諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【君の名は】【この世界の片隅に】「1910年代後半の大日本帝國を訪れたインド人詩人タゴールが目にした何か」との決別?

元来の意味における帝国主義に日本が最も近づいたのは1910年代後半とされています。

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インドを代表する近代詩人タゴールが来日したのは、まさにこういう過渡期の大日本帝國だったのです。

 中央日報/中央日報日本語版2012年12月11日【噴水台】「タゴールの詩、韓国人好みに仕立て上げたとは苦々しい」

「岸で夜は明け/血の色の雲の早朝に/東側の小さな鳥/声高く名誉の凱旋を歌う」

1913年にアジアで初のノーベル文学賞を受賞したインドの詩人タゴールベンガル語で書いた詩だ。何を歌ったのか。日本が日露戦争で勝利したことを祝う詩だ。インドが長い間の英国の植民地統治から抜け出せないことを残念に思っていたタゴールは、当時世界的な強国に浮び上がった同じアジアの日本に好感を持った。1916年をはじめ5回も日本を訪問した。茶道、生け花、俳句など日本の伝統文化に魅了され「詩心を起こさせる国」と高く評価した。日本滞在中の講演を通じ「日本はアジアに希望をもたらした。私たちはこの日出ずる国に感謝する」と話したりもした。大アジア主義を叫んだ日本右翼の大物頭山満とも懇意にしていた。

これほどになるとタゴールの詩「東方の灯燭」を記憶する多くの韓国人はいぶかしいだろう。教科書にも載せられた「東方の灯燭」は、「早くからアジアの黄金時代に/光る灯燭の一つである朝鮮」で始まり、「わが心の祖国コリアよ目覚めて下さい」で終わる。日帝統治下の朝鮮のために書いた詩だとされ韓国人なら誰が見ても植民地支配から抜け出せと励ます内容として読まれる。そんなタゴールが日本の味方だったと?

英文学者の洪銀沢(ホン・ウンテク)大真(テジン)大学教授が季刊詩専門紙「詩評」冬号に寄稿した「タゴールに対する不便な真実」を見ると疑問の相当部分が解ける。洪教授は考証を通じ、「東方の灯燭」の15行のうち最初の4行は詩というよりメモ形態で1929年に朝鮮に伝えられたものであり、残りの11行は誰かがタゴールの作品「ギーターンジャリ」35節を付け加えて仕立てたものと分析した。しかも「わが心の祖国コリアよ目覚めて下さい」という最後の一節は誰かが「ギーターンジャリ」の原文にもない「コリア」を入れ脚色したものと指摘した。ノーベル賞受賞者の権威に寄りかかったとんでもない“片思い”が日帝時代、そして解放後も長く続いたことになる。

事実タゴールは日本だけを欽慕したのではなかった。日本人対象の講演で「この国(日本)は物質的には進歩したが精神的には退歩している」と苦言を呈したし、軍国主義化傾向も懸念した。彼が「日本がインドにも野心を抱いているようだ。飢えた彼らはいま朝鮮を食い荒らし中国を食いちぎっている」と話したという証言もある。ひとつの側面だけ見るものではない。

80年を超えて続いたタゴールに対する片思い、あるいは誤解は私たちの必要・コンプレックスと外国発の権威に対する盲従が混ぜ合わされた結果だ。厳酷な日帝時代には仕方なかったとして、最近の大韓民国でこれと同様の寸劇が広がらないと誰が壮語できるだろうか。

もちろん20世紀最大の偉人の1人とされるタゴールは無条件の日本信者だった訳ではなく、軍国主義化していく日本に臆することなく堂々と警鐘を鳴らしてくれた1人でもあったのです。

