読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「自然主義運動(Naturalisme)作家」松本清張なる現象の原材料

 1957年から始まった社会派ミステリー・ブームの仕掛け人。それ自体は1960年代の翻訳小説ブームに塗り潰される様に消えて行きましたが、推理小説界に「清張以前」「清張以前」以後という歴史区分を残したほどの御仁。

http://livedoor.blogimg.jp/michikusa05/imgs/d/e/defd51eb.jpg

 松本 清張(1909年~1992年):社会派ミステリ・ショック(1957年)までの足跡

1924年 生家が貧しかったために板櫃尋常高等小学校を卒業したのち、職業紹介所を通じ、株式会社川北電気企業社(現在のパナソニック エコシステムズ株式会社の源流)小倉出張所の給仕に就職。掃除、お茶くみ、社員の使い走り、商品の配達などに携わり、初任給は11円、3年後に昇給して15円であった。この時期、新刊書を買う余裕はなく本は貸本屋で借りるか、勤め帰りに書店で立ち読みしていた。当初清張が興味を持って読んだのは、旅の本であった。特に田山花袋の紀行文を好み、当初清張は花袋を紀行作家と思っていたほどであった。

  • 田山花袋(1872年~1930年)モーパッサンの影響を強く受け1907年(明治40年)に中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた『蒲団』を発表。女弟子に去られた男が、彼女の使用していた夜着に顔をうずめて匂いを嗅ぎ涙するという描写が読者さらには文壇に衝撃を与え日本の自然主義文学の方向を決定的に歪めてしまう。確かに大正に入って自然派が廃れ新鋭作家が次々と登場する様になると次第に文壇の主流から外れ、紀行文や日本全国温泉巡りなどの発表が主となる。その関係で博文館の『日本名勝地誌』の執筆に参加。後に田山花袋編として『新撰名勝地誌』全12巻の監修をおこなった。晩年は宗教的心境に至り、精神主義的な作品を多く残す。1928年(昭和3年)末死去。

しばらくして、家業の飲食店の経営がやや楽になり、家が手狭になったので、祖母とともに近所の雑貨屋の二階に間借住まいをする。文学に夢を託すようになったのはこの頃からで、春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、15、6歳の頃、特に愛読したのは芥川龍之介であった。ほかに菊池寛の『啓吉物語』や岸田國士の戯曲も愛読した。休日には小倉市立記念図書館に通い始め、ここで、森鴎外夏目漱石田山花袋泉鏡花などを読み、新潮社版の世界文学全集を手当たり次第に読み漁った。しかし、当時世評の高かった志賀直哉『暗夜行路』などは、どこがいいのかさっぱりわからなかったという。

  • 短編小説に関する私見芥川龍之介菊池寛の短編小説に若い頃から関心を寄せてきた関係から自らも好んで短編小説を執筆した。「小説ほど作者の考えをはっきりとさせるものはない(中略)エドガー・アラン・ポーや、アントン・チェーホフ、ギ・ド・モーパッサンサマセット・モーム上田秋成の諸短篇が、他の長篇小説に比べていささかも遜色がないばかりか、かえって、そのテーマの明快さのために力強い感銘を与えている。短篇小説はたった一つだけ焦点を設定し、それに向かって可能な限り直截な方法で効果を集中させてゆく。これは短篇の形式でなければ得られない妙味である(『松本清張短篇総集』(1963年、講談社)巻末の「書いたころ」参照)」。「わたしは、どちらかというと長篇よりも短篇が好きで、短篇の数が多い。短篇は、焦点が一つに絞られて、それへの集中が端的だからである。短篇小説が長篇小説ほどに迎えられないというのはふしぎだし、書き手が長篇を多く指向するのもわからない(『着想ばなし(15)』(『松本清張全集 第56巻』(1984年、文藝春秋)付属の月報に掲載)参照)」。実際初期はほとんどが短編作品であり、文学的な意味での完成度において、短編作品を高く評価する論者も少なくない。これらの作品ではとりわけ「何らかの意味で劣等感を抱いたり、社会的に孤立したりしながら、心の底では世の中を見返してやりたいという熱烈な現世欲を抱き、そのためにかえって破滅するような孤独で偏執的な人間像」が好んで取り上げられた。その後、大きな反響を呼んだ『黒い画集』をはじめ、連作形式での短編発表が続き、清張の創作活動の大きな柱の一つを占めるまでになる。やがて長編執筆が主体となると短編の創作量は減少したが、晩年に入っても短編シリーズ『松本清張短篇小説館』『草の径』を発表するなど、最後まで短編創作の試みは続けられた。歴史上の人物に新たな焦点を当てるなど、様々な角度からの創作が行われている。

  • 森鴎外に対する私見…創作活動の初期から晩年まで、清張が間接的なものも含めて作品のモチーフとして取り挙げ続けた作家であり(『或る『小倉日記』伝』『鴎外の婢』『削除の復元』など)、評伝的作品『両像・森鴎外』も執筆されている。鴎外の作品中、清張が特に重点を置いて言及しているものは、『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』といった史伝物である。清張は鴎外が夏目漱石よりも大人であると述べており、国文学者三好行雄との対談の中で、清張は「私は鴎外にそんなに影響を受けたとか、あるいは?外に私淑して、一生懸命文体なり、あるいはテーマの取り方なんかを学んだとは思いませんね。鴎外と漱石というのを比べてみますと、大人という言葉を使えば、鴎外が漱石よりはるかに大人です。」と語っている。対して、夏目漱石に対する清張の言及は「批評家が『こころ』を漱石晩年の傑作のように言っているのが私には不可解です。要するに漱石の作品は、実生活の経験がなく、書斎に閉じこもって頭で書いたものだからです」といっている。清張が鴎外に終生関心を持ち続けた動機・背景に関しては、現在でも議論が続いている。

