諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【上野千鶴子】【平等に貧しくなろう】科学的マルクス主義の理想と限界?

平等に貧しくなろう」という上野千鶴子の意見についてネット上においてさまざな議論が交わされている様です。

https://pbs.twimg.com/media/C4Vw5F-UcAADPOm.jpg:small

とりあえずハンナ・アーレントは「国民の平等を最優先課題に掲げた政権はすべからく自滅した」と述べています。考えてみれば当たり前の話なのです。

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http://i.huffpost.com/gadgets/slideshows/429494/slide_429494_5565802_free.jpg

  • そもそも有名な「共産党宣言(Manifest der Kommunistischen Partei /Das Kommunistische Manifest、1848年)」の掉尾が「Proletarier aller Länder vereinigt Euch!"(万国のプロレタリアート(無産者)よ、団結せよ!)」で締めくくられたのには相応の歴史的経緯があった。なにしろ革命を扇動する側からすれば(守るべき財産のある)ブルジョワ階層にせよ、(守るべき土地のある)農民階層にせよ必ず肝心の場面で裏切るという認識が存在したのである。実際、2月革命 / 3月革命(1948年)においては蜂起の際に掲げた要求が通って彼らが離脱した後、残された圧倒的少数派(労働者や下級職人といった都市住民)が国軍に殲滅される場面が欧州中で相次いでいる。さらにオルレアン王統を追い出して初の普通総選挙でもボロ負け。なので彼らは「圧倒的少数派」たる不利を覆す為にも(革命戦争遂行機関という側面が強かったジャコバン派独裁体制を理想視し)プロレタリアート(無産者)以外のの全人権を否定する方向に先鋭化していかざるを得なくなったのだった。

    *7月革命(1830年)当時もてはやされたサン=シモン主義の「産業者同盟構想」は、王侯貴族や上級聖職者といったランツィエ(rentier、不労所得階層)を弾劾したのみで「全体の調停者としての王権の機能」すら否定しなかった。実際にはこの理念こそがフランスに産業革命を根付かせ「ベル・エポック(Belle Époque、「良き時代」の意。1890年代から第一次世界大戦(1914年〜1918年)までの大衆文化繁栄期を指す)」を現出させる事になったのだが、マルクス当人を筆頭として(むしろ破壊と虐殺の徹底によってフランスにおける産業革命開始を半世紀は遅らせたジャコバン派独裁体制を理想視する)マルクス主義者達は今日なお「彼らは一人残らず馬鹿で気狂いで何一つ成し遂げられなかった」と揶揄し続けている。

  • とどのつまり革命を扇動する側からすれば、国民が一人でも多く等しく貧しい状態に置かれた総プロレタリアート(無産者)状況こそが望ましい。実際、帝政ロシアや中国で共産主義革命が成功したのは、この条件を十分に満たした資本主義未発達国家だったからといわれている。しかしそれ故に、そうした国家ではその状況を迂闊に根本的に改善する事が許されない。何故なら本当の意味で富の再分配が行われてしまったら、肝心の支持基盤たるプロレタリアート(無産者)が消失し「守るべき財産を得た」小生意気なプチ・ブル層や自作農ばかりになってしまうからである。かくして共産主義国家ではこの問題を回避すべく革命の扇動者達が自ら新興インテリ=ブルジョワ階層として君臨したり、(その発言に誰も逆らえない)絶対的独裁者を立てたりしながら搾取を継続する涙ぐましい存続努力が続けられる事になる。ローザ・ルクセンブルグいうところの「プロレタリアート独裁がプロレタリアートへの独裁に発展的に解消される歴史展開」とはまさにこれ。

    *「プロレタリアート(無産者)の消失」共産主義革命が起こったキューバより、大英帝国政令によって奴隷制が廃止されたジャマイカの方がこれが徹底して遂行された。すなわち「解放された」奴隷達の大半は零細自作農となる道を選び、農園経営者は働き手を失い、砂糖産業そのものが衰退して事実上消滅の危機に瀕する事になってしまったのである。そして独立後、世界最悪の貧困国への仲間入りを余儀なくされる展開に…これぞまさしく「平等に貧しくなる」理想モデル?

