諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【妖精の歴史】古代ギリシャ・ローマ時代まで遡る「血腥い原型」

話は一旦、まだ妖精なんて影も形も存在しなかった古代ギリシャ時代の祭祀まで遡ります。何しろ宇宙そのものが擬人化された精霊達の協業で営まれていると想像されていた様な時代だったのです。

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 ホメロスオデュッセイアOdyssea、紀元前8世紀頃成立)」における第11歌ネキュイアNekyia)」。

オデュッセイア」は「イーリアス(Ilias、紀元前8世紀中旬頃成立。紀元前6世紀後半のアテナイにおいて文字化され、紀元前2世紀のアレキサンドリアでほぼ今日の形に編纂された)」の続編作品にあたり、そのため叙事詩環の一つに数えられることもある。長編叙事詩では、古代ギリシア文学最古期にあたる。

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  • 紀元前8世紀頃に吟遊詩人が吟唱する作品として成立。紀元前6世紀頃から文字に書かれるようになり、現在の24巻からなる叙事詩に編集された。この文字化の事業は、伝承ではアテーナイのペリクレスに帰せられる。

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  • 古代ギリシアにおいては、ギリシア神話同様に「オデュッセイア」と「イーリアス」は、教養ある市民が必ず知っているべき知識のひとつとされていた。

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イタケー王である英雄オデュッセウストロイア戦争の勝利の後に凱旋する途中に起きた、10年間にもおよぶ漂泊、オデュッセウスの息子テーレマコスによる父の探索の旅、不在中に妃のペーネロペー(ペネロペ)に求婚した男達への報復などが語られる。
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  • なかでもヘーラクレースにならってジブラルタル海峡を越え冥界に赴く第11歌は「ネキュイア(Nekyia)」 として知られ、古代ミケーネ時代に大規模な首長墓を築造して遂行された祭祀にまで遡る可能性すら指摘されている。

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  • 現地に上陸して生贄を屠ると、その生き血を啜りに次々と祖霊達が現れる。母アンテ、トロイア戦争の戦死者、預言者テイレシアース…

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  • アキレウス(Achilles)は「死人の王になるよりも、生きてつまらぬ男に仕えることのほうがまし」と嘆いて息子のネオプトレモスの安否を尋ねた。その活躍について語ると喜び満足して去っていったという。

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    *イーリオス陥落後、ネオプトレモス(Neoptolemus)の夢の中にアキレウスが現れ「プリアモス王の娘ポリュクセネーを、自分の墓に奉げてほしい。さもなければギリシア勢の帰路を妨げる」と脅迫したとする伝承もある。生前アキレウスはポリュクセネーに恋焦がれ、未練を残していたのだった。それでネオプトレモスはポリュクセネーを手にかけ、アキレウスの墓に奉げたという。またアキレウスは死後、神々の楽園エーリュシオンに迎えられたとする伝承も存在する。

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  • ヘーラクレース (Herakles)は「魂が天界に上げられて以降も、その魄は冥界の奥で修羅の戦いを続けている」という複雑な状態にあった。

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    古代エジプトや古代中国において死霊を魂(バー)と魄(カー)に分けて祀った慣習を連想させる。その影響は高句麗古墳壁画(4~7世紀)や藤原京期(694年~710年)前後に築造されたキトラ古墳高松塚古墳の壁画にも見て取れる。

    *またヘロドトス「歴史(historiai)」やプラトン「饗宴(Symposium)」には(「航海の女神」の側面と「豊穣の女神」の側面を併せ持つ)アフロディテを「アプロディテ・ウラニア(天界のアプロディテ)」と「アプロディテ・パンデモス(俗世のアプロディテ)」に分けて祀る慣習が記されている。

 そこで描かれる「(日常に潤いがなく)ゾンビの様に生き血を求める祖霊達」の姿は、ローマ時代の祭礼から窺える祖霊のイメージと重なる部分が少なくない。

 かくして時代はローマ時代に。

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古代ローマの詩人ウェルギリウス(前70年〜紀元前19年)のラテン語叙事詩「アエネーイス(Aeneis)」全12巻。

「アエネーアースの物語」の意。イーリオス(トロイア)滅亡後、トロイアの王子でウェヌスの息子である英雄アエネーアース(Aeneas)の遍歴を描く。単に神話的英雄を謡うにとどまらず、当時内乱を終結させたローマの実力者アウグストゥスの治世をアエネーアースに仮託し、褒め称える構造をもつ。

