諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【反歴史修正主義の大源流】【ハレンチ戦争】【デビルマン】【戦争と人間】保守主義的思考とスペクタル史劇

ハリウッドが1970年代に量産した大規模パニック映画。

その前史には1950年代から1960年代にかけて国策的に量産されたスペクタル史劇の存在がありました。両者をつないだ「顔」はこの人。

チャールトン・ヘストン(Charlton Heston, 1923年〜2008年)

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アメリカ合衆国イリノイ州エヴァンストン(Evanston)出身の俳優、社会運動家。身長191cm。妻は女優のリディア・クラーク、長男は映画監督のフレイザー・ヘストン(Fraser Heston)。

  • イリノイ州の中心部シカゴの北に隣接するエヴァンストンに生まれ、ノースウェスタン大学卒業後はアメリカ陸軍に入隊し、第二次世界大戦には爆撃機の搭乗員として参戦していた。

  • 退役後1950年に最初の映画に出演、『ミケランジェロの彫刻のように美しい』と称された肉体美と精悍なマスク、格調高い演技力でいくつもの名作に出演し、1959年には映画『ベン・ハー』でアカデミー主演男優賞を獲得した。ハリウッド黄金期後期を支え、日本人にも馴染み深い大作やSF映画の主演も務めた。

  • 1966年から1971年までは、俳優組合の会長をつとめた。

  • 演じる役柄、出演作が幅広かったことで知られ、とくに当たり役となった歴史劇『十戒(1956年)』『ベン・ハー(1959年)』『エル・シド(1961年)』『華麗なる激情(1965年)』等では歴史上の英雄を、『ハイジャック(Skyjacked、1972年)』『大地震(Earthquake、1974年)』等に代表されるパニック・アクションのタフガイな主人公をそれぞれ演じ分けた他、更には『猿の惑星(Planet of the Apes、1968年)』や『ソイレント・グリーン(Soylent Green、1973年)』などの娯楽作、異色作にも登場しイメージを一新した。1980年代以降は『ピラミッド』などのオカルト的作品の悪役で性格俳優の一面も見せ、90年代も個性的な名脇役として親しまれ晩年まで出演を続けた。

  • 『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(2001年)ではゼイウス(猿側の将軍セードの父)役でカメオ出演した。

  • 『MY FATHER』(2003年)ではアルツハイマーに苦しみながらも「死の天使」と恐れられたヨーゼフ・メンゲレを圧倒的な存在感で演じた。

社会運動家としても相応の実績を残す。
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私生活は大変堅実で、ハリウッドスターとしては大変珍しく離婚歴はなく、20歳の時に結婚したリディア夫人と自身が亡くなるまで64年間連れ添った。2008年4月5日夜半過ぎ、自宅にて夫人に看取られ84歳で死去。アメリカのメディアはトップニュースでヘストンの死去を報じた。

アメリカにおける「黄金の1950年代」のイメージは当時封切られたスペクタル史劇、すなわち主に聖書や古代ローマ時代の世界に題材を求めた大作群と深く結びつけられており、その起源はさらにセシル・B・デミルの「十誡(The Ten Commandments、1923年)」「キング・オブ・キングス(The King of Kings 、1927年)」「暴君ネロ(1932年)」「クレオパトラ(1934年)」といった大作路線にまで遡ります。

こうした動きはアメリカにおける保守主義の形成過程に大きな影響を与えたばかりか、その影響を共産主義圏や日本にまで伝えたという点で各国の歴史観を構成する重要要素の一つだったりするのでした。

 「セシル・B・デミルの大作路線」と双璧を為すもう一つの起源。それは20世紀前半に枢軸国が制作したプロパガンダ映画制作体制だったのです。

ナチスドイツが制作した国策的大作映画「法螺吹き男爵の冒険(1943年)」

プロパガンダとは輸送船団のようなものだ。全ての船が無事に物資を目的地に届けなくてはならないが、その為には船団の中で最も速度の遅い船にペースを合わせなければならない。一部だけが先走っても意味はなく最も低いレベルに基準を置かねばならない」を信条とするナチス宣伝省は政治的プロパガンダなど大衆が受容しない事を熟知しており、そうした映画の企画を次々と握り潰す一方でこのカラースペクタル大作映画を公開。華麗なハーレムの場面で観客を魅了する事に成功した。

ゲッベルスは、当時のドイツにおける権力者やインテリの大半と異なり、ドイツ民族の本質はビーダーマイヤー時代(Biedermeier、1815年〜1848年)に垣間見せた(余計な心配の一切を権力者に押し付ける無責任さと表裏一体の関係にある)享楽的性質と見定めていたのかもしれない。
678夜『ビーダーマイヤー時代』マックス・フォン・ベーン|松岡正剛の千夜千冊

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ナチスドイツが制作した国策的大作映画「コルベルク(Kolberg、1945年)」

圧倒的に優勢なナポレオン軍に対してドイツのコルベルクの軍人が勇敢に戦った戦いを壮大なスケールで映像化した作品。ナポレオン軍の圧倒的優勢を表現する為に前線から10万人以上の兵士を呼び戻し、総勢18万5000人、馬5000頭を投入した。その時ゲッベルスは秘書のフォン・オーフェンにこう打ち明けている。「この戦争の帰趨はもう明らかだ。前線の兵士にとってもう戦う事そのものに意味はなく、この映画に出ることの方が遥かに重要なのだ!!」。完成は終戦間際の1945年4月17日。宣伝省での試写終、ゲッベルスはこう演説したという。「これから百年後、君たちの功績を描いたコルベルクと同じような映画が作られるだろう。諸君、その映画に登場したくはないか、百年後、映画の中に蘇るのだ。すばらしい作品になるだろう。そのためには今、堂々と振舞うのだ。最期まで立派にやり遂げるのだ。百年後、諸君がスクリーンに現れた時、観客にヤジを飛ばさせないためにも」。

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映画のラストシーンでヒロインと父親は以下の様な会話を交わす。「彼はあそこにいるのかしら」「そうだ」「お前は全てを与えたが決して無駄ではなったのだ」「死と勝利は織り合わさっている。偉大さは常に苦しみから生まれるのだ」。

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 そして第二次世界大戦後、アメリカは欧州を復興に至らせる鍵の一つとしてムッソリーニが創始したイタリアのチネチッタ(Cinecittà)撮影所などの有効活用に注目。かくしていわゆる「ハリウッドの大作スペクタクル史劇路線」が始まるのです。

クォ・ヴァディス(Quo Vadis、1951年)

アメリカ映画。監督はマーヴィン・ルロイ、出演はロバート・テイラー、デボラ・カー、ピーター・ユスティノフ、レオ・ゲン。他にもエリザベス・テイラーカメオ出演しており、無名時代のソフィア・ローレンが奴隷役としてエキストラ出演している。

当初は、製作にジョン・ヒューストンが携わっていたが、乗り気ではなかったため降板した。また主役にグレゴリー・ペックが考えられていたが、病気のため降板。

「ジュリアス・シーザー(Julius Caesar、1953年)」

アメリカ映画。モノクロ

ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」原作。

シネマクラシック ジュリアス・シーザー評価

シェイクスピアの歴史モノ!投稿者 vadim 投稿日 2010/11/25

シェイクスピアが歴史に取材した劇作が原作です。ご存知シーザーが、ブルータスを含むみんなに殺されちゃって、その後、ブルータスやアントニーの顛末、などを描いています。当時のローマで政治をなすものたち、また大衆の様々な様子がわかって本当に面白いです。

マーロン・ブランドーがアントニーで、彼はちょうど欲望という名の電車などで、世界に躍り出たばかり、です。が、やはり、シェイクスピア、英語劇の真骨頂は、イギリス人俳優のジェームズ・メイスンやジョン・ギールグッドが、台詞など、発音から、なんかすごい迫力、説得力、演劇力、です。マーロンは、見た目が若きローマの戦士にぴったり、ですが、やはり台詞はイギリス人の演劇人には、ちょっと負けてしまうのでした…

ゴッドファーザー」のマーロン・ブランド、29歳の輝くばかりの美しさ投稿者 かずし 投稿日 2015/7/6

主役は誰でしょう?登場時間の長さから言えば、ブルータス(ジェームズ・メイスン)とカッシウス(ジョン・ギールグッド)? しかし、強烈な存在感を放っているのはアントニー役のマーロン・ブランドで、まるで博物館のローマ人の胸像のようにツルツル、ピカピカ。そして容貌だけではなく胸に深慮遠謀があることを表す圧倒的で危なげな演技力をこの若さで既に見せており、作品の後半はほとんど彼の独壇場。

もう一人、たった5分ほどの一場面にのみ登場する、ブルータスの妻ポーシャ(ポルキア)を演じているデボラ・カー。彼女の主要作品はほぼ見ている私の個人評では、この映画の彼女は彼女の数多い作品群の中で一番美しいと思います。本作の6年前の「黒水仙」(1947)では美しい上に若々しいみずみずしさを見せてくれますが、なにせ尼僧の僧衣をまとっていましたから控えめだったのが残念。それに比べると、本作のローマ装束と長い髪はさらにその美しさを引き立てています。

「十戒(The Ten Commandments、1956年)」

監督は「サムソンとデリラ (1949年)」のセシル・B・デミルでこれが最終作となる。歴史映画で「旧約聖書」の「出エジプト記」を原作として制作されたスペクタクル映画。純正ビスタビジョンで撮影され、聖書に書かれている紅海が割れ、その中をモーセなど出エジプトの民が海の中を進むクライマックスシーンはあまりに有名。

またエキストラの中に、「0011ナポレオン・ソロ」のロバート・ヴォーンヘブライ人)、「タイトロープ」のマイク・コナーズ(ヘブライ人)、「ララミー牧場」のロバート・フラー、「新・荒野の七人」のゴードン・ミッチェル(エジプト人奴隷監視人)等々、後のスターが多数出演。
*意外にも国際SNS上の関心空間では(黒人がかなりの割合を占める)エジプト・ファンの回覧網に含まれる。

