諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ハプスブルグ家中心史観】【トマト料理の起源】【ナポリタン】【飯テロ】浅薄にして重厚なナポリ文化。「まるで大阪人の様に狡賢く曖昧な人達」?

イタリア半島南部の大半を占める「ピザ発祥の地ナポリの歴史上における最大の特徴。それはシチリア島と並んで「比較的まとまった広域行政単位として複数の君主の間で継承されてきた」点にあるとされています。
縮小する飲食業界の中で伸びるピザのブランド力 | 起業家.com

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ま、実際にはスイス人文化史家ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch、1860年)」ですら「未開発のまま放置された田舎部には山賊が闊歩し、ルネサンス期イタリア全体にとって暗殺者の格好の供給源となってきた」と述べられ、マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」に至っては「南イタリアは近代資本主義的発展から最も程遠い地域である」と名指しで罵倒されるくらい現代につながる暗黒面も抱えていた訳ですが、それはそれ。

ナポリ(Napoli)略史

ナポリ市は、紀元前6世紀古代ギリシア人(特にアテネ人)の植民活動によって建市されたと考えられている。「ナポリ」の語源はギリシア語の「ネアポリス」(新しいポリス)であり、最初に建設された植民都市パルテノペから数キロはなれた場所に新しく建設された町という意味である。

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1995年、世界遺産文化遺産)『ナポリ歴史地区』として登録される。

 スペイン継承戦争(Guerra de Sucesión Española、1701年~1714年)

スペイン継承戦争

18世紀はじめにスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた戦争(1701年 - 1714年)。また、この戦争において北アメリカ大陸で行われた局地戦はアン女王戦争と呼ばれる。ウェストフェリア体制下ではスェーデンと並ぶ有利な立場となったフランスだったが、スペインに手を伸ばした事で反対勢力を結束させてしまう。

  • スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世は生来虚弱体質で、子孫が生まれることを望めなかった。このため、フェリペ4世の娘でカルロス2世の姉マリア・テレサ(フランス名マリー・テレーズ、1683年死去。自身はフランス王家に嫁ぐ際にスペイン王位継承権を放棄)とフランス王ルイ14世(フェリペ3世の娘アナ(アンヌ)の子でもある)の子であるフランス王太子ルイ(グラン・ドーファン、後のルイ15世の祖父)が後継候補とされた。しかしフランス王位継承者がスペイン王となればフランスとスペインが将来同君連合となってしまうため反対が多く、フランス側からも王太子の次男(後のルイ15世の叔父)アンジュー公フィリップを後継者に推した。これに対して、スペイン王家とは同族で、フェリペ3世の娘マリア・アンナ(マリア・アナ)の子であるオーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世も候補になったが、これもスペインとオーストリアの合邦を招くため、レオポルト1世は末子のカール大公を候補者に推していた。

  • 各国の思惑が交錯する中、スペイン王カルロス2世は1700年11月に突如崩御したが、その遺言書にはフランス王孫フィリップに位を譲る旨が記されていたが、これはルイ14世の画策によるものであったという。ここにおいて、フランス・ブルボン家のアンジュー公フィリップがスペイン王フェリペ5世として即位したため、オーストリアはフランスの勢力拡大を恐れるイギリス、オランダと対フランス大同盟を結び、フェリペの即位に反対してフランス、スペインに宣戦布告。

戦争はまずオーストリアがスペイン領ミラノ奪還を目指してオイゲン公率いる軍を北イタリアに進撃させたことで始まった。

  • イギリスは新たに即位したアン女王のもとで、女王の友人サラの夫であるマールバラ公ジョン・チャーチルが司令官に任命されて大陸に派遣され、イギリス軍はオランダ軍と連合してフランドルに迫った。ポルトガルやドイツの諸領邦国家も同盟に加わったため、フランスは孤立無援に陥ったが、バイエルン公国の同盟を得てアルザスを占領、南ドイツに軍を派遣してオーストリアを脅かした。しかしこれに対してイギリスのマールバラ公が長躯南ドイツに至り、オイゲン公のオーストリア軍と連合してブレンハイムの戦いでフランスを破る(1704年)。

  • フランスは反撃をはかり、オーストリア側についたサヴォイア公国の首都トリノを攻囲したが、1706年にオイゲン公率いるオーストリア軍に敗れ、北イタリアを制圧された。またスペイン領ネーデルランド(現ベルギー)では、マールバラ公率いるイギリス軍にラミリーの戦いで敗れた。

  • スペインも、1707年にイタリア半島を南下したオーストリア軍にスペイン領のナポリ王国を占領された。さらにスペイン国内ではオーストリアの推す国王候補カール大公を支持してバレンシアカタルーニャがスペイン王室に反旗を翻したので、イギリス軍がジブラルタルを占領してこれを支援。スペイン軍はジブラルタルを長期間包囲したが、イギリス軍は執拗に持ちこたえる。

  • 1707年、フランス軍はフランドルに軍を集めてイギリス・オランダ軍に対する反抗を開始した。マールバラ公はこれに対してイギリス・オランダ・オーストリアの連合軍を結集し、アウデナールデの戦いでフランス軍を破った。

