分のものだと思っています。それがそうではない事、自分の知らない世界が存在する事を知るのが少年少女時代。その時になって初めて彼らや彼女達の視線は「世界の外側」に向けられますが、まだ大人達が自分達と同じ人間である事など思いもよりません。セックスとは、そうした彼らが世界と最初に切り結ぶ刃なのだと私は考えています。政治経済文学社会全てが、まだTVの向こう側に過ぎない頃から、将来の夢より愛する人より先に何かが自分の身体の奥から自分自身の欲望として込み上げてくる。他人が他人の顔をしていても驚くには値しません。自分が他人の顔をする事、それこそが胸騒ぎを引き起こすのです。だから例えばどんなにそれが大人になった祝福だと説明しても、もっと美化して尊い命を育む為の神聖な行為だと教育しても、その体験が傷心を残す事は避けられないし、大人になったって誰もその古傷を完全に忘れてしまう事は不可能なのです。セックスは快楽なのに、どうしてそれは常に後ろ暗い影を引き摺っているのか。こうした経緯のせいだと私は考えています。

私はあなたのその傷口に触れたいのです。これは悪意です。傷口に触れられたら痛いと思って欲しいとも考えているからです。それは心を動かして欲しいとも思っているからで、つまり卑しくも感動して欲しいとも思ってるからなのですが、その為に私が選んだ手段が自分の古傷を開いて見せる事だったのです。私がセックスを描くのは、それが私にとって最大の傷跡だったからで、これが悪意でなく何でしょう?

榎本ナリコセンチメントの季節(1997年〜2001年)」4巻後書きより

「眠れる森」では男性の蒲団に潜り込んで寝た振りで誘惑し、事に及んでも寝た振りを続ける事で自らの純潔性を守り抜こうとする少女の矛盾を描きました。「スノウ・ホワイト」では「大割引の代わりに行為中マグロ状態を通す」「白雪姫の様に我に返りたくないからキスも許さない」「心があるとセックスできない」「雪に倒れて死んだふりをするのが好き」と豪語する援交女子高生を描きました。こういう風に御伽噺を逆説的に置き換えるのが大好きです。実は「人間失格」の元ネタも太宰治ではなく「雪の女王」だったのです。アンデルセンの原作では雪の女王に奪われたカイ少年の魂を魂を取り戻す為に冒険を繰り広げる「けなげな少女」ゲルダが主人公でしたが、この物語では年下の男子生徒を肉体的に誘惑して虜にした年上の女教師を破滅に向かって一直線に突き進む悲劇の主人公に据え、その不道徳性を告発する事によって「(肉体的誘惑によってプラトニック・ラブの対象だった恋人を奪われた)復讐」を果たす少女を脇役に配しています。その結果、完全に別の物語として展開する事になったので題名も差し替えた訳です。


これを読んでる全ての方に、私はこの物語を譲り渡したいと考えています。もちろん物語である以上、私の意図的な操作が為されており実録そのものではありません。物語とは「ある感情を一定の状況を提示する事によって再生する装置」であり、私は自分の個人的「泣けるキモチ」をあなたの胸で再生しようとしてるだけなのです。それを感じるも感じないもあなた次第。その意味でこの物語は私の個人的物語であると同時にあなたの物語でも有り得る訳で「譲る」とはそういう意味です。

「失って初めて恋と知る苦い青春の思い出の切り売り」

作中に登場する「人の心は星と星ほど遠い」という台詞はとある男性から実際に私が言われた言葉です。女子中学生に「僕の死体を北極海に埋葬してくれ」と依頼する男性も嘘の様ですが実在しました。実はこの作品の別の物語に登場するポルノ小説家と同一人物がモデルで「遅刻したら死ぬ」と信じていたクソマジメな優等生だった私を、仮病を使って学校でフケさせ、家まで爆走させた張本人です。まぁドラマチック!! 私の人生で最もエキサイティングで毎日がカーニバル状態だった時期!! この男に引っ掛かったせいで私の青春は丸潰れになってしまいましたが、でもこの男がいなければ今の私がなかったのも事実。