  • 菊池寛芥川龍之介志賀直哉などに対する私見菊池寛に関しては清張自身が影響を受けたことをしばしば表明。菊池は文藝春秋の創設者であるが、清張は16・17歳から20歳過ぎまでかなり菊池の考え方に影響されたと述べ『大島ができる話』『啓吉の誘惑』『妻の非難』『R』など、菊池寛の「啓吉もの」が自分の読書歴の古典であり、今でも文章の一部を暗記しているくらいであると清張は述べている。その作品を生活経験に裏付けられたものとして高く評価した。清張が共鳴した菊池寛の考え方を示すものとして「小説家たらんとする青年に与ふ」(『文芸倶楽部』1921年9月号掲載)がある。この中で菊池は「とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るといふことと、ある程度に、人生に対する考へ、所謂人生観といふべきものを、きちんと持つといふことが必要である」と述べている。そう見地から清張は日本の戦前文学史をこう要約する。「菊池のいうテーマ小説の出現は、それまでの自然主義的傾向の小説、白樺派人道主義的小説の流れと切りはなしては云えない。田山花袋らに代表される自然主義的小説は「あるがままのものをあるがままに描く」ことをモットーとしたが、それは自己の経験を中心にしたものであり、題材はきわめて狭かった。狭いゆえに描写の深化はあったが、その深化は行き詰りにつながっていた。(中略)自然主義的小説は人間生活の暗黒面が強調され、題材も主として女と貧乏にかぎられるようになった。大正末期までの「私小説」は、葛西善蔵に代表されるように生活落伍者と女関係とが主題になっている。(中略)「告白」はトルストイなどからの影響だが、その「告白」を皮相的にあるいはストイックに解釈し、または意識的に自己流に歪曲したのが大正期の私小説といえようか。自然主義小説は、人生を観照しても、実人生に解決がない如く、小説にも解決がない。自我を主張するが、その自我も因襲的な家族制度と社会機構に押し潰される。かくて自然主義小説は絶望の文学となり、虚無的となる。しかしここにも感傷的なロマンチシズムがあるのは見のがせない。これが愛読者を得た理由でもある。けれども題材が自己の経験や周囲の観察に限られているため、同じような話をくりかえして書く結果になり、マンネリズムに陥って、衰弱した。わずかに徳田秋声正宗白鳥などが命脈をつぐ。その自然主義小説に反抗してあらわれたのが白樺派である。彼らはトルストイの告白面よりも、その人道主義に共鳴した。有島武郎武者小路実篤志賀直哉、長与善郎など学習院卒の、貴族の子弟がそのグループだった。(中略)白樺派の小説は、一部に熱狂的な支持者を得ても、一般からはひろい共鳴を得られなかった。いわば、貴族のお坊ちゃんのひとりよがりの小説としてその底の浅さを云われ、嘲笑された。そこに登場したのが、菊池や芥川のテーマ小説である。人間の暗黒面、無解決、いつはじまっていつ終わったかわからないような叙述、小説の興味を抹殺したような平板、単調な構成の自然主義小説や私小説類、もしくはそれとは対蹠的だが白樺派の感傷的な人道主義小説または楽天的な理想小説に不満だった読者は、明快で理知的な人生裁断を前面に押し出した菊池の小説を歓迎した。菊池の小説は「自我」がテーマになっている。自然主義小説にも自我はあったが、それは内在的なものとしてしか扱われていなかった。菊池はそれを正面に押し出した。(中略)彼はその自我をテーマに、現代小説にしても歴史小説にしても、存分に面白い物語をつくりあげた」。こうした立場故に清張の芥川龍之介志賀直哉の作品に対する評価は相対的に低い。例えば「芥川を讃美するのはよいが、芥川作品の構成の脆弱よりも、寛の鉄骨で組み立てたような構造の見事さは、もっと再評価されてよいのではなかろうか(『随筆 黒い手帖』)」。「菊池だったら文章に効果的な省略はあっても、肝要なところは手抜きなどしないで、きっちり書くだろうと思われるのである。それは志賀と菊池の生活経験の違いから来る。『暗夜行路』の主人公は(中略)居所を転々とし、その間「放蕩」などするような自分の使う金に反省がないのみならず、社会的感覚がまったくなく、あるのは都合のいい自己だけである」。

菊池 寛『文芸作品の内容的価値』新潮・1922.7月号

有島は、自分を第二種の芸術家だと規定した。それは《芸術と自分の現在の実生活との間に、思いをさまよわせずにはいられないたちの人》のことをいう。このように自分の在り方が問題となるのは、ロマン主義とリアリズムとが融合し、さらに社会科学(科学的リアリズム)の発達が「個人」の位置づけと思想(思想的ロマン)の裏づけを行ってきたことに他ならない。したがって、「階級闘争運動」や「国家総力戦体制」が問題とならなくとも、今の私たちにおいて、取り巻く環境は同じである。

菊池寛は、有島のような《思いをさまよわせずにはいられない》という控えめな言い方ではなく、積極的に第二種の芸術家、否「第二種の芸術」を取り上げた。その「芸術と実生活」のうち「実生活」の価値を大いに認めようとするものが、この『文芸作品の内容的価値』である。忘れないうちに今の段階で述べておくが、これはプロレタリア小説にも従軍小説にも、そして戦後の小説にもつながる内容である。