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十戒(1956) - みんなのシネマレビュー

もともとは旧約聖書の神=ユダヤ教の神を、一応は同一の存在とはされてるんですがかなり性質の違う新約聖書の神=キリスト教の神とごっちゃにして、そこに現代アメリカ式の自由を無理矢理くっつけようとしたから破茶滅茶ですわ。我々の神に従えって、一方的に命令されるファラオ、カワイソスw この映画のラストシーンで自由、自由と叫んでるユダヤ人ご一行様が、その後何をやるかと言うと、先住民の大虐殺ですからね。まあ、この映画のいい加減さ、独善ぶりを推して知るべしです。
*まぁ、まさにこれこそが 「セシル・B・デミルの大作路線」。ゲッペルスが事あるごとに繰り返してきた「娯楽にこそもっとも強いメッセージ伝播力がある」「最良のプロパガンダとは最良の娯楽のことである」という観点のアメリカにおける実践者。

「戦争と平和(War and Peace、1956年)」

イタリアとアメリカの合作映画。レフ・トルストイの小説「戦争と平和」の映画化。

配役は以下。

  • ナターシャ・ロストフ オードリー・ヘプバーン
  • ピエール・ベズーホフ伯爵 ヘンリー・フォンダ
  • アンドレイ・ボルコンスキー公爵 メル・ファーラー
  • アナトーリー・クラーギン(エレーナの兄) ヴィットリオ・ガスマン
  • プラトン・カラターエフ(農民) ジョン・ミルズ
  • ナポレオン・ボナパルト ハーバート・ロム
  • ミハイル・イラリオーノヴィチ・クトゥーゾフ将軍 オスカー・ホモルカ
  • エレーナ(ピエールの妻) アニタ・エクバーグ
  • ドロコフ大尉(エレーナの不倫相手) ヘルムート・ダンティーン 
  • ニコラス・ロストフ伯爵(ナターシャの父) バリー・ジョーンズ 
  • マリア(アンドレイの妹) アンナ・マリア・フェレロ
  • リーゼ(アンドレイの妻) ミリ・ヴィターレ 
  • ニコラス・ロストフ(ナターシャの兄) ジェレミー・ブレット
  • ソーニャ(ニコラスの妻) メイ・ブリット

ナターシャとピエールとアンドレイの3人の物語として原作を大幅にダイジェストにして脚本化されており、ナポレオンが退却した後に荒廃したロストフ邸でナターシャとピエールが再会するところがラストシーンで、最後はトルストイの言葉「人生を愛すことは神を愛すことである」で終わっている。

映画『戦争と平和』とオードリー・ヘップバーン

「セピア色の映画館」というエッセイ集で著者の田辺聖子さんが、オードリー・ヘップバーンへの思いを文章にしていました。日本中の女性たちが映画館でオードリー・ヘップバーンに見とれたことが書かれていました。

私は東京が焼け野原になったことも映画だけが楽しみだった時代も体験していません。1973年生まれの私には想像するしかないのですが、オードリー・ヘップバーンとは、スクリーンの中に出てくるだけでよかった存在なのかもしれないと思いました。

実際に「戦争と平和」は、オードリー・ヘップバーンのための映画となり、多くの人が、オードリー・ヘップバーンが見られたというだけで満足したのかもしれないと思いました。「スター」とは、そういうものかもしれませんね。
*国際SNS上の関心空間における反応も、容赦なくそんな感じ。

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 「テンペスト(La tempesta、1958年)」

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アルベルト・ラットゥアーダ監督によるユーゴスラビア・イタリア・フランス合作の長篇劇映画。

ラットゥアーダは本作で1959年、ダヴィド・ディ・ドナテッロ賞の監督賞、ラウレンティスは製作賞を受賞した。

 「ベン・ハー(Ben-Hur、1959年)」

アメリカ映画。米国人作家ルー・ウォーレスの「Ben-Hur: A Tale of the Christ(1880年)」を原作に、1907年に15分のサイレント映画で製作され、1925年に同じサイレント映画で2度目の映画化でラモン・ノヴァロがベン・ハーを演じ、これが大ヒットとなった。そしてこの2度目の時にスタッフとして参加したウィリアム・ワイラーが34年後に監督として70ミリで撮影し3度目の映画化したのがこの作品となる。

  • 主人公ベン・ハーチャールトン・ヘストン、メッサラをスティーヴン・ボイド、他にジャック・ホーキンス 、ハイヤ・ハラリート、ヒュー・グリフィス が出演。チャールトン・ヘストンアカデミー賞主演男優賞、ヒュー・グリフィス が助演男優賞を受賞し、ウィリアム・ワイラーはこの映画で3度目の監督賞を受けている。

  • 原作の副題に「キリストの物語」とあるように、キリストの生誕、受難、復活が「ベン・ハー」の物語の大きな背景となっている。この映画はタイトルが出る前にキリストの生誕で始まり、キリストの処刑とともに復活で「ベン・ハー」の物語が終わる。

  • もともとベン・ハー役はポール・ニューマンバート・ランカスターロック・ハドソンなどにオファーされたが諸事情からヘストンに役が回ってきた。ニューマンは「スクリーンに堪えうる下半身じゃない」という理由で出演を断っている。

  • タイトルでミケランジェロのフレスコ画『アダムの創造』が効果的に使用されている。

  • 撮影に使われたのは『愛情の花咲く樹』と同じ70mm映画用カメラ“MGMカメラ65”。これに左右幅を4/5に圧縮するパナビジョン社製アナモフィックレンズを取り付けアスペクト比 1:2.76を得ている。同方式は数年後パナビジョン社があらためて「ウルトラ・パナビジョン70」として採用した。

  • なお撮影の多くはイタリアのローマにある大規模映画スタジオである「チネチッタ」で行われた。撮影では戦車がカメラに突っ込み大破する事故もあった。またカエサルに対してのローマ式敬礼が描かれた。

  • 本作の二輪戦車の疾走するレースシーンの演出は第二班監督のアンドリュー・マートンと同じく第二班監督でウェスタンの名作『駅馬車』のスタントで名を馳せた元スタント・マンのヤキマ・カヌートが担当、ワイラーは総合監督の立場で、受賞の際のスピーチも「オスカーが増えてうれしい」という短いものだった。

  • 1959年11月18日にプレミア公開され212分の大作ながら全米公開後、瞬く間にヒットとなった。同様に全世界でも公開されてヒットした。54億円もの制作費が投入されたが、この映画1本で倒産寸前だったMGMを一気に立て直すことができた。

同年アカデミー賞で作品賞・監督賞・主演男優賞助演男優賞をはじめ11部門のオスカーを受賞。この記録は史上最多記録でその後長く続き、『タイタニック』(1997年)、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(2003年)がようやく同じ11部門受賞で並んだが、現在もアカデミー賞の史上最多受賞作品の一つである。

「カルタゴ(Cartagine in Flame/Carthage in Flames、1960年)」

第三次ポエニ戦役によって没落した都市国家カルタゴを舞台にした、イタリアの小説家エミリオ・サルガリの長篇『燃えるカルタゴ』(1985年)を原作とするイタリア映画。テクニカラー・70ミリ・スーパーテクニラマ。

  • 西暦紀元前146年、第一次ポエニ戦役から約一世紀にわたったローマとカルタゴの戦いは終末に近づいていた。カルタゴの勇者イラム(ホセ・スアレス)は屈辱的な講和を受けようとする商人一派に追われ、ヴィチェンツァに亡命。叛逆者として死刑の判決を受けていた。

  • イラムは元老院議長エルモンの娘オフィール(イラリア・オッキーニ)に一目会うため、カルタゴに潜入。カルタゴの神バール=モロックの神殿で生贄にされかけたローマの女フルヴィア(アン・ヘイウッド)を救った。かつて戦場で傷付いた時に救ってもらった恩があったからだが、フルヴィアはイラムを愛する様になる。港の船にひそんだ彼は部下アスタリトをオフィールへの使いに出したが、翌朝、彼の競争者、卑劣な冷血漢フェーゴル(ダニエル・ジェラン)がエルモンの衛兵を従え、逮捕に現われる。イラムは船を出帆させたが、フェーゴルの軍船が追ってきた。両船の死闘が始まる。フェーゴルはイラムに追いつめられ、海中へ逃げた。

  • エルモンはオフィールの相手にツールという若者を選んだ。しかしイラムは結婚式の時にフルヴィアがフェーゴルをあしらっているスキを突いてオフィールを奪う。しかしその後、フルヴィアも救う為に引き返し、捕まってしまう。一方、フェーゴルはオフィールを奪い返したものの、彼女のイラムへの愛を知ってツールは結婚をあきらめる。そしてイラムの死刑が迫るが、フルヴィアがイラムの親友シドーネと共に現れ、救出。

  • ローマの猛攻がカルタゴを危くしていた。イラムは元老院に出頭し、フェーゴルの反対を除き、傭兵部隊の指揮者にされた。彼は敵と交戦するもあくまで多勢に無勢、それでフェーゴルに援軍を頼む。しかしフェーゴルは実はローマと連絡をとってカルタゴを売り渡しており、その企図を察っしたエルモンを刺殺。援軍は来ず、敗戦したイラムは重傷に倒れたが、シドーネとフルヴィアの救いで、船でオフィールと共に脱出。

  • ローマ軍は城内に乱入し、町は火の海となった。フルヴィアは約束どおりフェーゴルに身をあたえ、そのまま彼を燃える焔の中にひきずりこむ。.