  • 翌1708年、ルイ14世は和平を提案したが、フェリペのスペイン王位継承をはじめとして連合国の認められない要求が含まれていたため戦争が再開され、マールバラ公はパリ進撃を目指してフランス領フランドルに侵入した。連合軍とフランス軍はマルプラーケの戦いで激突し、連合軍はフランス軍を敗走させたものの死傷者数万人の大損害を被り、戦線はフランドルで膠着。

この頃までに、オランダやドイツ諸邦は既に戦争の継続に倦んでおり、またイギリス国内でも和平を望む声が高まっていた。そこで1710年、自身がイギリスの戦争推進派の中心でもあるマールバラ公がアン女王の信任を失うと、イギリス政府も和平に傾き始めた。

  • 1711年、イギリスのマールバラ公は軍資金横領が発覚して失脚し、また同年にオーストリアのレオポルト1世の後を継いでいたヨーゼフ1世が死去し、弟でスペイン国王候補であったカール大公がオーストリア大公・神聖ローマ皇帝カール6世として即位すると、イギリスはカールのスペイン王位継承でハプスブルク家の大帝国が再現することを恐れ、フェリペ5世のスペイン王退位要求に消極的となった。

  • 1712年、イギリスとフランスとの間で和平交渉が開始され、フェリペ5世は将来のフランスとスペインの一体化の懸念を払拭するために、フランス王位継承権を放棄することを宣言した。

  • 同年、散発的に続いていたオーストリアとフランスとの戦闘でフランスが勝利(ディナンの戦い)を収めたことにより、全面的な和平の機運が高まった。これによりスペイン王家に反逆したバレンシアカタルーニャは反フランス同盟側から見捨てられ、フランス・スペイン軍に蹂躙された。

  • 1713年、各国はユトレヒト条約を結び、長年に及んだ戦争を終結させる。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)、ナポリ王国、ミラノを、サヴォイア公国シチリア(後にサルデーニャと交換)を割譲、イギリスはジブラルタルとメノルカ島及び北アメリカのハドソン湾アカディアを獲得し、反フランス同盟はその代償としてフランス王孫フィリップ(フェリペ5世)のスペイン王即位を承認した。1714年フランス王国とオーストリアとの間でラシュタット条約が結ばれた。

  • マールバラ公やオイゲン公の活躍によりフランスは各地で敗戦を重ねたが、反フランス同盟は足並みの不一致から全面的な勝利を収めることができなかった。特にオランダは、フランスの軍事的な強大化を恐れる一方で、貿易立国としてフランスとの経済関係が重視されていたので、フランスを完全に敗北させることを望んでいなかった。その結果、反フランス同盟の最大の目的であったフェリペ5世のスペイン王位継承は阻止することができなかったが、この戦争によって17世紀の西ヨーロッパで最強を誇ったルイ14世のフランス軍のヘゲモニーは抑制され、ヨーロッパの国際関係は新時代を迎えることになる。

こうして一旦はオーストリアの支配下に入ったナポリだったが、ポーランド継承戦争(1733年~1738年)を経てスペイン・ブルボン家出身のカルロ7世(1716年~1788年)の下でシチリア王国とともに独立を取り戻す(両シチリア王国の原型)。

早速問題となったのは「王国経営の方法」でした。

  • まず前段階の話。17世紀後半以降、ハプスブルグ家支配下において「法律家市民層(ceto civile(togato))」が官僚層として台頭。これ経由でアルプス以北(英・仏・蘭)の新思想(デカルトニュートン、ロック等)がナポリに伝わり、アントニオ・ジェノベージ(Antonio Genovesi 1713年~1769年)を始祖とするナポリ啓蒙運動が流行する。スコットランド啓蒙主義同様に「富と徳の関係」に関して激論が交わされる。
    経済学の最初の講義はナポリ大学から始まった
  • そして修道院長にして役人だったフェルディナンド・ガリアーニ (Ferdinando Galiani 1728年~1787年)が1759年から1769年までフランスのナポリ大使館に詰めており、同時代のフランス経済学者達の多くと知り合いだった。やがて(フランス革命が始まると守旧派に粛清されて消滅する)スコットランド啓蒙主義にも(フランス飢饉の時も「自然状態」がどうといった観念論に興じる事しか出来なかった役立たずの集まりに過ぎない)フランス重農主義にもNoを突きつけ、1751年の論文において効用と希少性の両方に基づく新しい価値理論を導入し「限界革命の始祖」となり、1770年の論文において国際収支に関するかなり現代的な分析を提供して(経済主体としての政府に関する真剣な分析と、自然価値に関する効用ベースの理論を特徴とする)イタリア効用主義の伝統の創始者の一人となる。立場的にはフランスの新コルベール主義やドイツの新官房学派に近く、実際ガリアーニは自著で国を「善意の独裁者」と呼んでいる。
    18世紀ナポリ王国における政治経済学の形成

こうした経緯からナポリでは「国家を経済の主体と見做し、国民の徴税負担を縦軸に、対価として国民が受ける公的サービスへの満足度を横軸に取った計測値に基づいて叛乱の勃発などを予防する」独創的な政治経済学が生み出される事になったのでした。

