もう21世紀だし「悪書追放運動の悪夢」はすでに過去のものになったと思っていたら、案外そうでもない様です。
長崎市内でふと目に飛び込む白い塔。「子どもに見せてはいけない図書類を入れてください」と呼びかける「有害図書類回収白ポスト」だ。ネット全盛の時代に図書?と思いつつ、中身が気になる。市職員による回収に同行し、ポストについて調べてみた。
「有害図書」の回収は夜中にこっそりではなく、午前9時過ぎに始まった。
職員が最初に向かったのは長崎市中心部の観光名所、眼鏡橋がかかる川のほとり。「子どもたちが学校に行っている間にやっちゃいます」。そう言って職員が白ポスト下部の取り出し口を開けると、肌があらわになった女性が描かれた雑誌がぎっしり。ゴム手袋をはめた職員2人が引っ張り出す。高さ約130センチの白ポストに入っていたのは本やDVDおよそ200点。90リットルのゴミ袋2枚がいっぱいになった。
この日は3カ月に1度の回収日で、職員3人が市内8カ所を回り、市役所駐車場に運んで仕分けをした。
回収されたのは897点、90リットルのゴミ袋で10袋分だ。雑誌類が多く、ディスクの束やビデオテープもあった。「販売業者が置いていったり、町内のゴミ捨て場から運ばれてきたりと、経路はいろいろあるようです」と職員。回収した場所と品目を記録し、その日のうちに市のゴミ処理施設に運ばれて焼却処分された。
市内の白ポストの中には英、中、韓の3カ国語で「ゴミを捨てないで」と書かれたものもある。外国人観光客の多い長崎新地中華街近くの白ポストが食べ残しなどのごみであふれ、周囲に散らかっていたことがあったためだ。ごみ箱と勘違いされたらしい。
市が7月に約10カ所の白ポストに注意書きをしたところ、9月の回収では「有害図書」以外のごみは減ったという。
長崎県内では1964年に長崎、佐世保の両市に白ポストが5台ずつ、初めて設置された。
50年代、暴力や過激な性が描写された本や雑誌が少年非行の原因の一つとされ、全国で「悪書追放運動」が広がった。都道府県は条例で「有害図書」を指定し、青少年への販売を規制するなどした。
それでも成人向けに販売された本が子どもの目に触れるおそれは残る。そこで、兵庫県尼崎市で63年、ドラム缶を白ペンキで塗った「回収箱」を置いたのが白ポストの始まりらしい。その後、各地の自治体などが設置を進めた。
長崎県内の白ポストは増え続け、現在は21市町に84カ所。県によると、老朽化した白ポストは県内の工業高校で、実習の一環として修繕されている。
回収数も増えている。70年代前半には年間200~300点ほどだったが、90年ごろには1500点前後に。2000年代に1万点を超え、近年は1万6千~1万7千点ほど。昨年は1万7090点で、約8500点が書籍類、約6300点がDVDだった。
設置から半世紀あまり。情報の媒体は変わってきたが、白ポストはまだまだ現役のようだ。
つい新左翼運動家が内ゲバの副産物たる「誤爆」について謝罪するどころか「恐怖なき正義は無力であり、いつどこで襲われても不思議でない理不尽な恐怖が蔓延してこそ、誰もが正義への同情を熱狂的に表明し続けるしかない理想社会が実現する」と開き直っていたのを思い出してしまいました。
そういえば、韓国政府が最近「突然の一斉検挙によって書類送検30万件以上」なんて偉業を成し遂げ、国内SNS上における猥褻投稿一掃に成功しています。実際にはみんな海外SNSに逃げちゃって後には誰もいない廃墟が残されただけの様ですが、それでも勝利は勝利。失われたのが住民とそれに付帯する(広告ビジネスなどの)商業的利用価値くらいなら安いものという発想なのでしょう。ここに「悪書追放運動」がその理想を達成したら何が起こったか見て取れる気がします。
*まぁそれまでの韓国政府は日本からのエロ・コンテンツ海賊版取り締まり要請に対して「エロ・コンテンツを著作権で保護する事自体が間違ってる」と公式に返答してくる様な有様だったから、こうした動きを「進歩」と見る向きもあるが、まぁこの有様では当分文化輸出国にはなれない。「いやそれは逆だ」とする意見もある。なにしろ売春完全違法化によって非合法社会を売春ビジネスで肥え太らせたりしてる国でもあるのだ。彼らの規模は世界最大級に達し、国際的影響力も馬鹿に出来ないれべるにあると考えられている。
まさしく「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」の実践例?