    *そういえばジンバブエも壮絶にやらかしました。

  • こうした状況を背景に「ロシア家父長制を原点とするスターリン主義」が台頭。そしてフルシチョフスターリン批判(第1回1956年、第2回1061年)まで多くの共産主義国で猛威を振るい続ける展開に。

    五味川純平「戦争と人間 全18巻(1965年〜1982年)」スターリンの粛清

    ドイツのスパイとして銃殺されたトハチェフスキーは、赤軍建軍の父とよばれ、逮捕の直前までソ連国防次官兼参謀総長の要職にあった。1935年、ソヴィエトで初めての元帥の称号を贈られた五人の将軍の一人でもあったが、事件はその二年後、1937年6月に起こっている。国家叛逆陰謀の罪で、八名の将軍が秘密裁判後即時銃殺刑を執行された事件である。この事件をきっかけに進行した赤軍内部の粛清の結果、粛清された軍人三万五千人、軍幹部七百六名中五七%にあたる四百三名が処刑、将官級の九〇%、佐官級の八〇%が追放されたという(『ノモンハン空戦記』に収録の林克也の解説他)。

    共産主義の唯一つの祖国で進行する血腥い粛清劇は、当時の日本ではまたとない反共宣伝の材料であった。こと日本人の運命にかかわる事件に関しては、きびしい言論統制下にあって、〝真実〟は行間にかすかにあえいでいるような時代に、「赤露内訌事件」は大々的に書きたてられた。社会主義建設が着々進行し、国力を充実させつつある面は完全に無視し、暗黒面のみとりあげた記事は、表現そのものに誇張はあるが、現時点で読み返してみると、「事実」はほとんど歪曲されていない。捏造を必要としないほどに現実の進展そのものが(その一面だけを切り離してみれば)、地獄図をみるような陰惨さを帯びていたからといえよう。

    トハチェフスキー事件の起こった昭和十二年六月の新聞の連日の記事は、信じがたい政治劇の進行をいち早く伝えている(以下『大阪毎日』縮冊版による。『 』は見出し。モスクワ、パリ、ベルリンからの同盟電、特派員電がほとんどである)。

    • 〈六月二日〉『露、前国防次官 ガマルニク氏自殺』――ガマルニク大将は五月三十一日自殺。連絡をとっていた反ソヴィエト分子との関係から離脱出来なくなり、その罪状暴露を恐れたため。

    • 〈七日〉『カラハン氏逮捕 露国外交陣恐慌』

    • 〈十一日〉『片端から死刑 露国のスパイ粛清』『罷免のト元帥 行方不明となる』――前国防人民委員部次長トハチェフスキー元帥は、五月、ヴォルガ軍管区司令官に任命されたが、六月九日の赤軍指導部大異動発表には、新たにフェレイモブ将軍がヴォルガ軍管区司令官に任命、ト元帥の名は完全に抹殺、目下行方不明のため種々臆説が流布され、英国のデーリー・メール紙は、ト元帥を首領とする反スターリン陰謀工作が進捗し、現政府幹部は重大懸念に駆られているとの風説を報道。

    • 〈十二日〉『ト元帥らの罪状 政府から公表す』――露国政府は十日午後、前国防次官トハチェフスキー元帥以下赤軍最高首脳部七将官の逮捕顛末に関し、コンミュニケを発表。トハチェフスキー、ヤキール、ウボレヴィッチ、エイデマン、コルク、フェルドマン、プリマコフ、取調べを了え、事件は露国軍事裁判所に移管された。罪名・軍規違反大逆罪、露国人民に対する背信罪、労働者、農民、赤軍に対する背任罪。前記共犯ならびにさきに自殺したガマルニクらは、ソヴィエト連邦に対して「非友誼的政策を遂行しつゝある一外国の軍部首脳と連絡」、右外国の手先となって間諜行為を働き、赤軍の実力を弱めるため破壊行為を営み、露国における地主と資本家の権力回復支援を目標として種々画策。「全被告は以上の罪状を全的に自白した」。本件審理は十一日から連邦最高裁判所特別法廷で秘密公判をもって開始、裁判所の構成は首席判事・最高判事・最高軍事裁判所長ウルリッヒ、判事・国防次官エゴロフ元帥、航空総司令アルクスニス将軍、モスクワ軍管区司令ブジョンヌイ元帥、極東軍総司令ブリュッヘル元帥、参謀総長シャポシュニコフ将軍他。ペーロフ、デュペンコ、カシリン、ゴリアチェフの諸将軍。