  • そもそも管理会計の概念を最初に洗煉させたのは「レパント交易の覇者」14世紀ヴェネツィアであり、文書主義に元ずく精密な官僚制はオスマン帝国起源とされる事から、ナポリではこれらの諸制度のバリエーションの一つを上手に組み上げただけとも。また「コルベット主義やオーストリア官房学といった絶対王制的綬金主義の批判的継承」という側面も見逃せない。

ヴェストファーレン条約とドイツ官房学の誕生」…「ドイツの重商主義(mercantilism:16世紀中旬~18世紀)」とも言われる官房学(独Kameralismus, 英Cameralism:17世紀~18世紀) )」の「官房(独Kammer)」は、ラテン語の "camera"(部屋・国庫)に由来し、当時のドイツでは領邦議会を意味しました。ウェストファリア条約によって神聖ローマ帝国が事実上解体されて以降、各領邦議会は自らの領邦を政治的・経済的に自立させるべく公的な支配地域の管理・行政を掌握したが実務遂行には「いかに君主の国庫を富ませるか」といった技術的方法論が不可欠で、各国や各領邦の経済や行政の管理に関わる諸原理を体系的にまとめる「官房学」という新たな研究分野が誕生したのです。ただしフランスで発達した初期コルベール主義同様(ナポリ政治経済学の影響を受けるまでは)素朴な重金主義が中心でした。

  • そもそもグロティウス「戦争と平和の法(1625年)」自体には国家を人間社会における様々な活動の主体として考える発想自体が存在しない。その意味では、こうした政治経済学にはまさに「ヴェストファーレン体制の落とし子」という側面が確実に存在する。

  • 絶対王制官僚達が重視したのは軍事力による交易と徴税の独占、徴税と国債発行によって国民から吸い上げた富を宮廷が戦争と文化活動に投資される構造によるインフレ抑制策であり、原風景として史上初めて「貨幣数量説」に到達しながらこれを国家経営に生かせなかったスペイン絶対王制のシステムの批判的継承という側面も?

  • 日本の江戸幕藩体制下でも初期には同様の動きが見られたが、戦国時代に楽市楽座を通じて選別・庇護されてきた現地御用商人達は元禄時代までに全国規模のネットワークを武器とする新興商業集団「株仲間」の競争で敗れ全滅してしまう。

「近代歴史哲学の創始者」ジャンバッティスタ・ヴィーコが主著「新しい学 Principi di scienza nuova(1725年)」を出版したのもまさにこの時代。「数学が無から仮説を積み上げた結果である様に、歴史は無から人間の行為事業を積み上げたものである」という定義はまさにこうした時代のナポリだったからこそ生まれたと言っても過言ではありません。

そういえばナポリ政治経済学発展期は、フランス料理史でいうと「ナポリ風トマトソース受容期」に該当するとも。
プッタネスカ( Puttanesca)とマリナーラ(marinara)

欧米世界にどうやってトマト食の習慣が広まっていったか論ずる上でその受容が1554年から始まった「ピザ発祥の地」ナポリに触れずに済ます訳にはいかない。さらに南イタリア人はリソルジメント(Risorgimento、イタリア統一運動、1815年〜1871年)後の経済混乱を背景にアメリカに移民。その食文化をアメリカに伝える事になる。

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  • プッタネスカ( Puttanesca、娼婦風)…イタリア料理のパスタ料理の1つ。イタリアではパスタ料理の名称は必ずパスタの名称を含むため、スパゲッティを用いればスパゲッティ・アッラ・プッタネスカ (Spaghetti alla Puttanesca) 、リングイネを用いればリングイネ・アッラ・プッタネスカ (Linguine alla Puttanesca) が正式名称となる。ソースだけを指す場合は、スーゴ・アッラ・プッタネスカ (Sugo alla puttanesca) 。トマトソース・パスタのバリエーションの1つで、アンチョビやオリーブ、ケッパーの塩味や唐辛子の辛味を利かせた、刺激的なナポリの名物パスタである。日本の「ジョジョの奇妙な冒険 Part4 ダイヤモンドは砕けない」や「コップクラフト DRAGNET MIRAGE RELOADED」といった作品には「娼婦風スパゲティー」あるいは「娼婦風スパゲティ」の呼称で登場。

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    一般には赤唐辛子とニンニクをオリーブ・オイルで炒め、アンチョビ、ケッパー、黒オリーブを入れて風味をつける。さらにトマトを入れ、できたソースを茹でたパスタとからめ、黒コショウで調味する。皿に盛り、粉チーズと刻みパセリを添えて完成。「娼婦風」という呼称の由来には諸説あり「娼婦が片手間に作る手抜き料理」説、「娼婦は昼食時にも忙しく、海のものも畑のものもごった混ぜにしてパスタと和えて食べた」説、「娼婦が客をもてなすためのパスタ」説や、「激務の娼婦が体力を回復するために食べたパスタ」説、「刺激的な味わいが娼婦を思わせるパスタ」説、「娼婦同様たまに味わえば美味だが、毎日のように食べれば飽きるパスタ」説などがある。

ナポリではこのソースをマリナーラとも呼び、油漬けのツナを加えることもある。1950年より以前には「プッタネスカ」という名称では知られていなかった。なお、ナポリでは魚介類の入ったパスタにパルミジャーノ・レッジャーノといったチーズを掛けず、仕上げにオリーブ・オイルで炒めたパン粉をかける。

