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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【年表】【抱き枕元祖】【真景累ヶ淵】【グランギニョール(Grand Guignol)】日本の私小説文化と自然主義文学運動(Naturalisme)の狭間

田山花袋「蒲団(1907年)」 を嚆矢とする日本の「自然主義文学」は、その大元となったフランスの「自然主義文学運動(naturalisme)」とは全くの別内容。いわゆる「私小説」の先祖筋に当たります。

http://tn-skr2.smilevideo.jp/smile?i=21698353.L

なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史 読書猿Classic: between / beyond readers

それまで日本文学界を権威主義的に牛耳ってきた尾崎紅葉(1868年〜1903年)が亡くなると、作家が自由業になる時代がやってきました。師弟関係からも労使関係からも〈解放〉された彼らに残ったのは(意識の上では)自分の家族関係だけとなったのです。そこで彼らは社会についてではなく、自分の家族(年長の者は自分の妻子や愛人との関係、年少の者は自分の親との関係)についてだけ書くようになりました。

困ったことに、自分や自分の家族についてだけ書いた私小説は売れてしまいました。私小説の登場が、ちょうど工業化が進んだり学校が増えたりして読書人口が増加するタイミングとマッチしていたせいです。

  • かつては上の学校へ進むのは、人口全体から見ればごく一部のエリートであり、本を書くのも読むのももっぱらこの人たちでした。

  • しかし新しく読書人に加わったのは、学校は出たもののエリートにはなれないインテリたちでした。学校が増えたおかげで増加したインテリでしたが、働き口はそれに見合って増えた訳ではありません。学校は出たけれど、思ったほど恵まれた職業につけない人が大部分であり、こうした不満階層が新しい読書人の中心となったのです。そして不本意な職業につき、生活のためには節を曲げていかねばならない不満なインテリたちは、師弟関係からも労使関係からも〈解放〉されて筆一本で生活できるようになった作家というものに、自分の果たせなかった理想の生活を見い出したのでした(今でもこうしたイメージを抱いて作家を目指す人がいますね)。

こうして作家の生活を綴った私小説の読者層が成立。彼らが買い支えることで、自由業としての私小説作家の生活は維持されたのでした。

新聞社に勤めて給料をもらわなくても作品が売れて食っていけるようになった作家たちは、自分たち同業者の小社会、すなわち文壇をつくります。文壇では、自分たちプロの作家が書くような私小説こそが文学なりという認識が高まりました。

赤裸々告白系の私小説は、志向として反=技巧的でした。節を曲げて生きなければならない不満インテリである読者は、作家の〈嘘をつかなくても生きられる生活〉にあこがれたので、文章の技巧より〈ありのまま〉に実際の生活が書いてあることを求めました。しかし読者は残酷なもので、ただ赤裸々であることに飽きると、より強い刺激を求めていきます。徳田秋声(この人もかつて紅葉に冷や飯を食わされた一人)のように、あとで波乱万丈の私小説を書くために、実験としてヤバい恋愛をして、わざわざ人生をメチャクチャにする人まで現れました。

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自然主義(ミニ事典)

*そもそも尾崎紅葉(1868年〜1903年)の作品自体に「セカイ系」的傾向が見て取れる。

*そして1920年代から1930年代にかけて(大正時代の後半〜昭和初期)マルクスボーイやエンゲルスガールが世に溢れると、彼らの中からさえ、その立場からロマン・ロランの「ジャン・クリストフ(Jean-Christophe、1904年〜1912年)」よろしく「破滅から世界を救済せんとするアジテーション」を作中に込める者達が現れた。宮沢賢治の様な児童文学作家でさえ、この棺桶に片足突っ込んだ様な作品を残している。マルクスのいう「我々が自らの自由意志や個性であると信じて疑わないそれは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」とはまさにこれ。こうして「私小説か社会小説の二択」の伝統が始まる。ある意味この状況こそが「セカイ系作品」や「なろう系作品」の真祖とも。
西田幾多郎「マルクスボーイと人格的自由

*1957年以降は「本格自然主義運動(Naturalisme)作家」松本清張が大暴れするが、もはや両者は共通点を見出すのすら困難な状態に。

*そもそもゲーム・ライター元長柾木は「セカイ系」を「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの根幹概念をもつ作品群として規定し、その言葉の起源を清涼院流水「カーニバル・イヴ(1997年)」における「社会派ではなく世界派として小説とは異なる大説を目指す」宣言に求めている。ここで一区切りつく「社会派」の歴史が存在するという事なのである。

それでは、フランスの「自然主義文学運動(naturalisme)」は日本の小説界に何の影響も与えないまま今日に至ったのでしょうか?

ある意味1859年は「社会学(Sociology)元年」とでも呼ぶべき年だったといえる。

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  • ジョン・スチュアート・ミルが「自由論(On Liberty、1859年)」によって「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。権力が諸個人の自由を妨げるのが許されるのは、他人に実害を与える場合だけに限定される」なる考え方を発表。

    http://static.theglobeandmail.ca/33e/incoming/article26143868.ece/ALTERNATES/w620/JohnStuartMill.png

  • ダーウィンが「種の起源(On the Origin of Species、初版1859年)」によって系統進化などの概念を発表。

    http://www.nyas.org/image.axd?id=79d93caf-98d2-4d9c-bd65-6f97492d239a&t=633833492950170000

  • マルクスが(パトロンたるラッサールの全面協力を受けて)「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」によって「我々が自由意思や個性と信じているものは、社会の同調圧力によって型抜きされた既製品にすぎない」なる考え方を発表。

    http://www.sz-kaethe.org/wp-content/uploads/charlie-marx.jpg

こうした新概念の組み合わせから社会学の形成が始まったからである。

原義における自然主義文学運動(naturalisme)はここから出発点します。 

自然主義(仏naturalisme、英naturalism)

元来は自然を唯一絶対の現実とみなす立場をいう哲学用語であるが、文芸上でとくに、写実主義のうちに自然科学の客観性と厳密性を取り入れることを主張して、19世紀後半のフランスでゾラを中心としておこり、ヨーロッパ各国に広がった文芸主潮をいう。自然主義はつまり、写実主義に対立したもの、あるいは別個の潮流ではなく、それを継承し、さらに方法的に推し進めた同じ流れに属するもので、このため、作者および作品の両派の区分がかならずしも明瞭(めいりょう)にされない場合もしばしばある。自然主義はまず、すでに時代遅れとなった虚偽のロマン主義に対する反動としておこったが、時代の科学万能主義の思潮と相まって、単にありのままの現実再現という写実主義に飽き足らず、「総合的真実」を描くために、現実をつくりあげている科学的根拠としての「原因」を追求しようとした。つまり、この現実世界を説明することができる方法はただ一つ、科学しかなく、物理的世界の認識に対して科学がすることを文学のなかで行おうとするもの、たとえば心理学にかわり、人間の行動における生理学的根拠や、感情、性格を決定づける社会環境などが追求される「科学的作品」を創造しようとするもので、コントの実証主義、テーヌの決定論、ダーウィンの『種の起原』、クロード・ベルナールの『実験医学序説』、リュカProsper Lucas(1805―85)の遺伝学などがこの場合の理論的根拠となった。[加藤尚宏]

ヨーロッパおよびアメリカでの展開

1865年前後のゾラおよびゴンクール兄弟の小説にその最初の表現がみられるが、68年ゾラが『テレーズ・ラカン』2版の序文で自然主義宣言を行って以来、ゾラを囲んで同調者のグループができて、デュランチらの写実主義文学運動以上に、一つの明確な流派としての運動となった。ついでゾラは、のちに『実験小説論』(1880)のなかで表明する理論に基づきながら、71年から約20年の計画で連鎖小説『ルーゴン・マッカール双書』20巻を発表し始める。この理論は、クロード・ベルナールの実験医学の観察と実験の原理を文学に応用したもので、社会現象の厳密な観察を土台に、科学的(生物学的、生理学的、医学的)な意味で条件づけられた人間をそれぞれ特定の環境と事件のなかにおいて「実験」を試み、その結果を科学的冷静さで報告するというものである。そして77年『居酒屋』が発表されるや、この派は時代の潮流を制覇し、そのなかからアレクシス、セアールHenry Card(1851―1924)、エニックLon Hennique(1851―1935)、ユイスマンスモーパッサン、ドーデらの作家が誕生した。しかし、医学が病気を対象とするように、社会の病悪を主たる題材にとる自然主義の小説は、社会(とくに下層の)の醜悪な面、人間の異常な面を強調しながら克明に描写する露悪的でペシミスティックな傾向を強めていくにつれ、一般の反感を惹起(じゃっき)し、あげく、『大地』(1887)が発表されるに及んで、ゾラが弟子たちにまで反旗を翻されるに至った(『五人の宣言』1887)。そして、もともとその科学的理論の根拠の薄弱なことや、ゾラを継ぐ作家たちがこの主義を継承しない(モーパッサン、ドーデは科学性を拒否し、ユイスマンス反自然主義へ転向する。ゾラ自身も社会主義的理想主義へ転身する)といったこともあり、加えて詩における象徴主義の流行もあって、自然主義の隆盛は1880年代の終わりから急速に衰退した。

しかし、人間の真実を冷徹にえぐり出し、平凡なあるいは悲惨な庶民生活やマスとしての大衆に目を注ぎ、社会環境(とりわけ下層の)を酷薄に描写する、多くペシミズムに彩られたこの文学は、日本を含め世界各国の文学に(北欧ではとくに演劇に)多大な影響を及ぼした。イギリスでハーディ、ロシアでボボルイキン、コロレンコ、チェーホフノルウェーイプセン、ビョルンソン、スウェーデンストリンドベリデンマークヤコブセン、ポントビダン、オランダでクベールス、ベルギーでルモニエ、スペインでクラリンらがその代表的作家である。イタリアでは、ジョバンニ・ベルガの「真実主義(ベリズモ)」およびそれを理論づけたカプアーナらがこれから深い影響を受けた。またドイツでは、コンラートMichael Georg Conrad(1846―1927)のミュンヘン派とハルトHart兄弟(兄Heinrich 1855―1906、弟Julius 1859―1930)のベルリン派の第一期自然主義を経て、ホルツらのいわゆる「徹底的自然主義」が確立して、ハウプトマン、ズーダーマンの全盛期を迎え、やがて心理的自然主義の衰退期に入る。新しい国アメリカも他国以上に深くこの文学の洗礼を受け、『居酒屋』をまねた『街の女マギー』のガーランド、クレーン、ノリスらを経て、アメリカのゾラというべき代表作家ドライサーを生んだ。[加藤尚宏]

