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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【妖精の歴史】「奴等はいつも酔っ払っている」?

麦の穂をゆらす風 アイルランド

アイルランドの妖精はシー (Sidhe)、スコットランドの妖精はディナ・シー (Daoine Sith) と総称されていますが、何となくいつも酔っ払ってるイメージがあります。これは酒造の歴史も古いからなんですね。 

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アイリッシュ・ウイスキー(Irish whiskey)

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アイルランド共和国および北アイルランドで生産される穀物を原料とするウイスキーアイルランドでは、ウイスキーは「水」を意味するuisceの単語で短縮されて呼ばれ、アイルランド語には酒類、特にウイスキーを指してしばしばCraythurという言葉が使われる。

  • ウイスキーという言葉の由来は「命の水」を意味するアイルランド語のuisce beatha(イシュケ・バーハ)に由来する。イシュケ・バーハの語源については、ゲール語で「健康の水」を意味するooshk-'a-paiと呼ばれていたものがラテン語で「命の水」を意味するuisge-'a-baghという言葉で呼ばれるようになり、uisge-'a-baghがアイルランド語のuisce beathadhに変化したとされる。

  • ヘンリー2世によるアイルランド遠征(1172年)の時、アイルランド人が愛飲していた蒸留酒イングランド兵によってushkyと誤って伝えられ、その言葉が英語のwhiskeyに転訛したという。

  • ウイスキーの英語の綴りが、アイルランドのwhiskeyとスコットランドのwhiskyと違いがある理由や法律上の違いなどは分からない。かつてはブッシュミルズや現在は消滅したコールレーンといった有力どころの蒸留所もwhiskyの綴りを使用し、アイルランド国内でもwhiskyとwhiskeyの両方の表記が使われていた。一説には、本来アイルランドでもwhiskyと綴られていたが、19世紀になってダブリンの蒸留所が品質を宣伝するためにeの一字を入れて差別化したところ、地方の蒸留所もこれに続いたためにアイリッシュウイスキー全体がwhiskeyと綴られるようになったとされる。パディを生産していたコーク蒸留所はwhiskyの綴りを使い続けていたが、海外市場での混乱を避けるため、1979年にパディにもeが入れられた。

  • ヨーロッパの古い蒸留飲料のひとつと考えられており、アイリッシュウイスキーとスコッチ・ウイスキーのどちらがより歴史があるかの議論には決着がついていない。伝承によれば、6世紀に中東を訪れたアイルランドの修道僧が、現地で香水を作るために用いられていた蒸留技術を持ち帰り、それを酒造に応用したという。また、聖パトリックが蒸留技術を伝えたとする伝承も存在する。
    *一方ウイスキーの製法がスコットランドに伝わったのは遅くとも12世紀から13世紀にかけてとされる。製法の要の一つである蒸留技術はアイルランドからキリスト教とともに伝来したとされ、アイルランド同様に聖パトリックによってもたらされたとする伝承も存在する。

  • ヘンリー2世によるアイルランド遠征(1172年)の時、家臣からの報告書にアイルランドで大麦から蒸留した酒が飲まれていた記録があったと言われているが、確認できる史料は無く、信憑性を疑問視する声もある。12世紀当時にアイルランドで飲まれていた蒸留酒は、ビールを蒸留した濁り酒だった。アルコール度数は約20度と現在のウイスキーに比べて低く、発酵の段階で果物、蜂蜜、ハーブを入れて香りをつけていた。
    スコットランドにおけるウイスキーに関する現存する最も古い記録は、1494年のスコットランド財務省の記録で、「修道士ジョン・コーに8ボルのモルトを与え、アクアヴィテ(aqua vitae)を造らしむ」という内容である。アクアヴィテはラテン語で「生命の水」という意味で、これをゲール語で表すと「ウシュクベーハ」(uisge beatha、ウシュクは水、ベーハは生命の意)となり、そこから「ウイスキー」という英語が生まれた。ウイスキーという単語に関する最古の記録は1736年にスコットランド人が書いた手紙で、1755年には英語辞典に登場した。当初スコッチ・ウイスキーは薬酒として修道院が独占的に製造していたが、16世紀に宗教改革が起こり修道院が解散したことで蒸留技術が農家など民間に広まり、余剰生産された大麦の換金および保存の手段として製造が盛んとなる。この時期のスコッチ・ウイスキーには熟成の工程がなく、蒸留したばかりの無色透明の液体が飲まれていた。

  • オールド・ブッシュミルズは1608年にジェームズ1世から免許を授かった最古の公認蒸留所を名乗っているが、1608年当時にブッシュミルズという名の蒸留所が実在していたかは不確かであり、ブッシュミルズが操業を始めたことが確認できるのは1784年である。
    *一方、スコットランドウイスキーに対する課税が始まったのは1644年。1707年にスコットランドイングランドと合同すると1725年にウイスキーに対する課税が大幅に強化された(目的は対仏戦争の戦費の捻出で、一説には15倍になったともいわれる)。取締りに当る収税官がイングランド人だった事がスコットランド人の反英感情を刺激し、生産者の多くが密造を行うようになったが、皮肉なことに品質は密造ウィスキーが正規業者の製品を凌駕した。密造はハイランド地方の山奥で盛んに行われ、ジャコバイトによる反乱が鎮圧された後はその残党が加わって規模が拡大。1823年に酒税法が改正され税率が引き下げられるまで続けられる。この改正を巡っては、当時のイギリス国王ジョージ4世が腕利きの密造業者ジョージ・スミス製造のウイスキー「ザ・グレンリベット」を愛飲したため、王が密造酒を好むことがあってはならないと判断した側近が密造の原因を断つべく税率の引き下げを決断したとも伝えられている。そして酒税法改正後、ジョージ・スミス経営のザ・グレンリベット蒸留所(1824年)を皮切りに次々と政府公認の蒸留所が誕生。その数は1820年代だけでおよそ250に上り、一方密造の摘発件数は激減した。なお、ウイスキーの密造が本格化した1710年代頃から、税率が大幅に引き下げられる1820年代までの間に、スコットランドで消費されたウイスキーの半分以上が密造酒であったという説もある。製法の多くが密造時代に確立された。たとえば密造酒である以上販売の時期を選ぶことができなかったため、生産者は機会が到来するまでウイスキーを樽に入れて保管することにした。その結果長期間樽の中に入れられたウイスキーが「琥珀色をした芳醇でまろやかな香味をもつ液体」へと変貌を遂げることが発見され、蒸留したウイスキーを樽の中で熟成させる工程が製造法に加わる。また、大麦麦芽を乾燥させるための燃料には他に選択がないという理由でピート(泥炭)が使われた。さらに小さな単式蒸留器(ポット・スチル)を用いて2回蒸留する製法も、この時代に考案された。