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  • マリナーラソース、またはマリナラソース(英: marinara sauce)…トマトソースの一種で、ピザ、パスタ、ラビオリなどのイタリア料理に使用される。その名称のマリナーラ(marinara)は、イタリア語で「船乗りの」を意味する形容詞で、イタリアの都市ナポリの船乗りがよく食べていたことに由来している。

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    材料はトマト、ニンニク、オリーブ・オイル、オレガノ(観想させるとチーズと相性が良くなるシソ科の多年草)などで「トマトソースがベースで、オレガノが加えられたもの」とも言い換えられる。肉類を使用していないため、あっさりとした味わいをもつ。

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    その起源については幾つかの巷説が伝わる。一つは「16世紀半ばスペイン人がトマトをヨーロッパに、新世界の果実として持ち込んだ後、ナポリの船に乗船していたコックが発明した」というもので、元祖のレシピはシーフードを含まないため、トマトの強い酸のおかげで腐敗しにくかったので長期の海の旅にかなう食べ物として数百年もの間、冷凍技術が発明されるまでその地位を確立し続けたという。もう一つは「ナポリの船乗りの妻たちが彼らの海からの帰宅のために準備していたソース」というもの。

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    しかしながら歴史的にはイタリア初の調理本において既にトマトソースのレシピが記されている。イタリア人シェフで、在ナポリスペイン副王の宰相に家令として仕えたアントニオ・ラティーニが執筆した「近代的家令(Lo Scalco alla Moderna=現代の給仕、1692年と1694年に二巻に分けて出版)」がそれで、そこに記載された「スペイン風トマトソース」は、皮をむいて刻んだトマト、タマネギ、胡椒、イブキジャコウソウ、ピーマンを混ぜた今でいうトマトサルサに近いものであった。

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    とはいえトマトソースでパスタを食べる習慣が広まったのは、17世紀から18世紀頃にかけては原則としてナポリとその近郊に限られた。 そういう訳で他の都市の者はトマトソースをナポリ風(ナポレターナ)と呼んだが、当のナポリ人はこのトマトソースを単に la salsa 「ソース」と呼んでいたとされている。そしてナポリのトマトソース・スパゲッティがフランスに伝わりスパゲッティ・ナポリテーヌ spaghetti napolitaineと呼ばれるようになった。

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このマリナーラソースを使用したピザが「マリナーラ・ピザ」で、ナポリピッツァのルーツとも言われている。イタリア語では「pizza marinara」で、日本語ではそれに由来して「ピッツァ・マリナーラ」と呼ばれることも多い。また、ピザが話題と分かっている場面では、単に「マリナーラ」と呼ばれる事も。ナポリの漁師たちがなじみのパン屋にあり合わせのトマトとオリーブオイルを使って作らせたのがきっかけとなって1734年に生まれ、その後ナポリ料理で愛用されていたオレガノとニンニクが加わり18世紀後半までに貧しい人々がトマトをパンに乗せる具として愛好。すぐに訪れる観光客に対する名物料理となり、これがピザの起源となる。

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  • 「平らなパン」自体は古代ギリシア時代からハーブ、たまねぎ、ニンニクなどで風味付けがなされピラコウス (plakous/plakountos) と呼ばれていた。古代イランアケメネス朝の王ダレイオス1世 (521-486 B.C.) も表面をチーズとナツメヤシで覆ったパンを焼かせている。紀元前1世紀、古代ローマの詩人ウェルギリウス叙事詩『アエネイス』の中で、アスカニオスが食器代わりの平パンを食べる様子を描写しているが、その古代ローマでも食器代わりに平らなパンが使われていた。こうした平らなパンは地中海各地で食べられており、古代エトルリアではフォカッチャ、ボローニャではピアーダ、イベリア半島カタルーニャバレンシアバレアレス諸島ではコカ (coca) 、ギリシアではピタ、トルコではピデ (Pide) と呼ばれており、997年には南イタリアラテン語文献にピザ (pizza) という語が初見される。

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  • 当初は屋台や路地売りされ、あるいは屋台で売られていた。ナポリのピッツェリア・アンティカ・ポルタルバは1738年から店でピザを作って路地で販売しており、1830年に店を椅子とテーブルが整ったレストランに改装した。現在の店舗も当時と同じ位置にある。イタリア統一戦争に全財産を注ぎ込んだ『三銃士』の作者アレクサンドル・デュマ・ペールは1843年の著Le Corricoloの中で、ピザがナポリの貧民が冬に食べる唯一の食べ物であると説明した上で、「ナポリのピザは植物油、豚脂、牛脂、チーズ、トマト、アンチョビで味付けられている」と描写。1870年創業のセルサーレの老舗ピザ専門店「ダ・ミシェル」は、本物のナポリピッツァはマリナーラとマルゲリータの2種類だけとする。ナポリピッツァ・マリナーラは最も古い形のピザであり、トマト、オレガノ、ニンニク、オリーブ・オイルが具であり、バジリコが使われることも多い。マリナーラは「船乗り」を意味する語であり、ナポリ湾を拠点とする漁師が好んだからこの名が付いたと言われている。マルゲリータは1880年創業のピザ専門店ラファエレ・エスポジト が作った。1889年、エスポジトはイタリア王ウンベルト1世と王妃マルゲリータに3種のピザを献上し、このうちマルゲリータはイタリア国旗を思わせる緑(バジリコ)、白(モッツァレッラチーズ)、赤(トマト)で彩られたピザを気に入った。ナポリピッツァ・マルゲリータの名はこれに由来する。