年表にまとめ直してみましょう。「日本の小説界に与えた影響」からの逆算という意図があるので、上掲引用では「自然主義文学」の流れに含まれない展開も多数含みます。

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1842年 バルザックが「人間喜劇(La Comédie humaine、1842年〜1850年)」の構想を発表 

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バルザック(Honoré de Balzac 、1799年〜1850年)の「人間喜劇(La Comédie humaine、1842年〜1850年)」

ロマン主義者達の台頭がドラマという言葉の意味を安っぽくしてしまった」と日頃から嘆いていたバルザックが「人間喜劇」の構想を得たのは(7月革命のあった)1830年代前半とされる。その意味では「自らの内側から込み上げる衝動にのみ忠実に振る舞うロマン主義的英雄像」を否定する反ロマン主義あるいは写実主義(Réalisme)の系譜に位置付けられる。

  • 1834年にその著作全体を「19世紀風俗研究」「哲学的研究」「分析的研究」に分けて体系化することを考え始め、同年執筆の「ゴリオ爺さん(Le Père Goriot)」で「人物再登場法」を用い始める。これは「Aの作品の脇役がBの作品の主人公になる」事によって作品を相互に関係づけ、それによってあらゆる階層、あらゆる人間を描いて19世紀前半のフランス社会を壮大に映し出そうとする試みの始まりとなった。
    http://www.stanford.edu/group/humdesignlit/cgi-bin/mappingbalzac/wp-content/uploads/2013/02/peregoriot1.jpg
  • ①1819年時点のパリを物語の起点とする「ゴリオ爺さん(Le Père Goriot、1835年)」には「ヴィドック回想録(Mémoires de Vidocq、1827年)」を発表してエドガー・アラン・ポーの「素人探偵C・オーギュスト・デュパン」、エミール・ガボリオの「探偵・ルコック」、アーサー・コナン・ドイルの「名探偵シャーロック・ホームズ」「犯罪組織の黒幕モリアーティ教授」、モーリス・ルブランの「泥棒紳士ルパン」、ヴィクトル・ユーゴーレ・ミゼラブル(Les Misérables、1862年)」における「主人公ジャン・ヴァルジャン」と「ジャヴェール警部」のモデルとなったウジェーヌ・フランソワ・ヴィドック(Eugène François Vidocq、1775年〜1857年)が最も原型に近い形、すなわち犯罪組織の首魁ヴォートラン(Vautrin)として登場する。なにしろバルザックはこの作品執筆直前の1834年4月に当人と直接会っており、その時得られたインスピレーションに従ってこの人物を創造したといわれているのである。

    ②「ヴィドック回想録(Mémoires de Vidocq、1827年)」によればウジェーヌ・フランソワ・ヴィドック(Eugène François Vidocq、1775年〜1857年)はアラスに生まれ、15歳頃まで何不自由なく成長。16歳で歩兵連隊に入隊したが、軍隊生活に嫌気がさして5年後に除隊したが、その際除隊証明書を受けなかったため、脱走兵として逮捕され入獄。さらに獄中において贋造紙幣犯の一味の濡れ衣を着せられ、ブレストの徒刑場で重労働刑に処せられる。それから10年は脱獄と逮捕を繰り返し多数の重罪犯人と知り合い、暗黒社会の裏表の情報・犯罪の手口を詳細に知り、脱獄と変装のプロとなった。そして出獄するとパリ警察の手先として、徒刑場で得た情報を売る密偵となる。この世界で数々の手柄を立て、ついには国家警察パリ地区犯罪捜査局(パリ警視庁の前身)を創設し初代局長となる。密告とスパイを常套手段とし、犯罪すれすれの摘発方法を用いて業績を上げる一方で入手した犯罪者と犯罪手口を分類して膨大なカードを作り、各地の警察に配備するという科学的捜査方法を確立。後に捜査局を辞して個人事務所を開設し、世界初の探偵となったが、その利用者は3000人と記録されている。


    ③「ゴリオ爺さん」には、初めは初心な学生に過ぎなかったラスティニャック(Rastignac)がパリ社会の真実と成功の秘訣を、ヴォートランやボーセアン子爵夫人やゴリオ、そのほかの人々に教えられていく教養小説という側面もある。例えばボーセアン子爵夫人はラスティニャックにあけすけに言う。「冷徹に計算すればするだけ、あなたは出世できるわ。無慈悲に殴れば、周囲からは怖がられることでしょう。あなたにとって馬車馬程度の価値しかない人間なら、相手がへばらないうちにとっとと乗り換え、用がなくなれば道に置き去りにしなさい。そうでなければ、望みなんてかなえられないの。そして、いいこと?あなたは女性に好かれなければ何にもなれない、それも若くて財産がある、世俗の女性に。でも、もしあなたの方が好きになってしまったら、それは大事に鍵をかけてしまって、誰にもわからないようにすることね。さもないと終わりだわ、あなたは死刑執行人の座を滑り落ちて、死刑囚になってしまうでしょう。万が一愛するようなことがあるなら、決して秘密はもらさないことね」。この姿勢はヴォートランには一層はっきりと見られる。「今の君には説明もつかないくらいの大成功を収めたかったら、決してばれないように犯罪を行うことだ。ばれないという事は、完全にうまくいったということだからな」。要するに「大成功の影には、大犯罪が付き物」。こうした薫陶を受けてラスティニャックは次第に当初の目標である法律の勉強をそっちのけで金と女性を出世の為の道具として追求する様になっていく。ある意味でこれはバルザック自身の社会勉強を反映したものであった。彼もまた三年間法律を学んだあげく、それを嫌悪するようになっていたのである。ある意味(ベルテ事件やファルグ事件を訴訟記録によって知り、庶民であるベルテやファルグに上流階級の欺瞞を打ち破る力が蓄積されていると感じた)スタンダール「赤と黒(Le Rouge et le Noir1830年)」のジュリアン・ソレルや(その「赤と黒」を評論家として酷評したプロスペル・メリメが翻訳してフランスに紹介した)プーシキンスペードの女王(Пиковая дама、1834年)」における工兵士官ゲルマンと同タイプの人物造形だが、結局フランス語で’「出世の為ならどんな手も使う野心家」指す代名詞として定着したのは「ラスティニャック」なのだった。

    353夜『スペ-ドの女王 ベールキン物語』アレクサンドル・プーシキン|松岡正剛の千夜千冊Chambre
    AA バルザック 『ゴリオ爺さん』 …(4)

  • ワーテルローナポレオン1世が敗北し、ブルボン家による復古王政が始まった1819年時点のフランスでは、ルイ18世とともに復古された貴族制と、産業革命によって勃興したブルジョアジーとの間で緊張が高まっていた。その一方で圧倒的貧困に浸かった下層階級の存在によって、社会構造が緊迫してもいた。ある推計によれば、生計を立てるのに必要な最低額である年500-600フランの収入に満たない者が、パリの人口の4分の3近くにのぼったという。だがその一方でこうした激動は過去何世紀も続いたアンシャン・レジームの下では考えられなかったような社会的地位の変化を可能とした。この新しい社会のルールに自分を進んで合わせた人々の中には、つましい境遇からより上層へと登ることのできた者もいたが、もちろん古くからの由緒正しい富める者たちには忌み嫌われた。その一方でフランス革命の犠牲となった没落貴族に巻き返しのチャンスが与えられる展開となったのである。
    *考えてみたら、実はこの路線で当時最も成功した人物こそが第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)の開闢者、皇帝ナポレオン3世その人ではなかったか?

    *そしてトマス・ピケティが指摘した「ラスティニャックのジレンマ(金持ちと結婚するか、自力で成功するか?)」なるもの、ハメットを断筆に追い込み、レイモンド・チャンドラーが最晩年に挑んだ「ハードボイルド文学のハードプロブレム」とも重なってくるのでは? ここに「金持ちと結婚して相手を殺して遺産を頂く」という「第三の選択肢」が存在するので、悪魔的人物が暗躍したり、犯罪物の基本動機として大活躍する展開に。

その後、バルザックは1846年に『エポック』の当初の構想に変更を加え、執筆予定作品を含めた『人間喜劇』の総体系を発表。しかし、1850年に死去したことで結局、既に90余編が発表されていたこのシリーズを終結させることはできず、執筆予定作品も50作品余りが残る事になる。

 

1845年 フランスの作家プロスペル・メリメが「両世界評論」に「カルメン(Carmen)」を発表(単行本化1847年)。

カルメン - Wikipedia

作者に仮託される考古学者がスペインで出会ったある山賊の身の上話を紹介するという体裁で描かれるカルメンの物語。彼はカルメンという情熱的なジプシー女に振り回されたあげく、悪事に身を染めてお尋ね者となり、ついには死刑となる。

  • メリメは執筆前に2回スペイン旅行をしており、その1回目の旅行の際にこの作品の着想を得た。原作ではスペインの民族構成の複雑さや、下層社会の抱える困難、荒涼とした風土などを背景に、ある孤独で勤実なバスク人の男が情欲のため犯罪に加担し、やがて破滅するというストーリーであり、基調としてはけっして華やかな物語ではない。一方でこの原作をモチーフとした派生作品では恋愛と嫉妬を中心にすえ、また闘牛士やフラメンコなどスペインを代表する「明るさ」を前面に出すことで物語の印象が一新されていく。

  • 心に影をもち、激しく恋に燃えるが心変わりしやすく、男にとっては危険な女というカルメンのイメージは、ジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』(1874年初演)でさらに強調して描かれることになる。竜騎兵ドン・ホセはカルメンに誘惑され、婚約者を捨てて軍隊を脱走する。しかしカルメンは闘牛士に心を移し、嫉妬に狂ったドン・ホセは匕首を持って追いかけ、カルメンを刺し殺すのである。派手やかなオペラは大衆受けし、オペラのストーリーをもとに映画も数多く作られた。現在一般にカルメンのイメージとして浸透しているのは、こうしたカルメン像となる。