実際、1950年代の「悪書追放運動」といったら…
- 手塚治虫の漫画を学校の校庭で焚書するパフォーマンスが遂行され、殺人予告状が届いた時代。同種の脅迫に耐え切れず廃業に追い込まれた漫画家も数多くいたという。
手塚治虫先生の思い出を語った「BJ創作秘話」の4巻が発売になっていますが。
この巻では手塚先生本人というより、その周りの人物にスポットが当てられています。で、中で私も大好きな映像監督である大林宣彦監督が子供の頃、漫画を悪書として学校の校庭で公然と焚書されているのを、子供のころの監督が拳を握って見つめている(監督は漫画が大好きだった)描写があります。
わずか半世紀前まで、漫画はここまでひどい扱いを受けていたんです。同じ事は「ゲゲゲの女房」の水木先生もマンガを悪書として当時大変な迫害を受けた事などが取り上げられています。
自分達の世代にはなかった文化を「悪」と決めつけ、一方的に見せまいとする。今から見ると滑稽に見えるこの光景の恐ろしさをぜひ見ていただきたい。手塚治虫が弾劾に筆頭に挙げられた理由その1。「拳銃天使(1949年)」のキスシーン。当時はそもそも少女向け小説や少女漫画においてすら「自由恋愛」を描く事が御法度とされてる様な時代だった。
手塚治虫が弾劾に筆頭に挙げられた理由その2。「複眼魔人」の着替え場面
当時の記事を読み返して驚くのは、平然と「そもそも低脳な漫画家が原作者を兼ねるなんて国際的にあっちゃならん事なのです。ちゃんとした学歴ある原作者が内容を善導しない限り、まともな漫画が描かれる筈なんてないじゃないですか」みたいな学歴差別が公然と語られている事。
虫ん坊 2010年05月号::TezukaOsamu.net(JP)
- 当時のアメリカで「人間でない黒人があたかも人間の様に映画やTVや漫画に登場するのは人道的に許される事ではない」という運動が盛り上がっていたのにかこつけて、日本でも「黒人を完全視野外に置かないのはレイシスト」とする運動が盛り上がった事。その爪痕は今日なお日本のエンターテイメント業界の自主規制という形で残り続けている。
*ただまぁ、これについては当時の日本におけるタイピカルな黒人描写に問題があった事実も否めない。アメリカと異なり当時の日本には黒人側からの「平等を意識するなら我々をこう描いてくれ」というフィードバックは存在していなかったのだった。
- こうした矛盾は最終的に「(一時期、自衛官と警察官の子弟虐めを正当化した)大日本帝国軍は中国で略奪と強姦と虐殺しかしなかった」とか「(2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震罹災者虐めを正当化した)原爆を落とされた広島県には極悪人しかいなかった」といった記述に満ちた「 はだしのゲン(1973年〜1985年)」を白ポスト送りにしようという運動と「はだしのゲンには真実しか描かれていない。これを歴史から葬り去ろうという動きは全て修正主義」と叫ぶ勢力の衝突に至る。根本的問題は「(白ポストが設置された頃の)子供に悪は少しでも見せない」精神が1970年代前半を境に歪曲され「子供にはむしろ略奪や強姦や虐殺を嫌という程見せつけ、それに対する拒絶感を植えつけるべし」という発想に推移した点にあるのだが、リベラル勢が自らそれに言及する事は、新左翼勢力が「誤爆」について謝罪する可能性が皆無な様に在り得ない。
*私自身も小学校高学年の頃、性行為場面が延々と続く「サンダカン八番娼館 望郷(1974年)」上映会なんぞに強制参加させられた記憶がある。強引にこれを強行した左翼教師が現地実力者の息子だったので親達の批判はもみ消されたが当時はそういうのが正義とされる時代だったのである。
それでも日本のリベラル勢が「白ポストは正義を貫いてきた」と主張せずにはいられない状況は、最近まで米国において見られたとある情景を連想させます。
- ハロウィンにインディアンやエスキモーのコスプレを投稿する少女や、クリスマスに「Merry Christmas」と挨拶する白人の少年少女が現れると「通りすがりの正義派」を名乗る人々が包囲してアカウント削除されるまで「貴様の様なレイシストには大人になる資格はない。世界平和実現の為に一刻も早く自殺しろ!!」とシュプレヒコールを続ける。
まぁこれが「オリジナル」なんですね。日本敗戦後、GHQのPTA設立と当時全米で猛威を振るっていたComic Code運動の模倣を通じてもたらされたのは。
