勘兵衛「自分の事しか考えない奴かえっては助からない」
もしかしたら「用心棒(1961年)」「椿三十郎(1962年)」「天国と地獄(1963年)」「赤ひげ(1965年)」あたりは、三船敏郎演じる「名無しの素浪人」の成長譚として捉えるべきなのかもしれません。
さて、この思いつき1960年代以前の黒澤明監督作品まで遡れるのでしょうか? この問題に取り組もうとすると突如として黒澤明監督作品が各時代において示してきた恐るべき先鋭性に直面させられる事になります。
- 「虎の尾を踏む男達(制作1944年〜1945年、公開1952年、能楽「安宅」いわゆる「勧進帳」翻案)」およびそのセルフ・リメイクともいうべき「隠し砦の三悪人(1958年)」では「伝説上の人々(Legends)と庶民の邂逅」が描かれた。
*このタイプの物語構造ではアクの強い数人が「庶民」を代表する事になる。要するにドンキホーテにおけるサンチョ・パンチョ的存在で海外に受け入れられ易い傾向が見て取れる。
- 1940年代において既に、松本清張が1957年以降「社会派ミステリー・ブーム」で広めた様な科学的環境論に到達。ただし環境決定論にまでは至らず、1940年代には「たとえ振り切れないにせよ正義は悪を認めてはならない」とする倫理的使命感を維持した。この時代を代表するのは「酔いどれ天使(1948年、実在モデルからのインスパイア)」、「静かなる決闘(1949年、人気舞台劇翻案)」、「野良犬(1949年、警察へのヒアリング調査からの発案)」あたり。
*作品構造上、「静かなる決闘」には環境論的要素は見出せない。 - 多くの「焼け跡世代」作家が「焼け跡時代」終焉に伴ってフェイドアウトしていく。黒澤明監督は以下の様な脚本に立脚する事で「アプリゲール(戦後派)の内心でニヒリズムと鬩(せめ)ぎ合った焼け跡的ロマンティズム」のバリエーションを維持し、1950年代を乗り切った。
*「焼け跡的ロマンティズム」…大坪砂男はこれを「泥の大海の中にあえて蓮の花を探すセンチメンタリズム」と説明している。「ギャングの純情」とかそういう表現のされ方をする事も。
◎「輸出用芸術映画」路線を開拓した「羅生門(1950年、芥川龍之介「藪の中」翻案)」の元稿にはニヒリズムの要素しかなかったのでマキシム・ゴーリキーの戯曲「どん底」における泥棒ペーペルのキャラクター要素と捨て子を巡るやり取りを追加してロマンティズム要素を補完。
*人間同士の相互不信を主題とする作品構造上、この作品には環境論的要因は見出せない。
◎「生きる(1952年)」「悪い奴ほど良く眠る(1960年)」は「人間が役人という鋳型に流し込まれる」官僚社会にスポットを当てた作品に分類される。
*「社会悪を暴く」というより「(ターミナルケア問題を含む)焼け跡的ロマンティズム」の実践部隊として適しているという認識っぽい。
◎「七人の侍(1954年、時代考証の産物)」の脚本は、綿密な時代考証を通じて「忘れられた時代の緊張感に満ちた人間関係」を掘り起こした。
*この作品には「伝説上の人々(Legends)と庶民の邂逅」なるモチーフのバリエーションという側面も存在する。
◎世界初の水爆実験(1954年)が行われ「ゴジラ(1954年)」が国際的大ヒットとなると「生きものの記録(1955年)」を製作。記録的な興行失敗に終わる。
*家族の内紛劇なので「王権劇」のバリエーションと見る向きも。その構造故に「庶民」不在。また当時の大衆的想像力には、まだまだ「個人を内面から蝕む神経症的恐怖」を受容する準備が整っていなかったという指摘もある。
◎「輸出用芸術映画」路線に回帰した「蜘蛛の巣城(1957年、シェークスピア「マクベス」翻案)」では「霧と闇が人を動かしている」と思いたくなるほど環境因が濃厚に映像化されたが、あくまで「疑心暗鬼にかられて愚行にに走るのは人間」というスタンスを遵守した。
*「王権劇」という構造上「庶民」は登場しない。また「人の一生と昆虫の一生の違いとは何か」なる作中の妖婆(時空的制約を超えて生きる超越的存在)の台詞に暗喩されている様にニヒリズム色が強く、ロマンティズム色は希薄。
◎「どん底(1957年、マキシム・ゴーリキー同名戯曲翻案)」の冒頭には舞台となる長屋が近所のゴミ捨て場に使われている場面が挿入される事によって環境因要素が強調された。
*1950年代中旬、日本演劇界ではマキシム・ゴーリキーの戯曲「どん底(1901年〜1902年)」について「この作品に関する日本人の解釈はあくまでジメジメして暗い。希望がないからこそ、あえて明るく生きようとする庶民の心根が描けてない」といった新解釈が登場。これにインスパイアされたとも。
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松本清張の「顔」「点と線」がベストセラーとなった1957年からいよいよ「社会派ミステリー・ブーム」が始まる.。しかしむしろこれ以降の時期は芸術映画や大衆向け娯楽活劇に傾注していく。
*ただこれは次第にTVを競争相手として意識する様になってきた日本映画業界全体の傾向だったとも。そして1960年代に入ると未曾有の翻訳ブームが始まり、これを牽引したのは(スパイ謀略物や、ピカレスク小説を含む)ハードボイルド・ジャンルだったのである。 -
そいういえば「七人の侍」初期シナリオにおいて三船敏郎は「最強の剣客」を演じる予定だったらしい。それもあってか当時のハードボイルド・ブーム、「伝説上の人々(Legends)と庶民の邂逅」という主題の持ち越しなどの合算から「用心棒(1961年)」「椿三十郎(1962年)」といった作品が生み出される。
*これ以降、三船敏郎の演技はスピーディさより存在感を重視したもの変貌していく。 - 誘拐事件への義憤から「天国と地獄(1963年)」を制作。
*1940年代の頃の作風を連想させるが、そこにはもう「焼け跡的ロマンティズム」は片鱗も残っていなかった。かといって別にニヒリズムが勝った訳でもない。敵は今や(TVが広める)高度成長がもたらす楽観ムードという展開に。
- 「赤ひげ(1965年)」において黒澤明は、それまで自らを駆動させてきた様々なジレンマに一通りの終止符を打つ。しかし「完成」とは概ね「一つの時代の終焉」の別名に他ならない。
*1960年代に入ると劇場からもTV番組からも「俗悪な2丁拳銃ヒーロー」が駆逐されてしまい、少年向け娯楽の分野では「(秘密基地で博士が開発するおよそ武器らしくない秘密兵器で戦う)少年探偵」が取って代わる。しかし子供達はむしろ劇画タッチの忍者などに夢中となり、この勢いに乗った週刊少年漫画誌が月刊少年向け雑誌を駆逐していく。また映画業界がTV業界への番組配給を拒絶したせいで代替物として大量輸入された海外TVドラマがお茶の間を魅了していく。
かくして日本映画界そのものが多くの観客を失う展開に。そして黒澤明監督も東宝との契約を解消して日本から離れる展開に。
全体像を俯瞰するとこういう感じ?
全てを忘れなければ 次の映画は撮れない「0号,初号が終わると,どうにかこの作品を忘れようと思い始めるんだ.考えていたら,どこもここも撮り直したくなるし,忘れなければ次のアイディアが出てこない.気分転換をして,頭を空っぽにしないと駄目なんだ」 #kuroken
— 黒澤明「生きる」言葉 (@AkiraK_Bot) 2017年1月18日
とはいえ「実際には頭をクリアにし切れなかった」部分こそが、黒澤明監督作品にある種の連続性を産み出したかもしれないのです。
始まりはいわゆる戦後復興期。昭和20年(1945年)8月14日のポツダム宣言受諾に始まり昭和27年(1952年)4月28日のサンフランシスコ平和条約発効に伴う主権回復までのGHQ占領時代。当時の雰囲気を思い浮かべるには、坂口安吾「堕落論(1946年)」や大坪砂男「私刑(1949年)」辺りが良いかと。
小林秀雄は政治家のタイプを、独創をもたずただ管理し支配する人種と称しているが、必ずしもそうではないようだ。政治家の大多数は常にそうであるけれども、少数の天才は管理や支配の方法に独創をもち、それが凡庸な政治家の規範となって個々の時代、個々の政治を貫く一つの歴史の形で巨大な生き者の意志を示している。政治の場合において、歴史は個をつなぎ合せたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿において政治もまた巨大な独創を行っているのである。
この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、しかしまた日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿において独創をもち、意慾をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波の如くに歩いて行く。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。
武士道とは日本人にとって一体何だったのか?
昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼等が生きながらえて生き恥をさらし、せっかくの名を汚す者が現れてはいけないという老婆心であったそうな。現代の法律にこんな人情は存在しない。けれども人の心情には多分にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終らせたいということは一般的な心情の一つのようだ。十数年前だかに童貞処女のまま愛の一生を終らせようと大磯のどこかで心中した学生と娘があったが世人の同情は大きかったし、私自身も、数年前に私と極めて親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様に地獄へ堕る不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使徒の余生を送らせようと欲していたのであろう。軍人達の悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。
いったいが日本の武人は古来婦女子の心情を知らないと言われているが、これは皮相の見解で、彼等の案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった。
武士は仇討のために草の根を分け乞食となっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に復讐の情熱をもって仇敵の足跡を追いつめた忠臣孝子があったであろうか。彼等の知っていたのは仇討の法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協、いな肝胆相照すのは日常茶飯事であり、仇敵なるが故に一そう肝胆相照らし、たちまち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。日本戦史は武士道の戦史よりも権謀術数の戦史であり、歴史の証明にまつよりも自我の本心を見つめることによって歴史のカラクリを知り得るであろう。今日の軍人政治家が未亡人の恋愛について執筆を禁じた如く、いにしえの武人は武士道によって自らの又部下達の弱点を抑える必要があった。
女心は変り易いから「節婦は二夫に見まみえず」という。禁止自体は非人間的、反人性的で真理でも自然でもないが、洞察の真理において人間的であり、そこに至る歴史的な発見や洞察において軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。
まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと願うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕ちて暗黒の曠野をさまようことを願うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにもかかわらず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな願いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。
死んでしまえば身も蓋もないというが、果してどういうものであろうか。敗戦して、結局気の毒なのは戦歿した英霊達だ、という考え方も私は素直に肯定することができない。けれども、六十すぎた将軍達がなお生に恋々として法廷にひかれることを思うと、何が人生の魅力であるか、私には皆目分らず、しかし恐らく私自身も、もしも私が六十の将軍であったならやはり生に恋々として法廷にひかれるであろうと想像せざるを得ないので、私は生という奇怪な力にただ茫然たるばかりである。私は二十の美女を好むが、老将軍もまた二十の美女を好んでいるのか。そして戦歿の英霊が気の毒なのも二十の美女を好む意味においてであるか。そのように姿の明確なものなら、私は安心することもできるし、そこから一途に二十の美女を追っかける信念すらも持ちうるのだが、生きることは、もっとわけの分らぬものだ。
徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へまた地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音と、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。
特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。
歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。
生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。
黒澤明監督作品「虎の尾を踏む男達(制作1944年〜1945年、公開1952年)」
企画時は太平洋戦争末期にあたり、軍部の検閲やフィルムなどの消耗品の統制も厳しくなっていた。はじめ桶狭間の戦いをモチーフにした『どっこいこの槍』に取り掛かっていたが、多くの馬を用いるため立ち消えとなり、それでは「映像・内容ともに簡単な(シーンが3つしか無い)この作品から撮ろう」という理由から本作の撮影が開始された。撮影所の裏山で撮影された。
撮影中に終戦を迎えたため、クランクアップの頃は進駐軍の軍人が撮影現場を見物に訪れる事があり、記念撮影をしたがる彼らのために撮影が滞る事も度々であった。その中には当時進駐軍の将官だった映画監督のジョン・フォードもおり、後年フォードと会った際に本人からその事を教えられた黒澤は大いに驚いたと言う。
一方、終戦直後に日本の検閲官がこの作品に対し「日本の古典的芸能である歌舞伎の『勧進帳』の改悪であり、それを愚弄するものだ」「とにかくこの作品はくだらんよ」と言いがかりをつけ、黒澤は激怒し「くだらん奴が、くだらんという事は、くだらんものではない証拠で、つまらん奴がつまらんという事は、大変面白いという事でしょう」と反論した。そのため検閲官は撮影中の日本映画の報告書からこの作品を削除し「未報告の非合法作品」として封じられたが、それより3年後、GHQの映画部門の担当官が、その映画を面白がり、上映禁止を解除した。上映がGHQ指令により遅れたという説があるが、本作の初上映はサンフランシスコ講和条約締結効力発生の1952年(昭和27年)4月28日より4日早い4月24日である。
「虎の尾を踏む男達(制作1944年〜1945年、公開1952年)」冒頭テロップ
1185年、おごる平家は西海に滅亡した。殊勲者源九郎義経は数々の武勲に都大路を誇らしげに闊歩しても良い筈だった。だが人を疑うのが欠陥で有名だった兄将軍頼朝は肉身の義経より寵臣梶原景時の讒言を信じてこれを討ち取ろうとした。
こうして日本国中に身の置き場のなくなった義経は近習6名と山伏姿に身をやつし、唯一の同情者奥州の藤原秀衡のもとに落ち延びようとして加賀国安宅に新設された関所に差し掛かろうとしていた。彼らはこの関を越そうとする。ちょうど虎の尾を踏む気持ちで…
*まるでスターウォーズのオープニング・ロール状態…
*スターウォーズのそれ自体は「フラッシュ・ゴードン 宇宙征服(Flash Gordon Conquers the Universe、1940年)」がネタ元とされる。パルプマガジン全盛期(1920年代〜1950年代)のSFやフンタジーは「放浪を続ける英雄の活躍を時間も場所も順不同でピックアップした短編の連続」という体裁が多かった。1960年代までにトレンドは「時間推移も空間移動の過程も明確に明かされた単行本の連作」へと推移し、その過程で英雄コナン・シリーズやクトゥルー神話集でさえもその体裁に再編されていくのだが、実は同じプロセスを江戸時代における安部晴明譚や源義経譚も辿っている。これを芝居化しようとすれば、どうしても本編の前に「長い状況説明」が付帯する形になるのは避けられない事であった。そしてジョージ・ルーカス監督はまさにそうした「活躍が断片的伝承でしか伝えられない前時代的英雄」の世界を1970年代に復権しようとしたといってよい。
「虎の尾を踏む男達(制作1944年〜1945年、公開1952年)」山中の場面
強力の小物(喜劇王エノケンこと榎本健一)「まったく、旦那達の健脚にゃ驚いたわ。俺は足にかけちゃ滅多に引けをとらないつもりでいたが、旦那達にゃかなわない。ただ(義経を指して)このお方だけは体の出来が随分と違う。まるで女みてぇだ。」
山伏姿の近習の一人「いやこの道はなかなかにこたえる。他に道はないか?」
強力「へぇ、ねぇこともねぇんだがね。関所の役人に見つかったら命がね。この間も2人バッサリでさぁ。全く考えてみれば傍迷惑な話ですよ。鎌倉将軍の頼朝様が、梶原なんとかって奴の讒言を信じて仲違いしたのが事の起こりでさぁ。まぁ、つまりそんなこんなでいたたまれなくなって都落ちした義経様を捕まえるために作られたのがこの関所なんでさぁ。面白くもねぇ。将軍様ともなりゃ、兄弟喧嘩も大捕物だ。そもそも兄弟喧嘩なんてものは、一つ二つポカポカと殴り合いゃ片が付く無邪気なもんの筈でさぁ。それをいけすかねぇ。実の弟を獣(けだもの)の様に狩り立てて、可哀想なのは義経様だ。まさか源氏の大大将ともあろうって方が身の置き場一つないとはねぇ」
山伏姿の近習一同沈黙。
