なるほど、そんな展開に…
ディズニープリンセスといえば、シンデレラや美女と野獣のベラ、白雪姫などが有名だが、どのプリンセスも、不幸な状況から王子様や魔法によって助け出される受け身なキャラクターばかり……。
それに引き換えレイア姫は、時には銃を手に反乱同盟軍を率いて、自ら敵陣に乗り込んで行く強さも見せ、恋のお相手ハン・ソロにも簡単に心を許さぬ一筋縄ではいかない女性だ。そんな、自分で決断して自身の運命を切り開いていくレイア姫がディズニープリンセスに選ばれたら、従来のお姫様像に革命をもたらすほどのインパクトを与えることになるだろう。
ちなみにディズニー好き女子にとっての「Disney Princessワーストワン」はダントツで「眠れる森の美女(Sleeping Beauty、1959年)」のオーロラ姫らしいです。理由は「何あの女? 生まれつき裕福で、可愛くて、身分も恵まれてて、何の意思表示も自助努力もないまま、気づいたら幸せになってるなんて!!」だそうです。言われてみれば確かに彼女、プロレタリアート(持たざるもの)が怨嗟する要素の集大成だわ、これ…
概ねStar Wars Ladiesの祖型は「隠し砦の三悪人(1958年)」に登場する雪姫。
「あらあらストームトルーパーにしては、おちびさん!!」
「ダスト・シュートに身を投げな、蝿少年!!」
まるで「双子の姉が弟に絶対言ってはならないセリフ集」みたいな有様。そして「隠し砦の三悪人(1958年)」で雪姫を演じた時点での上原美佐がズブの素人で黒澤明監督の演技指導を忠実に再現するだけの存在に過ぎなかったのは割と公然の秘密ですが …
The Kurosawa Project (AK with Misa Uehara, during rehearsals for “The...)
一方その完璧主義が災いして黒澤明監督は、国内外の女子から「三船敏郎は「酔いどれ天使(1948年)」「羅生門(1950年)」「七人の侍(1954年)」の頃の方がSexyだった」「ついに仲代達矢をSexyに描けなかった」なんて酷評されていたりもします。
*「国内外の女子」…とはいえ黒澤明監督作品まで一通り嗜む尋常でない教養量、相当の「古参兵(Veteran)」揃いなのは間違い無しである。
Film - Rashomon (Akira Kurosawa,1950)
Film - Rashomon (Akira Kurosawa,1950)
Films looking at you, kid — Seven Samurai (1954) by Akira Kurosawa.
Film - The Face of Another , Hiroshi Teshigahara , 1966
Strange Memories - Tatsuya Nakadai in The Sword of Doom (1966)
ところで、ここでいう「Sexyさ」とは一体何を意味しているのでしょう? 柴門ふみの様な古参兵(Veteran)女子の解説によれば「盤石の構えの中の付け入る隙(およびそれを突破口として見出す駆け引き)」を指す様です。そういえばネット上の海外女子も時々「女は先天性外交官だから、駆け引き無しに手に入るものなんぞに興味など持たない」なんて口にしたりします。どうやらこの思考様式が「ジェーン・オスティン流性淘汰」理論と双璧を為す形で「少女漫画の根底」には埋め込まれている様なんです。
さらなる基底にはこういう考え方も潜在してる様に見受けられます。
あるお母さんの名言。「男の子は皆バカでヘンです。ちなみにそのまま大きくなるので、オトコという生き物も基本的にバカでヘンだと思って間違いありません。ちなみに、女の子は意地悪。男女両方を育ててみての感想であり確信です。バカと意地悪が共に暮らす人間社会。いろいろあって当たり前ですね」
— Jun Hirabayashi (@hirax) 2011年12月28日
エンターテイメント世界における作劇理論に翻訳するとこんな感じ?
