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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【盧溝橋事件80年】【歴史修正主義を許さない】「沖縄決戦」のパロディだったかもしれない「戦争と人間第3部完結編」

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岡本喜八監督映画「激動の昭和史 沖縄決戦(1971年、東宝)」を鑑賞しました。

それでふと思ったんですが、山本薩夫監督映画「戦争と人間第3部完結編(1973年、松竹)」って、この大作のパロディだったんじゃないですかね?

戦争と人間 完結篇

戦争の残酷さ、軍隊の理不尽さが描かれているが、そのエピソードの多くは、同じ原作者で小林正樹監督が描いた大作「人間の條件」(1959)の内容とだぶっている。

出来の悪い初年兵小島正一が行軍で遅れをとったり、週番や古参兵達から徹底的にいじめ抜かれ、それに主人公が理屈で対抗しようとする部分などは、ほとんど一緒と言って良い。田中邦衛仲代達矢コンビが、小島と耕平に代わっただけ。メガネをかけた弱々しいキャラクターと言う見た目も、田中邦衛と小島は瓜二つである。原作者が、同じアイデアを使ったと言うことだろう。
*原作にそんな描写はない。あくまで過去の成功体験に基づく映画オリジナル。

全編を観終わって感じたことは、この手の大河ドラマと言うのは、「幕の内弁当」のようなものではないかと言うこと。一品一品は特別おいしい訳でもまずい訳でもないが、あれこれ盛りだくさん並んでいるので、一見豪華に感じさせ、大衆に一時の贅沢感を与えてくれるもの…と言う感じがする。この作品も、一つ一つのエピソードを思い返してみると、そんなに感動的とか、格段に面白かった訳でもなかったような気がするが、全部を一挙に思い出してみると、さすがに圧倒されるものがある。
*これ自体は案外、岡本喜八監督映画「沖縄決戦」にも共通する観点とも。

この作品を一言で言ってしまうと、共産主義者側の視点から描いた戦争の話である。彼らは戦前から労働者や貧しい民衆の為に戦い、侵略戦争に反対し、特高の拷問に耐えながら民衆の為に戦った正義と真実の人…みたいな描き方である。「人間の條件」にしても、この「戦争と人間」にしても、主人公が「アカ」呼ばわりされている人物、ないしは、その理解者と設定してあることから、必然的に読者や観客はその主人公の考えに共鳴するよう描かれている。敗戦後、戦争に反省の気持ちと疑問を持っていた当時の庶民が、こうした反戦思想に熱狂するのは当然だったと思う。
*最終的に好意的観点からまとめられているのが興味深い。確かに1970年代から1980年代にかけては「左翼黄金期」として語られる事が多い。

これほどの大作の製作費を、当時一体どこが出したのだろうか?と言うのも気になる所である。
*当時永井豪原作映画「ハレンチ学園4作(1970年〜1971年)」が大ヒットを飛ばしており、その売上が流用されたと考えられている。

「 戦争と人間(1970年〜1973年)」第3部冒頭ナレーション

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満州には日清日露戦争で獲得した既得権益を守る為に関東軍が駐屯していた。時の日本の軍部は、中国への強硬路線を背景に満蒙を中国から切り離し日本の支配下に置こうと虎視眈々とその機会を狙っていた。
*まさしく「満州もモンゴルも古代からの中国領土」なる中国共産党歴史観そのもの。日本の知識人も諸手を挙げて歓迎し、モンゴル人をして「日本ではリベラル層こそ帝国主義者」といわしめる状況が始まる。時期的に見て「中国共産党のプロパガンダ」というより「この映画の歴史観中国共産党側が取り入れた」可能性すら指摘されている。

日本は侵略戦争への道をまっしぐらに突っ走り、国内は軍事主義一色に塗り潰されていく。そしてこれに警鐘を鳴らしたのは日本人の唯一の良心たる左翼の人々だけだったのである。
*実際には共産主義も「戦争至上主義」という点では軍国主義者と価値観が一致しており、多くの共産主義者が転向して軍国主義の礼賛者へと変貌。それどころか太平洋戦争が始まると、それまで抗日運動を続けてきた朝鮮人運動家まで当局に出頭して参戦の意思表示を行ったりしている。左翼陣営は1960年代一杯はこうした「転向問題」を引き摺ってきたが、1970年代に入ると突如として「(それに反対する者をすべからず歴史修正主義者として断罪し続ける事によって)都合悪い事は全部なかった事にすればいい」なる新境地に到達。
植民地末期朝鮮におけるある転向者の運動 