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  • そしてニューヨークに流れ着いた渡ったナポリ人は新鮮なトマトが入手できず市販のケチャップでスパゲッテイを作らざるを得なくなり、これを缶詰にした商品が日本のナポリタンの起源になったと考えられている。

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何だか「具の入ってないトマトソース」を「水夫風」とか「娼婦風」と呼ぶ文化の背景に「極貧の生活下、水夫か漁師になるしかない男達と売春に走るその妻娘達の悲哀」が透けて見える。こうした人々をアメリカ移民に向かわせた原動力はまさにそれだったのではあるまいか。

何故かマックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」は「ナポリの馬車屋や船乗り、及び同様の仕事に就いている南欧やアジア諸国の職人達の様な金銭欲の固まり」を「属州におけるコロナートゥス(colonatus)制履行によって私服を肥やした古代ローマ貴族、領民を人間と思わない中華王朝の科挙官僚(マンダリン)の搾取、再版農奴制度に胡座をかいた近代農場主達や奴隷制プランテーションの経営者達に見受けられる際限なき貪欲」と同列に並べ「訓練された自由意思を備えない厚顔無恥な奴等」と纏めて弾劾する。魯迅清朝末中国のさまざまな展開を俯瞰して「奴隷が主人との立場逆転に成功しても、それは革命を意味しない。奴隷制廃絶にはつながらない」と嘆く心境と重なる部分が大きいかもしれない。

トマト栽培の歴史

その国際的伝播史においては、ナポリが重要な役割を果たした。

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  • トマト(学名:Solanum lycopersicum)南アメリカアンデス山脈高原地帯(ペルー、エクアドル)原産のナス科ナス属の植物。また、その果実のこと。多年生植物で、果実は食用として利用される。緑黄色野菜の一種である。日本語では唐柿(とうし)、赤茄子(あかなす)、蕃茄(ばんか)、小金瓜(こがねうり)、珊瑚樹茄子(さんごじゅなす)などの異称もある。もちろん古代ギリシア世界ではその存在を知られていなかったが、イタリア語でトマトを意味する「 pomodoro 」の語源は「黄金の林檎 pomo d'oro 」である。

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①原産地は南アメリカアンデス山脈高原地帯(ペルー、エクアドル)。ヨーロッパに伝わったのは1519年にメキシコへ上陸したエルナン・コルテスがその種を持ち帰って以降だが、それがスペイン経由で1554年にナポリへと伝わる。ナポリシチリアインカ帝国同様にハプスブルク朝スペインに支配されていたので、スペインを通じて新大陸の食材が手に入りやすかったのでる。

  • イタリアの港町ナポリではナポリタンソース(Ragù napoletano)をスパゲティに絡めたものをスパゲティ・アッラ・ナポレターナ(Spaghetti alla Napoletana)と呼び、フランス、スイス、ドイツにもほぼ同名の料理がある。歴史的にトマトベースのソースを記した最初のイタリア料理書は、イタリア人シェフのアントニオ・ラティーニが著し1696年に2巻本で発行した「近代的家令(Lo Scalco alla Moderna)」 である。 ラティーニは在ナポリスペイン副王の宰相に家令として仕えた人物で、彼の記した「スペイン風トマトソース」は、皮をむいて刻んだトマト、タマネギ、胡椒、イブキジャコウソウ、ピーマンを混ぜたものだった。こうしてナポリでは17世紀から18世紀頃にかけてトマトソースでスパゲッティを食べる習慣が普及していったが、その範囲はあくまでナポリとその近郊に限られていた。 そういう訳で他の都市の者はトマトソースをナポリ風(ナポレターナ)と呼んだが、当のナポリ人はこのトマトソースを単に la salsa 「ソース」と呼んでいたのである。そしてナポリにあったトマトソースのスパゲッティがフランスに伝わりスパゲッティ・ナポリテーヌ spaghetti napolitaineと呼ばれるようになった。

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  • 17世紀に入るとフランスのマルセイユでブイヤベースの食材に加えられる。
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  • ヴェネツィアの「警官風リゾット(Risotto alla sbirraglia、リゾット・アッラ・ズビッラーリア )」は、19世紀駐在していたオーストリア警官が喜んで食べたトマトソース風味のチキンリゾットに由来するという。

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②有毒植物であるベラドンナに似ていたため、毒であると信じる人も多く最初は観賞用とされた。その一方でナポリにおいては18世紀後半までに貧しい人々がトマトをパンに乗せる具として使う様になっており、すぐに訪れる観光客に対する名物料理となった。これがピザの起源となる。

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  • カプリ島風サラダ(インサラータ・カプレーゼ)」にも欠かせない。