  • 18世紀になるとアイリッシュウイスキーの評価は上昇し、サミュエル・ジョンソンピョートル大帝らの称賛を受けた。20世紀に至るまで多くのアイリッシュウイスキーの蒸留所が創業し、18世紀にはおよそ2,000の小規模な蒸留所が乱立していたが、蒸留所間の統合によって19世紀半ばには約160に、1880年には28となった。
    *早期に醸造・蒸留産業が確立されたアイルランドでは、単式蒸留機による3回の蒸留を行った後のモルトの過程で機械を使用して掘り出すピートでなく木や石炭がモルトの燃料として使用されることが多かった。乾燥はキルトという炉の中で行われる。製造の過程で3回の蒸留が行われる理由については、原料にライ麦などの穀物を使うと穀物のフレーバー(香り)が強くなるため、蒸留の回数を増やして穀物のフレーバーを飛ばすためだと考えられている。そして、生産性を高めるために巨大なポットスティル(蒸留機)が使われるようになった。蒸留液のアルコール度数は約86度と、スコッチ・ウイスキー(約70度)に比べて高い。蒸留液に水を加えてオーク樽に入れ、通常は5年から8年の間熟成させる。樽はシェリー、ラム、バーボンの熟成に使われた古樽を使用し、3回使用された樽は廃棄される。

  • 1800年代に麦芽にかかる税金が加増され、一部の蒸留所はモルトにしていない大麦、ライ麦、小麦などの穀物の使用量を50%以上に増やして経費削減を図る様になった。これが現在のアイリッシュウイスキーのフレーバーを構成する要素の一つになり、グレーン・ウイスキーのルーツともなる。現在では原料の麦芽と大麦の比率は銘柄によって異なるが、一般にはモルトでない大麦の方が多い。

  • 1826年、スコットランド人のロバート・スタインが連続式蒸留機を発明。これを改良したアイルランド人のイーニアス・コフィーが1831年に特許を取得。コフィーの名をとってコフィー・スチル、あるいは特許を意味する英語パテントからパテント・スチルと呼ばれるようになった。それまで用いられていた単式蒸留器では蒸留が終わる度に発酵もろみを投入するのに対し、連続式蒸留機では連続的に蒸留を行うことができた。かくしてウイスキーの大量生産が可能となったのである。それはアイルランドでも紹介されたが、導入には賛否が別れた。時間をかけずに安価でウイスキーを生産できることを喜ぶ製造者がいる一方、アイリッシュウイスキーの高級品としてのステータスの低下を危ぶむ者もいた。結局、連続式蒸留機を導入したのは一部の製造者だけであり、大半の蒸留所はポットスティルでの蒸留を続ける。
    *一方、スコットランドではエジンバラグラスゴーといったローランド地方の生産者は連続式蒸留機を積極的に活用。さらに原料をトウモロコシなど大麦麦芽より安価な穀物に切り替えてグレーンウイスキーを誕生させる。一方、ハイランド地方の生産者は連続式蒸留機を採用せず、従来通り大麦麦芽を原料とし、単式蒸留器を使って蒸留する製法を維持。この製法によるスコッチ・ウイスキーモルトウイスキーという。そして1853年、エジンバラの酒商アンドリュー・アッシャーが、熟成年が異なるウイスキーを混ぜ合わせることを考案。その後1860年に、それまで異なるウイスキーを混合させてはならないと定めていた法律が改正され、保税貯蔵庫内であれば混合が可能となったことで、モルトウイスキーとグレーンウイスキーを混合したブレンデッドウイスキーと呼ばれるスコッチウイスキーが誕生した。以降「スコッチの歴史はブレンデッドの歴史」と評される事に。

  • 1870年代から1880年代にかけ、ヨーロッパではフランスのブドウがフィロキセラと呼ばれる虫によって壊滅的な被害を受け、ブドウを原料とするワインとそれを蒸留して造られるブランデーの生産が不可能となる。ウィスキーの躍進開始。なお19世紀後半にはガラス製品の大量生産が可能になったことにより、ウイスキーを詰める容器としてガラス瓶が定着するようになった。
    *これをきっかけにスコットランドブレンデッドウイスキーはロンドンの上流・中産階級に飲まれるようになり、さらにイギリス帝国全域に普及していった。1877年にグレーンウイスキー業者6社が設立したDCL社(現・ディアジオ)はスコッチ・ウイスキーの輸出を推し進め、ワインとブランデーの流通が再開するまでの間に世界各地に市場を確立することに成功した。1890年代はスコッチ・ウイスキーの第1の繁栄期と評されるが、蒸留所の建設が相次ぎ生産過剰となったことで1898年にブレンド会社大手のパティソンズ社が倒産。その影響が業界全体に波及したことで繁栄期が終わりを迎える。

  • 一時期はアイリッシュウイスキーが世界のウイスキー市場のシェアの6割を占めていたが、1919年にアイリッシュウイスキーの主要な輸出先であるアメリカ合衆国禁酒法が実施されたために生産規模が縮小。多くの蒸留所が閉鎖され、大手の蒸留所も新製品の醸造を控えるようになった。また、アメリカで密造された粗悪品にアイリッシュのラベルが張られて密売されたために、アイリッシュウイスキー自体の評判も落ちていった。さらにアイルランド内戦で国内の経済力が低下したために多くの蒸留所が閉鎖された。

  • 戦後、アイルランド自由国の独立が達成されたが、独立の報復としてアイリッシュウイスキーイングランドとその植民地の市場から締め出しを受けた。

  • 続く第二次世界大戦ではアイルランドは中立の立場を取り、アイルランド国内の供給を確保するためにウイスキーの輸出が制限され、戦場の米兵にはスコッチ・ウイスキーが配給された。彼ら米兵は帰国後もスコッチ・ウイスキーを愛飲し、アイリッシュウイスキーはアメリカでの優位をスコッチ・ウイスキーに譲ることとなった。

  • 1950年代に入ると蒸留所の閉鎖、合併が相次ぐが、一方でこの時代にはシャノン空港のバーテンダーであるジョー・シェリダンが考案したカクテル「アイリッシュ・コーヒー」が空港の利用者に好評を博した。米国の新聞記者が帰国後に行きつけのバーでアイリッシュ・コーヒーを作らせたことをきっかけに、世界中に広まった。アイリッシュ・コーヒーの流行によってアイリッシュウイスキーの需要は増えるが、反面コーヒーへの添え物というマイナスのイメージも加わった。

  • アイリッシュウイスキーだけに見られるのが、ピュアポットスティルウイスキー(100%大麦を使いながらモルトしたものとしないものを両方使い、ポットスティルで蒸留する)である。「生の」モルトしない大麦を使うことでピリッとした味わいになり、これがアイリッシュウイスキーを独自の味わいにしている。シングルモルトのようにピュアポットスティルは売られたりグレーンウイスキーをブレンドしている。蒸留所の責任者たちはピュアポットスティルウイスキーに強い愛着を持っており、この傾向はブレンデッドウイスキーが一般的になる1960年代以降も顕著だった。

  • ピュアポットスティルウイスキーの持つ価値が薄れ、アメリカの市場に向けてスコッチ・ウイスキーと同タイプの軽い味わいのブレンデッドウイスキーを生産する必要に迫られると、1960年代から1970年代の間にかけてブレンデッドウイスキーの生産が開始される。アイルランドで操業している蒸留所が少ないため、グレーンウイスキーと混ぜる原酒の種類はスコッチ・ウイスキーに比べて乏しいが、新ミドルトン蒸留所で作られるピュアポットスティルウイスキーを原酒とするブレンデッドウイスキーは、スコッチ・ウイスキーに無い独特の風味を持っている。