2016年度米国大統領選挙でトランプ候補が勝利すると流れは完全に逆転。今年のクリスマスのネット上は一転して「Merry Christmas大会」となりました。なんかこう「暴君による圧政から自由になった」みたいな開放感の横溢。もちろん「我々は正義を貫いてきた」と主張するマスコミは、こんな展開一切認めない訳ですが、最近では彼らが乱用する「オルタナ右翼(Alt-Right)は一刻も早く滅ぼし尽くすべき帝国軍」なる表現を逆手に取った「本当はオルタナ左翼(Alt-Left)の方が帝国軍」もぽつぽつ散見される展開に。
そういえば日本には「歴史は「昔は良かった」なる回顧から生まれる」とする歴史観が存在します。
この方面における展開、アメリカにおいてはそもそもどうなってるのでしょうか。
- 実際に1930年代に存在感を示したのは(白ポスト運動の大源流ともいうべき)Hays Code制定に深く関わる一方、禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)時代を終わらせたアイルランド系カソリック教徒達だった。南イタリア出身のフランク・キャプラ監督も当然カソリック教徒だったし「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」によって時代の寵児となったウォルト・ディズニーもまたドイツ系だった母親がカソリック教徒だった影響を多分に受けていた可能性が見て取れる。当時圧倒的人気を誇ったイエズス会士が制定したHays Codeにしても「人間の行動様式は遺伝子的要因というより社会的伝統の影響を色濃く受ける」としたタルドの模倣犯罪学を援用しつつ「人間の暗黒面より善良面に注目する事で悪を振り切ろうとする」カソリック教徒的楽観主義が色濃く感じられる。
*しかしこうした展開こそがまさに「プロテスタント勢力反攻」の呼び水になったとも。
- 進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1920年代)は「狂乱の1930年代」の経験者が過去を理想視した結果生まれた歴史区分である。ユダヤ系米国人たるリチャード・ホフスタッター(Richard Hofstadter、1916年〜1970年)に一度目のピュリッツァー賞をもたらした「改革の時代(The Age of Reform、1956年)」などを通じて1950年代に広まった。
- 一方1940年代には同じ「狂乱の1930年代」の経験から出発しながら、これを「金鍍金時代(Gilded Age、1865年〜1873年)」の終着点とみなし、それ以前の、つまり産業革命導入以前のアメリカ(特に1850年代)を理想視するマセーシン(Francis Otto Matthiessen、1902年〜1950年)の「アメリカン・ルネサンス(American Renaissance、1941年)」が登場。ある意味そこにはプロテスタント文学の復興運動という側面があったとも。
*当時のアメリカでは亡命してきた欧州知識人中心に(ハンブルク港を出港したドイツ系移民について描いた)カフカや(1917年のロシア革命以降急増したロシア系移民に対する関心の高まりと連動した)ドストエフスキーの精読が流行していた。
*ちなみに1940年代のホフスタッターは「進歩主義時代」以前のアメリカ、すなわち「金鍍金時代」を席巻していた「社会進化論(Social Darwinism)」を徹底弾劾するプロパガンダ活動に従事。この事から彼を「オルタナ左翼(Alt-Left)の始祖」と目する向きもある。
- しかし第二次世界大戦後、非米活動調査委員会の喚問を受けたことが動機でマセーシンンは自殺してしまう。そして1960年代に入ると、ホフスタッターが彼に二度目のピュリッツァー賞をもたらした「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」において、1950年代を席巻したアイゼンハワー大統領時代やマッカーシー旋風(赤狩り)を分析。アメリカの民主主義は「すべての人は平等に創られた」という独立宣言から出発し「ごく普通の市民が(キリスト教的倫理に基づく)道徳的な能力を持っているという平等論」と結びつけられ「高度な教育を受けなくても誰もが自然に発揮できる素朴な道徳的感覚」が、それを「衆愚政治」ではなく「特権階級による権力の独占を防ぐ効用があると信じる力」を形成してきたとした。その起源は北東部の13植民地を席巻した宗教再生運動たる第一次大覚醒(First Great Awakening、1730年代〜1740年代)、超絶主義やモルモン教を生んだ第二次大覚醒(Second Great Awakening、1800年代〜1830年代)や、貧困への焦点が新しい視座をもたらした第三次大覚醒(1850年代後半〜1900年代)まで遡るという。