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「日本の百年5 成金天下(ちくま書房)」より

アジア人初のノーベル賞受賞者であったインドの詩人・思想家のラビンドラナート・タゴールは大正5年(1916年)、アメリカへの講演旅行の途の5月29日に神戸についてから9月2日に日本を去るまでの間、その大半を横浜の原三渓邸で送り、東京帝大、慶応、早稲田、日本女子大などに講演にもいった。慶応では「日本の精神」と題する講演をおこなったが、それは日本の国家主義が際限なく膨張することにたいする警告であった。

「もとより私は自己防禦のための現代的な武器を取得するのを怠ってよい、ということを意味するつもりはありません。しかしこのことは、日本の自衛本能の必要以上に決して出てはならないものであります。(略) もしこの人びとが力を求めるに急なあまり、自分の魂を犠牲にして武器を増加しようとしたら、危険は、敵の側よりもその人たち自身の側にますます大きくなっていくものであるという事実を、日本は知らねばなりません。」

「日本にとってそれにもまして危険なのは、西洋の外観を模倣することではなく、西洋文明の原動力を日本自身の原動力として容認することであります。(略) 今日西洋文明が流行している国においては、国民のすべてがその少年時代からあらゆる方法によって、憎悪と野望とを養いそだてることを教えこまれているのであります。歴史のなかへ半面の真理と虚偽とをつくりだして、それを人びとに教えこもうとするのです。(略) そうすることによって、国民のあいだに絶えず隣人や他国家にたいする悪意をかもし出そうとしているのであります。これこそまさに人類の泉に毒をなげ入れるものであります。(略) したがってわたくしは、西洋の政治思想の乱暴な圧力が、日本のうえに被いかぶさってくることを恐れているのです」(『タゴール生誕百年祭記念論文集』 1961)

そしてインドに帰ると、彼は『西洋における国家主義』のなかで、もっと端的に論じた。

「わたしは日本において政府の民心整頓と国民の自由の刈り込みに全国民が服従するのをみた。政府が種々の教育機関を通じて国民の思想を調節し、国民の感情をつくりあげ、国民が精神的方面に傾く徴候を示すときには油断なく疑惑の眼を光らせ、政府自身の仕方書にしたがって、ただ一定の形の塊に完全に鎔接するのに好都合なように(真実のためではなく)狭い路を通って導いていくのを見た。国民はこのあまねくいきわたる精神的奴隷制度を快活と誇りをもってうけいれている。それは自分でも『国家』と称する力の機械になって、物欲のために他の機械と覇を競おうとの欲望からである。(『タゴール生誕百年祭記念論文集』より、p.482~3)」

ここで日本人が思い出すべきはW.E.グリフィスかもしれません。南北戦争におけるゲスティバーグの闘いの帰還兵。明治初期に松平春嶽を藩主に戴く福井藩のお雇い外国人として廃藩置県の現場に立ち会って「ミカド(1915年)」を刊行した人物。その中に「ミカド主義(「Mikadism」あるいは「両部信仰」)」なる説明があります。日本人の伝統的構成単位たる多種多様な社稷集団(鎮守社を中心とする伝統的集落や、寺社を中核とする僧侶や神主や氏子や檀家の集まり)の頂点として天皇を思い描こうという構想で、その起源は以下の二つとされています。

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逆をいえばそれは、以下の二種類のバリエーションの敗北過程でもあったのです。

これが戦後日本で広まった歴史観において「明治維新後の家父長制浸透によって日本人全体がファシスト化していった恐るべき展開」と単純化されてしまった展開だった様ですね。そしてこれが「先天的劣等民族たる日本人はいまだにこの状態を続けている。今や国際的に文明人と呼ばれているのは我々の方、野蛮人と呼ばれているのは日本人の方」という中国や韓国のインテリ層の主張につながっていく訳です。

しかし実は、歴史のこの時点までの大日本帝国にすっかり欠けていたのは、むしろ「個人的欲望を肯定する精神」だったのでした。

新渡戸稲造「武士道(Bushido: The Soul of Japan、1899年、桜井彦一郎(鴎村)による日本語訳初出1908年、渡戸門下生の矢内原忠雄の訳出による岩波文庫版1938年)」