- 男の本質は馬鹿で変な事。すなわち例えば「馬鹿げた思いつきを行動に移してみたくてたまらない」などといった性壁があるという事。この衝動を全面的に肯定しつつ、そのネガティブな側面がもたらす破綻を如何に回避するかがクリエーターの腕の見せ所。
- 女の本質は意地悪な事。すなわち例えば「観察力や思考力が鋭敏過ぎるせいで、良い意味でも悪い意味でも深く考え過ぎてしまう」などといった性壁があるという事。これを全面的に肯定しつつ、そのネガティブな側面がもたらす破綻を如何に回避するかがクリエーターの腕の見せ所。
- そして最近のトレンドは「両者をバランス良く両立させる」事。当然、さらに破綻回避の難易度は上がる。
一見ルールとしては単純極まりなく見えるが、実際のあり方は千差万別で「一人でも多くの人間を納得させる展開」を見出すのが限りなく難しい…
そして海外女子はよく「日本の少女漫画こそが私たちの生き方のバイブルだった」と口にします。実際、女性を画一的に「自らの女性らしさに拘束された囚人」と規定し、それからの「解放」を目指した「第二次フェミニズム運動(1960年代〜1980年代)」の影響から脱却し、それぞれが「自分にとって何が幸せかは自分で決めるしかない」なる決意を固める際に日本の少女漫画が重要な道標を提供したという側面ならあった様なのです。
そういえば武内直子「美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」CLAMP「カードキャプターさくら(1996年〜2000年)」の国際的ヒット以降、米国コミック市場の「単行本(Graphic Novel)」分野において日本からの輸出漫画が占める割合は1/3を超える様になりました。特に(それまでそういうジャンル自体が存在していなかった)女性向けコミックの分野は今日までほぼ独占状態が続いています。
米国コンテンツ市場調査(2011-2012)アニメ・マンガ編
日本のマンガは米国では「グラフィックノベル」という出版フォーマットに含まれる。アメコミは「コミックス」という別の出版フォーマットである。ニールセンのブックスキャンレポートによれば、2011 年に米国内で販売されたグラフィックノベルのトップ 750 タイトルのうち、392 タイトルが日本のマンガで、販売部数の合計は 260 万部。グラフィックノベルではマンガが非常に強いことがわかる。
- それまでのアメリカにおける単行本(Graphic Novel)なるジャンル、バンド・デシネ(bande dessinée)めいた「高額で少ししか売れない芸術作品」の販売チャンネルだったのである。そこにエンターテイメント色の強い安価な作品が大量投下された事が日本漫画に勝利をもたらした訳だが、実は「単行本(Graphic Novel)革命」そのものは1980年代後半、米国新鋭作家フランク・ミラーの「バットマン:ダークナイト・リターンズ(Batman:The Dark Knight Returns、1986年)」やアラン・ムーアら英国執筆陣の「ウォッチメン(Watchmen、1986年〜1987年)」が仕掛けたのが端緒となっている。
*とはいえアメリカにおけるコミック制作は高度に分業化されており、その内容を急には変えられないし、制作量も急には増やせない。それで「週刊誌に連載されて物凄い勢いで続刊が出る(しかも既刊ストックを大量に有する)」日本の漫画の猛攻があってもすぐには応じられなかったのだという。
まぁそのフランク・ミラー自身が「ガッチャマンのひらひらマント」みたいな日本的美意識の最初の伝教師となった側面もあったのである。なにしろこの人の最初の出世作って(フランスのメビウスや日本の劇画の影響を受けた斬新なアートで話題となった)SF時代劇「Ronin(1983年)」だったりする。今日まで続く海外での「子連れ狼(Lone Wolf and Cub、1970年〜1976年)」や「首斬り朝(Samurai Executioner、1972年〜1976年)」の人気はこうした過渡期に由来する。なにしろ表紙絵をフランク・ミラー自身が手掛けたりもするのである。
-
ところで当時の「日本の漫画の猛攻」現出には「翻訳革命」なるもう一つの重要契機があった。要するに手抜き。それまでは一冊一冊丁寧に右閉じから左閉じに直し、擬音も全て英語に修正していたが、これを諦めたせいで新刊発行速度が劇的に早まり、翻訳コストも大幅に下がったのである(そして「最初に覚えた日本語は"ドドドド"だった」「俺は"わっはっは"だった」と自慢する読者が現れる事に)。同時進行で翻訳作業のシステム化も進行。「フキダシ内のセリフを効率的に日本語から英語に置き換えるルール」の整備が進み、翻訳者の参入障壁が大幅に下がったという。
*実はこれに加え韓国において政府規制や安価な貸し漫屋台頭のせいで漫画産業が壊滅的打撃を受け「日本語が読めて日本漫画文化に造詣が深い韓国人編集者」が大量にアメリカに流入してきたなんて裏事情もあったらしい。 - ところで実はアメリカでは1950年代から1960年代にかけて「Girls Comic」の摘発が摘発的に行われ、生き延びたのは(より大人向けの)ロマンス小説くらいだったという壮絶な歴史が存在するのです。
*まぁ大半の作品のテーマが「いかに親を騙して夜遊びや男遊びをするか」といった内容だったので「不良少女勧誘マニュアル」のレッテルを貼られても仕方がない側面はあったらしい。
その後インディペンデンス系コミックという形で部分復興はあったものの、あくまでその展開はコミック・マニア中心。
