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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【與那覇潤】【中国化する日本】【未来を花束にして】そもそも中国の最近の躍進は「中国化」のせい?

そもそも 與那覇潤「中国化する日本」の抱える最大の胡散臭さ。それは「世界には(閉じられた部族社会的な)日本型国家と(開かれた自由社会的な)中国型国家の2種類しかない」という前提から出発している点にあります。 

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與那覇潤「中国化する日本」Amazon書評より

中国は本当にメリトクラシーの国ですか? ねっとてんぐ2012/6/15

挑発的な表題と、いささか軽薄な物言いが気になりますが、著者のいうことはだいたい納得がいきます。中国は宋代に近代が始まり、都市市民社会をベースにしたメリトクラシー実力主義)の国になったという評価は、トンデモ説でもなんでもありません。

ただ、著者はあえて無視しているのだと思いますが、『科挙と近世中国社会―立身出世の階梯』にあるように、中国社会は決して誰にでもチャンスが約束された機会平等の社会ではありませんでした。科挙に挑戦できるのは、経済力のある一部郷紳層に限られ、事実上の身分制が形成されていたのです。
何炳棣「科挙と近世中国社会―立身出世の階梯 単行本 – 1993/2」

メリトクラシーの反対はアリストクラシー(貴族制)ということになるでしょうが、両者は截然と分けることができるものではありません。そもそも科挙自体、はたしてメリトクラシーの原則から作られた制度であるか疑問です。もしそうであるなら、科挙はもっと実学的な基準からえらばれたことでしょう。著者は諸々の歴史事象を二元論で説明しようとしているので、いろいろなことを見落としている。 

メリトクラシー(meritocracy)に アリストクラシー(Aristocracy)?
メリトクラシー - Wikipedia
貴族制 - Wikipedia

大きな話をするのが難しい時代だと思う。最先端の専門性はどんどん高まってるし、細かいところに注目しても深い議論がある。与那覇潤「中国化する日本」は、日本人の歴史観を見直そうという本だ。読んでみた感じ、たしかに「新しい視点」を提示することには成功していると思う。

内容は以前の記事でも紹介したように、日本の歴史を中国化と江戸時代化というキーワードで整理したものだ。これはいささかわかりにくいが、ポパーの言葉でいうとそれぞれ「開かれた社会」と「閉じた社会」に相当する、と考えればいいだろう。ハイエクの分類でいうと「大きな社会」と「部族社会」に当たる。

  • 世の中の通念では、西洋の産業革命で「近代」が始まったとされているが、そのはるか前(10世紀)の宋代には、中国は産業革命の一歩手前まで来ていた。伝統的な部族社会が分解して全国的に人口が移動し、身分制度もなくなって「大きな社会」が成立した。それをグローバル化したのがモンゴル人の元だったが、これは版図を拡大しすぎて自滅し、明では中国は「江戸時代化」してしまった。有名な鄭和の遠征も後が続かず、代わって西洋諸国が世界を征服した。

  • 日本の歴史は宋代までは中国とシンクロしていたが、戦国時代の混乱を経て「閉じた社会」に回帰した。戦争を避けるための休戦状態としてつくられた徳川幕府の平和が250年も続き、人々を身分で分断して土地にしばりつける江戸時代型システムが日本人の一つの伝統になった。多くの人が「美しい伝統」として想定するのは、こうした部族社会のイメージである。

  • 確かに江戸時代はきわめて洗練された文化を生んだが、経済的には停滞をもたらし、食うに困った下級武士の不満が「尊王攘夷」のパワーとして噴出した。そして明治維新は「中国化」の方向をめざすが、それは結局は政治家と官僚の割拠する江戸時代型システムに変質し、天皇が皇帝のような絶対的権力をもたない日本では、軍部がその地位を簒奪して暴走してしまう。

  • 戦後は、こうした江戸時代的システムが偶然、20世紀後半の経営者資本主義と相性がよかったため、日本は奇蹟的な高度成長を遂げた。しかしその幸運も80年代までで、英米自由主義的な改革と同時に始まった中国の改革・開放によって全世界的な「中国化」の時代が始まった。ところが日本の政治家も企業もその流れに乗り遅れ、いまだに江戸時代に回帰しようとしている。

学問的には疑問もある。「これがプロの常識だ」といった表現が何度も出てくるが、この図式はよくも悪くも通説ではなく、著者の見解だろう。しかし人々が「大きな物語」を語らなくなった現代に、32歳の研究者がこういうスケールの大きな歴史観を展開するのはおもしろい。

カール・ポパー - Wikipedia

カール・ポパーによる科学の定義とその解説 

 「開かれた社会」の敵の一つである共産主義、およびそれに関する一連の思想にたいしては、ポパーはまず、「物事は一定の法則にしたがって歴史的に発展してゆく」とする歴史法則主義あるいは社会進化論を批判した。

また、弁証法を基軸とするヘーゲルマルクスフランクフルト学派などの思想も批判。

1958年にスイスの海外研究所で行った講演『西洋は何を信じるか』において彼は、「赤でも無く、死でもなく」と言って、断固、ソビエト連邦の政治体制を拒否し、これに反対してゆくことを訴えた。

ハイエクは、世間の「保守派」というイメージとは逆に、イギリスの保守党の崇拝する「伝統」を既得権の別名だとし、そうした部族社会の道徳を批判した。彼が近代社会をGreat Societyと呼んだのは、ローカルな部族社会の道徳とは異なる普遍的な法の支配の成立する「大きな社会」という意味である。

ハイエクが見抜いたように、大きな社会を維持するシステムとして唯一それなりに機能しているのが、価格メカニズムである。それは富を増大させるという点では人類の歴史に類をみない成功を収めたが、所得が増える代わりにストレスも増え、生活は不安定になり、そして人々は絶対的に孤独になった。会社という共同体を奪われた老人はコミュニケーションに飢え、派遣の若者はケータイやネットカフェで飢餓を満たす。

大変興味深い要約ではあります。せっかくなのでここから出発してみましょう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5b/Making_Paper.gif/200px-Making_Paper.gifhttp://www.big1s.jp/movie-collection/others/the-golden-compass/02177TheGoldenCompass.jpg

①まず「(10世紀)の宋代には、中国は産業革命の一歩手前まで来ていた」について。本書は「世界三大発明(羅針盤・紙・火薬)は全て中華王朝起源で、その思想が「後進地域」欧洲に伝播した結果フランス啓蒙主義が成立した」とするが、そのフランス啓蒙主義が到達した結論が「神は世界を創造しただけで引退した。以降は何もしてない」である事については一切触れていない。
*そもそも何がどうなってそういう結論に到達したかそのものが重要な歴史なのである。

  • そもそも最初に「フランス啓蒙主義は本当にフランス人が考えたものか?」という問題が出てくる。これは「バンド・デシネ(bande dessinée=フランス語圏の漫画)」の執筆者が必ずしもフランス人とは限らず、しばしばベルギー人やスイス人だったりする(ただし概ね英国人やオランダ人ではない)のと重なる。

  • フランス啓蒙主義の大源流といえばデカルトの「方法序説(Discours de la méthode、1637年)」。とはいえ彼の思考様式は(アラビア哲学を起源としイエズス会が奉じた)スコラ学そのもの。当時はむしろ「ガザーリーの流出論」などに立脚するマルブランシュの「真理の探究(1674年~1675年)」の方が読まれていたというが、そこで語られる「機会原因(Occasin al causes)論」は同質。イエズス会朱子学を欧洲に紹介したのもこの時期で、やはり「スコラ学=アラビア哲学」との相似性が指摘されている。