  • 詩の中でしばしばその建設が予言されるアルバ・ロンガはローマの創立者ロームルスとレムスの出身地であり、当時ローマの礎と見なされていた。

  • アウグストゥスの属したユリウス氏族はアエネーアースの子孫を称しており、アエネーアースはアウグストゥスを連想させた。作中に登場するアエネーアースの息子アスカーニウスはまたの名をユールス(Julus)といい、彼が後のユリウス(Julius)氏族へと繋がることが示されている。

構成はホメーロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』に範を取る。

  • すなわち前半部分(1歌〜6歌)の、アエネーアースがカルタゴの女王ディードーとの悲恋を経てイタリアにたどり着くまでの箇所が『オデュッセイア』的であり、後半部分(7歌〜12歌)の、現地王の娘と婚約したアエネーアースがそれに反対する勢力と戦う箇所が『イーリアス』的とされる。

  • 前半部についてはアエネーアースにオデュッセウスが投影されていることが明らかであるが、後半部については『イーリアス』の様々な英雄の属性が投影されている。例えば婚約が決まっていた娘ラーウィーニアと結婚する異国人の立場はパリスを連想させ、逆に一騎討ちから逃げる敵の大将トゥルヌスを追うさまはメネラーオスを連想させる。また一騎討ちの決着後参戦したパッラスの剣帯を見て、友を殺された怒りからトゥルヌスに報復するさまはアキレウスを連想させる。

  • もちろん、全編に渡って、ホメーロスの影響は大きく、以上の『オデュッセイア』『イーリアス』の区分はあくまで作品全体を巨視的に見た場合に妥当するものである。

そして「アエネーイス」では6巻が「ネキュイア(Nekyia)」となる。

  • まず第5歌の冒頭。アエネーアース一行は自殺したディードーを荼毘に付す不吉な煙に送られる形でカルタゴを出航する。
  • 再びシチリア・ドレパヌムに寄航すると父アンキーセースの命日に葬礼競技を催す。ところがその時、長い航海に疲れきっていた女性(母親)達がユーノーに扇動されて(これ以上旅が続けられなくなるよう)船団に火を放つ。幸いユピテルが大雨を降らせて火を消し止めたが、強いショックを受けたアエネーアースは「運命を忘れ」シチリアへの定住を考え始めてしまう。そこで夜になるとユピテルの命を受けたアンキーセースが「天から降りてくる」。

  • アンキーセースは(部下のナウテース老人の進言通り)女性や老人達には現地への定住を許す事、そしてクーマエについたら冥界に降って自分を訪ねる事を命じる。かくして第6歌冒頭でクーマエに着いたアエネーアースはアポロンの神殿と巫女シビュラの洞窟を訪ねる事になる。

  • シビュラの口を通してアポロンが語る「来るべきラティウムでの戦争」についての予言。母ウェヌスの助力を得て森で黄金の小枝を発見したアエネーアースは、シビュラと一緒に冥界降りを開始。タルタロス(刑罰所、地獄)を抜けて冥界王プルートーと冥界の女王プロセルピナの王宮の入り口に金の枝を供えるとエーリュシウム(楽園)に入り、無事父アンキーセースとの再会を果たす。

  • アンキーセースはレーテー(忘却)の河や魂の輪廻転生について教え、そしてこれから世に出るべく待機しているアエネーアースの子孫達や著名ローマ人の行列を見せる。父アンキーセースが語る「輝かしい未来」、それは作者ウェルギリウスにとっての現在、つまりアウグストゥスの治める「栄光の帝政ローマ」に至る歴史そのもの。

ここまで徹底的に政治利用されてしまうと、残ってる部分なんてほとんどない。

シビュラ(Sibyl)

主にアポロンの神託を受け取る古代の地中海世界における巫女。シビラ、シビッラ、シビュレーともいう。

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  • 元来は固有名詞だったとも。紀元前7世紀から前6世紀頃のイオニアに起源があったとする説もある。ただし、現在確認されている最古の言及は紀元前5世紀のヘラクレイトスのもの。エウリピデスアリストファネスプルタルコスプラトンら、シビュラに言及した初期の思想家達は常に単数で語っていたが、後には様々な場所に住むといわれるようになった。タキトゥスは複数いる可能性を示し、パウサニアスは4人とした。