強力「なぁに、端でそれほど心配する事じゃねぇ。義経様には武蔵坊弁慶って恐ろしい坊主がお供してるからね。なぁに大丈夫でさぁ。何しろ弁慶って坊主は身の丈七百丈ともあろう大坊主で、三百貫もあろって鉄棒をこう振り回して何千って軍勢蹴散らしちまうっていうからべら棒な話だ。そいでもって、まるで大根を引っこ抜くみてぇに次から次へと首をスッポンスッポン引き抜きっていうんだからね」
山伏姿の近習一同大笑い。
強力「でもこの大坊主、頭だけは良くないらしいんだね。何でも何かに化けて出歩いてるっていうんだが、それがすっかり筒抜けっていうんだから間抜けな話さ」
山伏姿の近習の一人「何に姿を変えていると申すのだ?」
強力「えっと何だっけ。関所の役人に聞いたから間違いねぇんだけど、薬売りじゃないし、巡礼じゃねぇし…そうだ山伏…(そこで初めて傭い主達がその山伏姿である事を意識し始める)へっへっへっへ…こいつはお笑いでさぁ。もしかしたら旦那方がこう、義経や弁慶の一行かもしれねぇってんだから、笑わせやがらぁ。えへへへへっ、そりゃおかしいでしょう? でもそんな事あるもんですかい。へへへへっ、人数だってちゃんと分かってるんですからね。義経一行は7人。旦那達は一人、二人、三人…七人。ちゃんと合ってらぁ…
*能楽「安宅(あたか)」を原作とする映画で筋はほとんどそのまま。地謡の部分をニュージカル仕立てにしているが、ここで重要なのは(庶民に人気の)歌舞伎演目「芋洗い弁慶」の要素との融合を果たそうとしている点。実は江戸時代の身分社会においては上流階級好みの「(スマートな対応で無事関所を通過する)インテリ弁慶」と下流階層好みの「(その後弁慶が役人を皆殺しにして生首を桶でゴロゴロ搔き回す)芋洗い弁慶」は互いを決して認めあわない不倶戴天の敵対関係にあり、能楽にコンプレックスを抱く歌舞伎興行者側が「勧進帳」を上演しても「それ俺達が知ってる弁慶と違う」と石を投げられる有様だったという。
戦時下の検閲官は実にそっくり返っていて、黒澤明監督の企画にやれアメリカ的だ軟弱だと文句をつけ、ひたすら潰しまくったそうです(大規模な騎馬隊登場とか、物資窮乏の折には有り得ない企画だったせいもある模様)。それで半ばヤケになって誰にも文句のつけようのない古典(能楽「安宅」)に題材を求めたものの、今度は作品完成後に「主君への忠義」の部分がGHQコードに触れ、発表禁止扱いに。その怨念の捌け口が「七人の侍(1954年)」や「隠し砦の三悪人(1958年)」に向かったとも。
- そもそも「七人の侍」は何故7人なのか?「義経と6人の近習」に由来するのではなかろうか。また「虎の尾を踏む男達」では義経が山伏らしく見えない事が問題となる。黒澤明は無意識のうちに自分を判官に見立て、判官贔屓に自らの心を慰めていたともいわれているが、「七人の侍」では「最年少の若侍」岡本勝四郎(木村功)、「椿三十郎(1962年)」では「直情径行型で椿三十郎(三船敏郎)を困らせる若衆頭」井坂伊織(加山雄三)、「赤ひげ(1965年)」では「赤ひげ先生(三船敏郎)の生き方に惹かれていく青年医師」保本登(加山雄三)足を引っ張る。
- また「七人の侍」では「偽侍」菊千代(三船敏郎)が事あるごとに状況を搔き回すが、これは「虎の尾を踏む男達」における強力(ごうりき=荷運び人夫。喜劇王エノケンこと榎本健一)、「隠し砦の三悪人(1958年)」における太平(千秋実)と又七(藤原釜足)の役割とも重なってくる。
- 「虎のを踏む男達」のセリフリメイクという側面もある「隠し砦の三悪人」は、同時に「スターウォーズ」に色濃い影響を与えた事で知られる。「義経(仁科周芳)=雪姫(上原美佐)=レイア姫(キャリー・フィッシャー)」、「武蔵坊弁慶(大河内傳次郎)=侍大将・真壁六郎太(三船敏郎)=オビ=ワン・ケノービ(アレックス・ギネス)」、「冨樫左衛門(藤田進)=田所兵衛(藤田進)=ダース・ベーダー」、「強力(喜劇王エノケンこと榎本健一)=太平(千秋実)と又七(藤原釜足)=C3POとR2D2の凸凹コンビ」、「強力の背負う笈(おい)=太平と又七が背負う米俵と鍋=R2D2のデザイン」である。
- また「伝説の人々(Ledgends)と庶民の邂逅」という基本構造が最初に採択された作品になったとも。
真鍋元之「大衆文学事典」掲載のいわゆる「GHQのチャンバラ禁止令」
マッカーサーはまず日本の出版界に対して、軍国主義、国家主義の根絶、自由主義の傾向の奨励を指示。次いで各新聞社、映画会社、劇場などに全13ヵ条のプレス・コードを伝えた。
此後の作品は当然削除され上演を許さず
記
- その主旨に仇討復讐のあるもの
- 国家主義的、好戦的、もしくは排他的なもの
- 歴史的事実を曲解せしもの
- 人種あるいは宗教的差別を取扱えるもの
- 「封建主義」を連想させるもの、あるいは希望、名誉の生活を侮辱せるもの
- 過去、現在、未来の軍事主義を謳歌せしもの
- いかなる形式にせよ、直接間接を問わず自殺を連想せるものを取扱ったもの
- 婦人の服従、あるいは、貶下を扱ったもの
- 死、残酷、あるいは悪の栄えるものを描きしもの
- 反民主主義的なもの
- 子供の不法私用を思想せしもの
- 州・国家、人権、天皇あるいは皇室に対し個人の奉仕を謳釈讃美せしもの
- ポツダム宣言の主旨あるいは連合軍最高司令部の命令に違反せしもの
いわゆる「チャンバラ」そのものを禁じた内容ではなかったが、従来の歌舞伎や時代劇の演目でこの項目のどれにも引っ掛からないレパートリーはごく少なかったのである。また(せっかく撮った映画が公開できなかったり、カットされたのではつまらないという配慮を含む)自粛があったり、関係各所にわかりやすく伝える上で「チャンバラ禁止」と言い回されたり、「現代劇を製作してほしい」という示唆があった可能性も指摘されている。
*海外に「日本にはナチス並みの検閲期間が存在する」と誤解させる大元となった自粛文化の嚆矢とも。そういえば、この時代執筆された手塚治虫「魔法屋敷(1948年)」も「(前時代的迷信の名残たる)妖怪が次々と容赦なく殺戮される」という内容だった。ちなみに学校の授業から剣道などの武術は廃止されたが、子供達のチャンバラごっこまで禁止された訳ではなかったという。
- 片岡千恵蔵はモーリス・ルブランの冒険小説を元ネタとする元怪盗で変装名人の2丁拳銃名探偵「多羅尾伴内(大映版4作1946年〜1948年、東映版7作1953年〜1960年、GHQ占領下製作は4作)」、(戦前の因習にとらわれた封建的な動機による殺人を、戦後の民主的な精神によって断罪する)民主主義の使者「金田一耕助シリーズ6作(1947年〜1956年、GHQ占領下製作は3作)」、名奉行遠山金四郎を主役に据えた「刺青判官シリーズ(18作、1950年〜1962年、GHQ占領下製作は4作)」に主演。
- 嵐寛寿郎(アラカン)は佐々木味津三原作和製シャルロック・ホルムス「右門捕物帖シリーズ(原作1929年、主演映画36作1929年〜1955年、GHQ占領下製作は4作)」や「鞍馬天狗シリーズ38作(1927年〜1956年、GHQ占領期に2作)」に主演。
大坪砂男「私刑(1949年、同年映画化)」
あなたは仁義という字面に騙されて何かこう精神的なものでも期待なさってる様ですが、ここのところ履き違えると洒落にならない結果に陥りますよ。玄人仲間のいう仁義ってのはとどのつまり金銭です。親分子分の間から、仲間内の附合、三下の扱いまで、みんなそれで計算されてる。指一本詰める詰めないの騒ぎですら、ちゃんとそれが幾らに相当するか見積もられた上での駆け引きって寸法です。
縁日の売店からの上納金の比率から、賭場から得た金銭の分配に到るまで一切の正義が金銭ずくで基礎付けられてる、と。こんな風に仁義を説明したら分かり易いでしょうか。だからおよしなさいというんです。貴方の精神的煩悶の捌け口をそんな所に求めたって、結局今より一掃世知辛い金銭感覚に縛られるだけだとしたら、愚の骨頂じゃありませんかね?
確かに今は法律の力が弱まった闇の世の中だからこそ、妙な仁義が表社会にまで浮上し肩で風切って往来を闊歩してる。それで若い人達は見た目の派手さに騙され、自分も一員となりゃさぞかし良い目が見れそうな錯覚を起こしてる。でもね、迂闊に惹かれちゃ相手の思う壺ってもんですよ。社会を最初っから白い目で見てる連中にとっちゃ、獲物がまた一匹迷い込んできたってな話に過ぎないんですから…そりゃ、そうでしょうよ。飲む打つ買うと三拍子揃っちゃ世間様が相手してくれません。それでも酒・女・博打こそ人生無上の快楽と信じて少しも怪しまない連中の集まりですもの。はなから、てんで常識って奴が違うんです。
押しの強さは力の証、死んだってそれだけは譲れない。そんな度胸ばかり良いのが世間様から掠りをとって暮らそうっていうんだ。いきおい仁義の厳しさも一通りじゃ済みません。さらにはそれを踏み躙じろうって二重に輪を掛けた無法者まで現れる。そうした連中にはもう確実にヤキを入れるしかない訳で、それが私刑(リンチ)って奴ですね。こればっかりは残酷無慈悲、容赦の余地さえありません。
春日太一「仁義なき日本沈没―東宝VS.東映の戦後サバイバル」
1945年8月15日、長い戦争が終わった。当時の日本は米軍の空襲の痕も生々しく、都市部の大部分は焦土と化していた。戦死者や未帰還の出征兵も多い中、食糧・物資・人手の不足は甚大で、人々は乏しい食糧を得る得るために、衣服や家具を売って飢えを凌いだ。流通が壊滅状態にあったため、都市住民は自ら農村に出かけた。それらは「買出し列車」と呼ばれ、車両には人が溢れかえる。復興など想像もできない混乱にあった。
そうした中でも映画は作られた。出征から帰還した映画人たちの多くは衣食住に事欠き、帰還そのままの服装で現場に臨むこともあったといわれる。製作される映画は、明るい喜劇、音楽映画がほとんどだった。人々は暗い現実から逃避するように映画に娯楽を求め、入場者数は日増しに増えていく。中でも映画『そよかぜ』の劇中で並木路子の歌う「リンゴの唄」は大流行し、戦後の焼け跡を象徴する一曲となっている。
中でも好調だったのが東宝だった。
全国に120ある直営館のうち93を失ってはいたが、戦前からのライバルである松竹が都市部の主だった大劇場を焼失していたのに比べ、東宝の主力劇場は戦災をまぬがれていた。加えて、東京砧にある撮影所も無傷のままだったのも大きい。そのため、戦後すぐから東京宝塚劇場、大阪北野劇場、東京帝国劇場、東京有楽座といった大劇場を相次いで開場させ、順調な戦後のスタートを切っていた。46年春には戦災で業務困難に陥っていた93の直営館も、うち70館を復旧させることができている。
それは、東宝が〈興行〉を母体とする映画会社だったからに他ならない。
一括りに「映画会社」と呼称されるが、その業種は大きく三つに分かれる。それは、映画を撮影し完成させる〈製作〉(一般企業での〈製造〉部門)、映画の上映権を獲得して映画館に供給する〈配給〉(一般企業での〈流通・仲卸〉部門)、映画館を管理運営して配給された映画を上映する〈興行〉(興行〉(一般企業での〈販売〉部門)の三つだ。それぞれの部門に特化した独立系の映画会社もある一方、東宝・東映・大映・松竹・日活といった戦後日本映画黄金期の映画大手はこれら全てを一つの企業体の中で運営してきた。
関西で宝塚歌劇や洋画の興行をしていた阪急グループ総帥・小林一三は新たに東京に進出するに際し、当時の東京での興行の中心地・浅草に対抗する興行街を有楽町に作り上げる戦略を立てていた。そのためには、劇場に安定して映画を供給するシステムが必要であり、製作部門を確立しなければならなかった。そこで1937年、小林は東京世田谷の砧に撮影所を有するプロダクション・PCLと京都のプロダクション・JOスタジオ、それに自らのグループにある配給会社・東宝映画配給を合併させる。こうして出来たのが東宝の前身・東宝映画だった。それに有楽町に新設された興行部門の旗艦・東京宝塚劇場を加えて、一社で全部門を運営する「総合的な娯楽企業」として戦時中の43年に設立されたのが、東宝株式会社だ。映画製作の総責任者となったのはPCL出身の森岩雄。
森は砧撮影所長として、現場組織のあり方を一変させた。従来の映画製作は「監督が全権を担う」という、伝統芸能の延長線上にある封建的な親方制度のようなものだった。それに対して森は、監督の役割を「演出」に一本化。撮影所行政や製作実務、予算管理などをプロデューサーが分担する「プロデューサーシステム」をハリウッドから輸入して、映画製作の合理的運営に努めてきた。また、学生時代に左翼運動の経験のある助監督も数多く採用するなど、砧撮影所は都会的で大らかな雰囲気をもっていたという。
そのため撮影所は「自由主義の牙城」とも呼ばれた。当時の映画人たちは「カツドウ屋」と呼ばれ、ガラが悪くて気の荒い伝統的な職人の世界であった。東宝は戦前戦前から近代的エリートとしての特徴をもつ、稀有な「企業」としての態をなすことのできる映画会社だったといえるだろう。
一方、寄り合い所帯でのスタートのため、大資本をバックにする興行・配給部門=本社と、独立志向の気風をもつ製作部門=砧撮影所という二つの異なる文化風土が東宝には機構的に内在していた。そして、互いの利害・正義は根本的には相容れないものである。本社としては、製作を管理しながらより効率的に興行の収益を稼ぐようにもっていきたい。一方、製作現場はできる限り自由に映画を作りたい。
1945年(昭和20年)12月、東宝では、戦後の混乱と社会主義運動の高揚によって、東宝従業員組合(従組)が結成された。従組は全日本産業別労働組合会議にも加盟し、たびたびストライキを行った。今井正や山本薩夫など日本共産党員が戦争中から在籍するなど開放的な社風だったこともあって、労働運動は一挙に盛り上がり、従業員の九割、5600名の組合員を持つ巨大勢力となって会社と対決するようになった。
- 1946年(昭和21年)3月に第1次争議、同年10月に第2次争議が起こった。第1次争議は比較的穏やかなものだったが、第2次争議は従組が労働時間の制約など様々な新協定を会社側に認めさせた。ストや新協定の混乱により映画撮影はままならず、東宝の製作本数は18本で、他社の半数までに落ちた。
- 同年11月、ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した大河内伝次郎に賛同した長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子の十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を離脱。渡辺邦男監督なども組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱。
- 1947年(昭和22年)3月、「十人の旗の会」のメンバーと、同時に組合を脱退した百数十名の有志が中心となり新東宝を設立。
東宝は健全な運営は難しくなっていたが、当時の経営陣は巨大な従組と直接対決を避けるため、従組を「第一製作部」、従組離脱組を「第二製作部」として、あえて離脱組を冷遇した。また、離脱したスターの穴を埋める為、三船敏郎、久我美子、若山セツ子、岸旗江、伊豆肇などの新人若手俳優を積極的に起用し「東宝ニューフェイス」と呼んだのであった。
春日太一「仁義なき日本沈没―東宝VS.東映の戦後サバイバル」
1947年、東宝本社は年24本の映画製作を計画していた。が、撮影所側は「少数大作主義」を標榜。また、協約で定められた「八時間労働」を遵守する組合の製作ペースは上がらず、年間13本の製作で終わってしまう。
その一方で製作費は嵩む一方だった。当時、松竹や大映では一本あたりの製作費は500万前後だったのが、東宝では『戦争と平和』が900万、『銀嶺の果て』が1010万、『女優』が1530万。いずれも、その予算は尋常でない規模の大きさだった。しかも、戦後復興もままならない中にあっては市場規模にも限りがある。そのため、劇場劇場収入でそれらの予算をペイすることはできなかった。
会社からすると困った状況ではあったが、現場の志気は高かった。「いい映画を作るためには、そうするしかないじゃないか」「映画というのは金儲けのためのものではない。文化なんだ」「自由主義の牙城」で育ったインテリの製作者たちは、理想郷ともいえる環境の中で、互いの理想とする映画を目指していった。
雑誌「キネマ旬報」の年間ベスト10は、当時の映画を評価する際の権威的存在だったが、新体制下の1947年はその10本のうち五所平之助監督映画「今ひとたびの」、黒澤明監督映画「素晴らしき日曜日」、山本夫・亀井文夫監督映画「戦争と平和」、谷口千吉監督映画「銀嶺の果て」、衣笠貞之助監督映画「女優」、オムニバス映画「四つの恋の物語」と6本もの東宝作品がランクインするという快挙を成し遂げている。だが、理想郷の前に厳しい現実が立ちはだかる。1947年の一年間で、会社の赤字は7000万円にまで膨れ上がったのだった。
闇市を支配する若いやくざ(三船敏郎)と、貧乏な酔いどれ中年医者(志村喬)のぶつかり合いを通じて、戦後風俗を鮮やかに描き出す。黒澤明と三船敏郎が初めてコンビを組んだ作品。
- 三船は1947年(昭和22年)の第1期東宝ニューフェイスで補欠採用され、同年公開の「銀嶺の果て(黒澤脚本・谷口千吉監督)」でデビュー。この作品で見せた野性的な魅力とスピーディーな演技に驚嘆した黒澤は、三船に惚れ込んで本作の準主役・松永役に起用した。
- この作品の主人公は医師の真田役・志村喬であるが、準主役・三船の強烈な魅力が主役を喰ってしまっている。その志村は黒澤作品としては本作が初主演であった。さらに、作曲家の早坂文雄も黒澤と初めてコンビを組んだのも本作である。黒澤は「ここでやっと、これが俺だ、というものが出たんだな。『素晴らしき日曜日』ではそれが出かかって出なかったような気がする」と述懐しており、黒澤作品の個性的なテーマや技法を確立した作品といわれている。
- 当初、脚本の植草圭之助は、松永が苦悩の末に街娼と心中に至る筋書きを提案したが、黒澤はそのようなロマンチシズムではなく「やくざ・暴力否定」の主題を重要視、暴力に訴える人間の末路として松永は抗争の果てに自滅するよう書き改められた。
- 当初は、やくざの親分は岡田だけでなく松永も一緒に葬儀を行い、その場に乗り込んだ真田が暴れてそれをめちゃくちゃにするというものだったのを、労働組合から「暴力否定の作品なのにおかしい」との指摘を受けて脚本は変更された。