《ある作品を読んで、うまいうまいと思いながら、心を打たれない。他の作品を読んで、まずいまずいと思いながら、心を打たれる。》

この理由について、菊池寛は2つ例示している。

《或る人は、後者には貴い実感が書いているからと云うかも知れない。》
《他の人は、後者には得難い体験が書いてあるからだというかも知れない。》

これらの見解につき、菊池寛自身は追及していないが、後者には前者にない何らかの価値があるとして、本論が始まる。そこから、やや争う態勢がとられている。

《ある人達は、作品には芸術的価値以外のものは、存在しないと云うかも知れない。私は、そう思えない。ある作品の中には、芸術的などと云うものとは別に、ある価値が存在し得るものだと思うのである。(略)。時事新報の短編小説を募集したとき、尾崎士郎君の「獄中より」とか何とか云う小品が、当選した。そのとき、選者の里見氏は、「小説として秀れて居るかどうかは分らないが」と云うようなことを云われたと記憶するが、あの手紙は表現などと云うことをはなれて、我々の心を打つ力を持っていた。》

他に、芥川氏の『蜜柑』は、題材を口頭で聴いたとき既にある感動に打たれたこと、『恩讐の彼方に』の筋書きである邪馬渓案内記、はそれだけ読んでもある感動に打たれること、等々を列挙している。

《文芸作品の題材の中には、作家がその芸術的表現の魔杖を触れない裡から、燦として輝く人生の宝石が沢山あると思う。》
《私はこうした意味から、文芸の作品には芸術的価値以外の価値が厳存する価値を信ずるのである。その価値の性質は、何であるか、我々を感動させる力、それにはいろいろあるだろうが、私はそれを仮に内容的価値と云って置きたいと思う。(これは便宜的な言葉である。われわれの生活そのものに、ひびいて来る力として、生活的価値と云ってもよいと思うし、それを仔細に分って、道徳的価値、思想的価値と云うように別けてもいいと思う)》

菊池氏はさらに、もう一歩進める。《この内容的価値が、文芸の作品に於ては、可なり重要であると。》そして「芸術至上主義者」(註−「主義者」は流行語)に対する防御の布陣を張る。

《芸術は、芸術的価値さえあれば立派な芸術だ。よく描けていさえすれば、立派な芸術だ。私は、それに反対しようとは思わない。芸術の能事は、表現に尽きる。(略)さて立派な芸術品なら、それでいいじゃないかと云うと、私はそれでよくないと云うのである。私は、芸術品も、芸術的価値以外に、所謂内容的価値を持っていなければならないと云うのである。》

次の引用は、有島の「第二種の芸術」(家)を思い浮かべながら読むと効果的である。

《文芸作品に接するとき、(略)われわれの下す評価は何かと云うと、決して芸術的評価丈けではない。われわれは、芸術的評価を下すと共に、道徳的価値を下し、思想的評価を下しているのである。「これは、芸術の作品である。ただ芸術的評価を下せ。」と云ったところで、其處に人生の一角が書かれている以上、これに対して道徳的評価を下さずにはいられないのである。其處に、無反省な蕩皃の生活が描かれている以上、それを非難せずにはいられないのである。(略)何等かの思想が描かれている以上、それに対して思想的な批判を下さずにはいられないのである。戯曲の主人公などが、つまらない思想を懐抱している以上、その性格描写がどんなにうまくっても、その舞台技巧がどんなに巧みでも、軽蔑せずにはいられないのである。》
《文芸の作品に対して、道徳的評価(一寸ことわって置くが、道徳的と云っても、コンベンショナルな意味で云っているのではない)や、思想的評価を下してはならないと云うのは、芸術家の逃口上である。文芸が、人間の大いなるいとなみの一である以上、道徳的評価や思想的評価を避くる訳には行かないのである。》

次の引用は、プロレタリヤ運動などを思い浮かべながら読むと効果的である。
《芸術的価値を作る丈けで満足している人、その人を芸術家としては尊敬する。が、そんな人は、自ら好んで象牙の塔に立てこもる人である。芸術的価値、芸術的感銘、それも人生に必要がないとは云えない。(略)が、それを作る丈けでは、あまりにも頼りない。武者小路氏が、当代の青年を動かした力は何であろうか。それは、氏の作品の芸術的価値ではない。氏の作品の、道徳的思想的価値ではなかろうか。》

《私は、芸術家を二分したいと思う。{註−またしても分類!}ただ芸術的表現を念とする作家と、それ丈けでは満足し得ない作家との二種類である。むろん、その間に多くの階段があるが。当代の読者階級{註−「階級」は流行語}が作品に求めているのは、実に生活的価値である。道徳的価値である。倉田百三氏の作品、賀川豊彦氏の作品などの行われることを見ても、思い半ばに過ぎるだろう。が、それを邪道とし、芸術至上主義を振りかざして、安閑として居てもいいのかしら。(略)芸術、それ丈けで、人生に対してそれほど、大切なものかしら。{註−「かしら」は今では女性言葉だが、江戸川乱歩も使用しているところからみると、それほど違和感のないものだったものか。今回の使われ方は揶揄的なニュアンスが多少籠められている模様。}》

そして最も重要視すべき箇所、結論部で締めくくられる。
《私は、芸術はもっと、実人生と密接に交渉すべきだと思う。絵画彫刻などは、純芸術であるから交渉の仕方も限られている。(それ丈け、人生に対する価値が少ないと思う)幸にして、文芸は題材として、人生を直接取扱い得るから、どんなにでも人生と交渉し得ると思う。それが、画家などに比して文芸の士の特権である。》
《ロシアの飢饉に於て、人は生きんがために、宗教を忘れてしまった。況んや、芸術をや。生活に奉仕することに於て、芸術はその職責をはたすのである。》
《芸術は経国の大事、私はそんな風に考えたい。生活第一、芸術第二。》

「人生に交渉」といえば、北村透谷山路愛山とで行われた『人生相渉論争』がある。(詳しくないので違っているかも知れないが)かつて読んだ印象として、いかにも明治の文章らしく、きらびやかな装飾の多い文章は"芸術的"ともみたが、内容は功利主義の論争であった。理念(ロマン)を重視するか、現実(リアリズム)を重視するかといった微妙なところが論点であったように押さえている。さて、菊池寛がここに展開した功利的な論理は貴重なものである。「生活に奉仕することに於て、芸術はその職責をはたすのである」という箇所は、その後多くのインテリ作家を規定していくものである。ところでもうひとつ、題材だけで感動するという箇所は、功利的に利用されなくなる時代において、「作家・作品不要論」を招来するものである。