後にこの男と私は永遠の別れを迎える事になるのですが、その事への傷心はこのシリーズの全作品に通底しています。多分あれは学校と家を往来するだけの狭い世界に生きていて永遠を信じていたガキが、人と人は二度と逢えなくなる時もあるのだという事、愛は永遠ではないという真理に初めて突き当たった瞬間だったのです。以来私の恋愛は享受したためしがないのですが、あの時が最初だったものでかなりアト引いちゃって2年間ほど胸にユーミンの「リフレインが叫んでる」が流れ続けちゃってもう大変でした。それでも当時は恋愛してるだなんて意識は微塵もなく、私にとってそれは人と人の魂の併走であって、愛でなく友情でと規定されていたんです。年の離れた男が小娘の自分を人として扱ってくれる事に酔ってたんですな。失って初めて恋と知る苦い青春の思い出。個人的に泣ける。


しかし今思うにそれは私にトラウマだけでなく大切な思い出をも残した訳です。そんな大切な思い出を冷酷に切り売りしてしまうんだから、作家というのは人のミチを外れてるなぁとは思います。けれど売る。売るという言葉が誤解を招くなら、では譲る。これを読んでる全ての方に、私はこの物語を譲り渡したいと考えています。もちろん物語である以上、私の意図的な操作が為されており実録そのものではありません。物語とは「ある感情を一定の状況を提示する事によって再生する装置」であり、私は自分の個人的「泣けるキモチ」をあなたの胸で再生しようとしてるだけなのです。それを感じるも感じないもあなた次第。その意味でこの物語は私の個人的物語であると同時にあなたの物語でも有り得る訳で「譲る」とはそういう意味です。どの様に感じてくださっても本当は構わない。ただ私が感じたのと同じ感情をあなたが感じてくださるなら「やったネ!」と密かに思うばかりです。それは確かめ様もない事ですが。

 榎本ナリコセンチメントの季節(1997年〜2001年)」5巻より

ああそうか、そうだったんだ。誰もがひとつ体を持っている。誰もがひとつ心を持っている。あのひとも、あのひとも、あのひとも、あのひとも…みんな誰もがそこにいる。

 榎本ナリコセンチメントの季節(1997年〜2001年)」6巻後書きより

画像が焦点を結ぶには距離が要るのです。単純な少年少女期の礼賛はその直中に還りたいという弱音に過ぎず、それが絶対的に過ぎ行くプロセスだからこそ愛着するのが正しいという事です。

「正しく少年少女時代を通過してオジサンオバサンになりなさい」

大人は最初から大人だった顔をしたがるものです。それと同じ様に、少年少女達も自分達が何時かオジサンやオバサンになってしまうなんて思ってみもしないのです。それぞれ自分達と全く別の生き物の様に、実感として思っているのではないか。お互いが来た道であり、行く道であるにも関わらず。

しかし時間は一定方向にしか流れません。少年少女にとってオジサンヤオバサンになる未来が不可避な一方で、大人が少年少女だった過去に戻る事は不可能なのです。だから大人達は自分達の恥ずかしい過去を抹殺する一方で、それに憧れ続けるのかもしれません。何だか素敵な事を失ってしまった気分。二度と手元に戻ってこない忘れ物をした気分。大人はそういうものを誰もが胸の内に秘めて生きているものです。思い出は美化されるもので、実際には物凄く滑稽な事をやらかしてる筈なのにその部分は削除され、都合良くメロウ(mellow、芳醇)で切ない追憶だけが残されます。そしてそれが「少年少女時代の心や感じ方をいつまでも忘れない」とか「終末、少年になろう」といったキャッチコピーの流行に結実する訳です。

こうした大人達のセンチメンタリズムは当然、少年少女側のメンタリティにも影響を与えます。現役の少年少女にとっては「自分達が現在少年少女である事への自負と誇り」を肯定してくれる温かい追い風ですし、その目には若いというだけで軽んじられもするが歓迎もされる風潮が貴重な突破口と映るからです。私のこの漫画も、そうした大人と子供の共依存/共同幻想の上に成立している訳ですが、単純な少年少女期礼賛を描きたくないと思う私は、それを素晴らしいものと讃える一方で、それが失われる事への不安、本当に失われる時の痛みについて繰り返し描いてきました。実際少女だった頃の私は14歳で死ぬと漠然とながら頑なに考えていましたし、その年を過ぎて以降は残りの人生など全部オマケだに過ぎない考えていたものです。今では大人になるのもそんなに悪い事ではなかったなぁ、と思っています。別に立派な大人になれた訳ではなく、相変わらず年甲斐もなく愚かなままですが、少年少女期を遠く離れて眺める景観を得て、その渦中では見えなかった全体像が視野に入ってきた事そのものが貴重なのです。何かを視るには距離が必要です。眼球に貼り付いた埃は見えません。画像が焦点を結ぶには距離が要るのです。単純な少年少女期の礼賛はその直中に還りたいという弱音に過ぎず、それが絶対的に過ぎ行くプロセスだからこそ愛着するのが正しいという事です。歌にも言うではありませんか。