  • 1966年にライバル同士だったダブリンのジョン・ジェイムソンとジョン・パワー、南部のコークが合併し、IDCアイリッシュ・ディスティラーズ・カンパニー)が結成された。1971年にはブッシュミルズIDCに加わってIDG(アイリッシュ・ディスティラーズ・グループ)が誕生し、1980年代初頭に操業していたのはミドルトンとブッシュミルズの2つのみとなる。1987年に独立系の蒸留所を設置する国策によってクーリーが操業を開始、2007年にかつて閉鎖されたキルベガンが操業を再開し、現在は4つの蒸留所でそれぞれで異なるアイリッシュウイスキーが造られている。

アイリッシュウイスキーは蒸留回数が多いために滑らかな味わいに仕上がり、ピートが焚かれないために原料の穀物が持つ芳醇な香りが引き出されている。生産国であるアイルランドのパブでは、アイリッシュウイスキーはショットグラスでストレートのまま飲まれている。ほとんどのアイリッシュウイスキーは、スコッチ・ウイスキーのようなピートに由来するスモーキーフレーバー(土煙の臭い)がない。その例外としては、クーリー蒸溜所で作られる2回蒸留のカネマラが知られている。カネマラにはピートで焚かれた麦芽が使われているため、スモーキーフレーバーが含まれている。 

そういえばアメリカにおいて地道な運動を続けて禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)時代を終わらせたのもまたアイルランド系アメリカ人達でした。そもそも彼らはユダヤ系移民と並んで一時期ニューヨークを完全支配下に置いていたタマニー・ホール(Tammany Hall、1790年代〜1960年代)の重要構成員だったりもしたのでした。

タマニー・ホール(Tammany Hall)

1790年代から1960年代にかけてに存在したアメリカ民主党の派閥、関連機関。

  • 慈善団体タマニー協会(Tammany Society、Society of St. Tammany、Sons of St. Tammany、Columbian Orderとも)を前身とし、19世紀初頭にはニューヨーク市議会における民主共和党勢力の中心として台頭するが、本部機能を有するホールが東14丁目に完成した1830年頃から民主党に合流。以後、当時拡大の一途を辿っていた移民居住地区を票田としながら、同市政を牛耳るマシーンにまで成長を遂げる。
    *タマニー・ホールの支持基盤は増加する一方の移民にあり、しばしば援助と引き換えに政治的支援を確保していた。ニュー・ディール政策以前のアメリカにあっては、ホールを含む都市部のマシーンが提供する超法規的なサービスが事実上の社会福祉の役割を果たした。対象となる移民は多くが極貧層であった上、行政からの支援も十分とは言えなかったため、様々な面で援助を行った。まず、緊急時に備え食糧や石炭、金や仕事をはじめ当面の生活手段を提供した。市民生活への関与の例としては、ジョージ・ワシントン・プランキットの逸話が挙げられる。彼は住宅火災の犠牲者救済や貧困家庭の家賃を肩代わりしたのみならず、支持者の葬儀や結婚式にまで足を運んでいたという。 また、各種選挙に投票するにも国籍が必須なため、移民に対して帰化の支援を行うなど社会的統合を促した。違法紛いの手段ではあったが頻繁に行われたものとしては、ウィリアム・M・トウィード時代に設置された帰化委員会がある。この委員会では帰化に必要な料金を肩代わりするとともに保証人を確保し、場合によっては係員に圧力を掛けてまで手続きを行わせていたとされる。

  • 1854年のフェルナンド・ウッドから1932年のジョン・P・オブライエンに至るまで市長を輩出したほか、1928年には幹部でニューヨーク州知事のアル・スミスが民主党の大統領候補に選出され殷賑を極めた。

  • 一方、買収及び供応を含む移民に対する集票工作が政治腐敗を招き、1800年代半ばのウィリアム・M・トウィードが会長を務めていた時代には悪名を轟かせるなど、「タマニー・ホール」と言えば票の買収操作の代名詞となる。

  • こうして20世紀に入ると市政改革運動や1934年の市長選で共和党及び民主党内の改革派が共同で擁立した候補(フィオレロ・ラガーディア)に敗北したのを契機に勢力が減退。

1950年代にカルミネ・デサピオにより小規模ながら再興が成ったものの、1960年代にはエレノア・ルーズベルトやハーバート・レーマン民主党内の反主流派によるニューヨーク民主党有権者委員会の内紛劇を経て活動を停止した。

こうした展開を経て「コンビーフとキャベツがアイルランド人の主食」なる誤解が世界中に広がっていく事になりました。

コンビーフ (corned beef)

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牛肉を塩漬けにした食品。日本やブラジル、アルゼンチンでは缶詰にした物が多い。日本農林規格(JAS)では、「畜産物缶詰又は畜産物瓶詰のうち、食肉を塩漬(せき)し、煮熟した後、ほぐし又はほぐさないで、食用油脂、調味料、香辛料等を加え又は加えないで詰めたものをいう」と定義される。そのまま食べたり、サンドイッチや炒め物などの材料にしたりする。

  • 日本では一般にほぐした牛肉の缶詰のことであるが、本来は長期航海用や軍需品として使うための保存食料である塩漬け牛肉を指す。そのため欧米では、缶詰ではなくほぐした状態でもない、ブロック肉状態でイメージされる。実際、18世紀末から19世紀初頭にかけての海戦を扱った英国人作家セシルコット・フォレスター(1899年〜1966年)の「ホーンブロワーシリーズ(1948年〜1968年)」では英国軍艦が寄港の都度牛を丸ごと購入して塩漬けを製造する景色が活写されている。幕末琉球王朝に寄港した英国海軍も補充物資として牛を要求し、それをマストから釣り下げて干していた。

  • 「コーン」は現在はトウモロコシを指すが、スコットランドでは穀物全般ひいては一般に粒状のものを意味した。「corned」とは、肉を岩塩を砕いた粒状の粗塩で漬けることを意味する。

  • 日本の消費者には市販されているコンビーフは先細りの缶(英語:tapered can)で形が台形の缶(英語:trapezoid-shaped can)が馴染み深い。日本で近世に使われ始めた箱枕に似ており、「枕缶」と呼ばれる。

  • 1875年、アメリカの食品会社・リビー(Libby's)が、薄切りを作る為に中身を一つの塊として取り出しやすい缶として発明し、採用したとされている。開缶は、缶付属の「巻き取り鍵(まきとりかぎ)」などと呼ばれる缶切りの一種で缶側面の一部を帯状に巻き取って行う。当時は、欧米で缶詰が普及するきっかけとなったと言われている第一次世界大戦の前で、一般人が安全に開缶できる缶切りは普及していない。 尚、同様の分野の商品とされるランチョンミート缶の類が世に登場するのはコンビーフ缶の数十年後で、枕缶は使われていない。例えば、アメリカのホーメルフーズ社(Hormel Foods Corporation)がスパム(SPAM)を生産開始したのは1937年である。

  • 日本では1948年に国産コンビーフの市販を瓶詰めで初めて開始した商社・野崎産業の食品部門(現・川商フーズ)が1950年に国産初のコンビーフ缶詰を発売している。この商品の開発と製造は日東食品製造(現・日東ベスト)が担当。 枕缶を使う理由として、製造する際に面積が大きい側から肉を詰め、缶内部の空気を抜く(脱気する)事で肉の酸化を防止できるとしている。一方、製造時に食品を入れた容器を密封前に加熱して内部の空気を抜く事は「加熱脱気」と呼ばれる。加熱脱気は密閉容器を使って食品を長期保存する発明の基本原理である。この方法は簡易なものになる場合が有るが、家庭で瓶詰めを手作りする際にも使われる。 日本で生産された缶詰の出荷量が輸出より国内向けが多くなるのは昭和30年(1955年)以後とされる。国産コンビーフ缶詰が発売された頃の日本国内での缶詰の普及状況は、先に述べたアメリカと似た様なものであった。