実はシンディー・ローパー「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン(Girls Just Want to Have Fun、1983年) 」やマドンナ「ライク・ア・ヴァージン(Like a Virgin、1984年)」の世界的ヒットの背景にも、こうした「夜遊びしたい」「男遊びしたい」系願望は蠢いていた。しかし当時のアメリカはどんどん女性の権利拡大が進み「十代少女が夜遊びや男遊びにしか楽しみを見出せない」閉塞的状況そのものが終焉を迎えつつもあったのだった。
*まぁ正直、バブル期日本の漫画にも(未曾有のディスコ。ブームとかを背景に)同様の側面はあったのである。ちなみにこうした米国少女達の「毎夜パーティが続くセレブ生活」への憧憬心を完全放棄にまで至らせたのは、2000年代における「お騒がせセレブ筆頭」パリス・ヒルトン(Paris Hilton)などの乱行三昧だったという。意外な形で米国女性文化史に貢献したパリス・ヒルトン。将来は歴史の教科書に名前が載るやも。
そんなかんなで多くの米国少女達にとっては、まさに「My Little Pony(1986年〜)の次に美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)や少女革命ウテナ(1997年)やカードキャプターさくら(1996年〜2000年)がやって来た」という衝撃展開となったのだった。そして高橋留美子の「らんま1/2(1987年〜1996年)」や「犬夜叉(1996年〜2008年)」、CLUMP諸作品、高屋奈月「フルーツバスケット(1998年〜2006年)」の受容が急速に進む状況に。
そこで彼女達が目にしたのは「女らしさを一切放棄する事なく、のびのびと生きている同世代の日本の少女達」の姿だった。特に(女らしさを保ったまま)男と同格に戦う天道あかねや、女性に変身すると「女の武器」を平然と使う乱馬といった存在の衝撃は大きく「(女らしさからの解放を呼びかけてきた)第二世代フェミニズム」と「(自分らしさの実現を最優先課題とする)第三世代フェミニズム」の溝を大きく広げる結果を生んだという。
ただし、こんな面倒くさい設定がついたせいで、後の世代は割とドン引き。途中いろいろあって、2010年代に国際SNS上の関心空間に巨大コミュニティを構築したのは 岸本斉史「NARUTO -ナルト-(1999年〜2014年)」及び「Avatar: The Last Airbender(2005年〜2008年)」で育ち「The Legend of Korra(2012年〜2014年)」に夢中となった少女達と相成った。
かくして2010年代前半には同世代の「ビリーバー(Belieber、十代少女を中心とするJustin Bieberの熱狂的ファン層)」と血塗られた抗争を繰り返してきたが、これらの作品が最終回を迎え、Justin Bieberの人気も急落。時代は新たな局面を迎える事に。
*こっちの展開では初音ミクが「アニメ派」の旗印に。そういえばどちらも登場は2007年。アメリカではそういう意味で関連付けて理解されてきたらしい。 - 一方、アメリカにおいては2000年代に入ると(ハリウッド映画が大作志向となり、TVドラマもこれを真似た外国産作品が中心となって)「ビバリーヒルズ高校白書(Beverly Hills, 90210、1990年〜2000年)」や「ボーイ・ミーツ・ワールド(Boy Meets World、1993年〜2000年)」の様な「十代を主役とするありふれた日常を舞台としたホームドラマ」が制作されなくなっていく。日本のアニメや漫画はその代替物としても選ばれる様になっていく。
これに関連して海外女子は「日本の少女漫画には往年のアメリカにおける名画やホームドラマの面影が継承されている」と指摘する。実は決っして思い過ごしではない。1950年代まで少女漫画は男性作家中心で「恋愛沙汰厳禁」といった前近代的ルールが支配する世界。最初に変革に挑んだのも男性作家で手塚治虫「リボンの騎士(1953年〜1966年、宝塚歌劇や御伽噺の世界観に立脚する恋愛要素もあるファンタジー)」や石ノ森章太郎「龍神沼(1957年)」「きりとばらとほしと(1962年)」といった(別冊読み切り付録ゆえに厳しい統制の目をすり抜けた)伝記ファンタジーなどだった。
それに続いたのがトキワ荘出身の紅一点だった水野英子「星のたてごと(1960年、神話世界に擬したラブ・ファンタジー)」といった女性漫画家達。そして1960年代に入ると「海外名画の翻案」なる方便で(海外を舞台とした)恋愛ドラマや学園ドラマの導入が始まり、遂には「ベルサイユのばら(1972年〜1973年)」「キャンディ♥キャンディ(1975年〜1979年)」といった完全オリジナル大作まで登場するに至る。
*日本の少女漫画における金髪美少女の源流を辿ると、1960年代における「ローマの休日(Roman Holiday、1953年)」や「麗しのサブリナ(Sabrina、1954年)」といったオードリー・ヘップバーン主演作品の翻案物などに辿り着く。こうした映画は日本でも大ヒットしたので、舞台が日本国内でない限り多少展開に恋愛沙汰が絡んできても大目に見られたのだった。 -
そもそも日本人は「魔法少女」なる概念自体、映画「奥様は魔女(I Married a Witch、1942年)」やTVドラマ「奥さまは魔女(Bewitched、1964年〜1972年)」「かわいい魔女ジニー(I Dream of Jeannie、1965年〜1970年)」といった輸入作品から仕入れたのではなかったか?