*ちなみにこの物語の重要人物たる「左翼人士」標耕平は、原作ではインパール作戦に参加し、撤退時に激流に流されて死亡するが、映画版では「無敵の正義軍」八路軍に投稿してその一員に加わる。直接描写はないが、そうした「正義の脱走日本兵」が他にも数多く存在する事が暗喩される。

そして西安事件を契機に、それまで敵対関係にあった中国共産党と国民党はともに手を組み、日本の侵略に対する反撃を開始したのだった。かくして抗日救国の気運が中国全土を覆い尽くし、ついに一つの事件を契機に日中全面戦争の火蓋が切って落とされる事になったのである。これに恐怖した日本軍による言語を絶っする大量虐殺が1ヶ月以上に渡って続けられる事になった。殺戮された中国人の数は実に30万人は下らなかったと伝えられる。
*ちなみに「戦争と人間第3部(1973年)」制作中に中国のプロパガンダをそのまま伝えた本多勝一「中国の旅(朝日新聞連載1971年、単行本化1972年)」が発表されている。また原作は満州虐殺に丸一巻分に当たるページ数を割いているという。

  • この映画に登場する日本兵は、基本的にはボルトアクション方式の三八式歩兵銃しか装備しておらず、しかも「これを装備した日本兵は無敵である」なる洗脳教育を受けている。そして戦場では民間人に対する略奪と強姦と殺戮しか行わない。それに対抗する八路軍(国民党軍は登場しない)は米軍のガーランド小銃とおぼしき連射ライフルを装備した格闘戦の達人として描かれ、現場に現れると一瞬にして日本軍を殲滅させてしまう「無敵の正義軍」。この展開が後に中国で量産される抗日ドラマの基本フォーマットとなっていく。

    *実際の八路軍は二人に一人も旧式ライフルが行き渡ってなかった貧弱装備で、そもそも延安に引き篭もって日本軍とほとんど戦火を交える事がなかった。それに対して日本軍は(上海塹壕網を浸透作戦で抜く為に)アジアで初めて分隊単位での柔軟な機動を訓練に取り入れ、分割による火力不足を軽機関銃の大量装備で補っていた(それまでの歩兵戦は中隊単位での一斉突撃が基本で、国民党軍はそのレベルに留まっていた。八路軍はそもそも大半がそのレベルの教練とすら無縁だった)。また当時の日本軍は(英国がボーア戦争1880年〜1902年)に投入したのを嚆矢とする)自転車を歩兵の移動に大量投入しており、これで自動車化の至らない部分を補っていた。

    http://china-redtour.com/img/data_img/kounichi/hutuin_j_army_cycle.jpg

  • ノモンハン事件(1939年5月〜9月)の場面では流石に九八式軽戦車(主砲37mm)が登場するが(機関銃も少数ながら登場)、「正義の軍隊」ソ連軍の主力は独ソ戦ナチスドイツ軍のタイガー重戦車とも互角に渡り合えたT32/85中戦車(主砲85mm)。さらに大量の重砲と攻撃機の支援もあって、やはり日本軍は虫ケラの様に一方的に殲滅されていく存在としてのみ描かれる。

    http://key.tank.jp/army/jp/keni.jpghttp://image.space.rakuten.co.jp/lg01/53/0000189453/35/img4abbdfd6zikbzj.jpeg

    *実際の当時のソ連軍の主力はBT-5中戦車(主砲45mm)、BA-6装甲車(主砲45mm)、T-37水陸両用偵察戦車(機銃のみ装備)のみ。機動性を重視するあまり装甲を軽視した設計だったのでノモンハン事件においては九四式37mm速射砲や75mm野砲によって容易に撃破された(主に火炎瓶による肉弾攻撃で仕留めたというのは誤伝)。BA-6装甲車に至っては重機関銃の発射する7.7mm弾すら貫通したという。一方、ソ連重砲隊は攻撃目標を日本の歩兵部隊に集中し大戦果を挙げている。
    ノモンハン事件 - Wikipedia

    http://www.geocities.jp/torikai006/khalkhan/gol-BT5_13.jpghttp://www.warlordgames.com/wp-content/uploads/2014/03/BA-6_soviet_armoured_car.jpghttp://ww2photo.se/tanks/su/ligh/t37/08648.jpg

 おそらく最初からソ連の国策映画「ヨーロッパの解放(Освобождение、1970年〜1973年)」に便乗した企画だったし、日本共産党によれば、この時期にはソ連中国共産党が盛んに日本への浸透作戦を図っていた時期だったという。こうした影響が重なった結果、信じられないほど純粋な形のソ連・中京プロパガンダ大作が日本で制作される事になってしまったのであろう。

ちなみに歴史のこの時点で「慰安婦問題」はまだ存在してないので、それに関する言及は(原作含めて)一切ありません。ただ実は「戦争と人間」原作には「慰安所」についての言及自体ならあったりします。
慰安婦 | 日華事変と山西省