カルメンという名はスペインではごくありふれた女性名であるが、こうして世界中に知られるようになったことにより「カルメン」的性格がスペイン女性の特徴のように言われたりもする。もっとも設定のようにカルメンはジプシーの女(ボヘミア人)でありスペインにとっては異邦人であり、ドン・ホセがスペインの「内なる外」バスク少数民族であり、また語り手である「私」もまたフランス人であることなど、この物語の背景にある複雑な「内と外」の問題はそのままヨーロッパ社会のはらむ文化の「内と外」の緊張感に対応しているのである。

1855年 フランス写実主義(Réalisme)の画家ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet、1819年〜1877年)が「写実主義宣言」を発表。

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  • 私に天使を描いてほしかったら、ここに天使を連れてきてごらん。そうしたら描いてあげよう」という挑発的発言で有名。その背景には2月革命/3月革命(1848年〜1849年)以降果てしなく続く朝令暮改状態が国全体にもたらす存在不安の広がりがあった。

1857年 イポリート・テーヌが「歴史および批評論(Essais de critique et d'histoire)」を発表して、批評家としての地位を確立する。

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イポリート・テーヌ(Hippolyte Adolphe Taine、1828年〜1893年)

 

フランス北部ヴージエに生まれ。

  • パリのエコール・ノルマルに学び、地方のリセ(高等中学校)で教鞭をとるも1852年にパリに戻り、翌年に『Essai sur les fables de La Fontaine』という論文で学位を獲得。また史論「ティトゥス・リウィウスについて(Essai sur Tite-Live、1856年)」でアカデミー賞を受けた。

  • 1864年にパリの美術学校(Ecole des Beaux-Arts)の教授となり、20年間美術史を講じる。その成果はのちに「芸術哲学(Philosophie de l'art、1882年)」にまとめられた。

  • 「知性論(1870年)」で哲学分野に進出。

晩年は大作「近代フランスの起源(Origines de la France contemporaine)」に力を注いだがこれは未完に終わった。

 

1859年 ダーウィンが「種の起源(On the Origin of Species)」初版を発表

1861年 往復書簡形式の長編小説「貧しき人びと(Бедные люди、1846年)」によってロシア文壇にデビューしたフョードル・ドストエフスキー(Фёдор Миха́йлович Достое́вский、1821年〜1881年)」が、この作品を執筆した当時の貧困生活を回想する「虐げられた人びと(Униженные и оскорбленные)」を発表。

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  • ロシアにおける封建的社会から市民社会への過渡期の社会状況を映し出す。

  • タイトルにある「虐げられた」人々は主として販売請負人、工場経営者などのブルジョア階級及び小地主を指す。

  • 一方「虐げる」人は大地主の貴族。この物語に登場するワルコフスキー公爵は上掲の人々を踏み台にして社交界をずる賢く生き延びようとするが、それはまさに19世紀中頃のロシア上流社会を泳ぎ回っていたであろう金権と好色と出世欲にまみれた醜悪な諸々の「虐げる」人びとの姿を凝縮したものとされる。ワルコフスキー公爵の人物像は後の「罪と罰(Преступление и наказание、1866年)」のスヴィドリガイロフ、「悪霊(Бесы、連載1871年〜1872年、1873年単行本化)」のスタヴローギンといった醜悪でニヒルな悪魔的人物へとつながっていく。

1862年 フョードル・ドストエフスキーシベリア流刑となってオムスクに服役していた時期(1849年〜1854年)を回想して死の家の記録(Записки из Мёртвого дома)」を出版。

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  • ドストエフスキーミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する理想主義的社会主義サークルのサークル員に参加。1849年に官憲に逮捕されている。

  • 死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライ1世からの特赦が与えられ(この一連の特赦はすべて仕組まれたものであった)シベリアに流刑へ減刑となり、オムスクで1854年まで服役。刑期終了後、兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還。

  • この間に獄中で寝起きを共にし、間近に接したロシア民衆の多様な人間像に圧倒されて理想主義的社会主義者からキリスト教人道主義者へと思想的変化があったとされる。

  • オムスクでの服役体験は強烈で「白痴」などの他作品でも死刑直前の囚人の気持ちが語られたりしている。

1863年 イポリート・テーヌが代表作「英国文学史(Histoire de la littérature anglaise、1863年)」4巻を発表。

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  • 彼の感覚論に由来する正確な観察に対する情熱は、薬学と解剖学を学ぶことによって養われた。そして人間や作品の発展を自然科学の見地から考察し、その法則を見いだそうとする様になっていく。そして批評の対象を分析して人種・環境(風土と社会構造)・時代の3要素に還元するその方法は、決定論・唯物論に行き着いたのである。

  • ただしエコール・ノルマル時代から「あまりにも早く判断・形式化し」しばしば「現実を犠牲にして定義する」欠点が指摘されてきた人物でもあった。そして支配的要素が一つではなく、様々な要素が織りなす政治・歴史の分野に「人間の行動要因を種族・環境・時代のみで説明しようとする決定論」を適用しようとした事が後の破綻の原因となっていく。

1865年 フランス人生理学者クロード・ベルナール(Claude Bernard, 1813年〜1878年)が「実験医学序説(Introduction a L'etude De la Medecine Experimentale)」を発表する。
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1866年 フョードル・ドストエフスキーが「罪と罰(Преступление и наказание)」を発表。

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  • 新聞の事件欄の記事から着想を膨らませた内容だった。

1868年 エミール・フランソワ・ゾラ(Émile François Zola、1840年〜1902年)が「テレーズ・ラカン(Thérèse Raquin)」第2版序文で自然主義宣言を行う。

  • 以来、ゾラを囲んで同調者のグループが形成され、デュランチらの写実主義文学運動以上に明確な流派としての運動となっていく。

1870年〜1871年 普仏戦争1870年〜1871年)およびパリ・コミューン(Commune de Paris、1971年)。この時期以降、やっとフランス王党派が力を失い始める。

イポリート・テーヌの未完の歴史書「近代フランスの起源」

イポリート・テーヌは普仏戦争パリ・コミューンを機縁として政治と社会問題に熱中するようになった。すなわち最終的には未完で終わる事になる「近代フランスの起源(Origines de la France contemporaine)」において、革命精神の起源を明らかにしようとしたのである。

  • イギリス研究の先達であったヴォルテールモンテスキューの影響下にあったテーヌはイギリスの保守主義や秩序こそ模範とすべきものであって、フランスの状態は唾棄すべきと考えた。
    *それはフランスの敗北と内乱を経験した当時のフランス人インテリの間ではしばしば見られた立場でもあった。
  • テーヌはフランス革命の発端をデカルトに始まる「演繹的精神」とする。これを引き継いだ啓蒙家たちは具体的事実や現実を無視する傾向を強め、ついには近代フランスの悲劇を招いた。その過程でフランス革命が及ぼした作用は、政治改革そのものではなく社会全般の解体であったと説く。また1789年7月の理想主義と1793年の恐怖政治を区別せず、それらの責任や発端をルソーに帰した。
    *こうした歴史観そのものは7月革命のあった1930年代前後からフランス有識者の間に広まった様で、サン=シモンやその弟子オーギュスト・コント、さらにはフランスに亡命したドイツの詩人ハイネなども部分的には言及しており、20世紀に入るとアナール派が広めていく。
  • 特権階級がその権利の濫用と支配する義務を忘れたことにより没落したと考える一方で、いわゆる第三階級に同情的ではなく「民衆は何を望むかは言えても、何が必要であるかを考えることができない」とした。
    エドマンド・バークの「フランス革命省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」などの影響が見て取れる。「自由論(On Liberty)」を発表したジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年〜1873年)も当時参政権の拡大をもたらしていた民主主義の政治制度に大衆による多数派の専制をもたらす危険性がある点を警戒していた。

ただし「資料批判は非科学的であり、革命を遂行したひとびとにとって不利な証拠ばかりを採用している」といった批判もあり、オーロールなどの歴史家から「アマチュア」と弾劾され、アレクシス・ド・トクヴィルほど後世に大きな影響を与える事はなかったのである。

1870年 エミール・ゾラ連鎖小説「ルーゴン=マッカール叢書(Les Rougon-Macquart 、1870年〜1893年)」全20巻の刊行に着手。当初はそれほど注目されなかった。

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1877年 エミール・ゾラのルーゴン・マッカール叢書第7巻「居酒屋(L'assommoir)」が話題となる。

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  • 貧民の悲壮な破滅を描いて賛否両論を生んだ。
  • これを契機に自然主義文学派が時代の潮流を制覇。
  • その一方で当時は「近代詩の父」ボードレールによるエドガー・アラン・ポー作品翻訳とマルキ・ド・サド文学再紹介に端を発する「象徴主義(Symbolisme)」の本格的台頭期となった。

    ドイツへの敗戦を契機に(官警の検閲を恐れて直接表現を慎む)ドイツ・ロマン主義文学の流入が始まったのも大きかったとされるが、同時に「神経生理学の大家」ヘルムホルツ唯物論的新カント主義も流入し複雑な融合を果たす展開に。どうやって両者は混ざり合ったのか。日本人には同時進行で起こった「幕末から明治維新にかけての階段の語り口上の変化」に耳を傾けた方が直感的に理解しやすいとも。

    三遊亭圓朝「真景累ヶ淵(初演1859年、新聞連載1887年〜1888年、単行本化1888年)」冒頭

    今日より怪談のお話を申上げまするが、怪談噺と申すは近来大きに廃すたりまして、余り寄席で致す者もございません、と申しますのも幽霊というものは無い、全く神経病だと云うことになりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。それ故に久しく廃っておりましたが、今日になって見ると、かえって古めかしい方が、耳新しい様に思われます。これはもとより信じてお聞き遊ばす事ではございませんから、あるいは流れ違いの怪談噺がよかろうと云うお勧めを頂きました。