エンニオ・デ・コンチーニとドウッチョ・テッサリが脚色し「蝶々夫人」のカルミネ・ガローネが製作・監督した。撮影は「武器よさらば」のピエロ・ポルタルーピ、音楽は「激しい季節」のマリオ・ナシンベーネ。出演は「挑戦」のホセ・スアレス、「非情」のダニエル・ジェラン、「上と下」のアン・ヘイウッド、「掟(1959)」のピエール・ブラッスール、パオロ・ストッパら。

 「スパルタカス(Spartacus、1960年)」

アメリカ映画。ハワード・ファストが執筆したスパルタクスの反乱をテーマにした小説を、スタンリー・キューブリックが映画化した歴史スペクタクル映画。配役は以下

物語は共和政ローマ時代のリビアで奴隷が働く鉱山で始まる。

  • たくましいトラキア人奴隷のスパルタカスカーク・ダグラス)は倒れた奴隷を助けようとして衛兵に反抗し、飢え死にの刑に処せられたが、鉱山に剣闘士の卵を探しにきた剣闘士養成所主のバタイアタス(ピーター・ユスティノフ)に見出され、カプアにある彼の養成所に連れて行かれることとなった。

  • 養成所にてスパルタカスはバタイアタスと剣闘士上がりの教官であるマーセラスに目を付けられて幾度か屈辱を味わうが、そこで働く女奴隷のヴァリニア(ジーン・シモンズ)とはお互いに好意を持つ仲となった。

  • そんなある日、ローマの閥族派オプティマテス)の大物であるクラッサス(ローレンス・オリヴィエ)が養成所を訪れ、剣闘士同士の真剣試合を所望。バタイアタスは真剣試合が剣闘士達に及ぼす悪影響を考えて断ったが、クラッサスは大金を積んで強要した。スパルタカスはレティアリィの黒人剣闘士ドラバ(ウディ・ストロード)と闘うことになり、激しい闘いの末スパルタカスは剣を失い、ドラバにとどめを刺されるだけとなった。しかしドラバはクラッサスらの命に従わず、とどめを刺すどころか、その槍でクラッサスらに襲い掛かったが、衛兵によって阻まれ殺された。ドラバの死体は養成所内に見せしめとして逆さづりにされた。その後、クラッサスは接待に出たヴァリニアをみそめて、バタイアタスから購入する約束をして引き上げた。

  • 翌日、売られていくヴァリニアの姿を目撃したスパルタカスは、怒りにまかせてマーセラスに襲い掛かり、他の剣闘士と協力してマーセラスと衛兵を殺害した。その勢いのまま剣闘士達は養成所を制圧。やがてヴェスヴィオ山中に立てこもって、他の奴隷達を仲間に加えてその数は急速に膨れ上がった。その中にローマに向かう途中で逃げ出したヴァリニアもおり、スパルタカスと結ばれることになった。

  • ローマでは、奴隷の反乱に対して、元老院の中でクラッサスら閥族派と対立する民衆派の大物グラッカス(チャールズ・ロートン)はクラッサスの親友グラブラスをたきつけてその指揮するローマ市兵団によって反乱鎮圧に向かわせ、同じ民衆派の仲間のジュリアス・シーザージョン・ギャヴィン)をローマの留守兵団の司令官に任ずることに成功した。同じころクラッサスはシチリア人の青年奴隷で詩吟を専門とするアントナイナス(トニー・カーティス)を購入し、側に置こうとしたが、アントナイナスはスパルタカスのもとに逃亡した。グラブラスは、相手が奴隷であると油断しており、スパルタカスは彼の兵団を奇襲攻撃で打ち破った。

  • スパルタカスの指揮の下、反乱軍は東方のキリキア海賊の船によってイタリアから脱出するため、南イタリアブリンディジ目指して南下した。これを阻止すべく正規軍であるローマ軍団が投入されたが、いまや数万に膨れ上がったスパルタカスの反乱軍は次から次へとそれらを打ち破った。敵対するクラッサスが奴隷討伐軍の総司令官に任命されて権力を握ることを恐れるグラッカスは、海賊と共謀してスパルタカスを安全に脱出させようとしたが果たせず、ついにクラッサスは元老院によって筆頭執政官兼全軍総司令官に指名され、8個軍団を率いてスパルタカスの討伐に向かうこととなった。

  • スパルタカスの軍勢はブリンディジの手前まで到着していたが、キリキア海賊はクラッサスによって買収されて撤収してしまった。更にスペインからポンペイウス、小アジアからはルクッルスの軍団がクラッサスの増援として到着していた。絶望的な状況の中スパルタカスはローマに進撃してクラッサスの主力を打ち破ることによって、この戦争を一気に終結させることを決意する。劇中では、イタリア脱出まであと一歩と言うところで再びローマに進軍しなければならないことを全員に告げるスパルタカスと、ローマ出撃に際して反乱軍を撃滅し、スパルタカスを捕らえることを宣誓するクラッサスが、対照的に描写される。クラッサスはバタイアタスを陣中に留め置き、スパルタカスを生死を問わず見つけ出すように命じた。

  • 反乱軍の前に整然と姿を現すローマの大軍団が印象的な、この映画のクライマックスとなる決戦は、ポンペイウスとルクッルスの増援もあって反乱軍の完全な敗北に終わり、スパルタカスを含めわずか数千人が生き残っただけだった。クラッサスはスパルタカスを差し出せば他の奴隷の命は助けると約束したが、奴隷たちは異口同音に自分こそがスパルタカスであると名乗り出る。その結果、全員がアッピア街道沿いに磔にされることになった。その途中、クラッサスはかつてのバタイアタスの養成所でまみえたスパルタカスの顔を思い出し、アントナイナスと共に、2人を磔の列の最後に留めることにした。

  • クラッサスは生まれたばかりのスパルタカスの息子と共にヴァリニアを見つけ、自分の手元に置いたが、その心をつかむことはできなかった。クラッサスを憎むグラッカスに依頼されたバタイアタスはヴァリニアをひそかに連れ出したが、グラッカスはクラッサスの命を受けたシーザーに逮捕され、ローマ追放を宣告された。一方クラッサスはローマの城外でアントナイナスとスパルタカスの2人に真剣試合をさせ、勝者は磔にすると命じた。お互いを磔にしたくない2人は必死に戦い、やがてスパルタカスは勝利し、磔にされた。政争に敗れたグラッカスは自害を決意したが、その直前ヴァリニアとその子供を自由人にする書類を作成し、バタイアタスに託した。

  • バタイアタスはヴァリニアを連れてローマ城外に脱出したが、城門の外に磔にされたスパルタカスを見つけたヴァリニアは息子を抱いて馬車を降りてスパルタカスのもとに駆け寄り、息子は自由になったと伝えた。スパルタカスは静かにうなずき、やがて息を引き取った。ヴァリニアはバタイアタスにせかされて馬車に戻り、去っていった。

本作は元々アンソニー・マン監督でクランクインしていたが、カーク・ダグラスとの衝突により降板したため、当時まだ無名だったキューブリックが呼び寄せられた。マン演出によるシークエンスは現行本編冒頭に残っている。

  • キューブリックは不満のあったダルトン・トランボの脚本を現場で書き換え、撮影終了後、脚本家クレジットの問題が持ち上がった際、キューブリックが自分の名前を表記するよう主張した。最終的にクレジットはトランボのものとなったが、この作品では、もともとダグラスが各キャストの出演承諾を得るため、トランボの脚本をそれぞれのキャストに都合良く書き換えた版が送付されたとも言われ[誰によって?]、ピーター・ユスティノフも脚本の手直しを行い、またキューブリックも旧知のカルダー・ウィリンガムに戦闘シーンの執筆を依頼している。一方、元の脚本を書き直されたトランボは製作現場から締め出され、撮影終了後ようやくフィルムを見て修正案を提出、戦闘シーンが撮り直された。

  • キューブリックはあくまで監督として「雇われた」だけだと言い張り、死ぬまでこの映画を自分の作品とは認めず、「あの映画には失望した」とまで言っていた。これは製作者カーク・ダグラスが大物俳優であったことにより、キューブリックの思惑どおりになかなかことが進まなかったことが理由とされている。 ただし近年までの本作品の評価は一般的、批評家的にも高評価であり、キューブリック本人の自作否定と反して監督本人のキャリアを汚すものではない。

  • 初公開時に削除された一部シークエンスが1991年に修復された。復元された削除シーンはクラッサスとアントナイナスが小浴場で入浴するシーン。香油によるマッサージやベール越しの撮影で妖艶さを増していた。会話も牡蠣や蝸牛など食のモラルに関するものだが同性愛に対するモラルを暗示するものが含まれていた。音声素材が消失しており、また、ローレンス・オリヴィエは1989年に死去していたので、彼にゆかりのあるアンソニー・ホプキンスが台詞を吹替えた。カーティスは、ドキュメンタリー映画セルロイド・クローゼット』 の中で、この場面(オリヴィエが入浴する場面でトニー・カーティスが演じる奴隷との絡みがある場面)がホモセクシュアルを匂わせる為に削除されたことを明らかにしている。

かつて赤狩りで追放歴のあるダルトン・トランボ(ハリウッド・テンの一人)が13年ぶりに実名で脚本を担当したことから、公開当時は右派や軍人を中心に非難や上映反対運動が起こったが、これに対し、ジョン・F・ケネディ大統領(当時)が事前通知なしで劇場を訪れて同作品を観賞し、好意的な感想を述べたことで、大ヒットにつながった。

スパルタカス(1960) - みんなのシネマレビュー

当然ながら事後だがキューブリックが認めない作品というのは見終わってよくわかる。正統派というかキレイすぎる。狂気が無い。クレイジーな主人公が合う。一言で言えばらしくない。

スパルタカスが本当に強いのか、人を惹き付けるカリスマ性があったのかこの映画を通してよくわからなかった。スパルタカスのただのロマンスやん。
*国際SNS上の関心空間では2010年から2013年にかけて放映されたエロティックなTVドラマの人気に上書きされてしまった感がある。19世紀アメリカ詩人ホイットマンが詠った「奴隷には肉体以外全て剥ぎ取られてしまった存在であるがゆえに独特のむき出しの美しさがある」の世界でLGBTQA側からの支持も勝ち取っている。
スパルタカス (2010年のテレビドラマ) - Wikipedia