    • 〈十二日夕刊〉『ト元帥ら赤軍巨頭 八名悉く銃殺さる! 真に電光石火の処刑』――十一日の公判は、八被告を即日叛乱間諜罪で銃殺に処する旨判決、即時銃殺に処せられた。『赤軍にとり痛手 秦陸軍新聞班長語る』『赤軍の功労者 銃殺の八将官』〈十四日〉『ト元帥らの処刑 通諜した『外国』明かに独を指す 露政府、事件発表と同時に 西欧国境の守備強化』『処刑を公表』――露国政府は十二日、ト元帥以下八名の死刑執行を公表。国防人民委員ウォロシーロフ元帥は十三日払暁布告を発表。「内務人民委員部は長年秘密裏に赤軍内に巣食ってゐたファシスト反革命謀叛団体を剔抉した……」。『ナチスの思ふ壺 当然の自己崩壊作用と見る 挙国、露を仇敵視』(ベルリン特電)。『仏露同盟への信頼薄れる 仏紙、露の〝不信〟表明』『〈赤軍陰謀事件の真相1 布施勝治〉貴族の出身出身で武功は抜群 特異の存在ト元帥 これが悲惨な最期の原因』

    • 〈十四日夕刊〉『揺ぐ露国 要人続々左遷逮捕』『ト元帥らの処刑 スターリン独裁崩壊の端緒 〝国防を犠牲〟とトロツキー氏激語』(メキシコ・シチー十三日発同盟)――祖国を亡命流転の生活をつづけるトロツキー氏は、手塩にかけた赤軍幹部八名が一括銃殺に処されたとの報道に、かけた赤軍幹部八名が一括銃殺に処されたとの報道に、十三日夜憮然として語る。「……今回の事件はソヴィエト体制進化の結果ともいへようが露国の官僚政治が完全に全国民から遊離してしまった結果、赤軍内の幹部派は党ならびに政府内の官僚政治から分離独立しようと努力するに至り、ウォロシロフ将軍を除いた共産党政治家と赤軍首脳部との抗争が今回の事件の根拠だ、いづれにせよ露国の支配閥は自己保存のため国防を犠牲にして顧みず、ために赤軍の士気は根底から覆され、赤軍の実力は数等低下したことは蔽ひ難い事実である」。

    • 〈十五日〉『弛緩した国民に 叩き込んだ〝活〟 露国内訌事件 秦大佐の見解』〈十六日〉『恐怖の赤露 カラハン氏を始め ユ前駐日大使ら逮捕? 要人続々槍玉に上る』『八十三名を銃殺 矢継早に大量処刑』――極東方面で処刑。「いづれも某国のため間諜行為」の理由。『スターリン氏の 猜疑心を抑へよ 英紙盛んに攻撃』〈十六日夕刊〉『反革命の不平分子 暴動蜂起の形勢 赤軍幹部極東軍隊動揺を警戒』『スターリン独裁終焉の始まり』――始まり』――亡命のトロツキー氏の米国通信社員への談話。「……スターリン氏がこんどの決定をしたのは彼が自分の道具になり得るウォロシーロフ元帥に味方して、将来自己の危険な敵手となるかも知れないト元帥を裏切ったと見るべきだ……」。

    • 〈十七日〉『仏露協定は終焉 仏国各紙の痛撃』――レピュブリーク紙=ト元帥がスターリン氏の云う如くドイツ政府の間諜なれば「仏国政府はかく腐敗した露国政府の盟邦たるを得ない」。スターリン氏は仲間を抹殺することにより、仏露両国の軍事協定をも殺した。〈十七日夕刊〉『正に暗黒化の露国 赤露始って以来の 残虐極まる粛清工作 何処まで発展するか見当つかぬ モスクワ市民戦々兢々』『白露首相も自殺』『全露一斉検挙 ウクライナで数千名党籍褫奪』

    • 〈十八日〉『〈赤軍陰謀事件の真相4〉赤軍の新首脳を 労農出身で固む 悉く往年のトロツキー氏反対派』『露の信用失墜を利用 英仏伊と合作西欧協定樹立 〝待ってました〟のドイツ』

    • 〈十八日夕刊〉『トロツキー氏の通電〝民衆中心政治に帰れ〟』――十七日ソヴィエト中央執行委員会に「スターリンの政策は今や国内的にも対外的にも全く崩壊に瀕しつゝある、これを救済する道はたゞ一つソヴィエト・デモクラシーへ急激に転向し過去数次にわたる裁判を改めて批判することである。ソヴィエトがかういふ道を進むならば余はソヴィエトに対して全幅の支持を惜まぬものである」と通電した。〈十九日〉『粛清工作の犠牲 総計千百七十 白露の新聞報道』『〈赤軍陰謀事件の真相5〉戦慄〝鉄腕の持主〟エジョーフ登場 ゲ・ペ・ウに〝活〟を入れる』〈十九日夕刊〉『赤露異分子狩り』――赤軍将星処刑を端緒に露国版サレムの魔女狩りは底止するところを知らぬ有様で、今回の全国の粛清で銃殺された異分子は百名を超え、労働収容所に投げこまれた者数千名、党籍褫奪は全国各地にわたり数えきれぬ。『ゲ・ペ・ウ極東部長逮捕さる』