*「労働組合が脚本に口を出す事もあった」実例として興味深い。当時それを検閲していたあのはGHQだけではなかった様である。- 当時、戦争帰りの若者には社会復帰出来ず自暴自棄的傾向(アプレゲール)に陥る者も多く、黒澤はそれに対して警鐘を鳴らす意味を込めたかったのである。だが三船の野性味あふれる強烈な存在感は半ばそれを吹き飛ばし、黒澤の意図とは逆に暴力とニヒリズムの魅力をスクリーンいっぱいに吐き出しそれを賛美する形となってしまう。
- 一方、そのような松永との好対照として、同じ結核に罹りながらも真田の言い付けを守り着実に治癒していく女学生(久我美子)という役を配し、混沌の中に秩序が萌芽するかの如き一面があり、本当に強い人間とは、といった黒澤監督ならではの明確な倫理観が垣間見られる。ラストシーンの真田と女学生との邂逅には、ほのかな人間愛と希望を明日へ繋いでいこうする生き方の提示的な面も見られる。
医師・真田に関しては、当初は若く理知的な、医療を天職としてその使命に燃える理想的人物という設定だったが、そのせいでか脚本の執筆はその初期段階で頓挫し一向に進まなくなってしまった。
- 黒澤と植草は半ば諦めかけたが、かつて製作前の取材で出会った婦人科医師を思い出しイメージしたことにより、一挙解決へ向かう。その人物は、横浜のスラム街で娼婦相手に無免許の婦人科医をしており、中年でアル中・下品を絵に描いたような人間だったが、会話中に時折見せる人間観察・批判、そして自嘲するような笑い方などに哀愁と存在感があったという。映画中の医師・真田はそんな実在の人物を元に描き出されたキャラクターであるが故に、三船のやくざに対抗しうる反骨・熱血漢に成り得たともいえる。
- 実際、志村の演技には三船に劣らない気迫があり、志村も本作品以降の黒澤映画において大変重要な俳優として活躍を見せ、名実共に志村主演の黒澤作品『生きる』でその真骨頂を披露することになる。
闇市のオープンセットは当時としてはかなり大がかりのものであるが、これは元々黒澤の師である山本嘉次郎監督の『新馬鹿時代』の闇市のオープンセットを再利用したものであった。また、黒澤はリアルに見せるために撮影所のオープンにドブ池を作り、メタンガスに見せるためにホースで空気を送り込んだりもした。
*ところで物語中で真田と松永がタンゴだブルースだと論じる曲はCab Calloway 「Minnie The Moocher(1931年)」序盤の無限ループ。確かにこれだけ聞いてブルーズと判断するのは難しいのかもしれない。ちなみに歌詞は家出娘が麻薬に溺れて自滅していく過程が淡々と語られる内容で、おそらく松永のその後の転落を暗喩している。アメリカ文化史上においては世界恐慌(1929年)後の荒んだ世相の象徴という認識。そして「こういうニヒリズムが蔓延する時代にこそ人は本物のファンタジーを必要とする」なる逆張りからフランク・キャプラ監督のスクリューボール・コメディ映画やウォルト・ディズニー「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」が生み出され、当時のアメリカを席巻したばかりか日本の作品にも影響を与えていく事になるのだった。
黒澤明監督作品 「醉いどれ天使(1948年)」ドヤ街のゴミ捨て場と化してメタンガスを吹いてる沼の前での場面
アル中医師真田(志村喬)「(結核を病んでる松永(三船敏郎)に対して)お前の肺はちょうこの沼みてぇなもんだ。お前の肺ばかり綺麗にしようとしたって駄目なんだよ。お前の周りには腐り切って蛆のわいたバイ菌みたいな奴らばかり集まってる。そいつらと綺麗さっぱり手を切らない限りお前は駄目だな。」
*黒澤明監督作品の規定を為す科学的環境論の萌芽が既に見て取れる。闇市のセット自体は他映画の流用だったが、わざわざ「沼」を追加させるあたりに拘りを感じる。
- 「醉いどれ天使(1948年)」における結核病みの若いヤクザたる松永(三船敏郎)は、戦後派(アプレゲール)の一人としてドヤ街脱出を諦め、自らの限りある命を(封建主義残滓たる旧タイプのヤクザの象徴)岡田(山本礼三郎)を道連れにする事に使おうとする。その後の会話で岡田が別の親分にシマを奪われ再び逮捕された事実が語られるが、誰もそれを松永の「義挙」と結びつけて考えないし、別の親分の時代になったからといってドヤ街の状況が改善される事もなかったとする。
*それにしても「封建主義残滓の古いタイプのヤクザの象徴」とされながら、岡田はギターは爪弾くし、スーツは着こなすし、とってもハイカラ。「用心棒(1961年)」の場合は舞台が養蚕と絹織物の産地であり、抗争中の悪党さえ共倒れさせてしまえば自力復活が可能だったが(こういう科学的環境論に基づく設定の組み込み方が黒澤明作品に一貫して見られる特徴)ドヤ街にそんな「明るい未来」はもたらされず「(理性の力で)結核から治癒した女子高生」を登場させる事によって救済可能性の一環が示されるのみ。「封建時代残滓の克服と民主主義の勝利を訴える」(GHQお好みの)プロパガンダ映画としては、かなり出来損ないの部類に入るといって良い。
- その二面性ある人物像は「野良犬(1949年)」における戦後派(アプレゲール)、すなわち「(正義を選んだ)若き刑事村上(三船敏郎)」と「(悪を選んだ)連続強盗殺人犯遊佐(木村功)」に分割投影されたとも見て取れる。
*当時の無頼は同時に心の中に「ニヒリズムとロマンティズム」という相反する要素を宿していた。「酔いどれ天使」の岡田や「天国と地獄」の竹内銀次郎(山崎努)はこのうちロマンティズムが最初から欠如した人物、「野良犬」の遊佐は自らのニヒリズムに自らのロマンティズムを殺されて自滅していく人物として描かれている。
*実際の西部開拓町ではシェークスピア劇の上演が人気だったという記録がある。なまじ実際の日常が粗野の極みだったが故に文明への渇望も高まったらしい。こうしたスノビズムに付け入る形でアテナイ西地中海帝国は植民市に陶器を、大英帝国は植民地で毛織物や綿織物を売り捌いて大儲けしてきた訳だが、ダシール・ハメットのハードボイルド小説(1920年代〜1930年代)や、エンタメ化した西部劇ではこの要素がすっかり排除されてしまい、殺伐とした潰し合いだけが残される。
これはまぁ、当時もアメリカ人が憧憬したのが自国文化でなく欧州文化だったという「アメリカ文化史上の黒歴史」でもあるせいなんだが(アメリカ人がようやく安心して自国文化への自惚れに浸る様になるのは1930年代〜1950年代になってからとされる)、むしろそうした雰囲気は1940年代日本で制作された「ギャング映画」が伝えており、これが「アメリカ人の自国文化への自惚れ」の重要な下支えとなっていく構図が興味深い。
その一方で志村喬が演じた「ドヤ街のアル中医師」真田に実在のモデルがあった様に、こうした戦後派(アプレゲール)の若者達にも相応のモデルが実在したらしい。
*というか、そもそも戦時下を満州国駐留の航空偵察隊所属カメラマンとして過ごし、復員後の就職先を見つけあぐねていた三船敏郎自身が、まさしくその実物そのものだったのである。
野村秋介はちがった、軍服の似合わない男だった。言えば、アプレゲール(戦後派)、「なりは無頼(やくざ)にやつしていても」と、底までニヒルでロマンチックで、間ちがったら命の要らない、胆のすわった貌である。敗戦後、焼跡を放浪していたころ、私は度々こういう貌に出会った。(竹中労)
— 野村秋介bot (@Nomura_Shusuke) 2017年1月18日
1947年(昭和22年)12月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わった。社長の田辺加多丸が会長に就任し、新社長には外部から元日本商工会議所専務理事・衆議院議員の渡辺銕蔵を招聘。予てから「反共の闘士」で鳴った渡辺は労務担当重役や撮影所長に強硬派を据え、年が改まった1948年(昭和23年)4月8日に東京砧(きぬた)撮影所従業員270名を突然解雇。さらに人員整理のため1200名の解雇計画を発表し「赤と赤字を追放する」と宣言。
- これを受けて4月15日に従組は生産管理闘争に突入、東京砧撮影所を占拠して資機材を管理下に置き、正面入口にバリケードを作って立てこもる。これが第3次争議の始まりとなった。一方経営側は、5月1日・メーデーの日に会社は休業を宣言。従組は東京地方裁判所に会社の営業再開を求める仮処分を申請したが、会社側も占有解除を求める仮処分を申請し対抗し8月13日に東京地裁は会社側の申請を認め占有解除の仮処分執行を決定した。
- 翌14日に裁判所の執行吏が砧撮影所へ向かったが、この時は立てこもっていた従組組合員800名によって入場を拒否される。改めて8月19日に仮処分執行を決定するが、その前から労働者2500名が砧撮影所に立てこもった。五所平之助、今井正、楠田清、亀井文夫などの映画監督、岩崎昶、伊藤武郎などのプロデューサー、山形雄策などの脚本家、宮島義勇などのカメラマン、ニューフェイスの若山セツ子、久我美子、中北千枝子といった俳優も数多く参加。各セットの小屋の前には、不燃塗料を詰めた大樽を複数並べ、各樽の上には零戦のエンジンを搭載した特撮用の大型扇風機を持ち出してきて設置。警官隊が突入してきた際、風圧で砂利やガラス片、塗料を飛ばすものであり、実際に使用もされている。屋根や窓から、木片やガラス球を詰めた袋を落とす仕掛けも作られていた。電流を流した罠も設置された。
1948年8月19日早朝、日本の占領業務にあたっていた連合国軍の一角をなすキャンプ・ドレイクに駐留していたアメリカ陸軍第1騎兵師団司令官ウィリアム・チェイス少将は、カービンで武装したアメリカ軍MP150名、歩兵自動車部隊1個小隊、装甲車6両、M4中戦車3両、航空機3機を率いて砧撮影所を包囲。これらの部隊は、H.F.T.ホフマン代将指揮のアメリカ軍地上部隊だった。チェイスは航空機から指揮を執った。
- 1947年に計画されていた二・一ゼネストは、官公庁の大型労働争議であっただけに、GHQ/SCAPが介入するためには「国民の福祉に反する」という一応の理由があった。また、中止方法も指導者に中止を放送させるという、強引だが「平和的」な解決策をとった。というのもこの時、最高司令官マッカーサーは翌年の大統領選挙に共和党から出馬するつもりでいたので、アメリカ合衆国民の目線を非常に気にしていたのである。当時共和党は労働組合が大きな支持基盤となっており、日本の労働運動を露骨に弾圧して評判を落としたくなかったため、スト決行の直前まで、直接動くことはなく、ましてや軍を出動させることはもってのほかであった。
*マッカーシズム及び赤狩りの時代を除き、アメリカ国でも共産党は合法でありアメリカ共産党が政党として存在する。一方、マッカーサーは、ワシントンD.C.に集まった退役軍人のデモを、共産党に操られているとして武力で解散させたことがある。- しかし、1948年6月の共和党大統領候補の予備選挙でマッカーサーは惨敗してしまい、候補に選出されなかったのでマッカーサーはアメリカ国民の目を気にせずに済むようになった。
- また、1948年8月は、ベルリン封鎖問題などでソビエト連邦率いる共産主義勢力が席巻していた時期であり、ソ連と共産主義者による横暴を容認できないアメリカとしては、日本での共産主義的な芽も早いうちに摘んでしまいたかったともいわれている。どちらにせよ、GHQ/SCAPがもはや共産主義陣営の影響を受けた労働運動に味方しない事を誇示する必要があった。
同日午前8時30分、警視庁予備隊2000名が仮処分の執行援助の為に砧を包囲した。小田急線成城学園前駅での乗降を禁止し、砧撮影所に通じる道を封鎖した。
*旧日本陸軍の九七式中戦車から砲塔を撤去し障害物除去用の排土板を取り付けた装甲車両が、警察の装甲車として出動している。
- 同日午前9時30分、成城警察署署長もしくは執行吏と会社側代理人の弁護士が、アメリカ軍トラックに乗り、10数人の警官隊に守られながら、砧撮影所の正門まで行き、従組に、執行吏による仮処分受諾を要求し、従組代表と交渉した。
- 同日午前10時30分、警視庁予備隊部隊が、戦車に先導されて砧撮影所正門前に展開し始めた。亀井文夫が、砧撮影所正門前の予備隊に向かって、「正義は暴力によっては踏みにじられない」と書いた紙を掲げた。その後、従組は、軍に包囲された以上、力での抵抗は不可能と判断し、職員会議を開いて仮処分の受け入れを決定した。
- 同日午前11時過ぎ、組合員2500名は互いに腕を組み、インターナショナルの歌を歌いながら撮影所を退去し、演劇研究所に撤退した。続いて執行吏が所内に入り、仮処分執行の公示書を掲示した。
- このとき、日映演東宝分会は、砧撮影所の他に、東宝営業部門(映画館)も占拠していた。渡辺銕蔵は、映画館を閉鎖されると直接会社経営に響くことから、商売の面から争議の切り崩しを図った。東宝監督の渡辺邦男を、愚連隊の首領・万年東一に遣わして、日比谷の映画館のスト破りを依頼した。万年は、連日“小光”小林光也や“新宿の帝王”加納貢ら、50人から100人の配下を連れて、映画館を襲撃し、組合員を追い出した。また連日の闘争費用を東宝に要求したが、成功報酬は受け取らなかった。
- 米軍の露骨な介入に対し「空には飛行機、陸には戦車、来なかったのは軍艦だけ」と知れ渡った事件であったが、1948年(昭和23年)8月20日の朝刊各紙では、米軍介入が日本国民に知れ渡り、評判を落とすことを恐れたGHQ/SCAPの検閲によって、東宝争議の「解決方法」が報じられることはなかった。
同年10月18日、組合最高幹部の伊藤武郎、宮島義勇は、渡辺社長らと会談。ここで、組合幹部20名の自主的な退社と交換条件で、解雇されていた残り250名の解雇を撤回することで合意がなされた。さらに、大規模な人員整理の凍結などが認められ、組合側と会社側による覚書の調印によって、ようやく第3次東宝争議は正式に決着。
*しかし1950年(昭和25年)には東宝争議で解雇が撤回された200名を、レッドパージという形で解雇してしまう。
黒澤明監督作品「静かなる決闘(1949年)」- Wikipedia
大映製作・配給。東宝争議の影響で東宝を脱退した黒澤が、初めて他社で製作した作品。
- 本作の原作である「堕胎医」は、千秋実が主宰する劇団薔薇座によって昭和22年(1947年)10月から日劇小劇場で上演された。配役は千秋が藤崎役、千秋夫人の佐々木踏繪が峯岸役、高杉妙子が美佐緒役を演じ、演出は千秋の岳父たる佐々木孝丸が担当。黒澤は偶然その舞台を見ており、それに感動したことから本作の企画が行われた。これをきっかけに千秋は後の黒澤映画の常連俳優となり「羅生門(1950年)」の旅法師、「七人の侍(1954年)」で雇われ武士の一人だった林田平八(旗印製作者)、「蜘蛛巣城(1957年)」における三木義明(謀殺される準主役の武将)、「隠し砦の三悪人(1958年)」における太平(雑兵凸凹コンビの片割れ)などを歴任。
- 物語は戦時中の野戦病院で軍医として働く青年医師の藤崎恭二(三船敏郎)は、患者の中田進(植村謙二郎)を手術中に、誤って自分の指に怪我をし、患者の梅毒に感染してしまった事に端を発する。
*スピロヘイター(梅毒菌)は早期治療がしっかりしていれば比較的確実に駆除可能だが、戦時下の戦場は物資不足なのでそれが果たせなかったという設定。- 復員後、父の藤崎孝之輔(志村喬)が経営する婦人科医院で働くことになったが、梅毒の感染を婚約者の松本美佐緒(三條美紀)にも父にも打ち明けられずにいた。一方、戦前から6年も待たされてきた許嫁のの美佐緒は、復員して以降、恭二が自分に対して距離を置く様になり、結婚も待つ様にいわれて苦悩していた。
- ある日、藤崎が自分の病気の秘密を父親に告白しているところを、見習い看護師の峯岸るい(千石規子)に立ち聞きされてしまう。峰岸は元ダンサーで妊娠後、男に捨てられて自殺しようとしたところを恭二に助けられるという暗い過去を持ち、恭二の日頃の誠実な行動と発言に反感を抱いていた。
- その後も藤崎は己の病と闘いながら、訪れる患者に対しては黙々と治療を続けていくが、秘密を聞いたことで恭二に対するわだかまりが解けた峰岸は、人間的に少しずつ成長していくのであった。
- そんな折、恭二は発作的に傷害事件を起こした中田と偶然再会し、彼が梅毒を放置したまま結婚し、近々子供が生まれることを知る。そんな彼を妻の中田多樹子(中北千枝子)の家族をも藤崎は助けようとするのだが…
実はこの作品は恐らく(原作の戯曲ともども)「罰があるから逃げる楽しみも生じてしまった」実例の一つなのである。
- 映画全盛期のアメリカで生まれた世界初の映像倫理規定Hays Code(1930年)では「性衛生学や性病に関する話題を扱ってはならない」と規定されている。しかしGHQが昭和20年(1945年)に定めた「映画遵則」に従って昭和24年(1951年)設立の(旧)映倫が制定した映画倫理規程では「性病は人道的・科学的観点から必要な場合以外、素材としない」「堕胎手術の扱いには注意する」と条件が大幅に緩和されている。
- これは恐らく①日本には「聖書に性病の事は一切書かれておらず、従ってその話に触れてはならず、被害を蔓延させない為の中絶行為でさえ神はお許しにならない」と強硬に主張する宗教団体が存在しない事。②それどころかドイツ衛生学を輸入する形で、戦前より幼少時から「性病の怖さ」を叩き込む教育がなされてきた事。③終戦直後の日本では性病感染のリスクが非常に高まっていた事。などが原因であろう。皮肉にもこの分野においてアメリカは(軍自らが慰安所設置を管轄し(軍自らの設置すら試みたが、内容が武骨過ぎて兵が寄りつかず楼主に委託する形式に切り替ざるを得なかった)、全慰安婦の定期的性病検査を履行した)日本より遥かに後進国だったのである。流石にコンドームの生産量と品質は日本の「突撃一番」の比ではなかったが(強硬派宗教団体から何故そんなものを兵士に大量配布するのか詰問された時、米軍は「暇な時、兵士が気晴らしに膨らませて遊ぶのであります」と答えたという)それについて触れるのは一切禁じられていた。まぁこういう制約下でこの物語は誕生した訳である。あえて占領軍の徹底的情報統制の裏をかくのだから、これがそれに鬱屈していた当時の日本人に面白がられない筈がない。
*現代日本人の所感では「婚前交渉皆無?」「コンドームを使えばいいじゃないの」という指摘が目立つ。それに触れる事をGHQが禁じており、それを逆手に取ったからこういうシナリオになったという醍醐味が後世には伝わらなかった様である。