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    その昔、私どもは幽霊というものは有ると存じておりましたから、何か不意に怪しい物を見ると、おお恐い、変な物、ありゃ幽霊じゃないかと驚きましたが、ただ今では幽霊がないものと諦めましたから、とんと怖い事は御座いません。狐にばかされるという事はないから神経病、天狗に獲われるという事もないからやっぱり神経病と申しまして、何でも怖いものは皆神経病におっつけてしまいますが、現在開けた偉い方で、幽霊は必ず無いものと定めても、鼻の先へ怪しいものが現れればアッと叫んで尻餅を突くのは、やっぱり神経がちと怪しいせいで御座いましょう。ある物識りの方が「いやいや西洋にも幽霊はある。決して無いとはいわぬ。必ずあるに違いない」と仰ると、私どもは「ヘェ左様で御座いますか。幽霊はやっぱり有りますかな」と申します。また他の物識りの方が「なに決して無い。幽霊なんていうものがある訳ない」と仰りますと「ヘェ左様で御座いますか。無いというのが本当でげしょう」と(太鼓持ちの様に)どちらへも寄らず障らず、ただいうなり次第に合わせて済ませます。ところが大昔に断見の論というのがありまして、これは今で申す哲学の様なものなのですが、この派の論師の論には「目に見えないものは無いに違いない。どんなものでも眼に見の前に有る物でなければ有るとはいわせぬ。例えどんな理論があっても、眼に見えぬ物は無いと同じである」と説きました。すると釈迦が現れて「御前がいうのは間違っている。そもそも、あくまで無いものは無いと云いたがる方が迷っている」と仰りましうてますます訳が判らなくなりました。「ヘェそれでは有るが無いで、無いが有るなので御座いますか?」と訊ねると「イヤそうでもない」と仰ります。つまりどちらが確かかまるで分かりません。「釈迦という/悪戯者が世に出でて/多くの人を/迷わすかな」と申します狂歌もあるくらいで、私どもは何所へでも智慧のある方が仰る方へついて参るだけなのですが、つまり悪い事をせぬ方には幽霊なんて決して御座いませんが、人を殺して物を取る様な悪事をする物には必ず幽霊が有りまして、これがすなわち神経病と申しまして、あたかも幽霊を背負っている様な振る舞いを致します。

    *「断見の論」…当時の歴史的制約を熟慮すると、多種多様な怪異と共存する日本文化を嫌って「全ての怪異の原因は狐狸の類であり、一刻も早く全てを駆逐し尽くすのが望ましい」とした江戸時代儒学者による長期的キャンペーンを想起させる。あえて釈迦の時代に関連付けるなら「(全てを焼き尽くす)炎のみがこの世界を構成する唯一無二の実在(永遠不滅の存在)」なる教義を掲げ、釈迦に「我々はその前提に立つ説法しか受け付けない合理主義者」と豪語した拝火教信徒あたりが該当するのかもしれない。

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    *「釈迦の悪戯」…中庸の精神を奉ずる立場から、釈迦はトールキンの様に「所領や金銀財宝への執着心」を悪としただけでなく「(その反動としてDの)清貧を理想視して執着し続ける態度」をも悪とした。要するにそれへの熱狂的没入そのものが新たな倒錯的快楽の源と成り得る苦行が「解脱(あらゆる原生的束縛からの解放)」の障害となる事を指摘しての発言だったが、苦痛と快楽が表裏一体である事を認めた上で幸福の最大化を追求するエピキュロスの快楽主義やストア派の禁欲主義の延長線に生じた欧米的功利主義を知ったばかりの明治期日本人には物足りなく思えてきたとも。ちなみに(江戸幕藩体制からの開放が存在不安をもたらした士族や農村共同体を中心に)キリスト教への改宗や新興就航が流行したのも19世紀後半の特徴であった。

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    例えばアイツを殺した時にこういう顔付きで睨んで死んだが、もしや俺を怨んでやがったか、といった想いが胸に残って幽霊がこしらえられましたら、それこそ何でも怪しい姿に見えます。また執念の深い人が生きながら幽霊と化す事も御座います。もちろん幽霊は死んでから出ると相場が定まっておりますし、私も一度も本当に見た事は御座いませんが、生きながら出る幽霊というのが随分と居るそうなので御座います。執念深さとは恐ろしいもので、よく婦人が嫉妬の為に散し髪で仲人のところへ駆けていく著中で巡査に出くわしても、少しも目に入りませんから突き当たる弾みにかぶりつく様な事も起こります。また金を貯めて大事にしていると念が残り、その金を取った人間に取り憑くなんて事もある様なのです。

    別に当時の翻訳ラッシュの最先端の現場にいた訳でもない落語家がこの口上を述べ、別にインテリでもない聴衆もちゃんとついてくる。それくらい教養インフラ(あるいは「計算癖(ドイツ語Rechenhaftigkeit、英語Calculating Spirit)」)が浸透していたからこそ日本はフランスやロシアやハプスブルグ帝国を含めた東欧諸国の様な「圧倒的多数が資本主義的発展から置き去りにされてきた国々」より比較的迅速に自力近代化を成し遂げられたのだとも。

    一方フランスも第二帝政(Second Empire Français)期(1852年〜1870年)に「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン3世が主導した「上からの産業インフラ整備」が功を奏してロシア帝国やハプスブルグ帝国を筆頭とする東欧諸国から頭一つ抜ける展開に。最終勝者となったのは「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれるブルジョワ階層だったとされ、むしろ伝統的インテリ階層が「時代についていこうとしない因循頑固派」に転落する展開に。

1879年 エミール・ゾラのルーゴン・マッカール叢書第9巻「ナナ(Nana)」が話題となる。「居酒屋」の続編で日本では最も訳書が多く読まれた。

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  • 客を破滅させながら自滅していく高級娼婦を描く。今度も賛否両論の評判だったが、単行本は5万部と当時としてはベストセラーになった。
  • この作品はピカレスク小説の文脈で語られる事も多い。

1879年〜1980年 エミール・ゾラがルーゴン・マッカール叢書で用いてきた技法を「実験小説論(Le Roman expérimental)」にまとめる。

  • クロード・ベルナールの実験医学の観察と実験の原理を文学に応用したもので、社会現象の厳密な観察を土台に、科学的(生物学的、生理学的、医学的)な意味で条件づけられた人間をそれぞれ特定の環境と事件のなかにおいて「実験」を試み、その結果を科学的冷静さで報告するという内容。人間の行動を、遺伝、環境から科学的、客観的に把握しようとする試み。

  • しかし(医学が病気を対象とするように)社会の病悪を主たる題材にとる自然主義小説は、次第に社会(とくに下層の)の醜悪な面、人間の異常な面を強調しながら克明に描写する露悪的でペシミスティックな傾向を強めていく。さらに執筆層が広がり「隠れポルノ」という側面まで備える様になって一般の反感を惹起する様になっていくのである。
    フランス自然主義文学と検閲 -ルイ・デプレの裁判をめぐって-

1883年 エミール・ゾラがルーゴン・マッカール叢書第11巻「ボヌール・デ・ダム百貨店(Au Bonheur des Dames)」を発表

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  • 本筋は青年実業家オクターヴ・ムーレと「ボヌール・デ・ダム百貨店」の貧しい女店員ドゥニーズ・ボーデュの身分違いの恋愛だが、本作の主たる魅力はむしろ豪華な店内に所狭しと並べられた大量の魅惑的な商品と、現代の小売店の商法にも通じるバーゲンなどのさまざまな近代的商法によって婦人客を食い物にし、容赦ない価格競争によって近隣の老舗商店を押し潰しながら発展していく、消費社会の権化とも呼ぶべき「デパート」という存在の実態を克明に描いている点にある。

  • ゾラは本作執筆にあたって、パリのさまざまなデパートに対して綿密な取材調査を行ない、デパートの管理経営についてはボン・マルシェ百貨店およびルーヴル百貨店の管理職から資料提供を受けた。その結果として本作は、第二帝政期のジョルジュ・オスマンのパリ改造と軌を一にして急成長し、第三共和政下においては続々と巨大な新館を築きつつあったパリのデパートのほぼ30年におよぶ発展の歴史を、小説内の5年足らずの時間に圧縮して描くことに成功している。
    *この意味ではゾラの自然小説はアーサー・ヘイリーのグランドホテル式メロドラマやマイケル・クライトンのテクノロジー小説の先祖筋にも当たっている訳である。

1884年 ユイスマンスが「さかしま(À rebours)」を発表。

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ユイスマンス「さかしま(À rebours、1884年)」

フランスの作家ジョリス=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans, 1848年〜1907年)は、ゾラの自然主義から出発しながらエドガー・アラン・ポーが「アルンハイムの地所 (The Domain of Arnheim、 1846年)」や「ランダーの別荘 (Landor's Cottage、 1849年)」で開拓したペソミスティックな人口庭園の世界に没入。谷崎潤一郎「黄金の死(1914年)」や、江戸川乱歩の「パノラマ島奇談(新青年連載1926年~1927年)」に影響を与える事になる。

その後、ユイスマンス自身は次第にオカルトやカソリック神秘主義へと傾倒していく。

990夜『さかしま』ジョリ・カルル・ユイスマンス|松岡正剛の千夜千冊

1885年 エミール・ゾラのルーゴン・マッカール叢書第13巻「ジェルミナール(Germinal)」が発表される。

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  • 1860年代の北フランスを舞台に炭鉱労働者のストライキを妥協なく現実的に描き出した大作。炭坑における労働者の悲惨な生活、その生活苦から労働者が起こすストライキ、およびその敗北を描きプロレタリア文学の直接の祖と目されている。

1887年 エミール・ゾラのルーゴン・マッカール叢書第15巻「大地(La Terre、1887年)」が発表される。

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  • フーアン家の財産争い。軍隊を退役してきた農民ジャン・マッカールはフーアンの姪フランソワーズと結婚するが、フランソワーズは姉リーズともみ合いになり死に、ジャンは軍隊に戻る。

  • この作品発表を契機にゾラが弟子達から反旗を翻される「五人の宣言(1887年)」事件が起こる。

  • 元々科学的論拠が薄弱だった事やゾラを継ぐ作家達の離反(モーパッサン、ドーデは科学性を拒否し、ユイスマンス反自然主義へ転向。ゾラ自身も社会主義的理想主義へ転身)、詩における象徴主義の流行などが重なって自然主義の隆盛は1880年代の終わりから急速に衰退。