  • 枕缶の人気は圧倒的に高いとされバリエーションが存在する。標準的な丸型の缶詰は"ノザキのコンビーフ860g"、"ノザキのニューコンミート860g"や、自衛隊の副食用缶詰の一種として防衛省仕様書(DSP-Defense Specifications)番号N 5106で定義されるコーンドミート缶詰等、少数派となっている。しかし枕缶には、巻き取り鍵を失くしたり、開ける途中で缶の帯が千切れる事がある、開缶方法が分からない人がいるなどという問題点が有り、プルトップ缶とも呼ばれるEO缶が発売されている。缶詰は容器のままの保存がしにくい、ゴミ分別に手間が掛かるなどの不便を解消した事などをアピールした可燃容器入りの商品も販売されている。

  • アルゼンチンやブラジルなどでも缶詰にしたものが主流で、牛肉をほぐさず茹でる方法で調理される。イギリスでは第一次世界大戦の頃から同陸軍や同海軍でこの缶詰が食料として用いられていた。ウルグアイでは”フライベントス(Fray Bentos)”の名前で1873年よりイギリスなどへ輸出され始めた。
    *フライベントス(Fray Bentos)ウルグアイ西部,リオネグロ県県都。首都モンテビデオの北西約 270km,アルゼンチンとの国境をなすウルグアイ川にのぞむ河港都市で,ネグロ川の流入点よりやや上流の沿岸に位置する。 1859年建設され,1861年同国最初の大規模な食肉加工工場が設置されてから急速に発展。

  • アメリカやヨーロッパで一般的な生コンビーフの料理としてはルーベンサンド(Reuben sandwich)と呼ばれるサンドイッチが有名である。またアイルランドでは稀だが、キャベツと煮こんだコンビーフ・アンド・キャベジ(Corned Beef & Cabbage)がアメリカのアイルランド料理の定番となっている。またアイリッシュベネディクト(Irish Benedict)なる料理でもコンビーフが使われる。

  • ニューコンミート(旧称・ニューコンビーフ…日東食品製造が馬肉を中心とした雑肉を主原料とする缶詰を開発し、発売元の野崎産業が自社名を冠して「ノザキのニューコンビーフ」という商品名で昭和36年(1961年)に発売した。1缶が100円台で入手可能なことから、B級グルメの材料などに用いられることも多い。ニューコンミートを使った料理のレシピはウェブで検索結果を多数得られる。農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(JAS法)の2005(平成17)年6月改正で、日本農林規格JAS)における缶詰の表示を定めた「畜産物缶詰及び畜産物瓶詰の日本農林規格」[2]他の関連する基準も改正された。これによってコンビーフの名称は牛肉100%の物のみに使用できることとなり、馬肉など他の肉が使われている物はコーンドミートと表記するように定められた。またコーンドミートの内、馬肉と牛肉が使われており、そのうちの牛肉重量が20%以上の物はニューコーンドミートもしくはニューコンミートと表記することが許可された。2006年(平成18年)3月の法律施行にあわせ、「ノザキのニューコンビーフ」は「ノザキのニューコンミート」と名称が変更された。 前述の通り、野崎産業は合併・分社化などの再編を経て食品部門は2014年現在、JFEグループのJFE商事の100%子会社である川商フーズとなっており「ノザキの~」のブランド名を継承している。日本の商標制度に於いて商標権は設定していない。

  • コンビーフハッシュ…ほぐしたコンビーフと茹でて細かく賽の目に切ったジャガイモを混ぜ合わせた食材である。缶詰の他、1食分のレトルトパウチなどで販売されているアメリカ合衆国ではポピュラーな食材であるが、日本では沖縄県においてのみ非常に普及しており、県産品も製造されている。朝食の卵料理の付け合せに使用されるほか、野菜炒めやチャンポン、焼きそばなどの具材として、また、マヨネーズと混ぜてパンに塗るなどの方法でも利用されている。小判状にまとめて焼いたり、コロッケとして調理する食べ方もある。ジャガイモが入っているため「畜産物缶詰及び畜産物瓶詰の日本農林規格」等の基準では「コンビーフ」に該当せず、「牛肉野菜煮」と表示されている。

  • 太平洋戦争とコンビーフ会田雄次の著書「アーロン収容所」によれば、イギリス軍の日本兵捕虜収容所内における給食の中でも、飯盒で炊いたごはんにコンビーフを混ぜたものがご馳走として日本兵に喜ばれたという(ただし中には戦場で目にしたウジの湧いた死体を連想して食欲を失った者も多かったという)。また、大岡昇平の著書「俘虜記」においても、レイテ島の捕虜収容所の給食としてコンビーフを混ぜた粥が提供されている。

因みに、4月6日の「コンビーフの日」は1875年同日にアメリカで枕缶の特許が認められた事が由来である。 また、3月17日の聖パトリックの祝日(St Patrick's Day)はカトリックにおける祭日であり、アイルランド共和国の祝祭日であるが、アメリカではこの日の祝日前の2週間で年間に消費するコンビーフ4700万ポンドの半分が消費され、黒ビールが飲まれるので一部では「コンビーフ・アンド・キャベジ・デー」という記念日扱いする場合がある。 

キャベツ(Cabbage、Brassica oleracea var. capitata)

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アブラナ科アブラナ属の多年草。野菜として広く利用され、栽培上は一年生植物として扱われる。名前は英語に由来するが、さらにその語源はフランス語のcaboche(頭)から。別名の甘藍(かんらん)は中国語名の甘藍(gānlán)から、玉菜(たまな)は結球する性質に由来する。

  • 古代よりイベリア人が利用していた原種がケルト人に伝わり、ヨーロッパ中に広まったとされるが、当時は野菜より薬草として用いられ、古代ギリシャ古代ローマでは胃腸の調子を整える健康食として食されていた。

  • アテネのエウデモスが書いた『牧場論』に最初のキャベツの記述が見られる。初期の栽培品種にはブロッコリーのような茎があったが、ローマ時代に改良が進み、茎はなくなり大型化していった。

  • その後、9世紀頃に野菜としての栽培が広まった。現在日本で普及しているものは、12世紀から13世紀のイタリアで品種改良されたものが起源とみられる。

18世紀にアメリカ合衆国へ渡ると、より肉厚で柔らかく改良が進んだ。

ルーベンサンドあるいはルーベンサンドイッチ(Reuben sandwich)

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ライ麦パンにコンビーフ、ザワークラウト、スイスチーズ、ロシアンドレッシングまたはサウザンドアイランドドレッシングを挟んでグリルしたホットサンドである。ニューヨークの定番サンドイッチおよび名物料理の1つに挙げられるが、その起源についてはいくつかの説がある。

  • アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハの食料商ルーベン・クラコフスキー(Reuben Kulakofsky)が発明した。名はルービン(Reubin)と表記されたり、姓がケイ(Kay)と省略されることもある。ルーベンの参加するグループは1920年頃から1935年まで毎週ブラックストンホテルでポーカーを楽しんでいた。このホテルのオーナー、チャールズ・シンメル(Charles Schimmel)がグループに加わったことで、グループ内だけで食べられていたコンビーフのサンドイッチがブラックストンホテルの昼食メニューに出されるようになり、人気が出た。

