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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【未来を花束にして】【マグニフィセント・セブン】【幕末太陽傳】まさかの英国発「本格派Samurai Movie」?

麦の穂をゆらす風 未来を花束にして

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もしかしたら世界に向けて「Samurai Movie」が発信可能なのは日本と英国くらいなのかもしれません。そう思いついたのは「13人の刺客(1963年)」リメイクの「アイアンクラッド(Iron Clad、2010年)」を鑑賞してからでした。

騎士の誓いを立てたが故に私のこの手はエルサレムで民衆虐殺の血に染まった。だが騎士の誓いなしに今の私の存在もまたない」と苦悩するテンプル騎士団所属の主人公(「七人の侍(1954年)」における勘兵衛(志村喬)、「13人の刺客(1963年)」における島田新左衛門(片岡千恵蔵)の役)。悪役ジョン王の「国王に対する悪逆は容赦なく罰されねばならぬ」の決め台詞…続編における勘兵衛 /島田新左衛門役が「フランス嫌いの若きリュジニャン家の一員」なのもまた渋い選択。

こういうのって、相応に前近代の歴史を大切にしてる国でないと難しいのかも。

黒澤明監督は「荒野の七人(The Magnificent Seven、1960年)」について「どうして全員ガンマンかな。勘兵衛役は南軍の元将校とかだろ?」と述べていたそうです。その設定は元企画にはあり、同名のリメイク版(2016年)で採用されてますが、臣民(Subject)らしく「抑制状態」から「戦鬼」に変貌するデイゼル・ワシントンまでは見られませんでした。例えば「七人の侍(1954年)」における勘兵衛(志村喬)の「戦争では自分だけ助かろうとする奴から真っ先に死んでいく」演説みたいなアレ…

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  • まぁ「臣民(Subject)の美学」が分からない「市民(Citizen)の国」には難しい? 逆に「そんなの分かりたくもねぇよ」という開き直ったスタンスこそがアメリカの良さだったりもする訳だけど。

  • どちらかというと、最近の学説に準拠してアーサー伝説の舞台を古代ローマ時代末期に移した「キング・アーサー(King Arthur 2004)」の方が「臣民(Subject)物」に近かったかも。監督同じだし、そういえば「ローマ帝国軍人アルトリゥス(クライヴ・オーウェン)と6人のサルマティア人(東欧の騎馬民族)傭兵」って…
    *もしかしたら「戦う依頼人=グウィネヴィア(キーラ・ナイトレイ)」「略奪男爵=初代ウェセックス王セルディック(ステラン・スカルスガルド)」だったのかな?

  • むしろ「シェーン(Shane、1953年)」の様な旧時代の名画の方が「本格派Samurai Movie」の要件を満たしてたりする。概ね①最初は誰が善人か悪人かとっさに判別つかない緊張した状況から始まる。②次第に「その次元を超えて許せない悪」が浮上してくる。③クライマックスでは一切美化されてない残虐な戦闘場面に突入。みたいなフォマット。
    *まぁ割と「マグニフィセント・セブン」の「略奪男爵」のキャラクター造形(自ら手を汚すのを忌避しない時点で最悪ではない)も良い感じの仕上がりだったけど、ちよっとマカロニ・ウェスタン入ってるなぁとは思った。まぁそちらも好物なので私的には無問題だったけど。
  • 実際アメリカ人には「切腹(1962年)」とか「上意討ち 拝領妻始末(1967年)」みたいな「サナギマン段階があるからイナズマン段階がある」展開の「本格派Samurai Movie」はこっそり猫またぎしている側面も見受けられる。
    *「イナズマン(1973年〜1974年)」…NET系で毎週火曜日19時30分から20時00分に全25話が放送された石森章太郎原作東映製作の特撮ヒーロー番組。当時は超能力やUFOなどのオカルトものが一大ブームだったので「主人公は超能力者」「主人公に協力する少年同盟も超能力を持つ少年少女集団」と設定されている。主人公はサナギマンからイナズマンへの二段変身能力を持っているが、これは蛹から蝶への羽化からイメージされたものである。イナズマンのデザインは蝶をモチーフとしているが、これは蝶と超能力者をかけた言葉遊びからのアイデアであると言われている。
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  • まぁ思うより戦闘場面短いし「誰もが雁字搦めになってる重苦しい状況の説明」が結構長いし、分からないでもない。日本人だって「シェーン(Shane、1953年)」における「牧場主の正義と開拓農民の正義の対立」なんてアメリカ人にはお馴染みのジレンマが分からない日本人には退屈なだけなのだから、これはこれで仕方がない。「本格派Samurai Movie」とはそういうものと諦めるしかない。

  • 一方、アメリカにはアメリカなりの「タメと解放の美学」の追求があるし、要するに「君はピクルスと漬物どっちが好き?」みたいなレベルの話とも。別に文化的にどっちが優れてるとか、そういう次元の問題ではない。
    *イギリス人だって京漬物を食べるときには食べる。

こうした次元の葛藤の延長線上に現れたイギリス映画が「未来を花束にして(Suffragettes、2015年)」だったりするのかもしれないという話です。

サフラジェット (Suffragettes)

19世紀末から20世紀初頭にかけて、参政権(Suffrage)、つまり選挙で投票する権利を女性にも与えるよう主張する女性団体のメンバーだった人々を指す。イギリスではとりわけ女性政治社会連合 (Women's Social and Political Union、 WSPU)のメンバーのような好戦的な人々を指すことが多い。サフラジスト(Suffragist)は女性参政権運動のメンバーを指すもっと一般的な単語である。
A 1912 vision of the year 2000.

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  • ジョン・スチュアート・ミルは1865年にイギリスの有権者に対して女性参政権を政策のひとつとして打ち出し「女性の解放(The Subjection of Women=原題「女性の服従」、1869年)」ような女性の権利を訴える著作を発表。多数の男女がこの大義に賛同することとなった。

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    近代社会は、生まれではなく功績によってその人の評価が決まるという原則に基づいている。この原則を実質化するためには、法律によって外的に規制するだけでなく、家庭で子供に男女の同権感覚を育ませる必要がある。これは彼が大人になったのち、他者を一個の人格として承認するために必要な素養だ。

    だから、実際に男女で真の権利的平等が実現するには相当の時間がかかるが、そうしたプロセスによってこそ、近代社会の正当性である「自由」は空文化せず、実質的なものとなるのだ。

    *フランスの啓蒙思想コンドルセのDNAを感じる。 

  • アメリカ合衆国では21歳以上の白人女性は1869年からワイオミング州の西部で、1870年からはユタ州でも投票できるようになった。
    南北戦争(1861年〜1865年)に際し米国女性達はる指導者スーザン・B・アンソニーの反対にもかかわらず選挙権獲得運動を一時的にやめて、戦争のために助力。
    スーザン・B・アンソニー - Wikipedia
    アメリカ人女性のタイムライン

  • マン島では1881年に財産を持つ女性が議会選挙で投票する権利を獲得していた一方、ニュージーランドでは1893年に21歳以上の女性が議会選挙で投票できるようになり、全ての女性に選挙権を与えた初めての自治政府を持つ国となった。

    移住・開拓を経験した土地では男女平等の精神が根付きやすかった様だ。

    英国を構成するマン島では、1881年に未亡人と財産を所有する女性の参政権が認められた。が、ニュージーランドではこうした条件関係無しに参政権が認められた点に意義がある。