1890年 タルドが「模倣の法則――社会学的研究(Les lois de l'imitation: Etude sociologique)」を発表し、社会学を一般に受容させた人物の一人となる。

ジャン=ガブリエル・ド・タルド(Jean‐Gabriel de Tarde、1843年〜1904年)

フランスの比較犯罪学者。社会学者や社会心理学者の嚆矢でもある。ドルドーニュ県サルラ(現サルラ=ラ=カネダ)生まれ。
ガブリエル・タルドの社会学理論
1318夜『模倣の法則』ガブリエル・タルド|松岡正剛の千夜千冊

  • 地方貴族の子として少年時代をすごし、最初エコール・ポリテクニックで数学を学ぼうとするも眼病を患いかなわず、トゥールーズ大学、パリ大学で法律を学ぶこととなった。しかしそれぞれ眼病を再発させ大学を中退し、故郷で独学を続けた。このとき、クールノーに多大な影響を受けた。

  • 早世した父と同じく裁判官の道を選び、1867年にサルラ裁判所に奉職。1880年頃から、リボーの創刊した「哲学雑誌」に論文を投稿するようになる。

  • 犯罪は遺伝的なものである」と考えるイタリアのロンブローゾの犯罪学に関心をもって研究するうちに「犯罪は伝播や伝染といった観点から模倣的な事実である」という独自の見解に到達。その後、社会的な影響関係を重視した独自の研究を進め、犯罪学の著作「比較犯罪学(La criminalité comparée、1886年)」「模倣の法則(Les lois de l'imitation: Etude sociologique、1890年)」などを刊行し、その後も、裁判官の勤務のかたわら多くの著作や論文を発表した。

  • 1901年には「世論と群集(L'opinion et la foule)」を刊行。ル・ボンの群集心理学を批判し、直接対面的な関係によって結合する群集に対して、メディアを介した遠隔作用によって結合する公衆概念を提示した。

  • 1894年には司法省統計局長に就任し、母の死去もともないパリへ移住。1895年にパリ社会学会会長となりレジョン・ドヌール勲章を受ける。1900年、コレージュ・ド・フランスの近代哲学教授に就任する。1904年、パリにて逝去。

後に社会学の父と称されることとなるデュルケムに対して、分業が道徳的な事実であるか否か、犯罪が正常であるか否か、社会が実在するのか否か(社会実在論)といった多岐にわたる論点をめぐって論争を繰り広げた。当時は国際的有名人だったが四、五急速に忘れられ、弟子筋に恵まれたデュルケームの方法論的集団主義がが急速に広まっていく。

アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー(Antoine Augustin Cournot、1801年〜1877年)

フランスの哲学者、数学者、経済学者。「限界革命」より半世紀も前に数学的モデルを用いて複占の理論を展開した数理経済学の始祖。

  • 「富の理論の数学的原理に関する研究(Recherches sur les principes mathématiques de la théorie des richesses、1838年)」で経済分析において初めて数学の公式や記号の適用を行って強く非難されたが、この本は今日でも経済学に影響を保っている。彼の独占と複占に関する理論は今なお有名であるが、今日では多くの経済学者がこの本を近代経済分析の出発点であると信じている。クールノーは関数と確率の考えを経済分析に導入した。彼は価格の関数としての需要と供給の一階の条件を導出した。今日ではその成果は計量経済学(エコノメトリクス)の世界でも認知されている。
    *意外にも15世紀イスラム圏の歴史哲学者歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)を彼の先駆と考える立場がある。

  • レオン・ワルラスの父オーギュスト・ワルラスと一緒に彼に経済学と数学を教えており、彼に経済学をやってみるよう説き伏せた。またレオン・ワルラス一般均衡理論のインスピレーションをもたらした一人とされている。

  • 経済学の世界ではさらに寡占理論の分野での研究(クールノーの競争)で最もよく知られている。

「クールノーの複占モデル」においては競争的立場にいる両企業がお互いの存在を無視して動く事を前提とし、自企業の行動が引き出す相手の反応をあらかじめ計算に入れていなかった。これを問題視して相手の反応を十分考慮して行こうとする人々の試みがゲーム理論の発展につながっていく。
「クールノーの複占モデル」…2つの企業しかない複占産業で、各企業がライバル企業の供給量(産出量)が変わらないという仮定のもとで、自企業の供給量(産出量)を決定するモデル。すなわち、複占状態の場合、1つの企業が選ぼうとする産出量に応じて、他企業が産出量を変えてくるといった戦略上の相互依存関係がありうるが、企業1の産出量の変化によって企業2の産出量が変わらない推測があると仮定すると、どの企業にも産出量を変更しようとする誘因は存在しない。このような点を「クールノー均衡」、独占企業の最大利潤になる産出量と価格の点を、「クールノーの点」と呼ぶ。

 経済学者が関数を駆使する様になり、社会学なる分野が台頭すると人間の行動の環境因として遺伝子要因を重視し過ぎてきた自然主義文学の寿命は本格的に尽きました。その点では(ヘルムホルツの神経生理学的新カント主義とも相性が良い)象徴派の方が上手く振る舞ったといえそうです。

1891年 トーマス・ハーディが「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles)」を発表。

1897年 モンパルナスに「グラン・ギニョール恐怖劇場」が開設される。

グラン・ギニョール(Grand Guignol)

フランス、パリに19世紀末から20世紀半ばまで存在した大衆芝居・見世物小屋の「グラン・ギニョール恐怖劇場(Le Théâtre du Grand-Guignol、1897年〜1962年)」のこと。またそこから転じて、同座や類似の劇場で演じられた「荒唐無稽で」「血なまぐさい」あるいは「こけおどしめいた」猟奇的で扇情的な芝居も指す様になった。フランス語では"grand-guignolesque"(「グラン・ギニョール的な」)という形容詞は上記のような意味合いで今日でもしばしば用いられる。

ATOMIC CHRONOSCAPH — Théâtre du Grand-Guignol (1897-1962) - Vintage...

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  • 1897年、劇作家オスカル・ムトニエがもと礼拝堂であった席数約300の小劇場を買収、改装したことで始まる。劇場の名前自体はフランスの人形芝居における有名なストック・キャラクターの一つ、ギニョール(Guignol)に由来しているが、この劇場自体は人形劇でなく、俳優の演じる通常の芝居小屋であった。

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  • そこでは浮浪者、街頭の孤児、娼婦、殺人嗜好者など、折り目正しい舞台劇には登場しないようなキャラクターが多く登場し、妖怪譚、嫉妬からの殺人、嬰児殺し、バラバラ殺人、火あぶり、ギロチンで切断された後も喋る頭部、外国人の恐怖、伝染病などありとあらゆるホラーをテーマとする芝居が、しばしば血糊などを大量に用いた特殊効果付きで演じられた。
    *当初はこれら「公共の視線から黙殺されてきた人々」を主人公に据え、エミール・ゾラの「実験小説論(Le Roman expérimental)」に基づいて限りなく実録物に近い実験演劇を演目とする予定だったのだが、度重なる官警の取り締まりを経て次第に「荒唐無稽な」「血生臭い」「こけおどしめいた」猟奇的芝居へと変貌していく。

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  • 個々の芝居はふつう短篇で、複数本立てで上演されることが多かった。観客動員数ばかりでなく「観客のうち何人が失神したか」も劇の成功・不成功を測る尺度だった。

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  • 同座のために1901年から1926年にかけて100本以上の芝居を著し「恐怖のプリンス」(Prince de la Terreur)の異名をとった劇作家アンドレ・ド・ロルドの時代が最盛期であったとされる。
    *当時大受けに受けた人気女優が「ヒロインが理不尽な形で惨殺される寸劇」の主役を連続して演じる」上演スタイルは、ロバート・E・ハワードの「英雄コナンシリーズ(1932年〜1936年)」、江戸川乱歩の1930年代通俗小説、非業の最後を遂げる7代を主演中村錦之助が一人で演じた「武士道残酷物語(1963年、原作:南條範夫「被虐の系譜(1963年)」)」などに影響を与えている。

第二次世界大戦後の劇場は次第にマンネリ化が顕著になり、最終的には1962年、映画などとの競争に敗れる形で閉鎖された。

時はまさに大不況時代(1873年〜1896年) 。マルクスの定言「我々が自由意思や個性と信じているものは、社会の同調圧力によって型抜きされた既製品にすぎない」通り、これらの人々の大半は自覚の有無にかかわらず、産業革命(Industrial Revolution)が引き起こした当時の以下の様な時代の流れに為すすべもなく押し流されていったのです。

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  • 欧州において産業革命による生産力の急激な拡大や「東禍(ロシア帝国や東欧諸国の飢餓輸出)」や「米禍(蒸気機関車や蒸気船や冷蔵庫の導入がもたらした南北アメリカの安価で高品質な農畜産物の大量流入)」のせいで伝統的な重要と供給のバランスが崩壊。疑心暗鬼から、たちまちあらゆる国があらゆる国に関税障壁を張り合う経済停滞状態に。

  • 抜け道は「大量生産・大量消費時代への移行」しかなかった。かくして経済消費の主体が王侯貴族や聖職者などからブルジョワ階層や庶民に推移。当然文学や芸術の世界も多大なる影響を蒙る展開に。

 中年まで売れない純文学的作家として過ごしてきたモーリス・ルブラン。それまで蓄えてきた怨念をぶつける形で泥棒紳士ルパンなる「金持ちからしか盗まない庶民の味方」を創造して大儲けしましたが、自分も素封家名士の仲間入りを果たすと、毎夜「ルパンが盗みにやってくる悪夢」に魘(うな)される様になったのだとか。これぞまさしく資本主義的悪夢の世界?

