諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【アニメーション黎明期】日本であまり知られてない「ディズニーのハロウィン恐怖短編」

映画のトーキー化はハリウッドにおいて、怪奇映画の人気を引き上げました。

そしてトーキー化と怪奇化の波は当時、短編アニメーションの世界にも押し寄せたのです。Sound Cartoonと銘打たれたこれらの作品群は、その多くが今でも面白がられ続け、ハロウィンの折などに頻繁に回覧されれていたりします。

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Mickey Mouse - Haunted House (1929)


Mickey Mouse  The Gorilla Mystery(1930)

Mickey Mouse Cartoons - The Mad Doctor(1933年)

 シリー・シンフォニー(Silly Symphony、1929年〜1939年)

ウォルト・ディズニー・カンパニーによって製作された短編アニメーション映画作品シリーズ。「骸骨の踊り(The Skeleton Dance、1929年)」に始まった本シリーズは、ミュージカルの取り込みを基本に、新しい脚本の方向性や製作技術など斬新的な試みが積極的に導入されていた。3色カラーを初めて用いた「花と木 (Flowers and Trees、1932年) 」や、おとぎ話を題材とした「三匹のこぶた (Three Little Pigs、1933年)」が有名。またドナルドダックのデビュー作である「かしこいメンドリ(The Wise Little Hen、1934年)」を含んでいる。

Silly Symphonies - The Skeleton Dance(1929年8月22日)

Silly Symphony - Hell's Bells(1929年10月30日)

Silly Symphony - Egyptian Melodies(1931年8月27日)

Flip the Frog(1930〜1933年)

ミッキーの生みの親ながらウォルト・ディズニーから離れたアニメーターのアブ・アイワークス(Ub Iwerks) 1930年から1933年にかけてMGMに提供したキャラクター・シリーズ。差別化の必要性もあってか、割と早くからミュージカル路線より脱却し「仕事シミュレーション」的路線に転じている。

Flip the Frog The Village Barber(1930)


Flip the Frog - Flip's Lunch Room(1933)

Flip the Frog "Office Boy"(1932年)

Flip the Frog - Spooks(1931年)

ここで差別化の為に当時の流行歌手Cab Callowayと組むというメディア・ミックス戦略に打って出たのがBetty Boopシリーズのパラマウント・ピクチャーへの提供で名前をなしたマックス・フライシャースタジオ(Max Fleischer Studio)でした。

フライシャー・スタジオ(Fleischer Studios, Inc. 1921年〜1943年)

ニューヨーク州ニューヨーク市ブロードウェイ1600番地で設立されたアニメーション制作会社に端を発するアメリカの企業。1921年にユダヤ系アメリカ人のマックス・フライシャーとデイブ・フライシャーのフライシャー兄弟により設立され、1942年1月にパラマウント映画に買収され「フェイマス・スタジオ」と改称されるまで同兄弟により経営されていた。初期のウォルト・ディズニー・プロダクション(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)の最も重要な競争相手であった。
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  • マックス・フライシャーが人間の演技をアニメーションで再現するロトスコープを発明。この装置を使って、フライシャー兄弟は1919年にブレイ・スタジオと契約し「インク壺の外へ(Out of the Inkwell)」と題されたシリーズ作品を制作した。フライシャー兄弟が最初に産み出したキャラクター「道化師ココ」が登場するこのシリーズは大きな成功を収め、1921年に彼ら自身のスタジオを設立するための信用を獲得。
    *1921年の設立当初の名称は『インクウェル・スタジオ』だったが、1929年に現在の名称に変更された。

  • 1920年代を通じて知的なユーモアと多くの革新性を備えた、一流アニメーション制作会社の一つとして活躍してきた。この当時のフライシャーの作品には、有名なバウンシング・ボール方式を特徴とするミュージック・ビデオの原型であるシング・アロング形式の短編映画「ココ・ソング・カーチューン(Ko-Ko Song Cartunes)」や、相対性理論のような主題を扱った教育アニメーションなど。
    *シング・アロングとは、スクリーン中の映像に合わせて観客が一緒に歌える形式の映画。バウンシング・ボールは、表示される歌詞の上をはねるボールにより観客に次の歌詞を教える仕組み。

  • ワーナー・ブラザースが世界初の長編トーキー映画「ジャズ・シンガー(The Jazz Singer、1927年)」を発表すると電気式スピーカーの設備を備えた劇場の数が次第に増えていく。それ以前から既に音声トラックを備えたトーキー映画の製作に着手していた事が追い風となり、トーキー映画導入期を何なく乗り切る。決め手となったのは「ココ・ソング・カーチューン」シリーズの続編「スクリーン・ソング(Screen Songs)」シリーズだった。

