オバマ政権のとき、テロの危険性を避けるため、6回もイスラム圏からの入国を禁止する措置をとっているが、メディアは殆ど問題にしなかった。
— ラク丸 (@rakumaru_japan) 2017年2月1日
原理主義的な「トランプ批判」「安倍批判」を繰り返す民主党好き偏向報道は、マスゴミのお家芸だな。
「差別」と「区別」は違うよ!#トランプ大統領令
全然中道派を動員出来ないリベラル層…その一方で21世紀には全体構造としてリベラル派が保守主義的思考様式を奉じ、保守派が進歩主義的思考様式を奉じる時代になったとも見て取れる展開となりました。
世界観が真っ向から対立することの多いリベラル派と保守派だが、実際、脳の構造が異なっていたとする研究成果が、7日の米科学誌カレント・バイオロジー(Current Biology)に発表された。
英ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジ(University College London、UCL)の研究チームは、健康で若い成人90人を対象に実験を行った。自分の政治的志向を1の「非常にリベラル」から5の「非常に保守的」まで5段階で評価してもらったあと、脳をスキャンした。
その結果、リベラル派であるほど前帯状皮質の灰白質の容積が大きく、保守派であるほど右へんとう体の容積が大きい傾向があることがわかった。
前帯状皮質は複雑性の理解に関連しており、不確実性や対立をチェックする機能を持つ。そのため、前帯状皮質が大きい人ほど不確実性や対立への認容性が高く、リベラルな物の見方を許容しやすくなると考えられるという。
一方、へんとう体は恐怖心の処理に関連しており、これが大きい人ほど、反感や脅すような表情に敏感で、危機的状況に際してはリベラル派以上に攻撃的に反応する傾向があるという。
これまで、一定の心理的特性でその人の政治的志向を予測できることは知られていた。政治的志向を脳活動と関連付けた研究はあったが、脳の構造と結びつけた研究は今回が初めて。
こういう研究もありますが、第二世代フェミニズムと大三世代フェミニズムの対立に典型的な形で見て取れる様に、現実の世界においてはリベラル派が伝統的守旧派と同じくらい価値観の異なる相手や環境の変化に不寛容で戦闘的態度を剥き出しにする様になる一方で、新世代の保守派はその漸進主義ゆえにあらゆる展開に穏便な対応を望む様になりつつあるのです。
ただしこうした変化はそもそも一般に国際的には、社会を「左翼と右翼の対立」として把握する従来の価値観を放棄し「(従来の価値区分における極右と極左を中心とする急進主義的な)現状懐疑派と(従来の価値区分における中道派を中心とする漸進主義的な)現状維持派」の対立」という新たな区分に移行するものと目されています。
なにしろ一般に「宗教右翼」と目される事が多い「アメリカの福音派」でさえ「(一刻も早く米国全土に自らの正しい価値観を強制したいと考えている年配者中心の)急進派」と「(いきなり他人に自らの価値観を押し付けるのは不可能という諦観と分別を備えた若者中心の)漸進派」に分裂してしまいました。こういう時代には確かに全体を現状懐疑派と現状維持派に二分するくらいしか全体像を俯瞰する方法がなくなってしまうのかもしれません。
リベラルと福音派の見分け方
それにしても、どうしてこんな「役割交換」が起こってしまったのでしょうか。
ここでも見た様に、どうやらカール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)の「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」は、それ単体で読み解ける様なテキストではありません。そもそも 「ドイツ国家人民党(Deutschnationale Volkspartei, DNVP、1918年〜1933年)がやや中道化し、ヴァイマル共和国政府に協力することもあった(すなわち英国や米国や日本の様に保守政党が与党側として政権に携わる可能性が存在した)1925年から1928年にかけての期間に執筆された」という時代性から離れて論じられる内容ではない様なのです。
マンハイム「保守主義的思想」における進歩主義者の「合理的ユートピア」論と、保守主義者の「ノスタルジーの体験的統合」