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五味川純平「戦争と人間 全18巻(1965年〜1982年)」劫火の狩人4

夫を徴兵に取られた女の嘆き

八重は耕平の肩の下から見上げながら喋りつづけた。

「出て行ってから二年近くなるのよ。戦争といったって、毎日戦争があるわけじゃないでしょ。行く先ざきに慰安所があるってじゃない。戦争しながら女を買って、家のことなんか忘れてるのよ」

「そうは思えないけどね……」

「あたしだって生身の体だもの。まだ若いしさ。男のなかに混って働いてりゃ、飢えているだの渇えているだのって、男の人が手を出して来るのよ。尼さんみたいに身を固くしていようと思ったって、気持が動くときだってたまにはあるわ」

耕平は返事のしようがなかった。女が喋るに任せるほかはない。

「結婚してないあんたには、結婚して一人にされた女の淋しさなんかわからないだろうけどさ」

「……わかる気がするよ」

「わかるかしらね、ときどき男の人に息のつまるほど抱き締めてもらいたくなる気持が。淋しいだろうとか、手を貸してやろうとか云ってもらいたいのよ。たまにはお前はいい女だとか、好きだとか、綺麗だなとか、気に入ったとか、云ってもらいたいじゃない。わかる?」

耕平は女の露骨さに顔をしかめたくもなり、もっと立ち入って女のむき出しのなまなましい告白を聞きたくもなった。

「……そう云った男が結局あんたの何になった?」

「本物の男なんか一人もいなかったわ」

「……本物の男って?」

「わからない?」

「わからんね」

「そうね。あんたはうぶなんだか聖人なんだかわかんないけど、本物の男も女も知らないようね。本物の男って、女を、こう、芯から夢中にさせてしまうのよ。女が、いつだってその男の眼や手や匂いや声を体じゅうに感じて、その男と別こに生きている自分なんて感じられないようにしてしまうのよ」

それなら本物の女とはどういうものか。耕平は八重にきいてみたくなったが、八重を挑発することになりかねないので、さしひかえた。
秦郁彦慰安婦と戦場の性(1999年)」に興味深い記述がある。日清戦争(1894年〜1895年)や日露戦争(1904年〜1905年)の頃だったら、派兵されるのは未婚のまま(女を知らないまま)徴兵される若い男性ばかりで、しかも多くが貧しい農民出身なので派兵先での「女の世話」にそれほど神経質になる必要はなかった。だが日華事変(1937年〜)以降は総力戦の様相を帯びてきて、次第に予備役の既婚者まで動員される様になっていったので、これが必須化していったというのである。ただ「軍隊の風紀糜爛」については既にシベリア出兵(1918年〜1922年)の頃から問題となり始めていたとする説もある。

 最前線における「優秀な兵士」

「通匪者」の徹底した捜索がはじめられた。疑えば、ほとんど怪しかった。疑われた者は禍であった。縛られて拷問され、反抗すればその場で射殺されるか刺殺された。

雷太は捜索にはまるで関心を示さなかった。女と酒を漁ってばかりいた。

通匪者を探すことなど、無意味にひとしいのである。海のなかへ入って海水を手で掬って、どの部分が塩からいかからくないかなどと問うのが愚かなのと同じことだというのである。女と酒には意味があった。快楽と生命の自覚という最大の意味が。

女の死にそうな悲鳴が聞こえたところには、必ずといってよいほど雷太とその仲間がいた。「俺は支那四百余州に子種を播き散らすんだ」

と、雷太は云った。

「戦争の終るころには、俺の子供が千人ぐらい出来ているだろうさ」

雷太の同年兵が将校から云いつかって雷太に注意すると、雷太は忽ち眼をぎらぎら光らせた。

「お前には空想力ってものはねえのか。日本が敗けたらどうなる。満洲や日本の女がやられずに済むって保証があるか。女のまんこは徴発品だ。徴発は勝ち戦の不文律だ。何が悪い? それに、俺は、お前らとちがって、一人の女に惚れてるんだ。子供のころから惚れた女があるんだ。俺ァな、手あたり次第チャンコロの女を組み伏せて乗っかりながら、その女のことを考えてるんだ。なんとしおらしいじゃねえか、この大塩雷太がよ」

雷太は確かに空想力が逞しかった。強姦しながら、強姦強姦などにはあり得ないすばらしい愛技の交換を空想していた。その意味で、戸越ユキは彼のすぐれた師匠であったかもしれなかった。