17・8歳の頃、雑誌『新青年1920年創刊)』に掲載された翻訳小説により探偵小説の面白さに開眼、国内では江戸川乱歩の出現に瞠目、作品を愛読した。だが1927年、出張所が閉鎖され失職。

  • 推理小説に関する私見…雑誌『新青年1920年創刊)』では小酒井不木らによる翻訳を「むさぼり読んだ」一方、江戸川乱歩の初期作品に傾倒した。また牧逸馬が手がけたノンフィクション『世界怪奇実話』に憧れ、犯罪ドキュメントものに興味を持つようになる。後に作家となって以降も、牧逸馬の自宅を訪れ、蔵書を一覧し、原資料について質問している。『日光中宮祠事件』、『アムステルダム運河殺人事件』のような作品を書くようになったのは牧逸馬の影響であると述べている。戦後の作品としては、香山滋『怪異馬霊教』の強烈な個性に関心を持ったという。1961年に出版された『随筆 黒い手帖』では、トリックの尊重や、また本格推理の面白さは肯定するが、限られた数のマニアのみを念頭に、設定や描写の奇抜さを競い合う状況が推理小説の行き詰まりを引き起こしているとして、多くの人々の現実に即したスリル・サスペンスを導入すべきことを訴えたが推理小説に現実性を持たせる主張自体は、清張の独創ではない。古典的な探偵小説の非現実性に対する批判として有名なものに、アメリカの作家レイモンド・チャンドラーの1944年のエッセイ「The Simple Art of Murder(素朴な殺人芸術)」もある。ただし清張は「推理小説が謎解きの面白さを骨子としている以上、トリックを尊重するのは当然である」とする立場を捨てず、動機の重視など、チャンドラーとは異なる方法へと進んだほか動機の描写に力を入れることで人間描写を深めた。なお推理小説で人間を描くことについては、清張以前から議論が続けられてきた古典的問題である。有名なものは、清張が作家として世に出る際大きな役割を果たした木々高太郎甲賀三郎による昭和11年-12年の「甲賀・木々論戦」である。また、木々を中心とした新人推理作家グループによる、「探偵作家抜打座談会」(『新青年』1950年4月号掲載)も行われたが、乱歩によれば「探偵小説本格主義打倒の純文学論を高唱したもの」であったという。推理小説に社会性を加えられることなどを主張している。

  • 松本清張が語らなかった事…そういえば漢語カタカナルビと西洋の知識に彩られた、極度のペダントリー的作風(衒学趣味)をトレードマークとした推理小説作家小栗虫太郎(1901年~1946年)への言及がない。博文館『新青年』昭和8年7月号に「完全犯罪(1933年)」を掲載して一躍人気作家となり、同誌に推理小説三大奇書の一つ『黒死館殺人事件(1934年)』を発表。戦後も活躍を期待されていたが1946年(昭和21年)2月10日、疎開先の長野県でメチルアルコール中毒による脳溢血のため死去。享年45。元来小栗のデビュー作『完全犯罪』は、本来水谷準編集長の企画として7月号に横溝正史が百枚物の読み切りを書く予定であったものが、5月7日に横溝が大喀血して執筆不可能となった為に急遽ピンチヒッターとして掲載されたものだった。横溝は水谷編集長に平謝りだったが、水谷からは「心配することはない、こちらに手ごろな長さの作品があるから」と静養に努めるよう言われたという。横溝は後に「世にこれほど強力なピンチヒッターがまたとあろうか。私が健康であったとしても『完全犯罪』ほど魅力ある傑作を書く自信はなかった」と述べている。一方、太平洋戦争の始まる少しまえ、ある会の帰りに横溝は小栗と二人でおでん屋で酒を飲んだが、そのとき小栗は「横溝さん、あんたが病気をしたおかげで、私は世の中へ出られたみたいなもんだよ」と言ったという。横溝は「阿呆なことをいいなはんな。わしが病気をしてもせんでも、あんたは立派に世の中へ出る人じゃ」と答えた。すると小栗は「それはそうかも知れないが、少くとも二三ヵ月早くチャンスが来たことは確かだからね」と言う。横溝は重ねて「よしよし、それなら、今度お前さんが病気をするようなことがあったら、私がかわって書いてあげる」と答えたという。昭和21年、横溝は岡山に疎開していたが、小栗から「海野十三に住所を聞いたから」と、春先に突然手紙をもらった。小栗はその手紙の中で「今後の探偵小説は本格でなければならぬ、自分も今後本格一筋でいくつもりである」と、意気軒高だったという。横溝も同じ思いだったので賛同し、2、3度文通を重ねたが、メチル過により、小栗の突然の訃報に接したのは唖然とせざるを得なかったと語っている。戦争中、横溝はほとんど誰とも往復せず、誰とも文通しなかった。それが戦争が終わってからまた旧交をあたため、二三度手紙を往復したかと思うと、突然小栗急逝の電報である。横溝には何が何やらわけがわからなかったが、間もなく海野十三から詳しい報告を聞いてはじめて死の真相を知った。横溝は痛恨傷心のあげく、二三日何もしないで寝込んでしまったという。小栗が死ぬ前に書き送った手紙で、小栗の探偵小説に対する熱情が、なみなみならぬものであることがうかがわれ、それだけに失望落胆は大きかったという。小栗は突然死の前に、『探偵雑誌ロック』(筑波書林)で長編連載を予定していた。このため途方に暮れた山崎徹也編集長は、横溝に代わりの長編連載を頼んできた。当時『宝石』で『本陣殺人事件』を連載していた横溝だったが、「虫太郎のピンチヒッターというところが、いささかおセンチ野郎の私の心を動かし」たそうで、引き受けたのが『蝶々殺人事件』だった。横溝は「虫太郎のことを思えばおセンチにならざるを得ない」と、この作家の早世を儚んでいる。

