諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

リスボン大地震(1755年11月1日)なる近代哲学の原風景

ところで近代哲学の大源流はエドモンド・バークの「崇高(Sublime)」やカント哲学の「物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)」といった発想。

ここまで遡ると、当時の欧州人全員なら一斉に思い浮かべた「原型」に辿り着かざるを得なかったりします。1755年11月1日、リスボン地震ポルトガル)。推定マグネチュード8.5〜9.0、推定死者数5万5千人〜6万2千人(津波の犠牲者1万人を含む)。

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否が応でも東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)と景色が重なります。

ブラガンサ朝ポルトガル(1640年〜1910年)

リスボン地震以前のブラガンサ朝ポルトガル

ブラガンサ朝ポルトガル(1640年〜1910年)は王政復古戦争(1640年〜1668年)を経てスペインからの独立を果たした。

  • まず蘭葡戦争(1602年〜1661年)の痛手が大きかった。かつてオランダ共和国は、互いに共通の敵であるスペインを牽制する為にポルトガルとのヨーロッパでの休戦協定に調印した事もあり、それを契機にオランダはセトゥーバルにある製塩工場の塩の購入を再開し、ポルトガルとのヨーロッパにおけるニカ国間通商を復活させていたのだが、八十年戦争(1568年〜 1647年)勃発後のポルトガル併合 を契機に敵対関係になってしまったのだった。

    *蘭葡戦争はオランダ八十年戦争の一部と見なされている。1602年、オランダ東インド会社オランダ西インド会社は、アメリカ大陸、アフリカ、インド、極東にあるポルトガル領植民地への攻撃を開始。スペインが広大な国土を維持すべくヨーロッパで戦争を繰り返す間、手薄になったポルトガル植民地の香料及び砂糖貿易権を可能な限り奪取するのが主目的であった。一時はブラジルやアフリカのポルトガル植民地がイングランドと同盟したオランダに奪われ、ジョアン4世が1640年に再独立を宣言してその承認をオランダに迫った際も、オランダは承認と停戦はしたものの条約までは結ばなかった。なので和平が成立したのは1661年、ハーグ条約ポルトガルとオランダの和平が成立した時となり、この際にはブラジルからオランダが永久に排除された代わり、セイロン島とモルッカ諸島がオランダに割譲されている。

    *当時イングランド内戦の渦中にあったイングランド王国では議会派が内戦に勝利しつつあったが故にポルトガル宮廷がイングランドの王子達を正当なイングランド王位継承者として承認していた事を問題視せざるを得なかった(この問題はチャールズ1世の廃位と処刑を行ったイングランド共和国が存在していた期間、ずっと続く)。しかしチャールズ2世の王政復古(1660年)以降、ポルトガルは従来のイングランドとの同盟を刷新し、ジョアン4世の王女カタリナとチャールズ2世の婚姻によって対スペイン関係における国外からの支援を回復することで、フランスからの支援(これは限定的であったが)の損失分を補うことが可能となる。終戦時にスペインとの和平が可能となった大きな要因もまたこうして復活したイングランドとの同盟関係であった。当時三十年戦争で国力を使い尽くし疲弊していたスペインに、他のヨーロッパ強国とさらなる戦争を遂行する余力など残っていなかったのである。なおこの時、ポルトガル側からカタリナの持参金の一部として、港湾都市タンジールとボンベイイングランドへ割譲されイングランドにインドへの足掛かりを与える事となる。その一方で英国に「茶に砂糖を入れて飲む習慣」が伝わった。

  • さらに1670年代に入ると、それまでポルトガル経済を支えていたブラジルの砂糖産業が西インド諸島における砂糖生産に押されて衰退。その一方で富裕層によるイギリスの毛織物、フランス、イタリアの贅沢品の輸入量が急増して経済状況が悪化する。