    *アラビア哲学アッバース朝開闢直後、(東ローマ帝国から非キリスト教的と追放された)古代ギリシャ・ローマ古典哲学、(それがアレキサンダー大王東征によってオリエント統治理論と混合した結果生まれた)ヘレニズム思想、(ササーン朝に伝えられてきた)インド=ペルシャ思想などの比較検討からムタズィーラ神学が成立。これと伝統的イスラム教学の間の差分を埋めるべく発展した。欧洲人はしばしば「我々こそが古代ギリシャ・ローマ文明の継承者」と主張するが、想像以上に多くの部分をこのアラビア哲学のラテン語訳に負っている。

  • ライプニッツの楽観的な「神義論(theodizee)」がもてはやされた時代。妹がポール・ロワヤル修道院(1204年〜1708年)に入り、それ経由でジャンセニスム(Jansénisme)の影響を受けたパスカルが遺作「パンセ(Pensées、初版1669年印刷、1670年)」を発表した時代。ペローが「ルイ大王の世紀(Le siècle de Louis le Grand、1687年)」の中で「オウィディウスウェルギリウスなどの)古典文学よりも現代文学の方がすぐれている」と述べ、ボアローがそれと反対の趣旨で応え「古今論争(新旧論争)」が盛り上がった時代。フランス聖職者の間でガリカニスム(Gallicanisme=国家教会主義)が盛り上がり、イエズス会禁止(1773年)に向かう時代。こうした混沌の坩堝を、良くもまぁ「後進国フランスは朱子学一辺倒に染め尽くされた」などと一行要約出来たものである。ある意味思想界にも「一滴ルール(黒人の血が一滴でも混ざっていれば、それは黒人とする思考様式)」が蔓延しているのかもしれない。
    *ただもちろん、当時のフランス貴族はガザーリーの著作を古代ギリシャ・ローマ古典の入門書として利用しており、これとの相似性で朱子学に興味を抱いた可能性までは否定出来ない。そもそもこの時代から意識される様になったのは「すべてに神を見る」機会原因論や汎神論と「一切に神を見ない無神論(特に仏教の様に背後に「絶対的因果論」を見てとるタイプ)のロジックに大差はないという諦観。

  • そしてポルトガル地震(1755年)以降は「悪とは何か」に関する論調が一気に先鋭化していく。「神は世界を創造しただけで引退した。以降は何もしてない」とする理神論(deism)が主導権を握ったのはまさにこの時期で、そうした流れを主導したのは「崇高なるものは恐怖を伴う」としたエドマンド・バークの美学論、およびそれに呼応したカントの物(独Ding、英thing)の世界」と物自体(独Ding an sich、英thing-in-itself)の世界」を峻別する態度。ホッブスジョン・ロックといった英国啓蒙主義のフランスへの紹介者として名を馳せたスイス人のルソーが「大災害が本当に怖ければ、人間は都市を捨て、田舎に分散して自給自足の生活を送るべき」とし、「ルソーの血塗られた手ロベスピエールが主導するジャコバン独裁が徹底的な破壊と大虐殺によってフランス産業革命開始を半世紀以上遅らせる事に成功し「大英帝国の世界制覇」を決定付けた時代。

  • 19世紀前半に入るとこうした動向に対する反動が生じて「人間の幸福とは時代精神Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)と呼ばれる絶対精神(absoluter Geist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る事である」としたヘーゲル哲学が欧洲全土で勝利を収める。
    *折しも当時のドイツはビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)と呼ばれる反精神主義的かつ享楽的な庶民文化の全盛期だった。「ヘーゲル哲学の流行」は、こうした「徹底的破壊を伴う革命主義に対する反感の蔓延」と表裏一体の関係にあったと見なければならない。
    678夜『ビーダーマイヤー時代』マックス・フォン・ベーン|松岡正剛の千夜千冊

  • 一方、同時代のフランスにおいてこうした流れに抵抗した政治的浪漫主義の大源流はE.T.A.ホフマンの(あくまで啓蒙主義の掲げる合理的思考様式を否定し抜く)神経症幻想小説と「時よ止まれ、お前は美しい」と口にしたら負けのゲーテファウスト(Faust、第一部1808年、第二部1833年」だった。どちらも当時のドイツ本国では不人気だった辺りが興味深い。

  • 2月/3月革命(1848年〜1849年)によって国王と教会の権威が絶対性を喪うと、それに対する徹底抗戦が売り物だったフランス政治的浪漫主義も対消滅。「馬上のサン・シモン」皇帝ナポレオン三世主導下で産業革命導入が軌道に乗った時代、その穴を埋めたのは「エドガー・アラン・ポー作品の翻訳紹介者にしてマルキ・ド・サドの再発見者」ボードレールを起点とする象徴主義芸術と、バルザック「人間喜劇(La Comédie humaine、1834年1850年)」を起点とする自然主義文学だった。

  • 要するに、フランス文化においては(日本文化同様)伝統的に「エスニックで珍しい外国文化の国内紹介」の比重が高い。フランス人自身も「我々の才覚はオリジナルの発案というより、素材のアレンジに向けられてきた」と認めている(この辺りも日本人っぽい)。そうした状況下、絶対王政期におけるフランス中心主義の盛り上がりを背景に「世界中の全知識を網羅したフランスが世界の中心となる」なる共同幻想が台頭。「百科全書、あるいは科学・芸術・技術の理論的辞典(L'Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de lettres、1751年〜1772年、1776年〜1780年)」や(サン=シモン主義のデモンストレーション空間としての)パリ万国博覧会 (1855年、1867年)といった歴史遺産が残されたと考えるべきなのである。
    サンシモン主義
    1867年第2回パリ万博 | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場
    サン=シモン主義と渋沢栄一

    http://www.meijiishin150countdown.com/meiji/wp-content/uploads/2014/08/27936a988252fe13b3103ddd5eed1be8.jpg

②そもそも「西洋の産業革命」は(中華王朝やモンゴル帝国オスマン帝国やフランス絶対王政といった)専制君主国から始まったものではない。
*というより、欧米にはそもそも「閉じた社会=フランスやドイツの様な大陸国家」「開かれた社会=イギリスやアメリカの様な海洋国家」という図式が存在したりする。

  • 「中国化する日本」においては「利権ヤクザ集団」とかネガティブな描かれ方しかされていないが、前近代段階での資本主義的発展はむしろ「(海洋国時代のヴェネツィア貴族や、英国のジェントリー階層や、日本の武家といった)政治的エリート層がその権力を商業活動に及ぼさない構造を備えた国々」において自然に萌芽する様にも見て取れる。
    *割と「武士は喰わねど高楊枝」とか「(軍人や官僚や法律家として)奉仕はしても労働はしないのがジェントリー階層」といった彼らの伝統的美学が重要なのかもしれない。

    *もちろんより「前近代的価値観の軛」から自由な諸国、すなわちスイスの様な「部族連合がそのままスライドした様な共和国」、イタリアの様な「貴族と庶民の格差が目につかない国」、オランダの様に「都市貴族が普通に庶民と協業している国」などの方が容易に見出せる。とはいえそうした国々に限って経済規模が小さく「大国」への出稼ぎや輸出で食べていかねばならない事情から案外主導権までは握れない事が多い様に見受けられる。

  • そしてもちろんハプスブルグ帝国やオスマン帝国ロシア帝国や東欧諸国で見られた様な「領土と領民を全人格的に代表する領主」がその権力を無制限に駆使して新興産業階層の発展を抑え込んでる情景下では、貧富格差が致命的段階にまで達っしてしまう様な歪な形の発展しか有り得ない。