「エル・シド(El Cid、1961年)」

アンソニー・マン監督によるイタリア・アメリカ合作映画。。チャールトン・ヘストンソフィア・ローレン出演。11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族エル・シドことロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar)の生涯を描いた作品。配役は以下。

物語は1080年から始まる。史実ではその時点でフェルナンド王は既に死んでいる(1065年没)が存命中として描かれている。

  • カスティーリャ王国の若き武将ロドリゴは、イベリア半島に攻め込んで来たムーア人との戦の末に捕らえた敵軍の首長ムータミンとカディアを、捕虜として王に引き渡すことなく、生かして逃がす。これに恩を感じたムータミンはロドリゴに「エル・シド」の尊称を贈るとともに友情を誓う。しかし、捕虜を逃がしたためにロドリゴは反逆者と見なされ、彼と深く愛し合う婚約者シメンの父で最高戦士であるゴルマス伯爵は、ロドリゴの父ドン・ディエゴを公の場で激しく侮辱する。これに怒ったロドリゴはゴルマス伯爵に謝罪を求めるが、頑なに拒否される。その結果、2人は決闘することになり、激しい闘いの末にゴルマス伯爵が死ぬと、息を引き取る父に復讐を頼まれた娘シメンはロドリゴを激しく憎むようになる。反逆者の汚名が消えないままのロドリゴは、アラゴン王国からカスティーリャ王国に挑まれたカラオラの地を賭けた最高戦士同士の一騎討ちに志願する。苦戦の末、アラゴンの最高戦士ドン・マルティンを辛くも倒したロドリゴは汚名を返上し、名実ともにカスティーリャ王国の最高戦士となる。その後も王国の英雄として戦功をあげ、その褒美としてシメンとの結婚を認められるが、シメンのロドリゴへの憎しみは消えず、シメンを愛するオルドニェス伯爵を使ってロドリゴを殺そうとまでする。ロドリゴはそれらの全てを知りつつもシメンを愛する気持ちが変わることはなく、全てを受け入れてシメンと結婚する。

  • しばらくしてフェルナンド王が死ぬと、第2王子アルフォンソが姉ウラカ王女と結託し、兄であるサンチョ王を暗殺して即位すると、暗殺の事情に気付いているロドリゴを追放する。これをきっかけにシメンはロドリゴを愛している自分の気持ちに気付き、全てを捨ててロドリゴに付いて行く。ようやく真の夫婦となり、穏やかに過ごしていた2人の前に、ロドリゴを敬愛する忠実な部下ファニェスらが現れ、ロドリゴに「エル・シド」としてスペインのために戦うよう強く請い願う。シメンはロドリゴを引き止めるが、ロドリゴは自らの意思で戦うことを決めると、シメンを僧院に預けて旅立つ。ここで前編が終了する。

  • 後編は、数年後にロドリゴが勇将として復活し、アルフォンソ王に呼び出されるところから始まる。ここではアルフォンソ王と和解せぬまま決別し、ロドリゴは王の方針に反して独自にムーア人の首長であるムータミンらと手を組み、バレンシアを攻略する。周囲がバレンシア王となることを勧める中、ロドリゴバレンシアの王冠をアルフォンソ王に送り届け、王への変わらぬ忠誠を誓う。ところが、攻め込んで来たムーア人の王ベン・ユサフとの戦のさなかにロドリゴは無念の死を遂げてしまう。それでも、ロドリゴの遺言に従い、彼の遺体を馬上に据えて味方の先頭に立たせることで、敵を威嚇すると同時に味方の士気を高めることに成功、ロドリゴらの軍は敵を一掃し、これによりロドリゴの存在は「エル・シド」として伝説となる。

マグリブ(アフリカ大陸北岸のチュニジア以西)とアンダルシア(イベリア半島南部)を領土としたベルベルイスラム王朝ムラービト朝(المرابطون al-Murābiṭūn、1040年〜1147年)を黒人王朝と設定するなど、様々な興味深い改変がなされている。
*不思議なまでに(スペイン語話者が三大勢力の一つを占める)国際SNS上の関心空間において人気がない。中南米住民からすれば「征服者側の物語」だから?

*むしろ彼らは「怪傑ゾロ(Zorro)」の方を好む。庶民の味方だから?

「ソドムとゴモラ(Sodom and Gomorrah / The Last Days of Sodom and Gomorrah、1962年)」

ロバート・アルドリッチ監督によるイタリア・アメリカ合作映画旧約聖書の『創世記』に登場する都市、ソドムとゴモラの堕落から神の怒りによって滅亡するまでをロトを主人公に描く。

  • 指導者ロット率いるヘブライ人の一行が苦難の旅の果て、ヨルダン川のほとりにたどり着く。

  • 腐敗と退廃の町ソドムとゴモラの女王ベラは彼らに土地を与え、友好関係を結び、やがてロットはベラから送られた奴隷イルディスと愛し合うようになる。

  • そんな折、王座を狙っていたベラの弟アスタロフと、彼と密かに通じていたヘラム族が奇襲を仕掛けてくる。。

配役は以下。

  • ロト:スチュワート・グレンジャー
  • ベラ女王:アヌーク・エーメ
  • イルディス:ピア・アンジェリ
  • アスタロス王子:スタンリー・ベイカー
  • シュア:ロッサナ・ポデスタ
  • メルカー:リック・バッタリア
  • ジャコモ・ロッシ=スチュアート
  • シラ・ガベル
  • アントニオ・デ・テッフィ
  • アルド・シルヴァーニ
  • フェオドール・シャリアピン・ジュニア
  • クラウディオ・モリ
  • 宝みつ子

クレジットなしでセルジオ・レオーネが第二班監督を務めている。
*ある意味、パニック映画元祖とも?

「クレオパトラ(Cleopatra、1963年)」

ハリウッド黄金時代を象徴する、豪華絢爛なスペクタクル史劇。ハリウッドきっての知性派といわれたジョーゼフ・L・マンキーウィッツが監督と脚本を兼務。製作開始は1960年。撮影ははじめロンドンで、後にローマ近郊のチネチッタで撮影された。紀元前48年、ローマ帝国の執政シーザーはポンペイウスを追ってエジプトのアレクサンドリアに入城するが、そこで女王クレオパトラに出会い、彼女の知性と美貌の虜になってしまう。配役は以下。

クレオパトラ役の選定に際し、国内の映画館主にエリザベス・テイラーオードリー・ヘプバーンのどちらがふさわしいか、という調査が行なわれた。結果はテイラーの圧勝だった。ただし当初監督として起用されたマムーリアンは黒人女優のドロシー・ダンドリッジをクレオパトラ役に強く推していたといわれる。

  • 製作にあたっては、100万ドルという破格の報酬で契約した主役のエリザベス・テイラーの度重なる病気、初期のロケ地選択の失敗によるセットの造り直しで撮影が遅れに遅れ、さらに当初監督だったルーベン・マムーリアンをはじめとして、重要な配役が変更になる(当初シーザー役はピーター・フィンチ、アントニー役はスティーヴン・ボイドで撮影開始)という不手際にも見舞われ、その度にシーンの撮り直しを強いられた。また共演のテイラーリチャード・バートンの不倫も取りざたされ大スキャンダルとなった。

  • エリザベス・テイラーの出演料100万ドルは当時史上最高額として話題になったが、のちにテイラーはなぜ本作への出演を引き受けたのかという問いに対して、「だって100万ドルなんていう馬鹿げた出演料を提示してくるんですもの、それを蹴るような馬鹿げたことをする私ではないわ」と言い放っている。しかも撮影の遅延やテイラーの病気療養などに支払われた保険金、撮影に使用された70mmトッド-AO方式からの権利金の一部(同社を設立したのは飛行機事故で死亡したテイラーの前夫マイケル・トッド)、再使用料など諸々の収入がこれに加算され、テイラーは本作で合計で700万ドル(現貨換算で約4700万ドル)近い巨額を稼いでいる。そのテイラーはロンドンでの撮影が始まって間もなくジフテリアを発症、呼吸困難となり気管切開によってかろうじて気道確保するという深刻な状況にまで陥った。作品中クレオパトラが仰々しい首飾りをつけているシーンが多いのはその生々しい切開傷を隠すためのもので、後半のいくつかのシーンでは実際にその傷跡を見て取ることができる。

  • 監督のマンキーウィッツは、本作を自身の代表作とするべくシナリオの製作に没頭し、書き上がった順から撮影を行った。これは撮影効率の点からは大きなマイナスであり、未使用のセットや小道具、待機したままの役者を多く生み出すなど膨大な予算超過の一因になった。それだけに撮影後に様々な横槍の入った公開版に対する失望は大きく、後にこの映画について「完全に歪められたもの。私が意図したもののパロディになってしまった」と語っている。

  • 最終的には製作費は4400万ドル(現貨換算で3億ドル以上)という空前の巨額にまで膨れ上がり、製作会社の20世紀フォックスの経営を危機的状況にまで陥れる。経営危機に際して会社の実権を握ったダリル・F・ザナックは、『シーザーとクレオパトラ』と『アントニーとクレオパトラ』の前編後編2本立てで計6時間という当初構想が、作品としては長過ぎて興行の妨げになること、また当時一大スキャンダルとなっていたテイラーとバートンの登場する『アントニーとクレオパトラ』の部分が後出しになることは時機を逸するという考えから、マンキーウィッツに映画を1本にまとめるよう指示した。これにより映画は1本立て5時間20分となったがザナックは満足せず、さらなる大々的なカットが行われた。

  • 映画は製作開始から4年を経た1963年6月にようやくプレミア上映にこぎつけた。この際の上映時間は4時間5分だったが、一般公開版はさらに3時間14分に短縮された。そのため場面の繋がりが不明瞭な箇所や重要人物の死を描いた箇所が丸ごと欠落するなどといった、編集上の問題にも見舞われることになった。