  • 財政長官エリセイラ伯は1675年、フランスのコルベールの重商主義政策に倣った財政改革を実施。フランスやイギリスから熟練工を招聘し、繊維工場の開設・拡張を遂行するとともに国産品保護の為に輸入品の使用を禁止する法令を発布。しかし、カダヴァル公爵やアレグレッテ侯爵などのイギリスへのワイン輸出を求める勢力はイギリス製品の締め出しを望まず、工業化も一向に進まず、エリセイラ伯は1690年に自殺。皮肉にも1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見されてゴールドラッシュが発生した為に貿易赤字は解消され、人々はより一層、法律を犯して粗悪な国産品ではなく輸入品を買い求めるようになった。お陰でポルトガル経済は不況から脱っしたものの工業化は完全に頓挫してしまう。そして1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって貿易不均衡はさらに加速した。
    *「メシュエン条約(英語:Methuen Treaty, ポルトガル語:Tratado de Methuen)」…1703年にイギリスとポルトガルの間で締結された通商条約。調印はリスボンでなされた。メシュエン通商条約とも称する。1580年から1640年にかけてスペインに併合されていたポルトガル独立戦争を経て再び独立を取り戻したが、その間に国土が荒廃。復興策として葡萄やオリーヴの生産を奨励した為に17世紀後半よりワインの生産量が急増した。その最大の取引先がイギリスであり対英関係が重視される事となった結果がイギリス大使のジョン・メシュエンとポルトガルのアレグレテ侯の間で結ばれたこの通商条約であった。そこでポルトガルは従来の保護貿易政策を転換。すなわちイギリス産毛織物の輸入を受け入れる代償として、イギリスはフランス産ワインより低い税率でポルトガル産ワインを購入することになったのである。その結果、ポルトガルのワイン輸出は増大したがイギリスからの毛織物の流入はそれ以上であり、ポルトガル自国の毛織物産業は壊滅的な打撃を受けた。さらにイギリスはポルトガルを通じてブラジル植民地へも市場拡大を果たす事に成功する。

  • ジョアン5世はブラジルの金によって得た経済力を元にこれまで国政に深く関わってきた大貴族を排除し、絶対王政の確立を志向する。金は王室に多大な収入をもたらしていたのでコルテスを招集する必要性も薄れ、ポルトガル革命後の1822年まで開催される事はなかった。とはいえ貴族、聖職者、都市、異端審問所が持つ伝統的な特権と習慣に介入することはできず、国王が行使できる権力にはあくまで制約がかけられていた。

  • ジョアン5世は国家威信の回復を図って対外戦争に参戦。スペイン継承戦争ではオーストリア、イギリス、オランダに与し、1713年のユトレヒト条約でラプラタ川北岸のサクラメントを獲得。1750年にスペインとの間で締結されたマドリード条約ではサクラメントの割譲と引き換えにトルデシリャス条約で取り決められた境界線を越えて西に広がっていた土地の領有権を認めさせ、ブラジルの境界線をほぼ確定させた。1717年には教皇庁の要請に応じて対トルコ戦争に参加し、マタパン岬沖の海戦で勝利を収めている。戦争での活躍、寄進によってリスボン大司教教皇庁から総大司教区と枢機卿の称号を付与され、多額の資金を投入して総大司教座教会が建立された。ただしスペイン継承戦争後は中立的立場を守ってヨーロッパ諸国の係争に積極的には関与しなくなり、50年近い安定を享受する。

  • 16世紀半ばからポルトガルの学芸は国家と教会の監視によって衰退し、また連合王国の成立に伴う宮廷の消滅もあって、ポルトガルの文化の発展は停滞していた。しかしブラジルから金が流入する様になると建築分野で華美なバロック様式が流行。金泥木彫(ターリャ・ドラーダ)や絵タイル(アズレージョ)で飾られた 建築物が現れる。

そしてジョアン5世の死後、1750年に即位したジョゼ1世は啓蒙主義者のセバスティアン・デ・カルヴァーリョを宰相に抜擢。大使在任中に産業革命が進む英国の経済的成功に強烈な印象を受けていた彼は同様な経済政策をポルトガルでも採用。強力な権限を持つ商業評議会を設立して財政改革や工業化を推進する一方でインドのポルトガル植民地における奴隷制を廃止し、陸海軍を再編した。

  • この新宰相、今日では「ポンバル侯」と呼ばれるが、この爵位地震の15年後の1770年に得たものである。貴族達は彼を郷士の息子からの成り上がりと軽蔑し切っていた。

  • 一方、宰相の方も古い貴族たちを、腐敗しており実際的な行動ができない無能な集団として嫌っていた。

こうした混乱した状況下、ポルトガルは「その日」を迎える事になったのである。

リスボン地震(1755年11月1日)

当日ははカトリックの祭日(諸聖人の日万聖節))であった。当時の記録には揺れは3分半続いたというものや、6分続いたというものもある。リスボンの中心部には5m幅の地割れができ、多くの建物(85%とも言われる)が崩れ落ちた。即死した市民は2万人といわれる。 

  • 生き残ったリスボン市民は河川敷や港のドックなどの空き地に殺到。これは狭い土地で無計画に都市開発が行われた為、建物が密集し、市街には広場が無く狭い路地が入り組んでいた為だった。

