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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【大菩薩峠】【エヴァンゲリオン】【シン・ゴジラ】既存の価値観の範疇に収まらず不気味だが、それなのに、いやむしろそれ故に目が離せない何か

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日本ではシン・ゴジラ(2016年)」における「牧悟郎博士=岡本喜八監督」というファクターから 大宅壮一原作映画「日本のいちばん長い日(1967年)」を連想する論調が数多く見受けられます。

しかし実は岡本喜八監督を「世界の岡本喜八」たらしめた作品は、あくまで同じ橋本忍脚本映画「大菩薩峠(The Sword of Doom、1966年)」。

それは、下手をしたら「一番格好良い三船敏郎」だって、この作品において壮絶な殺陣の後で「剣は心なり。剣を学ぶ者は心を学べ。心正しからぬ者の剣は邪剣だぞ(The sword is the soul. Study the soul to know the sword. Evil mind evil sword.)」と大見得を切って主人公の机竜之助(仲代達矢)を圧倒する島田虎之助かもしれないというくらい動かない事実だったりします。

ここから出発するとまた別の景色が浮かび上がってくるのです。

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ところで日本においては不思議と「大菩薩峠The Sword of Doom、1966年)」の知名度が海外ほどではありません。

  • それは岡本喜八橋本忍が主人公机竜之助(仲代達矢)を徹底して「単なる衝動的殺人者に過ぎない」存在と割り切って描いたのが評論家達の逆鱗に触れ、完全黙殺されたせいともいわれている。
    *「黙殺」…要するに戦前よりずっと机竜之助の行動に何らかの意味を求めようと悪戦苦闘してきた(そして常に失敗し続けてきた)評論家達は、自分たちのそれまでの努力を足蹴にされた様に感じてキレたとも。
  • 逆に海外ではなまじ単なる衝動的殺人者に過ぎない」が故に島田虎之助(三船敏郎)の大見得が心に刻印されてなお、自分が邪剣使いという認識が直接は芽生えない天然振りが評価される形に(それでも苦しんで狂う)。そしてそんな難役を仲代達矢が「色気たっぷり(Sexy)」に演じているのが高評価に繋がった。

色気たっぷり(Sexy)?」何ですかそれは?

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実は日本でも豊田四郎監督映画「四谷怪談(1965年)」における伊右衛門(同じく仲代達矢)について同じ事が言われていたりします。

こうしてクローズアップされる事になった「あの独特の色気=既存の価値観の範疇に収まらず不気味だが、それなのに、いやむしろそれ故に目が離せない感じ」。実はこれこそが庵野秀明監督が「新世界エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」におけるあさりよしとおデザインの使徒、および「シン・ゴジラ(2016年)」における「ゴジラなるもの」の有り方について一貫して表現してきた何かだったのかもしれないとは思いませんか?
SNS時代の最大の特徴は「これをチェックしてる人はこれもチェックしています」みたいな情報が比較的容易に入手可能で、それを出発点とする考察が理論上成立するあたり。国内外を問わず多くの女子アカウントが「エロい仲代達矢」と「鎌田君」と「(マニエリスム絵画みたいに顔が縦長で、見る人間の心を独特の不安に誘う)アダム・ドライバー」を等しく好むなら、これらの間に何らかの共通点を見てとる事も可能、という訳である。無論、人間の価値基準は単一ではないからそれぞれの選考基準が全く異なってるリスクは常に存在する(しかも当事者が意識しているとは限らず、答え合わせも出来ないケースが大半)。とはいえ、この場合に限ってはあの独特の色気=既存の価値観の範疇に収まらず不気味だが、それなのに、いやむしろそれ故に目が離せない感じ」なる共通選考基準を導出するのにそれほど無理は感じない。https://68.media.tumblr.com/41a8f4db378b8b36b4537b273a6bf37f/tumblr_oh2rr4vfak1v30h62o1_1280.gif

こうした外連味たっぷりの表現手段については(仲代達矢も所属していた)俳優座などでノウハウ蓄積が始まり、インパクト勝負のアングラ劇団の作劇術の一環として研鑽され、榎戸洋司幾原邦彦経由で庵野秀明監督に伝わったという側面もあったかもしれません。

庵野秀明監督自身も、インタビューなどで「エヴァンゲリオンでは(視聴者に考え込ませる為に)あえて細部の辻褄を合わせなかったり、説明不足の箇所を残す事で視聴者を受け身の姿勢のままに置かない工夫をこらした」と述べています。
*こういうケースでは「既存の価値観の範疇に収まらず不気味だが、それなのに、いやむしろそれ故に目が離せない存在=一見細部の辻褄が合ってなかったり、説明不足に見える部分」にはあえて踏み込まず、周囲の人間や物語進行上の都合などとの関係からその影響範囲を特定して一旦切り離してからその起源を辿るのがセオリー。なにしろ「キャプテン・アメリカ=スティーブ・ロジャーズ的なるもの」やら「アイアン・マン=トニー・スターク的なるもの」やら「ウルヴァリン=ローガン的なるもの」といった「歴史のあり過ぎるアメリカ的諸概念」に他のアプローチはほとんど通用しないので必然的にアメリカで研鑽されてきた感のある思考様式である。

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おそらく「(「ゴジラ(1954年)」における山根博士の持論と芹沢博士の持論の統合不可能性を出発点とする)牧悟郎博士なる存在」もまた、こういう存在として物語中に置かれたギミックの一つとして把握するのが正しいのでしょう。