進歩主義者が特殊的なものに対しておこなう補全化はたいてい合理的ユートピアから発し、存在し、生成しつつある全体の構造的展望に向かう。
比喩で表現するならば、保守主義的体験が全体についての包括的な画像を描く場合には、この画像はちょうどあらゆる側面、隅々から、すなわちすべての視覚から具体的な生活中心を総観して作り上げられた家の全景と似ている。
これに対し進歩主義者の全景は、設計図をさぐり、以前にはっきりしなかった合理的に分解できる関連を探索する。
補全化体験におけるこのような「方向の相違」には、進歩主義的体験と保守主義的体験とのよりいちじるしい相違がすでに含まれている。すなわち時間体験の相違がそれである。
マンハイム「保守主義的思想」における進歩主義と保守主義と時間体験の相違
時間体験の相違を図式的にとらえるならば、進歩主義者はその時々の現在を未来の発端として体験し、保守主義者は現在を過去の終局段階と体験する、ということができよう。保守主義的体験にとっては、前者の説く歴史的過程の直線性などということはなんら本源的なものではないという点で、その相違はより大きく、かつまた真により徹底的である。
①ここでいう「進歩主義者の合理的ユートピア論」 は、フランスの数学者コンドルセが思い描いた「計算癖(独Rechenhaftigkeit、英Calculating Spirit)の全人格化の理想視」や、「ロシア革命の最終勝者となったボルシェビキの指導者レーニンの、テイラー主義(Taylorism)理想視」に端を発する「貧富格差の直接解決ではなく階級流動性、すなわち有能な貧者の富裕階層入りと、無能な富者の貧困階層落ちを保証するシステムの維持に全力を尽くすスタンス」と重なります。中国共産党も建前上は2004年以降「和諧社会の達成」を標榜する様になり、この流れに加わりました。
*要するに、世界中の中世に偏在した「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的体制」は別に超克された訳ではない。ランティエ(rentier=王侯貴族や聖職者の様な不労所得階層)を切り捨て、「実際に有益な労働に従事する産業者(les indutriels)こそが社会のにない手(それはブルジョワ階層や地主や自作農の既得権益への執着、法律家や国王の紛争調停機能をも含む)」と考えるサン=シモン主義へと発展的に解消されたのである。
サン・シモンと産業主義の思想
*もちろん現実はあくまで泥臭い。英国におけるジェントルマン資本主義、日本における「我田引鉄」政策、米国における「剥き出しの生存競争」…だが、そもそも「ちっとも泥臭くなく、インテリ階層も無条件で支持し得るリアリズム(現実主義)」など本当に実在し得るのだろうか?
フランスを舞台に18世紀末から19世紀後半にかけて展開した壮絶な階級闘争の最終勝者となったのは「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれる新興政治的経済的エリート階層だった。一方英国と日本では元来地主階層の利権代表者に過ぎなかった保守党が、急進派には嫌悪感しか抱けない労働者階層の支持を勝ち取る事に成功する。
「アイルランド系が嫌われ者の役を引き受けてくれるまでドイツ系が自衛の為に寄り添っていた時代を忘れるな。そのアイルランド系もポーランド系が往来するとアメリカ人の仲間入りを果たした。南イタリアから移民が押し寄せる様になってスラブ系移民がそう見做される様になったのと同様に(ジョン・スタインベック「アメリカとアメリカ人(America and Americans,1966年)」)」。
スタインベックはさらに続ける。中国系がアメリカから侵入者(Invaders)と見做されなくなったのは日系の登場のせいだと。その日系にとっての救世主はインド人、フィリピン人、メキシコ人であったと。「一般人の警戒と敵視が全てだ。アメリカ人を、いや人類を買い被るな。所詮はそんなものだ。自分達も含め相当厄介な生物と覚悟しておけ」。これが彼の到達した結論らだった。両親が共稼ぎで生計を立てていた為に彼は奨学金でスタンフォード大学に通い、結局は資力が続かず中退するのだが、専攻は海洋生物学だった。スタインベック文学特有の人間を突き放して俯瞰する独特の視点の背景には生物学的教養が大きく寄与していたのである。