森田公一(作詞阿久悠)「青春時代(Make your Future with your Own、1976年)」

 ♪青春時代が夢なんて
 後からほのぽの思うもの
 青春時代の真ん中は
 胸に棘刺す事ばかり

こういうと私のこれまでの漫画を好きになってくれた人への裏切り行為になるかもしれませんが、それでも私は自分を含め全ての人に「大人になれ」と言いたいのです。それはもちろん少年少女だった過去を抹殺した大人になれという意味ではありません。きちんと少年少女期を通過し、それが決して帰れない過去である事を愛寂するオジサンオバサンになれといっているのです。後からほのぼの思うのはオジサンとオバサンの特権。それでも「大人に何てなりたくない!!」と叫ぶ少年少女の潔癖さに突き当たる時、やっぱり愛おしいなどと思ってしまうのが本当の大人というものだと言いたいのです。

榎本ナリコセンチメントの季節(1997年〜2001年)」7巻後書きより

元来いつまでも大人になれなかったり、ならなかったりする事は決して誉められた事ではありませんでした。昔は元服などといって子供は無理矢理大人にさせられたのです。髪を切られ、名前を付け替えられ、少年は初陣を飾り、姉やは15で嫁に行きました。それは随分と性急で酷い事とは思いますが、そういう昔があって、そうしたもののアンチテーゼが現れてきたのだと思われます。大人は汚れていて、子供は単に未成年なのではなく"特別な存在であり、純粋で美しいものだという思想です。

それは多分最初は学生運動(この場合の学生とは大人でない人達を指すのではないでしょうか。当時の長髪って元服拒否だったのではないでしょうか)といった痛みを伴って登場したと思われますが、私が子供だった頃には既にもっと軽やかなものへと変貌を遂げていました。学生運動の事は全く知らない一方でモラトリアム人間やスキゾ・キッズとかピーターパン症候群みたいな軽チュアーっぽい言葉が流行。それでも多分通底する思想は同じだったのです。私が現役中学生だった頃の人気番組「三年B組金八先生」では、学校に立て籠もった不良・加藤君が押し入ってきた警察に補導連行される時、起きた弘幸の「加藤ォ~!!」という絶叫のバックで中島みゆきの「世相」が流れていました。♪シュプレヒコールの波通り過ぎていく変わらない夢を 流れに求めて時の流れを止めて 変わらない夢を見たがる者たちと 戦う為…今でもグッときてしまいますが、同じ頃爆発的ヒットを飛ばしたスピルバーグ監督の「E.T.」は完全に見逃しています。最近深夜TVで視聴したところ、全くもって「大人は判ってくれない」映画でした。無理解な大人達と異なり、純粋な子供達だけがモンスターと心を通わせるというテーマ…というのはひょうきん族のパロディ「いーてふ」を視聴して知ってましたが、非情にストレートに予想通りの物語が展開するので吃驚。同じ頃、やはり大ブームだったガンダムの主人公アムロ・レイもモラトリアム主人公と呼ばれていました。彼はニュータイプと呼ばれる主人公で(そういえば、この言葉も大流行だった)巨人の星花形満が小学生なのにスポーツカーを乗り回しても少年である事が全く問題とされなかったのに対し、多分「TV漫画」としては初めて少年である事をウザいほど全面に押し出した主人公となったのです。それ自体は基本的に子供向けエンターテイメントだったから子供に都合良く出来ただけだったのかもしれませんが、そのドリームに大人達も乗ってきたのであれだけのブームとなった訳です。モラトリアム人間ピーターパン症候群も批判的意味合いの方が強かったのですが、子供達(または大人にならない大人達)を指差してそう弾劾する眼差しには苛立ちだけでなく若干の憧れも含まれていた様な気がします。