  • やがて海水が引いてゆき(引き波)、海に落ちた貨物や沈んでいた難破船が次々にあらわとなる。そして地震から約40分後、逆に津波(押し波)が押し寄せてきて港や市街地を飲み込み、テージョ川を遡った。15mの津波がさらに2回市街地に押し寄せ、避難していた市民(約1万人)を飲み込んだ。

  • 一方、津波に飲まれなかった市街地で火の手が上がり、火災旋風となって、その後の5日間でリスボンを焼き尽くした。

ポルトガルの他の町も同様の惨禍に見舞われた。

  • 国土の南半分、特にアルガルヴェ地方の被害は大きかった。南西端のサグレスも30mの津波に襲われている。

  • 地震の揺れは遠くフィンランドからアフリカ北部まで感じられた。グリーンランドカリブ海にまで揺れが及んだという記録もある。

  • モロッコなど北アフリカの沿岸も高さ最大20mの津波に襲われ、イングランド南部やアイルランド西部にも3mの高さの津波が押し寄せて建物などを破壊。ゴールウェイのスパニッシュ・アーチには津波で破壊された跡が残っている。さらに大西洋を越えたバルバドスやマルティニークにも津波が到達した。

  • 津波が押し寄せる前、動物たちが高い土地へ逃げたという言い伝えがある。これは震災に伴う動物の異常行動がヨーロッパで最初に記録されたものである。

当時リスボンは27万5000人の人口を数えたが、最大で9万人が死亡したとされる。モロッコでも津波などで1万人が死亡したとされるが、記録がはっきりしておらず、続く11月18日から19日に起こった一連の地震の被害者も合算されている可能性が指摘されている。

  • リスボンの建物の85%は破壊され、宮殿や図書館、16世紀独特のマヌエル様式の建築も失われた。地震の揺れで壊れなかった建物や被害が少なかった建物も、教会の蝋燭などが火元の火災で焼失。わずか6か月前にこけら落としを祝ったばかりの歌劇場も火災で焼け落ちた。テージョ川沿いに建っていたリベイラ宮殿(現在のコメルシオ広場の位置にあった)も地震津波で崩れ、7万巻の書物ティツィアーノルーベンス、コレッジョらの絵画も失われた。ヴァスコ・ダ・ガマ大航海時代初期の航海者たちが残した詳細な記録も、王立文書館の建物と共に失われた。作曲家カルロス・セイシャスの作品の楽譜も、そのほとんどが失われた。リスボン大聖堂、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院などの大きな教会や修道院も破壊された。ロシオ広場には当時最大の公立病院だったレアル・デ・トードス・オス・サントス病院があったが、数百人の患者もろとも火災にのまれた。ポルトガルの独立の英雄ヌーノ・アルバレスペレイラ墓所も破壊された。カルモ修道院は今も廃墟のまま地震の爪痕を残している。

  • 国王一家は、運の強いことに震災において怪我ひとつしなかった。国王ジョゼ1世らは、当日未明にリスボンを出て日の出の時刻にミサに出席した後、王女の願いを聞いて街から離れ、祭日を過ごそうとしていたからである。ただ地震の後、ジョゼ1世は壁に囲まれた空間に対する恐怖症となり、破壊された宮殿には戻らず、宮廷を郊外のアジュダの丘に立てた大きなテント群に移した。ジョゼ1世の閉所恐怖症は死ぬまで治らず、娘のマリア1世の時代に木造幕舎が火災に遭うまで宮殿は造られなかった(テント宮殿の焼け跡にマリア1世はアジュダ宮殿を建て、今日まで残っている)。

宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)は王室同様に地震を生きのびた。彼は地震直後「さあ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられる。そして後年ポルトガルに君臨した時と同様の実用主義をもって、すぐさま救命と再建に取りかかった。

  • まず消火隊を組織し、市街地に送って火災を鎮め、また疫病が広がる前に数千の遺体を処理せよと軍隊に命令した。教会の意見や当時の慣習に反し、遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖で水葬された。

  • 廃墟の町に無秩序が広がるのを防ぐため、特に略奪を防ぐため、街の周囲の丘の上に絞首台が作られ、30人以上の人々が処刑された。軍隊は街を包囲して強壮な者が街から逃げるのを防いだが、これにより廃墟の撤去に多くの市民を駆り出すことができた。

  • 震災直後は物資不足が問題となったが、間も無くリスボンに在住していた貿易商などの外国人によってヨーロッパ各地に震災の被害が報告された為、彼らを支援する為の物資がリスボンに集まり、復興物資を確保する事が出来た。