軍紀は雷太に限らなかった。兵隊たちは戦に倦んで、概して放縦に流れがちであった。規律を守って不自由な殺伐とした生活に耐えている兵隊も、無論、多勢いた。彼らは、しかし、どこの部隊でもそうだが、なぜか影が薄いのだ。威勢よくでたらめをしている兵隊の方が生き生きとして見える。従ってそういう兵隊の所業が目立つという順序である。そういう兵隊たちは、少し安穏な日がつづくと、徒党を組んで他の村落へ徴発遠征に出かけた。将校たちも見て見ぬふりをした。徴発の獲物の上前をはねるのは彼ら将校なのである。
*まさしく水木しげる「姑娘」の世界。

小人数で徴発に出かけて女に手を出した兵隊が、村落民に捕まって縛られることがあった。村落民の方では、日本兵を殺せばあとがたいへんなことになるから、せいぜい怒りを縛り上げることで表現して、我慢していた。しかし、雷太の属する部隊に関する限り、縛っても殺しても、結果は同じことであった。

報復は凄まじかった。「報復」にかけては、雷太はことのほか猛烈であった。銃殺や銃剣による刺殺などは手ぬるかった。秣の押切りで生きた人間の胴を輪切りにして、人間が他の動物と異なることなくたあいなく死ぬことをつまらながっていた。彼が残忍になるのは戦友愛が篤いためではなかった。際限もなく残忍になることによってしか、燃え熾る情熱の劫火を鎮める方法が戦場ではないかのようであった。
*こうした描写、この作品においては戦前日本がまだまだ強固な階級社会で、こうした人物が「概ね現実社会では様々な理由で差別される存在であり、軍に入隊してやっと自らの鬱憤を暴力によって表出する捌け口を見出したが、同時に軍もまた現実社会の縮図に過ぎない(純粋な実力主義社会ではない)事を思い知らされて益々暴力に耽溺していく過程」として描かれる事が多い。これは実は日清戦争(1894年〜1895年)勃発の原因となった朝鮮半島甲午農民戦争東学党乱、1894年)において、被差別者蜂起の過激な暴力性が朝鮮王朝と農民軍の和解を妨げ続けた先例と同列に語られるべき内容なのかもしれない。
甲午農民戦争/東学党の乱

五味川純平「戦争と人間 全18巻(1965年〜1982年)」裁かれる魂1

俊介は自分の手番を指して、話を聞いた。

「……慰安所では土地のクーニャンを使うのかね」

「そりゃいろいろだよ。後方から連れて来る場合もあるし、現地調達もあるし……」
秦郁彦慰安婦と戦場の性(1999年)」によれば「日本軍は防諜と性病予防の観点から慰安婦を日本人と朝鮮人に限定しようと努めていたが、必ずしも全面的に成功していた訳ではない」といった感じらしい。

「最前線では?」

「前線にはそんなものは置いてないね」
*同じく秦郁彦慰安婦と戦場の性(1999年)」によれば「慰安所の設置が許可されるには連帯単位以上の駐屯地以上」だったらしい。それ以下の単位での赴任地ではどうだったのだろうか。部隊が現地女衒などと勝手に取引し、憲兵に摘発された記録などが残される。

「じゃ、どうする? 困るだろ」

「あんたなら、どうする?」

笑いが渦を巻いた。

「戦線は、しかし、こうやって地方にいるより自由がきくんじゃないのか」

「そりゃあな、その気になればだが、人によりけりだ」

「あんた、やった口だろ?」

「どうだかね」

「どうだった? いうこと、きくか?」

「そりゃきくさ。こっちは戦勝国の軍隊だ。もっともね、小人数で遠出をして物色したりすると、ふん捕まってひどい目に合うこともあるが」
憲兵はこの種の活動も取り締まっていた。人道的配慮というより、迂闊に現地人の恨みを買うと国民党軍の奇襲を手引きするケースがあったからだという。

「しかし、手を出したら、クーニャン、ぎゃーぎゃー騒いで、人に知られずにってわけに行かんだろう」

「知られたってかまわんさ。そこは、武士は相見互だよ」 

また、どっと笑い声が沸いた。俊介は聞き流して、まだ考えこんでいる相手の指し手を読もうとした。

そのときに、ぼそぼそと小さな声が聞えた。

「汚くてやりきれませんね、クーニャンは」

おとなしい、日ごろめったに口もきかない男が、そう口を挟んだのである。身分はまだ職員になれない准職員だが、齢はもう三十にはなっていよう。小柄で、妻子のある男で、いつもおずおずとしたような表情を浮べていて、同僚たちと遊び歩くことなど皆無といってよい。