そして今でもそうしたドリームや思想が今日なお続いているのです。

最近流行の「自分捜し」などはモラトリアムの再延長ですし、いつまでも大人にならなかったり、なれなかったりする事もそう珍しい話ではなくなりました。アダルトチルドレンや少年犯罪が急増し、ある少年など「少年だけの王国を建設する」と宣言したそうです。これまで私は思い出が色褪せ、人が老いていく虚しさや切なさをメモランダム型式で書き留めてきました、その一方で少年少女期の永続を願う姿勢の後ろ向きさやグロテスクさをきちんと表現してこなかった気がします。この話で表現しようとしたのは、つまりそういう事なんです。

榎本ナリコセンチメントの季節(1997年〜2001年)」8巻後書きより

私はこの物語を主人公が少年少女であるなしに関わらず、一環として「少年少女達の物語」として綴ってきました。曖昧で移ろいやすい季節についての必死のメモランダム。そしてその過程で自分が大人である事を否応もなく意識させられ、少年少女に対する考え方も少しずつ変わってきました。それまでそれをとても特別なものの様に考えて、常に失われていくものだからこそ懸命に物語の中に封入して残そうと努めてきたのです。それは成長への抵抗の様に見えただろうし、事実そうでした。しかしその過程で「大人になるという事をもう少しポジティブに考えてもいいんじゃないか」とも思う様にもなってきたのです。もちろんそれは少年少女と大人の間に明確な境界線を引いた上で、大人である事を選べという話ではありません。大人になる事が至上課題で到達すべき達成点とする前提に立脚する訳でもありません。少年少女も大人も等しく人間なのだと等閑視する様になったというだけの話です。


少年少女の頃とは、大人でも子供でもない曖昧な時期です。肉体の成熟度や年齢を尺度とするなら区別は容易ですが、心まで測ろうとするなら仕分けはとても難しい。どんな大人にも子供っぽい部分はあるし、どんな子供にだって大人びた部分が皆無とはいえないからです。少年性や少女性などと言い出すなら、まずその定義から始めないといけません。

その一方で少年少女という言葉が指し示す意味内容は概念として確実に存在し、そして事実としてどんな人にもそれに該当する時期が確実に存在します。私はこの物語を主人公が少年少女であるなしに関わらず、一環として「少年少女達の物語」として綴ってきました。曖昧で移ろいやすい季節についての必死のメモランダム。そしてその過程で自分が大人である事を否応もなく意識させられ、少年少女に対する考え方も少しずつ変わってきました。それまでそれをとても特別なものの様に考えて、常に失われていくものだからこそ懸命に物語の中に封入して残そうと努めてきたのです。それは成長への抵抗の様に見えただろうし、事実そうでした。しかしその過程で「大人になるという事をもう少しポジティブに考えてもいいんじゃないか」とも思う様にもなってきたのです。もちろんそれは少年少女と大人の間に明確な境界線を引いた上で、大人である事を選べという話ではありません。大人になる事が至上課題で到達すべき達成点とする前提に立脚する訳でもありません。少年少女も大人も等しく人間なのだと等閑視する様になったというだけの話です。

対立する陣営の片側に立つ時、誰もが相手も人間だとは考えないものです。どんな思想の間にも、どんな立場の間にもこの問題は存在する。「大人は判ってくれない」とはよく聞くフレーズですが、彼らが出会う大人とは多くの場合、親や教師に限定されているのです。出会うとはそれなりの関係性を持つという事で、出会ってもいない、他人としての大人など存在してないも同然です。しかも「お母さん」「お父さん」「先生」も個人というより役割として存在するだけで、人間とは思っていないのではないか。援助交際をしている少女がどれだけ沢山の大人と肉体的に関わったとしても、行きずりの棟居の大人を同じ人間として認識する事はありません。援助交際や少年犯罪が問題となって随分になりますが、多分大人の側も自立しない自由を甘受して好き放題にしている少年少女を本当の意味では人間と認めてない。「よその子」を個人として認める機会自体に乏しいし、少年少女に対してどころか大人同士だって「役割」に引き籠もって接する事を好みます。この様な事は国家間や人種間や男女間といったカテゴリー化された関係全てに起こり得る事で、その殻の内側に留まり続ける限り、お互いは決して人間同士ではないのです。