    地方によっては1867年から、女性が地方政治へ参加する事が認められていたが、それは全国的に政治への参加を意味しなかった。

    1869年、マリー・アン・ミュラー(Mary Ann Muller)が、南島北部の都市・ネルソンの地方紙、Nelson Examinerに、女性の全国的政治への参加について記事を寄せた。これが引き金となる形で、キリスト教婦人禁酒同盟(NZ The Women's Christian Temperance)が、運動を行う様になったのである。

    同団体は1885年に設立。貧困とアルコールが原因となる家庭内暴力から女性を救済するのが設立の主旨で、つまり女性が禁酒を訴える事で自分達の権利を強めていった。また婦人参政権同盟も運動を行った。

    10ドル札に描かれているケイト・シェパード(Kate Sheppard)は、これら運動の中心になった人物である。彼女はクライストチャーチの人物で、大規模な集会の開催、パンフレットを作成し大衆への啓蒙そしてメディアへの投書、国会議員への請願、署名運動を行ったりした。大規模な署名運動は1891,92,3年と3回行われた。1893年には、31872名の署名が集まったが、これはオセアニア地区では最大規模のものだった。

    請願書の内の1つは、約3万人の署名で埋められていた。これら運動の結果、国会で女性参政権を認める法案の審議がされる様になる。

    当時は比較的リベラルな自由党政権下であった事も助けとなった。この法案の最大の理解者は、ジョン・ホール(Sir John Hall)で、国会審議中に署名運動の成果を紹介した。そして1893年9月19日、わずか2票差というきわどい状況で同法案は可決したのである。

    実際に、女性がその権利を行使したのは、同年11月28日の国会議員選挙だった。 
    *以下でも繰り返し現れるパターンだが「普通選挙実現」は戦争でいうと総力戦への移行みたいなもので、どうやってそれを遂行するだけの集団組織力を獲得するかが鍵となってくる。このケースでも、それの母体となった市民団体の大躍進があった模様。

  • 英領南オーストラリアの女性は1895年に平等な権利を獲得し、はじめて議会に立候補する権利を得るようになった。
    女性の参政権

    最も早く恒常的に女性に参政権が付与されるようになったのは、1869年のアメリカ合衆国ワイオミング州での選挙でした。しかし、この時はまだ女性には被選挙権が与えられていませんでした。

    その後1894年に、南オーストラリアで、初めて男女平等の普通選挙が実現しました。

  • 日本では1880年から1884年にかけて限定的に認められて以降、GHQ統治下の1945年まで実現しなかった。
    *要するに土佐である。日本ではこういう時、案外土佐なのである。ジョルジュ・ビゴーの戯画でも明治政府が頭を抱えてるTosa民権運動の一環。

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    *鍵は現地の料亭文化?

    女性の参政権

    日本で普通選挙が実現したのは1925年でしたが、フランス革命後の状況と同じように、参政権は男性にしか与えられませんでした。大正デモクラシーという民主化運動の中で、女性の権利が主張され、女性でも裁判官になることができるような運動も展開されましたが、第二次世界対戦終了まで、女性が選挙権を手に入れることはできませんでした。

    1945年10月10日幣原内閣で婦人参政権に関する閣議決定がなされました。また、翌10月11日のマッカーサーによる五大改革の指令には、「参政権賦与による日本婦人の解放」が盛られていました。一方、戦争終結の10日後8月25日には、市川房枝さんによって「戦後対策婦人委員会」が結成され、衆議院議員選挙法の改正や治安警察法廃止等を求めた5項目の決議を、政府及び主要政党に提出しています。そして11月3日には、婦人参政権獲得を目的とし、「新日本婦人同盟」(会長市川房枝、後に日本婦人有権者同盟と改称)が創立され、婦人参政権運動が再開されました。

    その年の11月21日には、まず、勅令により治安警察法が廃止され、女性の結社権が認められました。次に、12月17日の改正衆議院議員選挙法公布により、女性の国政参加が認められ(地方参政権は翌年9月27日の地方制度改正により実現)、そして1946年4月10日、戦後初の衆議院選挙の結果、日本初の女性議員39名が誕生しました。

  • 1897年に女性参政権協会全国連盟(National Union of Women's Suffrage Societies、NUWSS)が各地の女性参政権協会をまとめて設立された。この連盟を率いていたのはミリセント・フォーセットであり、法にかなったキャンペーン、リーフレットの発行、大会の組織、請願の提出などを信じて実行したが、ほとんど効果はなかった。
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    *ミリセント・ギャレット・フォーセット(Millicent Garrett Fawcett、1847年〜1929年)…盲目の夫とともにジョン・スチュアート・ミルの忠実な信奉者だった。1925 年にはナイト(「デイム」)の地位を授与されている。

  • 1903年になってもイギリスの女性には参政権がなかった。そしてこの年、フェビアン協会に参加したエメリン・パンクハーストがマンチェスターに新組織女性政治社会連合(Women's Social and Political Union、 WSPU)を結成。当初は「会合によって政治家を説得して」労働党地方支部への入会を性別を理由に拒絶されたエメリンは効果が見込まれるのならば過激・戦闘的な運動を行おうと考えていた。戦闘的なWSPUと先行するNUWSSの会員は重なっており、相互にサポートをしていた。
    *エメリンは当初「会合の繰り返しによって徐々に政治家を説得していく」穏便な展開を構想していたが、労働党地方支部への入会を性別を理由に拒絶されて相手側が一切聞く耳を持ってない現実を思い知らされたとも言われている。

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    *こっちは「産業革命発祥の地」マンチェスターである。

「サフラジェット(suffragette)」という言葉は、とくに「 暴徒の女王(Queen of the Mob)」と渾名されたエメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst、1858年〜1928年)とその長女クリスタベル・パンクハースト(Christabel Pankhurst、1880年〜1958年)に率いられたイギリスのWSPUの活動家を指す。

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dead is the new sexy

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Fresh Movie Quotes — Suffragette (2015)

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  • 「サフラジェット」(suffragette)という言葉はロンドンの『デイリー・メール』で働いていたジャーナリスト、チャールズ・E・ハンズが初めて用いた単語で、女性参政権運動の活動家、とくに女性政治社会連合(Women's Social and Political Union、 WSPU)のような人を嘲笑的に指す言葉であった。しかしながらハンズが馬鹿にしようとした女性たちはこの言葉を活用することにし、"suffraGETtes"とgを固く強い音で発音して、自分たちは投票をしたいだけではなく、それを勝ち取る("get")つもりだという意味をこめてこの言葉を用いた。
    1900年代初頭における英国と米国のポスター

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  • 当初、イギリスのサフラジェットの多くは社会的・経済的状況に不満を抱いていた上流階級かミドルクラス出身の女性であった。

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  • 最初に収監されたサフラジェットは、1905年10月に逮捕されたエメリン・パンクハーストの娘クリスタベル・パンクハーストとアニー・ケニー。1905年10月。マンチェスターで開かれた自由党の集会に、クリスタベルとメンバーのアニー・ケニーが出席。女性参政権についての質問を行うも二人は無視され、あまつさえ会場から追い出される。会場の外でなおも声を上げ続ける二人に対し、警察官が止めに入ると、二人は乱暴なふるまいをした(クリスタベルは警察官を殴り、つばを吐きかけたようである)。二人は公務執行妨害で罰金刑となるが、支払いを拒否。このためケニーは3日間、クリスタベルは10日間投獄されたのである。このことが当時の新聞のかっこうのネタとなり、大きく取り上げられた。これ以降、WSPUのメンバーたちは選挙演説会場に行っては、候補者に女性参政権についての激しい詰問を行うようになる。