    • 〈二十一日〉『異分子の掃蕩で 対外策は強化 赤軍陰謀事件とわが陸軍の見解』〈二十一日夕刊〉『貧民を冷笑 それで婦人数名逮捕 露国の掃蕩工作峻烈』『〝モスクワは至極平穏〟 帰来旅客旅客ら語る』(ハルビン本社特電)。

    • 〈二十二日〉『更に重大なる 軍事公判 露国検事総長示唆』――ヴィシンスキー氏の論文「露国の敵は如何に策動するか」は、ト元帥の軍事公判を論じ、露国内に恐るべき反革命組織が存在し、外国のファシスト諜報機関等と常に連絡を保ちつつ、露国の建設工作妨害の事実が判明したとして「露国民衆は『何人をも信頼すべからず』の法則の下に交友の中から露国の敵が現はれた場合は自分も反革命運動の破壊工作の一半の責任を負ふべきものと考へるほどの責任観念を抱いて行動すべきである」と述べた。〈二十三日夕刊〉『〝犬が犬として 死んだまで〟 来朝した露国三将校語る』――二十三日ウラジオから敦賀へ入港の日露交換将校、東上の車中問答。「答(トハチェフスキー事件は)露国当局がやらねばならぬことをやったまでだ」「問 露国当局がドイツと関係してゐたといふのはつくりごとだらう、それは対内政策上ドイツを引合に出すのが都合がよかったからだとわれ〳〵は考へてゐる」「ゐる」「答 露国の政府はウソはいはぬ、元帥、大将も結局害虫だった、害虫は大衆の支持で滅ぼされる、犬が犬として死処を得たまでだ」「問 赤軍も最高地位の八将軍が害虫では心細い、列国は赤軍恐るに足らずと見くびるだらう」「では心細い、列国は赤軍恐るに足らずと見くびるだらう」「答 さうだな、赤軍の評判は落ちたといへる、しかし政府が未然にやっつけたのだから赤軍はます〳〵強化した」「問 八将軍の部下は遺憾であり、不満であり、動揺してゐるだらう」「答 冗談冗談ぢゃない、露国人は挙って彼等の銃殺を支援した、今日では動揺などない」……。

    • 〈二十五日〉『ラデック氏釈放か』――六月二日併行本部事件と革命陰謀の廉で禁錮十年に処せられたのち消息を絶っていたラデック氏に関し、ワルソーの新聞が「確実な消息」として伝えるところによれば、露国政府は「な消息」として伝えるところによれば、露国政府は「ラデック氏の法廷における証言によりトハチェフスキー元帥以下赤軍将校の罪状が暴露した事情を酌量して十月には特赦」、再び自由の身におく意向といわれる。

    • 〈二十八日夕刊〉『〝旋風中の露国〟 トハチェフスキー事件後最初の詳報 本社モスクワ特派員森正蔵手記 危い綱渡りのス政権 〝同志も信頼する勿れ〟スターリン氏の悲痛な言!』『赤軍崩壊正に一歩前 露都視察の本間少将談』 つづいて七月三日夕刊は『ブリュッヘル元帥監禁説』を報じ、『〝連続悲劇〟 ト元帥の夫人発狂し愛娘は自殺』とパリからの記事を掲載している。

    「アカ」はすべての悪の代名詞であり、赤がかったと当局がみなした人間も著書も思考さえも投獄される時代の朝夕に、人々はこれらの記事を読んだわけである。ここに報じられたことは、ほとんどロシア赤軍の壊滅を意味している。

    トハチェフスキー処刑の報を聞いたヒトラーは、「われわれはこれでソ連を少くとも十年間中立化することができた。この十年の間に、全世界はわが手中に帰するであろう。その時こそわれわれは、スターリンとボリシェビズムに決算をつけてやろう。最後に笑うものが笑うのだ」と語ったという(V・アレクサンドロフ『ソビエトの悲劇』)。

    明治四十年の国防方針策定以来の想定敵国ロシア(林三郎『太平洋戦争陸戦概史』)赤軍の〝危機〟に、日本陸軍が無関心であり得ようはずがない。日中戦争前半の軍中央の不徹底な処理方針にも濃厚に投影しているし、トハチェフスキー事件の時期に重なるカンチャーズ事件での関東軍の強引な対ソ一撃論にも、その反応を明瞭に見出すことが出来る。翌十三年の張鼓峰事件をも含めて、ソ満国境紛争事件での関東軍の主導性に対し、ソヴィエト側の意外な譲歩や慎重さは、その国内事情を反映していたわけである。