  • 同年の北米興行収益でトップを記録する4800万ドルのヒットとなったものの、20世紀フォックス純益は製作費4400万ドルの半分強2600万ドルに過ぎず、事業的には社運を傾けるほどの大失敗作となった。実際ビバリーヒルズの広大な撮影所の土地を売却することを余儀なくされている。マスコミや映画批評家らにはゴシップ先行の作品とそっぽを向かれる結果となり「映画史上空前の失敗作」などと皮肉られさえもした。ちなみに20世紀フォックスは2年後に公開された『サウンド・オブ・ミュージック』が当初の予想を遥かに上回る歴史的大ヒットとなったため奇跡的にこの財務危機を乗り切っている。

1963年度ゴールデングローブ賞で4部門、同年度アカデミー賞で9部門にノミネートされているが、受賞はアカデミー賞の技術関連4部門にとどまった。製作公開時に悪評が定着したこともあって、今もって評価の分かれる作品であるが、豪奢な衣装やセット、銀幕を代表するスターに二十数万人のエキストラ、格調高い音楽や台詞回しなど、ハリウッドの黄金時代をしのぶにふさわしい超大作であることは間違いない。

「ドクトル・ジバゴ (Doctor Zhivago、1965年)」

アメリカとイタリアの合作映画。原作はロシアの作家、ボリス・パステルナークによる同名小説「ドクトル・ジバゴ」。モーリス・ジャールによる挿入曲「ラーラのテーマ」が有名。米アカデミー賞で5部門を受賞した。ロシア革命の渦中に生きた医者ジバゴの、ふたりの女性ラーラとトーニャへの愛を描く。

また私がこの映画を観た切っ掛けは、映画が公開された‘66 or 67年当時の長崎の映画館で以下の様な宣伝文句を読んで、大いに興味を持ったからだった!、、、

『原作の「ドクトル・ジバゴ」は、1958年のノーベル文学賞に作家パステルナークに決定したが、彼はそれを辞退? それは…‘58年頃のソ連は独裁者スターリンが没し、フルシチョフ書記長の時代に入ってたが、当時パステルナークは“反革命文学者” と政府から見なされていたので、もし受賞のために一度国外に出たら、二度と故国の土を踏めなくなる恐れが有ったために、やむなく受賞を辞退せざるを得なかった。』

まるで今の中国と似たような話!

「華麗なる激情(The Agony and the Ecstasy、1965年)」

キャロル・リード監督の手になるアメリカ映画。アーヴィング・ストーンによる伝記小説「ミケランジェロの生涯 苦悩と歓喜」を原作とし、ミケランジェロ当時のローマ教皇ユリウス2世との確執を描く。配役は以下。

アカデミー賞5部門にノミネートされた。

「天地創造(The Bible: in the Beginning、1966年)」

ジョン・ヒューストン監督の手になるアメリカとイタリアの合作映画。「旧約聖書」の創世記、1章の天地創造から22章のイサクの生け贄までを描く。配役は以下。

音楽は当初イーゴリ・ストラヴィンスキーに依頼されていたが、それが断られたため、最終的に黛敏郎が大抜擢された。

「ジュリアス・シーザー(Julius Caesar、1970年)」

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英国映画。ウィリアム・シェイクスピア原作の戯曲「ジュリアス・シーザー」の映画化作品。配役は以下。

チャールトン・ヘストンは「アントニーとクレオパトラ(1972年)」でも同じ役を演じている。

「アントニーとクレオパトラ(Antony and Cleopatra、1972年)」

https://thedrunkenodyssey.files.wordpress.com/2016/08/antony-and-cleopatra-poster.jpg?w=529

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イギリス・スイス・スペイン合作映画。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』をチャールトン・ヘストン監督・主演・脚本で映画化。配役は以下。

チャールトン・ヘストンは「ジュリアス・シーザー(1970年)」でも同じ役を演じている。 

 あえてここまでのまとめを試みます。

 そして、こうした流れに対抗する形でソ連も国策スペクタクル史劇を次々と制作していきます。20世紀前半はロシア革命スターリン賛辞、20世紀後半は祖国防衛戦争(対ナポレオン戦と対ナチス戦)が主題に。

「戦艦ポチョムキン(Броненосец «Потёмкин» / Battleship Potemkin、1925年)」

セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の手になるソビエト連邦サイレント映画。「第1次ロシア革命20周年記念」として製作された。

現在に至るまで映画史的に非常に重要な作品として評価されており、『國民の創生』、『市民ケーン』とともに映画芸術に革命をもたらした画期的作品とされる。

  • 長編第1作の『ストライキ』で高く評価されたセルゲイ・エイゼンシュテイン監督は、ロシア第一革命20周年記念委員会より、記念映画の製作を依頼された。

  • はじめにエイゼンシュテインと脚本家のニーナ=アガジョーノワ・シュトコが準備した脚本は『1905年』というタイトルで、革命の始まりから挫折までを六つのエピソードで構成するというものだったが、撮影が遅れ公開日(1925年12月24日)までに完成しそうでなかったため、エイゼンシュテインは六つのエピソードのうちの一つである「戦艦ポチョムキンの反乱」に焦点を当てて描くことにした。

  • 出演者は『ストライキ』と同様、主要な役以外は素人(艦隊の水兵やオデッサ市民など)が演じた。エイゼンシュテインも神父役で出演している。またオールロケで撮影され、記録映画のような手法がとられている。

  • 1925年12月24日、モスクワのボリショイ劇場第一次ロシア革命20周年記念式典で上映されて大好評を得た。しかし、海外では共産主義的な内容から検閲によって上映禁止や、多くの場面をカットして上映されることになる。

  • 1950年、本作の助監督で出演もしていたグレゴリー・アレクサンドロフ(ロシア語版)によってニコライ・クリューコフ(ロシア語版)作曲の音楽が挿入された「サウンド版」が発表された。

 日本では、1926年に横浜港にフィルムが渡ったが、共産主義プロパガンダが含まれているとみなされ検閲で輸入禁止となり、終戦まで政府により上映禁止措置が取られていた。1959年の有志(評論家の山田和夫など)による自主上映運動により、初めて日本の観客が目にし、1967年にATGの配給で、ようやく劇場で一般公開された。

「 アレクサンドル・ネフスキー(АЛЕКСАНДР НЕВСКИЙ / Aleksandr Nevskiy、1938年)」

セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の手になるソビエト連邦の映画。中世ロシアの英雄、アレクサンドル・ネフスキー(1220年頃〜1263年)の活躍を描く叙事詩的作品。

  • 戦艦ポチョムキン(1925年)」で革命後のソ連を代表する監督となったエイゼンシュテインにとって、1930年代以降は苦難の連続だった。企画が何度もつぶれたり、製作できても公開が禁止されたり、スターリンはじめ政治権力の介入がひどかったからである。この映画も英雄偉人を描く国策映画(スターリン主義)の企画に乗って、やっと完成した。

  • 欧米で演奏活動をしていたプロコフィエフソ連(現ロシア)に帰国してまもない頃、この映画の作曲家として全面的に協力している。

ロシア側がドイツ騎士団を迎え撃つ「氷上の戦い」はこの映画の見所であり、音楽の聞き所でもある。

「イワン雷帝(Иван Грозный / Ivan the Terrible、第1部1944年、第2部1946年)」

セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の手になるソ連映画。“イワン雷帝”ことイヴァン4世の生涯を描いた作品。

  • 全3部構成で制作される予定であったが、第1部は時の権力者ヨシフ・スターリンから高く評価されたものの、第2部はスターリンを暗に批判した内容であったため上映禁止となり、第3部は完成されなかった。第2部のラスト数分がカラー映像になっている。

  • 第1部(1944年)…16世紀半ば。帝位に就いたイワンはロシアを強力な統一国家にすべく邁進するが、それを快く思わない伯母のエフロシニアは、彼の愛する妃アナスタシアを毒殺してしまう。悲嘆にくれたイワンは退位して田舎に引きこもるが、民衆の熱い要請を受けて、再び帝位に返り咲く。

  • 第2部(1946年)…民衆の熱い要請を受けて再び帝位に返り咲いたイワンであったが、宮廷内では依然としてエフロシニアを中心とする反イワン派の抵抗を受けていた。イワンはこの状況を打開すべく大粛清を決行する。

エイゼンシュテインは1928年にモスクワで行なわれた2代目市川左團次の歌舞伎初の海外公演を観劇し、大いに感銘を受けた。その影響から、第1部ではクローズアップ・ショットで主人公に見得を切らせるという、歌舞伎的な様式の演出を用いている。

「僕の村は戦場だった(Иваново детство、Ivanovo detstvo、Ivan's Childhood、1962年)」

アンドレイ・タルコフスキー監督の手になるソ連映画。原題は「イヴァンの子供時代」の意。1962年のヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞受賞。

  • 第二次世界大戦中の独ソ戦下のソビエト、主人公はドイツ軍に両親と妹を殺された12歳の少年イワン。彼はパルチザンに入って戦ったあと、今は小さな体を生かしてソビエト赤軍の偵察任務に協力していた。

  • オープニング。蝶が舞い、郭公が鳴く美しい村で、真夏の日の光を浴びながら遊ぶイワン。母を見つけて冷たい水をもらう。「ママ、かっこうがいるよ」。微笑む母。そこに響く銃声。悲鳴をあげながら夢から覚めたイワンは、ドイツ軍占領地に侵入し、風車小屋に身を隠しているところだった。

  • イワンは正規兵のカタソーニチと落ち合おうとするがドイツ兵に阻まれ、単独で川を泳いで渡ってなんとか対岸のソビエト陣地へたどり着く。大隊長ガリツェフ上級中尉の部屋へ連れて来られたイワンにガリツェフが質問をするが、イワンは説明を拒み、司令部のグリズヤノフ中佐へ電話することを要求する。ガリツェフがグリズヤノフに電話すると、イワンに紙と鉛筆を与え、彼が書いたものをすぐ司令部に届けるよう命じられる。