こうした展開が日本に伝わる過程で無視出来ないのが松本清張「点と線(1957年、単行本化1958年)」「眼の壁(1958年)」を嚆矢とする「社会派ミステリ・ブーム」といわれています。

一応「社会派ミステリ・ブーム」自体は1960年代に入って未曾有の翻訳ブームが始まると塗りつぶされてしまうのですが…

先の年表を俯瞰してみると、こうした「正面口」とは別に日本には「裏口」が空いてた感がありますね。

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  • たけくらべ(1895年〜1896年、1955年映画化)」「にごりえ(1896年、1953年映画化)」の樋口 一葉(1872年〜1896年)…自らの貧困生活を元ネタにしているだけあって自然派(naturalisme)を特徴付ける実録感が滲み出ている。井原西鶴の人情物がベースにあるとも。

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  • 江戸川乱歩が1930年代手掛けた通俗小説などを通じて輸入された「エロ・グロ・ナンセンス」路線や人口庭園願望自然派(naturalisme)を特徴付ける実録感は片鱗も残ってない。それは源流に位置する「グラン・ギニョール的残酷物」もそうなのだから仕方がない。

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  • 赤ひげ診療譚 (1958年、1965年映画化)」の山本 周五郎(1903年〜1967年)、「鬼平犯科帳(1967年〜1989年)」「剣客商売(1972年〜1988年)」「仕掛人・藤枝梅安(1972年〜1990年)」の池波正太郎(1923年〜1990年)中短編を連ねた連作時代劇…これも井原西鶴の人情物がベースになってる感がある。実はアーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズSherlock Holmes)シリーズ(1887年〜1927年)にも当時の自然主義文学流行や社会調査進行の影響を受けた側面があり、これを翻案して捕物帳というジャンルを創始した岡本綺堂「半七捕物帳(1917年〜1937年)」元々推理小説というジャンルは作品に現実味を持たせる為に新聞の事件欄記事を元ネタにしたり、貧民街など「公の目から黙殺されてる世界」へも足を運んんで綿密な調査を行ったりするので自然派(naturalisme)を特徴付ける実録感が自然と備わりやすい。そういう側面はダシール・ハメットのハードボイルド探偵物でも短編集である「コンチネンタル・オプ(The Continental Op)シリーズ(1923年〜1929年)」にも備わっていたりする。

こうした諸概念は日本で独特の発展を遂げる事に。そして以下は「左翼が左翼として社会に胸を張ってで対峙出来た最期の年」1990年における貴重な証言。

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武満徹×大江健三郎対談「オペラをつくる(1990年)」概要

大江健三郎:オーデン「音楽とオペラについての覚書」には「モーツァルトからヴェルディに到るオペラの黄金時代は、自由主義ヒューマニズム、自由と進歩への揺るがぬ新興の黄金時代と一致していた」とあります。今日すぐれたオペラが少なくなっているとするならば、19世紀ヒューマニズムが想像上の前提としたほど我々は自由ではなく、かつまた自由が本当に1点の疑問の余地もない祝福で、必然的に善であるという確信を失ったせいであるかもしれないのです。

ただしオペラを書く事が困難となった事は、それが不可能となった事を意味する訳ではありません。確かに我々が自由意思と個性を信じる事を全く止めてしまえばそういう事になるでしょう。「だがしかし」と彼は続ける訳です。

  • 「我々は自由意思と個性を信じる事を止められない」…ネット上にはこうした主題の持ち方が「暗殺教室(2012年〜2016年)」「妖怪ウオッチ(2013年〜)」「僕のヒーロー・アカデミア(2014年〜)」といった2010年代以降のヒット作と重なるという意見も。

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    そういえば谷川流涼宮ハルヒ・シリーズ(2006年)」も出発点はヒロイン涼宮ハルヒ個性獲得に向けての努力の放棄、それは生きながら埋葬されるに等しい」なる感嘆だったのではあるまいか?

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オペラ黄金時代は、文学運動史上はロマン主義の時代と重なります。古典主義時代においてすらシェークスピアは劇作家として尊敬され、その作中人物を主題としたオペラが活発につくられていました。またオペラ上の優れた人物は古典主義でもロマン主義でも、特にドイツの詩人達が創造しています。例えばシラーにおけるドン・カルロスとヴィルヘルム・テル。そして何よりベートーベン当人。ジョージ・スタイナーの様にロマン主義は古典主義的悲劇を殺したと主張する学者もいますが、とにかく(歴史的制約下にあってなお登場人物が自由意思に従って自らの振る舞いを選び取る)ロマン主義的悲劇が現実に存在し得ると考えた詩人の仕事とオペラは重なってくるのです。

ロマン主義のどういう部分がオペラ的であったかというと、やはりオーデンの言う通り自由主義ヒューマニズム、自由と進歩の善性に対する揺るぎなき信仰が鉤となってくるでしょう。当時は社会的改革が人間を新しい善いものに生まれ変わらせるとしたフランス革命的理念を疑う事自体が国際的に悪と認定されていたのです。我々は当時の理想を回復する為に新しい自由、新しい個性を発揮する人物を設計しないといけません。それはもはやオーデンが想定していた様なオーソドックスなオペラとは異なる。武満さんがこの前僕に見せてくださったオペラのリブレットにあった様な「パンチとジュディ」的なな非ロマン主義的主人公の時代となる事でしょう。

  • ロマン主義原理主義者が故意に見落とそうとする誤謬:その2」…「フランスのロマン主義」の対語、すなわち直接宣戦布告した「敵」はあくまで「教会と国王の権威主義」なのであって2月革命/3月革命(1848年)以降、後者がその絶対的存在感を失うと前者も(あたかも対消滅を起こしたかの様に)自滅的衰退を遂げる。サルトルカミュ論争でも盛んに論じられた様に「(基本的に「神に対してのダンディズム」を貫く事しか念頭にないエゴイストに過ぎなかった)フランスのロマン主義者」を過度に理想視するのは百害あって一利なしなのである。

  • カミュ=サルトル論争(1952年)…その中でカミュも「(国王や教会といった)既存権威に対する永延の反逆者で居続ける事を誓ったロマン主義ダンディズムの視野にあったのは自分(あるいは自分と「神=絶対権威」の関係)だけだった。そこには他者への関心が欠けており、だから伝統的秩序への叛逆が歴史の主題ではなくなった資本主義の時代には一緒に滅びへの道を辿った」と断言している。実は19世紀末に入ると「偽善的ブルジョワ層に対する永延の嘲笑者」としてリバイバル復活を遂げるのだが、それはもはやパロディの一種に過ぎず長続きなどしなかった。
    いわゆる「カミュ=サルトル論争」再検討

武満徹:オーデンが言ってる様に従来のオペラという表現様式は「19世紀的なるもの」の果実であり、その意味ではロマン主義と並列関係にあります。ただし機械文明はヨーロッパにペシミズム、すなわち人類を近代化にともなう様々な弊害に直面させ内省的にさせる内圧をもたらし、両者を複合する事でアルバン・ベルクの「ヴォツェック」や「ルル」に見られる様なさらに複雑な人物像を育んできたのです。

  • アルバン・ベルクヴォツェック(Wozzeck,1922年完成,1924年初演)」…P.K.ディックが序文を寄せ後のサイバーパンク文学の講師となったK.W.ジーター「ドクター・アダー(Dr.Adder、完成1974年、刊行1984年)」の実質的主題曲。作中ではP.K.ディックをモデルとするKCIDなる海賊ラジオ放送主催者があらゆる場所でラジオを介してこの曲を鳴らし続ける。ちなみにナチス・ドイツ時代には「ルル(Lulu、作曲1928年〜1935年(未完))」と並んで「頽廃音楽」のレッテルを貼られた事で知られる。

  • ロマン主義原理主義者が故意に見落とそうとする誤謬:その3」…そもそもロマン主義自体も当時からリアルタイムでメアリ・シェリー「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス(Frankenstein: or The Modern Prometheus,1818年)」の様な「人類を近代化にともなう様々な弊害に直面させ内省的にさせるペシミズム」を直視した作品を含む運動だった。

その後は文化の様相が多面化し、アメリカからヘミングウェイやコールドウェルやフォークナーといったロストジェネレーション文学が現れました。ある種のアメリカ文学は、極めて物語的なるもの、あるいは演劇性を徹底して排除し「本当に何も起こらない、あたかも立ち止まっているかの様なつまらない日常」を描こうとします。そして近代的ペシミズムを経て、あくまで絶対的存在に対峙し続けようとする英雄的人間像をも放棄した結果、白々とした虚無感をも突き抜けた明るさみたいなものに到達したりする。オーデンが1950年代に思い描いた様な音楽や演劇の常識を過去のものとしたのはそうした動きだったのです。

大江健三郎:僕らはもちろんフランスのラブレーやスペインのセルバンテスといった16世紀や17世紀の文学も読みますが、現実の自分の小説の世界に近いものとして入ってくるのはドストエフスキーバルザックフローベールくらいからフォークナーにかけてです。ところがこういう人達の仕事を俯瞰してみると、たいていオペラの登場人物にはなれない様な人々が選ばれている。

武満徹:僕が考えるオペラ的な人物とは、無名の沢山の大衆を擁する共同体から突然突出して現れる英雄です。

大江健三郎:王政復古の時代を生きたバルザックは「十三人組」といったシステムを信じていた。社会の様々なところに位置する有力者が十三人協力すればたちまちいっぺんに社会がひっくり返せるというのです。ところがバルザック当人にはそれが実際に具現化する状況を想像する能力が欠けていた。せいぜい有力者が二人手を携えて恋人にむごい仕打ちをした悪人に復讐する程度です。僕は彼の始めたこの未完の事業を完成に導きたいのです。

フローベールの「ボヴァリー夫人」となるともういけない。「私は正しい」「私はこの様に愛した」なんて独善は到底大衆の前でアリアとして歌えない。それではドストエフスキーはどうか。その作中人物も大いに自分を主張するが、一人の中に複雑な性格が混ざり合っている。あくまでポリフォニックなのです。果たして一人の声だけでそれが歌い切れるのか。例えば「カラマーゾフの兄弟」をオペラ化するとして、自分の立場を歌って面白そうなのは滑稽な冗談ばかり言うフィールド・カラマーゾフ。あるいは子供に演説するアイョーシャ。しかしドミートリやイワンの内省的で矛盾に満ちた複雑怪奇な内面はオペラの材料になりません。

フォークナー作品には現代社会では珍しくなった英雄的人物が登場します。特に女性。最期の方の「スノーブス」三部作には綺麗な女が出てきますが、彼女のヒロイック性に関する記述がいけません。表舞台に立って堂々とした行動で示すのではなく、受動的で内省的な脇役達がモゾモゾと考えて「あの人はこういう風に英雄的だった」と自分への東映を語るばかりです。オペラ的英雄なら表面に出てきてみんなの前で自らの心情を堂々と述べ、それが観客の感情を代弁していなければなりません。そうしたタイプの人物像が真面目な文学から失われてしまったのです。