日本の封建時代の道徳体系は、その城郭や武具と同じように崩壊して土と化した。そして、それに代わる新しい道徳が不死鳥のごとく飛び立って、新生日本を進歩発展させるであろう、といわれてきた。事実、この半世紀の間にこの予言は確実に証明されてきた。そのような予言の実現はまことに望ましく、おそらく未来はそうなるであろう。

だが、不死鳥はみずからの灰の中からのみ蘇生し、どこからか渡ってくる鳥ではない。ましてや他の鳥から借りた翼で飛び立つものではないことを、私たちは決して忘れてはならない。

「神はすべての民族にその人たちの言葉で語る予言者をもうけた」とコーランは述べている。日本人のその心が保証し、理解した神の国の種子は武士道の中で花開いた。だが、悲しむべきことに、その実が熟す前に、武士道の時代は終わろうとしているのである。私たちはあらゆる方向に、美と光の、力と慰めの、源泉を求めているが、いまだ武士道の代わりになるものを発見できているとはいえない。

功利主義者と唯物論者の損得哲学は、魂を半分しか持たないような屁理屈屋の間では人気があるようだが、いま功利主義唯物論に対抗できる他の強力な道徳体系は、キリスト教だけである。これにくらべれば、武士道はもはや「いまにも消えそうな灯心」だと白状しなければならない。

ヘブライの先駆者たる預言者たち、特に、イザヤ、エレミヤ、アモスハバククなどと同様に、武士道は、支配者や公人、国民の道徳的行為に重点を置いてきた。然るに、キリスト教の倫理は、ほとんど個人やキリストに個人的に帰依している人々に限定されており、道徳的要素の理解能力において秀でている個人主義をますます実践的に適用するようになり、説得力.を増すようになるであろう。自己主張の強い独断的な、ニーチェのいわゆる主人道徳には何か武士道に似た点がある。私の理解が間違っていなければ、ニーチェが述べているところの言は、病的で歪んだ表現によって、ナザレの人(キリスト)の道徳を、みすぼらしい自己否定的な奴隷道徳と呼んでいるが、主人道徳とは、奴隷道徳に対する過渡的段階もしくは一時的な反動のものである。キリスト教唯物論功利主義をふくめて)はやがて世界を二分するだろう。あるいは、この二つも、将来は、昔からあったヘブライズムとヘレニズムの対立に還元されて行くのだろうか。劣勢な道徳体系は、生き残る為に、どちらかの陣営と同盟することになろう。武士道はどちら側に与するのだろうか。

武士道は確固たる教義(dogma)もなく、守るべき公式もないので、一陣の風であえなくも散っていく桜の花びらのように、その姿を消してしまうであろう。だが、その運命はけっして絶滅するわけではない。ストア派が滅び去ったと誰がいえるだろう。それは体系としては死んだが、徳目としてはいまも残っている。その精力(energy)と活力(vitality)は人生のさまざまな部分で、西洋諸国の哲学の中に、あらゆる文明社会の中に見ることができる。いや、人間がみずからを向上させようと格闘しているところには、あるいは精神が肉体を支配しようとするところにおいては、ゼノン(ストア哲学の祖)の不滅の規律が作用しているのをみるのである。

 まさにこの文章の中に当時の大日本帝国の臣民の発想を制約した時代的制約が見て取れるのですね。

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  • そもそもストア派の禁欲主義はエピクロス派の快楽主義と表裏一体の関係にあり、ジェレミ・ベンサムJeremy Bentham、1748年〜1832年)やジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年〜1873年)の功利主義(utilitarianism)もその延長線上に現れたのだという事が理解不可能だった。さらなる源流を遡るとイングランド産業革命や(ジェーン・オスティン的性淘汰主義を背景とする)ジェントリー階層の栄華に直面したスコットランド貴族達が編み出した「スコットランド啓蒙主義(The Scottish Enlightenment)=新スコットランド騎士道」にまで行き着く。
    *最大の鍵は禁欲主義も快楽主義も功利主義も「貴族の必須教養」として尊重されてきた以上、その主目的は「勝利」ではなく「存続」にあったというあたり。下手に一人勝ちすればかえって「出る釘は叩かれる」理屈で寿命を縮めるし、時には政敵に上手く負けてやる器量も必要となる。その覚悟を踏まえての「最大多数個人の最大幸福」なのであり、この思考様式は英国議会制度の根幹にまで関わってきたりする。