    収監されている間、サフラジェットは政治犯として扱ってもらえるようロビー活動を行っている。政治犯の分類になれば、サフラジェットは監獄システムにおいて第二類・第三類ではなく第一類となり、頻繁な面会許可や本・記事の執筆など、他の分類の囚人に許されていない自由を得ることができたからである。さまざまな裁判所の間で扱いが一定しなかったため、サフラジェットは必ずしも第一類になるとは限らず、第二類や第三類となってあまり自由を得られないこともあった。こうした運動の盛り上がりによって大組織となったWSPUはキャンペーンやロビー活動を続けたがほとんど成功しなかった。サフラジェットが政治犯となると安易に殉教者を作り出してしまう恐れが存在したからである。 また、裁判所や内務省はサフラジェットが第一類の自由をWSPUのアジェンダを推し進めるために濫用していると考えていた。このため、サフラジェットは第二類、場合によっては第三類に分類され、結果的に何も特権は認められなかった。

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一般的に、歴史家は1906年にパンクハースト母娘(エメリンと娘のクリスタベル及びシルヴィア)のもとでサフラジェット運動が戦闘的になった第一段階において、女性参政権運動に劇的な動員効果がもたらされたと論じている。女性は通りに出て実際に反逆を行うということに興奮をかきたてられ、これを支持した。しかしながらロバート・アンソールが論じている様に、さらに注目を集めるにはもっともっとメディアで高い注目を集め続ける必要があったのである。

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  • 1906年の国会ではWSPUのメンバーたちが下院に押しかけて演説をし、排除されそうになるとスクラムを組んで抵抗し、またもや警察沙汰となった。この時も罰金刑に処されるが、やはり支払いを拒否。投獄され、注目を集める。

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    この年、WSPUは活動拠点をマンチェスターから首都ロンドンに移す。この頃からエメリンの次女シルビアがWSPUの会員証、バッジ、ポスターなどのデザインを手がけるようになり、緑、白、紫がWSPUのシンボルーカラーとなった。

    スローガンは「Deeds not words(言葉ではなく行動を)」。そのスローガンの通り、WSPUの活動は活発化。バザーを開いたり、寄付金を集めたりして活動資金を募り、会員数を増やしていった。

    集会の知らせは歩道にチョークで書かれ、大規模な集会やデモを展開。支持を労働者階級から中産・上流階級にも広げ、WSPUの店を開店し「Votes for women」というブランドのチョコレートや紅茶を販売。しかし、このことが「労働者階級から目をそむけ、上流階級と親交を深めている」と、古くからのメンバーの反発を招くこととなる。

    特に非難はエメリンとクリスタベル母娘の独裁的な体制に集中し、WSPUは分裂、一部のメンバーはWSPUから離れて新しい運動体を立ち上げた。しかしその後もWSPUは中産・上流階級を中心にメンバーを増やし続け、運動を大規模化させていく。

  • サフラジェットはハンガー・ストライキなど過激な手法を用いることがあったが、これはツァーリズム下のロシアからイングランドに亡命してきた人々から学んだものとされる。

    Yesterday's Print — The Graphic, London, February 16, 1907

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  • その一方で、この当時のサフラジストの多くが「戦闘的なサフラジェットが女性参政権の大義を傷つけている」と主張している。実際、この時期に女性参政権運動に反対していた人々は、サフラジェットの運動を見て、女性が感情的すぎて男性のように論理的に考えられないということの証拠とした。
    Poor men.

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1909年7月、器物損壊でホロウェイ刑務所に1ヶ月収監の刑を宣告されたマリオン・ウォレス・ダンロップ(Marion Wallace Dunlop)が最初に食事を拒否。パンクハーストのようなサフラジェットのリーダーに相談することなく、あくまで個人的に政治犯としての扱いを拒否する抵抗手段としてこれを行ったのだった。91時間のハンガー・ストライキの後、ダンロップが殉教者となるのを恐れた内務大臣ハーバート・グラッドストーンは健康上の理由による早期釈放を決定。ダンロップのこの戦術を他のサフラジェット収監者もさっそく模倣する様になる。

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  • 20世紀初頭から第一次世界大戦までの時期にイギリスでは1000人ほどのサフラジェットが収監された。 初期の収監理由のほとんどは治安妨害や罰金未払いなどを理由とするものであった。

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  • 1909年9月、刑務所がチューブを用いてハンガー・ストライキ実施者に強制摂食させ始める。内務省は刑期をつとめあげる前にハンガー・ストライキを行っているサフラジェットを釈放することを避けたいと考えていたが、収監中に死亡すると刑務所がその死の責任を負わねばならなくなる。こうした事情の妥協の産物であった。

    The Sociological Cinema (Arrested on the official charge of “obstructing...)

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  • 多くの場合鼻チューブ、胃チューブ、胃洗浄器を使用したが、それ自体は食べ物を食べたり飲み下したりできないほど病状の悪い入院患者に対して以前よりイギリスで行われていた措置に過ぎなかった。医療従事者により「病人への適用は安全である」とされていたが、当事者の同意なしの実行となると話が変わってくる。ハンガー・ストライキ実行者は通常縛られ、しばしばかなりの力で押さえつけられて胃チューブか鼻チューブで強制摂食させられた。このプロセスは大きな苦痛を伴うもので、内科医による観察・研究の後、循環系、消化系、神経系への短期的ダメージと身体及び精神の健康への長期的ダメージの両方をサフラジェットに及ぼす可能性があると指摘される事になる。 強制摂食を受けたサフラジェットの中には、チューブの位置が間違っていた結果、胸膜炎や肺炎にかかるものもいた。そうするうちにサフラジェットの囚人分類について公衆も気に掛ける様になり、分類規則が修正される展開に。

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  • 1910年3月、243A規則が内務大臣ウィンストン・チャーチル(当時はジョゼフ・チェンバレン保護貿易論に反発して自由党へ移籍中)により導入され、これにより重罪に問われていないという条件で第二類と第三類の囚人にも第一類の囚人が持つ特定の特権を付与できるという事になる。これによって2年にわたるハンガー・ストライキは一旦終了した。
    サフラジェットは1910年のロンドンを舞台とする「メリー・ポピンズ(Mary Poppins、1934年〜1988年、映画化1964年)の映画版にも登場。まさにこの件を祝っている?
    Elesbian Bennet

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    Suffragette demonstration in London in March 1910

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  • とはいえパンクハーストが第二類から第一類に移された際には、自分たちの囚人分類についても再考すべきだと考えたサフラジェットたちが抵抗をし、ハンガー・ストライキは再開。
    The arrest of the suffragette leader Emmeline Pankhurst - 1908.