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  • その一方で「トマトケチャップ」を使った最古のレシピが1795年の "Receipt Book of Sally Bella Dunlop" に登場。切ったトマトに塩を振り、2・3日置いてからしみ出した果汁を香辛料と煮詰めたもので、酢も砂糖も加えていない(現在とは違い、調理中に隠し味として使ったと考えられている)。

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③一方北アメリカではその後もしばらくは食用としては認知されなかった。

  • 1820年、ニュージャージー州のロバート・ギボン・ジョンソンは、町の裁判所前の階段でトマトを食べて人々に毒がないことを証明したとされるが、詳しい資料は残っていない。

  • しかしハインツ社が1876年に瓶詰めトマトケチャップを販売。これが広く普及してケチャップを代表する存在となった。これを使って調合したバーベキュー用ソースは、醤油を使ったテリヤキソースや韓国風ソースを引き離して今なお絶大な人気を誇り続けており、アメリカを代表する味との声すらある。

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  • 1893年当時アメリカは輸入の際、果物には関税がかからず、野菜には関税が課せられていた。このため、トマトの輸入業者は、税金がかからないようにと「果物」と主張。これに対して農務省の役人は「野菜」だと言い張った。両者は一歩も譲らず、さらに果物派には植物学者も加わり、論争はエスカレート。とうとう、1893年に米国最高裁判所の判決を仰ぐことになってしまった。判決は「野菜」。裁判長はずいぶん悩んだと思われ、判決文には「トマトはキュウリやカボチャと同じように野菜畑で育てられている野菜である。また、食事中に出されるが、デザートにはならない」と書かれていた。なお、裁判当時の記録としてローラ・インガルス・ワイルダーの小説『大草原の小さな家』では、トマトにクリームと砂糖をかけて食べる記載がある。
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    *ちなみにトマトは米国で最初に認可を受けた遺伝子組み換え作物である。1994年5月、FDA(連邦食品医薬品局)が承認したFlavr Savrというトマトで、長期間の保存に適した品種であった。ただし、開発費用などを回収するために通常のトマトよりも高い価格に設定されたため、商業的にはそれほどの成功を収めなかった。

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④日本には江戸時代の寛文年間頃に長崎へ伝わったのが最初とされる。貝原益軒の『大和本草』にはトマトについての記述があり、その頃までには伝播していたものと考えられているが、青臭く、また真っ赤な色が敬遠され、当時は観賞用で「唐柿」と呼ばれていた。中国では現在も「西紅柿」(xīhóngshì)と呼んでいる。日本で食用として利用されるようになったのは明治以降で、さらに日本人の味覚にあった品種の育成が盛んになったのは昭和に入ってからである。
トマトは、いつごろから日本で食べられているかおしえてください。:農林水産省

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⑤アフリカ大陸北部は古来からローマ帝国イスラム文化の影響を受け、インド洋に面した東アフリカはアラブ商人が持ち込んだ文化の影響が強い。一方、大西洋に面した西アフリカは、大航海時代から奴隷交易時代にかけて揉まれたせいでヨーロッパの食文化やアメリカ大陸原産の食素材を受け入れ、キャッサバや落花生などは今や食生活に欠かせない素材となっている。南部アフリカでは、もともと素朴だった先住民の食文化が、16世紀以降に入植した白人の食文化を受け入れ大きく変動した。そうした文化圏を越えて食材としてのトマト受容は進んでいる様に見受けられる。

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⑥中国、台湾、香港、日本などでは、ボルシチと同じ調味料を用いながら、テーブルビートを用いずに、代用としてトマトを用いた具だくさんでオレンジ色のスープを「ボルシチ」と称している例がみられる。

中国は、ソ連との関係が深く、ロシア料理が西洋料理の代表であったが、テーブルビートの入手は困難であったため、正統な「紅菜湯」に対して、トマトで代用したものを「羅宋湯」と称して、洋食店で提供し普及した。「羅宋」は、上海語でルーソンと読むが、英語の「Russian」に漢字を当てたもので、「ロシアの」を意味する。香港では「茶餐廳」と呼ばれる喫茶レストランや学校の食堂でもよく出る洋食メニューである。

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日本でのボルシチの紹介は、新宿中村屋にロシアの作家、ウクライナ人のヴァスィリー・エロシェンコが伝え、1927年に販売されたものが本格的な始まりとされているが、このボルシチはテーブルビートを使用せず、トマトを煮込んだものである。

⑦そしてアメリカに渡ってニューヨークに流れ着いたナポリ人は新鮮なトマトが入手できず市販のケチャップでスパゲッテイを作らざるを得なくなり、これを缶詰にした商品が日本のナポリタンの起源になったと考えられている。

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そういえばアメリカのラーメン・マニアのサイトで「麺といえばスパゲッテイ缶しか知らなかった頃の僕等は、カップラーメンもレンジでチンしてスプーンで崩しながら食べてたんだ」という表現に出くわした事がある。アメリカにおける麺食文化の歴史は日本人が想像するより遙かに浅いのかもしれない。

