諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【黒澤明監督映画】【男女平等】三船敏郎の「尻」、仲代達矢の「眼」

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最近しばらく「国際SNS上の関心空間における黒澤明監督映画評」を追っかけていました。どうやってそれは国際性を獲得してきたのか?

しかしながらニーチェ善悪の彼岸(Jenseits von Gut und Bose1886年)」には「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ(Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.)」という警句もあります。こうしたある種のの「地獄巡り」は当然、相応の「代償」も伴ったのです。

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女子アカウントの評価は割と清少納言枕草子」っぽかったりします。

肉体的超越性を暗喩する「三船敏郎の尻」に精神的超越性を暗喩する「仲代達矢の眼」。これはもはや、単なるエロティズムで語れる範疇を超えた領域の話?

  • 欧州の肉市場では、年端もいかない少女達が皮を剥いた兎肉の尻を凝視し、肉の付き具合を検分する景色がしばしば見られるという。まさしく「私達は別に男の裸が見たい訳じゃない。(天に代わって)肉体を照覧しているだけだ」と豪語し、男性の尻や下腹部に群がる(だがしかし「初心なうち」は恥毛の生え際とか性器が視野内に入ると一斉に逃げ散る)女子アカウントの行動原理そのもの。

    こうした脊髄反射的反応の最源流は「逃げ散る獲物の群れの尻をざっと俯瞰して標的を見定める捕食動物(狩猟民族)の視線」にまで遡るのかもしれない。

  •  一方、ロシアの民俗学者ウラジミール・プロップ(Vladimir IAkovlevich Propp, 1895年〜1970年)は鋭利な刃物、殺傷力の高い弓矢や鉄砲といった武器、機動力を増大させる馬などが伝来してそれが魔力の源と想像される様になる以前の狩猟社会では「(獲物を好きな様に動かす)魅惑の視線」こそが魔力の源として想像されていた。そして人身御供の習慣が廃れてその対象が「娘を生贄に捧げる事を要求する悪竜・悪獣の類」へと転落していった様に「(悪役の)邪眼」へと変遷を余儀なくされたという。
    *仄かに科学的マルクス主義唯物論の香りが漂うが、それ自体はロシア系諸族から徴収した膨大な量の昔話・伝承の類の分析結果から産み落とされたもので無下には否定出来ない。アフリカから中東にかけて存在する「斜視の人間を邪眼として忌み嫌う」伝統とは明らかに別系統。1958年に英訳が出版されるや数多くの言語に翻訳されるようになり、現在では構造主義の先駆的仕事として評価されている。

    この考え方は日本古来の家長制などとも相性が良い。

最も興味深いのは、こうした観点が2010年代以降顕在化してきた「(Smart PhoneのFirst Screen化を背景とする)ネット人生のFPS(First Parson Shooting)化」なる流れとも極めて相性が良い事だったりします。

さて我々は一体どんな時代に漂い出そうとしてるんでしょうか?