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  • 1910年11月18日、ブラックフライデー事件。200名のサフラジェットが警察から暴行され、こうした事件を契機に戦闘的な女性達は男性の暴力から自衛する必要を痛感するようになっていく。 
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1912年はイギリスのサフラジェットにとっての転機となった。この年からサフラジェットたちは手すりに自分たちの体を鎖でつないだり、郵便ポストの中身に放火したり、窓を割ったり、時には爆弾を爆発させるといった具合にさらに戦闘的な手法に頼るようになったのである。
*この年以降、エメリン・パンクハーストと娘のクリスタベルは投獄を免れる為にパリに逃れた(第一次世界大戦が始まると帰国)。実働部隊は少数精鋭主義をとった。次第に男性の組織との協働を拒む様になり,性戦争の様相を深めていったとも。

Yesterday's Print — The Day Book, Chicago, January 1, 1912

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  • イギリス中で手紙やそれが入った郵便ポストが燃やされたり酸を注ぎ込まれたりした。クリケット場や競馬場など、富裕な人々、とくに男性がいる場所も放火や破壊活動の対象になった。また体系的に自由党の会合を邪魔したりもした。

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  • ロンドン中で続いて放火が起こる中、キューガーデンにあるティーハウスがサフラジェットのオリヴィア・ワリーとリリアンレントンに放火された。やはりキューガーデンにあるオーチャード・ハウスもサフラジェットが襲撃したのではないかと考えられてるが、確たる証拠は見つかっていない。
    *映画では完全にクロとして描写されるが、証拠不十分で立件を免れている。

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1913年初頭、WSPUは「ボディガード」として知られる女性の一団を作った。この女性たちの役割は、エメリン・パンクハーストを筆頭とする著名なサフラジェットを逮捕や暴行から守ることであった。キャサリン・ウィロビー・マーシャルやガートルード・ハーディングなどがメンバーとして知られている。武道家のイーディス・マーガレット・ガラッドがこの女性たちの柔術師範をつとめた。「ボディガード」のメンバーはリーダーを守るため、警察と戦う暴力的な闘争にも参加した。
上西貞一 (1880年〜1908年以降)- Wikipedia

1900年、20歳になった上西は折衷的な武術であるバーティツの創始者であるエドワード・ウィリアム・バートン=ライトに招かれてロンドンに渡った。ロンドンに到着してすぐ、上西はシャフツベリー・アベニューにあるバートン=ライトのバーティツクラブで、同じく日本をあとにしてきた柔術家の谷幸雄に会っている。

谷と上西はバートン=ライトがプロモーションした試合で自分たちよりもかなり大柄な相手を巧妙に打ち負かすようになり、プロの武道家として名をあげ始めた。この頃の谷と上西はミュージックホールなどのイベントで賞金のかかった試合に出場することで生計を立てていたと考えられている。ミュージックホールなどで行われる試合には見世物的な側面が強くあり、上西は15分で6人の相手を打ち負かすなどという派手な試合も行っていたという。

バーティツクラブが1902年頃に閉鎖され、上西と谷はこの頃、おそらくは給与の問題でバートン=ライトと袂を分かった。この頃の谷と上西のマネージャーは、のちにJu-Jitsu: What It Really Isを著すウィリアム・バンキアーがつとめていた。上西はプロの武道家として活動を続ける一方、バーティツクラブでかつて同僚であったピエール・ヴィニーが作った護身術教室で柔術のクラスを教えるようになる。上西は評判の良い教師で、1903年までにはピカデリー・サーカスゴードン・スクエア31番地に自分の道場である「日本式護身術学校」(the School of Japanese Self Defence)をはじめることができた。

上西はエドワード朝ロンドンの社会に馴染んで暮らしていた。スタイリッシュなファッションセンスに紳士らしい振る舞いをするエキゾティックで個性的な人物であり、このためにメディアからも注目された。1905年に日本が日露戦争に勝利したことなどもあってエドワード朝の人々は日本の武術に興味を示すようになっており、こうしたこともあって上西のキャリアは上向きになった。

1905年に、弟子であるE・H・ネルソンの助けで、プロの武道家としての別名「ラク(Raku)」として『柔術の教科書』(Text-Book of Ju-Jutsu)を執筆した。この本は参考書として人気を集めた。3年後、副業として試合も続けつつ、上西はオールダーショット軍学校とショーンクリフ・アーミー・キャンプで近接格闘術の教師として働くことになった。

1908年末に日本へと帰国。ゴードン・スクエアの教室は弟子の中から熟達した柔術家であったウィリアム・ガラッドにまかせた。帰国以降の上西の暮らしぶりはよくわかっていない。しかしながら英国の柔術専門家であるパーシー・ロングハーストが第二次世界大戦直後に書いた『柔術の教科書』第9版用の上西の伝記によると、上西は「数年前に亡くなった」となっている。

上西の弟子として直接影響を受けた著名な人物としてはウィリアム・ガラッドがおり、1914年にガラッドが刊行したThe Complete Jujitsuanは柔術に関する標準的な参考書となった。上西は女性の弟子をとっており、中には武道家として後世に名を残した者もいる。上西の弟子でウィリアム・ガラッドの妻であったイーディス・マーガレット・ガラッドは、夫が上西から受け継いだ道場で女性や子どもを教え、戦闘的な女性参政権運動家たちに柔術を教えるクラスを作った。また別の弟子であるエミリー・ダイアナ・ワッツは1906年の著書 The Fine Art of Jujitsuで講道館柔道形を初めて英語で書き記した。小泉軍治は上西の教室で教えていたことがある。現在、イギリスで稼働している柔道や柔術のクラブには上西貞一の弟子まで素性をたどれるものもある。 

  • ボディガード」の起源はガラッドがWSPUの会合で発言したことにさかのぼる。公衆の面前で話すサフラジェットはどんどん暴力のターゲットにされ、暴行を受けやすくなっていたため、柔術を教えることは激怒した妨害者に対して女性が身を守る方策となった。

    poehler bonham carter (THIS IS ACTUALLY THE BEST THING IN MY LIFE.)

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  • 1913年4月、内務省レジナルド・マッケナは1913年健康悪化による囚人の一時釈放法(Prisoners(Temporary Discharge for Ill Health)Act 1913)、通称「猫とネズミ法」(Cat and Mouse Act)を通過させた。この法によりサフラジェットは健康状態が悪化すると一時的に釈放され、健康が回復すると刑期終了まで収監されることになり、これによりハンガー・ストライキは法制にとりこまれた。この法によりイギリス政府はハンガー・ストライキ実施者が飢えにより死んだり病気になったりすることからくる責任から解放され、さらに収監されていない時はサフラジェットは示威行動に参加できないほど病気で弱っているという言質をとることができるようになったのである。ほとんどのサフラジェットは、釈放後に再収監された際はハンガー・ストライキを継続した。この法が導入された後、大規模や強制摂食は停止され、重罪に問われていて釈放されると再犯すると考えられる女性のみが強制摂食を受けるようになった。
    A shattered window following an explosion by Suffragettes, HM Prison Holloway, 1913

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    ⚢ Rebecca ⚢, Helena Bonham Carter in Suffragette.

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  • 1913年6月4日、サフラジェットのひとりであったエミリー・デイヴィソン(Emily Davison)がエプソムダービーで国王ジョージ5世の馬であるアンマーの下敷きになって死亡した。馬に「女性に参政権を」("Votes for Women")のバナーをピンでつけようとしていたという説もあるが、これについては議論がある。仲間のサフラジェットが数多く収監されたが、政府を脅すため食事を拒否。アスキス率いる当時の自由党政府は「猫とねずみ法」でこれに対処した。

  • この時期の他の傑出したイギリスのサフラジェットとしてはパンジャーブ地方の王女であったソフィア・ドゥリープ・シング(Sophia Duleep Singh)がいるが、その後70年にわたってその業績はほぼ忘れられていた。
    NPR

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    Group of Indian Suffragettes on procession, June 1911

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  • 1913年のこの展開についていけない人々が何人もWSPUを離れたが、その中にはエメリン・パンクハーストの娘であるアデラ(Adela)とシルビア(Sylvia)の姿もあった。アデラはオーストラリアに移住し、シルビアは社会主義者になった。
  • 1914年にもイギリス中で少なくとも7軒の教会が爆破・放火された。これには700年前に作られた即位の椅子の破壊を狙ったウェストミンスター寺院の爆破工作も含まれていたが、近くに爆弾があったにもかかわらず即位の椅子は軽い損傷だけですんだ。

    *同年のアメリカの状況の風刺画。大統領が共和党ルーズベルトから民主党ウイルソンに代わっても相変わらずだった。
    Princeton University Archives (Tiger Tuesday: You might want to zoom in on this...)