②これに対して「各国の政治的エリートと庶民に与えられた自己実現の可能性はあくまで異なる」という立場に立つのが、マンハイム言う所の「ノスタルジーの体験的統合」を重視する立場。あるいは儒学的伝統に立脚したインテリ=ブルジョワ階層独裁主義。もちろんこちら側には「貧富格差の直接解決ではなく階級流動性、すなわち有能な貧者の富裕階層入りと、無能な富者の貧困階層落ちを保証するシステムの維持に全力を尽くすスタンス」など皆無で、ランティエ(rentier=王侯貴族や聖職者の様な不労所得階層)の切り捨てなぞ言語道断。「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的体制」についても基本的に否定するどころか、むしろ積極的に肯定する立場だったりします。まさしく「スペクタクル史劇的歴史観」そのもの。「聖書の世界観へのノスタルジー」や「古代ギリシャ・ローマ時代へのノスタルジー」に立脚する自由主義貿易圏も、「祖国防衛戦争の意義」に執着する共産主義圏にせよ、それが保守主義的思想である事実は動きません。黒澤明監督映画における重要な主題の一つだった「決して最終的合流には至らない伝説の人々(Ledgends)と庶民の一時的邂逅」なるトピックもまた、そのバリエーションの一つとして認識すべきでしょう。
*アンナ・ハーレントは「直接貧富格差の解消を試みた政権はすべからく自滅した」と述べている。そもそも貧困層のうち、手段を選ばず立身出世の可能性を追求する自意識の強い層を「裏切り者」として容赦なく切り捨てねばならない立場なのが最初の試練となるのだから当然の帰結とも。そもそも、こういう次元において「貧富格差の直接解決ではなく階級流動性、すなわち有能な貧者の富裕階層入りと、無能な富者の貧困階層落ちを保証するシステムの維持に全力を尽くべきである」とする合理的ユートピア主義に絶対勝てない不利をどうやってカバーすべきなのか。答えは割と簡単。「人類は進化に向けて絶えざる努力を続けてきた」なる進歩主義史観そのものを「悪魔の誘惑」として絶対悪認定し、時には自らの内的整合性すら無視してそれに反対する立場を貫けば、何とか、かろうじて体裁だけでも正義の立場を維持出来るのである。かくして科学的マルクス主義の形骸化が始まって以降、左翼陣営は重心を喪失して「環境左翼」「反戦左翼」「反原発左翼」などに分裂しつつ、何とか今日まで存続してきた。唯一の悩みどころはただ1点。単なる「ランティエ(rentier=王侯貴族や聖職者の様な不労所得階層)」の利権代表であり続ける限り保守党に政権を担う可能性など皆無だった様に、こんな(それぞれ掲げる正義が異なる)諸派の寄せ集めに政権を担う可能性など皆無だという事。というか、ここまでくると保守主義どころか一切の変化を拒絶する単なる守旧派的伝統主義に過ぎない。
かくして21世紀にはリベラル層が「共産主義圏における祖国防衛戦争神聖視」を根拠とする保守主義的思考様式に拘泥する一方で、保守主義層が「進歩主義者の合理的ユートピア論」 に端を発する漸進主義に拘泥する「役割交換」が顕在化する展開になったという次第。
そもそもこの現象を理解する鍵は、冒頭に掲げたAFP記事で実際に測定された脳機能が「(認識可能な領域の外側に広がる)不確実性への耐性」だった点にあるかもしれません。カント哲学でいうところの「物(独Ding、英Thing)の世界」に対する「物自体(独Ding an sich、英thing-in-itself)の世界」。大乗仏教の始祖龍樹の二諦説における「世俗諦(saṃvṛti-satya)の真理」に対する「第一義諦(paramārtha satya)の真理」の世界。
龍樹やカントを起源とする「人間の認識可能な領域には限りがあり、宇宙の真理や本当の主体はそちら側の領域に存在するかもしれない」なる実存不安。人類はこれを克服すべく様々な思考様式を開発してきた。
- 「華厳経(梵Avataṃsaka Sūtra(アヴァタンサカ・スートラ)3世紀頃、中央アジアにて成立)」の「宇宙神」毘盧遮那仏(梵Vairocana(ヴァイローチャナ)=光明遍照)はいかにも第一義諦の象徴らしく超然と存在するだけだが、密教の「大日如来(梵महावैरोचन [mahāvairocana](マハー・ヴァイローチャナ)」は「正しい手順さえ踏めば手が届く」存在へと改変された。