  • ニューヨークのデリカテッセンルーベンズ・レストランのオーナー、アーノルド・ルーベン(Arnold Reuben)が1914年頃、有名なブロードウェイ女優が訪れた際に料理が何も残っていなかったため、即興的に作った。

具材には、コンビーフの代わりにパストラミ、ザワークラウトの代わりにコールスローを用いるなど、バリエーションが豊富に存在する。ちなみにザワークラウトの代わりにコールスローを用いたものはレイチェル・サンド(rachel sandwich)と呼ばれ、さらにコンビーフの代わりにターキー(七面鳥)を使ったりする。

ザワークラウト (Sauerkraut)

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キャベツの漬物。それを使った料理も指す。原義はドイツ語で「すっぱいキャベツ」。この酸味は乳酸発酵によるもので、酢に漬け込むのではない。ザウアークラウト、ザオアークラオトと表記されることもある。

  • ビタミンCを含む保存食として、レモンなどの果実や果汁と並んで伝統的に長い航海の壊血病予防食として利用された。キャベツ自体に豊富なビタミンCが含まれており、加熱しないことでビタミンCが壊れず、乳酸発酵によってさらにビタミンCが生成される。果物が豊富に収穫できない寒冷地では、デンプンで保護されて加熱してもビタミンCが壊れにくいジャガイモと並んで貴重なビタミンC摂取源となっている。ただし生のままならば豊富にビタミンCを含むが、缶詰にして加熱殺菌すれば豊富なビタミンCも熱でかなりの量が壊れてしまう。煮込んだ場合も同様。

  • 英語ではサワークラウト、仏語ではシュークルート、オランダ語ではズールコール、ポーランド語ではキショナ・カプスタ、ロシア語ではカプースタ。フランスのアルザス地域やポーランドをはじめ北欧、東欧、ロシアでも食されているほか、ドイツ移民の多いアメリカ合衆国、カナダなどでもよく食べられている。1世紀には古代ローマで食べられていた記録があるが、現代のものは16世紀から18世紀にかけてヨーロッパに広く定着した。

  • その酸味は空気中の乳酸菌などによる発酵で生じるもので、酢などの酸味料は加えない。産地や各家庭において作り方はさまざまであるが、基本的にはキャベツや赤キャベツを繊切りにし、瓶や漬物樽に入れ、適量(キャベツの重量の2%程度)の塩と香辛料を入れてよく混ぜたのち、漬物石など重しをのせて押しをかけ、常温で保管する。夏季なら3日、冬場でも一週間程度で酸味が出て食べごろになる。香辛料はジュニパー、ディルシード、キャラウェイシードなどがよく使われる。また塩とともに白ワインを加えて漬け込まれることもある。
  • 似た料理にキャベツを丸ごと漬け込み乳酸発酵させた酢キャベツがある。後述のサルマ・サルマーレに使われるのはこちらである。

 ソーセージなどの肉料理をはじめとした色々な料理の付合せとしてよく用いられドイツ国内でも地方によって調理法や食べ方が異なる。

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  • 代表的な料理に、ドイツ語でシュラハトプラッテ (Schlachtplatte)、フランス語でシュークルート・ガルニ (Choucroute garnie)、アルザス風シュークルート (Choucroute d'Alsace) がある。これは数種類のソーセージおよび数種類の部位の豚肉、特に腿肉(ドイツ語でアイスバイン、フランス語でジャレ・ドゥ・ポール (Jarret de porc))をザワークラウトの上に乗せて蒸し焼きにしたものである。

  • また魚を載せた料理もある。これは海魚に限らず、ドイツのライン川ドナウ川、フランスのロワール川沿いなどでは、鱒や鯉などの川魚も良く用いられる。場合によってはカツレツ状に衣を着けて揚げてあり、クリームソースをかけて食べることが多い。

  • フランスではシュークルートと呼ばれ、アルザス地域圏の料理とされており、果実味の強い白が特徴のアルザスワインを合わせて飲むことが多い。またアルザスに限らずロワールなど他の地方でもシュークルートは良く用いられる。地中海沿岸ではシュークルート・ドゥ・ラ・メール (Choucroute de la mer) といって、海の魚介類を乗せた料理も見られる。

  • その他、油で炒めたり、スープやロシアのシチーなどの煮込み料理の材料としても用いられる。また、サンドイッチに挟むのもポピュラーな食べ方である。塩漬けした牛肉と共にパンにはさんだものはルーベンサンドといわれ、ニューヨークの名物料理の一つである。ホットドッグの付け合せとしても一般的である。ドイツからフランスなどへ移住したユダヤ人の料理としても用いられるが、ユダヤ教では豚肉を食べることが禁じられているため、乗せる具は子牛の肉や魚が用いられる。東欧ではロールキャベツ(サルマ、サルマーレ)にも使われる。

  • ベトナムにはザワークラウトと同じようなキャベツの漬け物がある。漬物甕にキャベツを入れ、水と塩と砂糖を加え、フタをしてそのまま2 - 3日おくと酸っぱい漬け物ができあがる。

 ザワークラウトは代表的ドイツ料理として、ドイツやドイツ人との連想性が高かった(ドイツ・フランス・ロシア文学にはしばしば登場する)。そのため、ドイツおよびプロイセン人に対するイメージが悪化した時期には、ザワークラウトはドイツ人への蔑称として使われる場合があった。第一次・第二次世界大戦の英米軍では、ドイツ兵を指すのに「クラウト(「キャベツ野郎」程度の意)」という蔑称を使った。また第二次大戦中の米国ではザワークラウトの生産業者は交戦国ドイツの敵性的なイメージをぼかすため「フリーダムキャベツ」という名前で販売を行った。米軍のイラク戦争介入に反対したフランスへの悪感情が高まった21世紀初頭のアメリカで、一時期フレンチフライが「フリーダムフライ」と呼ばれたのに似た現象といえる。戦後においても1960年代後期に台頭したロックバンドたちの特異な音楽性をさして「クラウトロック」という呼称が用いられることもあった。こちらは必ずしも蔑称ではない。

コールスロー(coleslaw)

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細かく切ったキャベツを使ったサラダの一種。ニンジンが入っていることも多い。ほかにも赤キャベツを使ったものや、パイナップルやリンゴなど果物が入っているものなどがある。

  • その歴史は長く、おそらくは古代ローマの時代から食べられてきたと考えられている。しかし近代的なコールスローの人気が高まったのは18世紀になり瓶詰めのマヨネーズが発明されてからであった。

  • 英語の「コールスロー (coleslaw)」という名前は18世紀ごろにオランダ語の "koolsalade"(キャベツサラダ)を短縮した「コールスラ (koolsla)」から生まれたものだが、1860年ごろまでのアメリカ合衆国とイギリスでは誤って "cold slaw"(冷たいスロー)と呼ばれており、ホットスローという温サラダが作られることもあった。英語の "cole" には本来ラテン語から派生したキャベツの意味があり、これはまたオランダ語 kool の語源ともなっている。

  • その後 "cole" の意味が復活して英語でも coleslaw と呼ばれるようになった。今ではこの "slaw" の部分が独立してひとつの単語のように扱われることも多く、キャベツ以外の野菜を用いた「コール」スローでない別のスロー(ブロッコリースローなど)も知られている。