  • ラクタンティウスはマルクス・テレンティウス・ウァロ(紀元前1世紀)からの引用として、10人のシビュラ、すなわちペルシアのシビュラ、リビアのシビュラ、デルポイのシビュラ、キメリアのシビュラ、エリュトライのシビュラ、サモスのシビュラ、クマエのシビュラ、ヘレスポントスのシビュラ、フリギアのシビュラ、ティブルのシビュラを挙げたている。そのうちローマで最も尊ばれたのは、クマエとエリュトライのシビュラだった。

  • 中世後期になるとフィリッポ・バルビエーリのアウグスティヌスやヒエロニュムスを論じた著書(1481年)のように、エウロパのシビュラとアグリッパのシビュラを追加して、12人とする文献も現われる。ただし、その後常に12人として受容されていたわけでもなく、フランソワ・ラブレーの『第三の書』では10人のシビュラを前提として、女預言者を11番目のシビュラか第2のカッサンドラかと表現した箇所があったりする。

  • ルネサンス期以降「シビュラの託宣」から引用した教父の著書の影響で、美術上のモチーフとしても好まれる様になる。ことにミケランジェロ・ブオナローティは、システィーナ礼拝堂フレスコ画に単なる女性像を超越したシビュラを力強く描き出し、その後のシビュラのイメージに強い影響を与えた。彼がシスティーナ礼拝堂天井画に描いたのは、デルポイのシビュラ、リビアのシビュラ、ペルシアのシビュラ、クマエのシビュラ、エリュトライのシビュラの5人。
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    *「シビュラの書(Libri Sibylline)」古代ローマで尊重されていた神託集。伝説上ヘレスポントスで作成されたことになっており、エリュトライ、クマエを経由してローマに持ち込まれたとされていた。カピトリウムの丘にあったユピテル神殿に保管され、限られた聖事担当官のみが参照し、天災や伝染病に際し、神の怒りをどのように解くべきかの方途を探ったとされるが紀元前83年に焼失。その後シビュラの予言とされるものが各地から集められて、新たな「シビュラの書」が編纂される。こちらは紀元前12年以降、パラティウムの丘のアポロン神殿に保管されていたが、最終的には5世紀初頭にスティリコに焼き捨てられたとされている。
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    *「シビュラの託宣…「シビュラの書」の名声にあやかって偽作された予言書。紀元前2世紀以降のユダヤ教徒が作成し始めたもので、のちにキリスト教徒たちも大きく関与した。結果として「創世記」や正典の福音書に依拠した部分も多く、一神教的でない起源を持つ本来の「シビュラの書」とは全く別物となった。ここから22人に及ぶ古代の教父達がキリスト教的預言として引用しため、キリスト教世界でも「シビュラは異教徒の世界においてキリストの降誕を予言した女預言者」というイメージが広まる。これを受けてシビュラはキリスト教美術の題材として、教会建築物にも取り込まれていく事になったのだった。
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  • シビュラ像はヴァティカン宮殿にあるユリウス2世の図書室やシエナ大聖堂の舗床にも描かれている。後者を手がけたのはマッテオ・ディ・ジョヴァンニ (Matteo di Giovanni) 。ルネサンス期に様々な記念作品に描かれたシビュラは、聖書に登場する預言者たちのように、キリストの降誕を預言する存在として描かれている。こうしたシビュラの姿はロレントのサンタ・カーサではジャコモ・デッラ・ポルタが、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会ではラファエロ・サンティが、ヴァティカン宮殿のボルジアの間ではピントゥリッキオ (Pinturicchio) が、それぞれ描き出している。

19世紀になると、フランスの歴史家ジュール・ミシュレが、ヨーロッパの魔女の起源を、シビュラ信仰に求めた。
78夜『ジャンヌ・ダルク』ジュール・ミシュレ|松岡正剛の千夜千冊

  • ペルシアのシビュラ(Persian SibylもしくはHebrew Sibyl)については、アレクサンドロス大王に仕えていたニカノル (Nicanor) の著書「マケドニアアレクサンドロスの業績(Res gestas Alexandri Macedonis)で言及され、ヘブライカルデアバビロニア、エジプトなどのシビュラと同一視されている。