- 「羅生門(1950年)」において「自殺」をテーマに扱いながら「本当は女のけしかけた決闘で死んだだけでした」という結末を迎える事で強引に脚本検閲を突破する賭けに打って出たのも、間違いなくこの時「堕胎」をテーマに扱いながら「本当は既に死んだ胎児を搔爬しただけでした」という結末を迎える事で強引に脚本検閲を突破した戯曲「堕胎医」の蛮挙があってこそ。「検閲後進国」アメリカは、徳川幕府が「男女の性交描写を禁止する」と布告すると「男の娘」を生み出し「人間同士の性交描写を禁止する」と布告すると触手物や妖怪強姦物を生み出してきた日本の恐るべき文化的伝統に翻弄され続けたとしか言い様がない。
果たしてそれまでのアメリカ人に「取り締まれば取り締まるほど倒錯度が増していく恐怖が抑止力として機能する」状況など想像し得ただろうか? その意味においても、まさしく「罰があるから逃げる楽しみも生じてしまった」実例の一つとしか言い様がない貴重な同時代証言となったのだった。
*そして最終的には(江戸時代に生まれたそれも含め)全てアメリカ人に感染してしまい、さらに日本人ですら想像だに出来なかった「Dragon Carsex」なんてバリエーションまで生み出されるに至る。日本のHentai文化恐るべし…
本作が公開された1949年当時,梅毒は施行されたばかりの「性病予防法」によって予防対策がとられていた。『静かなる決闘』はその感染症予防に対する一般への教育映画として製作された一面もある。
現在の法律で梅毒は「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(以下「感染症予防法」)の四類感染症としてインフルエンザやHIV感染とともに区分されている。そして内容的にも「感染症予防法」は「性病予防法」とは違い,患者の人権に配慮し,特に個人情報の保護に留意することが条文自体に盛り込まれている。現行法規でも全数報告が義務づけられている梅毒だが,サルバルサンをただ何年も打ち続けて長くはかない治療をしていくしかなかった時代とは感染症への見方も変わってきたといえる。しかし,本作で三船演じる藤崎が見せた誠実な医師の姿は今に残してほしいものである。
ちなみに黒澤自身は本作を失敗作とも考えたらしい。それは原作(菊田一夫)と違い,当時梅毒が治る病気になっており,当初のシナリオではラストで藤崎が発狂するというものだったものが,GHQの働きかけもあって中田のほうが発狂することになってしまった点などであろう。ちなみに三船は後に『生きものの記録』や『蜘蛛巣城』といった黒澤作品で発狂する役を演じるが……。確かにラストで主人公が発狂すれば,壮絶なクライマックスになったかもしれない。
「静かなる決闘(1949年)」より
恭二(三船敏郎)が再会した中田(植村謙二郎)と交わした会話
中田「あいにくと僕は不愉快な事は突き詰めて考えない主義でね」
恭二「しかし君一人の快楽の問題だけじゃなく、他人の幸福や平和の為でもあるんだからね」
中田「それはどういう事ですか、軍医殿」
恭二「四年前、君が内地送還される前に話した事があったろう。スピロヘイター(梅毒菌)って奴は…」
中田「色事でも感染するというんでしょう? だが僕の女房なんて何ともないぜ」
恭二「奥さん?」
中田「へっへっへ、子供だって順調に育ってるんだ。もっともお腹の中でだがね。まぁ、あと半年もしたら一貫文目もある赤ん坊を抱いて君のところへ挨拶に行きますよ。どうだ驚いたろう、ざまぁ見ろってんだ。あっはっはっ」
恭二「驚いたよ、君の向こう見ずさにはね。僕はこんな事は言いたくない。でも真剣に考えて欲しいから言うんだ。僕の中にも君のスピロヘーターが居座ってるんだ。四年前に君の傷の縫合手術を手掛けた時に入ったのさ。」
中田「そんな馬鹿な…(震える手でウィスキーをコップ一杯注いで一気飲みする)」
恭二「まぁ聞きたまえ。こんな嘘がつけると思うかい、中田君。その僕がまだ治っていないんだ。そしてまだ治療を続けてるんだよ」
中田「畜生、お前なんて!!(殴りかかろうとして取り押さえられる)」
恭二「明日にでも来なさい。奥さんも連れてだ(部屋を出ていこうとする)」
中田「馬鹿言うな、誰が行くか!!」
恭二「僕の父は婦人科医だ。君の赤ん坊が無事に生まれてくる為に出来るだけの事をしてくれる筈だ」
中田「畜生、ぶっ殺してやる!!(立ち去る彼に向かって物を投げつける)」
*会話中、中田はサイコロを見せびらかして自分が裏社会の人間である事を印象付けている。着ている服は上物だし、ウィスキーは飲み放題だし、住んでるところは小綺麗だしで、闇屋か何かで羽振りよくやっているという感じ。当時の日本人なら戦前のショック教育のせいで「性病への恐怖」が叩き込まれてる筈なのだが「軍医殿」という皮肉めいた呼び掛けにも見て取れる様に「戦前の体験を全否定してしまったニヒリスト」という設定なのだろう。「酔いどれ天使」松永のダークサイドだけ切り取った様な人物。
恭二の父の孝之輔(志村喬)の診療所にて。診察結果はやはり二人ともスピロヘーター保菌者。胎児の将来が危ぶまれる。中田の手はブルブルと震え、症状がかなり重度に進行している事を暗喩している。
中田「ふざけるな、君は僕に赤っ恥をかかせる為にここへ呼んだのか?」
孝之輔「だから奥さんに直接知らせる様な事はしなかったじゃないですか。だけど医師としてはありのままを申し上げるしか仕方がないのです。母体がああいう状態ですと、色々不幸な場合が想像されるので…」
中田「それはどういう事なんだ。言ってみろ。俺の子供が白痴か片輪だっていうのか」
孝之輔「そういう場合だってあるかもしれません。もちろん早期の治療なら問題ありません。ところが手遅れだとすれば早産や死産の可能性だってあるんですよ」
中田「ふん、婦人科医はここばかりじゃねぇんだ…」
恭二「父さん、僕が話しますから…(父を診療室から追い出して)中田君、静かに話をしようじゃないか。不幸を最小限に食い止める手立てを考えなくっちゃね」
中田「君は他人事の様に軽々とそういうが、僕にとっちゃ初めての子供なんだぜ」
恭二「だから僕はこんな不幸が起こらない為に注意した筈だ。内地に帰ったら徹底的に治療しろ。菌をバラ撒く様な事だけはするなとあれ程ね。そいつは人を崖から突き落とす様なもんだって。これは誰の罪でもない。君の罪だよ」
中田の妻である多樹子(中北千枝子)が診療室におずおずと足を踏み入れる。
多樹子「私もお話の仲間に加えていただけないでしょうか」
中田「聞いてたのか、僕たちの話」
多樹子「ええ、そうです」
恭二「中田君にだけ話して、お二人の間で円満解決をはかってもらうつもりでした」
中田「多樹子、起こった事はもう仕方ないじゃないか。まぁ、これからは俺も少しは気をつけると思うよ」
多樹子「まるで他人事みたいな口振りね」
中田「男っていうのはね、こういう時にはこういう言い方をするもんなんだ。それくらい察しろよ。実際には心の中で色々考えてるもんなんだ。なぁ、藤崎君?」
多樹子「私、もう貴方に土下座して謝ってもらおうとも思ってませんわ。そんな事、今更してもらってもどうにもならないじゃありませんか」
恭二「奥さん、円満解決は出来ませんか。独身者の僕には夫婦生活の機微は分かりませんが、しかしお二人で静かに話し合ったら、もっと静かな結論に到達するんじゃありませんか?(二人を外まで送り出す)」
しかし中田は恭二の話を全て嘘として否認する道を選び、多樹子は完全に手遅れになった段階で、既に奇形の胎児が心臓を停止した状態で孝之輔の診療所に転がり込む。早急に行われる搔爬手術。そこに泥酔状態の中田が転がり込んできて診療所を破壊し始める。
中田「おい貴様、何様のつもりで、どんな権限があって俺様の家庭を破壊しやがったんだ!? 貴様のせいで、俺の家庭は滅茶苦茶だ。全ては貴様のつまらねぇお喋りのせいなんだぜ!! 」
恭二「僕は…」
中田「世の中はな、お前が考えてる様なそんなもんなんかじゃねぇんだ。お前みてぇな堅物にゃ、人間の苦労なんて何一つ分かりっこなんてねぇんだよ!! そろそろいい加減。思い知れよ!!」
恭二「それが分からないのは君だよ」
中田「何抜かしやがる。全部手前ェのせいなのに、よく平然とそんな綺麗事がほざけるもんだぜ、この偽善者野郎!!」
恭二「君はね、君がそうやって酔っ払ってる間に、君の奥さんがどれだけ苦しい目に遭ったのか本当にちゃんと知ってるのかね?」
中田「この期に及んで何抜かしやがるんでぇ。そういえば貴様、人の女房を手術するとか抜かしやがったな。勝手ばかりしやがると、今度こそ本当に承知しねぇからな!!」
恭二「どうして僕にばかりそうやって絡んでくるんだ?」
中田「何抜かしやがる。最初からずっと絡んできたのは貴様の方だろ? 自分も俺から感染したとか、女房も危ねぇとか、実に医者らしい嘘八百並べやがってよう。貴様の様な奴等こそ戦後日本にゃもういらねぇ偽善者中の偽善者なんだぜ、けっ、覚えときやがれ!!」
ここで話を立ち聞きしていた峯岸るいが、中田こそ恭二に梅毒を移した犯人と気付いて掴みかかる。さらに激化する乱闘。しかし手術室で死産状態で生まれた自分の子供を目の当たりにした中田はその場で発狂してしまう。「スピロヘーターが脳まで回ってたんだ」と恭二が説明を加える。
*元の芝居では次第に追い詰められて最後は発狂に追い込まれてしまうのは恭二の方で、観客がそのシーンに共感して大喝采していたエピソードを知ってしまうと、随分と見方が変わる展開といえる。ちなみにHays Code原文には「芝居より映画の方が影響力が大きのは明らかであり、より厳しい統制が加えられねばならない」なる趣旨の文言がある。芝居で人気だった演目が映画化に際して倫理的観点から大幅な変更を加えられるのは本国ですらあり得る展開だったのである。実際スクリーンからチャンバラ活劇が駆逐されていた時期、芝居小屋の人気演目は「女剣士主演のチラリズム満載チャンバラ活劇」とされている。まさしく「実験国家」アメリカ。やる事なす事、実践段階では「統制」なる概念が尽く欠如しているのだった。
事件が全て終わった後、再建された診療所での会話
野坂巡査(山口勇)「署で若先生が何と呼ばれているか御存知ですか? 聖者ですよ」
孝之輔(志村喬)「聖(ひじり)ですか…あいつは自分より不幸な人間と一緒にいる事で希望を取り戻そうとしてるだけですよ。幸せだったら案外俗物になってたかもしれません」
*それまで目立つ場面のなかった志村喬が一気に劣勢挽回を図った台詞。おそらく原作劇にはなかった台詞で(GHQに強引にシナリオを改変された)黒澤明自身の所感でもあったのだろう。
彼の代表作の一つでもある『酔いどれ天使』で観客に定着してしまった悪漢やヤクザというワイルドなイメージを払拭し、一度イメージをリセットして演技の幅を広げるためにはこういった作品に出演することが必要だったのでしょう。
彼の魅力が全面に出ていたとは言い難い印象ではありますが、俳優としての奥行きが広がる重要な作品だったのではないか。
タイトルから想像するとジョン・フォード監督の西部劇みたいですが、自分自身と体内に潜む、梅毒のスピロヘータとの戦いなので「静かなる決闘」で正しい。
ただ如何せん脚本が大きな原因なのでしょうが、あまりにも三船が超人的で、身体中が力みすぎている感もあります。
高潔な三船と自堕落な植村謙二郎のあまりにも極端な描き分けは人間の二面性を表すために二人に分けて具現化したものなのだろうか。お互いに極端なので分かりやすくしたのでしょうが、かえって不自然な感が否めない。
*ただ、こうした二局面化は「野良犬(1949年)」における村上刑事(三船敏郎)と凶悪犯遊佐(木村功)、「天国と地獄(1963年)」における権藤金吾(三船敏郎)と竹内銀次郎(山崎力)にも見て取れる。
- 本来のシナリオでは自らの偽善性に押し潰されて発狂して果てていく筈だった青年医師(三船敏郎)。もし元シナリオのままだったら、三船敏郎はむしろ彼から偽善の仮面を引き剥がす役割を担う筈だった中田進(植村謙二郎)の役を演じていた可能性が高く、そうなったら確かに三船敏郎の芸風を狭めていたかもしれない。人生万事塞翁が馬である。
*その時は志村喬が梅毒に感染した医師役を演じていたのだろうか? - そんな青年医師が(Hays Codeの「政治家や法執行者や医者の様に市民に模範を示す立場の人間の堕落を描いてはいけない」なる条文に拘束された)GHQの強引な介入で(「民主主義の使者」金田一耕助の様な)ある種類の聖人に祭り上げられてしまった無念が、黒澤明をして「いきものの記録(1955年)」における「限度を知らぬ家父長」中島喜一(三船敏郎)や「蜘蛛巣城(1957年)」における「時空を超えて生きる妖怪の予言や、ロマン主義的英雄の生き様を求める妻に翻弄される庶民」鷲津武時(三船敏郎)の発狂を描く方向に向かわせていったという指摘もまた興味深い。
*さらには「羅生門(1950年)」における「自殺禁止コード」を巡る駆け引きの原動力ともなった可能性すらある。「虎の尾を踏む」のは二度目なので、より本文が発揮出来たとも。 - ある種のロマン主義的英雄として生涯を全うする中田だが(芝居版と異なり)「彼に同情してその生涯を美化して後世に語り継ぐ庶民」が不在の為「伝説の人々(Ledgens)」の仲間入りを果たす事はかなわない。代わって恭二がその座を得たのは、偏(ひとえ)に「次第に彼のあり方を受容していく庶民」峯岸るい(千石規子)の存在ゆえ。この役割は「いきものの記録」では中島喜一の末娘すえ(青山京子)に継承されるが、既に彼女の立場は庶民側とはいえないものになっている。
黒澤明監督映画「野良犬 (1949年)」 - Wikipedia
終戦直後の東京を舞台に、拳銃を盗まれた若い刑事がベテラン刑事と共に犯人を追い求める姿を描いた、黒澤監督初の犯罪サスペンス映画。
- 当時、黒澤は東宝争議の余波で東宝での映画製作を断念し、師の山本嘉次郎や本木荘二郎らと映画芸術協会に参加して他社で映画を撮っていた。本作は大映で撮った「静かなる決闘(1949年)」に続いて他社で撮った2本目の作品で、映画芸術協会と新東宝の提携により製作した。
- 日本映画において、ドキュメンタリータッチで描く刑事ものという新しいジャンルを開拓し、画期的な作品として、その後の同系作品に影響を与えた。探偵小説の愛読者でもあった黒澤は、ジョルジュ・シムノンを意識したサスペンス映画を作ろうと企画し、新人の脚本家菊島隆三を共作に抜擢。彼を警視庁に通わせて題材を集めさせた。そこで捜査一課の係長から、警官が拳銃を紛失することがあるというエピソードを入手、それを採用して熱海で脚本を作り上げたのである。
*ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon, 1903年〜1989年)…ベルギー出身のフランス語推理小説作家。100編以上あるジュール・メグレ警部(Jules Maigret, 後に警視)が登場する一連の推理小説で世界中にその名を馳せたが、これを主流な仕事とは考えておらず、あくまで自分を純文学の作家とみなしていた。- 『醉いどれ天使』同様、戦後の街並みや風俗とその中で生きている諸々の登場人物が生き生きと描写されている。復員服姿の村上刑事が闇市を歩く場面では、助監督の本多猪四郎と撮影助手の山田一夫の2人が上野の本物の闇市で隠し撮りを敢行し、本多は三船敏郎のスタンドインを務め、山田がアイモを箱の包に入れて撮影している。黒澤は後に「この作品で戦後風俗がよく描けていると言われるが、それは本多に負うところが大きい」と語り、本多を称賛している。
緊迫したシーンにあえて穏やかで明るい曲を流し、わざと音と映像を調和させない〈音と画の対位法〉という手法が用いられている。劇中の使用例をみると、佐藤刑事がホテルで撃たれるシーンでは、ホテルのラジオから「ラ・パロマ」が流れ、ラストの村上と遊佐が対決する緊迫感あるシーンでは、主婦が弾く穏やかなピアノのメロディと、最後に子供達が歌う「蝶々」が流れる。
「野良犬 (1949年)」額縁入りの表彰状が沢山飾られた佐藤刑事(志村喬)の自宅で村上刑事(三船敏郎)が配給のビールを御馳走になる場面。
佐藤刑事「俺の家も荒屋(あばらや)だが、遊佐(木村功)の家はもっとひどい。汚いものには蛆がわくってか」
村上刑事「世の中には悪人なんていない、悪い環境があるだけだ。そういう言葉もありますが、遊佐ってやつも考えてみれば可哀想なやつですね」
*これもまた科学的環境論の一環だが、黒澤明のそれはあくまで環境決定論ではなく「(たとえ振り切れないにせよ)正義は悪を認めてはならない」なる倫理的使命感と表裏一体の関係にあるのが特徴。佐藤刑事「いかんいかん、そういう考え方は俺達には禁物だよ。犯人ばかり追っかけま回してるとよくそんな錯覚を起こすが、一匹の狼の為に、沢山の傷付いた羊を忘れちゃいかんのだ。あの額の半分は死刑囚だが、大勢の幸福を守ったという価値がなかったら、刑事なんて全く救われない。犯人の心理分析なんて小説家に任せておくんだよ。俺は単純にあいつらを憎む。悪い奴は悪いんだ」
村上刑事「僕はまだそういう風に考えられないんですよ。長い間戦争に行ってて、その間に人間がごく簡単な理由で獣(けだもの)に変わるのを何度も目にしてきたもんですから」
佐藤刑事「君と僕の年齢の差かな。それとも時代の差かな。何といったかな。そう、ア…ア…アプレゲール。戦後派って奴だ。遊佐も君もそうかもそれん。だから遊佐の気持ちが分かり過ぎてしまうんだ」
村上刑事「そうかもしれませんね。僕も復員の時に(それが遊佐の転落となった様に)リユック盗まれてるんですよ。ひどくムカついて毒々しい気分になりましてね。あの時だったら強盗くらい平気でやれtでしょう。でもここが危ない曲がり角だと思って、僕は逆のコースを選んで今の仕事を志願したんです」
佐藤刑事「やっぱりな。そのア…ア…アプレゲールにも2種類あるんだ。君みたいなのと、遊佐みたいなのと。君のは本物だよ。」
表彰状が20年来のもの(つまり戦前まで遡る)事は、佐藤刑事がアプレゲール(après-guerre、戦後派)の対語たるアヴァンゲール(avant-guerre、戦前派)である事を暗喩している。
- 村上刑事(三船敏郎)と凶悪犯遊佐(木村功)の表裏一体性は「天国と地獄(1963年)」における「勝ち組」権藤金吾(三船敏郎)と「負け組」竹内銀次郎(山崎努)の表裏一体性に継承されたとも見て取れる。
*最終的にこうした「(三船敏郎演じる)悪と表裏一体の善人キャラ」は最終的に「赤ひげ(1965年)」で一つの完成形に到達。「(たとえ振り切れないにせよ)正義は悪を認めてはならない」という倫理的使命感に(科学的環境論を背景とする)一つの処方箋がもたらされる事になるのである。