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第一次世界大戦(1914年〜1918年)が始まると、イギリスのサフラジェット運動は女性参政権運動からいったん離脱。戦争協力に力を注ぐようになった為に結果的にハンガー・ストライキもほぼ止んだ。

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  • 1914年8月、イギリス政府は女性参政権運動で収監されていた全囚人に恩赦を言い渡した。エメリン・パンクハーストが全ての戦闘的な女性参政権運動を終了させた直後の出来事であった。サフラジェットが戦争協力に焦点を移したため、世論は1918年の部分的な女性参政権導入に好意的になった。

    https://archiveshub.jisc.ac.uk/images/content/cotmnuwss.jpg

  • パンクハースト母娘が第一次世界大戦開始時に戦闘的行動をやめると決め、熱狂的に戦争協力を支持した結果、運動は分裂し彼女のリーダーとしての役割は終わった。イギリスにおけるフェミニズム運動はその後、戦闘的な作戦を行うことはなくなる。ボブ・ホイットフィールドは、戦闘的なキャンペーンは高い注目を集めるという点で積極的な効果をもたらし、穏健派はよりよい組織化に取り組まざるを得なくなった一方、反対派も増やしてしまい、世論をうまく味方につけることができなくなってしまったと考えている。

  • 一方、女性参政権協会全国連盟(NUWSS)は常に「法にかなった」方法を採用していたが、戦争中もロビー活動を継続。連立政府と女性参政権協会全国連盟の間に合意が形成された。
    *「チップス先生さようなら(Goodbye, Mr. Chips、原作1934年、映画化1939年、1969年)」でも活写されるが、当時の女性解放運動のシンボルは「自転車と(現代人の感覚では乗馬ズボンめいて見える)ブルマー」。

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  • 1918年2月6日、1918年国民代表法(Representation of the People Act 1918)が通過し、21歳以上の男性(これ以前にはイギリスの全男性が参政権を持っていたわけではなかった)と最小限の財産要件を満たす30歳以上の女性の参政権が実現。840万人の女性が投票する権利を得た。そして同年11月、女性資格議会法(Parliament (Qualification of Women)Act 1918)が通過。女性が議会議員に選出されることが可能となる。
    *この措置により同年の有権者は前回1910年12月の総選挙時のおよそ4倍に。結果は保守党との連立を打ち出した自由党連立派ロイド・ジョージの圧勝。それまで女性参政権を拒み続けてきたアスキス率いる自由党非連立派は惨敗し、以降自由党労働党以下の第三党へと転落してしまったのだった。
    https://www.parliament.uk/ImageVault/Images/id_834/width_575/height_390/preserveAspectRatio_0/scope_0/ImageVaultHandler.aspx
  • 1928年国民代表法(Representation of the People Act 1928)によって投票権は21歳以上の全女性に広げられ、10年前に既に男性が得ていたのと同じ条件で投票できるようになった。
    *当時は1924年からラムゼイ・マクドナルド党首率いる労働党が与党となっていたが、1929年5月のイギリス総選挙ではまたもや保守党が票を伸ばし得票率で上回った。一方、議席数では労働党が結党以来初めて第1党となり、第2次マクドナルド内閣が組閣される。しかしそのせいで世界恐慌(1929年10月24日)に直面。マクドナルドは失業保険の削減といった緊縮財政のせいで労働党から除名され、代わりに保守党と自由党の援助を受けて挙国一致内閣を組閣。こうした展開のせいで1931年10月のイギリス総選挙において労働党は保守党に惨敗する羽目に陥る。
    anti-suffragette cartoon from the 20s

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WSPUは1909年から「パンク・ア・スキス」("Pank-A-Squith")というボードゲームを発売し、キャンペーンに関する啓発と資金集めを行おうとした。このボードゲームはらせんの形になっていて、プレイヤーはサフラジェットになり、家から議会までイギリス首相ハーバート・ヘンリー・アスキスと自由党政府の反対を克服してたどり着く。マンチェスターの民俗歴史博物館ではこの「パンク・ア・スキス」ボードゲームがメインギャラリーに展示されており、訪れた人はレプリカをプレーできる。

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未来を花束にして - Wikipedia

映画「未来を花束にして(Suffragette、2015年)」において婦人社会政治連合(WSPU)の活動家で、何度逮捕されても権力に果敢に立ち向かう薬剤師イーディスを演じたヘレナ・ボナム=カーターは、当時のイギリス首相で婦人参政権運動を弾圧していたハーバート・ヘンリー・アスキス伯爵の曾孫にあたる。

ハーバート・ヘンリー・アスキス - Wikipedia

そもそも事態がここまで至るには、様々な前史が。

  • 1975年にスタンリー・キューブリック監督が映画化したウィリアム・メイクピース・サッカレーの小説「バリー・リンドン(Barry Lyndon、1844年)」は18世紀欧州上流階層の世界を舞台とするピカレスク小説。アイルランド出身の悪党レドモンド・バリーはまんまと若き富裕層の未亡人レディー・リンドンの夫となる事に成功。管財権を獲得して放蕩三昧の毎日を送るが連れ子のバリンドン子爵に決闘を申し込まれて敗北し毎年500ギニーの年金と引き替えに家から放り出される。
    *しばしば「当時の英国女性に財産権はなかった」といわれるが、より正確には「(未成年者同様)管財権がなかった」が正しい。独身女性が遺産を相続すると管財者が立てられ、結婚すると管財権が配偶者に移行するのである。ただ貴族の場合(また別ルールで動く)爵位に付帯する財産があったり(それでバリンドン子爵の自活が可能となった)、有力者の斡旋で動く爵位があったり(レドモンドはただ放蕩三昧の日々を送っていたのではなく彼らに取り入って爵位獲得を目指していたが、不祥事を起こして全て台無しとなる)、決闘の勝敗で動く権利もありと「原則は所詮原則」レベルのプライオリティに過ぎなかった。

  • フランス革命期からナポレオン戦争期にかけての海戦を一人の海軍将校の成長譚を通して描いたセシル・スコット・フォレスター 「ホーンブロワー・シリーズ(1948年〜1967年、映画化1951年)」において、主人公ホレイショ・ホーンブロワーは恋人レディ・バーバラ・ウェルズリーとの結婚を躊躇する。それは当時の結婚が「妻の管財権消失」を意味し、二人の対等な関係を崩壊させると考えたからだった。

  • コナン・ドイル卿「名探偵シャーロック・ホームズSherlock Holmes)シリーズ(1887年〜1927年)」の中でも「まだらの紐(The Adventure of the Speckled Band、1892年)」や「ぶなの木屋敷の怪(The Adventure of the Copper Beeches、)」といった若い女性が被害者となる作品は戦前から日本でも大人気。岡本綺堂「半七捕物帳(1917年〜1937年)」の原案とされたり、少女向け月刊誌に翻案が掲載されてもきた。