    昭和十二年六月分の『特高外事月報』に、「ソ連邦に於け於ける赤軍陰謀事件に関する左翼分子の意嚮」という報告が掲載されている。十六名の男子の感想で、姓名も明記されているが、ここでは個人の名前は特に必要ないので省略した。その多くが銃殺事件を妥当な措置と受け取っており、十名が、この事件によってスターリン政権がより強化され、崩壊するようなことはないとみている。

    • 佐賀県某(共産主義分子)「新聞紙は、ソ連邦は目下仏国と提携し居るに反しト元帥等は、独逸と通謀し之が露見に依る内訌なりと報じて居るが、現代の新聞紙は資本主義擁護の為の報導と同せらるゝを以て果して事実なるやを疑はる……」

    • 石川県某(共産主義分子)「ト元帥以下の銃殺事件は独逸が赤軍の幹部を抱込み以て赤軍と露国共産党を分離せしめせしめ之を自然崩壊に導かんとして働き掛けたるものなるが、露国共産党赤軍とは同一不可分の関係にありて斯る陰謀は成就するものにあらず、今回の処刑はスターリンが私情を滅し大義に就く信念に基くものにして此点彼の偉い所にして彼の独裁政治は益々強化するものと思ふ」

    • 石川県某(共産主義分子)「ト元帥等がスターリン政治に不満を抱き他国の援助の下に之を顛覆せんと策動したる事は事実と思はる、……現在の諸情勢より観てスターリン政権は絶対的に完全なりと考へらる」

    • 埼玉県某(共産主義分子)「今回の銃殺事件は当然の処置にして、ソヴェート治下における国民大衆が微動だもせざるはソ連政治の強化を物語る一証左である」

    • 福井県某(転向者)「受刑者対スターリン派の勢力抗争抗争に依るものでソ連国内には吾々の想像以上の暗流がある事を明に物語るもの……。如何なる国家と雖も個人的抗争に依り国政を支配せんとする暗闘は絶へざる様であるが、此点我国の如き天皇制国家の有難さをしみ〴〵感じるのである」

    • 社大党長崎支部長「有名な赤軍幹事を失ひ国内紛争を暴露した事は国防上重大な損失にして、最近独、伊両国がスペイン問題を繞り積極的行動を開始したのもソ連邦内の国内不統一を見透した結果である、今回の事件は共産主義政治の内面を暴露したもので各国に於ける人民戦線統一に支障を与へたものと思はれるが……」

    • 愛媛県某(共産主義分子)「独逸竝に日本の攪乱策の顕れであるが、世界進出を目標とするスターリン政権には尠しも動揺を来す事なく、仮に日独が此の虚を衝くと雖も大なる動揺を来す事はない」

    などの感想である。

    日本では、ロシア革命直後の「尼港の惨劇」などの宣伝が行き届いて、共産主義の残忍性についての先入観が既に定着している。その国民感情へ追い討ちをかけるような一連の粛清事件報道は、真偽を別として、共産主義の血なまぐさい非人間性をつよく印象づけた。治安維持法の威嚇とあいまって、革命といえば恐怖と不信を喚起される共産主義アレルギーが、民族的な体質として出来上っていったのである。

    特高外事月報』に残された感想は、断片的ではあるが、独自の判断と姿勢を保ちつづけようとした人々のあったこと、その思考の一端を伝えている。しかし、事件そのものが捏造されたものであり、処刑された過半数の人々が冤罪であると想像することは不可能であった。
    *そしてこの後展開した独ソ戦(1941年〜1945年)を制した事もあり、戦後日本の左翼の間ではフルシチョフスターリン批判があるまで「むしろ共産主義がいかに強く正しいか証明する内容」「カティンの森の虐殺(1939年)もナチスの捏造」と信じられ続け、その反動が新左翼運動として国際的に吹き上がる展開に。

  • そして「たかがフルシチョフスターリン批判」程度で動揺した「根性の足りない共産主義国家」の多くが、その後共産主義を放棄。
    *旧共産圏においては「共産主義瘡蓋(かさぶた)論」なるものが広まっているという。これは要するに「共産主義を採択したのは当時の状態では到底国際資本主義社会に合流不可能だった後進国であり、その状況さえを脱却したら速やかに脱ぎ捨てるのが正解」という考え方で、要するに共産主義を一旦は採択しながら放棄した自国史を正当化する為に生み出された歴史観なのだが日本ではまず見かけない。マスコミが「中国共産党に対する最大限の配慮」を発揮してるせいとも。