- 「天国と地獄」で刑事役として活躍するのは戸倉警部(仲代達矢)や「ボースン(水夫長)」田口部長刑事(石山健二郎)だが、これは国内外女子の言い回しを借りると「エロくない」らしい。逆を言えば松永や村上刑事を演じた頃の三船敏郎は、とにかく「エロかった」という事になる。ある意味同じインテリ・タイプとして戸倉警部(仲代達矢)と竹内銀次郎(山崎努)もまた表裏一体の関係にあるのだが、確かにこういった部分に書き込み不足が目立つ。
*余談だが「野良犬」で犯人役を演じた木村功が「天国と地獄」では刑事役(荒井刑事)として登場。そういえば、それまでの仲代達矢も、ある意味「悪役」一筋だった。
戦前から終戦直後にかけて一人のやくざの半生を描いた、中川信夫の戦後4作目。「地獄(1960年)」までつづく、中川と嵐寛寿郎のコンビ第1作でもある。嵐寛寿郎演じるやくざが足を洗おうとする戦前編と、そのやくざの組長の一人息子が復員してからの戦後編の、二部作構成になっている。
- GHQによる「チャンバラ禁止令」の影響下で製作された嵐寛寿郎主演現代劇の一本。本作品に出演した池部良のインタビュー本を著作した志村三代子と弓桁あやは、本作品の嵐演じるやくざを「『網走番外地』シリーズをはじめとして、晩年に多数出演したやくざ映画の原点」であると指摘している。製作当時、現役のスター俳優だった嵐は、後半で老け役になる主人公ではなく、池部演じる組長の一人息子の方を演じたかったとプロデューサーの竹井諒に話していたという。
- メインタイトルは『私刑 リンチ』であり、本編映画の中に、清川玉枝を逆さ吊りにして棒でメッタ打ちにするというやくざの凄まじいリンチシーンが描かれているが、主人公のやくざはそれを逃れ続けて青年期から初老に至り、主役の嵐寛寿郎がリンチにかけられる場面は全編を通してない。映画評論家の山根貞男は、この映画のスタイルを「あのアラカンが、一度たりともカッコよく描かれない(中略)過剰な思い入れということを強く排する醒めた目の映画」と評している。
本作品は、前年の1948年に完成していたが、本作品を自主配給作品の第一弾にしようと決定した新東宝に対して東宝が協定違反を申し立て、裁判所に公開差し止めの仮処分を申請し受理されたために公開が1年遅れている。当時はまだ東宝争議後の、自社製作再開の見込みが立っていなかった東宝が新東宝製作映画を配給して公開している時期であり、東宝側の言い分としては、自社がまだ製作再開の体制が整っていない状況下で、新東宝が事前の協議もなくいきなり独立を通告してきたことが、新東宝が設立された時に東宝の親睦会社となるという協定の違反にあたるというものだった。仮処分が下されたために、本作品を配給するはずだった新東宝配給株式会社の設立も延期されたというのが、本作品の公開が延期された件の経緯である。この事件は、本作品のタイトルをとって、東宝の宣伝部内では『私刑』事件とも呼ばれている。また、東宝側から見れば、仮処分後も新東宝が自社配給をあきらめず、東宝の配給部門セールスマンや東宝系の劇場を大量に引き抜いたことに危機感を受け、砧撮影所の再開を急ぐことになったというが、新東宝側から見ると、東宝が撮影所を再開して、新東宝作品の配給を拒否したことが新東宝配給株式会社の設立を急がせたとなっている。
*とにかく、この時代を特徴付けるのは「サスペンス・ポーズ」。何かオリジナルがあるんだろうか? 「酔いどれ天使(1948年)」にも見受けられる。
参加人員が全国の日本映画演劇労働組合(日映演)の東宝分会で約180名、砧撮影所で140名と、第3次までの東宝争議と比べて極端に少ないために、一般にはあまり知られていないが、1950年5月17日から同年12月29日まで続いた。
- 1948年に第3次東宝争議が終結した後も、東宝は、社内の派閥や新東宝との不調和によって、赤字を増やし、1950年1月末の借入金その他の債務は約13億円、赤字は1億5000万円にも及んでおり、新たな人員整理の必要性に迫られていた。
- 1950年5月17日、会社側は、300名の人員整理通告を発表した。整理の対象は、主に、日本映画演劇労働組合(日映演)だったが、それ以外に、日映演から分裂して生まれた全国映画演劇労働組合(全映演)の組合員も対象になっていた。このため、第4次東宝争議は、人員整理によって大きく影響を受ける日本映画演劇労働組合(日映演)が主導した。
- 5月24日、大映多摩川撮影所、松竹大船撮影所も日映演東宝撮影所分会との共闘を決議。5月25日、吉村公三郎監督の大映の『偽れる盛装』スタッフも首切りに反対の態度を示した。5月26日、山田五十鈴が日本映画演劇労働組合(日映演)への加入を発表。日本映画監督協会、シナリオ作家協会などが東宝の会社側の映画製作に非協力の態度をとるなど支援も広がった。
- 6月2日スト指令を出した全映演は、6月3日ストを中止し、6月16日妥結した。一方、争議を主導してきた日映演は、6月25日、解雇無効身分保全の仮処分を東京地方裁判所に申請、これに対して、8月10日、東京地方裁判所の勧告が出され、12月28日東京地方裁判所で争議妥結の覚書が作られた。12月29日本社で仮調印が行われ、争議は終結した。
- 1952年に亀井文夫監督、山田五十鈴主演の劇映画「母なれば女なれば」を製作したキヌタプロダクションは、第4次東宝争議の解決金として日映演に支払われた600万円のうち、200万円を資本金にして設立されたとされる。
東宝は争議を乗り切ったものの製作再開の目処は立たないため、第二製作部を母体とした新東宝に映画製作を完全に委託して自身は配給のみを受け持つ、という方針も検討したという。
- 最終的に新東宝は独自の配給網を築いて東宝と袂を分かち、東宝も自主映画の製作を再開(その後、新東宝はスターが相次いで流出し、結局1961年に倒産)。
- 組合側の指導者であった伊藤武郎、宮島義勇、山本薩夫、亀井文夫といった共産党員は東宝を追われ(今井正は期間を開けて自主的に退社)、しばらくは大手映画会社からも敬遠されたため、独立プロを設立した。
- 争議後、山本嘉次郎、成瀬巳喜男、黒澤明、谷口千吉監督らは、東宝で映画製作ができないため、退社して「映画芸術協会」を設立、新東宝、大映、松竹といった他社での仕事を余儀なくされた。また、藤本真澄らプロデューサーも退社し、個人プロダクションを設立しての映画製作に当たった。
相次ぐ人材の流出に悩まされた東宝は、争議の後数年間低迷を続ける。東宝が黄金時代を迎えるのは、東宝重役の森岩雄が公職追放解除となって東宝に戻り、黒澤、成瀬、藤本らが復帰した1950年代中頃からのこととなる。
春日太一「仁義なき日本沈没―東宝VS.東映の戦後サバイバル」
戦後しばらくは戦災から立ち直れないでいた日本だったが、1950年に始まった朝鮮戦争の軍事特需、それに伴う神武景気により驚異的な勢いで復興を始める。そうした1950年代、映画界もまた空前の活況を迎えることになる。全国映画館入場者数は1955年に9億人に近づくと1958年には11億人にまで達し、戦後すぐは845館しかなかった映画館数も1955年には5000館を超え、1959年には7400館を数えるようになった。
そして、当時の日本人に最も愛されたのが、時代劇だった。時代劇は戦後、GHQにより「封建的」との理由で製作制限がかけられてしまい、製作本数を限定されただけでなく、「仇討ち」「復讐」などのテーマが禁止されたことで、時代劇の最大の見せ場である殺陣のシーンが描きにくくなっていた。この制限が、1951年にサンフランシスコ平和条約により日本が独立を勝ち取ると、撤廃される。製作者も観客も、この時を待ち焦がれていたのだろう。時代劇は一大ブームとなっていく。1950年には年間50本しかなかった時代劇の製作本数は、1955年には174本にまで増えた。
黒澤明監督映画「羅生門 (1950年)」 - Wikipedia
Fresh Movie Quotes — Rashomon (1950)
東宝争議の影響で大映の制作・配給となった作品。伊丹万作唯一の弟子として指導を受けた橋本忍は、伊丹の死後佐伯清の弟子となり、サラリーマンをしながら脚本の勉強をしていた。
1949年(昭和24年)、橋本は芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を執筆、佐伯にこの脚本を見せたところ、かねてから付き合いのあった黒澤明の手に脚本が回り、黒澤はこれを次回作として取り上げた。
橋本の書いたシナリオは京の郊外で旅の武士が殺されるという殺人事件をめぐって、関係する三人が検非違使で証言するが、それがみな食い違ってその真相が杳として分からないという人間不信の物語であったが、映画にするには短すぎたため、杣売りの証言の場面と芥川の『羅生門』のエピソードと、ラストシーンで出てくる赤ん坊のエピソードを付け足した。
ラストシーンでは、それまで羅生門廃墟での雨宿りの際に暇つぶしに杣売りの話を聞いていた下人(上田吉二郎)が現場で拾った短刀を盗んで売った事を隠し通そうとする杣売りの偽善性を暴き、捨て子の衣類を身ぐるみ剥いで去っていく。一方杣(そま)売り(志村喬)は「俺には子供が6人いる。7人になっても何も変わらない」と宣言し、その子を引き取る。全ての光景の立会人となった旅法師(千秋実)は、何とか全面的人間不信を免れる。
- 完成間際の1950年(昭和25年)8月21日、アフレコ収録中に撮影所が出火。オリジナルネガは無事だったが、一部の音ネガが消失。さらにその翌日には映写機でのテスト中に再び炎が上がり、フィルムから放出された毒ガスにより30人ほどのスタッフが病床につくというアクシデントが起きてしまう。試写会は8月25日の予定だが、黒澤は残り2日間で録音作業を行い、なんとか試写会には間に合わせた。
- 8月25日、大映本社4階で試写会が行われる。試写を見ていた永田社長は「こんな映画、訳分からん」と憤慨し、途中で席を立ってしまった。さらに永田は総務部長を北海道に左遷し、企画者の本木荘二郎をクビにさせている。
- この翌日8月26日に本作は公開されたが、難解な作品だということもあり、国内での評価はまさに不評で、この年のキネマ旬報ベストテンでも第5位にランクインされる程度だった。興行収入も黒澤作品にしては少ない数字であった。
- 同年末、ヴェネツィア国際映画祭とカンヌ国際映画祭から日本に出品招請状が送られる。先に行われるカンヌ国際映画祭の候補作を選ぶため、各映画会社からお勧めの作品を選ぶこととなり、大映からは吉村公三郎の『偽れる盛装』と『羅生門』を選出した。その中から関係者による投票を行い、上位2作品『また逢う日まで』と『羅生門』が候補作として選ばれたが『また逢う日まで』は製作会社の東宝が争議の影響で出品費用が捻出できないため辞退、『羅生門』が残るも、こちらも辞退してしまう。
- そんな中、イタリフィルム社長のジュリアーナ・ストラミジョーリは、ヴェネツィア国際映画祭の依頼で日本の出品作を探すこととなったが、何本と候補作を見ているとその一本である『羅生門』を観て感激し出品作に決めた。しかし大映側がこれに反対。そこでストラミジョリは自費で英語字幕をつけて映画祭に送った。
*ジュリアーナ・ストラミジョーリ(Giuliana Stramigioli、1914年8月8日 ローマ - 1988年7月25日 ローマ)…イタリアの実業家、大学教授、日本研究者。1936年から1940年の間、ジャーナリズムの分野で活動。その中には「ガッゼッタ・デル・ポポロ」紙、および「ジョルナーレ・ディタリア」紙に寄稿した朝鮮についてのルポルタージュや、北日本やアイヌ民族についてのルポルタージュなどもある。第二次大戦中には在日本イタリア大使館、およびイタリア文化会館に勤務。戦後は東京外国語大学でイタリア語を教授。また1948年に文化活動としてイタルフィルムを設立し、イタリア映画の日本への輸入を始め、日本の映画ファンに「無防備都市」「自転車泥棒」といったネオレアリズムの作品を紹介した。1965年、イタリアに帰国。マルチェッロ・ムッチョーリ(1898-1976)の後を継いで、ローマ・ラ・サピエンツァ大学にて日本語、日本文学の教授となり1985年までその職を務めた。フォスコ・マライーニとともに、伊日文化研究会(AISTUGIA)の創立メンバー。
- 当時、大映の重役をはじめほとんどの人々が作品の受賞を期待していなかったが、ヴェネツィア国際映画祭で上映されるや否や大絶賛され、1951年(昭和26年)9月10日に金獅子賞を獲得。しかし、日本人の製作関係者は誰一人も映画祭に参加していなかったため、急きょ町を歩いていたベトナム人の男性が代わりにトロフィーを受け取ることになった。この姿は写真報道され、この無関係のベトナム人が黒澤本人であるとの誤解を招いたこともあった。
- 永田は受賞の報告を聞いて「グランプリって何や?」と聞き返し、「訳分からん」と批判していたにもかかわらず、手のひらを返したように大絶賛し始め、自分の手柄のように語った。人はそんな永田の態度を「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄。黒澤も後年このことを回想し「まるで『羅生門』の映画そのものだ」と評している。その後大映は娯楽映画路線から芸術的大作映画路線へと転じ、吉村公三郎「源氏物語(1951年)」、溝口健二「雨月物語(1953年)」「山椒大夫(1954年)」、衣笠貞之助「地獄門(1953年)」といった同社作品が次々と海外映画祭で受賞。
*この流れ抜きには「生きものの記録(1955年)」で興行面における記録的失敗をやらかした黒澤明が芸術路線に立ち返って「蜘蛛の巣城(1957年)」で出直しを図る展開は成立しないとも。
- 黒澤明は、作品が映画祭に送られたこと自体も知らず、受賞のことは妻の報告で初めて知ったという。後に開かれた受賞祝賀会で黒澤は次の発言をしている。「日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。これは反省する必要はないか。浮世絵だって外国へ出るまではほとんど市井の絵にすぎなかったよね。我々は、自分にしろ自分のものにしろ、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな? 『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思っていません。だけど「あれは まぐれ当たりだ」なんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなきゃならないんだって気がするね。どうして、日本人は自分たちのことや作ったものに自信を持つことをやめてしまったんだろう。なぜ、自分たちの映画を擁護しようとしないのかな? 何を心配してるのかなって、思うんだよ。」
- 1951年度の第24回アカデミー賞では日本映画初の名誉賞(現在の外国語映画賞)を受賞。翌1952年(昭和27年)度の第25回アカデミー賞では、美術監督賞(白黒部門)にノミネートされ、この授賞式には淀川長治が出席した。
「羅生門」のグランプリ受賞は、当時まだ米軍占領下にあり、国際的な自信を全く失っていた日本人に、古橋廣之進が競泳で世界最高記録を樹立したことと、湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したことと共に、現代では想像も出来ぬ程の希望と光明を与えた。この受賞により黒澤明監督と日本映画は世界で評価されていき、日本映画も黄金期へと入っていく。
黒澤明監督作品「羅生門(1950年)」杣(そま)売り(志村喬)の証言
多襄丸(三船敏郎)「俺はこれまで悪念に悩まされると、その悪念に命ぜられるままにしてきた男だ。それが一番苦しまない方法だと信じてきた。しかし今日は駄目だ。お前を手に入れたが、俺はますますお前が欲しくなるばかりだ。ますます苦しくなるばかりだ。頼む、俺の妻になってくれ。洛中洛野にその名を知られたこの多襄丸が、分かって両手をついて頼む。俺はお前がそういうのなら、この渡世から足を洗ってもいい。お前一人贅沢に暮らせるくらいの金銀は隠してある。いや、その様な汚れた金銀は好まぬというのなら、汗水垂らして働く。物売りに身を落としても、お前一人には苦労はかけん。お前が俺のものだと決まりさえすれば、俺はどんな苦労も厭わん。な、頼む。俺の妻になってくれ。頼む、もしお前が嫌だと言ったなら、俺はお前を殺すほかない。頼むから俺の妻になるといってくれ!! 泣くな。泣かずに俺の妻になるといってくれ。言わんか!!」女(京マチ子)「(それまで泣き崩れていたのに、突然すくっと身を起こし)無理です。あたしには言えません。女のあたしに何が言えましょう(短刀を手にして縛られた夫に駆け寄り、縛めを断ち切った後で再び泣き崩れる)」
多襄丸「わかった。これを定めるのは男の役目というんだな(剣の塚に手を掛ける)」
夫(森雅之)「待て、こんな女の為に命を賭けるのは御免だ。二人の男に恥を見せて、なぜ自害しようとせぬ!! 呆れ果てた女だ。こんな売女、惜しくはない。欲しいというならくれてやる。今となってはこんな女より、あの葦毛(の馬)を盗られるのが惜しい」
女「(呆れ果てて立ち去ろうとする多襄丸に向かって)待って!!」
多襄丸「来るな!!」
夫「(再び泣き崩れた女に向かって)泣くな!! どんなにしおらしく泣いてみせても、その手に乗る者jはおらぬ!!」
多襄丸「よせ。未練がましく女を虐めるな。女というのは所詮、この様にたよりないものなのだ」
女「(突然笑い出す)頼りないのはお前たちだ。(夫に対して)夫だったら、なぜこの男を殺さない? あたしに死ねという前に、何故この男を殺さないのだ? この男を殺した上で、あたしに死ねと言ってこそ男じゃないか。(多襄丸に対して)お前も男じゃない!!(破裂したかの様な笑い声を炸裂させる)多襄丸と聞いた時、あたしは思わず泣くのを止めた。このグジグジしたお芝居にウンザリしていたからだ。多襄丸なら、この私の救い様もない立場を片付けてくれるかもしれない。そう思ったんだ。このどうにもならないあたしの立場から助け出してくれるなら、どんな無茶な、無法な事だって構わない。そう思ったんだ。(再び破裂する様な笑い声)ところがお前もあたしの夫と同じで小利口なだけだった。覚えておくがいい。女は何もかも忘れて気違いみたいになれる男のものなんだ。女は腰の太刀に賭けて自分のもにするもんなんだ(二人が剣を抜いいて対峙したのを見て再三、破裂する様な笑い声)」
ZEN in TECHNICOLOR (From the masterpiece ‘Rashomon’, directed by Akira...)