一方、相対的にではなく絶対的事実として大人も子供も少年少女も等しく同じ人間同士。どんな人にも心は必ずある。互いに見えなくとも、絶対にあるのです。そんな当たり前の事を人間は忘れがちです。私達は基本的に他人に心がある事を忘れ、自分にも心がある事を他人から忘れられる、そういう存在なのですね。

ピノキオは人形ですが、心は持っています。心だけが人を人間にするなら、ピノキオは人形のまま既に人間であった事になりますが、しかしピノキオが人間になったのは人間の肉体を受肉した瞬間とされているではありませんか。

私はこのシリーズの中で、この様な心と肉体の乖離を少年少女の季節のメモランダムの一環として繰り返し描いてきました。というのも実は、私の中における少年性少女性の内的定義そのものが、この「精神と肉体の齟齬」だったからです。子供はただ心だけで生きている。心を心とも思わず無意識的に生活している。ところが少年少女期に入ると性的欲望と出会い、初めて自らの肉体や他人の肉体と邂逅する。ひるがえって肉体を意識した時初めて、彼女(彼)はそうでない自分の部分、すなわち心を知る事になるのではないか。彼女(彼)に心の存在を教えるのは心で亡い部分、すなわち肉体なのではないか。そして両者は容易く一繫がりにの再統合される訳ではない。

インターネットという場では同じ問題を抱えた少年少女と大人を等しく同じ立場で引き合わせますが、それは問題解決というよりむしろ隠蔽なのかもしれません。何故ならインターネット上では心だけになれる人々も、現実社会では"肉体を抱えて生きているからです。現実の肉体には"性差があり、年齢差があり、姿形も異なり、役割や立場にも違いがあります。ある人をその人たらしめているのは、その人の心だけではないという事です。

中島みゆきの歌に「命の別名」というのがあります。「命に付く名前を心と呼ぶ/名もなき君にも/名もなき僕にも」という歌詞を聴くと、少しだけ泣けてしまったりします。最期の物語ではインターネットについて書きましたが、それはこの世界が「命の別名」たるハンドルネームで名乗り合う場だったからです。ネットではお互いの顔が見えません。そこで取り交わされるのは言葉だけ、文字情報に変換された心だけです。そこでは原則として年齢も性別も問われない。もし望むなら「ネカマ」「ネナベ」として異性の振りをする事も可能だし、当人と掛け離れた別人として振る舞っても構わない。社会としてのネットに個人として存在したければハンドルネームは固定にするのがルールですが、個人を規定するのはほとんどその名前だけであり、やろうと思えば他人の名を騙る事すら出来てしまう。無論厳密に言えば個人の特定は不可能でもありませんが、ネット上においては全ての人が基本的にはNobody(誰でもない)なのです。

出会い系サイトの例を挙げるまでもなく、ネット上ではあらゆる場所で、本来で合うはずのなかった人達が出会っています。それはかけはなれた場所の、という意味だけでなく、かけはなれた年齢の人々でもあり、通常の一般社会では出会う機会の少ない少年少女や大人の邂逅も、それぞれ役割やカテゴリーの違う人々間のコミュニケーションもここでは可能となるのです。年齢や性別による差別も、個人の特定の困難さから原則として持ち込まれません(全くないではないけれど、垣根が一般社会より遥かに低い)。それ以前に年齢性別を明かさない限り、差別自体が発生しないのです。憶測によるむしろ酷い差別も存在しますが、憶測はあくまで憶測。そうした場で普通なら大人からただの子供としてしか扱ってもらあえない少年少女と、普段は役割に囚われて個人になれない大人達が対等な立場で言葉を交わす事が出来るのです。そこにああるのはただ心だけです。そして私は掛け離れた立場にある少年と大人の女性が心と心だけで出会うところから、この物語を始めたかったのでした。

しかし人間を人間たらしめているのは心の存在だけではありません。もし心しかないならそれは幽霊で、元来はそれと不可分な形で肉体が存在します。しかしNobodyでなくBodyすなわち肉を得た実体として出会った時、二人は互いの心を見失ってしまうのです。私はこのシリーズの中で、この様な心と肉体の乖離を少年少女の季節のメモランダムの一環として繰り返し描いてきました。というのも実は、私の中における少年性少女性の内的定義そのものが、この「精神と肉体の齟齬」だったからです。子供はただ心だけで生きている。心を心とも思わず無意識的に生活している。ところが少年少女期に入ると性的欲望と出会い、初めて自らの肉体や他人の肉体と邂逅する。ひるがえって肉体を意識した時初めて、彼女(彼)はそうでない自分の部分、すなわち心を知る事になるのではないか。彼女(彼)に心の存在を教えるのは心で亡い部分、すなわち肉体なのではないか。そして両者は容易く一繫がりにの再統合される訳ではない。