  • 王政時代から既にオスマン帝国を模した絶対王政体制を敷いてきたルーマニア民共和国(1947年〜1989年、1965年にルーマニア社会主義共和国に改称)。革命後、ニコラエ・チャウシェスク独裁政権が成立し、次第にソ連とは一線を画す一国共産主義を唱え始め西側との結びつきも強めたがルーマニア革命によって打倒され、民主化
    *概ね王が複数勢力の唯一の調停役に就任する事で始まる絶対王政はその完成型、すなわち全ての勢力が無力化して王だけが権益の全てを甘受する段階にまで到達すると自滅する。何故なら、あとはもう憎しみをぶつけ打倒するに値する相手が王しか残っていないからである。

    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-ef-c2/mishu02vlm/folder/1265969/45/61620545/img_0?1324681418

  • なぜかスターリン主義を継承する「世襲制共産主義国北朝鮮は今日なお現存し続けている。中国の東北軍閥が後援してるせいとも。

  • またキューバは1960年の経済封鎖以来発展が止まり、まるでタイムカプセルの様な状態に陥ってしまった。
    *かつては世界でも有数の砂糖輸出国だったが、砂糖産業のグローバルシェアは1960年代の12%からわずか1%まで落ち込んでいると、 ウォールストリート・ジャーナルは伝えている。

そして間違いなく、現存する共産主義 / 社会主義国家は、その多くが上掲の様な意味合いにおける「共産主義」を採用していません。

46 名前:ポテト坊や(関西地方):2010/11/14(日) 01:15:09.25 id:h1N2Vw5g0
共産主義ってみんなが平等って感じなのに、どうして独裁国家が生まれやすいの?

50 名前:ロッ太(熊本県):2010/11/14(日) 01:16:08.32 ID:7xb58iQm0
>>46
平等だからこそ、それに反する物は粛清

55 名前:ペプシマン(関西・北陸):2010/11/14(日) 01:16:50.55 id:YWFpLCygO
>>46 金と権力を一つに集中させたらどうなるか予想付くだろ

58 名前:ののちゃん(内モンゴル自治区):2010/11/14(日) 01:17:38.33 id:IRDTFcOZO
>>46
圧倒的な暴力持ってないと分配するための富を取り上げる時点で頓挫するから 

中国共産党文化大革命(1966年〜1976年)以降、スターリン主義を放棄して集団指導体制に復帰。2004年の党大会において「和諧社会(富裕階層と貧困階層が喧嘩せず同居する世界)への移行こそ科学的マルクス主義の本懐」と宣言している。サン=シモン主義の「産業者同盟構想」、あるいはオーギュスト・コントの「科学者独裁体制」に近い政体とも。

和諧社会 - Wikipedia

ベトナム共産党(1930年〜)はそもそもスターリン主義を受容した事がなく、集団指導体制がそれなりに機能し続けている。ドイモイベトナム語: Đổi mới / 𣌒𡤓、1986年)政策開始以降、経済は自由化。

ドイ=モイ

ラオスはあくまで「ベトナムのおまけ」。今は外国からの支援で暮している。

ラオス人民革命党の体制持続メカニズム

ラオス史』マーチン・スチュアート-フォックス著、菊池陽子

本書は「ラオス語以外で書かれた初の本格的なラオス通史」である。ラオスは、6億を超す東南アジアのなかでも、シンガポールブルネイ東ティモールを除けば、人口のもっとも少ない国である。日本の約3分の2の国土に、わずか632万人(2008年)が居住する。19世紀末にフランス領インドシナ連邦に編入され、インドシナ戦争を経て1975年にベトナムの「付け足し」のような感じで共和制国家が成立。

著者は「国民国家ラオスを支えるナショナルアイデンティティーの形成にとって歴史叙述がいかに必要とされているか」、「序章」でつぎのように述べている。「ラオスは東南アジア諸国の中でも包括的ナショナルアイデンティティーの構築をイデオロギー的に支えるナショナリストによる歴史叙述が最も発達していない国となった。このことは、ラオスの歴史家にかなり重い課題を課している。近代ラオスの構造はもろく、ナショナルアイデンティティーのための確固とした支えを、おそらく包括的で一元的な歴史叙述に求めているからである」。