  • リビアのシビュラ(Libyan Sibyl)は古代のシワ・オアシス(エジプト西部とされるが、その場所は未確定)でゼウス・アモンの神託を司った女性預言者。シワ・オアシスは。、アレクサンドロス大王がエジプト征服後にそこの神託を参照した事で知られる。その母はギリシア神話に登場する半人半蛇のラミアとされ、エウリピデスも自著「ラミア(Lamia)」 序文で触れている。パウサニアスは最も古いシビュラと位置付ける。

  • デルポイのシビュラ(Delphic Sibyl)は、パルナッソスの山腹にあるデルポイアポローンの聖域で予言する伝説的存在。デルポイといえばアポローンの巫女であるピューティアが下す神託が有名でしばしば混同されるが、両者は元来別の存在。パウサニアスは、デルポイのシビュラが人間の男性とニンフの娘の間に生まれたと主張。異伝では、アポローンの妹ないし娘とも伝えられている。さらに別の所伝では、彼女はガイアから直接予言の才を与えられたとされる。ガイアは娘テミスにそれを授け、テミスはポイベーにそれを渡していた。プルタルコスはシビュラの中で彼女を最初のものと位置づけた。

  • キメリアのシビュラ(Cimmerian Sibyl)への言及はナエウィウス(Naevius)「ポエニ戦役(Bellum Punicum)」 やピソの年代記などに見られる。一説によればシビュラの息子はエウアンドロスと伝えられ、彼はローマに「ルペルカル(Lupercal)」と呼ばれる牧神パーンを祭った社を根付かせたとされている。シエナ大聖堂に描かれたキメリアのシビュラに刻まれた碑銘では「シビュラの託宣」に見られるキリストの復活の予言が、彼女に帰せられている。

  • キオスの対蹠にあたるイオニアの都市エリュトライに居たと伝えられるシビュラ(Erythraean Sibyl)。 エリュトライのアポロドロス (Apollodorus of Erythrae) はこれについて彼女がエリュトライの人物であることと、トロイア戦争について予言し、トロイに行軍していたギリシア人たちに対してトロイが破壊されるであろうこととホメロスが嘘を書くであろうことを予言したと断言した。また古代のキリスト教ラクタンティウスは、「シビュラの託宣」の断片から引用する際には常にそれをエリュトライのシビュラに帰していた。

    サモスのシビュラ(Samian Sibyl)については、エラトステネスがサモス島の古い年代記に言及があったとし、その内容を記述。

  • クマエのシビュラ(Cumaean Sibyl)はローマ神話上の人物。アポローンから予言の才と1000年の命を与えられたが、若さを保てるようにしてもらうことを忘れたため、年老いて萎んでいったとされる。ウェルギリウスアエネアスの冥界への旅路の同伴者として描かれた。ウェルギリウスは「牧歌」でも「神童と黄金時代の到来」をクマエのシビュラの予言として歌い上げ、これが古代から中世にかけてのキリスト教社会では、キリストの降誕を予言したものとして広く知られていたのである。さらに、ハリカルナッソスのディオニュシオスウェルギリウスラクタンティウスなども「シビュラの書」をローマに持ち込んだのがクマエのシビュラだったする。そして以下の様に伝える。「クマエのシビュラがローマ王タルクィニウス(タルクィニウス・プリスクスないしタルクィニウス・スペルブス)に、9巻本の託宣を900ピリッポスで売ろうと持ちかけた。タルクィニウスがその法外な高さを理由に断ると、彼女は3巻分を焼き捨てて残りを再び900ピリッポスで売ると言い出した。それも断られると彼女はさらに3巻分を焼き、残りを900ピリッポスで売ると言った。王はその提案に興味を持ち(あるいは動転のあまりに)それを受け入れ3巻分を言い値で買い取った」。

  • ヘレスポントスのシビュラ(Hellespontine Sibyl)はソロンとキュロス2世の時代にマルペッソスで暮らしていたとされる。「シビュラ」は本来、彼女を指す固有名詞であったともいわれ、伝説上「シビュラの書」を作成したのは彼女とされる。