    *小国の産業革命なんて案外これであっさり握り潰されてしまう。

  • ここに第三のファクターとして「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが登場する。戦国大名楽市楽座は「健全な自由競争の継続」どころか「勝ち残った特定の御用商人と大名の癒着」に終わるケースが多かったという。中華王朝においても、幾度「既得権益に執着する特権階層」を撲滅しても体制内外から代わりが現れるのが常だった。要するにこれはマックス・ウェーバーいうところの「資本主義の精神の欠如」が原因なのかもしれない。

    *それまで絶望的な状況下にあったフランスへの産業革命導入の鍵は「サン=シモン主義の注入」だったし、これを真似たらドイツ帝国にも産業革命が根付いた。近代化を急いでいたアメリカや日本もこれを真似た。天然発育だったが故に「産業革命震源」英国そのものには「ゼロから産業インフラを整え、工業を振興させる」ノウハウなんて存在しない。その意味において「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世の果たした歴史的役割は極めて重要なのである。

 ③「確かに江戸時代はきわめて洗練された文化を生んだが、経済的には停滞をもたらし、食うに困った下級武士の不満が尊王攘夷のパワーとして噴出した」…本当に?

  • 江戸時代には価格革命によってランティエ(Rentier=武家の様な地税生活者)が没落。(皆で等しく貧しくなる)米価の低価格安定路線がそれを加速させた時代だった。それでは経済は停滞していたのだろうか? その一方では参勤交代遂行の為に交通インフラが整備された結果、全国規模の富農や富商のネットワークが形成され、紙媒体の低廉化や旅行ブームによって、世界でも類を見ないほどの大衆経済の活性化が観測されているのである。

  • むしろ江戸時代においては(生産に直接携わる事を禁止され、日増しに貧しくなっていく一方だった)武家こそがプロレタリアートだったのである。例えば天保の改革1830年〜1843年)を主導した老中首座の水野忠邦は「庶民が栄え、武家が衰える間違った世を糺す」と公言して贅沢禁止や株仲間解散といった大衆経済破壊政策に邁進。これを嫌った大奥などの「守旧派勢力」の手で失脚に追い込まれてしまう。

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    *まさしく1930年代に軍国主義者と社会主義者が口を揃えて「(現実直視から逃避せんとする)小市民映画」を攻撃し、それに「欲しがりません勝つまでは」の時代が続いた情景の原風景? ・

    *どどのつまり共産主義軍国主義も最後は「最終戦争論」に到達してしまう。

     

  • 実は戦国時代が終わったからといって、日本国内における鉄砲保有数が一気に激減したわけではない。一揆に際してもしばしば大量に投入されている。ただ人に向けられる事はなく、あたかも楽器の様に景気付けに空砲を放つばかりだった。

    これが殺し合いの道具である事を思い出させれば、日本全土が再び血の海に染まる」と考えた陽明学者の与力が大阪直轄地で引き起こしたのが所謂「大塩平八郎の乱(1837年)」で、無差別放火によって大坂市中の5分の1焼失、当時の大坂の人口約36万人の5分の1に当たる7万人程度が焼け出され、焼死者270人以上(餓死者や病死者を含めるとそれ以上)という大戦果を挙げる事に成功。
    *中国には「日本においても暴力革命の試みがあった」とする熱狂的者がいるらしい。さらには「大塩平八郎は生き延びて太平天国の乱(1851年〜1864年)に参加した」なんて伝承まで存在する模様。 

    陽明学と大塩平八郎

  • *「大塩平八郎の乱」には部落民も参加している。また池田藩(現在の岡山)で渋染一揆(1855年〜1856年)を起こしている。朝鮮王朝における甲午農民戦争 / 東学党乱(1894年)でもインド民族運動でもそうだったが、被差別民は国際的に急進派に惹かれやすく、かつ過激な行動をとる事が多い。その振る舞いが最悪の結果を生んだのが東学党乱で、決して戦うのをやめない彼らに恐れをなした朝鮮王朝がパニックのあまり日本軍と新朝軍の双方を招聘した事が日清戦争(1894年〜1895年)を勃発させてしまったのである。
    部落差別問題の基本的理解

    実際に明治維新を遂行したのは長州藩薩摩藩といった「なまじ関ヶ原の合戦(1600年)の負け組だったが故に独立精神を失わず経営立て直しにも成功していた西国諸藩」だった。とどのつまり幕末志士なる存在、ただ御用盗に励んだり騒いでいたばかりで案外役に立っていない(火付け役の水戸藩士に至っては内ゲバで全滅)。そしてこの層は以降「明治政府=薩長幕府」を天敵の様に付け狙う様になる。「支配層がほぼ無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的にも稀な例」とされる廃刀令(1876年3月)や秩禄処分(1876年8月)を契機に激化した不平士族反乱(1874年〜1877年)。大日本帝国憲法発布(1889年)まで続いた自由民権運動(1874年〜1890年)。特に大掛かりだったのが「日本が行った最初の海外派兵台湾出兵(1874年)と「クーデターで朝鮮王朝を打倒し日本を滅ぼす軍事国家を建設する予定だった」大阪事件(1885年)。

    台湾出兵 - Wikipedia
    大阪事件 - Wikipedia

  • 彼らの「活躍」が最後に記録されているのは米騒動(1918年)の時代。この時は米不足に拍車をかける為に倉庫を襲って備蓄米を溝川に流したり、御用盗(軍資金調達の為の強盗)に邁進したり、暴徒を扇動して鈴木商店や工場を焼き払わせたりしていた。それまで職場だった工場を自ら焼き払った工員は当然翌日から路頭に迷う羽目に陥る。こうして失業者を急増させる事も計画の一部だったと考えられている。大杉栄(1885年〜1923年)ら無政府主義者もリアルタイムで糾弾してるが、終始「大衆への配慮」など一切皆無だったのである。

    与謝野晶子 食糧騒動について

  • 司馬遼太郎は「日比谷焼き討ち事件(1905年)で狂乱の限りを尽くした暴徒達が、その後右翼(軍国主義者)と左翼(社会主義者)に分裂した」とする。
    *1930年代における小市民映画弾劾で「共闘」したのも、昔とった杵柄ゆえとも? 実際、当時の政治的対立図式は「(ブルジョワ階層の温情主義といった)理想主義対(現実の貧困と苛酷な労働環境を直視する)現実主義」といったもので、この図式上も両者は同一陣営側に属していたのである。
    日比谷焼打事件 - Wikipedia
    『坂の上の雲』に見る司馬遼太郎の新聞批判

    https://www.jacar.go.jp/modernjapan/images/p11/p08L.jpg

    *どどのつまり共産主義軍国主義も最後は「最終戦争論」に到達してしまう。

     

 同時期に関する本文記述と比較してみましょう。

https://i.ytimg.com/vi/qodTITjpQeU/sddefault.jpg

與那覇潤「中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史」

江戸幕藩体制の全体像把握

かくして武士は身分は高いのに貧乏になる一方で、大大名には石高は多いのに幕政を主導できないという不満があり、下級藩士は実務を全部動かしているのに家老にペコペコさせられるという憤懣が生まれます。

増産に成功した百姓も、それは死ぬ気で労働時間を延ばして得た富ですから、暮らしが「豊か」になっても「楽」にはなりません。

町人は町人で、武士に金を貸してやる側なのに身分は武士より低いという、やるせない境遇です。

  • 明らかにネガティブな部分を強調しようとする意図が見て取れる。まぁ「武家においてフラストレーションが鬱積していくプロセス」そのものについては、確かにこんなもの。

    http://www.geocities.jp/kyoketu/gonza2.jpghttp://www.geocities.jp/kyoketu/gonza3.jpg