赤塚不二夫「おそ松くん(1962年〜1969年)」の大元となったアイディアもまた、当時日本を席巻していた小市民喜劇や源氏鶏太のサラリーマン小説(1947年〜1970年)ではなく米国戦後ホームドラマの草分けとなった映画「一ダースなら安くなる(Cheaper by the Dozen、1950年、続編1952年)」辺りだという。
*1960年代は映画業界がTVへの番組提供を拒絶した結果、海外ドラマが大量輸入されて日本のお茶の間を席巻した時代でもあったのである。出版業界も未曾有の翻訳ブーム。一方、週刊少年漫画誌に人気を奪われた月刊少年向け雑誌は手塚治虫「鉄腕アトム(原作1951年〜1968年、初アニメ化1963年〜1966年)」や横山光輝「鉄人28号(原作1956年〜1966年、初アニメ化1963年〜1966年)」のTVアニメ放映に一縷の望みを託したが、あえなく敗退。実は魔法少女アニメ制作も当初は(男性作家中心で恋愛御法度だった頃の)旧世代少女漫画の復権を賭けて始まった側面があったりする。1970年代に入ると、こうした展開を踏み台に(学生運動の男尊女卑文化に嫌気がさして漫画家に専念する決意を固め、海外のフェミニズム運動なども良く研究した)竹宮恵子率いる24年組の活躍が始まる。当時の怪奇/オカルト/超能力/UFO/サイキックブーム(1970年代〜1980年代)の影響もあって、SF、ハイファンタジー、伝奇歴史物といったジャンルに分類される作品も数多く発表されたが、それでもなお「往年期アメリカにおける名画やホームドラマの影響」は払拭される事なく脈々と継承され「プリンセスチュチュ(Princess Tutu、アニメ2002年〜2003年)」や「とらドラ!(Tora Dpra! 2006年〜2009年、アニメ化2008年〜2009年)」といった2000年代の作品においてアメリカ人に再発見される展開となったのだった。
ちなみに2010年代以降の展開には「塔の上のラプンツェル(Tangled、2010年)」以降、ディズニーアニメがLove Storyを提供しなくなった為、 その代替物を求める動きも関与してくる。「ハリー・ポッターシリーズ(Harry Potter Series、原作7巻1997年〜2007年、映画8本2001年〜2016年)」も完結し、振り返ってみれば、ある意味結構「冬の時代」だった側面も。
*そもそも国際SNS上の関心空間においての以下に挙げる作品の共通要素、それはディズニー作品やジブリ作品のヘビー・ファンでもある(あるいはあった)女子アカウントが好んで同時回覧してきた点にある。そしてもう一つの鍵が「1970年代まで主流だった(父権制を母権制によって打倒しようとする)第二世代フェミニスト」と「1980年代以降主流となった(日本人やアイルランド人の様に父権制も母権制も個人の自由を制限する権威主義体制には変わらないと考える)第三世代フェミニズム」の対峙。彼女達は物の見事に前者に属する作品を全て忌避し、後者に属する作品だけを選んでのけたのである。
- 宮崎駿監督作品で選ばれたのは「ハウルの動く城(Howl's Moving Castle、2004年)」に「風立ちぬ(風立ちぬ、The Wind Rises、2013年)」。
*何故か「風立ちぬ」のヒロイン菜穂子について「実は療養所に残してきた恋人がいる」説が流れる。堀辰雄「菜穂子(1934年)」の影響っぽい。
堀辰雄 菜穂子 - 新海誠監督作品で選ばれたのは「秒速5センチメートル(2007年)」「言の葉の庭(2013年)」「君の名は(2016年)」。
*Love Storyを求めて寄ってきた筈なのに「情景ファン」に変貌しちゃう女子アカウントが続出。ちなみに国際SNS上ではコスプレイヤーは「LGBTQAのT」、「情景ファン」は「LGBTQAのQ」に分類される。
京都アニメーション作品では「氷菓(2012年)」「たまこLove Story(2012年)」「聲の形(2016年)」
*「氷菓」のヒロイン千反田えるは当初「眠り姫」と同じ枠に入れられて叩かれたが、次第に「男は戦う相手じゃなくて、上手に操る相手」という教訓を残した。ちなみに物語分類的には「君の名は」のバックストーリー同様母権制の影響力が強い「飛騨物」に分類される。 - 片渕須直監督関連では「アリーテ姫(Princess Arete、2001年)」CLUMP原作「ちょびっツ(2000年〜2002年、アニメ2002年)」広江礼威「BLACK LAGOON(2001年〜2013年、アニメ化2006年、2010年〜2011年)」、「この世界の片隅に(2016年)」。