- イスラーム哲学(Islamic philosophy)を起源とするスコラ学(scholasticus)は仏陀のいう「縁起の世界」、龍樹のいう「世俗諦の真理」は独立して存在している訳ではなく、動いてるプログラムの背後にそれをコーディングして走らせたプログラマーが存在する様に、神がそういう存在として超然と存在すると考えた。この考え方は後に「神は世界創造に際して最初のプログラムを書いただけだ。その後のメンテナンスは良い意味でも悪い意味でも人間だけが担ってきた」とする理神論(deism)に発展。
- カント哲学的ニヒリズムを否定すべくヘーゲルが編み出したのが「人間の幸福は、民族精神(Volksgeist)ないしは時代精神(Zeitgeist)との完全なる合一を果たし、自らの役割を与えられる事によってのみ達せされる」という哲学。これに対抗してマルクスは「我々が自由意志や個性と信じているものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」という考え方を提言し、ある意味社会学の祖となったが、皮肉にも彼の名前が冠された「科学的マルクス主義」の実態はヘーゲル哲学に近いものだった。
- 同じくカント哲学から出発したアメリカのプラグマティズム(Pragmatism=実用主義)は「神は人間の問題解決に必要なものは全て認識可能な範囲内に置いておいてくださる」という結論に到達した。
- 北原白秋は「遊戯に夢中になって時間が経つのも忘れる幼児の心」に仏教用語における「三昧の境地」を見て取った。陽明学左派の李卓吾は儒教の基本理念「格物致知」を否定し「童心説(人間は誰でも良心を備えて生まれてくるが、それは成長して知識や道理を刷り込まれるにつれ失われていく)」を提唱した。要するに「人間には元来、誰にでも生得的に第一義諦に到達する能力が備わっているが、世俗諦の侵食を受けてそれを失う」という立場。
- 大坪砂男はハードボイルド文学の本質を「あえて泥の大海に蓮の花を探すセンチメンタリズム」と表現した。この「(世俗諦から第一義諦へ突き抜けようとする)求道者が存在するのみで、結果の保証は一切なされない」冷徹な世界観はヴァイマール時代ドイツのエルンスト・ユンガー辺りを嚆矢とする魔術的リアリズム文学の世界とも重なる。
- 上掲の「(世俗諦から第一義諦へ突き抜けようとする)求道者が存在するのみで、結果の保証は一切なされない」冷徹な世界観のバリエーションとして「キリスト教におけるイエス・キリスト」「地蔵信仰における地蔵菩薩」「弥勒信仰における弥勒菩薩」「浄土真宗における阿弥陀如来」といった「仲介者に対するクローズ・アップ」がなされた。
そして最後にフランスの数学者コンドルセが思い描いた「計算癖(独Rechenhaftigkeit、英Calculating Spirit)の全人格化の理想視」や、「ロシア革命の最終勝者となったボルシェビキの指導者レーニンの、テイラー主義(Taylorism)理想視」などに端を発っする「科学実証主義に立脚する現代社会」が到来して世界を覆い尽くす。スタンス的には「(世俗諦から第一義諦へ突き抜けようとする)求道者が存在するのみで、結果の保証は一切なされない」冷徹な現実を直視する姿勢の延長線上に現れたものと看做せる。
要するに「役割交換」が起こったのは、こうした展開において保守派が「あえて泥の大海に蓮の花を探すセンチメンタリズム」を選び、リベラル派がそれを拒絶したせいではないでしょうか? 最近でいうと庵野秀明監督映画「シン・ゴジラ(2016年)」辺りが良い踏み絵だったかもしれません。
- 様々な意味で「現実はこうだよね」なる諦観を抱えて受容したのが保守派
- 「気持ち悪い。現実はこうじゃない」と頭ごなしに拒絶したのがリベラル派
シン・ゴジラ、左巻きの人たちにはウケが悪い様子。彼らにとって庵野は悪、宮崎駿、ワンピースは善らしい。イデオロギーに凝り固まってるとこういう評価…踏み絵だな。第1作は別格としてその後のゴジラはほとんど子供向け。特撮もガメラの方がマシだった。まだ観てないから早く観なくては
— しこうせんしゃ2677 (@shikou_sensya) 2016年7月30日
実際には思想的立場の違いというより「世代の違い」という話も。
すでにアメリカでは顕在化している問題ですが、リベラル派がマスコミを牛耳って「我々こそが進歩主義者で、保守派はあくまで正しい事など何一つできない狂った守旧派」と主張し続けている限り、こうした変化はなかなか表面化してこないものです。果たしてこういう状態が何時まで続くんでしょうか?