  • 日清戦争や日清戰争による戰争借款返済の為の重税もあって)明治時代までに日本の農民の実労働時間が他のアジア諸国の三倍以上に達っした事自体は事実。なら生活を楽しんでいなかったかというとそうでもない。副作物によって現金収入を得て「一生に一度も村から出ずに死ぬなど恥」といわれるほど旅行を楽しんだり、祝祭日に思い切り散財したりして市場経済を回したりしていた。
    *やがてこうした生活スタイルは統治下の台湾や朝鮮にも伝播。独立後も不思議とこの習慣自体を「日帝残滓」として弾劾し放棄する様な動きは見られなかった。悪辣な日帝が仕込んだ「なまじ搾取するより働けば働くほど欲しいものや、やりたい事が増える資本主義の泥沼に突き落とす方が税収も上がる」不可逆性の罠!! もう元には戻れない…

    http://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-93-04/rsjjr083/folder/990316/19/30343119/img_7?1364342587

  • お金が回れば商人や職人も潤う。手に職なくても飛脚や人足といった肉体だけで勝負可能な職業が幾らでもあった。花見の様な身分を超越して万人が楽しむ無礼講イベントもあった。それで日本を訪れた外国人は「日本は身分が低いほど拘束が少なく明るくて屈託がない」というコメントを残している。
    *万人が楽しむ無礼講イベント…アテナイのディオニューシア祭や、ベネツィアのカーニバル同様、産業が発展すると(身分格差や貧富格差が生み出す鬱憤を発散する)この種のイベントが必然的に発展するものである。一般に「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統体制」とか絶対王政下ではほぼ見られない現象とされている。

    http://dnaimg.com/2013/11/05/world-festivals-you-have-to-1x2/004.jpg

松平定信寛政の改革」について。

このどうにも煮詰まった状況を何とか突破しようとして、部分的に「中国式」の処方箋を取り入れた結果、ブロンが実をつけて破裂してしまったのが、松平定信寛政の改革です。
*ブロン…星新一ショートショート小説に登場する「ブドウとメロンの合成植物」。「メロンがブドウの様に実る」想定だったが「ブドウの粒大のメロンが実る」失敗作に。

定信はなにをやったかというと、寛政異学の禁(1790年)で史上初めて、朱子学をこの国の公的な学問の基準だと規定し、限定的ながら「学問吟味」と呼ばれるプチ・科挙的な試験まで始め、結果として儒学熱が武家社会全体に広がります(ます(全国各地に藩校が作られるのは、この流れに沿った18世紀末以降のことなので、「江戸時代は最初から教育熱心だった」という俗説は誤り)。

さらに、幕府の正統性を強化するべく、「徳川将軍は天皇陛下からこの国の支配権をお預かりになっているのだ」という大政委任論のイデオロギーを創案します。天皇と将軍とがいかなる関係にあるのかは、それまで詰めます(全国各地に藩校が作られるのは、この流れに沿った18世紀末以降のことなので、「江戸時代は最初から教育熱心だった」という俗説は誤り)。

さらに、幕府の正統性を強化するべく「徳川将軍は天皇陛下からこの国の支配権をお預かりになっているのだ」という大政委任論のイデオロギーを創案します。天皇と将軍とがいかなる関係にあるのかは、それまで詰めところが、これがすべて裏目に出る。
*もうひとつ、定信の施策で裏目に出たのが対外政策です。徳川家光以来の「鎖国」とはポルトガル等の特定諸国に来航を禁じただけで、それ以外の国については規定しないという形だった(だからこそ、田沼意次らのロシア交易論が生まれた)のを、定信は「原則来航禁止、ただし例外的な国だけ個別に許可」許可」という逆の形に変えてしまう。結局これが後に対米開国の時点で「幕府は自分の出した法令も守れない」という印象を与え、その権威を大きく損ねて討幕派を勢いづかせることになります。

学問吟味に備えて必死に儒教の経典を読み解いた下級藩士たちは、(中国ではずっと昔からそうだったように)徳さえ身についているなら身分は本来関係ないことに気づいてしまうわけですね。おまけに、漢文には悲憤慷慨調という、わが身の不幸を徹底的に嘆き、それを社会全体の矛盾や不満に結びつけて、最後は革命に立ちあがるよう己を奮い立たせる文体がありますから、定信程度の微温的で生ぬるい改革ではではダメで、この腐りきった今の日本を根本から変えなくては国が滅びる、と悲壮肌で国士風を吹かせる跳ね上がり組が増殖していきます(齋藤希史『漢文脈と近代日本』。今のインターネットの政治関連のコメント欄にも、少し似ていますね)。

さらに、大政委任論というのは、要するに将軍を超越した存在を作り出すということですから、これからは将軍だの老中だの大名だの家老だの、あの実務を全部下々に丸投げしながらさんざん威張り散らしてきた無能上司どもを「陛下」の権威さえ振りかざせばいくらでも徹底的にコキ下ろせるという話になります(渡辺浩『日本政治思想史』。こちらも、やっぱり今日のネット社会に似ています)。また、江戸時代に人気のあった政治テキストには、儒教のほかに『太平記』があったのですが、これはかの南北朝後醍醐天皇の中国的な王権の帰趨を軸に展開する物語ですから、幕府を無視して天皇に直結し、諸国の戦場を自由に往来する悪党・楠木正成に自らを仮託してカッコつける連中も出現します(兵藤裕己『太平記〈よみ〉の可能性』。しつこいですが、やっぱりネット国士さんたちの「草莽」志向に似ています)。
*加えて水戸徳川家当主徳川光圀によって編纂が始まった「大日本史(1657年〜1906年)」が寛政11年(1799年)の光圀百年忌に向けて相応に盛り上がりを見せたのも大きかったとされる。

たとえていうと、こういう感じだと思います。これまで近世日本はずっと世界標準にあえて与せず、独自規格のガラパゴス・ケータイ幕藩体制)でやってきたのですが、どうも最近、動作も鈍いし調子がおかしい。修理を依頼したところ、オペレーター(儒者)が「どうせならならこの際、グローバル・スタンダード(近世中国)にあわせちゃった方が何かと便利ですよ」とかいうものだから、スマホに買い換えないまま無理やりケータイにアンドロイドやiOS(儒教)をインストールしたら、画面がバグってひとしきり暴走した後、動かなくなってしまった……。

  • まず不思議なのが 「世界には(閉じられた部族社会的な)日本型国家と(開かれた自由社会的な)中国型国家の2種類しかない」という前提から出発しながら、ここで「(中国化を目指した)田沼意次専制的重商主義」と「(日本化を目指した)松平定信の反動的政策」の対比についてあえて触れてない辺り。「田沼政治=賄賂政治」という悪いイメージが「中国化」に付帯するのを嫌ったせいかもしれない。
    *実際には田沼意次の時代だけ特に「賄賂政治」が悪化し、その失脚によって事態が改善したという話ではないらしい。