  • 震災から間もなく、宰相と王は建築家や技師を雇い、1年以内にリスボンから廃墟は消え、至るところが建築現場になった。王は新しいリスボンを、完璧に秩序だった街にすることにこだわった。大きな広場と直線状の広い街路が新しいリスボンのモットーとなった。今では「麗しのリスボン」という。当時、こんな広い通りが本当に必要なのかと宰相に尋ねた者もいたが、宰相は「いずれこれでも狭くなる」と答えた。実際、現在のリスボンの交通混雑は酷い。

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  • 当時、宰相の指揮下で建てられたポンバル様式建築は、ヨーロッパ初の耐震建築でもあった。まず小さな木製模型が作られ、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性が確かめられた。こうしてリスボンの新しいダウンタウン、通称「バイシャ・ポンバリーナ」(ポンバルの下町)が作られ、新興階級であるブルジョアジーが都市中心部に進出していった。アルガルヴェ地方のスペイン国境付近にあるヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオなど、ポンバル侯爵のリスボン都市計画を応用して再建された都市はポルトガル各地にある。

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一方、こうした的確な措置によってますます宰相への信頼を厚くしたジョゼ1世に対して貴族層は反感と怒りを募らせる。

  • 1758年にジョゼ1世暗殺未遂事件(Távora affair)が起こると宰相は貴族の一掃に乗り出した。1,000人以上を逮捕、被告は拷問によって自白を強いられた。ポルトガル最大の貴族アヴェイロ公爵は四肢切断のうえ火刑に処せられ、次にタヴォラ侯爵も車裂きの刑に処され、主だった貴族は処刑、投獄、追放を余儀なくされた。国王の非嫡出の兄弟姉妹であっても例外とはされず、カルヴァーリョに敵視され修道院に幽閉される者もいた。

  • 翌1759年にはポルトガルとブラジルの双方に強い影響力を持っていたイエズス会士にも類を及ぼして追放し教会財産を接収。イエズス会同様に強権を有していた異端審問所も1774年までに国家の統制下に置かれ、火刑が廃止されている。経済発展を阻害するユダヤポルトガル人に対する制度的な迫害もこれによって撤回された。
    *当時のイエズス会は国王暗殺の陰謀に関わっていたばかりか、震災の原因をリスボンの人々の「罪」にあると喧伝し、さらに支配力を増そうと試みていたとされる事も。その一方でカルヴァーリョイエズス会がブラジル内陸部に所有する広大な宣教地、豊かな農園、都市部不動産などに目をつけただけともいわれている。また審問所をあえて解体せず敵対者排除にフル活用したりもしている。

  • これを契機にジョアン5世の治世からの課題となっていた教育改革が実施され、イエズス会によって運営されていたエヴォラ大学が閉鎖された。1772年にはコインブラ大学のカリキュラムと組織が2世紀半ぶりに再編されている。初等・中等教育には学制が導入され、自国語の教育を強化した結果中間層の識字率が向上。身分の平準化も進展し、1760年にはポルトガル本国の奴隷制が廃止され、1773年には異端審問所によって設けられていた新キリスト教徒と旧キリスト教徒の区別も廃止された。それまで卑しいとされてきたポルトガルブルジョアジーの地位もこれら一連の改革によって大きく向上した。
    *さらにはポルトガル本国内に黒人奴隷をもちこんだ場合、即時の奴隷の解放を義務付けてポルトガル本国に奴隷を持ち込む事を不可能としたが、これは啓蒙主義的な観点からの奴隷解放ではなく、労働力が不足しがちな植民地から奴隷が連れ出されるのを防ぐための労働力確保を目的とした政策であったと目されている。

以後、政敵がいなくなった宰相は啓蒙主義的専制政治を行い、ポルトガルを独裁支配下に置いた。イギリスから最新の機械を導入するなど、ポルトガルの初期的工業化も強く推進。

地震が当時のヨーロッパの精神に与えた衝撃

多くの教会を援助し、海外植民地にキリスト教を宣教してきた敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンが、祭日に地震の直撃を受けて多くの聖堂もろとも破壊されたことは、18世紀の神学・哲学では説明の難しいもので、当時のヨーロッパの啓蒙思想家達に強い影響を与えた。彼らにとってリスボン地震の衝撃による文化的・哲学的転換は、20世紀後半におけるホロコーストの衝撃に比べられるほど大きかったのである。