*正直支持者は少ないが、海外女子の間で「一貫して女性が様々な形での拘束から脱却して自分らの居場所を見つけていく物語を描き続けてきたフェミニスト作家」と目されてきた点が興味深い。
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アイルランド人のトム・ムーア監督作品では「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、2009年)」と「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(Song of Sea、2014年)」。
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ストップモーションアニメ製作会社のライカ作品ではニール・ゲイマン原作の「コララインとボタンの魔女(Coraline、2002年)」と「パラノーマン ブライス・ホローの謎(ParaNorman、2012年)」。
*「DCコミックの単行本(Graphic Novel)における芸術路線」を支えてきたニール・ゲイマンは、アンジェリーナ・ジョリーが(「里見八犬伝(1983年)」で玉梓を演じた夏木マリを模した)地母神的演技で「グレンデルの母」を演じた「ベオウルフ/呪われし勇者(Beowulf、2007年)」の脚本家でもある。そして彼女はそのスタイルをそのまま「ディズニーのフェニミズム路線映画」の極北「マレフィセント(Maleficent、2014年)」に持ち込む展開に。
ここで改めて前半で掲げた「馬鹿と意地悪モデル」を思い出してください。
エンターテイメント世界における作劇理論に翻訳するとこんな感じ?
- 男の本質は馬鹿で変な事。すなわち例えば「馬鹿げた思いつきを行動に移してみたくてたまらない」などといった性壁があるという事。この衝動を全面的に肯定しつつ、そのネガティブな側面がもたらす破綻を如何に回避するかがクリエーターの腕の見せ所。
- 女の本質は意地悪な事。すなわち例えば「観察力や思考力が鋭敏過ぎるせいで、良い意味でも悪い意味でも深く考え過ぎてしまう」などといった性壁があるという事。これを全面的に肯定しつつ、そのネガティブな側面がもたらす破綻を如何に回避するかがクリエーターの腕の見せ所。
- そして最近のトレンドは「両者をバランス良く両立させる」事。当然、さらに破綻回避の難易度は上がる。
一見ルールとしては単純極まりなく見えるが、実際のあり方は千差万別で「一人でも多くの人間を納得させる展開」を見出すのが限りなく難しい…
見事にこの基準を満たす作品だけがフィルタリングされた形となりました。ただし、一見すると「拘束された精神状態からの解放」を追求し続け、遂には「男も女もそれぞれ個人的制約下で最大限の幸福を追求している」なる達観に到達した片渕須直監督作品はこの範疇に収まらない様にも見えます。
- しかしながら、そもそも「男女ともそれぞれ何らかの形で精神的拘束状態にある」設定自体は他作品においてもそれなりの形で見られたりするのである。
◎「ハウルと動く城」ではヒロインのソフィアと魔法使いハウルのそれぞれに別の呪いが掛かっている。また「風立ちぬ」では堀越二郎が「呪われた戦闘機設計者」で菜穂子が「結核」。ただこれだけでは釣り合いが悪いと考えてファン層が「不倫説」を追加した。
◎「秒速5センチメートル」は再開した遠野貴樹と篠原明里がどちらが悪い訳でもなく結ばれない話である。逆に「たまこLove Story」は「幼なじみだから万難を排して添い遂げるっしょ!!」という展開。