  • いわゆる「田沼時代(1767年〜1786年)」には老中首座たる松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚が財政赤字を食い止めるべく、次々と重商主義政策を採用していった。①同業者組合である株仲間を奨励、真鍮座などの組織を結成させ、商人に専売制などの特権を与えて保護、運上金、冥加金を税として徴収。②財政支出補填の為に鉱山を開発し、五匁銀・南鐐二朱銀といった新貨を鋳造して貨幣の統一を図りこれまで不安定だった通貨制度を安定させる。③殖産興業として町人資本の出資により印旛沼手賀沼開拓、農地開発を遂行。④『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助らの意見を登用し、蝦夷地(北海道)の直轄を計画、幕府による北方探査団を派遣し、ロシアとの交易も企図。⑤海舶互市新例を緩和するなど鎖国政策を緩めて長崎貿易を奨励、俵物などの商品作物を育成し、海外物産、新技術を導入。⑥蘭学を手厚く保護し、足軽身分の平賀源内などとも親交を持つ。江戸では大槻玄沢蘭学塾を開き、安永3年(1774年)には杉田玄白前野良沢らがオランダ語医学書の『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』を刊行、市井では庶民文化が興隆。全体的に「都市部で町人文化を繁栄させて経済を回す」「外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方においてロシア帝国との貿易も行う」「士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用を実施する」といった志向性を有していた。
    *まさしく與那覇潤いうところの「中国化」プロセスそのものとしか思えないのだが…
    田沼意次の貨幣改革
  • だがこうした動きが様々な問題を引き起こしてしまう。①印旛沼運河工事が失敗に終わる。②蝦夷でロシアとの緊張感が高まる。③江戸商人への権益を図りすぎた事が恨まれ、贈収賄疑惑を流される。④繁栄から取り残された農村で「稲作を捨て商品作物に特化」「農民が田畑を放棄し都市部へ流入」といった形で荒廃が進行(それに伴って都心部の治安が悪化)。天明の大飢饉(1782年〜1788年)を酷くした主要因の一つで、もう一つは「儲け主義」蔓延による売り惜しみの横行。そして止めを刺したのが、財政難に陥っていた諸藩。天明3年(1783年)の浅間山噴火などを契機とする天災による不作にもかかわらず(いやそれ故に)米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくして米を大坂市場へ飢餓輸出をしたことにより、全国で打ち壊しや一揆が流行する展開となってしまう。
    *その一方で幕府の財政基盤の確立には成功し、明和7年(1770年)には、幕府備蓄金が171万7529両という、5代将軍綱吉以来の最高値を記録。
    田沼時代 - Wikipedia

  • 天明7年(1787年)に10代将軍家治が没すると、御三卿一橋家から養子に入った徳川家斉が11代将軍に就任。御三卿田安家から白河藩主となった松平定信が老中首座となる。そして定信が主導する反田沼派(身分制度朱子学を重視する保守的な幕府閣僚)が井伊直幸、水野忠友、松平康福らの田沼派の老中や大老を一掃する政変を起こす。
    *定信は吉宗の孫であり、将軍後継にもなりえたが、家斉の父の一橋治済や田沼が裏工作を行い白河藩の養子となっていた事情などがあり、田沼を敵視していたとされる。

  • 定信は田沼路線を否定し、風紀粛清、重農主義に回帰する寛政の改革に乗り出すが、改革は財政的には失敗し、田沼時代の資産を食いつぶす形になった。また「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」という狂歌が出たように、良くも悪くも田沼時代を懐かしむ声も聞こえた。
    *「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」…ただこの辺り当時のプロパガンダ合戦(欧州名物「小冊子(パンフレット)合戦」の仲間)の一環と見られる側面もある。

  • 財政面では完全に失敗だったとはいえ「士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用」は継承。幕末期に勝海舟山岡鉄舟の様な「新世代幕臣」が活躍する下地を生んでいる。また田沼時代には天明狂歌歌人としてその名を知られた大田南畝を大抜擢もしている。その一方で「ロシアとの衝突回避への急旋回」の妥当性については今日なお様々な議論が交わされ続けている。
    *その一方で当時は数々の筆禍事件があった。黄表紙作者の恋川春町こと駿河小島藩士倉橋寿平(歌人名は酒上不埒、『鸚鵡返文武二道』が寛政改革を題材にしているとして時の政権の忌むところとなり寛政元年に自殺)、朋誠堂喜三二こと秋田佐竹藩江戸留守居役平沢常富(歌人名は手柄岡持、『文武二道万石通』が同様の理由で忌諱にふれ、主君より止筆を命じられる)、寛政3年(1791年)には吉原細見出版でデビューした蔦屋重三郎山東京伝の洒落本・黄表紙『仕懸文庫』『錦の裏』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』で摘発され、過料により財産の半分を没収、京伝は手鎖50日という処罰を受けている。南町奉行勤めの旗本根岸鎮衛「耳嚢(1781年〜1818年)」によれば松平定信は風紀粛清より文化的繁栄の都心部集中やその不透明な資金源(狂歌歌人達は毎晩の様に吉原逗留を続けたが、そうした交際費が蝦夷開拓資金から横流しされていたとする説もある)を気に掛けており、蔦屋重三郎の失脚と十返舎一九滑稽本東海道中膝栗毛1802年〜1814年)」流行を起爆剤とする「旅ブーム」を結びつける考え方も存在する。
    天明狂歌覚え書
    天明狂歌研究 - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科
    「ナガジン」長崎往来人物伝
  • 実は欧州絶対王政史においては「あるある展開」。要は全て人次第なので、ルイ14世の時代にも財務総監コルベールの手厚い庇護を受け産業振興の一翼を担ったユグノー教徒達が(その成功ゆえに嫉妬を買った事もあり)コルベール没後弾圧対象となっている。もちろん同時にせっかくそれまで築いてきた経済基盤も壊滅。「田沼時代だけ続けて、定信時代は回避すればいい」とかそういう次元の話じゃなく「前者が必ず後者を誘発してしまうので、英国やオランダに経済力で絶対追いつけなかったのが欧州絶対王政」という絶望的レベルのジレンマ。
    *どんなに上手く回ってる状況も国王や大臣の交代で一瞬で覆ってしまう不安定さ…元来これ抜きに「絶対王政=人治主義」について語ってはいけない筈なのだが…

  • 那覇潤がこうした展開に触れるのを避けたのは、おそらく「朱子学=中国化=自由化」なる前提の虚構性が暴露するのを防ぐ為だったに違いない。

尊王攘夷志士」の供給母体としての日本

儒教の流布と悪党への志向は、武家社会に留まりませんでした。同じ頃から幕府は儒教をベースにした通俗道徳を農村に宣布して、要は「質素倹約して清く正しく生きろ」という宣伝活動をやるのですが、これは逆に「じゃあ、ちっとも質素倹約して清く正しく生きているように見えない、武士だの豪商だのという連中はなんなの?」なの?」という農民の不満の導火線になる結果に終わります(いわゆる幕末新宗教の起源でもあります。安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』)。

これだけでも大変なのに、加えて、悪党予備軍なら農村にうようよしています──先ほど見た、継ぐ家がなく結婚もできない次男坊・三男坊ですね。彼らは、面白くない。生きていたってどうせ居候同然に兄貴の家事手伝いをして、兄貴の嫁さんや子供(家を継ぐのはこちら)に半ばまれながら食いぶちを恵んでもらうだけの人生ですから、将来に希望が持てない。だったらこの際、一花咲かせて死んでやるかという気持ちにもなる。

こういう連中をワーキングプアとしてすり潰す(要は殺す)ことで社会の安寧を保っていたのが江戸や大坂といった巨大都市なのですが、ところが都市がないので不平分子の口減らしができず、過剰人口が滞留する一方の地域があった……これぞ、西日本。だから維新の火の手は薩長土肥から挙がったのだ、というのが速水融氏の解釈です。