まずいきなり「どうしてこの作品がGHQ占領下で製作可能だったか」自体が一般にミステリーと考えられていたりします。
- 片岡千恵蔵主演金田一耕助シリーズ第1作「三本指の男(1947年)」も「本当は自殺だった」という結末が書き換えられてしまった。
- 同様に「羅生門(1950年)」も「自殺」を題材とするミステリーだが、封切りを許された時点で「本当は自殺じゃなかった」とネタバラシされた様なもの?
*「壮絶な」剣戟場面もあるけど、別にそれ自体は規制対象になってない。 - それはそれとして、作品の方向性を決めるに当たって意外と重要だったのは、もしかしたら労働争議泥沼化によって「労働組合の脚本検閲」から解放された事だったかもしれない。とにかく(労働組合の脚本チェックがあったと明言されている)「酔いどれ天使(1948年)」では大きな比重を占める「封建主義の否定」「民主主義の称揚」といった要素が「静かなる決闘(1949年)」「野良犬(1949年)」では希薄となり(後者ではそれどころかヤクザやその情婦の方が刑事を「人権蹂躙で訴えるよ」と脅すといった皮肉が入ってくる)「羅生門(1950年)」に至ってはそうした問題意識そのものが消え失せてしまう。
ところで「羅生門(1950年)」の多襄丸と「七人の侍(1954年)」の菊千代のイメージにはそれなりの連続性が存在。そのイメージは最終的に「どん底(1957年)」に登場する泥棒・捨吉に到達する事になります。
*というより「どん底(1957年)」の捨吉はマキシム・ゴーリキキーの原作(1901年〜1902年)におけるペーペルの引き写しであり、大源流はこれとも。
どん底 - Wikipedia
- まず大きいのは「どちらの作品も橋本忍がシナリオを手掛け、かつ三船敏郎の素の姿をヒントに肉付けされたキャラクター」という当たり。ただそれだけでなく「羅生門」の多襄丸の特徴、すなわち「耳障りな独特の甲高い笑い方」「独特の多人格性多面性」が継承されている様にも見てとれるのである。
- ここでいう「(「羅生門」に登場する)多襄丸の多人格性」は、橋本忍のシナリオにおける「(一見)表裏がなさそうな陽気な盗賊」と、黒澤明が加筆した「杣(そま)売りの証言」部分における「(盗賊の仮面の裏に隠されていた)純真で傷つきやすい側面」が結合した結果生まれたと見てよい。もう一つの特徴たる「耳障りな独特の甲高い笑い方」も、黒澤明が追加した「杣(そま)売りの証言」において実は元来は多襄丸当人のものではなく、彼を手酷く裏切った女の笑い声がそのまま感染したものだった事が明かされる。まぁ、この辺りの意外性がヴェネツィア映画祭でのグランプリ受賞に結びついたとも。
- その一方で黒澤明が加筆した「ナイーブな盗賊」が語るセリフは、ほとんどマクシム・ゴーリキーの戯曲「どん底(На дне、1901年〜1902年)」における「ドロドロの人間関係の中でもがく泥棒ペーペル」のほぼそのままの引き写し。ちなみに黒澤明は舞台を江戸の木賃宿に移した「どん底(1957年)」も制作しており、そこでペーペルに該当する泥棒の捨吉を三船敏郎に演じさせ、オリジナルの台詞もしっかり言わせている。そして「どん底(1901年〜1902年)」における泥棒ペーペルに対する一切の救いなき仕打ちは「酔いどれ天使(1948年)」において松永を見舞う非情な展開とも重なってくる。
- 一方、「(「七人の侍」に登場する)菊千代の多人格性」は「農民として生きてき生活体験が生んだニヒルな部分」と「武家の仲間入りに憧れるロマンティストな部分」の根本的矛盾に由来する。それ自体は「島田勘兵衛(志村喬)配下の武士達と農民の仲介役が必要」なる黒澤明の鶴の一声から突如として途中追加されたコミック・リリーフ的キャラクター。多襄丸との連続性は黒澤明監督自身の意図というより、脚本家・橋本忍の「配慮」や三船敏郎の「悪ノリ」の産物であったとしても不思議でない状況。
春日太一「仁義なき日本沈没―東宝VS.東映の戦後サバイバル」
1951年8月、阪急グループ総帥でもある創業者・小林一三が公職追放の解除と同時に東宝の社長職に復帰。「自分の作った会社がこんなに荒廃して、株主に長い間迷惑をかけたから、東宝を再びもとの一流企業にするまでは、老体を鞭打っても努力する(田中純一郎『日本映画発達史』)」。この時78歳だった小林は人生最後の賭けに出る。
小林がこの時に立てた戦略は「全国主要都市に百館の劇場を確保して巨大な興行チェーンを形成し、製作・営業製作・営業の基盤を不動のものにする」という〈百館主義〉だった。しかも、これを五年で成し遂げようというのである。
当時、小林は自らの戦略を次のように語っている。「東映のように、映画製作を滅茶苦茶にやって、それで利益を得て、それから直営館を建てるというやり方もあるが、私は、会社の基礎は、何といっても直営の興行場をたくさん持つことにあると思っている」「私の百館計画が完成したら、こん度は製作の方に十分力を入れるつもりです(同『日本映画発達史』)」
興味深い事に太陽族映画(1955年〜1956年)の「狂った果実(1956年)」とコンセプトが被り、しかも後者の方が世界映画史上に名前を残す事になった。
黒澤明監督映画「七人の侍 (1954年)- Wikipedia
Films looking at you, kid — Seven Samurai (1954) by Akira Kurosawa.
東宝製作・配給。日本の戦国時代(劇中の台詞によると1586年)を舞台とし、野武士の略奪により困窮した百姓に雇われる形で集った七人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。
- 最初から『生きる』に続く作品に時代劇を撮る予定ではあったが、それまでの時代劇は歌舞伎などの影響を受けすぎているとも考えていた。それでこれまでの時代劇を根底から覆すリアルな作品を撮ることを考え、橋本忍にシナリオ初稿の執筆を依頼。
- まず、城勤めの下級武士の平凡な一日がストーリーの根幹になる物語「侍の一日」を検討したが、橋本が武士の日常の詳細を調べるために国立国会図書館支部上野図書館に通っていたが「当時の武士の昼食は、弁当持参だったのか、給食が出たのか」「当時は1日2食であり、昼食を摂る習慣はなかったのではないか」等の疑問が解決できなかったため「物語のリアリティが保てない」という理由で断念。
- 次に上泉信綱などの剣豪伝をオムニバスで描く作品を考え、橋本が脚本初稿を執筆したが「クライマックスの連続では映画にならない」とこれも断念。本作の誕生までに二度の流産を経ていたことになる。本で描かれた剣豪たちのキャラクターは、この作品の七人の侍達の設定に生かされることになる。
- その後、戦国時代の浪人は武者修行の折りにどうやって食べていけるのかを調べていったところ、農民達に飯と宿を与えてもらう代わりに寝ずの番をして「ヤカラ」から村を守るという話が出てきたため、「武士を雇う農民」をストーリーの根幹に据えることとなった。そしてこれを基に1952年12月、小国英雄を加えた3人は熱海の旅館「水口園」に投宿して共同執筆に入った。
- 当初は志村喬扮するリーダーの勘兵衛と、三船敏郎扮する最強の侍、久蔵の生きざまを勝四郎の視点で悲恋を交えて描いた黒澤得意の師弟物語という構想であったが、三船の演じるキャラクターの変更に伴い、物語の主眼も変わり、二人の師匠から、二人の弟子の生き死にという構造になる。「菊千代」が追加される以前には、三船の久蔵が最後に登場、仲間入りし、討ち死にするという構成になっていた。
- 3人は45日間「水口園」に閉じこもって脚本を書いていたのだが、その緊迫感はお茶を運びに来た女中も怖くて声なんかかけられないほどであった。七人の侍のキャラクターのイメージは大学ノート数冊にびっしりと書かれていたという。主に黒澤と橋本が同じシーンを競作(コンペ)したものを小國がジャッジし、出来の良かった方が採用されるという、極めてシビアな執筆活動であった。
- 黒澤は、この映画を何十回も見たという井上ひさしとの対談で、どうやったらこのような絶妙なシナリオが書けるのか問われると、この脚本の根底にあるのはトルストイの『戦争と平和』である。その中からいろいろなことを学んでいる。また、アレクサンドル・ファジェーエフの『壊滅』も下敷きになっていると答えた。
- 三船敏郎が演じた「菊千代」は、当初膳兵衛という名前で、戦国が生んだ鬼という久蔵に似た暗いキャラクターとして描かれていた。しかし黒澤が侍の中に型破りで明るく、また侍と百姓のバイパスとなるキャラクターが欲しいという要望で、三船の性格をモデルに菊千代へとキャラクターが変更される。 その三船は脚本に軽く目を通した際、黒澤に向かって「この菊千代というのが僕ですね」と配役も告げていない段階で言い当てたという。コメディ・リリーフ的役柄ながら、実は(頭目も含め)七人の中で最も多く野武士を倒した最強の「武士」でもあって黒澤の三船に対する配慮が窺える。ちなみに黒澤が「用心棒」「椿三十郎」に先駆け、三船に演じさせた最初の名無しの権兵衛となった。
前半部と後半部の間に5分間の休憩があるインターミッションの上映形式。前半部では主に侍集めと戦の準備が、後半部では野武士との本格的な決戦が描かれるが「侍集め」「戦闘の準備(侍と百姓の交流)」「野武士との戦い」が時間的にほぼ均等で、構成的には三部に分かれるという見方もできる。
- 黒澤監督はドボルザークの『新世界交響曲』が好きで、本作のために黒澤にスカウトされた俳優の土屋嘉男に「助監督の頃からこれをずーっと聴いていてね、今に監督になったらこんな感じの映画を撮りたいと思い続けていたんだよ。そしてそれが実現しつつあるんだよ」と語り、『七人の侍』の原動力は『新世界交響曲』だとしている。黒澤監督は常に音楽を先行させて、イメージを膨らませ、作品作りを行っていた。
- 黒澤が初めてマルチカム方式(複数のカメラで同時に撮影する方式)を採用した作品で望遠レンズを多用。ダイナミックな編集を駆使して迫力あるアクションシーンを生み出し、こうした技術面だけでなくシナリオ、綿密な時代考証などによってアクション映画・時代劇におけるリアリズムを確立した。またクライマックスの雨中の合戦では、黒澤は雨をより激しく見せるため、「羅生門」に引き続いて雨の中に墨汁を混ぜ撮影を行っている。
- 日本画壇の長老前田青邨を美術監修に迎えた(青邨はクレジットされていない)。青邨は「(歌舞伎の影響の強い)従来の時代劇の鬘はおかしい。虎屋の羊かん見たいな髷がのっかっているのは言語両断、もっと剃り込んでいて低いはず」と、鬘の形を指摘し、鬘は従来のものよりも月代を耳の近くまで剃り込み、側面の髪を低くしたものを採用した。また、青邨の弟子である江崎孝坪も衣装考証として参加。鎧兜や三船敏郎が着用した武具は甲冑師の明珍宗恭が製作指導に当たった。
- 小国英雄によると、黒澤は「一人の人間が何十人もの相手を斬るって言うのは嘘だ」と語っており、「何十本もの刀を用意して刀を替えながら戦った」という剣の名人の足利義輝に倣って、菊千代に刀を地面に立てさせ、何人か斬る毎に刀を替える場面を挿入している。小国は「そういうふうなことを、彼(黒澤)はやたらに一生懸命勉強したわけですよ。立ち回りでもなんでもね。その努力のたまものですよ、あの場面の張りつめた面白さは」と語っている。衣装やこうした立ち回りすべてが、黒澤のリアル志向の表れだった。
- 会社側は8月いっぱいで撮影と編集を終了させ、秋に公開するという勘定だったが、撮影は8月が過ぎても一向に終わる気配がなく、秋になると「一体いつ終わるのか」と賭けをする者もあらわれ、黒澤自身までその賭けの仲間に入った。そうこうするうちに年越しの気配となり、撮影所所長が余りの予算と日数のオーバーの責任をとって、辞表を出す騒ぎとなった。こうしてついに東宝本社は撮影中止命令を出し、「撮影済みのフィルムを編集して完成させる」と決定。重役らを集めて試写を行った。
- 試写フィルムは、野武士が山の斜面を駆け下り、菊千代(三船敏郎)が「ウワー、来やがった、来やがった!」と屋根で飛び上がり、利吉の家に旗がひらめいたところで終わり、ここから合戦という場面でフィルムがストップする。がっくりきた重役達は「存分にお撮り下さい」と黒澤に伝え、撮影所所長は復帰。黒澤は「最初からこうなることを予測して、最も肝心な最後の大決戦の所を後回しにして撮らなかったんだよ」と土屋に語っている。撮影再開が決まり、黒澤家ではスタッフキャストを集めて乱痴気騒ぎの大宴会が開かれた。
- この試写の現場では、重役から「これの続きは」と詰め寄られ、黒澤は「ここから先はひとコマも撮っていません」と告白(これはハッタリではなく本当に撮っていなかった)、そのまま予算会議となり、追加予算を付けてもらったともいわれている。
- 映画では9月ごろという設定(米との二毛作の麦は収穫が初夏であり、終わりの場面で田植えをしている、揚げ雲雀が鳴いているなどのことから季節は初夏という見方もある)であるが、撮影は2月の極寒の積雪の中で行われ、三船や加東大介をはじめ肌着一枚やほぼ裸の役者にとってはとてもきついものであった。実は「雨の決戦」というシチュエーションも、積雪がある2月の撮影ゆえに誕生したものだった。オープンセットに積もった雪を溶かすために消防ポンプ数台でぐちゃぐちゃにし、さらに大量の水をポンプで撒いたため、現場全体が泥濘と化し、これを逆に利用したのである。
- 当時のハリウッドにおけるアクション娯楽映画といえば西部劇がまだ幅を利かせている頃で、対決シーンというと炎天下の砂塵が吹く中での対決が主流となっており(そもそも降雨が少ない)、豪雨の中での合戦シーンというそれまでになかった手法に、ハリウッドだけでなく世界中の映画関係者、映画ファンを驚かせた。黒澤監督はこの雨のシーンについて、「アメリカの西部劇では常に晴れている、だからこそ雨にしようと思いついた」と語っている。
- 監督はじめ全員が凍りつく雨の中で何日も頑張ったが、誰一人風邪をひかなかった。土屋嘉男は「今思えば、あの時のオープンセットは、泥と共に、一同のアドレナリンが飛び交っていたように思える。一日の撮影が終わるごとに、皆一様に、『戦い終わり日が暮れて・・・』を実感した」と振り返っている。皆撮影が終わると、撮影所で風呂に入り、家でまた風呂に入ったが、泥がなかなか落ちなかった。三船敏郎は「尻についた泥がどうしても落ちない」と毎朝顔を合わせる度に吠えていたという。完成から15年ほどのちに、土屋ら一同が顔を合わせたが、全員が「あんな撮影はもう二度とできない。体力の限界!」との言葉が期せずして口から出たという。
当時の通常作品の7倍ほどに匹敵する製作費をかけ、何千人ものスタッフ・キャストを動員、1年余りの撮影期間がかかったが、興行的には成功し、700万人の観客動員を記録した。
- 黒澤が尊敬するジョン・フォードの西部劇映画から影響を受け、この作品自体も世界の映画人・映画作品に多大な影響を与えた。
- フランシス・フォード・コッポラは「影響を受けた映画」と言い、ジョージ・ルーカスは「『スター・ウォーズ』シリーズはSFという舞台で黒澤のサムライ劇を再現したかった」と述べている。
- 幼少期に黒澤作品に触れて多大な影響を受けたというスティーヴン・スピルバーグは、映画の撮影前や製作に行き詰まったときに、もの作りの原点に立ち戻るために必ずこの映画を見ると発言している。
- 黒澤の最初の訪ソ時には歓迎昼食会で『惑星ソラリス』撮影中のアンドレイ・タルコフスキーと会い、レストランで黒澤と乾杯したタルコフスキーは酒に酔って音楽を流しているスピーカーを切り「七人の侍」のテーマを大声で歌い出したと黒澤は述懐している。「惑星ソラリス」における近未来の都市を模した東京の高速道路の景色は、空港から黒澤宅への道のりをそのまま撮影したものであると言われる。タルコフスキーの前作『アンドレイ・ルブリョフ』におけるタタール来寇の場面では、『七人の侍』のシーンをそのまま借用した箇所も見られる。多くのタルコフスキー作品では、潜在的テーマとして、映画人生における父親的存在としての「黒澤明」という人物がモチーフとして織り込まれている。