◎「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」は基本的に「海豹女房譚」、日本でいう「羽衣女房譚」に立脚する。海に還りたがる妻と妹、何としてもそれを阻止したい父と兄の葛藤。「メリダとおそろしの森(Brave、2012年)」辺りを鑑賞済みだと「パパ、ただでさえそれまで駄目駄目だったんだからそこでママを脱がさないと男じゃないぞ!!」とか思っちゃうんだけど、それって「ママは確かに地上に残ったけど、魂の抜け殻みたいになっちゃうバッドエンド」しか有り得ない選択肢なんだろうか? この辺りはかなりのグレーゾーンといえる。実際、第三世代フェミニスト(すなわちその大半がディズニー・ファンやジブリ・ファンでもある国際SNS上の関心空間における女子アカウント)の反応もまた「これはこれで良い」というものだった。
*予告編を見返してパパが息子を叱る時に口にする「I don't Want hero(英雄振るんじゃない)」というセリフが字幕では「なぜ優しく出来ない」に翻訳されてる事に気付いた。これって割と作品の本質に関わってくる翻案だよねぇ…果てさて「英雄(Hero)」とは一体いかなる存在なのか?
◎「パラノーマン」は「幽霊が見える呪いに取り憑かれた」少年だからこそ、その超能力故に魔女として処刑された少女の怨念が解けたという物語。もう一つの主題は「いじめ問題」で「強い奴が弱い奴を虐めるのは単なる生理現象だ。いちいち腹なんて立てていられない」とか「虐められた奴は、虐め返す事で同格の罪人となる」みたいな名言をネットに広める事になった。「マルドゥク・スクランブル」の漫画化を手掛けた大今良時の「聲の形」もこの範疇に入る。
*ファン層はさらにこの作品における「元いじめっ子」石田将也と「出来損ない」西宮硝子の関係を「僕のヒーローアカデミア」における爆豪勝己と緑谷出久の関係に重ねる。
◎「氷菓」や「君の名は」が属する「飛騨女物」の基本形は「(創作を通じて基本的自由を甘受する)職人と(伝統に縛られて基本的不自由をかこつ)女主人の駆け引き」。ただし「君の名は」の場合はこれがストレートに当てはまるのはヒロインの両親たる宮水俊樹と宮水二葉の夫婦。肝心のヒロインの三葉はもっと「ぼっとした」存在として描かれる(宮水家の特殊能力の生贄となる立花瀧も「職人役」としては随分「ぼっとした」部類に入る)。むしろ「言の葉の庭」における「味覚障害」のユキノ(雪野百香里)と、彼女の靴を作りたくてたまらなくなる「呪い」に取り憑かれてしまった靴職人志願の高校生タカオ(秋月孝雄)の関係が重なる。その一方で海外作品ながら「ブレンダンとケルズの秘密」に登場する(アイルランド神話ではお馴染みの半神的存在「永遠の吟遊詩人」ながら自力では「呪われた半身」を切り離せない)「ロリババァ」アイスリングと、「ケルズの書」を完成させたいという妄執に取り憑かれた少年写経僧ブレンダンの関係は、割と素直に「飛騨物」のフォーマットに収まってしまう。そういえば「氷菓」も最初のミッションは「女主人=ヒロインの幼少時のトラウマの解明」だったのではあるまいか?
◎「コララインとボタンの魔女」は「本当の両親は別にいる」という子供っぽい妄想に身を任せがちな少年少女の「心の隙」に共依存する魔女の物語。何の迷いもなくストレートに「父権制も母権制も子供の自由を拘束する権威主義体制には変わらない」なる結論に到達する日本時やアイルランド人と異なり「ニューヨーク生まれの英国人」ニール・ゲイマンは(父権主義の本場アメリカ生まれらしく)かなりのグレーゾーンに位置する。「ベオウルフ」では「グレンデルの母」を「(元来は自由たる)男性戦士を拘束する地母神」として描く一方で「コララインとボタンの魔女」においては「魔女」を「少年も少女も捕捉して拘束する地母神」として描いた。(家父長制を家母長制で克服しようとする)第二世代フェミニストにとっては反フェミニスト作家だが、(家父長制も家母長制も子供を拘束する権威主義的体制には変わらないとする)第三世代フェミニスト(すなわちその大半がディズニー・ファンやジブリ・ファンでもある国際SNS上の関心空間における女子アカウント)は「ベオウルフ」を拒絶して「コララインとボタンの魔女」のみを受容した。評論家が「子供達がボタンの魔女の支配する異世界に向かう時に通るトンネルは産道を暗喩している」とか指摘してもどこ吹く風。その「細けぇ事はいいんだよ」精神、嫌いじゃない。それに比べると新海誠監督作品はこういう問題についてナーバス過ぎる。その家父長制とも家母長制とも距離を置こうとする姿勢、もしかしたら彼女らが黙殺した某作品と関係がありそうなんだが「細けぇ事はいいんだよ」?