「おもしろき こともなき世を おもしろく」は高杉晋作の辞世の句として有名ですが、彼の作った奇兵隊の主力は農家の次男以下だったといわれています。彼らは普段生きる楽しみのない、「希望は、戦争。」(赤木智弘さんの最初の論文のタイトル)なな人々ですから、遮二無二奮戦して内戦を煽りたてて最後は幕府軍まで追い払ってしまう。今日でも、血気盛んな若年層の過剰人口に適切なはけ口(政治的なポストや経済的なパイ)が与えられない場合、極右・極左の革命やテロに走りがちな傾向があることが、「ユース・バルジ」現象として注目されています。

この見方をとれば、たとえばジハード(聖戦)を振りかざして全面的に自己の暴力を肯定する種のイスラーム原理主義思想は、やっちゃった後にテロ行為を正当化するために創案された、いわばテロの「結果」であって、テロ自体の「原因」ではありません(G・ハインゾーン『自爆する若者たち』)。官軍として戦って雄々しく散った奇兵隊の人々の御霊を安らかにするために招魂社が生まれ、それがやがて靖国神社へと結実していき、かかる経緯からして教義上「正戦」以外あり得ないしくみが内外で毎年のように論争を呼んでいることに思いをいたすとき、初めて明治国家の本質が見えてくるでしょう。

かくして1800年以降になると、「春闘」としての百姓一揆のマナーが崩れ、18世紀まではほとんど見られなかった「若者主体の一揆」「武装集団による一揆」「放火を伴う一揆」が頻発、須田努氏はこれをもって19世紀を中世以来久々の「悪党」の時代と定義しています(『「悪党」の一九世紀』)──幕末期の民衆運動と近世百姓一揆の異同に関しては、安丸良夫氏から須田氏に至るまでの「民衆史」の長い研究蓄積があるのですが、今村昌平が『楢山節考』の前に撮った『ええじゃないか』(1981年)が、安丸史観の映像化ともいうべき隠れた秀作なので、そちらだけでもぜひ見てください。

日本が「中国化」する可能性がまだまだ濃厚にあった、あの南北朝の空気が甦る中、1866年の武州一揆ではヤクザな浪人集団の煽動の下に一揆勢が暴徒と化した状態を、当時の記録者は「古赤眉黄巾之賊、或は明末群盗蜂起之形勢ニも等く」(まるで新を滅ぼした赤眉の乱か、『三国志』の開幕を告げた黄巾の乱か、あるいは明末マフィアの『仁義なき戦い』の世界だ:意訳)と嘆いています。残る役者はただ一人──新たな後醍醐天皇、否、「皇帝陛下」のご出陣を待つのみでした。

  • 実際の明治維新は、こうした巷の興奮とは無関係に藩主以上のレベルで進められた。 その過程で検討対象とされたのは「雄藩連合構想=連邦主義(Federalism)」と「公武合体構想=連合主義(Unionism)」と「天皇親政構想=帝国主義(Imperialism)」。「朱子学=中国化=自由化」に該当する「天皇主義(Ultra-Mikadism)」や、「(国家私物化という意味での)帝国主義」に該当する「天皇主義(Imitated-Mikadism)」は、少なくとも歴史のこの時点では完全視野外だったとされている。
    *與那覇潤は「明治維新は中国化の方向をめざしたが、それは結局は政治家と官僚の割拠する江戸時代型システムに変質してしまった」としたが、かえって何を言ってるか分からない。実際には国内外ともにこういう認識が定着しており、わざわざいじるまでもない。

  • また上掲の様な「尊王攘夷志士」の動向から浮かび上がってくるのは朱子学=中国化=自由化」といった図式ではない。むしろ彼らの叫びの大半は(勝ち組に紛れ込めたら立身出世は思いのままという共同幻想を伴った)「佐幕か倒幕か?」という二択に集約していったのであり、明治維新後はそれが「倒幕」一色に染まっていく。最近海外では、極右も極左宗教右派無政府主義者も一緒くたにして「現状懐疑派」に分類する動きが広まっているが、まさにそんな感じ。
    *これ割と欧州大開拓期(11世紀〜13世紀)の雰囲気に近い。アフリカ十字軍時代(15世紀)のポルトガルもそんな感じ。要するに所領を継げない次男や三男坊、遍歴騎士などは「最前線」に送られる。現地で成功したら領主になれるし、全滅したらしたで後腐れがない。ちなみに中江兆民「三酔人経綸問答(1887年)」で豪傑君が披露する説で、後世の「大陸浪人ロマンス」の起源でもある。

日本式二段革命論

その昔、明治維新に関連して「二段階革命論」というものがありました。これは、マルクス主義史学のうち講座派と呼ばれるグループが唱えたもので、西洋史の基準に日本史を当てはめて、明治維新は本来、フランス革命のような共和政を樹立させる近代市民革命たるべきだったのだが、当時の日本はその段階にまで達していなかったので、結局は明治天皇ルイ14世式の絶対王政を担う状態までしか進むことができなかった「中途で挫折したブルジョワ革命」なのだ、という歴史認識です。

政治的には、かような発想に従うと、今後はまずは新興ブルジョワジーとともに十全な市民革命を起こして天皇制(王政)を廃止し、しかる後に労働者が資本家から権力を奪取するロシア型のプロレタリア革命へと進むべきだ、という考え方になるわけです。この「まず天皇制打倒ありき」という発想は戦前以来、長きにわたって日本の共産運動を規定することになります。

今日、プロの歴史学者でこの議論をいまだに信じている人は、もちろんほとんどいません。しかし、実証的な幕末史研究が明らかにしてきたのは、実は明治維新マルクス主義とは全然異なった意味で「二段階革命」だった、という史実です。ポイントは、前章で述べた「地位の一貫性の低さ」がもたらす「誰もが不満な社会」。

  • 老中・阿部正弘がペリー来航に際し、ここは有力大名の助力をとりつけねば国難が乗り切れないと見て、諸大名に意見を打診してしまったのが契機となって、それまで石高的には大大名だが幕政面で実権のなかった藩主たち、たとえば水戸の徳川斉昭や薩摩の島津斉彬といった人々が、積年の憤懣晴らすべしと政治に容喙しはじめます(第一段階)。

  • この時点では、幕府自体の廃絶など誰も考えていなかったはずなのですが、ところがその何倍も鬱憤が溜まっていたのが、これらの藩主の下で不合理なまでの低身分・低賃金に甘んじていた下級武士層で、薩摩でも長州長州でも彼らが藩政を乗っ取り、よりラディカルな革新へと突き進んでしまいます(第二段階)。

つまり、下位のものにもそこそこ実益を与えることで、近世中国ではとっくの昔に廃止された身分制をどうにかこうにか維持してきた日本近世の社会のしくみの中で、しかし我慢に我慢を重ねて堪忍袋の緒が切れる寸前まで来ていた人々が大量にいたからこそ、ペリー来航程度の「些細だが口実にはできる」きっかけを得た際に、堰を切ったようにわらわら自己主張を始めるという現象が起きた。かような構造が「想定外」の政権交代が実現した背景にはあったわけです。
*こういうアプローチなら岩倉具視安政5年(1858年)3月12日に組織した「廷臣八十八卿列参事件」とか、佐幕側、平民側それぞれに与して平民と認められた被差別民の組頭達についても触れざるを得ない筈である。当時は公家も被差別民も同様の閉塞感に悩まされていたのだった。
廷臣八十八卿列参事件 - Wikipedia
新撰組と被差別部落
部落差別問題の基本的理解