  • 偵察の報告を書き終え、ガリツェフの部屋で眠るイワンの手に水滴がしたたり落ちてくる。いつの間にかイワンは夢の中で井戸の底にいる。母とイワンが井戸をのぞき込む。「井戸が深いと日中でも星がみえるのよ」という母。「見えるよ ママ」と叫ぶイワン。井戸の底で水面で光るものを掬い上げようとしていると、母が落とした釣瓶桶がイワンの頭上に。井戸の脇に倒れている母。

  • 翌日、司令部からホーリン大尉が迎えに来て、イワンとの再会を喜び、イワンを連れて司令部へと戻った。今回イワンがもたらした情報も極めて重要なものだったが、これ以上少年に危険な任務を続けさせることは出来ないとして、グリズヤノフ中佐はイワンに幼年学校へ入ることを命じる。しかし、イワンはそれを拒む。「戦争中に休むなんて役立たずだけだ」。回想シーンでは、家族を失う前の無垢なイワンの楽しげな姿が美しく描かれる。しかし、今のイワンをとらえているのは、家族を奪われた怒りとドイツへの復讐心だけだった。

  • ドイツ側への総攻撃を前に、二人の偵察兵がドイツ側に送られるが、二人は敵に見つかって殺害され、死体を晒しものにされてしまう。ホーリン大尉とカタソーニチは、イワンを船で対岸まで送る計画を立てる。ガリツェフはこれに反対するが、作戦前日に、ホーリンにカタソーニチの代わりに船に乗ることを頼まれる。実はカタソーニチはその日の敵襲で戦死していたのだが、ホーリンはそれをイワンに知られたくなかった。

  • イワン、ホーリン、ガリツェフの三人を乗せた小船は、夜陰に紛れて対岸へ渡る。この先は一人で行けるというイワンは、偵察兵の遺体をちゃんと埋葬してやって、と言い残して沼地を敵陣へと侵入していく。ホーリンとガリツェフは、偵察兵の遺体を回収し、敵の銃撃の中、自陣へと戻った。イワンはしかし戻っては来なかった。

  • 時は流れ、ベルリンが陥落する。進駐してきたソビエト軍の中にガリツェフの姿がある。ガリツェフは捕虜収容所に入り、処刑されたソビエト側捕虜のファイルを一枚一枚丹念に調べるのだった。戦場の実態を知らないと自分をあざけりののしったイワンのことが、それでも忘れられなかったのだ。

  • しかしガリツェフはファイルの1枚を見て目をつぶり肩を落とす。敗色濃厚なドイツで敵兵に見つかり、軽んじられながら殺されたイワンの最期が、今のガリツェフには手に取るように思い浮かんだ。ガリツェフが発見したのは、最後まで敵をにらみつけているイワンの写真だったのだ...

  • ラストシーン。水を飲み終えたイワンは、母と別れて友人たちと川辺で遊ぶ。イワンがかくれんぼのオニだ。妹を見つけたイワンは、水しぶきをあげながら妹を追いかける。妹に追いつき、追い越しても、さらに走り続けるイワン。走りながら手を伸ばした先には朽ち果てた木が立っていた。木がアップになり、イワンの行く手に立ちふさがって画面を覆いつくすシーンでこの物語は幕を閉じる。

表現の問題を巡ってイタリアの作家アルベルト・モラヴィアが批判を加え、フランスの哲学者サルトルが弁護をするなど話題を呼んだ。日本では、ATG映画 として公開された。

「戦争と平和(Война и мир、War and Peace 、1967年)」

ロシアの文豪レフ・トルストイの代表作の1つである大河歴史小説戦争と平和』を映画化した作品。1965年から1967年にかけて公開されたソビエト連邦の歴史映画の4部作であり、戦闘シーンに12万人を超すエキストラが動員されて、セリフのある役が559人の出演者、当時のソ連が国を挙げて国家事業として製作撮影して全4部で上映時間が6時間半を超す超大作の映画である。

  • 監督・脚本・主演はセルゲーイ・ボンダルチューク。第4回(1965年)モスクワ国際映画祭最優秀作品賞をはじめ、第41回米国アカデミー賞外国語映画賞など、様々な映画賞を受賞している。

  • ストーリーは原作の第三巻第三部から第四巻までに相当する内容になっている。原作に対して、ピエール、アンドレイ、ナターシャの3人に絞った構成になっており、他の登場人物のエピソードはかなり削られている。また原作にあるエピローグはなく、ピエールとナターシャが再会することで結ばれることを示唆して物語は終わる。

  • 構想を練ったのは1955年で、実際に製作に入ったのは1960年から、撮影は1962年からで1962年9月7日のボロジノ会戦150周年祭の当日に約12万5000人の軍隊を動員して、ボロジノの現地のロケから始まった。

  • 製作費は3,260万ルーブル(当時のドル換算で約3,600万ドル・130億円)であった。因みに1960年代当時の映画では「ベンハー」が1,500万ドル(54億円)、「史上最大の作戦」が1,200万ドル(43億円)、「クレオパトラ」が4,000万ドル(154億円)の製作費であった。しかしこの映画には当時のソ連が国家事業として製作に全面的に関わっており、公表された製作費以外にも経費がかかったが、ソ連政府の全面的な協力により資金には苦労しなかった。その後の物価の上昇度合いから換算すると、2005年時点の7億ドルに相当し、史上最も製作費のかかった映画とされる。

  • 国家事業として製作されたので、戦闘シーンには馬を約1,500頭、合計12万4,533人に及んだエキストラやスタントはソ連軍の兵士を動員することができた。特に1812年のボロジノの戦いを再現したシーンは、製作費の三分の一にあたる約1,200万ルーブル(約48億円)を投入して、実際に戦闘が行なわれた場所を用いて撮影されており、撮影に2年、撮影後の編集作業等に1年を要している。

  • なお、戦闘シーンの撮影では映画史上初めて遠隔操作カメラが用いられ、300mの長さのワイヤに添って動くカメラで上空から撮影された。使ったフィルムは513万フィートで映写すれば約760時間。1行でもセリフがある役で559人(原作でも559人が登場する)、重要な役を演じる俳優だけで36人が起用され、登場人員は戦闘シーンのエキストラを含めて延べ59万5,798人で映画史上空前絶後のスケールと言われた。

  • 戦争と平和」と言えばナターシャ。かつて米国で製作された映画ではオードリー・ヘップバーンが演じたが、この映画ではそれまで全くの素人が抜擢された。既成の女優ではトルストイのイメージにピッタリあう人がいなかったので、ソ連文化省が芸術のあらゆる分野の少女を調べてその候補者を数百人選び出した。その中から、レニングラードのバレー学校を卒業したばかりでやがてはレニングラード・バレーのプリマドンナに嘱望されていたリュドミラ・サベーリエワが候補者リストから浮かび上がり、スクリーンテストを受けて、誰もが「彼女こそナターシャだ」と思わず叫んだという。結局撮影は丸4年以上かかり、彼女も17歳から21歳までの間撮影に入っていた。なお彼女はその後、イタリア映画でヴィットリオ・デ・シーカ監督、ソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニ主演の「ひまわり」でマストロヤンニのソ連での妻役で出演している。

本国ソ連では1966年から1968年の間に1億3500万人を超える人々がこの映画を観たとされ、また、世界117カ国の劇場で公開された。4部構成で製作されたが、日本では第1部と第2部は「第一部」、第3部と第4部は「完結篇」として2つに分け、第一部(210分)は1966年7月23日に、完結篇(177分)は翌1967年11月23日にロードショー公開された。

「ワーテルロー(Waterloo、1970年)」

1815年6月18日に行われたワーテルローの戦いを主題にしたイタリア・ソ連合作映画。

  • フランス皇帝ナポレオンとイギリス軍司令官ウェリントン公の戦いを描く。早朝から夕方までの戦況の変化を克明に描写、イギリス軍拠点ウーグモンへの攻撃に始まり、フランス歩兵の前進、イギリス竜騎兵の突撃と全滅、フランス騎兵の突撃とイギリス軍方陣の戦闘、フランス近衛兵の投入と全滅などが細かく描かれている。

  • 撮影には当時のソ連軍が全面協力し、英独蘭仏合わせて総勢20万の大軍が激突した戦いをCGでは表せない奥行きのある合戦シーンで再現した。ナポレオンを題材にした映画では、トルストイ原作で旧ソ連が映像化した『戦争と平和』に並ぶスケール感を持つ。

展開は以下。

  • ナポレオン・ボナパルトはその優れた軍事的・政治的手腕、革命的思想によって全ヨーロッパを席巻したが、スペインやロシア、ライプツィヒで敗北を重ね、1814年4月、オーストリア・ロシア軍をはじめとする同盟軍のパリ入城を許していた。ミシェル・ネイをはじめとする元帥たちはナポレオンに退位を迫り、一度は退位を拒否し同盟軍への徹底抗戦を唱えたナポレオンも、パリ防衛を任せていたオーギュスト・マルモン元帥の降伏を知るとやむなく退位文章に署名する。フォンテーヌブロー宮殿で老近衛隊に別れを告げた後、ナポレオンは放流先のエルバ島へ向かった。

  • しかし10ヶ月後の1815年3月、ナポレオンはエルバ島を脱出し、フランスへと上陸。フランス国王ルイ18世はナポレオン討伐の兵を差し向けるが、彼らはことごとくナポレオンに帰順、兵士や市民の歓声の中ナポレオンはパリ入りし、ルイ18世を追放して再び皇帝の座に着いた。

  • 各国がフランスに宣戦、ナポレオンを法外処分にしてフランスに対する包囲網を築きあげる中、ナポレオンはブリュッセル近郊にいたウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー元帥率いる英蘭連合軍、ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヒャー元帥率いるプロイセン軍の各個撃破を意図。みずから兵を率いて6月15日夜、ブリュッセルへ向かう。そのころ、フランス軍来襲の報に触れたウェリントンは出席していた舞踏会(英語版)を抜け出し、部下たちと作戦会議を開いていた。ウェリントンが防衛線として目を付けた村々には「ワーテルロー」の名もあった。