「……汚いって、何が……?」

一人が、意外な飛び入りに驚いて、間を置いて、きき返した。

「……クーニャンの前が垢で汚れてるんです。肌は白いんですがね、それが鼠色に見えるほど……」

「よく観察しやがった」

だれかが混ぜ返して、大笑いになった。

「……こっちだって汗まみれの垢まみれだろ」

「……そりゃそうですが……」

「気になるかね」

「気分をそがれますね」

「だが押えつけてやってしまった。それとも、二番手、三番手だったか……」

笑い声が破裂して、直ぐに消えて、男たちの口もとに残った。

俊介は、将棋の相手に無言で会釈して、席を立った。唐突であった。

「……あんた、戦地で人を殺した?」

小柄な男は、俊介の射すくめるような視線の前でどぎまぎした。

「……いいえ」

「人を殺すより、罪が軽いってわけか」

人びとは、いままで話の圏外にあった俊介の突然の云い方に含まれている憎悪の響きをいぶかった。

俊介は云い捨てたままで、部屋を出て行った。

大きな声も出せそうもない男が、戦地では他国の女を犯すことが出来て、帰って来れば、依然として、おとなしい男、善良な夫、やさしい父親として存続し得る。それが戦争というものである。それは、しかし、戦場で悪鬼のように荒れ狂って多勢の人間を殺した俊介が、帰って来て、おとなしい、平和主義者らしい顔をしていることに較べれば、罪は軽いのかもしれないのだ。

「朝鮮ピー」という言葉は水木漫画で知った - ネットゲリラ 

森本 賢吉「憲兵物語 ある憲兵の見た昭和の戦争」

扱った強姦事件の傾向について

強姦は自己抑制の効き難い召還兵に目立ったよ。一度、現役を除隊して妻子がおる者が召集されて出てきとるんだからな。女を知っとるけぇ。強姦は「明日の命がわからない」状況に追い込まれる程頻発したな。自暴自棄になって。兵隊は捕まえた同じ女ばかりをやるのよ。大体、そがいに簡単に戦場で女は捕まりはせんのだよ。戦争が始まりそうになると住民はみんな逃げて、おりゃせんからのぅ。強姦が頻発したというのは、支那特有の「針小膨大」だよ。

慰安所について

従軍慰安婦に軍が関与してないなんて事は絶対ないよ。前線では食糧と泊まる所を軍が提供するしかないんだから。まぁ、軍が募集せんでもそれぞれ商売人がおるわけで、連隊本部以上の所には御用商人がついて来てたからね…南朝鮮の女をようけ連れてったなんて新聞記事も見たが、あの辺りは朝鮮独立運動の根拠地だから、そういう関係もあるのかな、なんて思ってしまうね。接客婦にも3種類あってね。借金を払う分だけ稼いで早く辞める者、借金が多すぎて身を売られていく人(日本人でも朝鮮人でも「又売り」されてくうちに足抜け出来なくなってしまう場合が多い)。そして「郷里に帰っても仕方がない」と捨て鉢になってしまった人。北支では北京と天津、中支では漢口と上海に日本人租界があってね。そこの妓楼で正規に「二枚鑑札(芸者の免許と娼妓の免許)」受けて真面目に働いてる娼妓は日本人でも朝鮮人でも借金を返し終わると内地や朝鮮に帰っていったよ。新聞には「朝鮮女を無理矢理集中的に戦地へ連れてった」なんて書いてあるけどさ。何処に連れてかれるのかも分らない危ない場所に借金もない女が志願するとはとても思えないね。少なくとも警察がそうやって女を強制的に挑発してたなんて話は聞いた事もないよ。

ところで「戦争と人間」原作の完結後、花岡事件(1945年6月30日)が訴訟に発展し、当時の歴史のまた別側面が知れ渡る展開に。
*上掲の様に「実証言や史料より再現された景色」には比較的容易に追加可能。
花岡事件 - Wikipedia

  • 満州日中戦争の最前線において、匪賊討伐に苦労した日本軍は「(ベトナム戦争でアメリカ軍がやった様に)戦略村(Strategic Hamlet)」を建築。ここへの移住を強要された現地人達は半幽閉状態に置かれる事になった。
    *実は「戦争と人間」にも関連描写がある。が、どれくらいの規模でどの範囲で行われたかなどは良く分かっていない。
    戦略村(Strategic Hamlet)

    http://www.73rdaviationcompany.org/gallery/var/albums/George-Flanders-Submitted/Strategic%20Hamlet.JPG?m=1355083540

  • こうした「戦略村」における徴用は、強制ではなかったとはいえ半幽閉状態からの脱却する唯一の手段だった。志願者は遠距離に派遣されるので現地の治安にも貢献。また国民党軍人兵士、八路軍兵士、傀儡軍兵士、村などの抗日政府・抗日組織員、農民、商人などが連行されてくる事もあったという(北支那方面軍少尉猪瀬建造の主張)。
    華人労務者 - Wikipedia
    *東条内閣が1942年11月27日、国内の「重筋労働」の労力不足を補うために「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定すると内地の鉱山、土建、港湾など全国135事業所にも派遣される様になる。管轄は北支政府「華北労工協会」が行った。