ところが小説の世界がそうして実体を失うにつれ、現実世界の三面記事的空間に英雄的人物、まさにオペラ的人物が現れてきたのです。例えばしばらく前に新聞を読んでいると、一人の人物の立志伝が掲載されていました。不思議な機械を発明する。省エネルギーと称してるけど、実際にはただ単に電気料の支払いが計算上安くなるだけ。それを沢山売って荒稼ぎし、次いでそれを原資として株の売買でお金を儲け大金持ちになる。最初は優しかった人なのに、会社が成功すると¥傲慢になっていき、人を6時間も待たせたという話が証言に出たりする。その一方で敬虔なクリスチャンであり続け「私は罪人の頭です」としたためた手紙を被害者に送ったりもする。遂に逮捕されたが、送られる車の中で常に堂々とし、まさにクリスチャン然の顔をしていた。こういう人物を見ていると、ブレヒト作のオペラみたいな感じがして、奇妙ながら、しかし確実に英雄性を感じてしまうのです。

武満徹;映画の観衆が無意識のうちに行っている様な心理的/主体的トリミング、あるいはクローズ・アップとった技工を、オペラの場合は作曲された音楽が一方的に決めてる感がある。もちろん暗い場面にあえて明るい音楽を流して悲劇性を高める様なテクニックも弄しますが、それにしても音楽が観客の選択を限定してしまう点に変わりはない。そこが良くも悪くも演劇・文学・映画との最大の違いで、ブレヒトの場合は社会問題や政治的問題について彼自身が一人の思想家として伝えなきゃいけない、これだけははっきり判ってもらわないといけないという事を判ってもらう為に新しい模索が始まった。クルト・ヴァイルとの共同作業を形を成したのは、非情に文学性の高い演劇とオペラの中間形態、どちらかというとミュージカルに近い何かだったんですね。

リズムとメロディの起源

大江健三郎:オーデンは「音楽とオペラについての覚書(1951年)」の中で音楽と時間について語ってます。音楽は時間の自然な反復、あるいは有機的な反復、つまりリズムによって構成されている。その一方で、例えば既に二つの音が鳴らされた状況下、それに続く第三の音は、そこに到る歴史的必然を孕みつつ、作曲家が選び出す。優れたメロディとは、そうした自己決定の積み重ねが紡ぎ出す歴史そのものだというのです。それが芸術としての音楽で、これに該当する様式はここ五百年くらいのヨーロッパ文明にしか存在しないという。

武満徹:確かにオーデンが「音楽とオペラについての覚書」の冒頭で展開する旋律論は西洋人の時間認識や歴史認識、近代音楽のハーモニー理論に強く依存しています。整合的に構築された倍音構造の中に、全ての旋律の元となる和音があらかじめ含まれていて、旋律がそこから自動誘発されてくる。水平的集合体が、垂直的、時間的、歴史的な動きに変換されるのです。1950年代までの音楽理論を代表する形でオーデンは「詩の様な言語芸術は内省的であり、立ち止まって考える。それに対し音楽は直接的で、それは進みながら生成する」とも述べている。その意味では音楽を生み出したのは耳ではなく喉で、もし逆なら自然の音を模倣するベートーベン「田園交響曲」の様な表現音楽から出発していただろう。ところがオペラでは歌を歌う行為自体が歌い手にとっても聞き手にとっても楽しい陶酔の対象で、その様な仕方で登場人物達がそれぞれの主題を提示する。だからアリアが興ずに歌われると劇全体のテンションが高まって歌い終わった後、拍手が来る。その間ドラマはずっと進行を止めて待っているのです。

大江健三郎:「トスカ」では、物語が進行すると危機的状況に差し掛かる。そこで「歌に生き。愛に死す」の様なアリアが歌われると皆が拍手する。悲劇的状況で歌い始めたのですから最初は辛そうな顔をしてるのですが、拍手が続くうちにニコニコ笑いながら御辞儀したりする。主人公の歌い手が役から離れ歌手としての人間に戻ってくる過程をうまく演出しています。そして拍手が鳴り止むとまたドラマが再開する、休んでいた時間は終わった、仕事をしましょう、という事でそこから改めて劇的時間が進行する。新劇で仲代達矢がいい台詞を言った後に拍手が巻き起こり、それにニコニコ笑って応えるなんて展開があり得るでしょうか? オーデンも「オペラでは不思議な事にものすごくでかい、二百ポンドもある様な女がイゾルデになって、太った男がトリスタンになっても確実な感動がある。どんなつまらないい登場人物でも、立派な歌を歌えば観客に感銘を与えられる」と述べています。人間が声を出して歌うという行為には、現実生活における性格描写やその人物らしい自然な言葉遣いとは全く異なる次元で聴衆を説得する力がある。一般的なリアリズムとは異なるけれど、それがオペラの世界におけるリアリズムで、観客もそれを期待しながら観劇しているという訳です。

またオーデンは「フィガロの結婚(伊: Le nozze di Figaro、仏: Les noces de Figaro、英: The Marriage of Figaro、独: Die Hochzeit des Figaro、原作1784年、初演1886年)」のフィガロより「セビリアの理髪師(Le barbier de Séville ou la précaution inutile、原作1775年、ジョヴァンニ・パイジエッロ版初演1782年、ロッシーニ版初演1816年)」のフィガロの方が納得出来る、これはオペラとしてのリブレット(脚本)としてどうかという次元の問題で、モーツァルトのオペラよりロッシーニのオペラの方がいかにも音楽好きな床屋という感じが判ると述べています。一方プッチーニの「ラ・ボエーム(La Bohème、初演1896年)」と「トスカ(Tosca、1899年)」を比べると「ラ・ボエーム」の主人公ミミという人物は受け身でモヤモヤしたところがある。ところが「トスカ」の主人公トスカは嫌な女で、勝手な事ばかり言って自己表現する。同作に登場する革命家も絵描きも皆これで、そういう点が逆にリブレットとして上手くいっている様に見受けられるのです。

武満徹:「ラ・ポエーム」は物語としてはどうという事もないのですが、それが歌われたり演じられたりする事によって、時間展開における独特な形象化を成立させています。私の志向しているオペラの方向性とは異なりますが、一つの典型としては見事です。音楽的時間展開における人物配置という意味で。

大江健三郎:オーデンは本格オペラは現代的主題など取り上げず神話的状況に限定すべきではないか。すなわち人間として我々の全てが必然的に巻き込まれざるを得ず、従ってどんなに悲劇的だろうが受け容れざるを得ない状況に、物語を限定すべきじゃないかとも述べています。

武満徹:それはかなり正しいんじゃないでしょうか。
大江健三郎:僕もそう思います。問題は現代的主題にも神話的状況というのは存在するという事です。例えばアルバン・ベルクヴォツェック(Wozzeck、1924年初演)」の様に。 

「原理としての政治性」の回復こそ急務 

大江健三郎:僕は演劇と比べるとオペラの方が好きで、シェークスピアよりヴェルディの「オセロ」の方が良いと書いて笑われたりもしています。最期デスデモーナが殺される直前、召使いと話していて「柳の歌」を歌います。芝居でもそこは歌うのですが、オペラの方では女性が全精神を、過去と未来をアリアで表現していると感じる。すぐにも殺されると判っていて、だからこそ自分の人生全体に対して最期の身振りをするというか、この世界全体に対して手を振ってる感じがするのです。

ヴェルディ的オペラでは、ギリシャ悲劇の様に一人の女性が国の運命について堂々と申し述べて、それを市民達、政治家達が傾聴します。鈴木忠次が上手く日本語に置き換えてますが、正面切ってみんなの前に立ち現れた人間が居住まいを正して、全勢力を込めて自分の声を発する。その景色が一般の現代悲劇から抜け落ちてしまったのです。

ところがオペラの世界では俗っぽい部分も全部背負い込んだ女性が現れてアリアによって全力を尽くして自分を表現しようとし、まさにそれが人間という存在に対する素朴な尊敬の念を引き起こす。私がやりたいのはまさにそれなのです。

武満徹:僕もこれからつくるオペラには政治性を持ち込みたいと考えているのだけど、それは誤解を招く言い方かもしれない。例えば最近、ジョン・アダムスという作曲家がオペラの演出家ピーター・セラーズの要請を受けて「中国のニクソン」というオペラを上梓しました。ニクソンが訪中した際の毛沢東、それから毛沢東の奥さんの紅青夫人とのやりうとりを主題としています。でも僕が言ってる「政治性」とはそこまであからさまではなく、もう少し込み入っているのです。

大江健三郎:あえて一般化していうと、最近の政治的演劇、政治的作品というのは政治的情報、政治的テクノロジーを徹底して取り入れない限り単純化し過ぎている、ナイーブ過ぎると全面否定されてしまう様なんです。だから結局時事問題に関連した政治的状況を想定し、権力名権力の多面的構造を描くスパイ小説的、冒険小説的なものしか認めてもらえない。でもそれは私が描きたいと考えている様な「原理としての政治性」とは全く異なるのです。

ギリシャ悲劇を思い浮かべて下さい。そこには存続の危機に貧した都市が存在し、政治的問題が全て露呈しています。そうした背景の下で悲劇的状況に見舞われた、例えば夫と息子の全てを失った女性が復讐を叫ぶといった形で「政治そのもの」が顕現する。ここで鉤を握るのは「このままでは世界が崩壊する」という危機感の共有なんです。そこからいかに絶望から脱却し希望を回復するか。人類を死滅に追いやる理念やテクノロジーの暴走をどうやって阻止するか。そういう方向に話が向かわなければつまらないんです。

20世紀的無政府主義者でありたい。

武満徹:ある時期まで、例えば小説でいえばアンブローズ・ビアスや、チェスタートンやサキ、日本でいうと上田秋成泉鏡花芥川龍之介といった傍流の作家ばかり読んできました。コンヴェンショナルな(社会的に公認された)世界に留まり、コンヴェンショナルな言語を使いながら、あくまでそこまら離脱しようともがき続けてきた人達の作品です。