  • 江戸川乱歩への私見…清張の『ゼロの焦点』(連載時の題『零の焦点』が連載されたのは江戸川乱歩の編集長を務める雑誌『宝石』であり、その休載時に両者の対談が行われた。また推理小説の指南書『推理小説作法(1959年、光文社,2005年、光文社文庫)』を清張と共編している。清張は特に「二銭銅貨」以降続々と発表された乱歩の初期短編を愛読し「大変な天才が現われた」「日本にも本格的な探偵小説作家が出たと驚嘆した」と絶大な評価を与えている。のちの通俗長編に対しては「独自性や野心的なものは、残念ながら影を潜め」「作品価値的には遂に長い空白時代が続く」など厳しい感想が多いが、一方では「面白さにかけてはそれなりに独自のものを持っている。爾後の模倣者の及ぶところではなく、乱歩の才能の非凡さを示している」と一定の評価も述べている。それで乱歩の死後、三島由紀夫中島河太郎と共に『江戸川乱歩全集』(講談社・全15巻・1969 - 70年)の編集委員を務めた。

子供の頃から新聞記者に憧れていたので地元紙『鎮西報』の社長を訪ねて採用を申し入れたが、大学卒でなければ雇えないと拒否された。この頃、一時は繁盛した父の飲食店も経営が悪化、失職中の清張も露店を手伝い、小倉の兵営のそばで、パンや餅などを売っていた。文学熱はさらに高まり、八幡製鉄や東洋陶器に勤める職工たちと文学を通じて交際、文学サークルで短篇の習作を朗読したりした。また、木村毅の『小説研究十六講』を読んで感銘を受けた。

  • 木村毅への私見…清張は16歳から17歳の頃のに読んだ『小説研究十六講』について「その前から小説は好きで読んでいた。しかし、小説を本気で勉強したり、小説家になろうとは思っていなかった。だが、この本を読んだあと、急に小説を書いてみたい気になった。それほどこの本は私に強い感銘を与えた」といっている。清張のこのエッセイを読んだ木村は「私のながい文学生涯において、これほど私にうれしかった文章はめったにない(中略)、若き松本清張君の訪問は、私をよろこばせ、自信をつけ、再生の思いをさせた」。鶴見俊輔によれば、『小説研究十六講』は、「昭和初期まで相当の影響力を持っていた」はずだが、文学者の「最初に自分の眼をひらいてくれた本のことをあまり言いたがらない習慣」ゆえに、無視されるようになったという。小倉から東京へ転居した際、清張は真っ先に木村の自宅を訪問し、その後も交流を続けた。「(清張は)会見後はいよいよ私の支持者となって、ただに『小説研究十六講』ばかりか、私の書くたくさん著作を飽きもせず渉猟して、埋没した明治史の発掘者として、文藝春秋社のどれかの雑誌に講演をして、長々と私をほめ、「えらい人」と言っている」。清張の『暗い血の旋舞』に先立ち、クーデンホーフ光子の伝記を残している

1928年になっても働き口が見つからないので手に職をつける仕事をしたいと考え、小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習い工となる木村の死去に際して清張は「葉脈探求の人-木村毅氏と私」(『オール讀物』1979年12月号掲載、エッセイ集『グルノーブルの吹奏』に収録)を書き、追悼した。同文中で清張は「それまで私は小説はよく読んでいるほうだったが、漫然とした読み方であった。小説を解剖し、整理し、理論づけ、多くの作品を博く引いて例証し、創作の方法や文章論を尽くしたこの本に、私を眼を洗われた心地となり、それからは小説の読み方が一変した。」「高遠な概念的文学理論も欠かせないが、必要なのは小説作法の技術的展開である。本書にはこれが十分に盛られていた。」「私は33歳のころまで乏しい蔵書を何度か古本屋に売ったことはあるが、この「小説研究十六講」だけは手放せず、敗色濃厚な戦局で兵隊にとられた時も、家の者にかたく保存を云いつけて、無事に還ったときの再会をたのしみにしたものだった」と述べている。月給は10円であった。このままでは本当の画工になれないと思った清張は、さらに別の印刷所に見習いとして入る。ここで基礎から版下の描き方を学び同時に広告図案の面白さを知った。この頃、飲食店の経営はさらに悪化、一家は紺屋町の店を債権者に明け渡して、ふたたび工場廃液の悪臭がただよう中島町に戻り、小さな食堂を開くが全く商売にならず、父は相変わらず借金取りに追われていた。印刷所の主人が麻雀に凝って仕事をしなくなったため、清張は毎晩遅くまで版下書きの仕事に追われた。1929年3月、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため「アカの容疑」で小倉刑務所に約2週間留置された。釈放時には、父によって蔵書が燃やされ、読書を禁じられてしまう。

  • プルードンとの対比…清張本人が何処まで意識していたか不明だが、その足跡は「無政府主義の父」プルードンと部分的に重なる。どちらも「現場叩き上げ」故に社会の不公平は憎みつつも自ら観察可能な範囲の世界しか信じようとせず、その結果あくまで「不偏不党の立場から社会的矛盾をとらえているが故にあえて民衆とブルジョアジーの間に決定的境界線を引かない」「ブルジョワによる不当な財産専有には反対するのに全個人の私有財産放棄の必要性までは認めない」「ナショナリズムを時代遅れの遺物と唾棄して外国人と提携し母国を滅ぼそうとしない」「あらゆる中央権威の接近に気を許さない」といった基本的立場までは崩さなかった。