  • 当時の統計をみると、鉱山徴用者の労働環境は「人あしらいの方法に伝統的積み重ねがある内地鉱山」と「外地か内地かを問わず「新思想」に被れた経営陣の営む新興鉱山」で有意の差があった様である。
    *後者は(目標達成の為に無茶をする事が多かったせいか)元々死傷率が比較的高かった。またどちらでも食糧事情が悪化した1944年後半以降死傷者が目に見えて増加するがこのうち外地人の占める割合が急増した。「花岡鉱山でだけ中国人労働者の反乱があった」のは、この様な要因が複合的に重なった結果と考えられている。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/4/48/Hitachikouzan-old6.jpg/300px-Hitachikouzan-old6.jpg

それでは「沖縄決戦」と「戦争と人間第3部」はどこが似ているのでしょうか?

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  • 「沖縄決戦」は東映オールスター、戦争と人間」は松竹オールスター。

    http://trendexpress.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_be0/trendexpress/3304_sub_58550ebc6b59e7595.11919155.jpg?c=a1f:id:ochimusha01:20170304214356j:plain

  • どちらも記録映像を多用し、細かいエピソードの積み重ねでテンポ良く進む(「幕の内弁当」方式とはよく言った)。

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  • 「沖縄決戦」は、ただひたすら日本軍の敗北と、沖縄住民を見舞う悲劇と、アメリカ軍の勝利を描き続ける。戦争と人間第3部」は、ただひたすら原住民への膀胱しか働かない「悪の軍団」日本軍と、それを捕捉しては虫ケラの様に殲滅する「正義の軍団」八路軍を描き続ける。
    *ちなみに実際「現存する広報写真に残された八路軍」は吃驚するほど装備が充実してる。ルイス機関銃やブローニング自動小銃第一次世界大戦中の兵器)に、MG34(中独合作期(1936年〜1937年)に国民党軍に流入)…ちなみにガーランド小銃は第二次世界大戦終了まで1丁も中国大陸には届かなかった模様。こうした宣伝写真を間に受けると、そういう描き方になるのかもしれない。ちなみに日中戦争でもベトナム戦争でも、共産党軍は敵占領地区において「匪賊」というより「敵勢力への協力者を容赦なく粛清する処刑執行人」として恐れられた。「戦争と人間」では原作からして「これぞ民族意識の高揚」と手放しに礼賛されているが、ベトナム共産党はこの感情が資本主義的発展の阻害要因となると看過し、独立達成後は賞賛を控える様に。

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  • 「沖縄決戦」のクライマックスではM60パットンらしき車両が日本軍を蹂躙するが、戦争と人間第3部」ではT32/85が日本軍を蹂躙する.。
    *全体像を俯瞰してみると「沖縄決戦」における米軍は(史実に基づいて)ただひたすら物量に物を言わせて攻めてくる。一方、「戦争と人間第3部」では(史実に忠実な原作を無視して)装備で勝る八路軍ソ連軍が、ただひたすら(精神主義しか能がない弱兵)日本軍を瞬殺し続ける。

    http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/EIGA/rekigazo/okike.jpgf:id:ochimusha01:20170304215047j:plain

まぁ「どこまで似てるか」の判断は各人にお任せします。ところで第二次世界大戦当時の米軍歩兵は以下の3種類の銃を装備してました。

聴き比べてみると、どうやら「沖縄決戦」のアメリカ兵が鳴らしてるのも「戦争と人間第3部」で八路軍鳴らしてるのもM1ガーランド小銃の連射音」みたいです。それにしても「戦争と人間第3部完結編」における八路軍の戦い方って「沖縄決戦」のアメリカ兵とそっくり。現れたらひたすら無制限に乱射。弾切れなど気にせず問答無用で乱射して敵を圧倒。(史実に反して)ボルトアクション銃しか装備してない時代遅れの日本軍など、到底敵うはずもありません。
*「ボルトアクション銃しか装備してない時代遅れの日本軍」…「沖縄決戦」は史実に基づいて支援機関銃や砲兵を登場させ、白兵戦においては相応に対等の戦いをさせている。とはいえ、もうその段階では大勢が決しているのがアメリカ軍の伝統的な戦い方。そうしたリアルなロジックに基づいて最終的敗北は免れ得ない。