  • アンブローズ・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce、 1842年〜1913年メキシコにて71歳で失踪)…サンフランシスコを本拠地にに選んだアメリカの作家、ジャーナリスト、コラムニスト。代表的な著作に、風刺辞書『悪魔の辞典』、短編小説「アウル・クリーク橋の一事件」がある。南北戦争後に産業革命受容とともに全米に広まった(スペンサーの社会進化論の流行を含む)科学万能主義に批判的で、人間の本質を冷笑をもって見据え、容赦ない毒舌をふるったことから、「辛辣なビアス (Bitter Bierce) 」と渾名された。
    「アウル・クリーク橋の一事件」
    ビアスの短編の多くが技巧的にペシミスティックに皮肉に満ちた形で死を扱ったものである。ただし、死そのものを意味づけようとする方向には、彼の問題意識は向かわない。むしろ、死という極限の舞台を設定することで、登場人物の本質を露わにしてみせるといった印象。

  • チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton,1874年〜1936年)…イギリスの作家・批評家。ディテクションクラブ初代会長。探偵小説界にはカトリック教会に属するブラウン神父が遭遇した事件を解明するシリーズで知られる。ボーア戦争勃発に際して反イギリス側論客として頭角をあらわし、自由主義派の有力な論客としてイギリスの政治・社会を糾弾。1922年にイングランド国教会からカトリックに改宗し、以降キリスト教歴史観から批評活動を行う様になり、後期ヴィクトリア朝時代の物質主義・機械万能主義からくる自己満足(虚栄心)に対し鋭い批判を加えた。得意の警句と逆説を駆使したその文芸批評、文明批評は鋭利で、資本主義・社会主義双方を排撃し、配分主義を提唱している。
    「サレーダイン公爵の罪業」
    *確かにコールリッジ/ワーズワースら英国ロマン派詩人の世界観から出発するも、本筋の展開はあくまでシャーロック・ホームズ的というよりアルセーヌ・ルパン的。そもそもコールリッジはフランス革命に熱狂し、現実に裏切られて以降も米国サスケハナに理想郷を築こうとした路層主義社だった。そうした「異端の英国史」とも連続性が透けて見える作品。

  • サキ(Saki,1870年〜1916年)スコットランドの小説家。オー・ヘンリーとならぶ短編の名手であり、ブラックユーモアの強い、意外な結末をもつ作品を得意とした。筆名の「サキ」は『ルバイヤート』に登場する給仕から取られていると言われるが、南アメリカに生息する猿サキに由来するという説もある。前者の詩は「Reginald on Christmas Presents」など作品中で言及されているが、後者の猿も「The Remoulding of Groby Lington」で主要な役割を担っている。インド警察に勤務していたスコットランド系の父のもとにミャンマーで生まれ、第一次世界大戦がはじまると既に43歳となり規定の年齢を過ぎていたにも関わらず軍に志願してフランス宣戦で命を落とした。煙草の煙で敵に居場所が知られることを怖れて言った「その煙草を消してくれ!」("Put that bloody cigarette out!")が最後の言葉で、その直後にドイツ軍のスナイパーに頭を狙撃されたと伝えられる。

    *そう、ここで突如として江戸川乱歩ら戦前の推理小説作家達がこぞってこの系譜の欧米短編小説の模倣を試みた現実が急浮上。日本文学史そのものがこうした展開に深く関与してくるという次第。

しかし一人の人間として否応なく社会生活に適応していく過程で角が取れて丸くなりました。歴史上は奴隷制度があって、議会政治があって、民主主義が成立し、今や国家という概念そのものが曖昧になってしまった。ソシアルな社会制度が人間にとってどれだけ大事か思い知らされる一方で、本当の社会とはむしろそんなものではなく、無数の表現者がいて。小説の形態、私的携帯、音楽表現、演劇表現、美術などの方が人間が本当に人間となる為の手段なのだと考える様になったんです。

僕は自分をアナーキストと考えてますが、それでもポーランドに発する東欧運動を見ていると、かつての政治家が起こす革命とはかなり意味合いが違ってて、もっと宇宙的でもあるし、自然の一部として人間がいよいよ最期のステージに差し掛かっていて、たぶんこれからどれだけの遺産を、各時代を通じて次の世代に残せるかとところに差し掛かってる気がしてならないのです。

大江健三郎:東ヨーロッパの民主化とそれに対するソビエトの反応。確かに政治的制約から精神的に解放された人々が一斉に自由な自己表現に向かう新しい時代が到来しつつあります。しかし実は以前、僕の所に批評家志望の青年が強迫的な手紙を執拗に贈り続けてきた事がありました。僕の本の広告が出る毎に、どれだけの人間が沈黙を強いられる事になるのか判らないのかというのです。でも他の人の意見を圧殺する様な小説家になりたかった訳じゃない。

実は僕も自分がずっとアナーキストじゃないかと考えていたし、またアナーキストになりたいと考えていました。シオニズムに傾倒した意すらエス主義者の)ゲルショム・ショーレムの子供の頃からの友人で、ドイツから脱出しようとする途中で発作的不安に襲われてピレネー山脈で自殺を遂げたベンヤミン。二人の若い頃のエピソードで、不思議とある1点で意見が一致する。自分達にとって一番美しい政治形態はアナーキズムで、それは人間を信じるが故にそれを支配する政府などなくて良いと考えるからというのです。アナーキストにも宗教を信じるタイプと信じないタイプがいて、自分は前者なのではないかとショーレムは回想しています。東欧革命に感じるのも同種のアナーキズムで、人間を信じているからこそ人々が集まり新しい体制を構築しようとする。政治的原理主義的意味合いで、人間が本当の人間になろうとするのが芸術の究極の目的という考え方には全く賛成ですね。

これを思い出しました。

詩人はなぜガラスを割ったのか? 「悪いガラス売り」考

サルトルによればボードレールとは反抗者ではあっても革命家ではない。彼の精神性は我儘な子供のそれで、既存のモラルに反抗はしても抜本的改革までは望まいのである。「革命家は世界を変革しようとする。将来に向けて 自から新たな秩序を創造し、世界を超克する。ところが反抗者は反抗の対象を失う事を恐れ、弊害をそのままにしておこうとする。表向きは告発している対象について、心の底では擁護している。その対象が消滅してしまえば、自からの存在理由も正当性も全て壊滅してしまうからである。そんな羽目に陥ったら、たちまち元の動機なき世界へと滑り落ちてしまう」。確かに「アンガージュマンの作家」の目には、彼の一見自由も責任も放棄した様にしか見えない態度がどうしても許し難かったのである。

しかし、こうした高飛車な態度がとれたのも1990年まで。この年の12月にはソ連が崩壊して混乱期に突入。日本共産党も東欧革命を「時代への逆流」と弾劾して全面否定したり、ソ連が崩壊すると今度は「まだ早すぎただけだ」と部分肯定してみたり、その狼狽え振りを非難されたら批判者を粛清したりと、完全な迷走状態に陥ってしまいます。

そして武満徹は1996年に亡くなり、大江健三郎は60年安保や70年安保の闘士にすら容赦なく「ネトウヨ」の烙印を張る排他的集団SEALDsを「我々が待ち望んでいたのは彼らの様な若者だった」と称揚する展開に。 

SEALDsの安保法案反対デモと大江健三郎の脱原発デモが最強タッグ なんと25000人が集まる [転載禁止]©2ch.net [609535295]

結局「(「フランスの自然派運動」を含めた)フランス的ロマン主義運動」なるもの、自らも共産主義者だったイタリアのパゾリーニ監督が遺作で到達した境地の様に「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」という結論に必ず到達せざるを得ないのかもしれません。

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ただ、それはそれとして「21世紀的自然派とは何か?」とか「21世紀的オペラとはどうあるべきか?」なんて課題は残る訳です。

  • 「それまであまり知られていなかった世界を、綿密な実地調査に基づいてひたすらリアルに描いて紹介する」アーサー・ヘイリーの業界内幕物とかマイケル・クライトンのテクノロジー小説を経て普通に一般化した気がする。
    *あるいはトルーマン・カーポティ「冷血(In Cold Blood、1966年)」や村上春樹アンダーグラウンド(1997年)」の様な独特のノンフィクション作品、あるいはジェームズ・エルロイのクライム・ノベルや「WORLD WAR Z(2006年、映画化2013年)」の様な終末ホラー作品にその痕跡が認められるとも。

  • バルザックからエミール・ゾラへと継承された「人物再登場法」やら「その設定を利用しての悪魔的人物」やらといった側面は上遠野浩平ブギーポップ・シリーズ(1998年)」に継承された気もしないではない。初登場作品で死んでるくせに、どんどん存在感を増していくスプーキー・E…

  • コピーを繰り返す過程での劣化と商業主義への対応を通じて内容がどんどん低俗ゴシップ誌の掲載記事みたいに成り果てていった側面は、「本当は恐ろしいシリーズ」などのレディーズ・コミック掲載を経てYoshiのケータイ小説Deep Love(2000年〜2003年)」に継承された気も。

  • アルバン・ベルクヴォツェック(Wozzeck、1924年初演)」からP.K.ディックやK.W.ジーターの不条理SF/TV系サイバーパンクを経由して流入した流れは、本物の物理学者でもあるルディ・ラッカーの「ウェア四部作(1982年〜2000年)」、柾悟郎「邪眼(Evel Eyes、1987年)」「ヴィーナス・シティ(1993年)」、沖方丁「マルドゥック・シリーズ(2003年〜、大今良時による漫画化2009年〜2012年)」を経て大今良時「聲の形(2011年〜2014年、映画化2016年)」に行き着いたとも。「かたわ少女(Katawa Shoujo、2012年)」もこの系譜に加えてOK?
    *「聲の形」が最終到達点…鍵は聾唖者の西宮硝子というより、むしろ「死体写真を撮影し続ける」西宮結絃や岐阜県大垣市の日常に溶け込んでいる日系ブラジル人の存在。ある意味「自然派演劇の実験劇場」を志向した最初期のグランギニョール劇場が目指していたのはこういう世界観だったのかもしれないのである。

そもそも「公共の視線から黙殺されている闇」の定義そのものが、著しい進化を遂げているとも。