  • そう。「近代化=農本主義からの脱却」に際してまず必要不可欠とされるのは、あくまで「計算癖(ドイツ語Rechenhaftigkeit、英語Calculating Spirit)の全人格化」なのである。その過渡期には「大悪党」が現れる。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマとの対決がある。この段階を乗り越えたた先にしか、近代化や資本主義化の達成はない。
    *江戸幕藩体制下においても、この流れは既に西日本の「算盤武士」や富農や富商の間において見られ「天保の大飢饉1833年1839年、ピーク1835年〜1837年)」にも市場経済の暗黒面ともいうべき「売り惜しみ」のせいで加速した側面もあった。実は日本の防災対策が充実するのはそれ以降。この時の反省が元になってるとも。

    ブルジョワ階層や庶民は貴族や武家の「気取った体裁」なんかには目もくれず、ただその本質を模倣しようとした。要するに皮肉にも継承されたのは「武士は食わねど高楊枝」の精神というより「剥き出しの功利主義」だったのである。
    *英国労働者階級の欲求は「白パンを食わせろ」「砂糖入り紅茶を飲ませろ」「Fish&Tipsぐらい常食にさせろ!!」と際限なくエスカレートしていく。日本の国労働者階級の欲求もこの頃から次第に「白飯を食わせろ!!」「オカズに牛缶や鮭缶くらいつかないでどうする?」とエスカレートしていく。だが、まさにこの欲望増大過程こそが(産業革命による生産力の急増が生んだ伝統的な需要と供給のバランスの崩壊を原因とする)欧州大不況時代(1873年〜1896年)が「ブルジョワ階層や庶民の大量消費」によって克服されていく時代、第一次世界大戦終焉による戦争特需終焉後も大日本帝國の好景気が(関東大震災(1923年)の頃までは)続いた時代を支え続けたのだった。

    *当時ロシアの無政府主義者クロポトキンの「パンの略取(La Conqute du Pain、1892年)」が国際的に貪る様に読まれたのは、決っして偶然ではない。しかもその内容は資本家階層によって「パンが十分に行き渡っていれば革命は起こらない」と読み替えられ、実際にその政策は有効だったのである。日本を普通選挙履行に踏み切らせたのも星亨(1850年〜1901年)が始め、戦前の立憲政友会や戦後の自由民主党が集票手段として活用した「我田引鉄」政策だった。

    鉄道と政治 - Wikipedia

 そう。まさにこの流れこそが農本主義的秩序を破壊して資本主義的発展段階に移行する上で不可欠な最重要要素。

ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)」

個人が個人を超えて持続する共同体から一人抜け出した時、初めてその個人の生涯がおのれの享楽の尺度となった。個人はおのれ自信が、事物の変化から出来るだけ多くの体験を得ようと欲する様になった。王でさえ己自身になりきり、自らが建てた宮殿に住みたいと欲する様になったのである。

欧州においてこの新たなる思考様式は模倣を通じて「絶対君主と取り巻きの貴族の途方もない贅沢」から「新興ブルジョワ階層のスノビズムおよび成り上がり趣味」を経て「小市民のささやかな贅沢」へと伝播されていきました。それまでの「貧困階層」が、それなりのトリクルダウン(trickle-down)も実感出来なくて、誰が「経済発展」を容認するもんですか!! そして日本にも同時期、同様の歴史的展開があったのです。