  • フリギアのシビュラ(Phrygian Sibyl)はアンキュラで活動したというが、ヘレスポントスのシビュラが二重写しにされただけとする説もある。

  • ティブルのシビュラ(Tiburtina Sibylla)は、ティブル(現ティーヴォリ)で女神として尊崇されていたとされ、中世に流布した伝説では、アウグストゥスに対してキリストの降誕があったその日に、皇帝よりも偉大な存在が生まれたと予言したことになっている。彼女の名で「終末の皇帝」を描き出した予言書が4世紀後半頃に作成され「メトディウスの予言書」などにもそのイメージが踏襲されて広まった。ティブルのシビュラに仮託されたその予言書は、近世になっても「ミラビリス・リベル」に再録されるなど、予言的言説の中では突出した影響力を保ち続ける。

そういえば確かにシェークスピア劇に登場する魔女もまた、概ね「予言する存在」ではあり、その原型はジャンヌ・ダルクとされている。

とはいえ、当時のローマ人の生活がこの叙事詩に見られるほど「ギリシャ化」していたかというと、そうでもなかったのでした。 

レムレース(複数形lemures、単数形レムールlemur)。古代ローマにおいて信じられていた死霊の一種。特に異形をしたりはしておらず、生前そのままの姿で、基本的には無害な存在。生前に善行を積んだ者の魂は、死後これになると考えられていた。ちなみに反対に悪行を重ねた者や、正しく弔われなかった者の魂は、ラルヴァ と呼ばれる悪霊となる。

  • 基本的に善人の死霊であり生者に対して災いを成す類のものではないが、定められた手続きで冥府へと導かれず、あまり長い間放置されると生前の家に居着いてしまい、次第に性質が歪んで悪さをするようになると考えられていた。

  • これを冥府へと送るには一旦祖霊として家へ招き、もてなした後に、乾燥した豆(あるいは、炭化するまで焼き焦がした豆)を口に含んで、レムレスに吹き付けて追い払わなければならないと考えられていた。

  • 毎年五月、これを奉る夜には、死者を出した家の家長が、上記の儀式をもってその祟りから家を守ったと言われている。

ゲーム中ではアンデッドモンスターの一種として扱われる事が多い。

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 レムレース(複数形lemures、単数形レムールlemur)-Wikipedia

ローマ神話における騒々しく有害な死者の霊または影。騒がしたり怖がらせたりするという意味では悪霊 (ラルヴァ、larva、larvae)と変わず、両者を分けるのはその名を冠した祀日の有無に過ぎない。

  • 共和政時代からローマ帝国時代にかけて、5月の9日、11日、13日にはレムレースを慰め、家庭内から追い払う祭、すなわちレムーラーリア (Lemuralia) またはレムーリア (Lemuria))が開催されていた。

  • 家長がその夜、立った状態で黒い豆を後ろに投げ、豆の転がっていった方向を注視しないようにする。レムレースはその豆を好むものとされていた。レムレース自体は恐ろしいものであり、彼らが家長の提供したものに満足できなかった場合、青銅の壷を強打して打ち鳴らしびっくりさせることがあるとされていた。

形を持たず、ほとんど知覚できないもので、暗闇や暗闇によってもたらされる不安と結びついている。

文学用語としてもまれに使われてきた。

  • ホラティウス作品やオウィディウスの『祭暦』においては「埋葬や葬式や心のこもった祭儀を行ってもらえなかった霊がさまよいだし恨みを抱くようになったもの」として描かれる。ただ単に墓や奉納文があるだけではレムレースにならないとは言えない。

  • オウィディウスはレムレースを放浪し常に満たされず執念深い地下世界の祖先神、すなわちマネス神(di Manes)またはパレンテス神(di parentes)と解釈していた。彼にとって、それらの信仰儀礼は不可解なほど古風で、半ば神秘的で、おそらくかなり古い伝統の根ざしているだろうことを示唆していた。

  • 後のアウグスティヌスはレムレースとラルヴァを騒がせたり怖がらせたりする悪い「マネス」だとし、一方でラレースをよい「マネス」だとした。

レムレースに着想を得たカール・フォン・リンネはキツネザル(正確にはワオキツネザル属)のラテン名を Lemur とした。これはこの目が「幽霊のように凝視」する性質があり、夜行性でぞっとするような鳴き声を持つことが背景にある。

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ラルヴァ(複数形Larva、単数形larvae)。生前に悪行を重ねた者、あるいは正しい手順を踏んで弔われなかった者の魂が、死後変化するとされていた死霊、即ち悪霊。 レムレースと違ってその名を冠した祀日は存在しなかった。