http://www.db.pref.mie.lg.jp/db/user_upload_file/k050120/37/arekore_20_1.gif

ところで映画版では冒頭のナレーションでサクッと流されてしまう「南京虐殺」の場面について「原作には歴史的真実が描かれている」というネット評が存在する様です。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/sennkann-mutsu/20110424/20110424125451.jpg
実際の映画展開に吃驚するほど反映されていないのですが、原作は原作で当時の史料に当たって淡々と現実を暴いていくスタイル。ある意味、岡本喜八監督映画「沖縄決戦」の「幕の内弁当方式」と重なります。要するに各史料がカバーしている範囲は狭いので短いエピソードの積み上げとなり「連続的イメージの形成は読者(観客)任せ」というモンタージュ技法。浮かび上がってくる現実は大体こんな感じ。

http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/mabolosi/mabolosi1.jpg

  • 大陸浪人ロマンスに憑依されたかの如き関東軍の無謀な専横。
    *現代日本人も概ね「関東軍=勤勉どころか滅茶苦茶熱意があって行動力もある無能」といった側面は認めている。

    http://weddson.my.coocan.jp/tanaka1.jpg

  • 先陣争いしか眼中になく、大言壮語しか吐かない強硬派軍人にイニチアシブを握られていく一般軍人の無念。
    *自らも徴兵されてるし、こういう部分はかなり生々しく描かれている。

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  • 何を考えてるか、まるで解らない二股膏薬的な近衛政権の動き。
    中川八洋近衛文麿の戦争責任」は、当時の近衛政権関係者全てを「共産主義者」認定する。とはいえ実は、当時における「軍国主義」と「共産主義」は「国家主義」という点で(互いに近親憎悪の感情を抱えつつ)表裏一体の関係にあり、近衛文麿首相もまた「国家主義者」の一員だったというだけの話とも。
    あるいは共産主義者でいっぱいの日本

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    *どどのつまり共産主義軍国主義も最後は「最終戦争論」に到達してしまう。その展開について当時の自由主義者達は完全に無力だったという事。

    *総力戦体制期(第一次世界大戦〜1970年代)が終わった後も、日本ではこうした思考様式からなかなか逃れられなかったとも。

確かに原作には、それなりの形で「歴史的真実」が描きこまれている様です。

五味川純平「戦争と人間 全18巻(1965年〜1982年)」劫火の狩人2

上海派遣軍は八月十五日編成され、その任務は「上海附近の敵を掃滅し居留民を保護する」という限定されたものであった。しかし派遣軍司令官・松井石根はこの決定に大部不満足で、送別会の挨拶でもこのことをいい、省部の列席者は大いに困ったという(「下村定大将回想録」『現代史資料 日中戦争』2)。

また、近衛文麿手記によれば、松井大将は東京駅出発の際、杉山陸相を駅長室で捉え、「どうしても南京まで進撃せねばならぬ」と力説していた。近衛は直ちに陸相に確かめたところ「精々蕪湖位で止るであらう」というのがその返事であった(『失はれし政治』)。

蕪湖といえば南京よりさらに西方である。香月といい寺内といい、現地軍司令官に任命されると、いずれも任務の拡張、戦面の拡大を望むのを常としている。それが軍人の、戦陣に臨む際の共通心理であるようである。松井もまた例外ではなかったが、中央にあって戦略と政略の要を掌握しなければならない杉山陸相も、心情は前線司令官並みであったらしい。しかし、上海戦線で中国軍の頑強な抵抗に直面し、思わぬ苦戦・蹉跌を経験して、松井軍司令官も「大丈夫南京は取って見せるから是非やらなくちゃ不可ぬ」と相変らぬ強硬意見ながら「只今は軍隊が疲労して居るから、今直ぐにとは言はぬ」と認めざるを得ない。これが、上海で勝利を得たのちの現地軍の実状であった。

中支方面軍を視察した河辺第二課長は、松井のこの言葉言葉を聞き、また、中央にあるときは対支一撃強硬論の筆頭であった武藤参謀副長の「軍司令官は大体気勢を示して居られるが、上海派遣軍は殊に激戦後の疲労はあるし人員の補充、弾薬器材の補充も必要だから急追は難しい」という言葉などから、急追不可能の印象を得た(「河辺虎四郎少将回想録」)。河辺課長は十一月十八日、「……今直チニ新ナル命令又ハ指示ヲ与フルノ処置ヲ執ラルルノ要ナク」と現地情勢の報告を行ない、帰任の途に着いたが、翌十九日第十軍(上海派遣軍増援の軍団・司令官柳川平助中将)が嘉興へ進出し、上海派遣軍も蘇州の線に進出するに至って、現地では南京追撃の気運が急激に昂まってきた(蘇州嘉興の線は、十一月七日中央統帥部によって指示された追撃追撃限界線である)。 十一月二十日、第十軍から「十九日朝全力ヲ以テ南京ニ向ッテスル追撃ヲ命令……」の電報が舞いこみ、前進不可論を固持していた多田次長を驚かせた。