1960年にはアメリカで『荒野の七人』としてリメイクされている。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。
- この作品に登場する「(武家が主人だか奴隷だか分からなくなる)小狡くて逞しい庶民像」は「どん底(1947年)」に登場する「木賃宿で暮らす最底辺の人々」を経て「用心棒(1961年)」における「宿場の抗争に巻き込まれる庶民」、「赤ひげ(1965年)」における「小石川養生所に通う江戸庶民」へと継承されていったとも。
- その一方でこの作品は、黒澤明が戦後初めて「武家=侍」なる存在に正面から取り組んだ第1作ともなった。こちらの路線は「不忠」が描かれる「蜘蛛の巣城(1957年)」、「忠義」が描かれる「隠し砦の三悪人(1958年)」、「浪人」が描かれる「用心棒(1961年)」「椿三十郎(1962年)」を経て、やはり「赤ひげ(1965年)」に到達。
- どの作品も科学的環境説に基づく再解釈がなされている点が興味深い。背景にあるのは綿密な時代考証に基づく各時代の人間のあり方の忠実な再現。「焼け跡」世代の無頼派作家の多くは「焼け跡時代」が終わるまでに死ぬか、断筆を余儀なくされてしまったが、黒澤明は「自分が生きた時代の終焉」をそういう形で乗り切ったともいえる。ただし黒澤明のそれはあくまで環境因決定論的ではなく「(たとえ振り切れないにせよ)正義は悪を認めてはならない」なる強い倫理的使命感と表裏一体の関係にあった。ただしそのストレートな形での実践は極めて難しいと見せつけもする。
①「七人の侍(1954年)」において庶民は落ち武者を狩り、自らに襲いかかる野武士を撃退する為に臨時で浪人を雇う。
②「どん底(1957年)」の庶民は「武家(同心=警察)」との関わりを極力避けようとし、実際その登場(殺人事件発生)がそれまでのコミュニティに致命的破綻をもたらす。
③「隠し砦の三悪人(1958年)」では忠義を貫く為に喜んで死んでいく家臣団、「椿三十郎(1962年)」では(改易やお取り潰しを伴う幕府介入を恐れ)穏便に事を運ぼうとする国家老と、これを手緩いと考えて暴走し藩を存続の危機に曝す急進派の若者達の対立が描かれる。
④「用心棒(1961年)」「椿三十郎(1962年)」で八面六臂の活躍を見せる体制外の素浪人は「七人の侍(1954年)」の雇われ侍同様、「仕事」が終われば立ち去るのみ。
こうした「人間の分断状態」が生むジレンマもまた、やっと「体制内の反体制派」にして「善も悪も知り尽くした大悪党」に庶民も渋々従う「赤ひげ(1965年)」において一応の解決をみたとも。それは黒澤明当人にとっては(綿密な歴史考証によって次々と新たな世界観を掘り起こす)科学的環境説や「(たとえ振り切れないにせよ)正義は悪を認めてはならない」なる倫理的使命感からの完全解放をも意味していたかもしれない。
*そして翌年には「この国には(たとえ振り切れないにせよ決っして悪を認めない正義に対応する)教会の神は決っして根付かぬ」と断言する遠藤周作「沈黙(1966年)」が発表されるのである。
1954年3月1日 ビキニ環礁で最初の水爆実験(キャッスル作戦ブラボー実験)
これを契機として世界映史に名を残す本多猪四郎監督作品「ゴジラ(1954年)」が制作される展開となる。
春日太一「仁義なき日本沈没―東宝VS.東映の戦後サバイバル」
1954年には超大作「七人の侍」「ゴジラ」「宮本武蔵」の全てが年間配収ベスト10にランクインする大ヒットとなった。それをキッカケに東宝は「量より一本ごとの質で競争しよう」という大作重点主義に戦略の軸足を置くようになる。小林一三の〈百館主義〉戦略により東宝は大都市に豪華な大劇場を次々と建設しており、そこでかけるにふさわしい堂々たる映画を製作するという狙いもあった。時代劇の量産により地方に配給網を拡大して映画界の覇者に君臨することになった東映に対し、都市型の興行を鮮明にすることで対抗しようという戦略もそこには見え隠れする。
しかし明らかに東映の正反対を行くような黒澤明監督の「蜘蛛巣城(1957年)」や「どん底(1957年)」といった文芸路線、稲垣浩監督の「日本誕生(1959年)」といった神話路線はいずれも興行的には成功とは言い難く、東映時代劇の牙城は揺るぎなかった。
そこで東宝は1961年、小・中作品の製作を中止し「優秀大作・大宣伝・高料金・長期興行」という基本方針に則って、大作重点主義をさらに加速させる。1月に「名もなく貧しく美しく」、夏休みに「モスラ」、10月に「世界大戦争」、11月のシルバーウィークに「小早川家の秋」と、興行の重点週間に重量級の映画を次々とラインナップ。そして「大作主義」戦略の中核に据えられたのが、ゴールデンウィークに公開になる黒澤明監督の『用心棒』だったのである。
黒澤明監督作品「生きものの記録(I live in Fear. 1955年)」
東宝製作・配給。米ソの核軍備競争やビキニ環礁での第五福竜丸被爆事件などで加熱した反核世相に触発されて、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた社会派ドラマ。当時35歳の三船が70歳の老人を演じたことが話題となった。また、作曲家・早坂文雄の最後の映画音楽作となった。
- 黒澤の盟友である早坂文雄がビキニ環礁での水爆実験のニュースを見て、「こんな時代では、安心して仕事ができない」ともらし、これがきっかけで本作の製作が行われた。しかし、早坂は、本作の撮影中に結核で亡くなったため、名コンビだった黒澤と早坂が組んだ最後の作品となった。黒澤は、早坂の死にひどく悲しみ、撮影が1週間中断された。早坂は、タイトルバックなどのデッサンを残しており、弟子の佐藤勝がその遺志を継いで全体の音楽を完成させた。
- 主人公の中島喜一役には、初め志村喬を予定していたが、生活力が旺盛で動物的生命力の強い男というイメージから三船敏郎に決まり、彼が70歳の老人を演じた。志村は代わりに家庭裁判所参事の原田役でもう一人の主人公を演じたが、加齢のため本作を最後に主役級を退き、以後の黒澤作品では脇役及び悪役に転じていくこととなる。
この映画のみどころは、三船敏郎演ずる老人が日本の状況に危機感を持ち行動を起こすが、日常の生活を優先する家族に締め上げられ次第に狂っていく綿密な描写にある。「あらかじめ分かっている問題にどうして対処しようとしないのか」というのがテーマとなっている。
- 映画監督の大島渚は鉄棒で頭を殴られたような衝撃を受けたとしており、徳川夢声は、黒澤に対して「この映画を撮ったんだから、君はもういつ死んでもいいよ」と激賞したという。また映画評論家の佐藤忠男は「黒澤作品の中でも問題作」と述べている。
- 鈴木敏夫は東日本大震災後に本作品を改めて見た解釈として「以前にくらべて「受け取る印象がこうも違うのか」と思いましたし、すごくリアリティがあった。黒澤っていう人は面白いなと、つくづく思いましたね。」「今観ると言いたいこともはっきりしているからすごくリアリティがあって。多くの人に、今観てほしい作品」「黒澤監督は、関東大震災を目の当たりにしているそうなんですね。たくさんの瓦礫と人の死が自分の記憶の底に残った、と著書に書いていて、そういう意味でも戦争や核の問題に対して敏感だったんでしょう。昔観たときは、『生きものの記録』はむしろ「喜劇映画かよ」っていう印象でしたが、震災を経ることによって、黒澤監督が作品に込めた考えが、やっと伝わってきたような気がしています。」と述べている。
脚本家の橋本忍の回想によると『生きる』『七人の侍』の大ヒットに続いた作品にもかかわらず、記録的な不入りで興行失敗に終わった。その原因を、脚本作りのミスと、原爆という扱いづらいテーマを取り扱ってしまったことによる、と分析している。
『生きものの記録』の興行の失敗は想像を絶するひどさで、こんな不入りは自分の過去の作品にも例がなく、私にはその現象が信じられなかった。『七人の侍』では日本映画開闢以来の大当たり、それに続く黒澤作品であり、ポスターも黒澤さん自身が斬新でユニークな絵を描き、宣伝も行き届いていた。にもかかわらず、封切りには頭から客が全く来ない。観客はある程度詰め掛けたが、作品が面白くないとか、中身が難し過ぎるとかで減ったのなら分かる。だが頭から客の姿は劇場にはなく、全くの閑古鳥なのだ。まるで底無し沼に滅入り込むような空恐ろしい不入りである。と同時に、映画の観客の本能的な叡智の鋭さに、私は慄然として身震いした。
原爆に被爆した人は気の毒で、こんなにも悲しいという映画なら、作り方次第で当たる可能性もなくはない。だが原爆の恐怖に取り憑かれた男の生涯──人類が保有する最も不条理なもの、その原爆にはいかに対処し、いかに考え、いかに解決をすべきかなどの哲学が、映画を作るお前らにあるはずがないと、観客は頭から作品の正体を見抜き、徹底した白眼視の拒絶反応で一瞥すらしないのだ。
もし誰かライターが先行し第一稿を上げていれば、黒澤さんは一読でこの作品の製作の無意味と徒労を直感したと思う。
原爆の恐怖──それを被爆の惨状なしに描こうとすれば、肝心の恐ろしさを伝える映像がないのだから、台詞とか行動で恐怖を説明するしかなく、展開するドラマはすべて説明でしかあり得ない。
しかし、説明しなきゃ分からないものは、映画で説明しても分からないとするのが黒澤さんの映画信条であり、このままでは理解できないことを一方的に観客へ押しつけることにしかならないのだから、脚本作りの段階で黒澤さんは何の躊いもなく『生きものの記録』を打ち切ったはずである。
「生きものの記録(I live in Fear. 1955年)」家庭裁判所の場面
とよ(中島喜一(三船敏郎)の妻)「ねぇ帰ろうよ。返ってみんなで…」
親族一同「そん事出来るくらいなら」「おい、俺達は恥さらしにここへ来たのか?」「一郎さん、しっかりしてくださいよ。これじゃまるで…あんた長男なんでしょ?」「そうですよ。これじゃみんなに失礼すぎますよ」
中島一郎(佐田豊)「まったくその、ご迷惑を」
弁護士の堀(小川虎之助)「いやいや、それが我々の商売でしてね。つまりこの家庭裁判所というやつは迷惑を担ぎ込んでもらう為につくったもんでしてね。だから犬も食わんという夫婦喧嘩だってよろこんでやりますよ。ええ、夫婦喧嘩ばかりじゃない。親子喧嘩、兄弟喧嘩…まぁそれがあっての人生ですよ、ねぇ。ポカポカとやって済めばいいが、そうもいかん事は、こりゃもう第三者って奴にいってみるに限りますね。腹ん中ぶちまけちまえば、人間お互いそうこじれるもんじゃありません」
*明らかに「虎の尾を踏む男達」で強力役を演じたエノケンの台詞「将軍様ともなりゃ、兄弟喧嘩も大捕物だ。そもそも兄弟喧嘩なんてものは、一つ二つポカポカと殴り合いゃ片が付く無邪気なもんの筈でさぁ」を受けた台詞で「御家騒動一つ予防出来なくて何が民主主義か?」みたいな暗喩が込められている。
- 「限度を知らない」中島喜一(三船敏郎)の態度はまさに「内側に込み上げてくる衝動に身を委ねる事で善悪の彼岸を乗り越えようとする」ロマン主義的英雄そのもの。その生き様は「俺はこれまで悪念に悩まされると、その悪念に命ぜられるままにしてきた男だ。それが一番苦しまない方法だと信じてきた」と豪語する「羅生門」の多襄丸(三船敏郎)であり、「どん底」の捨吉、その原型たる「どん底」原作の泥棒ペーペルの姿とも重なる。
- もしかしたら作中における中島喜一(三船敏郎)の台詞「死ぬのはやもうえない、だが殺されるのは嫌だ」は、この作品が生まれた発端であり、かつその制作中に亡くなった「黒澤の盟友」作曲家の早坂文雄の言葉だったのかもしれない。黒澤明がそうであった様に、この人物もまた間違いなく一人のロマン主義者だったのである。
1095夜『黒澤明と早坂文雄』西村雄一郎|松岡正剛の千夜千冊
- とはいえただのロマン主義的英雄というのは(「野良犬」の遊佐(木村功)や「天国と地獄」の竹内銀次郎(山崎力)の様な凶悪犯、さらには「新世紀エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」における碇ゲンドウの如く)あくまで自らの全ての欲望を強迫神経症的に満たそうとする「自分と神の直接関係しか考えない」エゴイストであり、少しくらいその立場から脱却したくらいでは(「羅生門」の多襄丸や「どん底」の捨吉/ペーペルの如く)現実への片思いに敗れて破滅していくだけの存在。この限界を乗り越えたのが、究極的には「理想の靴を作り続けたい」という願望しか持ってない「天国と地獄」の権藤金吾(三船敏郎)、究極的には「少しでも多く人命を救いたい」という願望しか持ってない「赤ひげ」の赤ひげ先生(三船敏郎)という事になるのだと思う。だからその生き方には相応の柔軟性があるが、まさにその柔軟性ゆえに人から「大悪党」の謗りを受ける事もあるという次第。
馬鹿に道あり 利口に道なし(黒澤明)
— ぎるど (@guildog_inc) 2017年1月12日自分が本当に好きなものを見つけて下さい。見つかったらその大切なもののために努力しなさい。君たちは努力したい何かを持っているはずだ。きっとそれは君たちの心のこもった立派な仕事になる。#黒澤明(映画監督)
— 世界を味方にする成功哲学 (@carsons_mommy) 2017年1月18日 - こうした「伝説の人々(Legends)」に対し、この作品に登場する「庶民」が向ける態度は主に3種類。
◎歯科医にして家庭裁判所の調停委員たる原田(志村喬)、判事の荒木(三津田健)、弁護士の堀(小川虎之助)、精神科医(中村伸郎)の様にただ途方にくれる、あるいは事務的に受け流す。
◎「最初から守るべきものがない人間には無関係な話」と突き放す。
◎親族や鉄工所の工員の様に自分の都合だけ述べ、考えたり決めたりするのは相手任せにする。
- 実は黒澤明監督作品中では最も「ロマン主義とは何か」について正面から向き合った作品かもしれない。だが「周囲の人間を愛し過ぎて発狂に追い込まれていくロマン主義者」なんて題材は(作中の「庶民」の反応が暗喩している様に)一般受けなど到底望めない。そう、まさにオペラや能楽の様な体裁にでもコーティングしない限り。もしかしたら、そういう着想から始まったのが「蜘蛛の巣城」だったのかもしれない。
*逆を言えば「伝説の人々(Ledgends)」に分類される様なタイプのキャラクターでもない限りオペラでアリアを歌ったり、能楽でシテを舞って観客を感動させる事は出来ないとも。
ところで以降しばらくの作品の脚本は「生きものの記録」の記録的惨敗後、まとめて執筆されたらしい。
今井浜の舞子園では四本の映画脚本が完成した。
脚本執筆の順序と、映画公開の時期は必ずしも一致せず、製作の都合で前後する場合もある。なお「悪い奴ほど」は、書き手の人数が増えたため、途中から河津浜の旅館に移転した。
そして1957年。松本清張の「顔」「点と線」がベストセラーとなって「社会派ミステリーの時代が始まります。
黒澤明作品「蜘蛛巣城(Throne of Blood、1957年)」
東宝製作・配給。シェイクスピアの四大悲劇の一つとして知られる戯曲「マクベス」の舞台を日本の戦国時代に置き換えた作品。ラストに主演の三船敏郎が無数の矢を浴びるシーンで知られる。マクベスにあたるのは戦国時代の武将鷲津武時(三船敏郎)、バンクォーが彼の同僚三木義明(千秋実)、マクベス夫人が武時の妻浅茅(山田五十鈴)、そしてマクベスに予言した三人の魔女たちは、この映画では物の怪の妖婆(浪花千栄子)に該当。
- 作品の構成、人物の表情・動き、撮影技法には能の様式美を取り入れている。黒澤は撮入前に、役作りの参考として鷲津武時役の三船敏郎に能面の「平太(へいだ)」を見せ、浅芽役の山田五十鈴には「曲見(しゃくみ)」を見せた。三船は謀反の際、山田は発狂の場面でそれぞれ「平太」と「曲見」の表情をしている。撮影も能の形式を生かし、フルショットを多用して全身の動作で感情を表現した。浅茅の表情もまるで能面の様で、すり足で歩いたり、ゆったりと腰を落したり、かというといきなり急角度で首を動かしたりと、能の仕草を意識的に取り入れている。「全編を通じて能の形式を生かすために、うんと劇的に盛り上がるところでも、役者のアップの表情をあまり見せないようにして、なるべくロングのフル・ショットで見せるようにしたわけだ。だいたい能は全身の動作でもって感情を表すものなんだからね(キネマ旬報昭和38年四月増刊号、佐藤忠男「黒沢明の世界」)」