今の子供達は早熟です。心がおぼつかないまま寝耳に水の様に肉体が大人になってしまえば、心が置き去りにされます。逆に性的情報の氾濫のせいで耳年増になるなら肉体が置き去りにされてしまいます。例えば援助交際などについて大人が眉を顰めるのは、そこに心と体の分断を見て取るからではないでしょうか。それを生業とする成人女性のそれと少女達のそれが違うのは、商売として「割り切る」という事とは別の心と体の痛痛しい断裂を思わせるからではないでしょうか。少女の頃の私はそれを思春期特有の病気の一種と考え「大人になるという事は、そうしてバラバラになってしまった肉体と心に折り合いをつけて繋ぎ合わせる事だ」と考えていましたが、大人になった今はそうではなかったと考える様になりました。同じ問題を抱えたまま、解決した振りだけして人は大人になるのです。そして心は肉体に埋め込まれていますから、肉体が介在すると心が度々見えなくなってしまう問題だって未解決のままです。そしてインターネットという場では同じ問題を抱えた少年少女と大人を等しく同じ立場で引き合わせますが、それは問題解決というよりむしろ隠蔽なのかもしれません。何故ならインターネット上では心だけになれる人々も、現実社会では"肉体を抱えて生きているからです。現実の肉体には"性差があり、年齢差があり、姿形も異なり、役割や立場にも違いがあります。ある人をその人たらしめているのは、その人の心だけではないという事です。NOBODYのまま出会う事は、本当の意味では出会っていない事を意味するかもしれないのです。

どんなにそれがばらばらでそぐわないものに見えても、人は心と体の両方を抱えて生きています。心だけになる事は一見美しい事に見えます。心が見落とされがちな人間関係の中で生きていたら、より素晴らしい事の様に映る瞬間もあるでしょう。体だけしかない関係は確かに虚しい。でも心だけになる事は果たして虚しくないのでしょうか?

私は取材の類を殆どしないのですが、インターネットを使うに当たってサイトをかなりのぞいたりしました。内容の検索はほぼ不可能なのですが、カテゴリーや世代別になら検索出来るので、中学生男子の日記だけを拾い読み。公開の日記なのでそんな事感じる必要ないのですが、他人の日記ののぞき見にはある種の背徳感が伴いました。それで感じたのが中学三年生の日記が一番面白いという事。中学校一年生から中学校二年生にかけてはまだ子供で、その日の出来事の羅列に過ぎなかったり、飽きてすぐやめちゃったりといった感じなんですが、3年生になると受験問題やもうすぐ中学生でなくなってしまう崖っ淵感かに圧迫される様に急に自意識が芽生えてくるんですね。社会や世界の物申したり、感じたり考えた事を綿々と書き連ねたり。そこには確かに彼らの心がありました。ブックマークをつけて密かに楽しんでいたのですが、高校生になると実生活の方が楽しくなる様で日記を書くのをやめてしまい、次々とNot Foundになっていきました。彼らは(子供時代の延長線上である)心だけの存在であり続ける事をやめて(自らの年齢や性別や社会的立場をも含む肉体姓と心の間にそれなりの折り合いをつけた)人間になったのかもしれません。

そしてその後…

http://axis00.tumblr.com/post/57690347061/援助交際ってあるじゃないですか援交最近jkとかjcの間では援交ってあまり流行ってないそうですね何

axis00.tumblr.com

ある意味、終戦直後の焼け跡で坂口安吾が「肉体主義=肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」と叫んだ状況と重なります。完全な空虚からの試行錯誤による再出発。

大坪砂男「私刑(リンチ)」作者解題(1949年11月)