    岡本綺堂 半七捕物帳 奥女中

    *そもそも彼女達はなぜ狙われたのだろうか。それは当時実際に、資産家の少女に恋人が出来ると、その財産に寄食している管財人が資産の目減りや無一文で放り出されるのを恐れ(恋人が使い込みを発見して告訴し、投獄されるケースもあった)恋路を邪魔したり、思い余って殺してしまうケースが相次いでいたからだった。参政権、財産権、養育権を否定されるという事は生存権さえ脅かされる事を意味していたのである。このタイプの作品では犯人は必ず無残な最期を遂げ、シャーロック・ホームズも「私が直接手を下した訳ではないが、例えそうだったとしても良心は一切痛まないね」なんて捨て台詞を吐いたりする。それはコナン・ドイル卿が本音で漏らした義憤でもあったという次第。

  • 実はイギリスにおいて女性を最初に政治的に大量動員したのは、保守党だった。十年ぶりに政権奪還に成功した自由党が女性の政治参加に断固反対し続けたのも、あるいは彼女達の票で保守党が息を吹き返すのを恐れたからかもしれない
    *実際、上掲の様に女性参政権導入と同時に自由党は与党から労働党以下の第三党に転落し、以降二度と党勢を回復する事はなかったのである。また自由党政権時代、エメリン・パンクハースト母娘らWSPUが体系的にその政務遂行を執拗に妨害し続けた事も「プリムローズ・リーグの悪夢」を蘇らせた可能性がある。
    後期ヴィクトリア朝の選挙運動とプリムローズリーグ

    http://forum.casebook.org/attachment.php?attachmentid=11426&stc=1&d=1298673587

    プリムローズ・リーグ(Primrose League)

    「宗教・国政・大英帝国の護持」を目的に掲げたイギリス保守党の議会外組織。19世紀末から20世紀初頭の世紀転換期にイギリス最大の政治組織となり、同時代の保守党長期政権を支えた。
    *英国保守党を他国の様な「地主の利権団体」から脱却させた立役者でもある。日本では立憲政友会が「我田引鉄」政策などによって在地有力者や現地リーダーを懐柔する事によって同様の目的を達成し男子普通選挙に漕ぎ着けたが、国保守党は労働者と女性を味方につける事によって(労働者に対する)選挙権拡大を乗り切った次第。
    小関隆「プリムローズ・リーグの時代―世紀転換期イギリスの保守主義」

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Primrose_League.jpg

    • ベンジャミン・ディズレーリの「トーリー・デモクラシー」の継承者を自任していた保守党の政治家ランドルフチャーチル卿(ウィンストン・チャーチルの父)は、一般保守党員の声がもっと保守党執行部に汲みあがるよう保守党議会外組織の影響力を拡大させる改革に熱心だった。その一環でランドルフ卿が1883年11月17日に保守党の社交界カールトンクラブの会合で新たな保守党議会外組織としてプリムローズ・リーグの結成を発表。プリムローズの名はヴィクトリア女王ディズレーリの葬儀にプリムローズを「彼の愛した花」として贈ったことに由来する。リーグの目的はディズレーリが目指した物、つまり「宗教、国制、大英帝国の護持」と定められた。

    • 既存の保守党議会外組織保守党協会全国同盟(NUCA)は自由党の同種の組織自由党国連盟に比べて大衆を運動員として動員する能力が低かったので、これを憂慮したランドルフ卿はプリムローズ・リーグをNUCAより広い階層の大衆の意見をくみ上げる大衆運動組織にしようと考えたのであった。ランドルフ卿はソールズベリー侯ら保守党執行部から疎まれていたが、1884年7月26日のソールズベリー侯とランドルフ卿の協定によりランドルフ卿がNUCA議長職を辞することを条件にプリムローズ・リーグは党執行部から公認された。

    • ランドルフ卿ははじめこの組織をエリートだけが加入できる準秘密結社にしたがっていたが、これについてはランドルフ卿の同志であるサー・ヘンリー・ドラモンド・ウォルフが「無神論者と大英帝国の敵を除く全ての階級・信条の者に開かれた組織にすべきだ」と説得して止めた。その結果、リーグは「宗教、国制、大英帝国の護持のために私の持てる力の全てを捧げることを女王陛下への忠誠心にかけて誓う」と宣誓した者は誰でも受け入れられることになる。

    • 結成当初女性は名誉メンバーとしてのみ参加を許されていたが、1884年からは女性メンバーにも男性メンバーと同じ待遇が認められた。こうした女性への門戸の広さは当時の政治組織には珍しく、女性の反応もよかった。プリムローズ・リーグのメンバーの半分は女性であった。

    • また初めメンバーの種類はナイト(女性はデイム)しかなく、1ポンド1シリングという高い入会金を取られたが、1884年3月から年会費3ペンスから6ペンスのアソシエイトというメンバーの種類が作られたため、これがきっかけで労働者層が大挙して加入。1884年2月には団体名からトーリーを外したことで党派を越えた支持も期待できるようになった(ただし引き続き保守党寄り団体だったが)。カトリックアイルランドにも融和的な態度をとって支持を広げようとした。7歳から16歳の子供もプリムローズ・バッドとして受け入れた。こうしてプリムローズリーグは性別、階級、宗派、年齢を越えた政治団体となっていく。
      *ただし植民地のネイティブたちは対象外。大英帝国の護持を掲げるリーグにとって彼らは支配の対象でしかなく、帝国の栄光を分かち合う存在ではなかったのである。

    • ディズレーリの二度目の命日である1883年4月19日に行われたディズレーリ像の除幕式がきっかけで、毎年4月19日にプリムローズを飾ったり、着用したりする「プリムローズ・デイ」の習慣がイギリス各地で広まり、労働者階級の間に親ディズレーリ、親保守党ムードを構成した。そしてこの習慣の普及に積極的にあたったのがプリムローズ・リーグであった。

    • プリムローズ・リーグは急速に広まっていた。プリムローズ・リーグのメンバー数は公式発表によれば1884年3月時に957人だったが、1885年3月には11,366人、1886年3月には200,837人、1887年3月には526,248人、1891年3月には1,001,292人、1901年3月には1,556,639人、1910年3月には2,053,019人に達したという。これは当時のイギリスの労働組合運動をはるかに凌ぐ。リーグの公式発表には誇張があると言われているが、それを差し引いてもプリムローズ・リーグが当時のイギリスの最大の政治組織であった事は間違いないと見られている。

    • リーグのモットーは「帝国と自由」(ラテン語: Imperium et libertas)、目的は「宗教・国制・大英帝国の護持」と定められていた。リーグがこれだけ労働者層に広く受け入れられたのはこの目的が単純で包括的だったからと見られている(細かい政策には踏み込まなかった)。

    • 宗教の護持とは宗派を問わずキリスト教信仰全般を守るべく、無神論者と戦うことを意味する。国制の護持とは君主制貴族院庶民院の3つの柱を守ること、またイギリス社会のヒエラルキーを守り、それぞれが分相応の役割を果たして一つに結束するを意味している。大英帝国の護持は帝国を維持することの恩恵を国民に周知徹底させることが中心だった。たとえば「ヨーロッパの地図を見てみましょう。イギリスはほとんどの他国より規模の劣る小さな島国です。しかし今度は世界地図を見てみましょう。イギリスが支配する領域がどこまで広がっているか見るのです。アジア、アフリカ、アメリカ、オーストラリア、ニュージランドに帝国の女帝たる女王陛下の支配は及んでいるのです。(略)祖先が勇気と冒険心、労苦を持って獲得してくれたこの輝かし遺産を私たちは放棄するのでしょうか」といった具合である。

    • 20世紀初頭、自由党政権の社会改良政策を保守党は「社会主義」として激しく攻撃したが、リーグもこれに同調。以降徐々にメンバーの離反が始まり、リーグの衰退がはじまった。1913年には保守党の機構改革に合わせて、これまでの党派に属さないという立場を変更して保守党支持団体であることを明確化。これにより自立性を失っていき、以降は急速に衰退していく。
      *逆をいえば「選挙運動の実務を知る女性」の流出が始まった?