  • 「ザ・サイドウォークス・オブ・ニューヨーク(The Sidewalks of New York、1929年2月5日)」が公開された同年の10月より「トークトゥーン(Talktoons)」と題された新しいシリーズの発表を開始。初期作品のほとんどは一話完結形式だったが、次第に新キャラクター「犬のビン坊(ビンボー)」がシリーズの主役となり、さらにその座を恋人であるベティ・ブープBetty Boop)に譲った。大人びた都会的な雰囲気を漂わせたベティはフライシャー・スタジオの花形となる。アメリカン・アニメーションにおいて初めて主役を演じた女性キャラクターでもあった。

  • E・C・シーガルの漫画キャラクター「ポパイ(Popeye、1929年〜)」のカートゥーンシリーズへの使用許諾を得て成功をより堅固なものとする。その成功は当時ウォルト・ディズニーミッキー・マウス物に匹敵した。1930年代後半に制作された3本のテクニカラーによる「ポパイ」特別編は多くの映画館で併映作品、あるいは本編作品として上映され、フライシャーをディズニーと1位、2位を争うポジションにまで伸し上げたのである。

    しかしその一方で1930年代後半にはベティ・ブープから色気が取り除かれ、味気ない主婦や勤労婦人の役割が押し付けられる様に。
    ベティ・ブープから色気が取り除かれた理由…1934年より履行の始まったHays Codeのせいとも「スクリュー・コメディの帝王」フランク・キャプラでさえ屈っした「社会的リアリズム導入運動」が黙殺出来なくなったとも考えられる。

    また競合他社同様にディズニーの「シリー・シンフォニー(Silly Symphonies)」シリーズを模倣した「カラー・クラシック(Color Classics)」シリーズに着手。
    フライシャー兄弟6

  • 1937年には組合活動によって痛烈な打撃を受け、これを解散し節税を達成する為にパラマウントの融資を受けてフロリダ州マイアミに大規模なスタジオを建設。1938年3月より初長編作品制作に着手。
    フライシャー兄弟7

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  • ディズニーの「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」を模倣しようとして超えられなかった長編アニメーション「ガリバー旅行記(Gulliver's Travels、1939年12月)」と、当時の観客に受け入れられず、すぐに上映終了となった「バッタ君町に行く(Mister Bug Goes to Town、1941年12月)」の間にはアメリカン・コミックのスーパーヒーローを題材にした高品質な連作短編「スーパーマン(Superman)シリーズ(1941年〜1943年)」が制作されている。特にその第一作には10万ドルの予算がつぎ込まれ、それまで上映された短編アニメーションの中で最高の作品となってアカデミー賞にノミネートされた。
    *この作品の日本でのTV放映(1955年、日本のテレビ史上初の日本語吹替え作品。当初は録音なしで大平透がスーパーマンの恋人ロイス・レーンを含む5役を一人で演じ分け、生放送していた)があったからこそ、日本初の特撮スーパーヒーロー映画「スーパージャイアンツ9作(1957年〜1959年、第6作目まで石井輝男が監督)」も、保本初のTV覆面ヒーロー「月光仮面(1958年〜1959年、原作川内康範)」も対抗馬として生み出されたとされている。宮崎駿も多大な影響を受けている。

しかし次第に収益悪化が続き、1941年5月24日には遂にパラマウントに完全子会社化されてしまう。その後フライシャー兄弟は退社。以降二度と業界の主流に返り咲くことはなかったが、長年の功績が認められ、1972年にアニー賞ウィンザー・マッケイ賞を贈られている。

この会社の残した最大の功績は「アニメーションを通じて大人向けの恋愛ロマンスを供給する下準備を整えた」辺りでしょうか。ただ単にアニメ史上初めて女性キャラを主人公とするシリーズを製作したからだけではありません。シニカルで大人にも通用するドラマ性、本気の技術投入なども含めての話。

改めて振り返ると「飛躍」の発端となったのはこの流れとも。

Betty Boop Cab Calloway "Minnie the Moocher"  - 1932年

Betty Boop - Snow White (Cab Calloway ~ St. James Infirmary Blues) - 1933年

Betty Boop - Poor Cinderella - 1934年


それでもなお当初は誰も「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」に出資しようとしなかったといいますから、さらなる発想の飛躍がまだまだ必要な段階だったのです。ましてや「売上は興行成績よりキャラクター・ビジネスで建てる。その宣伝拠点としてディズニー・ランドを建設する」なんて発想に至るにはそれをも上回る発想の飛躍が…無論、こうした時代に後ろを振り向けば無数の死体の山。

何が恐ろしいって、制作体制が僅か数年の間に「家内制手工業から工場制機械工業へ」くらいの変遷を経てるんですよね。もしかして当時のアニメーション制作技術の進化スピードって、IT時代を軽く凌駕している?