米国イタリア系移民にとって「ナポリタン」と日本人にとっての「ナポリタン」

①まず「高級西洋料理としてのスパゲッティ・ア・ラ・ナポリテーヌ」ありき。明治期の西洋料理レストランでは、フランスで西洋料理を学んだコックが多かったため、パスタは最初はベシャメルソースを使ったグラタンのようなフランス料理として調理されていた。

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  • トマトソースが日本に伝わると、トマトソースのスパゲッティはフランス料理「スパゲッティ・ア・ラ・ナポリテーヌ」として出されたが、材料を輸入に頼るしかなかったのでホテルや高級レストランでのみ扱われる高級料理だった。三越百貨店やニューグランドホテルも、戦前は正装していく場所であって、いずれも申し分なく高級料理店である。

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  • 銀座・煉瓦亭の「イタリアン」…銀座・煉瓦亭には大正10年(1921年)イタリアンというメニューがあった。外国航路のコックが陸に上がって伝えたものという。これはトマトピューレを用いたソース(すなわちナポリタンソース)であるから、それなりの厨房設備と人手が無ければ出せない高級西洋料理のほうだったと思われる。

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  • 日本海軍の「ケチャップがけマカロニ」…大正時代には日本海軍においてトマトケチャップを使ったパスタ料理が供食されていたが、マカロニにトマトソースとチーズをかけてオーブンで焼くものであり、フランス料理のキャセロールに近いスタイルのものであった。

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  • 古川ロッパの日記」昭和9年(1934年)12月22日の記載三越の特別食堂でナポリタンを食したことが記されている。ナポリタンの名称で提供されたものでは現時点では日本最古の記録でだが、ロッパは「汁気が切れていない」と批評しており、汁気が飛ぶまで炒める戦後の喫茶店風ナポリタンとは異なるポモドーロソースに近いものだったかもしれない。

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②一方、大西洋を渡ってナポリからニューヨークに移住した移民たちは、ニューヨークでは祖国のように新鮮なトマトが手に入らないので、トマトソースの代わりにケチャップをパスタソースに使った。これがナポリタンと呼ばれた。 ここにおいて、ナポリタンという同じ名称を持ちながら異なる内容の料理が太平洋をはさんで同時に存在することとなった。

 

  • イタリアからアメリカへの移民はナポリ近傍のカンパーニュ地方、およびシチリア出身者が多かった。移民たちは母国から輸入したパスタを食べていたが、その食文化はそれ以外のアメリカ人に広まることはなかった。

  • 第二次世界大戦以前のアメリカ合衆国において一般のアメリカ人がパスタを知るのは本格的なイタリア料理店からではなく、安価な缶詰スパゲッティからであった。 これが凄まじい代物で、缶詰食品の必然としてたっぷりとしたソースにスパゲッティが浸かっているだけで特に具は入っておらずバジルも使っていない。さらにソースは砂糖で甘味を増してあり、コーンスターチでとろみを付けてある。しかもデュラム小麦ではなく薄力粉で打った麺なので、アメリカ人はコシの無い軟らかい麺から慣れ親しむことに事になったのである。

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  • 『バンド・オブ・ブラザーズ』において缶詰スパゲッティを支給されたイタリア系アメリカ人の歩兵が、ケチャップ和えスパゲッティは認めないと不平を述べる描写があるとおり、本品はおおむねケチャップ和えと言って差し支えない代物である。 このコシの無いケチャップ漬けスパゲッティが、のちにGHQと共に日本に伝わることになる。

  • また上野玲「ナポリタン」は、アメリカ合衆国のスパゲッティ・ウィズ・ミートボールがナポリタンのルーツであり、それが戦後の占領軍を通じて伝わったものと推定している。

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③そしていよいよ「センターグリルのケチャップナポリタン」登場と相成る。野毛「米国風洋食 センターグリル」では昭和21年(1946年)の開業時よりナポリタンにケチャップが使用されていた(横浜ニューグランドの戦後営業再開は昭和27年(1952年))。横浜山下町にあるホテルニューグランド第4代総料理長高橋は、ナポリタンは第2代総料理長入江茂忠が戦後考案したと述べている。入江は、進駐軍の兵士が食べる具なしケチャップスパゲッティの粗末さを見るに見かねて、生トマト、タマネギ、ピーマンとハムの細切れ等を入れたスパゲッティを考案したが、亡くなるまで「自分が発案した」と公言することがなかった。家族や周囲も入江が亡くなった数年後に上記文献に記載されるまで、入江がナポリタンの考案者であると考えることはなかったという。

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  • 入江のナポリタンはケチャップ和えではなく生トマトとトマトピューレを使ったソース(すなわちナポリタンソース)である以上、ケチャップ入り焼きうどんと言うべき喫茶店風ナポリタンに到達していないことは明らかである。また、スパゲッティ・ナポリテーヌの名を持つ料理は戦前にも存在していることから、師であるサリー・ワイルからスパゲッティ・ナポリテーヌについて教わっていたとも考えられる。

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  • しかしその一方で7割方茹でたパスタを冷まし、5時間以上放置した上で湯通しすることで麺のもっちりした食感を出す、といった日本向けの工夫は入江の功績と見做されるものである。また、櫛切りのタマネギとピーマン、マッシュルームが入るのは入江以前に見ることはできないので、戦後スタイルの具だくさんナポリタンを確立したのは入江だと言ってよいだろう。