    近年まで細々と活動を続けていたが、2004年12月13日に解散。幹部のモウブリはその理由について「近年私たちの会合はどんどん小規模化していました。むしろダイニング・クラブのようで、リーグ創設の政治目標に役立つことはもうなくなっていました」と語っている。

何この溢れ出る本格派Samurai Movie」感…映画「未来を花束にして(Suffragettes、2015年)」冒頭におけるエメリン・パンクハーストの「男達が聞く耳を持たないなら。女達は行動するしかない」宣言には、これだけの「サナギマン状態(歴史的忍耐の積み重ね)」があったのですね。ただしストーリー展開上は「いきなりイナズマン状態」からの出発。
*そういえば「イナズマン」放映時も、途中からサナギマン状態を経ず、いきなりイナズマンに変身する様になった。当時の視聴者に不調だったらしい…

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当然、欧米の観客層はこうした予備知識を備えた上でこの作品に臨む訳ですが、その基本スタンスは割と「現代日本人が尊王攘夷志士に接する態度」に近い印象を受けました。色々思うところはあっても、とりあえず自分達の先祖の歴史の一環である以上、まずは現実として受け入れるといった感じ。

こうした予備知識なしに「いきなりイナズマン状態スタート」では「太陽族映画(1955年〜1957年)」になってしまいます。実際「幕末太陽傳(1957年)」では石原裕次郎演じる高杉晋作が、ほとんど背景説明抜きで品川の遊郭に潜伏して英国大使館を焼き討ちしてました。まぁ日本人ならついていけるんですけどねぇ…

*今年の宝塚公演の演目らしいけど、こういう部分を一体どう処理するのか…

なので当然、こういう意見も誘発してしまう事になります。

いきなり現代に投影して宣戦布告… 幕末からずっと戦い続けてきた志士の皆さんですか? そういえばアイルランド映画「麦の穂をゆらす風(The Wind That Shakes the Barley、2006年)」でも同様のコメントが並んでましたね。

ちなみに「未来を花束にして」の作中で女性参政権運動取り締まり強化の為にアイルランドから呼び寄せられたアーサー・スティード警部(ブレンダン・グリーソン)は筋金入りの臣民(Subject)タイプ。「麦の穂をゆらす風」なら徹底的に単なる悪役として描かれていたかもしれません。実際、日本の鑑賞者の中には明らかにそう受け止めた人物もいた模様。

 本当に「揺れ」は存在したのでしょうか? その尻尾さえ掴ませてくれないのがブレンダン・グリーソン(Brendan Gleeson)の名演技。上手過ぎて第18回英国インディペンデント映画賞で(なんと息子とダブルで)助演男優賞受賞を獲得する展開に。

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そんな人物がアイルランドで「貧しく無学な庶民が扇動によって訳も分からないまま動員されて使い捨てにされる悲劇を散々目撃してきた(と、少なくとも当人は信じている)」立場から「サフラジェット(Suffragette)の新米」モード・ワッツ(キャリー・マリガン)の尋問に当たります。ここがこの映画中でも屈指の見せ場。この作品を「本格派Samurai Movie」として鑑賞する立場からすれば「最後の決戦」に該当する箇所となります。まぁ現実の研究でも決着がついてない問題なので、映画の中でも決着はつかないんですが。

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スティード警部「私は法に従っている」

モード「法は私には何も意味しないんです。制定に関わった事もないんです。私達が窓を破り、物を燃やすのは、それしか声を届かせる方法がないからなんです。私達を叩きのめし、裏切り、何も残してくれないからなんです」

スティード警部「一刻も早く足抜けしないと、本当に何もかも失ってしまうぞ」

モード「貴方に何が出来るっていうんです? 私たち全員を見張るつもり? 私達はどこにでも居ますよ? 人類の半分は私達なんですから。その全員を止められるんですか?」

*お互いの主張が全く噛み合っておらず、それを互いがどう受け止めたのかさえ一切示されない。現実の研究でも両方の立場があり、結論は出てない。ところで彼女のこうした発言は「(自らに課せられた役割の全体像を知り、自分なりの方法で遂行する)臣民(Subject)」の立場から出たものだろうか、それとも「(自らに与えられた権利の全体像を知り、それを自分なりの方法で要求する)市民(Citizen)」の立場から出たものだろうか。そもそもこの映画に登場するサフラジェット(Suffragette)達は揃って「(何もかも奪い尽くされ、自分の頭で考える事を一切許されてこなかった)半人間」として描かれている。「どちらにもなり得ない存在」が答えなのかもしれない。なら当然「選挙権より教育の充実と経済的自立では?」なんて批判も出てくる。もちろんサフラジェットの持論に基づくなら「選挙権さえ獲得すれば教育と経済的自立は後から勝手についてくる」という事になるのだが…最後は「この世界の片隅に」のラスト間際ですずさんが上げた慟哭みたいな結末で終わりそうな物語でもある訳である。「それが悲劇に見えるのは、実祭の歴史上の結末を知ってる観客だけ

実はほぼ同時期、ほぼ同じ問題意識から出発しながら真逆に「女子教育を充実して精神的自立と経済的自立を達成すれば、選挙権は後から勝手についてくる」という結論い到達したのが日本の(特に与謝野晶子の)女性解放論だったりするからややこしいのです。どうして真逆の結論に至ったか。当時の著作をざっと眺めると、また別の景色が浮かび上がってくるのでした。

こうして同時代の英日女性の在り方を比較してみると「英国女性は保守党の外廓団体プリムローズ・リーグに政治動員される過程で政治の何たるかの基礎を学び、戦争協力の過程でさらにその集団行動力を洗練させ、社会的立場を向上させていった」みたいな仮説が浮かび上がってくる訳です。

 

  • アテナイ悲劇もペロポネソス戦争(紀元前431年〜紀元前404年)戦争で籠城戦が続くうちに女性への「配慮」が増えていく。次第に敗色が濃くなっていく最中、夫や息子が戦死したり、毎日重労働に従事してる相手に、次第に従前の様な高飛車な態度が取れなくなっていったのだとも推測されている。
    *そして総力戦の時代に入ると「大戦がある都度、女性と植民地人の社会的地位が向上する」という現象が観測される様に。
    https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024007967.jpg

 

こうした様々な差異の累積が運動の方向性の違いを生み出したとも見て取れます。

  • いずれにせよ「男女平等の精神」の出発点はこれ。
    *それ自体は触れ方によって「市民(Citizen)そのもの」とも「市民(Citizen)的でも臣民(Subject)でもないといわれる。
    臣民 - Wikipedia
    市民 - Wikipedia

    近代社会は、生まれではなく功績によってその人の評価が決まるという原則に基づいている。この原則を実質化するためには、法律によって外的に規制するだけでなく、家庭で子供に男女の同権感覚を育ませる必要がある。これは彼が大人になったのち、他者を一個の人格として承認するために必要な素養だ。

    だから、実際に男女で真の権利的平等が実現するには相当の時間がかかるが、そうしたプロセスによってこそ、近代社会の正当性である「自由」は空文化せず、実質的なものとなるのだ。