  • 夜毎に徘徊しては生者を襲い、その精気を奪う存在と考えられていた。 レムレース同様、姿が見えるときは外見が生前のものと変わらない、人間の姿のまま。これに取り憑かれた者は、見る間に痩せ細って衰弱してしまう。撃退するにはレムレス同様、焦がした豆などを撒くと良い考えられていた。

  • 時代を経ていくうちに容貌や特性が大きく変貌。自慰や夢精によって無為に流された精液、あるいは経血を媒介として現世へと受肉する、ミミズのような環形動物然とした胴体に人間の頭部がついた怪物として想像される様になっていく。

カール・フォン・リンネは、昆虫の幼虫でイモムシ状のものを larva と呼ぶ用法を確立した。

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マネス(Manes)

その語源は古い形容詞 manus(良い)。反対語は immanis。古代ローマにおいて、亡くなった愛する人の魂を意味した。弱い精霊の一種としてはラレース(Lares)、ゲニウス(genius)、ペナーテース(Penates)に近い。

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  • ディ・マネス (Di Manes) とも呼ばれる(Di は「神」の意)。古代ローマの墓石には "D.M." という文字がよく刻まれていて、dis manibus(マネス神のために)を意味した。この言葉はまた、暗にハーデースまたは冥界を示すのにも使われた。

  • 2月に行われるパレンタリアおよびフェラリアの祭りで崇められ、血の生贄を提供した。剣闘士の試合がもともと葬式で催されていたのも、マネスへの捧げ物だった可能性がある。

  • キケロは「アヴェルヌス湖付近の特定の洞窟でマネスを呼び出すことができる」と記している。

ちなみに古代ローマには「マネスの石」を意味するラピス・マナリス (lapis manalis) が2種類存在した。

  • 基礎石。新たな町を建設する際、丸い穴を掘り、そこにこれを基礎として置いて、冥界への門を表した。

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  • 雨乞い石。古代ローマでは日照りが続くと大神官を先頭にした行列でセルウィウス城壁のカペーナ門からカンピドリオまでこれを運び、水をかけながら天空神ユーピテルに祈りを捧げた。類感呪術の一種。

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両者の関係は明らかになってない。

ラレース(Lares、古い綴りは Lases)

古代ローマ時代の守護神的な神々(複数)。単数形はラール(Lar)。その起源はよくわかっていない。家庭、道路、海路、境界、実り、無名の英雄の祖先などの守護神とされていた。共和政ローマの末期まで、2体の小さな彫像という形で祭られるのが一般的だった。

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  • その境界内で起きたあらゆることを観察し、影響を与えると考えられていた。家庭内のラレース像は、家族が食事中はそのテーブル上に置かれた。家族の重要な場面では、ラレース像が必須となっていたと見られている。このため古代の学者らはこれを「家の守護神」に分類していた。古代ローマの作家の記述を見ると、ラレースと同様の家の守護神とされていたペナテースを混同している場合もある。ローマ神話の主な神々に比べると守備範囲も力も小さいが、ローマの文化には深く根付いていた。アナロジーから、本国に戻るローマ人を ad Larem (ラレースに)戻ると称した。

  • 幾つかの公祭で祝福され礼拝された。中には vici (行政区)全体を守護するとされたラレースもある。また、ラレースを祭った交差点や境界線にある祠(コンピタレス; Compitales)は、宗教、社会生活、政治活動の自然な焦点となっていたが、これらの文化はローマ帝国初期の宗教・社会・政治改革に取り込まれた。ラレースを家庭内に祭るという文化そのものは変化せず、少なくとも紀元4世紀頃まで持ちこたえた。

  • ラール像は小さく若々しく活発な様子で、一見したところ男性である。踊り子のように、爪先立ちしているか、片脚で軽くバランスを取っている。片手に角杯(リュトン)を持って掲げ、乾杯か献酒をしているように見える。もう一方の手は低く構え、浅い献酒皿(パテラ)を持っている(稀にシトラと呼ばれる鉄製のワインバケットを持っていることもある)。服装は、短いチュニックに帯を締めた形で、プルタルコスによればそのチュニックは犬の毛皮でできている。ラールの像や絵画はどれもこの基本形に忠実で、若干のスタイル上の変化が見られるだけである。現存する祭壇の絵画には、同一の2体のラレースが描かれている。そのためオウィディウスのころにはラレースは双子の神々だと解釈されていたが、常にそうだったという証拠はない。