19世紀末から20世紀初頭の世紀転換期、普通選挙実施にあたって議会外組織プリムローズ・リーグ(Primrose League)が英国最大の政治組織に成長し「急激な変化を望まない」英国人気質を巧みに魅了して全国民が選挙権を有する同時代の保守党長期政権を支えました。
*ここで鍵を握ったのはディズレーリの神聖視。大正デモクラシー前夜の日本でもこれを見習おうという動きがあった。大正11年(1922年)1月10日に大隈重信が胆石症のため早稲田の私邸で死去。1月17日に私邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。一方、その3週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」は、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。

日本でいうと立憲政友会が「我田引鉄」政策によって在郷名家の懐柔に成功し、普通選挙導入に踏み切ったプロセスを思わせます。自由党星亨が始め「平民宰相」原敬も受け継いで、戦後の自由民主党にまで採用された極めて泥臭い道。でもリベラル派が理想視するフランス第1回普通選挙(1948年11月)では、オーギュスト・ブランキら急進共和派がロベスピエールのコスプレをして「さぁ今度こそ王侯貴族や聖職者とそれに癒着するブルジョワ階層の全員をギロチン送りにして、私有財産一切を廃絶しましょう」と演説して回り、かえって共和派全体への恐怖感を煽って皇帝ナポレオン三世登場が準備されてしまいます。「どっちが良かったか」比較したければ、まずこういう辺りに注目しないといけません。

そして、こうした展開において欧州でパリやロンドンが重要な役割を果たしてきた様に、日本では「京都」。もはや公家とか武家なんて単位ではなく問答無用でいきなり「京都」。五山文学や(お茶の間文化の起源として知られる)東山文化発祥の地にして、近年は国際的に任天堂京都アニメーションの所在地として知られる「京都」。「黒足袋(戦争特需が生んだ造船業や鉄鋼業分野の新興成金)」を、そのスノビズムによってひれ伏せさせた「白足袋」の本拠地。

先日、日本を代表する企業のひとつであり、京都に本社をもつ堀場製作所の社長さんとご一緒したときのこと。東京からお越しになったゲストもおられたのですが、その方が堀場さんにふと「祇園ってのはどういうところですか?」と尋ねられました。すると、堀場さんはニコニコしながら、「祇園はなぁ、怖いとこや」とおっしゃいます。ゲストが「祇園もぼったくりとかあるんですか?」と言うと、「いやいや、決してそういう意味じゃない。京都には古くから言い伝えがあってな。『白足袋には気をつけろ』っていう言葉があるんや。あんた、意味わかるか?」

「白足袋ってのはな、白い足袋を常に履いている人たちのことや。京都には3種類の白足袋がいて、まずは、舞妓はん。お茶人、それから坊さんや」。ゲストはますます意味が分からない様子で、「日本を代表する上場企業の大社長たる方が、なぜ舞妓や茶人や坊さんに気をつけないといけないのでしょうか?」と尋ねると、社長はこのようにおっしゃいました。

「舞妓はんもお茶人も坊さんも、それぞれの道で厳しい修行を積んできとる。並のもんではできひんことをやってきてはる。そやから、自分の中で確固たる『モノサシ』があるんや。舞妓はんは若いけど、そういう自分の中のモノサシを使って祇園に来るいろんな人を見てはる。だから、舞妓はんとちょっと話をするだけで、この人はどれくらいの器なんかってのがすぐに見透かされてしまうんや。どんだけ羽振りがよくても、大きい会社の社長でも、舞妓はんから、『あの人はえらそうにしてはるし、お金ももってはるけど、大した人とちゃいます』なんて言われてしもたら、京都の街ではさっぱりあかんのや。だから、祇園は怖いとこなんや」。そうおっしゃると、東京の方も「なるほど。京都は知れば知るほど奥が深い街ですねぇ」と感心していらっしゃいました。