  • それまでヨーロッパの思想の世界において主流だったのは「慈悲深い神が監督する我々の「最善の可能世界(le meilleur des mondes possibles)」では「すべての出来事は最善」である(悪は存在するにせよ、他のさまざまな善が存在するために必要なかぎりの悪である)」なる楽天主義に支えられた神義論(theodizee)だった。
  • ヴォルテールは翌年3月「リスボンの災害についての詩(Poème sur le désastre de Lisbonne)」を発表し、その序文で「〈すべては善である〉という語を厳密な意味で、しかも未来の希望なしで把握すると、これはわれわれの人生の苦しみにたいする侮辱にほかならない」と述べ、こうした楽観主義に挑戦した。

     「すべては善である」と叫ぶ迷妄の哲学者たちよ、
     ここに駆け付け、この恐るべき廃墟をよく眺めるがよい。
     この瓦礫を、このずたずたの破片を、この不幸な屍を。
     たがいに重なりあったこの女たちを、この子供たちを。
     崩れ落ちた大理石の下に散らばっているこれらの手足を。
     大地が呑み込んだ数万の不幸な人々を。

    さらに「これは天罰だ」という声にも挑戦する。

     あなたがたはこの山のような犠牲者をみて、それでも言うのか、
     「神が復讐したのだ、彼らの死は犯した罪の報いなのだ」と。
     どのような罪を、どのような過誤を犯したと言うのか、
     母の乳房の上で、潰され、血まみれになっている
     これらの子供たちは。
     壊滅してもはや地上にはないリスボン
     それほどの悪徳の町だったのか、
     ロンドンよりもパリよりも悦楽にふけっていたと言うのか。

    テオドール・アドルノは「リスボン地震ライプニッツの弁神論(慈悲深い神の存在と悪や苦痛の存在は矛盾しない、という議論)からヴォルテールを救いだした」と述べている。

  • 一方、ヴォルテールの下した「地上には悪が存在する」という結論にすかさず反論したのが同年「人間不平等起源論」を発表したルソーだった。「人間に悪をもたらしたのは神でなく人間そのものであり、もし人間がもし野生人のように素朴な生活のままだったら、こんな災害に遭う事もなかっただろう」と指摘。「火災や地震などのために、さまざまな都市が崩壊し、あるいは全滅していること、そのために何千もの人々が死亡していることも考えてほしい」。そして都市の放棄とより自然な人間らしい生活様式への回帰を訴え、両者の関係は完全なる断絶を迎える事になる。一方ルソーの理想主義は結局、フランス革命期における大量虐殺を伴う産業インフラの徹底破壊という形で実践に移されたが、渾身の努力にも関わらずフランスへの産業革命の波及をわずか半世紀遅らせるのに成功しただけだった。

  • また、イマヌエル・カントは(英国から伝わった)人間の力の及ばない自然の巨大さなどへ対する感情たる「崇高」なる概念に強く惹かれ、それを自らの哲学において発展させて中核概念とした事で知られている。カントはこの地震について3つの薄い書物を出版。若い日のカントは地震に魅せられ、報道から地震被害や前兆現象など可能な限りの情報を集め、これらを使って地震の起こる原因に関する理論を構築したのだった。彼は熱いガスに満たされた地底の巨大空洞が震動して地震が起こると考えた。これは後に誤りであることが分かったが、とにかく「地震は超自然的な原因ではなく自然の原因から起こる」という仮定に従って地震のメカニズムを説明しようとした近代最も初期の試みだった事実は動かない。ヴァルター・ベンヤミンはカントが出版した地震に関する書物について「おそらくドイツにおける科学的地理学の始まりを代表するものであり、そして確実に地震学の始まりである」と述べている。

ドイツの哲学者ヴェルナー・ハーマッハーによれば、地震の結果は哲学用語にも及び、硬い根拠を大地に例えて「ground」と呼ぶ比喩がぐらつき、不安定なものとなったという。「リスボン地震により起こされた印象は、ヨーロッパの最も神経質な時代の精神に触れたため、「大地」や「震動」の比喩はその明らかな無垢さを失い、もはや単なる修辞には過ぎなくなってしまった」。ハーマッハーはルネ・デカルトの哲学のうち「確実性」に関する部分がリスボン地震後の時代に揺らぎ始めたとする。 

リスボン地震以降のブラガンサ朝ポルトガル

1777年にジョゼ1世が亡くなるとマリア1世(在位1777年〜1816年)が女王として即位。ポンバル侯爵独裁体制を是正しべく彼を追放し、政治犯800人を釈放したが、彼の始めた工業化路線は継続。道路、運河の開設、鉱山の検査、織物業の技術改良などを推進した。