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こうして戦後における日本独自の路線の追求が始まったのである。

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  • 国産化と安価材料への代替による普及…終戦直後の日本では食糧は政府の統制下にあったが、昭和27年(1952年)、食糧事情の好転を受けて統制が一部解除され、製粉業は自由に原料を買い取って製粉できるようになった。 昭和29年(1954年)にイタリアからパスタ自動製造機が輸入されたのをきっかけに国産パスタが量産できるようになり、パスタが一般にも浸透していった。
    日本には日本のパスタがある!「ただならぬもっちり感」の純国産パスタ - ippin(イッピン)

  • 昭和29年(1954年)3月に日米は日米相互防衛援助協定(Mutual Security Act, MSA)に調印し、大量のアメリカ合衆国産小麦を受け入れることとなった。国内農業保護の観点から反対する意見も出たが、昭和28年に凶作があり、食糧管理法を厳格に運用しても計画の50%ちょっとしか米穀が供給できない状況下での決断であった。 米国小麦の受け入れ開始と前後して、昭和31年、日本食生活協会がオレゴン小麦栽培者連盟の契約により、キッチンカーを使った栄養指導を開始。キッチンカーで津々浦々を巡り、主婦層に直接、粉食推進、油摂取拡大による栄養改善を指導した。 キッチンカーの献立には小麦と大豆を使うことが米国側からの条件であったので、パンはもちろんのこと、スパゲッティ、パンケーキ、ドーナッツなど小麦粉と油を使う料理が実演とともに無料でふるまわれた。 キッチンカーで紹介されたスパゲッティがナポリタンであったかどうかは文献からは分からないが、ソース料理が炒め物へと化けることによって、高級西洋料理であったスパゲッティがフライパンで簡単に作れる家庭的なお惣菜に変わっていくのはこの時期であったと考えてよいだろう。焼きそばやたこ焼きといった粉モン文化が急拡大するのも、この時期に一致する。 ナポリタンは焼きうどん同様の油で炒める調理法が取り入れられたものと考えられる。

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  • しかしながら、ここでアメリカ合衆国から輸入されたメリケン粉は薄力粉であった。もともとオレゴン州で獲れる小麦はウェスタンホワイト種という軟質小麦であったためだ。アメリカ合衆国にもデュラム小麦が無いわけではなかったが、その産地はロッキー山脈より東側の中西部諸州に限られており、日本向けに太平洋側へ輸送するのはコスト面で無理だった。薄力粉でスパゲッティを打ったところでグルテンが少ないためコシのある麺にならない。ナポリタンで使うスパゲッティが軟らかいのは、原料の小麦の違いによる必然であった。 アメリカ合衆国からのデュラム小麦の輸入は昭和40年代中ごろに一時期だけ実施されたが、現在は輸入していない。

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  • 昭和30年代になると国産スパゲティーが開発され、販売促進のデモンストレーション用に調理が比較的簡単なメニューとしてナポリタンが選ばれ、さらに学校給食のメニューにも取り入れられるなどしたため、ナポリタンの知名度は急速にアップした。当時トマトピューレは庶民の手には入り難く庶民には肉も高価であったため、代用としてケチャップと安価な赤い色のウインナーや魚肉ソーセージ等を使う調理法が生みだされ、現在の一般的なナポリタンが確立された。このナポリタンのあらかじめ茹置きした麺をフライパンで味付けしながら炒め直しする調理法は簡便なことから、ナポリタンは給食以外にも家庭、喫茶店及び学食などの庶民的定番メニューとして親しまれて、全国的に定着していった。また調理スペースが手狭な列車の食堂車や軽食堂などでは、同様の理由からレトルトの業務用ミートソースが開発されるまでスパゲティーといえばもっぱらナポリタンが供食されていた。

  • それ以降も飲食店のスパゲティはミートソースかナポリタンの2種類しか存在しない状況がしばらく続く。

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    *「ミートソース・スパゲティ」の起源は一般に「スパゲティ・ボロネーゼ」とされる。

  • しかしバブル期に入るとパスタ料理多様化と人気再燃。80〜90年代の「イタメシブーム」によって多種多様な本格的パスタが紹介され、日本でも様々な本格的パスタが食べられるようになった。それに伴いナポリタンの人気は陰りを見せ、個人経営の喫茶店の減少とも相まってナポリタンを供食する飲食店は以前より減っていく。その一方で洋食メニューや弁当の付け合わせなどにも「ケチャップ味のスパゲティ」は定番として定着した。
    チェルノブイリ・パスタ 1980年代末のイタメシブームはセシウム汚染小麦の処分だった。(東海アマツイッター他) スカイキャット

  • 近年、懐かしさや目新しさを求め、単体料理としてのナポリタン人気が再燃している。コンビニエンスストアの弁当やレトルト・冷凍食品として販売されるなどの展開もみられるようになった。

この辺りの歴史は日本における「おやき」や「お好み焼き」の歴史と重なるとも。

 改めて考え込んでしまいます。日本人にとって「ナポリ」や「ボローニャ」とは一体何なのかと。そしてこういう話をまとめる都度思ってしまいます。「ソテツ地獄」とは一体何だったのかと。