◎ところで「ぼおっとしてる」のは御伽噺の物語文法において極めて重要な意味を持つ。モーリス・センダックの絵本「かいじゅうたちのいるとこ(Where the Wild Things Are、1963年)」で主人公をつとめる少年がずっとパジャマ姿なのは何故か? それは当人が「夢現(うつつ)=ぼおっとしてる」の状態にある事を暗喩している。御伽噺の世界観における物語文法では、苦難を前にして普通の人間らしく躊躇するのは死亡フラグ。「夢現(うつつ)=ぼおっとしてる」だけが易々とそれを乗り越えていく。その意味では「ぼおっとしてる」のは呪いでもあり、祝福でも有り得る。2016年度封切り映画では岩井俊二監督作品「リップヴァンビンクルの花嫁」の皆川七海と「この世界の片隅に」の浦野(北條)すずが、この価値観を体現。その展開が第三世代フェミニスト(すなわちその大半がディズニー・ファンやジブリ・ファンでもある国際SNS上の関心空間における女子アカウント)に及ぼす影響はまだまだ未知数。*ちなみに「この世界の片隅に」はある意味フェミニズム映画でもあるので、浦野(北條)すずは(自我確立の為に)何度も我に返りそうになる。何たるスリリングな展開。こうの 史代「長い道」も併読すると、さらに奥深い奈落が待つ。お勧め。そういえば「ハウルと動く城」におけるソフィアや「君の名は」におけるメインカップルも想定的には随分と「ぼおっとした」存在だった。結構重要な要素だったりする?
- とりあえず重要なのは、第三世代フェミニスト(すなわちその大半がディズニー・ファンやジブリ・ファンでもある国際SNS上の関心空間における女子アカウント)がおそらく単一の価値観で上掲の作品を抽出してる事、その世界観においては「男は馬鹿で、女は意地悪」なる基本的価値観も絶対的ではない事(男も嫉妬に狂ってとんでもない判断ミスをやらかす事はあるし、女だってとんでもない馬鹿に身を委ねる事がある)、そして「フェミニズム作家」片渕須直監督当人が「(典型的フェミニズム作品たる)アリーテ姫」の物語展開と「Mad Max: Fury Road(2016年)」の物語展開の酷似を指摘している事こそが重要。2010年代後半には「男性が様々な形での拘束から脱却して自分らの居場所を見つけていく物語」が益々増える予兆とも考えられる?
*この流れは「天下泰平の世にはトンでもないものが流行する傾向がある」辺りと併せて検討されるべきかもしれない。意外とこの辺りも第三世代フェミニスト(すなわちその大半がディズニー・ファンやジブリ・ファンでもある国際SNS上の関心空間における女子アカウント)の回覧範囲と重なってくる。 - とはいえ「性別逆転」もアリだとしたら、それはまだまだフェミニズムの範疇に留まっているといえるのだろうか? 第三世代フェミニスト(すなわちその大半がディズニー・ファンやジブリ・ファンでもある国際SNS上の関心空間における女子アカウント)については、そういう問題もつきまとってくるのである。
実は2010年代前半時点では「ソードアートオンライン」や「進撃の巨人」もランクインしてたのです。しかし見ての通り次第に国際SNS上の関心空間では第三世代フェミニスト(すなわちその大半がディズニー・ファンやジブリ・ファンでもある国際SNS上の関心空間における女子アカウント)の関心のメインストリームが「Life Cycleの一環としてのLove Story」みたいな割と重厚な内容に推移していきます。そして気づいたらフェイドアウトしていたという展開に。
*まぁこれ、高見広春「バトル・ロワイアル(BATTLE ROYALE、映画化1999年、深作欣二監督映画2000年、漫画化2000年〜2005年)」の影響色濃いとされるスーザン・コリンズ「ハンガー・ゲーム(The Hunger Games、原作2008年〜2010年、映画化2012年〜2015年)」やジェームズ・ダシュナー「メイズ・ランナー(The Maze Runner、原作2009年〜、映画化2014年〜)」みたいなヤング。ノベルが辿った道でもあるから迂闊に文句も言えない。
その一方で、ディズニー新作も明らかに苦戦。正直、当初は逆に「遂に国際SNS上の関心空間も過疎化が始まった?」などと疑ってしまいったくらいでした。しかし上掲の日本作品や「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅(Fantastic Beasts & Where to Find Them、2016年)」は従来並みの回覧数を保っています。すると、これはもう「ディズニー作品が脱落した」としか思えない展開?