    公教育の原理」を著したコンドルセは「公教育の父」とされる。

    • 法律さえ立派につくられていれば、無知な人間も、これを能力ある人間となすことができ、偏見の奴隷である人間も、これを自由ならしめることができると想像してはならない。

    • 天才は自由であることを欲するものであって、いっさいの束縛は天才を委靡させるものである。

    • 法律を愛するとともに、法律を批判することができなければならない。

    コンドルセはまず「公教育は国民に対する社会の義務である」と主張する。

    • 「人間はすべて同じ権利を有すると宣言し、また法律が永遠の正義のこの第一原理を尊重して作られたとしていても、もし精神的能力の不平等のために、大多数の人がこの権利を十分に享受できないとしたら、有名無実にすぎなかろう」。つまり彼にとって公教育とは、権利の平等を実質化するのが本質と認識されていたのだった。

    • フランス革命を経て、市民は法律によって「自由」と「平等」を手に入れた。しかしコンドルセは言う。この「自由」と「平等」は、教育によって初めて十全なものになるのだと。「権利の平等の実質化」、そして、そのためにすべての子どもに「知識および品性とその獲得の手段を保証する」こと。これがコンドルセの提示した公教育の原理である。

    • その一方でコンドルセはこうも主張する。「公教育は知育のみを対象とすべきである」「公権力は思想を真理として教授せしめる権利を有しない」。専制政治からの解放によって、市民は思想の自由を手に入れた。それゆえこの思想の自由を保障するために、公教育は思想教育を排し「知育」に限定するべきであると考えた訳である。

    また彼は男女共学の思想の先駆者でもある。「男子に与えられる教育に、女子も参加することが必要である」。市民の権利は皆平等だ。だからそこには男女の区別はない。コンドルセはそう主張した。ルソーですら「エミール」の中で男女の教育は別々が当然だと書いているにも関わらず。その意味で、コンドルセのこの思想はきわめて先駆的なものだったといっていい。

    英国はそもそもこうした考え方の発祥地で、その精神は上流階級や中流階級の間にならちゃんと浸透していた。ところが映画中だけでなく現実のサフラジェット(Suffragette)達の言及が及ぶ事は滅多になかった様である。労働階層の女性が中心だったからだろうか。一般には上流階級や中流階級の女性でも(一向に成果を上げられない穏健派に苛立っていた)急進派の間では「理屈なんていらない。行動の積み重ねだけが全て」という行動主義的信念が共有されていたと考えられているらしい。
    *スティード警部の「貧しく無学な庶民が扇動によって訳も分からないまま動員されて使い捨てにされているのではないか?」という指摘が、必ずしも杞憂といえない根拠の一つがこれ。

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    一方、与謝野晶子の女性解放論は概ねこの考え方の発展型として展開したが、逆に日本では男女とも、まずこの考え方自体についてこれなかった。「(男女ともに)まずは教育による精神的自立が必要」というスタンスに立たざるを得なかったのには、そういう事情もあったのである。

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  • ところで当時の英国には「最初に女性と労働者を政治的に大量動員したのは保守党。そのせいか自由党労働党は女性の選挙権獲得が保守党の党勢拡大につながると考えそれを嫌った」みたいな特殊事情もあった様にも見受けられる。というか選挙権が拡大するほど、実際に保守党の票が伸びていく。こうして実際の政治への影響力も備えていたからこそ「女性参政権」に傾倒する意義が高まったとしても何ら不思議はない。
    *これもある意味、スティード警部の「貧しく無学な庶民が扇動によって訳も分からないまま動員されて使い捨てにされているのではないか?」という指摘が、必ずしも杞憂といえない根拠の一つ。実際彼女らは「女性参政権獲得自体によって何かを得た」というより、むしろ「第一次世界大戦(1914年〜1918年)中の戦争協力によって社会的地位が向上し、その結果として参政権を付与された」のではなかったか? そして当時の日本女性は(日本がこの戦争に限定的にしか参入しなかった事から)この機会も逃してしまったのだった。

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  • 一方、同時代の日本はまだまだ(選挙で選ばれた議会が内閣運営に影響を与えない)超然主義の時代で、しかも立憲政友会が「我田引鉄」戦略などによって在地有力者や現地リーダーを懐柔しつつ選挙権を拡大し普通選挙法(1925年)制定に漕ぎつけるまで女性票を一切当てにする必要が生じなかった。こういう流れを背景に「女性参政権」のプライオリティーが下がったとしても何ら不思議はない。
    普通選挙法(1925年)…これにより有権者数は、1920年大正9年)5月現在において307万人程度(人口に対し約5.5%)であったものが、改正後の1928年(昭和3年)3月には1240万人(人口に対し20.1%)と、4倍になった。そして「何が起こるか分からない恐怖」から同時に治安維持法が制定される事になったという次第。

まぁ本国でも最終結論が出てない様なデリケートな問題なので、どれが正解という話でもありません。 また現代人が幕末について「英国大使館は焼き討ちされるべきではなかった」とか「坂本龍馬は暗殺されるべきではなかった」とか嘆いても仕方がないのと同じで、過去にあった出来事そのものは変えられないのです。その上で「こうした事件が現代にどうつながっていくのか」について考えを深めるのも、この作品の楽しみ方の一つという次第。
*というか、どの立場から鑑賞しても破綻しない緻密なシナリオと画面構成。そして圧倒的なまでの役者の演技力。これぞ英国映画。これぞ英国発「本格派Samurai Movie」。

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ところで、アメリカ人には割と「ボストン茶会事件(Boston Tea Party、1773年12月16日)? その頃にはまだ自分の先祖、アメリカに着いてなかったし」と平然と宣言するドライなタイプが多いので「これは英国の女性解放史で、アメリカの女性解放史はまた違う」みたいな意見も出てくるかもと思ってましたが、別にそんな事は全然ありませんでした。ただ思い掛けない箇所が非難の的に。

What Are You Really Afraid Of?

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  • 英国のサフラジェット(Suffragette)運動といったら(プリムローズ・リーグでは排除された)インド系女性の政治運動参加で有名なのになぜ割愛された?
    *むしろこっち系の投稿の方が本編系の投稿より回覧数が多かった。アメリカの女性解放運動は(「私は女ではないんですか?」と問う黒人女性の論文が話題になったりして)黒人解放運動とある程度重なり合いながら歩んできた側面もあり、より突っ込みが鋭くなったとも。
    Women at War, The African-American Suffragists History Forgot

    http://assets.vogue.com/photos/5891c8fddec09b1841453af3/master/w_660,c_limit/new-african-american-suffragists-grid-titles.jpg

  • 柔術関連場面があまりにも短い(「ヘレナ・ボナム・カーターさんの柔道場面が一瞬でも見れて光栄です!!」という皮肉とも賛辞ともつかない意見も。彼女ネットではカリスマ的人気がある)。
    *確かに日本人も関与しててもっと触れて欲しい部分ではあったけど、この映画って本当にタイトなバランスで成立してるから、下手に手を加えると別の映画になっちゃうよ?

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とりあえずあるかもしれないと思ってた指摘がなかったのでほっと一安心。「エンディングの女性参政権年表に日本(1945年)がないのはGHQ占領時代(1945年〜952年)にアメリカ主導で制定されたから?」。アメリカ人って、フィリピン(1937年)にも同じ突っ込みを入れかねない。そういえばフィリピンもなかった気が。

まぁ最後がサウジアラビア(2015年)だったのは、確実に狙ったギャグかと。いかにも英国的底意地の悪さを感じる…