  • 1740年以降、イギリスを始めとする諸国との貿易収支は黒字であり、1789年に諸国と結んだ通商条約の結果、ポルト産ワイン、ブラジル産砂糖などの輸出が増加。以降も1789年のフランス革命勃発までブラジルとイギリスの間の中継国として繁栄を続けた。

  • 一方、ポンバル侯によって育成されたマニュファクチュアも成長し、アメリカ独立戦争フランス革命の影響を受けてブラジルからの輸出品の価格が高騰。何とか1807年のフランス軍の侵入までは好況を保ち続ける。

  • その一方でブラジルではマニュファクチュアが廃止されたために現地の繊維産業と製鉄業は打撃を受け、1780年代から金の産出量が減少したために失業者が増加し、社会の緊張が高まった。ブラジルのポルトガル本国からの搾取に対する不満が高まり、1789年のミナスの陰謀、1798年のバイーアの陰謀といった本国からの独立を図る反乱が連発。その一方でポルトガル宮廷にはスペインからの脅威を避けるため、恵まれた富を有するブラジルへの遷都を提案する意見があり、ブラジルの支配者層も利権を維持しつつ、植民地条例からの脱却を求める最良の方法として宮廷の移転を歓迎する姿勢を見せる。

  • その一方で女王の私生活は悲惨だった。即位後7年の間に母、夫、長男ジョゼ王子を相次いで失う不幸に見舞われた上、革命で退位したルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑されたショックから1791年に精神崩壊。この為、1792年以降、三男ジョアン王子が摂政を務める事に。

  • また1801年、ポルトガルはフランスと同盟したスペイン軍の攻撃を受けて大敗。スペインにオリヴェンサを割譲し、賠償金を支払わなければならなくなった(オレンジ戦争)。

ヨーロッパで勢力を拡大するフランスのナポレオン・ボナパルトに対し、ポルトガルは中立の立場を保ってきたが1806年にフランスからイギリスとの友好関係の破棄を通告される。

1820年8月24日、自由主義者と同盟を結んだポルトガル将校はベレスフォードの不在に乗じてポルトで「革命宣言(プロヌンシアメント)」を発令。反乱の余波は北西部・中部の諸都市に及んだ(1820年自由主義革命)。

  • 1821年1月にコルテスが招集され、国民主義三権分立の原則に基づいた憲法の制定、絶対主義王制に対する自由主義的な改革が唱えられる。

  • ジョアン6世は革命政権との和解を図って王太子ドン・ペドロを本国に派遣しようと試みたがコルテスの強い抵抗に遭遇。1821年4月には逆にペドロをブラジルに残して帰国した。

  • コルテスはブラジルの植民地への降格を決定し、同年8月にリスボン議会はペドロのポルトガル本土への召還とリオデジャネイロの行政機関の移転を決定するが、ポルトガル本国の一連の議案はブラジルの知識人と支配者層を独立に向けて団結させる結果を生んでしまう。

  • 1822年10月にブラジルはポルトガルから独立。ペドロを皇帝とするブラジル帝国が建国された。1825年8月にポルトガルはイギリスの圧力を受けてブラジルの独立を承認するが、その代償としてブラジルでの通商特権の維持、奴隷貿易の停止をブラジル側に認めさせられている。以後、ペドロ2世まで2代の皇帝が続いたが、1889年にクーデターによって帝政が廃止された。

ジョアン6世の没後、ポルトガル王位継承を巡ってペドロ1世とミゲルの兄弟が争うポルトガル内戦(1828年1834年)が勃発した後、マリア2世の下で王室は権威を回復。しかし19世紀後半の産業革命によって台頭したブルジョアジーの間に共和主義が台頭し、1910年10月5日革命によって王制は打倒され、ポルトガル最後の国王となったマヌエル2世はイギリスへ亡命した。

 まぁこの数奇の展開こそが「(後進的で役立たずの国内銀行家を差し置いて)フランス産業革命を牽引したポルトガル人産業融資家」と「南米諸国で最も政治的に安定した大国ブラジル」を現出させた訳なんですね。

ところで何故か、こうした歴史が記述によっては全くなかった事にされていたりします。もしかしたら、従属経済論あたりで「イギリス帝国主義の犠牲になった無残な犠牲国の典型例」扱いされてるせいとかかもしれません。

ポルトガル - Wikipedia

産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。

最近まで経済危機状態が続いてたので、そう決め付けるのが楽だったからとも。その後輸出競争力が相応に改善されたらしく、2010年代に入ってから経常収支が一応黒字化してますが、それについてほとんど報道されてないのも、あるいはそのせい?