  • 「無政府主義の父」フランスピエール・ジョセフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon:1809年~1865年)ヴィクトル・ユーゴーシャルル・フーリエリュミエール兄弟も産んだブザンソン郊外に醸造と樽製造の職人の子として生まれ、8歳頃から宿屋の食糧係として働きはじめ、19歳から自分で生計を立てねばならなくなってブザンソンの印刷所に校正係として就業して教会用のラテン語訳聖書の校正をするうちに広汎な神学の知識を身につけてパンフレットを自費出版する様になった。聖職者会議より「財産平等の理想に基づく社会改革思想」と認定されて発禁処分を受けた「日曜礼拝論(1839年)」。「財産、それは盗奪である」などの過激表現でブザンソン・アカデミーから出版認可を取り消された『財産とは何か(1840年6月)』。財産に関する第二論文『ブランキ氏への手紙(1841年4月)』、そしてブザンソンの司法官憲に押収され起訴された第三論文『有産者への警告(1842年1月)』。実務に妨げられながら経済学者と交遊を重ねつつ『人類社会における秩序の創造(1843年)』、『経済的矛盾の体系、または貧困の哲学(1846年)』などを執筆。ロシアのバクーニンと知り合いヘーゲル弁証法について徹夜で議論してた事もあったが,1844年より数度会ったマルクスについてはその教条主義権威主義が鼻をついて距離を起こうとし、それまで「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」とまで称賛していたマルクスに不倶戴天の敵と目される状況を産んだ。フランス二月革命(1848年)に積極参加し6月の補欠選挙で国民議会議員に選出されるも1849年に大統領ルイ・ナポレオンを反動の権化として自分の新聞で攻撃して3年の禁固刑と1万フランの罰金刑を宣告された後、出獄後出版し6000部売れた『革命の正義と教会の正義(1858年)』を官憲に押収され「公共道徳・宗教・国家を攻撃した罪」で再び禁固3年と3千フランの罰金刑を宣告され、家族とともにベルギーのブリュッセルに亡命。その後特赦を利用して帰国してあらゆる意味で中央権威への屈服を警告する「連邦主義的原理と革命党再建の必要について(1863年)」を執筆した後、普仏戦争(1970年)5年前にパリで死去した。その思想は同様に「職人が気持ちよく働ける社会」という立場からサンディカリスム(Sindacalismo rivoluzionario:革命的労働組合運動)などを提唱したジョルジュ・ソレルなどに継承される。

1931年 印刷所が潰れ、約2年ぶりに高崎印刷所に戻ったが、博多の嶋井オフセット印刷所(正確には嶋井精華堂印刷所。博多三傑の一人、島井宗室の末裔が経営)で半年間見習いとなった。ポスターの図案を習うつもりだったものの、文字もデザインの一つだからという理由で、もっぱら文字を書かされていた。書を清張に教えたのは、能書家で俳誌「万燈」の主宰者でもあった江口竹亭であった。後の作品中に覗われる俳句趣味・能書家の下地がここで培われた。その後みたび高崎印刷所に復帰、ようやく一人前の職人として認められた。その頃から広告図案が重視されるようになり、嶋井精華堂で学んだ技術が役立った。1936年11月、佐賀県人・内田ナヲと見合い結婚。ナヲが裁縫を習いに通っていた近所の寺の住職の紹介であった。高崎印刷所の主人が死去し経営状態が悪化、勤めを続けながら自宅で版下書きのアルバイトをした。将来に不安を感じ,1937年2月に印刷所を退職、自営の版下職人となった。この頃、朝日新聞西部支社(現・西部本社)が門司から小倉に社屋を移転し、最新設備による印刷を開始する旨の社告が載った。版下の需要が増えると見込んだ清張は、支社長の原田棟一郎に版下画工として使ってほしいと手紙を書き、下請け契約を得ることに成功した。1939年に広告部の嘱託,1940年には常勤の嘱託となった。なお1938年に長女,1940年に長男,1942年に次男が誕生している。。1943年には広告部意匠係に所属する正社員となったが、独創性を必要とされない仕事内容で、また身分制度的で実力を評価されない職場環境であり、『半生の記』ではこの時期を「概して退屈」「空虚」と記している。そのような中、清張の楽しみの一つは、図案家仲間との交流であった。仲間と共に年に一回、ポスターの展示会を開き、東京から有名なデザイナーを呼んで審査してもらっていた。もう一つの楽しみは、北九州の遺跡めぐりであった。当時清張の職場の隣席に浅野という校正係がおり、浅野は収集した石器や土器の破片を取り出して清張に見せ、考古学者・森本六爾の話をして聞かせたという。浅野の影響から、休日には各地の遺跡を訪ね歩いた。

  • 森本六爾(1903年~1936年)奈良県磯城郡織田村大泉(現桜井市)出身。1920年に旧制畝傍中学校(現奈良県立畝傍高等学校)卒。奈良県磯城郡三輪尋常高等小学校の代用教員となり、香久山尋常高等小学校や生駒郡都跡尋常高等小学校の代用教員を務め,1924年に上京し東京高等師範学校の校長であった三宅米吉のもとで、歴史教室に副手として勤務した。1929年、三宅の死去にともない、副手を辞任。鎌倉市極楽寺の仮寓で結核により32年の生涯を閉じた。弥生期区分において稲作が開始されたことを提唱するなど、アマチュアながら日本の考古学の発展に大きく貢献。高校までの教科書に名前が出てくることは稀であるが、考古学に携わる者の間では『考古学の鬼』という異名とともに有数の知名度を誇る。藤森栄一、小林行雄、杉原荘介らが弟子として知られている。 鳥居龍蔵の数少ない後継者の一人とも。松本清張の短編小説『断碑』の主人公、木村卓治のモデルとされている。