*日本では21世紀に入ってから、この「反知性主義」という言葉が民主集中制実現の前提となる政治的エリート優越主義の実現を妨げる政敵に対するレッテルとして流行。ますます彼らの頃立感を深める結果を生み出した。ホフスタッターの「反知性主義」論には「狡賢いブルジョワ=インテリ階層が好き放題既得権益を貪っているというイメージが広がるほど、反知性主義は燃え盛る(手遅れになる前にこのジレンマから脱却しなければならない)」という深い危機感が内在していたが、日本のリベラル層はむしろ自ら火中に飛び込んで延焼させる「飛蛾打火」戦略を選択したのだから当然の結末ではあった。
- 結局、ホフスタッターの予感は1960年代後半におけるヒッピー運動と公民権運動の横行という形で具現化する事になった。しかも、この動きは必然的に増大するアメリカの世俗主義(同性愛者や中絶の権利を求める運動等)と対決する姿勢を強めた福音主義やキリスト教根本主義といった保守的なキリスト教会が大幅に教勢を伸長した第四次大覚醒(Fourth Great Awakening、1960年代末〜1970年代)を伴う事になったのである。その結果、最も伝統的なキリスト教団体たる南部バプテスト教会やミズーリ・ルーテル教会の教会が急成長し、アメリカ各地にメガチャーチが建設される一方、伝統的にその進歩主義的教義で知られてきたエキュメニカル派プロテスタント会員が減少し影響力を喪失。ホフスタッターはこうした米国における「(狡賢く陰険な)インテリ=ブルジョワ階層」と「反知性主義」のますますの分離に遭遇してこれまで自らの構築してきた歴史観の限界を悟り、新たな歴史観構築を目指したが志半ばにして亡くなってしまう。
*森本あんり「反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体(2015年)」はあとがきにおいて「日本における反知性主義的な人物像」として「フーテンの寅さん」「空海、親鸞、日蓮などの革命的仏教者」「ホリエモンや孫正義のような型破り企業家」などを列記しているが、ここにも同様の「インテリ=ブルジョワ階層と反知性主義の裂け目」が見て取れるとする向きもある。
ところで、ここで気になるのは米国を代表する思想たる超越主義(Transzendentalism)もプラグマティズム(Pragmatism)もドイツ語語源という辺り。要するにカント(Immanuel Kant、1724年〜1804年)に由来するのです。
*そして、カント哲学的不可知論が必然的もたらす精神的荒廃をプラグマティズム(実用主義哲学)が「神は問題解決に必要な材料は全て我々の認識可能な領域に置いてくださる」なる強烈なWYSIWYG(What You See Is What You Get)的楽観主義で克服した事が米国的科学万能主義(American Scientism)を現出させる契機となる。
- 「(認識対対象としての)物(独Ding、英Thing)と(認識不可能領域まで含む)物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)」を峻別するカント哲学の大源流は英国におけるハノーファー朝/ウィンザー朝開闢(1714年〜)および1837年まで続くハノーファー選帝侯領との同君統治時代、それ経由での(エドモンド・バークの「ピクチャレスク(Picturesque)論」や「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない)時効の憲法(prescriptive Constitutio)論」といった)英国思想の流入、およびリスボン大地震(1755年)に求められると考えられている。
ハノーヴァー朝/ウィンザー朝