  • フランス軍は6月16日、リニー、カトル・ブラにおいてそれぞれプロイセン軍、英蘭連合軍を退却させることに成功するが、プロイセン軍は悪天候にも助けられてエマニュエル・ド・グルーシー元帥の追撃をかわしながら英蘭連合軍との再合流を目指し、英蘭連合軍もワーテルローの近郊に部隊を展開させていた。6月17日、この日は豪雨によりフランス軍・英蘭連合軍ともに作戦行動はできなかったが、ナポレオン、ウェリントンともに不安な夜を過ごしていた。グルーシーの部隊、プロイセン軍の出方次第で勝敗が決まるからである。

  • そして6月18日。17日からの豪雨により地面は泥濘と化し、フランス軍は砲兵が移動できるよう、地面が乾く正午まで総攻撃を控えなくてはならなかった。11時35分、両軍の砲兵による砲煙と爆煙が空を埋め尽くす中、フランス軍の戦列歩兵が英蘭連合軍右翼部隊の守るウーグモン農場に進撃を開始した。のちに「ワーテルローの戦い」と呼ばれることになる戦闘の始まりである。

イタリアの著名プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスソ連・モスフィルムと組んで制作したが、全世界のマーケットを視野に入れた為、キャストには欧米の一流どころの顔がずらりと並んだ。ソ連オリジナル全長版は240分の上映時間。

「ヨーロッパの解放(Освобождение、1970年〜1973年)」

独ソ戦を描いたソビエト連邦製作の戦争映画シリーズ。監督はユーリー・オーゼロフ。1970年に製作を開始し完成に3年を要した国家的事業の超大作映画で、総上映時間は合計で7時間48分。5部構成で、1943年のクルスクの戦いから1945年のベルリンの戦いまでが、無名のソ連軍兵士、セルゲイ・ツヴェターエフを主人公として描かれている。

  • 第一部 「クルスク大戦車戦」
  • 第二部 「ドニエプル渡河大作戦」
  • 第三部 「大包囲撃滅作戦」
  • 第四部 「ベルリンの戦い」
  • 第五部 「最後の突撃」

製作動機はアメリカ合衆国製作の『バルジ大作戦』に対抗するためとされている。

  • ヨシフ・スターリンは歴史的人物として登場するが、製作年代がフルシチョフによるスターリン批判以後のためか、個人崇拝の雰囲気では描かれていない。

  • ソビエト、ドイツを始め実在の人物が多数登場するが、アドルフ・ヒトラーは狂信的な独裁者として描かれ、ゲオルギー・ジューコフが度々登場するが彼と並んで独ソ戦ソビエト軍中核的指揮官として活躍したイワン・コーネフの出番は少ないなど、人物の描写についてはあくまで「映画」としての描写であり、史実の再現や解説を意識したものではない。

  • 東西冷戦時代の作品ではあるが、ソ連と同じ連合国側のアメリカ合衆国やイギリスについては好意的に描かれている。

  • グラスノスチ以前のソ連で製作された映画であり、1944年のワルシャワ蜂起には言及していない、また、ドイツ軍が行ったとされる蛮行について多く描かれている一方でベルリンでのソ連赤軍の蛮行は一切描かれていない、ドイツ軍人、特に親衛隊員は冷酷非情な存在として描かれる一方でソ連軍兵士は善人で心優しく礼儀正しい存在として描かれる等、「国策映画」としての色合いが濃い作品である。

  • 第一部「クルスク大戦車戦」では多数の戦車(実物のT-34やIS-2のほかT-44改造のティーガー戦車等)が登場し、戦車登場台数は全映画で最も多い。

  • 作中ではソ連人はロシア語を、ドイツ人はドイツ語を、というようにそれぞれ個別の母国語を喋っており、アメリカの映画でよくあるように「アメリカ人もドイツ人も同じように英語を喋っている」というような作りにはなっていないが、本国公開版ではロシア語以外の台詞にはロシア語による同時通訳的な吹き替えが行われている。日本で市販されていたDVDでは、ドイツ語や英語などのロシア語以外のシーンでも、ロシア語の吹き替え音声がそのまま収録されている。

  • 日本での初公開の際は第一部・第二部がまとめて上映された。

  • 1973年の日活映画『戦争と人間 第3部・完結編』の劇中、ノモンハン事変のシーンには当作のフィルムが流用されており、第一部 「クルスク大戦車戦」他の戦闘シーンが使われている。1979年の松竹映画『復讐するは我にあり』の劇中に、第三部「大包囲撃滅作戦」のオープニングが現れる。

日本では長らくセルソフトが絶版であったが、2014年にテレビアニメ「ガールズ&パンツァー」とのコラボレーション企画として、HDリマスター版がリリースされた。

そして日本においても「第二次世界大戦において世界を枢軸国から解放したのはソ連だった」という歴史観に従ってスペクタル史劇が制作される運びとなります。

「 戦争と人間(1970年〜1973年)」

山本薩夫監督の3部作日本映画。五味川純平の同名大河小説「戦争と人間」の映画化作品で、日本映画としては同じく五味川の小説を映画化した『人間の條件』の9時間31分に次ぐ9時間23分の長さを誇る、日活製作による戦争大河超大作である。

第一部

第二部

第三部

物語は、1928年(昭和3年)の張作霖爆殺事件前夜から1939年(昭和14年)のノモンハン事件までを背景に、様々の層の人間の生き様から死に様までを描いている。そして、その後の太平洋戦争に至る経緯について丁寧に表現されている。

第三部ではソ連国内でモスフィルムの協力の下撮影が行われた。ノモンハン事件の大規模な戦闘シーンはソ連軍の協力で撮影されており、ソ連ロケ・ソ連軍全面協力の戦闘シーンという日本映画としては異例の大規模映画となっている。

当初は東京裁判による伍代家の破滅まで描いた四部作を予定していたが、豪華キャスト・本格的な戦闘シーン・海外ロケと日本の映画史上でも屈指の大作であったため、当時の日活の経営悪化もあり結果的に予算が続かず、第三部で完結を強いられた。第一部だけでも3億5000万円の製作費がかかったが、この作品自体は大ヒット作となっている。

その制作費の財源は新左翼崩れを熱狂させた「日活ニューアクション映画」の制作を打ち切らせ、その儲けを吐き出させる形で捻出されたのです。それ故に「(日本の共産党社会党といった)旧左翼の新左翼に対する大勝利を記念した歴史的モニュメント」という側面も備えるに至る形に。
*そしてこの展開が生んだ絶望感が永井豪をして「ハレンチ学園(1968年〜1972年)」の中で「ハレンチ戦争」を描かせ、「デビルマン(1972年〜1973年)」を発案させるに至る。
OTHER/日活アクション映画

胎動期(1954年~1956年)…製作再開から石原裕次郎さんのデビューまでの期間。他社の監督、俳優を引き抜いたり、新国劇の役者などを中心に活動。日活生え抜きの監督、俳優は1956年頃になり、やっと補助的な役割を果たす。

興隆期(1957年~1958…「狂った果実(1956年)」「嵐を呼ぶ男(1957年)」で石原裕次郎さんがスターとして注目され独走体勢に入り、それまでの日活株式会社に大きく貢献した。小林旭さんは、一本立ちしているものの後年の活躍はまだ見られない。また、この時期に後に活躍する監督・俳優がデビューした。

全盛期(1959年~1962… 『南国土佐を後にして』の大ヒットによって、始まった「渡り鳥・流れ者シリーズ」に代表される興行的成功により無国籍アクション映画が量産された時期。ダイヤモンドの活躍が中心だったが、トニーの死によって第一期ダイヤモンドライン(石原裕次郎小林旭赤木圭一郎、和田浩治)が崩壊した。 その後、宍戸錠さん、二谷英明さんが加わり、第二期ダイヤモンドラインが始まった。また「渡り鳥シリーズ」がこの時期に終わった。

爛熟期(1963年~1967年)… ムードアクションと呼ばれる石原裕次郎さんと浅丘ルリ子さん共演の一連の作品(『赤いハンカチ』『夕陽の丘』など)と、宍戸錠さんのハードボイルド・アクションが新たな日活らしさを発散していた。また、この時期、無国籍アクションに代わるスタイルを模索中であったために多様な作風が生まれた。一方、この時期東映任侠映画が登場し隆盛を迎えていた。
東映任侠映画…しかし「チョンマゲを取った時代劇」、すなわち義理人情に厚く正しい任侠道を歩むヒーローを主人公とする虚構性の強い仁侠映画は1960年代末までに観客から飽きられ、すっかり行き詰まってしまった。その閉塞感を打ち破ろうとする試行錯誤が松竹の山田洋次監督映画「男はつらいよシリーズ(1969年〜1997年)」や東映深作欣二監督映画「仁義なき戦い・シリーズ8作(1973年〜1976年)」を生み出す事に。

再興期(1968年~1971年)… 日活ニューアクションが次々に作られた時期。しかし、皮肉にも公開時には興行的評価が低く、話題になったのは後年に名画座などでの上映によるものだった。渡辺武信先生は『縄張はもらった』をニューアクションの先駆的作品と評価されている。
*『縄張はもらった(1968年)』…小林旭主演作品。共演者は宍戸錠二谷英明梶芽衣子。新興都市の土地買収にからんだヤクザどうしの利権争いを描く。当時人気があった東映映画を敵である新興ヤクザにあてはめると、地元のヤクザを興行的に劣勢の日活とみた場合、東映軍団(高倉健鶴田浩二の二大スターが人気を誇っていた)日活オールスター軍団(全盛期スターと後のニューアクションで活躍するスター)との戦いとして見ることもできる。東映に先駆けて制作された「実録やくざ」路線とも。興行的には振るわなかった。

永井豪原作映画「ハレンチ学園実写版4作(1970年〜1971年)」の爆発的ヒットなどがあり、倒産寸前だった日活はなんとか経営を立て直したが、巻き添えで風評が地に落ちてしまった。「戦争と人間(1970年〜1973年)」にその儲けを注ぎ込んだのは、風評回復の為だったとも。ちなみに国際SNS上の関心空間においては、タランティーノ監督が絶賛した東映のピンク・バイオレンス映画代表作「女囚さそりシリーズ4作(1972年〜1973年)」を主演した梶芽衣子を発掘した「野良猫ロックシリーズ5作(1970年〜1971年)」の人気が圧倒的に高い。

*とはいえ「女囚さそりシリーズ」の源流には「黒人搾取映画(Blaxploitation Movie、1970年代前半)の女王」パム・グリアーを発掘したロジャー・コーマンのプロデュース映画「女囚シリーズ三部作(1971年〜1974年)」の国際的大ヒットもあった事を決っして忘れてはならない。そしてこれがアメリカやイタリアでは「ナチ収容所物」に化けてしまうのである。
WOMEN IN PRISON MOVIE

そして以降、日活は「ロマンポルノ」路線で身を立てるしかない状態へと追い込まれていく。

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ハレンチ学園 - Wikipedia

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そもそもスペルタクル史劇の大源流のひとつは「乱痴気」サイレント映画で大金を稼いだセシル・B・デミルが、風評回復を狙って聖書や古代ローマ時代の世界に題材を求めた大作路線に移行した事だったのを思い出してください。ここでもまた歴史は繰り返してしまったのです。それでは、その具体的内容は?