*ただし「新規ユーザーがInstagramなどに流れ、全体的に平均年齢が上昇しつつある」とかなら十分あり得る事で、それはそれで衰退の兆候と見て取れなくはない。実際、上掲の「Naruto&Korra派」の『Moana』への反応はそれほど悪くない。
そして「スター・ウォーズ/フォースの覚醒(STAR WARS: THE FORCE AWAKENS、2015年)」公開を契機に(それまで男子向け作品と目されてきた)スター・ウォーズ・シリーズ(Star Wars Series、1977年〜)が女子の関心を惹く様になり、ついには「Star Wars Ladies」構想まで打ち出されるに至ったという次第。
実はこうした展開については、第二世代フェミニズム陣営から厳しい批判が寄せられています。なにしろ彼女達の信奉する方法論とは「女性の個人的苦悩はすべからず社会システムそのものに還元され、世界全体を動員する改革運動に繋がっていかねばならない。そして究極の意味において平等が実現が可能なのは政治領域と経済領域だけなので、全ての女性は(私達の様に)その範疇外のあらゆる個性を放棄して政治的・経済的勝利の為にのみ戦うマシーンになり切らねば真の意味での幸福には到達し得ない」というもの。第三世代フェミニズム陣営の信奉する「何が自分達にとって幸福かは自分で決める。何が優先されるべきかというプライオリティも自分達で決める。それを阻止せんとする権威主義は父権制だろうが母権制だろうが敵」なる信条と真っ向から対立する内容で、さらには「男は絶対悪だから一人残らず殺し尽くすまで安心は出来ない」なんて基本的不信感すら受容しないので「アンクル・トム化したBlack Establishment同様、貴様らはもはひゃ白人優越主義に屈した単なるオルタナ右翼(Alt-Right)にしてネオナチ(Neo Nazi)だ!! 国際正義が貴様らを一人残らず滅せと叫んでる!!」と罵倒されてる有様。確かに正直「性別交換」の可能性すら受容してしまった第三世代フェミニズムって、もはや「人間に与えられた自由とは、個別の人間が与えられた環境で最善を尽くす自由である」と主張する保守主義派そのものじゃね? とは思います。
でもね、それはそれとしてスター・ウォーズ・シリーズ(Star Wars Series、1977年〜)を見返した第三世代フェミニスト(すなわちその大半がディズニー・ファンやジブリ・ファンでもある国際SNS上の関心空間における女子アカウント)の間の議論が「パドメ・アミダラ(Padmé Amidala Naberrie)やジン・アーソ(Jyn Erso)は決っして負け犬(Loser)なんかじゃなかった。レイア姫(Princess Leia)やルーク・スカイウォーカー(Luke Skywalker)の様な後続者の登場を確信する信念の強さがあったからこそ、自らの命を納得済みで捧げた勝者(Winner)だったのだ!!」みたいな方向でまとまりつつあるタイミングで「いや貴様らみんなまとめて単なる銀河帝国(Galactic Empire)に屈した負け犬だね。全員まとめてトランプ陣営に与した単なるネオナチだ。本当の革命はそんなに甘くない!!」なんて喧嘩口調で割り込んだオルタナ左翼(Alt-Left)のスタンスをどう考えるかという課題は残る訳です(肝心の投稿は削除済)。
それもよりによって、マーティン・スコセッシ監督作品「沈黙(Silence、遠藤周作原作、米国公開2016年12月、日本公開2017年1月)」において「スター・ウォーズ/フォースの覚醒(STAR WARS: THE FORCE AWAKENS、2015年)」でカイロ・レン(Kylo Ren)を演じたアダム・ドライバー(Adam Douglas Driver)が割と重要な役を演じてるせいで!! どこまで深まるの、この話題? とどのつまり、以下続報…