- それ自体はドイツ文化にとってあくまで異物に過ぎなかったので、激しい反論を経てビーダーマイヤー(Biedermeier)期(1815年〜1848年)には神中心主義の延長線上に現れたヘーゲル哲学にほぼ一掃されてしまった。まだまだ前近代段階にあった当時のドイツ人にとっては、人間の認識能力の限界を指摘されるより「個人の幸福は時代精神(Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る事によってのみ獲得される」と吹き込まれる方が遥かに心地よかったのである。
*ヘルムート・プレスナー(Helmuth Plessner,、1892年〜1985年)は「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」において、ドイツ人が後世になってもこうした精神状態から脱却出来なかった事がナチス台頭につながったとしている。当時のドイツ人は共産主義や無政府主義にも魅了されたが、その理由もおそらく変わらない。
- それでは、どうやってカント哲学は米国に伝わったのか。実は何が決定打となったのかちゃんとした形では明らかとなってない。①英国から伝来したユニテリアン主義(Unitarianism)に付帯する形で米国に伝播し、1830年代にこれより分派した超越主義(Transzendentalism)経由で広められた。②ビーダーマイヤー(Biedermeier)期(1815年〜1848年)ドイツから追放された亡命者達が広めた。③ドイツ本国でヘーゲル哲学が分裂状態に陥った1840年代から1850年代にかけて勃興した新カント主義の影響を受けた、とはいえそれぞれの規模と影響範囲は不明。かつまたその歴史的制約から「純粋理性批判(Kritik der reinen Vernunft、1781年初版、1787年増補版)」における分析論(ヴイトゲンシュタインに端を発する分析哲学の思考法と比較できそうなカテゴリーの超越論的演繹や観念論論駁)だけが注目を集めたに過ぎなかったと推察されている。
*分析哲学(Analytic philosophy)…ゴットロープ・フレーゲとバートランド・ラッセルの論理学的研究に起源を有し、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの誤解を含め多大な影響を受けた論理実証主義の批判と受容を経て形成された哲学の総称。現代の記号論理学や論理的言語分析、加えて、自然科学の方法及び成果の尊重を通じて形成され、20世紀英語圏で主流となった。20世紀の大陸ヨーロッパにおいて主流となった大陸哲学に比較されることもあり、単に「英米哲学」といえば分析哲学を指す場合が多い。
アメリカから見たドイツ覲念論
- ここで興味深いのは(アメリカン・ルネサンスの重鎮の一人たる)エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年〜1849年)が超越主義(Transzendentalism)より派生したダーク・ロマンティズムに基づく作品を多数発表しながら、そこに含まれるロマン主義的要素には嫌悪感を感じていたというエピソード。ちょっと意外な組み合わせだが、カント哲学はE.T.Aホフマンやシューベルトらを代表格とするドイツ・ロマン主義と一緒くたにアメリカに伝わった可能性もまた捨てきれないという有様。
*その後、超越主義(Transzendentalism)はソローの「ウォールデン 森の生活(Walden:or, the Life in the Wood、1854年)」発表を経て米国開拓者精神を取り込む形で全く別物に再編成される。
あれ?「アメリカ的価値観の基底はピューリタン的倫理にある」なる前提が大崩壊?
そもそも米国においては、太平洋戦争(1941年〜1945年)当時の総動員体制を契機に「それまでプロテスタント教徒(独立戦争当時まで遡る旧移民勢)とカソリック教徒(フロンティア消滅宣言(1890年)以降急増した新移民勢)が激しい文化的対立を続けていた歴史」が(双方の合意のもとで)抹消されてきた経緯が存在するのを忘れてはいけません。
そもそも移民が持ち込んだ多種多様な文化の寄せ集めたるアメリカ文化って、欧州と異なり「保守派と革新派の対立」みたいな明瞭な全体構造を見出す事自体が大変難しいのです。それにも関わらず「アメリカはやる事なす事先進的」と考えてランダムに模倣を続けてきた日本のリベラル勢の振る舞いが支離滅裂なものとなったのは当然の成り行きとも。そして今更別に反省する気もない様なので、これからも支離滅裂であり続けていくのでしょう。