  • ドレッシングとしてはかつてはサラダ油と酢あるいはヴィネグレットが使われたが、現在では、地域によって差はあるものの、ほとんどの場合マヨネーズ(あるいはその代替品)が使われている。マスタードやセロリの種などさまざまな香辛料が使われることもある。食べる数時間前にキャベツをドレッシングと和え、味をなじませることが多い。キャベツはみじん切りにすることが多いが、千切りにする場合もある。

通常バーベキューやフィッシュ・アンド・チップス、フライドチキンなどの付け合せとして食べられる。米国南部ではよくナマズのフライとともに供される。この地方ではまたコールスローがサンドイッチの具材になることが多く、南部風バーベキューのサンドイッチやハンバーガー、ホットドッグにも使われている。またルーベンサンドのバリエーションのレイチェル・サンドイッチにも使われることがある。スウェーデンでは、ピザの付け合わせにはほとんど必ずコールスローが出される。

エッグベネディクト(Eggs Benedict)

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原則としてイングリッシュ・マフィンの半分に、ハム、ベーコンまたはサーモン等や、ポーチドエッグ、オランデーズソースを乗せて作る料理である。その発祥には諸説ある。

  • ザ・ニューヨーカー』のコラム『Talk of the Town(街の話題)』での、ウォールストリート株式仲買人レミュエル・ベネディクトへの、彼の亡くなる前年である1942年のインタビューによると、1894年にウォルドルフホテルを訪れ、二日酔いを直すために『バターを塗ったトースト、ポーチドエッグ、カリカリに焼いたベーコンと一口分のオランデーズ』を注文した。「ウォルドルフのオスカー」として知られる支配人のオスカー・チルキー (Oscar Tschirky) がこの料理に感銘し、ベーコンとトーストをハムとイングリッシュ・マフィンに替えて、朝食とランチのメニューに採用した。

  • クレイグ・クレイボーン (Craig Claiborne) は、1967年9月の『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』のコラムでフランスに移住したアメリカ人、エドワード・P・モンゴメリーからの手紙を紹介した。モンゴメリーは、この料理は1920年に86歳で亡くなった銀行家でヨット乗りのイライアス・コーネリアス・ベネディクトが作ったと述べた。モンゴメリーはまた、イライアスの友人である伯父から母が受け取ったとするエッグベネディクトのレシピを一緒に送った。

  • 1967年11月にマサチューセッツ州ヴェニヤード・ヘブンのメーベル・C・バトラーは、モンゴメリーの主張に対し、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』で「ル・グラン・ベネディクト夫人にまつわる周知の真実」として彼女が考案者であると述べた。“ ベネディクト夫妻は、1900年頃ニューヨークに住んでいたとき、毎週土曜日にデルモニコスで食事していた。ある日ベネディクト夫人は支配人に「何か新しくて変わった料理はないの?」とたずねた。支配人がこれに応じて彼女の好みを尋ね、焼いたイングリッシュ・マフィンとハムの上にポーチドエッグを乗せ、オランデーズソースとトリュフを添えることを提案した。 ”

参考文献(日付は出版日時)

  • 1898年 - 『Eggs, and how to use them 』の、エッグベネディクトのレシピ。「小さなマフィンを半分に切ってトーストする。それぞれに丸いハムの薄切りを焼いて乗せ、ハムの上にポーチドエッグを乗せる。適量のオランデーズソースを添える。」

  • 1900年 - 『The Connecticut Magazine: an Illustrated Monthly, Volume VI 』のエッグベネディクトのレシピは、「3番目の種類がエッグベネディクトと呼ばれる。小さなパンのサイズに切って煮たハムの薄切りを焼く。パンの薄切りをトーストし、バターを塗り、水分を加える。ハムを乗せ、ポーチドエッグを乗せる。一つずつ配る。」

  • 1907年 - 『Many Ways for Cooking Eggs 』には、マフィン作りからのエッグベネディクトのレシピがある。酵母を使うイングリッシュ・マフィンと異なり、このレシピはベーキングパウダーとメレンゲを使用して発酵させる。しかしながら、変わらずマフィンコンロで焼く。続くレシピでは、「ハムの薄切りを焼く。オランデーズソースを作る。トリュフを切る。必要分のポーチドエッグを作る。マフィンを皿に盛りハムを乗せ、ポーチドエッグを乗せる。卵にオランデーズソースをかける。トリュフを少々ふりかけ直ぐに供する。」

  • 1914年 - 『The Neighborhood Cook Book 』でのエッグベネディクトのレシピは、「トーストの上に軽く焼いたハムを乗せる。ハムにポーチドエッグを乗せ、オランデーズソースをたっぷりかける。」

  • 1918年 - 『Boston Cooking-School Cook Book 』のエッグ・ア・ラ・ベネディクトのレシピは、「イングリッシュ・マフィンを半分に切りトーストする。茹でたハムの丸い薄切りをソテーする。マフィンの半分にハムを乗せ、落とし卵でアレンジし、オランデーズソースをかける。ソースはかけやすいように、クリームを加える。」

  • 1919年 - 『he Hotel St. Francis Cook Book 』のエッグベネディクトのレシピは、「イングリッシュ・マフィンを2つに切り皿に盛る。それぞれに焼いたハムを、ハムの上にポーチドエッグを乗せ、オランデーズソースをたっぷりかける。ソースにトリュフの薄切りを添える。」

  • 1938年 - Haill Hayden's Hollandaise (6オンスで50セントの瓶入りオランデーズ)の広告がニューヨーク・タイムズに掲載された。「今まで知られていないソースが現れた。それを味わうと、有名シェフは卵とき器を壊して嫉妬に涙した! チモシーとアルファルファの香りがするバター、親鳥がまだ泣き続けている卵、レモンと刺激的なスパイスで作られる! 1滴の油も代用品も含まれない。カリフラワー、アーティチョーク、レタス、エッグベネディクト、魚にかけ「ブロッコリーブロッコリー」と歌って食べよう。」

  • 1942年 - 『ニューヨーク・タイムズ』のインタビューで、レミュエル・ベネディクトが二日酔いを直すために、ウォルドルフホテルで注文して考案したと主張した。

  • 1960年 - エリザベス・デイビッドが『French Provincial Cooking 』を出版し、ほとんど同一の伝統料理ウ・ベネディクティヌ(œufs bénédictine )について述べた。

  • 1967年 - クレイグ・クレイボーンが『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』で、エドワード・P・モンゴメリーからの、エッグベネディクトをコモドール・E・C・ベネディクトが考案したと書いた手紙を紹介した。

  • 1967年 - 『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』でメーベル・C・バトラーはモンゴメリーの主張に対し、ル・グラン・ベネディクト夫人がデルモニコスでの注文でこの料理を考案したと述べた。チャールズ・ ランフォーファーの料理本『The Epicurean 』最新版に「エッグ・ア・ラ・ベネディク」のレシピがあるが、このレシピは1894年の初版には含まれない。1876年から1879年の間、チャールズ・ ランフォーファーは1862年から1896年に引退するまでデルモニコスのシェフであった。