ララリウム(Lararium、複数形ララリア:Lararia)は、家庭内の小さな祭壇で、ラレースや他の家庭の神々を祭っている。

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  • 考古学上の証拠から、その家族の守護神を含めた複数の下級の神々を祭っていたことがわかっている。ポンペイのものはほぼ最高の状態で保たれており、中でもヴェッティの家と呼ばれる建物にあるララリウムは1.3m×2.25mの大きさで中庭(方庭)に面している。神々の絵の周囲には古代の寺院を模した石造りの枠がある。周囲の壁にも神々と神話の場面が描かれており、見るものに強烈な印象を与える。ドムス内のララリウムの位置は、ドムスの公的な部分にあるのが一般的だった。そして、客との挨拶の場に背景を提供していた。ララリウムは住居内の様々な部屋、寝室、今では用途が不明な部屋、特に台所や店舗などにあり、そこにラレースと共にペナテースが共存していた。その多くは小さな壁龕であり、稀に壁から突き出したタイル張りのものもあった。どちらも装飾は簡素だが大事にされていた。

  • 家庭内のラレースは、外に対して演劇的にディスプレイする役割も持っていたが、文献によればもっと親密な守護神的役割も持っていた。家庭内のララリウムは、家族の変化と連続性のシンボルのための神聖な保管所でもあった。少年が成人すると、ラレースにお守り(ブラ)を捧げてから成人用のトガを着用し、最初の髭は切り落としてララリウムに保管した。少女は成人して結婚する前の夜に、幼少期に遊んだ人形やボールなどをラレースに捧げた。結婚の日、花嫁は花婿の家の神に忠誠を誓った。結婚によって主婦となる場合、夫とともにその家庭の礼拝の共同責任者となった。

  • プラウトゥスの喜劇 Aulularia では、吝嗇家の家長 Euclio が隠していた金の壷をラールが明らかにする。ラールは聴衆に対して Euclio の金の壷が彼の娘の持参金になると言うが、Euclio はそれを手放そうとしない。

  • 家庭内のラレースへの正式な捧げ物としては、穀物、蜂蜜、ブドウなどの果物、ワイン、香料などがある。ラレースに捧げ物をする時期は決まっていない。正式な捧げ物のほかに、その家で行った宴会中に床に落ちた食べ物はすべてラレースへの捧げ物とされた。祭りや重要な機会には、豚を生贄とした。

行政区の境界にあたる交差点(コンピタ)にはコンピタレス(Compitales)という祠があり、いくつかの神々が祭られていた。他にも土地の境界線に祠が置かれていた。

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  • タキトゥスは、ローマの建国神話でロームルスが定めたとされる最重要の境界線であるポメリウム上にあるラレースの祠(sacellum Larum)を数えている。ausipicia urbana (都市の保護)はポメリウムで定義された聖域内でのみ正しくなされ、その境界線上にラレースの祠があることで、ラレースが場所と境界の守護神という性格を持つことが確認できる。これらのラレースはアウグルの間違い(vitium)からローマを守っていた。辻の祠には、公的な神も私的な神も祭ることがあった。祠はラールが自由に通りぬけられるよう4方向に開かれていた。共和政時代には、そのような祠が祭りや競技の中心となっていた。

  • 紀元前66年、そのような競技が騒々しいということで禁止される。共和政末期には、コンピタリアの祭りと祠の意味が変質していった。元老院はコンピタリアを管轄する各地の共同体活動を禁止しようとしたが、アウグストゥスはそれを洗練させて再編成。その後(紀元前7年以降)、コンピタリア(ラレースの祭)は帝国の文化の一部へと変質した。ラレースの祭りは Lares Augusti として5月1日にのみ開催されるようになり、新たに Genius Augusti の祝いが8月1日に開催されるようになった。これについてアウグストゥスが公のラレースとして彼自身のラレースを祭らせたという説もあるが、疑わしい。もともと「アウグストゥス」は称号であり、augusti はそのままの意味(威厳ある)で解釈できる。しかし、プリンケプスとしてのアウグストゥスとラレースに共通の敬称を使って関係付けたことは間違いない。しかしコンピタリアそのものは共和政時代と同じであり、スポンサー個人とその業績だけを祝福するものではなく、古代からの共同体の慣習を呼び起こした。