「したがって、私はラオスの歴史叙述には、現在国際的に国民国家であると認められている国家の存在を支える「語り」が、今この時点で求められていると考える。この点において、私の考えていることはラオス国内だけでなく国外の難民社会におけるラオス人の願望、信念、確信をも反映していると信じている。もちろん、私が書いた歴史はラオスの人々に向けたものではない。そういう歴史はラオス人歴史家だけが書くことができる。この歴史は、国外に離散したラオス人の西洋化した子供たちを含め、外からラオスを眺める人々のために書かれたものである」。

本書を読むと、ベトナムの「付け足し」でもなければ、自主性を奪われ、ただたんに従属していただけではないこともわかってくる。フランス植民支配下の状況は、つぎのよう説明されている。「直接統治の県においてさえフランス人官吏の数は非常に少なく(遠隔地にある小さな県ではたった3、4人であった)、フランスの統治は実質的に間接的であった。これは、ラオ・トゥン[山腹ラオ]やラオ・スーン[山頂ラオ]などの少数民族管理においてよりはっきりしていた。たとえば、ラメット族の場合がよく知られているが、上メコン内の県に居住するラメット族の小集団に対してフランスはラメット族のムアン[くに]を創設し、ラメット族の村長を任命した。そのムアンはラオ人のチャオ・ムアン[地域の支配者]の管轄下にあったルー族の徴税人によって監督された。そして、そのチャオ・ムアンはほとんどがベトナム人である県の行政職員に報告をした」。

また、1975年に立憲君主制から共産主義の人民共和制に体制が移行したときは、ベトナムのように「革命」的ではなかった。「前国王のサワンワッタナーを国家主席(大統領)顧問に、そしてスワンナプーマーを政府顧問に任命することで、王制から人民共和制への移行に伴う急激な変化を緩和させるための努力もなされた。前皇太子のウォンサワンは最高人民議会の構成員に任命された。前政権の指導者たちは、こうして、彼らの威光と人気を新政権に付与するために利用された。ルアンパバーン王家の王子であるスパーヌウォンが新生共和国の国家主席の地位に就任したこと、そしてほんの少し歌詞を変えただけの前政権と同じ国歌と、ラオス王国政府の旗(頭が3つある象の図柄)に代わって前ラオ・イサラ[自由イサラ]旗の採用が決定されたことで、さらに継続性が強調された」。そして、「1976年中頃までに、[首都]ビエンチャンに住んでいた2万人の中国人と1万5000人のベトナム人の半数が、資産を金(きん)に換え、身に付けて去った」。

本訳書の原著は、1997年に出版された。その最後は、つぎのような文章で終わっている。「ちょうどラオス王国体制下でもそうであったように、ラオス人民革命党は、国民が統合とアイデンティティーの意識を強く持つようになることを最優先にしていた。政治文化全体の発展に関していくらかの進歩は見られたが、少数民族の生活水準向上という約束を果たせなかったことと地域主義によって、せっかくの成果が損なわれる恐れがあった。政府が国民和解に立ち向かうことに気乗りしなかったのは、教育を受けたラオス人はラオスよりも海外に多く居住しているからで、一方、国のほうは、ある国への依存から他の国へ-アメリカからソ連ベトナムへ、さらにタイ、中国、世界銀行へと依存先をそっと移していた。ASEANへの加盟は、ラオスに逃げ場と脅威の両方を提供した。逃げ場というのは、加盟国としてラオスに地域的な援助が与えられるという意味であり、脅威というのは、経済的統合が加速化することでラオスの独自性が大きなタイ文化に吸収されてしまうかもしれないという意味である。しかし、ヨーロッパ連合の中でルクセンブルクが他とは異なる存在として生き残っている以上、東南アジアの中でラオスもまた同じような意味で「生き残る」ことができるであろう。ラオスに準備ができていようといまいと、将来的に地域の他の国々とより密接に一体化していくことは避けられないであろう」。

さらに、2010年の日本語訳出版に際して書き下ろされた「終章」は、つぎの文章で終わっている。「行政の至る所で汚職が蔓延しているので政府予算が吸い上げられ、保健、教育、社会サービスの分野は資金が欠乏している。NGOや2国間援助がその隙間を埋めているが、党のエリートがその問題に取り組もうとしないのを見て援助供与国ががっかりしてしまう恐れがある(2008年、スウェーデンラオスに対する援助計画の終了を発表した)。もしも将来の経済発展の恩恵、特に期待の水力と鉱物からの歳入がより公平に配分されるべきであるとしたら、改革とそれをやりとげる指導体制が絶対的に必要である。しかし、ラオス人民革命党がその任務を成し遂げるために不可欠な政治的意思を持ちあわせているということを示す兆候はほとんどない」。