それでは、さらなる全体像の俯瞰を試みてみましょう。

http://euro-bis.e-monsite.com/medias/images/amerigo-santarelli-archer-carthaginois-bateau-phegor-.jpg

  •  そもそもスペルタクル史劇の起源を最源流まで遡るとD.W.グリフィス監督の手になるサイレント映画大作「國民の創生(The Birth of a Nation、1915年)」にまで辿り着く。この映画は(既に自然消滅し忘れられかけていた)KKK「正義の味方」として扱って全米じゅうに広める事によって米国南部保守主義に大きな影響を与え、人種差別とヘイトクライムを急激に増大させたといわれている。マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬGone With the Wind、1936年、映画化1939年)」もまた、その強い影響下で発表されている。

  • ソ連のプロパガンダ映画の歴史も同じくらい古く「戦艦ポチョムキン(Броненосец «Потёмкин» / Battleship Potemkin、1925年)」まで遡るが、以降セルゲイ・エイゼンシュテイン監督はスターリン独裁体制への迎合を余儀なくされ「 アレクサンドル・ネフスキー(АЛЕКСАНДР НЕВСКИЙ / Aleksandr Nevskiy、1938年)」や「イワン雷帝(Иван Грозный / Ivan the Terrible、第1部1944年、第2部1946年)」といったある種の「家父長制礼賛映画」の制作しか許されなくなっていく。

  • ゲッペルス率いるナチスドイツ宣伝省は「娯楽にこそもっとも強いメッセージ伝播力がある」「最良のプロパガンダとは最良の娯楽のことである」「プロパガンダとは輸送船団のようなものだ。全ての船が無事に物資を目的地に届けなくてはならないが、その為には船団の中で最も速度の遅い船にペースを合わせなければならない。一部だけが先走っても意味はなく最も低いレベルに基準を置かねばならない」をモットーとし「法螺吹き男爵の冒険(1943年)」や「コルベルク(Kolberg、1945年)」を制作。一方、ムッソリーニが創始したイタリアのチネチッタ(Cinecittà)撮影所などは「第二次世界大戦後の欧州復興事業」の一環に組み込まれ、「ハリウッドの大作スペクタクル史劇路線」の基本インフラとして再活用される事になる。

  • 乱痴気サイレント映画で大金を稼いだセシル・B・デミルは、風評回復を狙って聖書や古代ローマ時代の世界に題材を求めた大作路線に移行。ここでも調子に乗って瀆神的表現を連発してHays Code制定(1930年、履行1934年〜1968年)を招いてしまう。その背景には「映画がトーキー化によってますます大衆に対する影響力を増大させる事に対する懸念」が存在した。

    そのセシル・B・デミル監督映画「十戒(The Ten Commandments、1956年)」を筆頭に1950年代は聖書の世界や古代ローマ時代に舞台を求めるスペクタクル史劇の黄金時代となり、米国南部保守主義に大きな影響を与える事になる。この時には豪華なセットやコスチューム、モブの大量動員に加えてチャールトン・ヘストンオードリー・ヘップバーンエリザベス・テーラーといったスター俳優が「飲みやすくする為の糖衣」の役割を果たした。
    *そもそも1950年代から1960年代にかけては「テクニカラー映画」である事そのものに特別な意味があり、これをハリウッドよりはるかに安価に供給出来た英国怪奇映画や日本の特撮怪獣映画が新機軸として熱狂的に受容された。そういえば、ハリーハウゼンのテクニカラー特撮映画「シンバッド七回目の航海(1958年)」「アルゴ探検隊の大冒険(1963年)」は、まさにこの時期の作品。その職人芸故に以降も独自性は薄らがず「シンドバッド黄金の航海(1973年)」「シンドバッド虎の目大冒険(1977年)」「タイタンの戦い(1981年)」などが制作されている。

    しかし1960年代に入ると、そうしたイデオロギー色を大幅に薄めた異色作が主流となり、1970年代に入ると大規模パニック映画にその座を譲る展開となる。

  • 一方、ソ連では、スターリン死去(1953年)とそれに続いたスターリン批判(第1回1956年、第2回1961年)、1960年代に急激に進行した科学的マルクス主義の形骸化などを背景として新たなる愛国心の拠り所を必要とする様になった。ここで白羽の矢が立ったのが二度の祖国防衛戦争(対ナポレオン戦争、対ナチスドイツ戦争)で、「戦争と平和(Война и мир、War and Peace 、1967年)」「ワーテルロー(Waterloo、1970年)」「ヨーロッパの解放(Освобождение、1970年〜1973年)」といった国策的スペクタル史劇が次々と産み落とされ、ソ連における国民意識高揚に大いに役立った。 
    *こうした流れと「東宝8.15シリーズ(1967年〜1972年)」に対する松竹映画の対抗意識が映画「戦争と人間三部作(1970年〜1973年)」を生み出したとも。

    http://www.vokrug.tv/pic/product/a/f/0/f/medium_af0f8eb80224bc3671d67adfff6f1f6f.jpeg

  • 映画「戦争と人間 第3部完結編(1973年)」公開と時期を同じくして日本のリベラル層は中沢啓治はだしのゲン(1973年〜1985年)」 を「正しい歴史観」として受容する様になっていく。
    *どうやらこの時期に「歴史的正確さより情緒に訴える力」みたいなロマン主義的思考様式が広まったらしいのである。


    http://blog-imgs-47.fc2.com/r/o/b/roboukoishi/keygen2.gif

    http://www.ekins.jp/jrnishi/sanin/matsue/bbs/board/img/13772322220001.jpg

  • 中国共産党毛沢東が死去し、四人組(江青張春橋姚文元王洪文)が逮捕されると同様の問題に悩まされる事になる。どうやらその際に「戦争と人間三部作(1970年〜1973年)」などの影響を強く受けた様で、中国共産党の保守化が「(実際には参加してない)対日戦争を愛国心の拠り所とする」方向に進行。

で、こうして(形骸化した科学的マルクス主義からの脱却を余儀なくされた)ソ連や日本のリベラル層や中国を連続的に見舞った(史料に拠らない)新たな真実の歴史観の創造プロセス」を、マンハイムは「保守主義思想の成立」と呼んでる訳ですね。

資本主義社会の労使関係においては人間が疎外されている」と主張したカール・マルクスら左翼陣営も、こうした「かつては諸事物にゆきわたった、あの生き生きした関係が存在したのだ」なるノスタルジーを積極的に利用した。レーニンが米国のテイラー主義(Taylorism)に魅了されたのも、そこに「領主が領主と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」に通底する「古き良き労使一体関係」を見て取ったからかもしれない。 

アメリカでも「進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1920年代)」から「黄金の1950年代」にかけて同様の展開があったと考えられています。
*英語の「歴史修正主義(Historical revisionism)」には「家父長主義的白人男性中心史観の克服」なんてニュアンスもあって、ステレオタイプ的にはこれをネガティブなニュアンスでしか捉えないのもアメリカの保守主義的思考の特徴。
Historical revisionism - Wikipedia

フランスにおけるシック(chic)概念の成立史もなかなか複雑怪奇。19世紀フランスは所謂「政治の季節」で、王党派や教皇至上主義者やボナパルティストが離合集散しながら政権争いを繰り広げます。その間に新興ブルジョワ階層が台頭。彼らは総負けして共和制の時代となる訳ですが、その置き土産として超党派的価値観として残されたのがこの概念だったのです。英国のダンディズム(Dandyism)との関係すら不明。

「フランス語で、いかにも垢抜けた様子を『シック』chic という。非常によく使われる語であるが、フランス語らしくない音の語である。( 中略 ) この語はドイツ語で『秘儀』とか『作法』という意味の『Schick』がフランス語になったのではないかという説が有力である。」

坂部甲次郎著『おしゃれ語源抄』( 昭和三十八年刊 ) には、そのように書かれている。シックの源には「秘儀」の意味があったらしい。これは納得がゆく。秘儀であるからこそ、開けても開けても、まだ小箱に包まれているのだ。

「シックというものはある少数の人間が発散するものであって、そういう人間は、その友達とかその友達の友達の圏内……」

マルセル・プルースト井上究一郎訳 『失われた時を求めて』に出てくる一節である。ここからはじまって、プルーストは延々と、シックとは何かを語る。いや、小説の登場人物にも大いに語らせてもいる。言葉を換え、表現を換えて、語る。それでもまだシックは神秘の箱に包まれている

中国共産党も2004年以降「和諧主義」を標榜する様になりました。
漸進主義 - Wikipedia
和諧社会 - Wikipedia

こうして先例を積み重ねていくと「進歩主義者がいつの間にか保守主義者に変貌してて、しかも当人だけ気づいてない」って展開はそう珍しいものでもないみたいですね。