一銭洋食 - Wikipedia
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タゴールが日本のこういう側面をあまり目にしていないのは、まさにこうした伝統的システムが、やっと本格的に始まった日本の資本主義的発展の渦中に自らの居場所を見出す前夜だったから。それゆえに当時のこの人物の辛辣な批判の言葉が同時代証言として重要になってくるとも。

逆を言えば、この時期特有の「無辜の市民が嬉々として何ら疑い一つ抱かず帝国主義や科学的マルクス主義といった外来思想に扇動される有様」を目の当たりにし、タゴール自身も「我が祖国はどうなる?」という不安を抱いたのかもしれません。
インドの反英闘争(20世紀)

*ちなみに日独伊三国同盟が締結されたナチスの報道官が1940年に日本内地を訪れている。経済統制がまるで行き渡っておらず、庶民が従来通りの日常生活を送ってる有様を見て「こんな全体主義国家があるか、出鱈目じゃないか!! 」と憤慨したという。その頃の大日本帝國はもう、良い意味でも悪い意味でも小泉八雲日清戦争(1894年〜1895年)に際して目にした「有事に際しては全国民が疑い一つ持たず一丸となって戦争に動員されていく雰囲気」を完全に失っていたのだった。それなりには近代教育を受け、それなりには豊かになったせいで、むしろだから「総力戦」を望む軍による統制がヒステリックなものになっていった側面もあったらしい。

*ちなみに敗戦後日本人が直接口にした反省点は主に以下。①軍国主義化は政治家や財界人が思考停止して国や経済の経営を投げ出してしまったから起こった(もう2度と政治家は政治を、財界人は経済経営を投げ出してはいけない)。②英才教育によって純粋培養され傲慢に育った少数精鋭のエリートに全ての判断を委ねるのは(現実を無視して独断専行に走るかと思えば、暴力的威嚇にあっけなく屈っしたりと)様々な意味で危険(GHQも同様に考え、まず真っ先に教育制度改革に着手)。③貧乏人は軍人になって軍功を挙げねば立身出世出来ないシステムが軍に見境なく戦線を広げさせた(自衛隊には、こうした欠陥は継承されていない)。わざわざイデオロギー論など持ち出すまでもなく、これだけで一応の説明はついてしまう。

東大助教授久保正彰「暴力以前――ソクラテスの問い――(1969年)」

大日本帝国時代のインテリ層は、思想の左右に関わらず江戸幕藩体制下における士族の思考様式の延長線上で「農民も労働者も我ら政治的エリートとの善導に盲従するのが当然」と考える一方で内部党争に勝利する事を最優先課題と考えていた。
*そして1960年代後半から1970年代暴れた学生運動家達には、自らがそうした「大日本帝國が抱えていたシステム的欠陥の最後の残滓」という意識が欠けており、当時のままに振るまっ事が大衆からの支持喪失へとつながっていく。

  • 帝国主義共産主義には思わぬ共通点がある。それはどちらも消えゆく封建体制的(農本主義的)滅私奉公の伝統に立脚して日本を乗っ取ろうという戦略に立脚し、そうした伝統が消滅するに従って次第に現実味を失っていった辺り。
    新渡戸稲造「武士道」に見受けられるジレンマは「忠義を捧げる相手として相応しいのは天皇か、イエス・キリストか、それとも科学的マルクス主義か?」といった具合に要約可能だが、それは「個人の幸福は時代精神Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る事によってのみ獲得される」としたヘーゲル哲学の枠組みそのもの。あくまで「大量生産・大量消費」によって回転する近代資本主義体制登場以前の農本主義体制、すなわち「領主が領民と領土を全人格的に代表する権威主義的体制」の存続を前提とする時代遅れの考え方に立脚していたのである。