  • 鳥居龍蔵(1870年~1953年)…「学校は単に立身出世の場であり、裕福な家庭に生まれた自分に学校は必要ない。むしろ家庭で自習する方が良い」と豪語し独学で人類学を学ぶ。「日本人のルーツ」を追求するあまりその興味範囲は考古学・民俗学民族学分野にまで及び,1895年(明治28年)の遼東半島の調査を皮切りに、台湾・中国西南部シベリア・千島列島・沖縄など東アジア各地を調査。中でも満州・蒙古の調査はライフワークともいえ度々家族を同伴して訪れている。現地で助手を努めた妻きみ子を最初の女性人類学者と見る向きも。師と仰ぐ坪井正五郎より観察中心の研究態度を継承し1896年(明治29年)の台湾調査で初めて写真機を使用。1904年(明治37年)の沖縄調査で民謡などの録音に鑞管蓄音機を導入。その反面観察不可能な宗教的現象などには無関心でタオ族の文化的特徴たる漁業上のタブーなどについては一行も書き残さなかった。また千島アイヌが最近まで土器や石器を使用し竪穴式住居に住んでいた事を発見し「アイヌ民話に登場する小人・コロポックルアイヌ民族を起源とする伝説にほかならない」として師に当たる坪井正五郎の説を覆している。学歴なき在野の研究者ゆえに「官学」たる東京帝国大学との対立は根深く、今日なおアカデミックな領域では「幼少期の一途な好事家が、老いても無邪気なままの好事家であった」「日本の植民地政策に加担した憎むべき帝国主義者(その活動範囲が日本の拡大戦略に沿ったものであった事、「日鮮同祖論」を提唱し「日鮮人の場合は、同一民族であるから、互いに合併統一せらるるのは正しきこと」と当人も信じていた事は事実でと植民地統治に無縁でもなく、かといってそのイデオローグでもなかった微妙なグレーゾーン上に立った事は確か)」と蔑まれ続けいるとも。

  • 戦後歴史学への私見…後に松本清張はノンフィクション作『日本の黒い霧(1960年)』や『昭和史発掘(1964年~1971年)』を手掛けるが、日本近代史専攻の有馬学によれば、『昭和史発掘』中で清張の駆使する史料は、当時の研究者から見ても、相当な水準のブレーンがいなければ集め得ないものであったという。このため種々の憶測も生まれたが、清張は「資料の捜索蒐集は、週刊文春編集部員の藤井康栄が一人であたった」と明言している。歴史学者の成田龍一と日本文学者の小森陽一はここに清張の戦後歴史学(アカデミズム)に対する批判意識を見出す。戦後歴史学が権力対民衆運動の枠組みに縛られ、権力(=天皇)の問題を考察する(=天皇制は封建制の残滓であり日本の遅れの象徴という)イデオロギー構造になっていたのに対し、GHQの謀略という視点を持ち込み、また、法則性に基づいた歴史の発展(=マルクス主義)ではなく、個別ばらばらの事件を追求して背景を探るという発想自体、当時の歴史学にはない新しい手法であった。また「日本の黒い霧」は天皇をめぐる議論に触れていない為に当時の多くの歴史学者が清張の議論を軽視・無視したが「昭和史発掘」では戦前の軍国主義問題に踏み込む。そして戦後歴史学大政翼賛会を念頭に思想統制治安維持法に代表される「上からのファシズム」ばかり強調していたのに対し、下仕官や兵のレベルまで資料発掘・言及する対象を拡大し、二・二六事件で決起した青年将校A級戦犯に戦争の全ての責任があるのではなく、国民一人一人が戦争への欲望を持ち、下からファシズムを望んでいたことを論証しようとしたと結論付けている(まるで戦前における講座派(コミンテルンの命令に従って表面上は日本を資本主義実現以前の後進国と見做し「ブルジョワ天皇制打倒」)と労農派の論争そのもの!!)。

  • 講座派…表面上はコミンテルンの命令に従って日本を資本主義実現以前の後進国と見做し「ブルジョワの力を結集しての天皇制打倒」を志向。しかし実際には中国科挙官僚や朝鮮中央両班の如く東アジアの伝統に従って大衆を侮蔑しインテリ独裁体制実現の主導権を勝ち取るべく党争に明け暮れただけだった。大日本帝国時代の弾圧で大量の転向者を出した為、戦後日本では左翼陣営だけでなく右翼陣営にも数多く含まれる事になったとされる。

  • 労農派…日本は既に明治維新からの流れで資本主義化は終えており今更天皇制打倒を叫ぶ意味はない。今はさらに先に進む為に財閥の資産専有を打倒すべく全階層を結集すべきとした。講座派と異なり海外の左翼陣営が「国際的対ファシズム戦線」の組織を着手するまで大日本帝国から弾圧される事はなかった。

やがて教育召集のため、久留米第56師団歩兵第148連隊に入隊、陸軍衛生二等兵として3ヶ月の軍務に服した。その後,1944年6月、臨時召集の令状が届いた。この時は、久留米第86師団歩兵第187連隊に入隊、直ちに歩兵第78連隊補充隊への転属を命じられるが、これはニューギニアへ補充のために送られる部隊であった。補充隊は朝鮮に渡り、7月4日に竜山に到着、同地に駐屯。その後、戦況の変化から同部隊のニューギニア行きは中止となったため中隊付きの衛生兵として医務室勤務となり、軍医の傍らでカルテを書いたり、薬品係に渡す薬剤の名前を書き入れたりする作業に従事した。12月に陸軍衛生一等兵となる。1945年3月、歩兵第292連隊第6中隊に編入され、4月には歩兵第429連隊に転属した。所属は変わっても衛生兵としての任務は変わらなかった。5月、第150師団軍医部勤務となり、全羅北道井邑に移り、6月に衛生上等兵に進級、終戦を同地で迎える。10月末、家族が疎開していた佐賀県神埼町の農家へ帰還、朝日新聞社に復職。小倉市内の黒原営団(現、黒住町)の元兵器厰の工員住宅に住み、20坪前後の敷地に一家8人で生活しながら砂津に在った朝日新聞西部本社まで歩いて通勤していた。。しかし当時の新聞はタブロイド版1枚、広告は活字の案内広告だけで、事実上仕事がない。会社の給料だけでは生活困難であったので会社の休日や食糧買い出し制度を利用し、藁箒の仲買のアルバイトを始めた。佐賀地域の農家が副業で作る藁箒を仕入れ、小倉近辺の荒物屋に卸した。当初清張の活動範囲は北九州だけであったが、そのうち広島まで足を延ばし、やがて見本を持って関西方面にまで遠出、空いた時間を使って京都や奈良の寺社を見学した。