欧州の経常収支黒字化も新興国問題の背景に

そもそも、スペインと並ぶ「第二次世界大戦中は中立を保ち続ける事で戦後も執拗に生き延び続けたファシスト政権」で、しかもスペインより独裁体制が存続したので「その筋の人達」からは完全悪役扱い。一時期は「ボンバルの改革」も一緒くたに悪役視されて「リスボン地震は天罰の先払いだったのだ」なんて極論まで存在した様です。ただ日本人として困るのがボンバルの改革」と薩摩藩の経済危機を救った「調所笑左衛門の改革」の相似性。まぁボンバルの改革」が植民地ブラジルを犠牲に成立した様に、調所笑左衛門の改革」にも琉球王朝を犠牲に成立した側面が確実にあるので、「その筋の人達」が大日本帝国は薩摩ファシスト政権の後継国家であり、それを無反省に継承した現日本政府もまた国際正義が決っして存続を許さない絶対悪である事実は揺るがない」とまくしたてるのも完全に故なき話ではないって話です。そう「完全」にはね。

それでは政治への不満というより、生活苦から起こった「カーネーション革命(Revolução dos Cravos、1974年)」がポルトガル国民の生活を劇的に改善してくれたかというと、別にそういう奇跡も起こらなかった訳ですが、こういう話になると「その筋の人達」はやっぱり沈黙してしまいます。下手に突っつくと「貴様の様な反知性主義者が今の日本を駄目にしたのだ。日本の未来の為に全員まとめて自殺しろ!!」とか反論されてしまいます。取り付く島もありません。

サラザール独裁政権(1932年〜1968年)

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こういうのも「全ては政治利用される事によって初めて意味を持つ」と考えられていた20世紀残滓なんですかね? よく考えてみればそれこそが、まさに人間の幸福とは民族精神(Volksgeist)ないしは、時代精神Zeitgeist)との合一化を完全に果たし、果たすべき使命を与えられる事である」と提唱したヘーゲル哲学の最終バージョンだった気がしてならないのですが。「神中心主義」ならぬ「政治中心主義」…

やっぱり、こういう次元で壮絶な論争が始まるのは避けられなかったかぁ…

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1955年(映画・小説版では1958年)の広島市の基町にあった原爆スラム(「夕凪の街」)を舞台にして、被爆して生き延びた女性の10年後の、心の移ろう姿と、原爆症に苛まれるという当時の広島市民を突如襲った現実を描く。当時良心的に本陣を名乗っていた人々は「日本人の悲惨さばかり強調し、当時の朝鮮人が受けた悲劇を黙殺するのは帝国主義を一切反省してない傲慢で好戦的な日本人の証拠」とレッテル貼りして集中砲火を浴びせ、こうの史代は一時期断筆まで考えたという。気を取り直して書いたのが「この世界の片隅に(2007年〜2009年)」という位置付け。
*まぁ当時は、中高生の修学旅先にあえて韓国を選び、あちこちで土下座させて回るのが教師の間で流行した時代でもあったという次第。その後、日本の左翼は韓国左派の「身障者や日本人や黒人や東南アジア人を同じ人間として扱う方がレイシスト」なる考え方に感化され、身障者向けトイレに「社会のお荷物は死ね!!」と落書きして回る愉快犯を英雄視したり、あえてデモに際して点字ブロックを占拠し「健常な若者が最も敬われない社会こそ不健全」と豪語する様になっていく。

この作品を「反戦・平和のようなメッセージ性がないところがいい」と評価するのは、とんだ勘違いだ。風景画を描いているだけで憲兵からスパイ扱いを受けたり、道端の雑草をおかずにするほどの貧しい暮らしを強いられる様子は、笑いのオチがあるから救いがあるだけで、戦争の肯定になどにはけっしてならない。さらには身近な命が危険に晒され、昼夜を問わない空襲によって心身共に疲れ果てていくさま、そして原爆投下後の広島の風景からもたらされるものは、その時代を生き延びた人びとの苦労を偲ぶ気持ちと、「戦争はまっぴらだ」というシンプルな感想のはずだ。

しかも閉口してしまうのは、「反戦・平和じゃないところがいい」という意見どころではない、もっととんでもない解釈まで飛び出していることだ。

それは、玉音放送を聴いて家の外に飛び出したすずが見下ろす町の風景のなかに、一瞬、大韓民国の国旗、すなわち太極旗が掲げられるワンシーンについてだ。

〈太極旗が出てきてる一コマで朝鮮進駐軍の暴挙を表してるし、単純な反戦平和主義漫画ではない〉
〈玉音直後に太極旗が上がってたのはそういう愚連隊の乱暴行為が始まる合図かなと思った〉