楽しく平等に貧しくなっていく」社会モデルなんてこの世には存在しない? その一方で、冒頭に掲げた記事の「移民問題」に関してはこんな議論も。

実は大陸世界では割と「自ら罪を認め頭を下げてくる様な馬鹿は、盗まれても強姦されても殺されても自業自得」みたいな考え方が普通。そして「発展可能性の消失」は即、バトル・ロワイヤル開始を意味します。まさしく「楽しく平等に貧しくなっていく」世界観とは正反対の現実。

世界恐慌(1929年)の打撃が直撃したドイツ語圏や1939年にナチスドイツに併合されたポーランドなどでユダヤ人迫害が荒れ狂ったのも、最近の中国でウイグル人チベット人が迫害されてるのも、まさにこの心理ゆえ。ちなみにポーランドではさらにナチスドイツ敗戦後、迫害に矛先がドイツ系市民に向けられる展開に。

最初からそういうものと諦観してしまえば「黒人や東南アジア人同様の劣等民族たる日本人の心に良心など宿り様などないのは世界中が承知してるが、せめて最低限でも一刻も早く日本人全員が自分達が歴史上、世界でも類を見ない最低最悪で全員滅ぼし尽くされるべきレイシスト民族であるという自覚を備え、奪われても、強姦されても、殺されても罪滅ぼし出来た歓喜に包まれるだけで誰も恨まない国際常識を備えるべき」なんて罵られても、別に腹も立たなくなります。おそらく彼らはただ「日本人より俺達の方が先に滅ぶのは理不尽だ」「生き残るなら俺達であるべきだ」と神に向かって全力で不平を述べてるだけに過ぎないのです。
*enjoy korea(2002年〜2009年)サービス廃止後も日韓掲示板は幾つか残っていて、そこを覗いていると今日なお毎日の様にこの声を聞かされる(「身内の恥」を隠す為か、数年前からサービス側の手でネット検索対象から切り離された)。確実に「韓民族の存続不安」の大きさと連動してるし、世界恐慌ユダヤ人迫害に発展していく過程の酷似しているし、概ねこう考えておけば間違いなさそう。

*そういえば、第二次世界大戦(1939年〜1945年)当時流行した「世界最終戦論」の背景にあったのもこの心理。ドイツや中国だけでなく、大陸浪人関東軍経由で第日本帝国へも伝播。

で、実際の日本の移民問題の最前線においては「移民枠の拡大」より「帰化許可基準の緩和」の方が優先課題となっている様です。まずは合法的に入国し、すでに日本での暮らしにすっかり馴染んだ親日派外国人の「ずっと日本に暮らしてるのに、どうして日本人になれないんだ?」という訴えに答えるのが先という事ですね。

どうしてこの問題が全然進展しないかというと「帰化への圧力を強めるのは皇民化運動の再来。まずそういうヘイトスピーチを繰り返す連中を一人残らず逮捕する法律を制定せよ」などとヒステリックに組織的に食い下がる市民団体が存在し、マスコミも彼らに同調してるせいとも。
*同様に皇民化運動を受けた台湾人だけ微妙に反応が異なるのは、当時学校で日本人教師が「もし我々台湾人の方が内地人より天皇陛下の恩義に報いる気持ちが強い事さえ証明出来たなら、我々の方がより日本人という事になるのが大日本帝国という理解でよろしいか?」と生徒から問われ、言葉に詰まったという逸話にも現れている。彼らは「帝国」や「臣民」という概念について下手な日本人より深く理解していたし、中華王朝や古代ローマ帝国や帝制ロシアやオスマン帝国で何が起こったかについても遥かに自覚的だったといってよい。そこで即座に「やれるもんならやってみろ、そうした挑戦なら我々はいつでも受けて立つ」と言い返せない様では「日本臣民」として立つ瀬がなく、こうした緊張感抜きに「(多民族国家としての)帝国」は成立し得ないのだった。

常識的に考えれば「(日本史に配慮した一部例外を除いて)国際的基準からみれば理不尽なレベルにある帰化手続きを正常化する話」と「帰化への圧力を強める話」を一緒くたにしてはいけない筈なのですが、彼らの側からしたら「帰化手続き簡略化=メンバー大激減=民族浄化政策」という発想を日本人も受け入れねば歴史修正主義者という事になってしまう模様。まぁ右側にも「日本が乗っ取られる!!、帰化許すまじ!!」と騒いでるのはいますし「現実を直視する気がない」点じゃ、どっちもどっちという話もある訳ですが。