  • 横溝正史に対する私見…戦争末期における岡山疎開時の経験を戦後創作の出発点とする横溝正史は、江戸川乱歩らとの座談会(『別冊宝石』第109号収録)において社会派推理小説の流行に関して「作家は(時流に)受けるものを書くのではなく、好きなものを書く」として、距離を置く発言をしている。ただし、後年には社会派の影響を受けた作品も執筆しており、「本格推理小説が復興するにしても、松本清張氏が築き上げたリアリズムの洗礼を受けたものでなくてはならないでしょう」とトーンを変化させた。なお、清張が横溝の作品を「お化け屋敷」と呼んだとされることがあるとされるが、清張が横溝の作品を指してそのように呼んだ事例は、『随筆 黒い手帖』を含め実際には存在しない。にもかかわらずこの解釈が生じた背景の一つとしては,1957年に行われた荒正人と清張の論争があり、その中で荒は、清張の文章が名前を伏せた横溝批判に相当するのではないかと主張している。また1970年代の横溝正史バイバルブームに際して松本清張は近年の推理小説に良作が少ないせいとして次のように述べた。「いい作品が少ないですね、社会派ということで、風俗小説か推理小説かわからないようなものが多い。推理小説的な意味で言えば水増しだよ。それで、トリックオンリーの探偵小説、たとえば横溝さんのものなど、どんでん返しもあれば意外性もあって、コクがあるでしょう、それで読者に迎えられているんだよ」。

1948年頃になると、正規の問屋が復活しこのアルバイトが成り立たなくなったため、今度は印刷屋の版下描きや商店街のショーウィンドウの飾り付けなどのアルバイトに従事、また生活費を稼ぐ目的もあって、観光ポスターコンクールなどに応募していた。木村毅の『小説研究十六講』を座右の書としていたが、もともと作家志望ではなく生活のために勤務中の1951年に書いた処女作『西郷札』が『週刊朝日』の「百万人の小説」の三等に入選。この作品は第25回直木賞候補となった。この年初めて上京。全国観光ポスター公募でも、『天草へ』が推選賞を取った。1952年、木々高太郎の勧めで『三田文学』に「記憶」「或る『小倉日記』伝」を発表。1953年に「或る『小倉日記』伝」は直木賞候補となったが、のちに芥川賞選考委員会に回され、選考委員の1人であった坂口安吾から激賞され、第28回芥川賞を受賞。『オール讀物』に投稿した「啾啾吟」が第1回オール新人杯佳作。同1952年、日本宣伝美術協会九州地区委員となり、自宅を小倉事務所とする。1953年12月1日付で朝日新聞東京本社に転勤となり上京。当初単身赴任となった清張は、まず杉並区荻窪の田中家(田中嘉三郎は清張の父である峯三郎の弟。嘉三郎はすでに死去していたが、その家族が住んでいた)に寄宿。翌年1954年の7月に一家が上京、当初は練馬区関町の借家に住んでいたが、3年後の1957年に石神井に転居した。朝日新聞社勤務時代には歴史書を雑読し、広告部校閲係の先輩から民俗学の雑誌を借りて読んでいた。また樋口清之の考古学入門書を愛読していた。

  • 樋口清之に対する私見…教科書的な歴史書からは忘れられがちな庶民生活の視点から歴史の大局を描き出すのを得意とし、一般向けの歴史の啓蒙書を数多く発表。代表作として『梅干と日本刀』『逆・日本史』などが挙げられる。吉川英治が小説『宮本武蔵』を執筆していた頃、時代考証の面で協力していた。この時に創作した事柄が、歴史的事実として文献に記載される事もあり後に本人が驚いたという。また松本清張のブレーンも務めていた事があるとされる。

西部本社勤務時に引き続いて意匠係の主任となったが,1956年5月31日付で朝日新聞社を退社。退社の直接の契機は井上靖からの助言で、以後は作家活動に専念することになる。1956年9月に日本文芸家協会会員。1955年から『張込み』で推理小説を書き始め,1957年短編集『顔』が第10回日本探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)を受賞、同年から雑誌『旅』に『点と線』を連載する。翌年刊行され『眼の壁』とともにベストセラーとなった。「清張以前」「清張以後」という言葉も出て、「清張ブーム」が起こった。
*その後も執筆量は衰えず、『かげろう絵図』『黒い画集』『歪んだ複写』などを上梓。執筆量の限界に挑んだ。清張の多作は同時代の作家にとっても驚きであり、種々の憶測も呼んだ。作家の平林たい子は韓国の雑誌『思想界』1962年8月号に「朝から晩まで書いているんですけど、何人かの秘書を使って資料を集めてこさせて、その資料で書くだけですからね。松本と言えば人間ではなく「タイプライター」です」と発言した。これに対し清張は「事務処理をする手伝いの人が一人いるのみで、事実に反する」と反論している。しかしのち、書痙となり、以後口述筆記をさせ、それに加筆するという形になった。

http://h-yanase.sakura.ne.jp/image25.jpg

もう歴史のこの時点で「自然派(naturalisme)」の定義はすっかり別物に?

いや、これが正しい進化の形?