「朝鮮進駐軍って何?」という人もいるかと思うが、これは在特会や『マンガ 嫌韓流』の山野車輪などのネット右翼が広めた完全なデマであり、彼らは当時の在日コリアンたちが終戦後に朝鮮進駐軍なる組織をつくり強姦や殺人などの犯罪を次々に犯したと主張しているが、根拠などまったくないシロモノだ。そうした情報を鵜呑みにしている人たちが、今回、作中で掲げられる太極旗を暴力のはじまりだと勝手に解釈し、それを「たんなる反戦平和じゃない理由」に挙げているのである。

もちろん、原作者のこうの史代氏にしても映画の片渕須直監督にしても、徹底的に時代考証を行って作品化しており、「朝鮮進駐軍」なるトンデモ陰謀論を採用しているわけがない。

むしろ、物語の舞台が軍港だった呉であり、そこでは大勢の朝鮮人たちが働かされていた史実を踏まえれば、作中の太極旗に込められているのは、この町で日本人と同じく在日コリアンたちが戦火に巻き込まれながら暮らしていたという事実であり、戦争によって大切なものを奪われた存在=戦争被害者としての主人公が、そのじつ大切なものを奪う側の存在でもあったことを知る場面だったのではないか。

現に原作では、この場面で主人公すずは「暴力で従えとったいう事か」「じゃけえ暴力に屈するいう事かね」「それがこの国の正体かね」と述べている。この台詞が映画ではカットされているため太極旗の意味が伝わりにくくなっているが、ここで描かれているのは“戦争という行為に一方的な正義など成立しない”ということだろう。

じつは、原作のこうの氏は、『夕凪の街 桜の国』が高い評価を受けた際に、一部で“日本人の不幸しか描かれていない”という批判を受けていた。作品では原爆スラムに暮らす女性が原爆症を発症し死に至るが、たとえば広島大学の川口隆行准教授は、その地域にたしかに存在した在日コリアンが作中では消されていることの意味をこう指摘した。

〈現実の広島市の都市空間から消滅した「原爆スラム」をマンガという媒体によって紙上に甦らせようとしながら、そうした忘却に抗うそぶりのうちに、コード化されたともいえる「原爆スラム」=朝鮮人というイメージの連結を密やかに切断している〉

〈『夕凪の街 桜の国』が、被爆六十年を目前に「日常の視点」を備えた「穏やかな」原爆の記憶を表象化しえたとすれば、その代償に支払ったものとは──いささか表現はきついかもしれないが──被爆都市の記憶の横領といった事態であった。イメージにおける排除空間の排他的占有といってもよい〉(『原爆文学という問題領域』創言社)

それは、玉音放送を聴いて家の外に飛び出したすずが見下ろす町の風景のなかに、一瞬、大韓民国の国旗、すなわち太極旗が掲げられるワンシーンについてだ。
〈太極旗が出てきてる一コマで朝鮮進駐軍の暴挙を表してるし、単純な反戦平和主義漫画ではない〉

〈玉音直後に太極旗が上がってたのはそういう愚連隊の乱暴行為が始まる合図かなと思った〉
「朝鮮進駐軍って何?」という人もいるかと思うが、これは在特会や『マンガ 嫌韓流』の山野車輪などのネット右翼が広めた完全なデマであり、彼らは当時の在日コリアンたちが終戦後に朝鮮進駐軍なる組織をつくり強姦や殺人などの犯罪を次々に犯したと主張しているが、根拠などまったくないシロモノだ。そうした情報を鵜呑みにしている人たちが、今回、作中で掲げられる太極旗を暴力のはじまりだと勝手に解釈し、それを「たんなる反戦平和じゃない理由」に挙げているのである。

もちろん、原作者のこうの史代氏にしても映画の片渕須直監督にしても、徹底的に時代考証を行って作品化しており、「朝鮮進駐軍」なるトンデモ陰謀論を採用しているわけがない。

 そういえば(その黒人や東南アジア人を見下す人種差別的態度によって)リベラル系から侮蔑され拒絶され勝ちな韓国系アメリカ人市民団体は、むしろ「何にせよ劣等人種同士が互いに殺し合ってその数を減らす事は世界平和に貢献する」なる立場からKKKや白人至上主義団体から高い評価を得て「アメリカの良心的白人も日本人を見限って韓民族こそ名誉白人と認めた!!」と大喜びし「やはりユダヤ人も滅ぼすべき劣等民族と認める」なる譲歩が成立する展開に。こういう態度も日本の左翼は喜んで模倣するんでしょうかね?