  • しかし最終的に日本人はどちらも「役立たず」と判断し、いつの間にか「時代遅れの考え方」として切り捨ててしまった様である。
    *欧州じゅうのインテリがヘーゲル哲学に心から心服していた当時、フランス庶民はバルザックが「人間喜劇(La Comédie humaine、1834年1850年)」に活写された様な生活を送り、ドイツ庶民はビーダーマイヤー流(Biedermeier Style、1815年〜1848年)の小市民的贅沢を甘受しながら、そうした抽象的理論には一切耳を傾けなかった。当時の日本の庶民も五十歩百歩。まぁ出発点からそういう有様だったのだから最終判断がそういう形を迎えたのも当然といえば当然?
    678夜『ビーダーマイヤー時代』マックス・フォン・ベーン|松岡正剛の千夜千冊

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    共産主義帝国主義よりこうした大衆心理に対する不信感が根強くて(なにしろ蜂起の都度裏切られてきた)それで真っ先に「正しい考え方が一切出来ない愚民ども」から手段を選ばず容赦なく暴力まで用いて「何が幸せか自分で決める権利」を取り上げるのを常としてきた。そもそも「全国のプロレタリアートよ団結せよ」というスローガン自体が(2月/3月革命(1948年〜1949年)で手酷く裏切った)農民層に対する人格否定宣言だったし「民主集中制(Democratic Centralism)」に至っては、そのプロレタリアート階層そのものに対する人格否定宣言だったという有様。ローザ・ルクセンブルグはこうした展開について「プロレタリアート独裁はプロレタリアートへの独裁に発展的に解消された」と要約。
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    三月革命(1948年〜1949年)
    民主集中制 - Wikipedia

こうして全体像を俯瞰していくと、タゴールが目にしたのは、まさに「夜明け直前の最も暗い状態の日本」だったといえるかもしれません。

戦後日本の覚書

徳田球一とか志賀義雄なぞが出獄して、日本共産党が再建されて、右往左派が続々と入党し、嘗て挫折した文化人も遅れじとばかりそれに続き、転向した人々も前非を悔いて自己批判して入党、共産党は意気洋々と1946年のテーゼなるものをブチ上げ、46年末までには民主人民政府を樹立し、北朝鮮の様な地上の楽園を日本に実現すると云う、大変な話になりました。

昭和21年、早々には野坂参三が中国から帰国した時、日比谷公園で大歓迎会が有り、歓迎の歌が作られ、大合唱が有ったと云う事で、共産党員である事が進歩的文化人の証拠で有るような、おかしな具合になつて来ました。

共産党に入れば、それだけで人民大衆の前衛で、意識の高い知的労働者であり、著名な学者、文学者が、戦時中の特高の迫害に耐え兼ねて、転向した前非を悔い改め、続々とし復党し、共産党のブチ上げる所の1946年に、民主人民政府が出来上つた時、然るべきお役に就けるように努力していた様です。

しかし戦争に負けて秋が深くなつた頃より、主食を始めとした配給品が滞ってきます。共産党の指導者は、過去に天皇や、財閥が、人民大衆から絞り取ったものを取り返せと云うばかりで、朝連が隠匿している物資や、その筋が押さえている物資の摘発、農村に入り込み供出を渋り隠匿している悪徳農家の摘発なぞは一切行はず、官憲の無能を責めるばかりでありました。

そして幣原内閣(昭和20年(1945年)10月9日〜昭和21年(1946年)5月22日)がつぶれ、吉田茂首相の登場となります(昭和21年(1946年)5月22日〜昭和22年(1947年)5月24日。旧憲法下で天皇から組閣の大命を受けて発足した最後の内閣)。この方は口をへの字に結んで、難しい顔をしていましたが、葉巻を吸つて上機嫌の時には、なんとも可愛らしい顔でした。何だ彼だと保守陣営にゴタゴタが有って、不届きな奴等に足を引っ張られ、総選挙に負けて、この癇癪持ちの総理大臣は内閣を放り出したのです。GHQ の云う事に盾を突くので、首にされたと言う説もありますが、兎も角、社会党が第一党になりました(昭和22年(1947年)5月24日〜昭和23年(1948年)3月10日)。