- 巻頭の霧の中から城の現れるシーンは、ハリウッド映画「未知との遭遇(1978年)」で、第二次大戦中行方不明となった海軍機が砂嵐の中から姿を現すシーンや、宮崎駿の「ハウルの動く城」冒頭の、霧の中から現れる「動く城」など、多くの映画のオープニングシーンに影響を与えたといわれる。以降も鷲津と三木が森の中で堂々巡りをするシーン、森が動きながら城に近づいてくるシーン、そして最後のシーンなど節目節目で霧を使った神秘的な演出が添えられ、独特のリズム感が刻まれる音に。
- 製作日数・製作費共に破格のスケールで作られた。物語の舞台である蜘蛛巣城のセットは、富士山の2合目・太郎坊の火山灰地に建設されている。足場の悪い火山灰地での建設のため、近くに駐屯していた進駐軍にも手伝ってもらい、ブルドーザーで火山灰を掘って土台を建てた。このセットは、晴れた日には麓の御殿場市の街から見えたほどの巨大なものになったという。
- 門の内側は砧の東宝撮影所近くの農場にオープンセットを組み、室内も東京のスタジオで撮影されている。俳優の土屋嘉男や千秋実らは撮影期間中、太郎坊のロケ現場と麓の旅館を、三船敏郎の自家用車のジープに乗せてもらって往復していた。全員、扮装も衣装も劇中の武者姿のままだったという。
- 三船演ずる武時が次々と矢を射かけられるラストシーンは、編集によるトリックではなく、学生弓道部の部員が実際に三船や三船の周囲めがけて矢を射た(ただし、筒状の矢にワイヤーを通し、着点に誘導したもの。また遠距離からではなく、カメラフレームすぐ横からの射的)。撮影が終了した後、三船は黒澤に「俺を殺す気か!?」と怒鳴ったとのことである。その後も、自宅で酒を飲んでいるとそのシーンのことを思い出し、あまりにも危険な撮影をさせた黒澤に、だんだんと腹が立ってきたようで、酒に酔った勢いで散弾銃を持って黒澤の自宅に押しかけ、自宅前で「こら〜!出て来い!」と叫んだという。石坂浩二の話によると、このエピソードは東宝で伝説として語り継がれている。また、このシーンに関して、橋本忍によると、弓を射るのが師範クラスではなく学生だったので、三船は本気で恐怖を感じていたという。そのため、撮影の前日は眠ることも出来ないほどだった。それもあって、三船の酒の量が超えたときに、刀を持って黒澤が泊まる旅館の周りを、「黒澤さんのバカ」と怒鳴りながら回ったという。黒澤自身は三船を怖がって部屋に籠っていたと語っている。そんな三船は頻繁に「黒澤の野郎、あいつバズーカ砲でぶっ殺してやる!」ともらしていたという。
ヴェネチア映画祭に再びノミネートされるも、インドの名監督サタジット・レイの『大地のうた』に敗れている。
この作品については、ソ連エイゼンシュテイン監督作品「イワン雷帝(第1作1944年、第2作1946年)」との類似性を指摘する向きがあります。どちらも「後ろ暗い行為に手を染める権力者の苦悩を日本芸能的様式美で表す」アプローチなのは確か。
- 「生きものの記録(1955年)」の失敗を受けて「羅生門(1950年)」の芸術路線に立ち返った作品。大映芸術映画の受賞が続いていたのも判断材料となったかもしれない。
*「羅生門(1950年)」「生きる(1952年)」「七人の侍(1954年)」で共同脚本を手掛けた橋本忍は「なまじ七人の侍で映画職人としての頂点を極めてしまったが故に、閉塞感打破の為に芸術家へのジョブチェンジを志向したのかもしれない」と指摘する。あと当時外国人監督から「オムニバス形式の短編ホラー映画集への参画」をオファーされていた事とも無関係ではないとも。 - 「霧と闇が人を動かしてるんじゃないか」と思わせるくらい環境因要素が強いが、それでもなお「それで疑心暗鬼になって愚行に走るのはあくまで人間」というスタンスに立つ。シェークスピア原作のマクベスは「神と自分の関係しか考えない究極のエゴイスト」たる傲岸なロマン主義者として描かれる事が多いが、「蜘蛛の巣城」の鷲津武時(三船敏郎)は「伝説の人々(Legends)」というよりむしろ「庶民」に分類されるタイプ。この物語ではむしろ妻の浅茅(山田五十鈴)こそが「本物」であり、だから能楽的動作が実に似合っているとも。
- そして「蜘蛛の巣城(1957年)」において「苦悩する佞臣」鷲津武時を演じた三船敏郎は、「隠し砦の三悪人(1958年)」においては一転して忠義心の権化みたいな「迷いを知らぬ」秋月家の侍大将・真壁六郎太へと変貌を遂げる。まぁ大元が武蔵坊弁慶だから仕方ない?
東宝製作・配給。マクシム・ゴーリキーの同名戯曲「どん底」を翻案し、舞台を日本の江戸時代に置き換えて貧しい長屋に住むさまざまな人間の人生模様を描いた時代劇。黒澤映画の中では、三船敏郎が出演しながら志村喬が出演していない唯一の作品。
- ゴーリキーの『どん底』の映画化は黒澤明の長年の夢だった。原作が人生のどん底に生きる人たちをジメジメと描いているのに対し、舞台を原作の帝政ロシアの貧民窟から江戸の場末の棟割長屋に移し、庶民生活の落語的な明るさや笑いを盛り込んでいる。リハーサル中の1日、黒澤は人気落語家をスタジオに招き、古今亭志ん生に「粗忽長屋」を、古今亭今輔に「馬鹿囃子」を演じさせて、江戸庶民の生活感を俳優たちに学ばせている。
- 黒澤は本作の成否をキャスティングにあると考え「よほどうまい役者を全員揃えて、演出もそれを信頼してやろう」と語っている。そのため、出演者は三船敏郎、山田五十鈴、中村鴈治郎を始め、千秋実、藤原釜足、左卜全、渡辺篤など、黒澤組の常連俳優を中心に豪華な俳優陣で固めた。
作品は特定の主人公が存在せず、三船も長屋の住人の1人として登場する。その代わり、原作では巡礼者ルカに相当する役を左卜全がその特徴的なキャラクターを以て演じており、こちらが主役級といえる。
- 江戸の場末、崖に囲まれた陽の当たらない所に、傾きかけた棟割長屋がある。長屋には人生のどん底にいる人間たちが暮らしている。遊び人の喜三郎(三井弘次)、殿様と呼ばれる御家人の成れの果て(千秋実)、桶屋の辰(田中春男)、飴売りのお滝(清川虹子)、アル中の役者(藤原釜足)、年中叱言を言っている鋳掛屋の留吉(東野英治郎)、寝たきりのその女房(三好栄子)、夢想にふける夜鷹のおせん(根岸明美)、喧嘩っ早い泥棒の捨吉(三船敏郎)が住んでいた。この人たちは外見の惨めさに反して、自堕落で楽天的な雰囲気があった。
- ある日、お遍路の嘉平(左卜全)が舞い込んでくる。寝たきりの留吉の女房に来世の安らぎを説き、役者にはアル中を治す寺を教え、慈悲深いが暗い過去を持つ嘉平の言動に長屋の雰囲気も変わっていく。
- 一方、捨吉は大家の女房・お杉と妹のかよと関係を結んでいたが、かよにぞっこんだった捨吉は、嘉平からここから逃げるように勧められるも、なかなか決心できずにいた。そんな捨吉の心変わりを知ったお杉は、かよを折檻、それで長屋の住民が駆け付けて騒動となる。逆上した捨吉は大家の六兵衛突き飛ばし、誤って殺してしまう。それを見たかよは、姉と捨吉が共謀して六兵衛を殺したと叫び、捨吉とお杉はお縄となる。その騒ぎの中で嘉平は姿を消す。
- 長屋はいつものように酒と博奕に明け暮れ、駕籠かきを加えて馬鹿囃子になる。そこへ殿さまが駈け込んでくる。役者が首を吊って死んだという。喜三郎は「せっかくの踊りをぶち壊しやがって」と吐き捨てる。
黒澤作品にしては珍しく、短期間・低予算で作られた作品。脚本は2週間で書き上げ、40日間に及ぶ入念なリハーサルを経て、3ヶ月の撮影期間で作品を撮り上げている。撮影はマルチ・カム方式で行い、3・4台のカメラで10分近いシーンを一気に長回しで撮り上げた。パンフォーカス撮影のため照明は普通の3倍の明るさだった。セットは、オープンセットと棟割長屋の室内セットを1つずつ作っている。
黒澤明監督としてはずっと撮りたい作品だったかもしれませんが、実はこの作品について1950年代中旬の演劇界でちょっとした議論が巻き起こっていたりします。
岸田國士「どん底」の演出(「芸術新潮 第五巻第四号」昭和29年(1954年)4月1日発行)
私の腑に落ちない点は、日本の「どん底」は、なぜこんなにじめじめしてゐて暗く、やりきれないほど「長い」か、といふことであつた。ロシアの芝居は、いつたいに長い。しかし、「どん底」は、こんなに暗い芝居だらうか? どこかに、移植の途中で変質する理由があるのではないか? と私は、それ以来、ロシア劇ことに「どん底」の「明るさ」についていろいろ考へた。
ゴーリキイが、この作品のなかで、しばしば、時は「新春」だといふことを見物に想ひ出させようとしてゐるのは、それと関係はないだらうか? 象徴とはさういふものではないか。強ひてイデオロギーの有無に拘泥しなくても、戯曲「どん底」は、長い北欧の冬からの眼醒めを主題とする希望と歓喜の歌が、この、辛うじて人間である人々の胸の奥でかすかに響いてゐるやうな気がする。ゴーリキイは、「どん底」の人々の誰よりもスラヴ的「楽天家」なのである。
岸田國士『どん底』ノート「文芸 第十一巻第五号」昭和29年(1954年)5月1日発行
帝政ロシア時代のモスクワの貧民街。木賃宿。最下層階級を形づくるある意味で孤立した社会の生態。希望を失ひ生活にひしがれたといふ共通の性格をもつた人間群のぬきさしならない、ギリギリの表情と叫び、を、一定の空間と時間の中に圧縮した動くタブロオ。
- ワシリーサ(26歳)、激しい気性。妹を犠牲にして、夫を無きものにする。掠奪者、激しい性格、嫉妬、別の生活への憧れ。自由労働者の露骨な逞しさ。
*黒澤明版では大家六兵衛(中村鴈治郎)の女房お杉(山田五十鈴)に該当。- サーチン(イカサマ師。40代ぐらい)、孤独を守る。生活と闘ふ精神を挫かれてゐない? 現実正視。他人の夢を破壊する楽しみ。魔性。ある程度ゴーリキー自身の思想の表現者? 露悪的。メフィスト的。ゴーリキイ自身は「彼等のもつ現実の言葉とはいくらか違つた言葉で話す」と云つてゐる。
*黒澤明版では遊び人の喜三郎(三井弘次)に該当。- ルカー(巡礼。60歳くらい)、最大の悪人、最も有害な存在。人を油断させ、人を嘘で酔はせる。空ろな希望に身を任させる。これが、やさしさの正体。
*黒澤明版では遍路の嘉平(左卜全)に該当。- 男爵、人間としてゼロに近い。それを自分で承知してゐる。過去の夢を追ふ。
*黒澤明版では殿様/御前(千秋実)に該当。- クレーシチ(錠前屋、40歳)、もう一度起ちあがらうとする。女房が死ぬのを待つほど、愛情がゆがんでゐる。カンシャク持ち、短気、しかし、いくらかのほこり。仕事。
*黒澤明版では鋳掛屋の留吉(東野英治郎)に該当。- 役者(40代ぐらい)、酔つぱらひ。
*黒澤明版では役者(藤原釜足)に該当。- ペーペル(泥棒、28歳)、ナタアシャと新しい生活にはいる希望をもつ。
*黒澤明版では泥棒の捨吉(三船敏郎)に該当。「大家の女房」ワシリーサ(お杉)の情夫ながら、その妹に懸想している。「大家」とは悪党仲間。ドラマ的要素としては、ともかくも一つの事件を中心として、時が流れ、その時間の経過が人物一人一人の動きと心理とを引きずつて行くところにある。作者はこの作中人物の一人々々の中に自分をはめこみ、作中人物のすべてに通ずる窮乏との戦ひは、作者自身の体験であり、作者はこれらの人物をただながめてゐるのでなく、人物と一緒に生きている。
- 分類上は「芸術映画」に入る。映画の冒頭で、土手の上のほうに住んでいる子供達らしいのが「どうせ、掃き溜めだ」と言いながら、籠一杯のゴミを土手の上から長屋の屋根に投げ捨てる。ここにも科学的環境論の投影が見て取れる。
- 黒澤明版の特徴は「体制を呪う様な発言は排除した事」「(岸田國士の演出方針同様に)舞台を江戸下町に移して落語要素も入れ、とにかく全体を明るく仕立てた事」。
- 岸田國士から「最大の悪人、最も有害な存在」の烙印を押された「巡礼ルカー=遍路の嘉平(左卜全)」が善人とも悪人ともつかない立場を維持したまま主人公として振る舞う。1960年代に入ってから重要な比重を占める様になる「(三船敏郎演じる)大悪党」の源流とも。
*かつて実在した世間師の役回り? 直接ではないにせよ京極夏彦「巷説百物語シリーズ(1997年〜)」における「御行の又市」の先祖筋かもしれない。
黒澤作品の中でも特に娯楽性の強い作品であり、ワイド画面を活かした迫力ある映像と、ふんだんに登場するアクションシーンで、ダイナミックに描かれた娯楽大作となった。
- 作品の構想は、菊島隆三が甲府近くの城址から軍用に使われていた焼米が出てくる話を元にしており、そこから焼米が軍用金だったらどうなるかというアイデアが飛び出したという。
- 秋月の隠し砦の撮影は兵庫県西宮市の蓬莱峡で行われ、秋月城のセットは農場オープンと呼ばれた東宝撮影所の敷地内に建てられた。
- 1958年(昭和33年)5月に撮影が開始され、製作日数100日、製作費9000万円として、8月中の完成を予定していた。しかし、撮影後半では天候不良のため、富士山麓でのロケーション撮影は快晴を待ってロケ隊を3ヶ月も待機させた。それらの理由で撮影日数と予算が超過し、結果、撮影日数は200日かかり、製作費も1億5000万円にまで膨れ上がった。
- 封切り前夜には、製作担当の藤本真澄がこの責任を取って進退伺いを提出するという騒動が起きている。その後、東宝は一連の予算的なリスクを負担してもらうために黒澤側にプロダクションの設立を要求することになる。
ジョージ・ルーカス監督の「スター・ウォーズ(1977年)」のアイディアは、この映画を元に考えられたと監督自らが回想している。
- 「虎の尾を踏む男達」のセルフリメイクという側面もあるが、娯楽大作にしては「忠義の犠牲者」が多過ぎる気もする。それを雪姫の口を通じて語らせてもいて、単純にそれを肯定する立場でもない。
*ちなみにジョージ・ルーカス監督は「スターウォーズ(1977年)」への転写に際して「忠義」の要素こそ抜き取ったものの「フォース」というもっと神秘主義的要素を追加した。これが何に由来する概念かはよく分からないまま。迂闊にほじくると宗教めいてくるのでおそらくそのまま。
フォース (スター・ウォーズ) - Wikipedia
- 「羅生門(1950年)」「生きる(1952年)」「七人の侍(1954年)」で共同脚本を手掛けた橋本忍は、この作品の基本構造は黒澤明当人が1930年代に手掛けた山中峯太郎原作 映画「 敵中横断三百里(日露戦争中の建川挺身斥候隊)」がベースとなっているという。「次々と現れる苦難」の内容そのものは総差し替えになったそうだが「貴種流離譚性の希薄さ」「犠牲者の多さ」はこの辺りに由来するのかもしれない。
日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里 - Wikipedia
- 以外とこの作品が後の作品に与えた影響を見定めるのが難しい。「虎の尾を踏む男達」からの流れで考えると、一応形式上は「伝説の人々(Legends)と庶民の邂逅の在り方」とかそういう感じになってる?
脚本執筆時期から見ても「社会派ミステリーの影響」というより「焼け跡的ロマンティズム」の総決算というべき作品。
意外なのは「用心棒(1961年)」登場まで「ダシール・ハメット的ハードボイルド・タッチの侍」の影響が影も形も見られない事。日本アクション映画界全体が「2丁拳銃ヒーロー」を手放さざるを得なくない、次のタイプの英雄像の模索する一環として広まった動きに同調したとしか思えない側面も。
*「野良犬(1949年)」の脚本も手がけた菊島隆三の影響とも。
こうして当時を俯瞰してみると、1950年代は「三船敏郎演じるキャラクターの育成キャンペーンの一環」というよりむしろ「七つの顔を持つ三船敏郎」の時代だったとも。