レストランや地域により、エッグベネディクトには多くの種類がある。

  • シーフードベネディクト…ハムの代わりにカニ、小エビ、ロブスター、またはホタテガイを使う。

  • エッグプラックストーン…ハムを脂身入りベーコンに替え、トマトの薄切りを加える。

  • エッグフロレンティーン(フィレンツェ風)…ハムの代わりにホウレンソウを使う。旧式のエッグフロレンティーンは、ポーチドエッグ、溶き卵にホウレンソウを加えモルネーソースを添える。

  • エッグユサルド…イングリッシュ・マフィンの代わりにオランダのラスクを使用し、マルシャン・ド・ヴァンを加える。

  • サーモンベネディクト(エッグパシフィカ、エッグモントリオール、エッグロワイヤル)…ベーコンの代わりにスモークサーモンを使う。

  • パシフィック・ノースウエスト・エッグベネディクト…焼いたイングリッシュ・マフィンにアラスカ産天然スモークサーモンにポーチドエッグを乗せ、オランデーズソースを添える。マフィンをダンジネスクラブ(アメリカイチョウガニ)のクラブケーキに替える場合もある。

  • エッグサルドゥ…イングリッシュ・マフィンとハムの代わりにアーティチョークをベースにアンチョビの切り身を使い、刻んだハムとトリュフ薄切りにオランデーズソースを添える。この料理はニューオリンズのアントワーヌレストランが劇作家ヴィクトリアン・サルドゥに敬意を表して作った。この料理の世界的に普及したものは、クリーム和えのホウレンソウをベースとし、イングリッシュ・マフィンの代わりにアーティチョークを使い、ハムを使用しない。

  • アーティチョークベネディクト…イングリッシュ・マフィンの代わりに、窪みをつけたアーティチョークを使う。

  • カントリーベネディクト…エッグボールガールとしても知られ、イングリッシュ・マフィン、ハム、およびオランデーズソースを、ビスケット、ソーセージのパテ、カントリーグレイビー(ホワイトグレイビー)に替え、ポーチドエッグを目玉焼きに替える。

  • エッグベネディクトアーノルド…イングリッシュ・マフィンをビスケットに、オランデーズをカントリーグレイビーに替え、ポーチドエッグは使用せず固焼きの黄身を用いる。

  • アイリッシュベネディクト(Irish Benedict)…ハムをコンビーフ(コンビーフとキャベツの煮物は、アイルランドでは稀だが、アメリカのアイルランド料理として知られ、アメリカで年間に消費するコンビーフ4700万ポンドの半分が聖パトリックの祝日前の2週間に消費される)またはアイリッシュベーコン(バックベーコン)に替える。

  • エッグチェサピーク…ベーコンに替えてクラブケーキを使う。

  • ダッチベネディクト…ハムまたはベーコンをスクラップルに替える。ペンシルベニア州東地区で食べられる。

  • ベジベネディクト…ベーコンに替えてアボカドとトマトを使う。

  • エッグカールズバッド…ハムをアボカドに替える。カリフォルニア州、カールズバッドのDon's Country Kitchenで作られる。

  • ワッフルベネディクト…イングリッシュ・マフィンの代わりにワッフルを使用する。通常、オランデーズに加えてメープルシロップを添える。

  • まんまるたまごのハムサンド…日本ケンタッキーフライドチキンのモーニングメニューとして2009年より一部店舗にて販売されている。半熟のゆで卵とハムにオランデーズ風ソースと「英国伝統の味」チェダーチーズをかけて二分割したマフィンで挟んだサンドイッチ形式である。

  • エッグベネディクトロイヤルホストロイヤルホストのモーニングメニューとして2012年より販売されている。「ロイヤルホスト風」として、皿1枚に通常のエッグベネディクトと、イングリッシュマフィンに野菜とサワークラウトを乗せたものを盛っている。

今日のアメリカでは朝食やブランチの定番メニューとなっている。

どうやら米国の金鍍金時代(1865年〜1893年)におけるホテルの高級バー乱立と密接な関係がある模様。その一方で19世紀アメリカにアイルランド人が大量に渡ってきたのは…

ジャガイモ飢饉(英語: Potato Famine、アイルランド語:An Gorta Mór あるいは An Drochshaol)

19世紀のアイルランドで主要食物のジャガイモが疫病により枯死したことで起こった食糧難、およびそれによってもたらされた一連の被害を指す。アイルランドにおいては歴史を飢餓前と飢餓後に分けるほど決定的な影響を与えたため、"Great Famine"(大飢饉)と呼ばれている。

  • 1801年のグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の成立以降、アイルランド島は全土がロンドンの連合王国政府および連合王国議会による直接的な統治下に置かれていたが、イングランドのように製造業が発展せず、国民の大半は農業に依存していた。

  • アイルランド農民は兄弟全員が土地を分割相続できたため、農地の細分化が進んだ。

  • また小作農家たちは以前は主に麦を栽培していたが、地主に地代を納めなくてもよい自分らの小さな庭地で、生産性の非常に高いジャガイモの栽培を始めた。それによって、ジャガイモが貧農の唯一の食料となってゆき、飢饉直前には人口の3割がジャガイモに食料を依存する状態になっていたのである。そして1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。

この不作を飢饉に変えた要因は、その後の政策にあるといわれている。

  • ヨーロッパの他の地域では在地の貴族や地主が救済活動を行ったが、アイルランドの貴族や地主はほとんどがブリテン島に在住しており、自らの地代収入を心配するあまりアイルランドの食料輸出禁止に反対するなどして、餓死者が出ているにもかかわらず食料がアイルランドから輸出されるという状態が続いた。

  • 連合王国政府も、緊急に救済食料を他から調達して飢え苦しんでいる人々に直接食料を配給することを、予算の関係などから躊躇しただけでなく、調達した食料を(安値で)売るなどの間接的救済策に重点を置いた。さらに、政府からの直接の救済措置の対象を土地を持たない者に制限したため、小作農が救済措置を受けるためにわずかな農地と家を二束三文で売り払う結果となり、これが食糧生産基盤に決定的な打撃を与え、飢餓を長引かせることになった。

また当時はジャガイモ疫病への対策も十分ではなかった。

  • このジャガイモ飢饉の発端とされるジャガイモ疫病は、植物の伝染病の一種であるが、このような伝染病が蔓延するためには、感染源、宿主、環境の3つの要素が揃うことが必要である。ジャガイモが当初ヨーロッパに持ち込まれた時には、この中の感染源となる病原菌そのものがメキシコの特定の地域に限定されていて、ヨーロッパには未だ伝来していなかったものと推定されている。

  • その後、何らかの理由によりジャガイモ疫病の菌が北アメリカからヨーロッパに持ち込まれて急速に蔓延して、ジャガイモ作物に壊滅的な被害を与えることになった。当時はまだ、このような微生物が病気を引き起こすという考え方そのものが一般的に受け入れられていない時代であり、Phytophthora infestansがその原因となる菌であることが明らかにされたのは、さらに下って1867年、アントン・ド・バリーの功績による。当時のヨーロッパでは、疫病の存在自体が知られておらず、これがヨーロッパにおける最初の蔓延であった。

  • ジャガイモは通常、前年の塊茎を植えるという無性生殖による栽培法を用いるが、当時のヨーロッパでは収量の多い品種に偏って栽培されており、遺伝的多様性がほとんどなかった。そのため、菌の感染に耐え得るジャガイモがなく、菌の感染がそれまでにないほど広がった。ジャガイモが主食作物であった原産地のアンデス地方では、ひとつの畑にいくつもの品種を混ぜて栽培する習慣が伝統的に存在し、これが特定の病原菌(レース)の蔓延による飢饉を防いでいた。また現代の大規模農業でも収量の多い品種に偏って栽培される傾向は強いが、種芋の段階で防疫対策が取られているほか、品種改良によって耐病性を獲得させている。