さらに、そのタイミングで幕閣の致命的なミスが重なります。自己責任での条約締結に踏み切れずに、開港の勅許を皇室に求めてしまったのです。難なく許可が下りると踏んでの行動だったと思われますが、あにはからんや、孝明天皇はこれを拒否。こうして「陛下のご意向を踏みにじるとはなにごとか」という、現体制批判にうってつけなもうひとつの「口実」が生じてしまい、不平分子の怪気炎は油を注がれてますます燃え上がります。──逆にいえば多くの自称「志士」、自称「勤皇家」にとって、実は近世日本で溜まりに溜まった欲求不満を解消することの方が主目的で、「尊王攘夷」云々は単なる便利な手段でしかなかったからこそ、実権掌握に成功して用済みになったら、あっさり捨て去ることができたのだと思われます。
*というより「有事に際して軍功を求め、ついた側が勝つか負けるかで身分が浮沈する」のが武家の生活感覚。よほど出来た思想家でもない限り、その伝統的本能に従って動いただけと考えるのが自然というもの。

TVドラマ等ではしばしば、坂本龍馬のような「時代の先覚者」(かつ福山雅治級のイケメン)が「救国の志」に燃えて新しい日本を築き上げてゆく明治維新のイメージが語られていますが、それは後から理想化されて作られたフィクションに過ぎない。実際には、日本型の近世社会の中で飼い殺しにされて「このままではやがてジリ貧」が見えていた下級の武士層、特にその次三男が、「だったらこんな泥舟降りてしまえ」とばかりに幕藩体制を飛び出して、平素の憂さ晴らしに暴れまわっていたというのが、幕末の動乱の真相です(毎日無意味な残業ばかりでお役所の先行きの暗さに倦んだ霞が関官僚が、終身雇用に見切りをつけて「改革」を連呼しながら選挙に打って出る様子をご覧になれば、雰囲気がつかめるでしょう)。
*流石に薩長同盟実現の為に尽力した海援隊坂本龍馬(実際は陸援隊の中岡慎太郎の功績の方が大きかったとも)は、他の有象無象の尊王攘夷志士と一緒くたに出来ない。むしろその過ぎた功績が暗殺対象にされた原因とも。将軍徳川慶喜の弟・徳川昭武の随員としてパリ万国博覧会(1867年)に出席した渋沢栄一は「もし日本に残ってたら(嫉妬心から)確実に暗殺されていた」と述懐している。伊藤博文井上馨の英国留学(1863年〜1864年)にも同様のニュアンスがあったという。そういう滅茶苦茶な時代だったのである。

逆にいうと、ブルジョワ革命だの市民革命だのといった、「広く一般大衆を巻き込んだ『人民の、人民による、人民のための』政治改革のプログラム」などというのは、最初から彼らにとってアウト・オブ・眼中だったわけです。明治維新の政治過程が、おおむね武家社会内部での恨みつらみの果たしあいにすぎず、多くの庶民は「ええじゃないか」に踊り狂うだけで積極的な勧誘も動員もされなかったから、近代世界の諸革命に比べて死者が少ないのです(今日の日本政治は、どうでしょうか)。要するに、明治維新とは「新体制の建設」というよりも「旧体制の自壊」に過ぎなかったのでした。
*まぁだからこそ「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県(1871年)」「藩債処分(1872年)」廃刀令(1876年3月)」秩禄処分(1876年8月)」を世界史上ありえない速度で完遂し、俄(にわか)仕立ての鎮台兵(国民皆兵令で徴募した常備軍)で士族反乱(1874年〜1877年)を鎮圧するなんて奇跡の様な展開が可能になったとも。

そして 「中国化」一辺倒の時代が到来?

その旧体制たる日本近世の本質はなにかといえば、もともと中世の段階まではさまざまな面で昂進していたはずの「中国化」の芽を根こそぎつみとって、日本が宋朝以降の近世中国と同様の社会へと変化する流れを押しとどめていた「反・中国化体制」でしたね。

それを自分で内側から吹き飛ばしてしまったわけですから、当然ながら明治初期の日本社会は南北朝期以来久々の「中国化」一辺倒の時代を迎えることとなります。

*與那覇潤「中国化する日本」において飛躍が目に余るほど著しい部分。まず①「儒教道徳に依拠した専制王権の出現」については現実とかなり乖離している。実際の明治天皇(在位1867年〜1912年)はむしろ「政府内部の政治的対立の調停役(決して直接互いには直接話し合おうとしない各勢力を結ぶ電話交換手的役割)」として八面六臂の活躍を繰り広げたが、皮肉にもこれは「最も上手くいってる時の欧米絶対君主の在り方」そのものだった。
絶対王政/絶対主義

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*ちなみに明治天皇を本当に中華皇帝的専制君主に仕立て上げようとする動きもあったが、伊藤博文に内々に葬り去られている。また「神道による国家統一」も志向されたが、これも全然上手くいかなかった。

科挙制度と競争社会の導入…與那覇潤「中国化する日本」は、高等文官試験1984年〜1948年、現在の国家公務員総合職試験に該当する高級官僚採用試験)を科挙と同一視するが、「少数精鋭主義に基づいて政治的エリートを育成して政務を一任するスタンス」は、実際にはフランスやドイツからの輸入であった可能性が高い。ただ「フランスやドイツのそれは科挙起源」とする説もあるのでそれほど的を外している訳でもないのかもしれない。ちなみにドイツは第二次世界大戦後、完全に体制を改めたがフランスは今日なおそのまま。日本は敗戦後、GHQによって大改造を受けている。

世襲貴族の大リストラと官僚制の郡県化…與那覇潤「中国化する日本」は「廃藩置県(1871年)によって大名が首を切られ中国風の郡県制が始まった」「秩禄処分(1876年)でリストラされた穴を高文試験(1984年〜1948年)=科挙合格者が埋めた」とするが履行年に目を向けると無茶苦茶。そもそも日本が導入したのは、公式にはフランスの郡県制だったのである(これについてもまた中華王朝起源という説があったりする)。
フランスの郡 - Wikipedia
フランスの地方行政区画 - Wikipedia

ちなみにこんな過激な政体改造が世界を驚愕させるほどスムーズに進んだのも、江戸幕藩体制下に「在地有力者に地域行政を一任するシステム」が出来上がっていたから。廃藩置県直後に各都道府県に送り込まれた知事は「明治維新で殊勲を挙げただけの政治的素人」である事が多かったが、それでもそれほど問題が起こらなかったのは、むしろ彼らが「政治的素人」で「在地有力者に地域行政を一任するシステム」をそのまま継承したからに他ならない。ただしもちろん例外もあった。例えば江戸時代は無数の小藩に分割されていた美濃と、当時は幕府直轄領だった飛騨を強引に合併した新行政単位「岐阜」。まさしく内戦勃発不可避という恐るべき火薬庫。

規制緩和を通じた市場の自由化の推進…これについては與那覇潤「中国化する日本」の以下の記述がそのまま通用する。

工場経営や鉱山開発、鉄道敷設などの近代的な産業政策にあたっても、明治時代の前半期は官有事業の払い下げ(要は民営化)がジャンジャン進行し、しかもそれ自体についてはほとんど誰も批判しないという状況でした。近年の郵政事業民営化の際に、国論を二分する大論争が起きたことを考え合わせれば、現在よりもはるかに「新自由主義的」で「市場原理主義的」だったこの時代の雰囲気を、お察しいただけるかと存じます。それはおそらく、明治維新の基調が「建設」ではなく「自壊」だったことと無縁ではないでしょう。