選挙の公約で、社会党の猛者、鈴木茂三郎と云う人が、米の三合配給は社会党に任せなさい、我々社会党に任せれば、世の中が眼の覚めるような変わり方をすると云うので、老生もこの人に投票しました。ところが、社会党の内閣になったら、食料品の配給が全く途絶え、党内はお家騒動に終始して、国民の窮乏なそは何処吹く風であるかの様な感じでした。どぶろくで酔っ払ったおじさんが、演説を始めて曰く「社会党だ、共産党だ、人民の味方だなんぞといゃあがるが、あいつ等は皆んな国民の敵だ」このおじさんは、盛大な拍手を受けておりましたが、老生もこれを正論と思っております。片山総理大臣曰く「食料事情がこんなに悪いとは知らなかった」のだそうです。期待した三合配給は当然駄目で、遅配.欠配が酷くなりました。この内閣は10か月でつぶれました。

次なる芦田均内閣(昭和23年(1948年)3月10日〜同年10月15日。引き続き民主党日本社会党国民協同党が与党)は、食料事情改善の為、農家に食料供出を強く命令したそうですが、そんな事で農家が苦心温存している、作物を手放すわけは有りません。国民大衆は主食の配給が無くなり、闇行為の取り締まりは一団と強化されると云う、踏んだり蹴ったりと云う目に合わされました。この内閣、昭和電工から何やら受け取ったのが祟り、7ヶ月で退陣と云う事になりました。渋谷の宮益坂で、立派な自動車に乗った、芦田首相に通行人が、泥や石ころを投げて、馬鹿野郎、嘘つきなぞと云つて騒いだと云う話がありました。

此処で、第二次吉田茂内閣(昭和23年(1948年)10月15日〜昭和24年(1949年)2月16日)が登場します。巷の噺によれば、マックアーサーが連隊長でウロウロしていた時分、吉田 茂総理大臣はイギリス駐在大使であつたとか、だから、マックの云う事を素直に聞かず、何だ彼だと許される範囲で、色々と抵抗をしたと云うので、何だ彼だと風評はありましたが、この人に対する国民の信頼は厚かったと思います。GHQ に乗り込んで、食料の援助を申し入れ、日本人に餓死者が出れば、それはGHQの責任であると、云ったとか云う風説が有って、その甲斐あってか、軍用缶詰が5回ほど配給になりました。

今日で言えば、賞味期間切れか、その寸前か、缶がデコボコで軍用塗料が剥げた傷だらけな外観でしたが、大小様々な缶詰が配給所に詰まれ、くじ引きで当った番号の缶を渡して呉れるのですが、ペンキ缶程の大きさの物から、パイナップルの缶程のものが色々あつて、大きい缶を引き当てて喜んだ人が、家に帰り開けて見たら中身がスープで、あまり腹の足しにならずガッカリしたり、小さな方の缶は中身はーがコーンビーフで、ミツシリと腹応えが有ったり、色々でありました。

そして時は21世紀。これまで日本のメディアが散々「政治的先進国」と持ち上げてきた民主化後の韓国が「日本が一刻も早く回帰すべきは田中角栄時代。安倍政権を倒して小沢一郎を首相にせよ」と言い出す超展開に。まぁ「日米との即時断交」とか「財閥企業の即時解体と国営化」なんて景気のいいスローガンで国民の支持を集める韓国左派が政権奪取に成功したらどうなるか次第に見えてきたのでしょう。まったく、周回遅れはどっちやら…

ちなみにこうした歴史観、どっぷりと新海誠監督作品「君の名は(2016年)」における三葉パパのサイドストーリーそのもの(「君の名は。 Another Side:Earthbound」収録)。そして片渕須直監督作品この世界の片隅に(2016年)」の物語が展開する呉の町の歴史そのものだったりもするんですね。

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いつのまにかこっちの歴史観の方が当たり前のものとして定着してしまった?

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…