記録によれば、飢饉の最もひどい時期においても食料はアイルランドから輸出されていた。アイルランドで1782年から1783年にかけて飢饉が起きた際は、港は閉鎖され、アイルランド人のためにアイルランド産の食料は確保された。結果、すぐに食料価格は下落し、商人は輸出禁止に対して反対運動を行ったが、1780年代の政府はその反対を覆した。しかし、1840年代には食料の輸出禁止は行われなかった。

  • アイルランド飢饉についての権威であるセシル・ウッドハム=スミス(Cecil Woodham-Smith)の著書 "The Great Hunger; Ireland 1845-1849" によれば「(前略)飢餓でアイルランドの人々が死んでいっている時に、大量の食物がアイルランドからイングランドに輸出されていたという疑いようのないこの事実ほど、激しい怒りをかき立て、この二つの国(イングランドアイルランド)の間に憎悪の関係を生んだものはない」。アイルランド飢饉の続いた5年間のほとんどを通して、食料の純輸出国であったのでる。

  • リヴァプール大学のフェローであり、飢饉に関する2つの文献、"Irish Famine: This Great Calamity" および "A Death-Dealing Famine"の著者であるクリスティーン・キニアリー(Christine Kinealy)によれば「子牛、家畜類(豚を除く)、ベーコン、ハムのアイルランドの輸出量は飢饉の間に増加していた。飢饉が起きた地域のアイルランドの港からは、護衛に守られながら食料が船で輸出されていた。貧困層は食料を買う金もなく、政府は食料輸出禁止も行わなかった」。

  • アイルランドの気象学者のオースティン・バーク(Austin Bourke)は著書 "The use of the potato crop in pre-famine Ireland" の中で、ウッドハム=スミスのいくつかの計算に異議を唱え、1846年12月の輸入量はほぼ2倍になっていると書いている。彼によれば簡単なその場しのぎの穀物アイルランドからの輸出禁止では、1846年のジャガイモの収穫を失ったことによる不足分に対応することは出来なかったのは明らかである。

この飢饉の間にどのくらいの死者が出たかは不明であるが、ヨーロッパを広範囲に襲ったコレラやチフスよりも多くの死者が出たとも言われている。当時国勢調査はまだ始められておらず、各地のカトリック教会に残された記録も不完全。さらにアイルランド国教会の記録の多くは(アイルランド国教会へのカトリック地方教会の十分の一税徴収の記録を含む)、1922年のアイルランド内戦の際にフォー・コーツ放火により焼失してしまった。ただ1850年代の最終的な人口との比較なら出来なくもない。

  • もし飢饉が発生しなければ、1851年にはアイルランドの人口は800万から900万人になっていたはずだと考えられている。1841年に行われた調査では、人口は800万人をわずかに超えていた。

  • 飢饉の発生した直後、1851年に行われた調査では、アイルランドの人口は6,552,385人であった。10年でほぼ150万人が死亡、あるいは国外脱出したと考えられる。
    *1841年から1851年にかけてアイルランド全体で20%(レンスター15.3%、マンスター22.5%、アルスター15.7%、コノート28.8%)の人口が減少。また、これにより婚姻や出産が激減し、最終的にはアイルランド島の総人口が最盛期の半分にまで落ち込んだ。

  • 現代の歴史家と統計学者は、病気と飢餓の影響で80万人から100万人が亡くなったと考えている。加えて、計200万人以上がアイルランド島外に移住・移民したと考えられている。
    *移住者は連合王国内のグレートブリテン島、ゴールドラッシュが発生していたアメリカ合衆国連合王国の植民地カナダ、オーストラリアなどへ向かった。特にアメリカ合衆国に渡ったアイルランド人移民はアメリカ社会で大きなグループを形成し、経済界や特に政治の世界で大きな影響力を持つようになった。この時代のアメリカへの移民の中には、ケネディ家の先祖も含まれていた。

アイルランドは西欧では唯一、19世紀の人口に比べ20世紀の人口が減少している国である。近年は経済成長などもあり増加傾向にあるが、2007年時点でアイルランド共和国北アイルランドを合わせた全島の人口はいまだに約600万人と、大飢饉以前の数字には及んでいない。

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1997年、イギリスのトニー・ブレア首相は、アイルランドで開催されていた追悼集会において、1万5千人の群衆を前に飢饉当時のイギリス政府の責任を認め、謝罪の手紙を読み上げた。これはイギリス政府の要人からの初めての謝罪であった。

沖縄独立派の中には「日帝が沖縄で計画的に起こしたソテツ地獄と全く同質の帝国主義的政策であり、これにより琉球民族は(アイルランド人が英国人に対してそうである様に)本土人をいかなる手段を用いて略奪しても強姦しても殺害しても国際社会から絶賛しかされないだけの大義名分を得た」と考える人もいる様です。ただソテツ地獄の方は餓死者を出すまでは至ってませんし、そもそもソテツは琉球王朝時代から不作時の非常食として頼られていたとも。

ソテツ地獄

大正末期から昭和初期にかけての沖縄県の経済的窮状をさすことば。当時の沖縄の人口の7割が暮していた農村部では、極度の不況の為に主食(サツマイモ・米)を確保することもできず蘇鉄(猛毒を含み、調理法を誤ると中毒死する)を常食とせざるをえないほどの苦境下にあったことからその名が生まれた。

  • 明治・大正の沖縄において唯一の換金作物は黒糖であり,その生産と価格は沖縄経済全体に大きな影響を与えていた。60万人ほどの人口のほとんどが農業生産に従事しており,農業経営の規模も1戸当り平均耕地面積が約7反,5反未満農家が全体の半数以上を占めていた。

  • 第一次世界大戦後の戦後恐慌に端を発する長期不況は、全国の都市と農村に大きな打撃を与えたが、とりわけ生産基盤の脆弱(ぜいじゃく)な沖縄県では深刻な事態が発生した。県の基幹産業である糖業が糖価の暴落により不振に陥り、農業経営を大きく圧迫した。これに負担能力を超える高い租税が拍車をかけ、人身売買、移民・出稼ぎ者の急増を招いたのである。

  • 市町村財政も逼迫(ひっぱく)し、吏員、教員への給料未払いや金融機関の倒産も相次いでおこった。こうしたなかで沖縄救済論議が活発となり、政府も沖縄振興計画の策定を余儀なくされたが、抜本的な経済振興の達成をみることなく窮状は慢性化し、やがて沖縄戦(1945)を迎えるに至った。

当時は移民も急増。この時期の移民はJapaneseでなくOkinawanを名乗ってる事が多い。

奄美ではソテツ地獄どころか、ソテツガナシと尊称していたそうです。 - 安渓遊地

部外者としては「いっその事、ソテツ料理を観光資源にしちゃいえば?」とかも思っちゃうんですが、実際に口にすると必ず「何でも政治に結びつける人達」から包囲されて「日本人が貴様の様なレイシストばかりだから、沖縄人はもう独立するしかないのだ!! 世界に恥ずかしくないのか!! 一刻も早く一人残らず自殺しろ!!」とか連呼される羽目に…