敗戦後の日本は青少年を挙げての無頼漢時代となり、心ある人々の眉を顰めさせている訳だが、これは国の前途を憂うからである。しかし作者はそこにあえて一切の希望を繋ごうというのだ。将来の日本を背負って立つ一人の怪傑児は、必ずや彼ら一千万の無頼漢の鬩ぎ合いの最中で鍛錬されているに相違ないと(誤解されても困るが、日本民主主義を完成させる偉人もまたその渦中より現れる筈といっている)。作者はこの泥中の蓮を心に描きつつ、今後も無頼漢小説を描き続けるであろう

作者解題(1955年)

戦後の人心荒廃は、瓦礫の街を背景に、いわゆるアプレ(戦後)派の無頼漢時代となった。モラルの喪失、これぞ亡国なりと心ある人々の眉をひそめさせたものだが、それが現実である限り私はそこに一切の希望を繋ぐよりないと信じた。将来の日本を背負って立つ一人の怪傑は、必ず彼ら数万人の無頼漢の間で厳しく鍛錬されている最中なのだと。

  • 当時の少年少女達が「唯一確からしいと思える」身体感覚の世界、すなわち「性と死」「苦痛と快感」の世界に没入(Jack In)していく様子はまさしく村上龍の「トパーズ(原作1988年、原作自らの映画化1992年)」「ラブ&ポップ(副題「トパーズ2」原作1996年、庵野秀明監督の手になる映画化1998年)」などにも活写されている。実際どれぐらいの規模の広がりを持って展開したかはともかく、上に引用した榎本ナリコセンチメントの季節」の文章に見受けられる様に「大人達が喜んでそういう状況を作品化する」状況は「少年少女搾取作品(Boys&Girls Exploitation Contents)」としての条件を満たしている。
    エクスプロイテーション映画 - Wikipedia
    *ただしあくまで過渡期のトレンドに過ぎなかったらしく21世紀に入ると自然収束。
  • こうした「快楽主義/禁欲主義」系トレンドと入れ替わる様に(あるいはそれが発展する形で)「(究極の通過儀礼としての)デスゲーム」の中に自己実現の道を真摯に見つけ出そうとする新たな指向性が登場。該当するのは高見広春バトル・ロワイアルBATTLE ROYALE、1999年)」、Yoshi「Deep Loveシリーズ(WEB掲載2000年〜2003年、コミック化2004年〜2006年)」、米澤穂信古典部シリーズ(2001年〜)」、河原礫「ソードアートオンライン(Web掲載2001年〜)」、Yoshi「Deep Loveシリーズ(WEB掲載2000年〜2003年、コミック化2004年〜2006年)」、新海誠監督「ほしのこえ(2002年)」「雲のむこう、約束の場所(2004年)」辺り。
    *このうち「日本における帝国主義全体主義からの軽やかで知的な脱出志向」という発想から最後まで脱却出来なかった「バトル・ロワイアルBATTLE ROYALE)」、その正体は大人の著者が「少年少女の代弁者」の仮面を被っていたに過ぎない「少年少女搾取作品(Boys&Girls Exploitation Contents)」だった「Deep Loveシリーズ」などは自然淘汰されていく。

「快楽主義/禁欲主義」系トレンド…要するに「自分を委ねるに足る信念」を喪失した(あるいはそれに拘束されたくない)人間は、快感や不快感といった自らの身体感覚の統計計算にだけ配慮する様になるのですね。

  • 古代ギリシャ世界では、アテナイ海上帝国崩壊を契機としてソクラテスプラトンアリストテレスが実践倫理の主導者としての権威を喪失。代わってヘレニズム時代からキリスト教が広まるまでの間、ギリシャ哲学の世界を支えたのはエピクロス主義(Epicureanism)やストア派(Stoic)であった。ローマの上流階層にも伝わり、哲人セネカ著作を通じて(ギリシャ・ローマ時代の古典にキリスト教学に対抗し得るだけの教養を求めた)近世以降の欧州王侯貴族階層の間でも広まる。
    https://folgertheatre.files.wordpress.com/2014/09/epicurus_death_quote.jpg
  • ここから功利主義(utilitarianism)が派生し、ジョン・スチワート・ミル「自由論(On Liberty、1856年)」によって「国家権力に対する諸個人の自由は、それが他人に実害を与える場合以外は権力によって妨げられてはならない。なぜならば文明が発展する為には個性と多様性、そして天才が保障されなければならないからである」なる自由主義の原則が確立する事となる。

2000年代前半に登場した作品は、こういう観点からも振り返らないといけない様です。