*流石に「欧州絶対王政の起源は中華王朝」は言い過ぎだが、調べれば調べるほど「ドイツ帝国流? フランス共和国流? それとも伝統的律令体制流?」と悩み抜いた当時の大日本帝国に対して「どれ選んでも大差なくね?」と言いたくなる。

  • おそらく最源流はアケメネス朝ペルシャ(紀元前550年〜紀元前330年)。アレキサンダー大王の東征(紀元前334年〜紀元前323年)を通じて古代ギリシャ文化と融合しヘレニズム文化が形成され、帝政ローマ西ローマ帝国。紀元前27年〜486年)や東ローマ帝国(395年〜1453年)へと継承された。

  • その統治理念は中華王朝においては秦・前漢代(紀元前221年〜紀元後8年)経由で宋朝(960年〜1279年)に伝わる。日本へは唐朝(618年〜907年)経由で伝わった。ロシアへはモンゴル帝国(1206年〜1634年)経由で伝わった。
    中央アジアに多い「テュルク / タジーク体制」とも浅からぬ因縁がある。
    タジク人 - Wikipedia

  • 一方、イスラム圏においてはササン朝(226年〜651年)経由でオスマン帝国(1299年〜1922年)に伝わる。ワラキア公国(1272年〜1859年)経由でルーマニア(モルドヴィア=ワラキア合同公国)などにも伝わった。

  • フランス絶対王政は双方の影響を受け、フランス革命期(1779年〜1799年)から第一帝政(1804年〜1814年 / 1815年)にかけてすら、その影響が色濃く見て取れる。さらには第二帝政(1852年〜1870年)の影響がドイツ帝国(1871年〜1918年)経由でアメリカや日本にまで及んだ。
    *與那覇潤「中国化する日本」の言い回しを借りるなら、フランスにおいても「日本化」「中国化」のプロセスがあった事になる。

    http://pds.exblog.jp/pds/1/201212/16/78/a0226578_846527.jpg

 ここで興味深いのは、同源かもしれないとはいえ、文明開化期の日本においてハプスブルグ帝国(オーストリアハンガリー二重帝国)のそれが「周回遅れ」に映ったという事。

*與那覇潤「中国化する日本」の言い回しを借りるなら「日本的=江戸幕藩体制的」過ぎたのである。その起源はおそらく神聖ローマ帝国の大源流たるメロヴィング朝カロリング朝の成立期まで遡る。

これ以上の深追いは禁物。むしろ日本政治史において重要なのは自由民権運動(1874年〜1890年)の過程で不平士族残党と(江戸時代から続いてきた)富農・富商のネットワークの融合が見られた事、設立当初(1890年)は「政治犯を隔離する為の動物園」とまで揶揄された帝国議会政党政治の担い手に成長していく過程、立憲政友会が「我田引鉄」と呼ばれる泥臭い手段で在地有力者を懐柔しつつ大正14年の普通選挙法(1925年)制定にこぎつけていくプロセスなのである。さらに女性参政権については1880年から1884年にかけて限定的に認められて以降(当時、世界で女性参政権を認められていた地域はアメリカのワイオミング準州や英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であった)、GHQ統治下の1945年まで実現しなかった。むしろ振り返るべきはこうした歴史なのに、意外なまでに実際の研究例は少ない。

④「天皇が皇帝のような絶対的権力をもたない日本では、軍部がその地位を簒奪して暴走してしまう。戦後は、こうした江戸時代的システムが偶然、20世紀後半の経営者資本主義と相性がよかったため、日本は奇蹟的な高度成長を遂げたが、その幸運も80年代までしか続かなかった」は本当?

  • 実は皮肉にも與那覇潤「中国化する日本」そのものに、この時代をもっと上手く説明するモデルが収録されている。 

    国際的には以下を結びつけて一つの時代区分と考える仮説も存在する(総力戦体制論)。

    • 欧州先進諸国が第一次世界大戦(1914年〜1918年)期の総力戦で被った痛手の大きさは、当時激減した自由商品貿易が総生産額に占める割合が1970年代までそれ以前の水準に復帰する事はなかった」という統計的事実…日本の戦国時代でいうと「小氷河期到来に伴う全国規模での略奪合戦の激化」。

    • この時期における「万国の労働者が国境を越えて連帯しようとする世界革命志向と各国も成立した労働者主導主導型政権が政府の力で市場を制御下に置こうとする国家主義志向の衝突」…日本の戦国時代でいうと一向衆などの惣村土一揆の全国ネットワークと各地国人一揆の対立と共働。

    • 世界恐慌発生に伴って1930年代に進んだブロック経済化」…日本の戦国時代でいうとスケールメリットを追求する小田原北条家の様な新世代戦国武将の台頭と楽市楽座による御用商人選定過程。

    • 「冷戦発生に伴う世界の二分化」…日本の戦国時代でいうと織田信長包囲網の構築と挫折。

    そしてこの仮説では現在を「既にその軛から脱しているが、次に目指すべき体制が見つかってない過渡期」と考える。

     正直全てがこの枠内で語り尽くされてる気がする。

⑤「英米自由主義的な改革と同時に始まった中国の改革・開放によって全世界的な中国化の時代が始まった。ところが日本の政治家も企業もその流れに乗り遅れ、いまだに江戸時代に回帰しようとしている」は本当?

  • はっきりいって毛沢東が亡くなるまでの中華人民共和国スターリン主義一色。

  • ならばそれ以降は? 中国は「中国化」していったのか? おそらく(少なくともセルフイメージとしては)そうではない。実際「絶対王政」したらそれ固有のジレンマに足を取られて高転びしてしまう運命に見舞われるしかない事は当事者自身が理解しているだろう。それに「和諧社会(2004年)」「一帯一路(2014年)」といったキーワードから浮かび上がってくるのは、また別のイメージだったりする。

  • いうなればそれは(国王や皇帝の存在を容認するサン=シモン主義と決別した)オーギュスト・コントの科学者独裁構想とか(レーニンが傾倒した)米国産業界のテイラー主義(Taylorism)といった「ネオ絶対主義」とでも総称すべきシステム。パルプフィクション全盛期(1920年代〜1950年代)のアメリカSFで良く見かけたタイプの統治論。
    *これならとりあえず理論上は「領主が領民や領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」とか「全てが人次第の人治主義」といった前時代的異物から解放される事になる。実在し得るかは別として。

    http://www.starlink.jp/wp-content/uploads/2016/03/IMAG0056-e1459156321691-222x300.jpghttp://koinu2005.up.n.seesaa.net/koinu2005/image/World_of_Null-A_%281980%29.jpg?d=a0

    実際、中国共産党でトップまで登り詰めるには建築学など(統治に不可欠な)特定工学分野における博士号が不可欠だという。最近はこの条件に「社会学の博士号」が加わった。要は「唯一の正しい考え方に人間社会を合わせ続ける」のではなく「(選ばれた科学者集団が)今の社会を扱うのに最適の数理を選び続ける」姿勢。まぁ一応「計算癖が全人格化する時代」にちゃんと対応済みという次第。
    *全てが「正しい数理に基づいてる限り間違いは犯さずに済む」という論拠一点に掛かってくる形。「もはやどこにもマルクス要素なんて残ってない」という一点を除けば、科学的マルクス主義の究極系といるかもしれない。

 まぁそもそも最近の中国の成功要因そのものが與那覇潤いうところの「中国化」と無関係かもしれないという話。ちなみに、そもそも数理の世界に「開かれた」とか閉じられた」なんて概念は理論上存在しない…