ギリシア著作家はラレースをヒーローまたはダイモーン(神と人間の中間的存在)と翻訳した。また、プラウトゥスは、メナンドロスが heroon (小神殿)としているところを Lar Familiaris と翻訳している。このラールは自らを秘宝の守護神だと明かしている。

ラレースの母(Mater Larum)

Arval Bretheren の記録やごく少数のローマ人の記述によると、死の女神 Mania または ラールンダ (Larunda。ララー (Lara)、Muta、Tacitaとも)とされている。

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  • ウァロ(紀元前116年 - 紀元前27年)は、ラレースはサビニ人の神で、その母は Mania だと信じていたが、その名は後のローマ人作家によって「悪霊」の意味で使われる事になる。

  • 紀元2世紀末、Festus は子守が子供を怖がらせるのにその名を使っていたと記している。

  • Macrobius (395年 - 423年)は、羊毛でできた人形(maniae)がコンピタリアに吊るされていたことをそれと関連付けている。Macrobius はこれを、かつて同じ祭りで人間が生贄に捧げられていたことの代替で、その習慣を初代執政官のルキウス・ユニウス・ブルトゥスが禁じたと記している。

  • Arval Brethren は、デア・ディーアの神殿でラレースの母(cena matri Larum)に聖なる食事を供した。彼らは粥を入れた神聖な日干しの陶製壷の上で祈りの言葉を暗唱し、神殿の入り口から斜面の下に向かって壷を投げた。これは地中の神々へ食事を捧げる作法である。

  • ラレースの母に関する神話で現存しているのは、オウィディウスが記したものだけである。『祭歴』の中で、ララー はおしゃべりなニュンペーだったが、ジュピターの秘密の恋のことをしゃべったために舌を切られたと記している。ララーはこのために Muta (無口)になり、日のあたる世界から追放され、地下の死の世界(ad Manes)に住むようになった。この世界を沈黙の世界(Tacita)とも呼ぶ。彼女をそこに導いたのがメルクリウスで、その道中でメルクリウスによって妊娠させられた。オウィディウスの詩では彼女が産んだのは双子の男の子で、母親と同様に無口だった。

ラレースとその母を古代エトルリアの神々とする説もある。これは、エトルリア人のローマ王が Lars と称されていて、「王」や「君主」といった意味だったことに由来するとされる。

 ゲニウス(genius、複数形genii)

擬人化された精霊を指すラテン語古代ローマ人の信仰においては概して守護霊もしくは善意の霊とされ、悪霊は malus genius と呼ばれた。

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一般的に言って、古代ローマの宗教におけるゲニウスとは、個人や場所や事物にあまねく現臨している普遍的な神性を個別化したものであり、換言すれば、万象に宿る非人格的な神的力を個別に人格化・神格化したもの。

ペナーテース(Di Penates、Penates)

ローマ神話に登場する神。元々は納戸の守護神だったが、後に世帯全体を守る家庭の神となった。ラレース(Lares)、ゲニウス(Genius)、レムレース(lemures)と関係が深い。プロペルティウスの詩 (iv.i) でも言及されている。

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ローマの各氏族の権勢とも関連付けられており、祖先の霊とされることもある。古代ローマの住居には入り口に女神ウェスタの小さな祠があり、この祠の中にペナーテースの小さな像が安置されていた。

ここにある種のコスモポリタニズムを見てとる向きもあります。要するにサビニ人とかエトルリア人とかを次々と併合し、その祭祀内容を「ええとこどり」してきた結果、自分たちが何を祀ってるのか良く分からなくなってしまったんですね。

とはいえ当時は祀日と祀場とそれぞれにまつわる儀礼だけ完全に頭に入れてイベントとしてこなしてさえいれば「敬虔な人物」と認めてもらえる様な時代でした。おそらく日本における屋敷神信仰も、ゲルマン民族の間でのヴァルキューレ信仰も、原風景はこんな感じだったのでしょう。

妖精の伝承には(トールキンのファンタジーにも登場する様な)古塚に棲みついてるタイプや(ハリー・ポッター・シリーズの屋敷妖精みたいに)家に憑くタイプなどが混じってますが、既にその範囲が完全網羅されてるのが興味深いあたり。

そして次第に「国家祭祀」と「民間宗俗」の区分けがはっきりしてくるという次第。そして妖精に関する伝承は、主に後者から派生してくる事になる訳です。