第十軍は補給は不充分だが、杭州湾上陸以来さほど戦闘力を損耗してはいない。中国軍の潰走に乗じ、余勢を駆って強引に南京を目指そうというのである。この電報に接した中央統帥部では、下村作戦部長以下、この際やるべしとする意見がかなり強かったようである。しかし多田次長の主張がどうにか容れられて、第十軍の実行差止めの措置がなされた。 二十一日午後三時には、塚田方面軍参謀長から「丁集団(第十軍)ニ対シテハ方面軍トシテ直チニ実行ヲ差止メタリ……」との電報が届いたが、既に南京追撃の部署を命令され騎虎の勢いの第十軍各師団には、この制止措置は逆効果でしかなかったようである。 第六師団長谷寿夫中将は、柳川司令官に左記の意見具申を行なっている。「師団はさきに南京へ向かう追撃の命を受け将兵は欣喜雀躍していたのであるが、本日主力停止の命令を受け遺憾にたえない。軍当面の状況はますます果敢な追撃を必要とし、この威力を一歩でもゆるめるときではないと考える。いまや師団は滞在数日、戦力も充分回復されたのですみやかに主力をもって追撃させられるよう願うものである……

二十二日、中支方面軍から「事変解決ヲ速カナラシムルカナラシムル為現在ノ敵ノ頽勢ニ乗シ南京ヲ攻略スルヲ要ス」の意見具申がなされた。上海戦線膠着し柳川軍の増派をみたことは、松井司令官以下上海派遣軍にとって決して快いことではなかった。今また南京を臨んで柳川軍が先行しようとしている。中支方面軍が一度は第十軍の前進を押えながら、翌日には一転、南京攻略の意見具申を行なったのは、中国軍の敗走に幻惑されて、戦争の政略・戦略両面からの勘案よりは、戦局の微視的観察と指揮官の功名心が優先した結果である。 十一月二十四日、第一回大本営御前会議が開催された。下村作戦部長は、作戦計画説明の際、統帥部としては「南京其の他を攻撃せしむることも考慮して居ります」と述べたが、これは彼の独断であった(「下村定大将回想録」)。回想録」)。

当時多田駿参謀次長は戦面・作戦区域の拡張に反対であり、そのため軍中央では南京攻撃を決し兼ねていたのである。御前会議での説明は、出先軍の性急な南京追撃計画へ中央の大勢を追従させる第一歩となった。 多田次長の意見は「現地側の強硬な意見に動かされて大局上の不利弊害を忘れては不可ぬ」ということにあったが、現に無視されていた嘉興蘇州の制令線は二十四日廃止となり、結局現地軍の攻勢が中央を引きずった。

十一月二十七日、下村部長は中支方面軍参謀長宛親展電で、「当部ニ於テハ南京攻略ヲ実行スル固キ決意ノ下ニ着々審議中ナリ未タ決裁ヲ得ル迄ニ至ラサルモ取敢スオ含ミマテ」と連絡。現地軍は歓喜したに違いない。「今ノ電報ヲ見テ安心シタカラ勇躍サウスル」と返電してきた。 南京追撃は十一月二十八日決裁され、十二月一日「敵国首都南京ヲ攻撃スベシ」の奉勅命令が伝宣された。各軍は競って南京へ急追したが、南京作戦決行を躊躇させた各部隊の消耗・疲労、消耗・疲労、補給不良等の事情が解決されていたわけではない。中央の作戦指導・統制掌握不充分なまま現地軍の独走を許した結果、未曾有の残虐行為発生をみる素因をつくった。

首都攻略と戦争の終結とは不可分の関係にある。折から駐支ドイツ大使・トラウトマンによる南京政府への終戦工作も進められつつあった。作戦は戦争終結のための大局的観点に従属されるべきであり、南京作戦は終戦工作の外交上の手札として使われてこそ意味を持ち得たはずである。既に遷都して南京を放棄した中国の抗戦気構えなど念頭になく、ひたすら戦功を競う現地軍の独走に南京攻略の指導権を委ねた軍中央、その軍を統御する能力と権威を欠いた政府には、しょせん戦局の収束は不可能であった。

現地軍・軍中央・政府の倒錯した関係は、南京攻略でピークに達し、以後泥沼の戦局を繰り返させることになる。

とにかく「南京さえ陥落すれば国民党政府は降伏する」の一点張り。近代船の観点からしたら狂気の沙汰。本当に「日中間の問題の最終解決」を狙うのなら「国民党軍の包囲殲滅」か「国民党政府の拿捕」を達成目的に設定すべきだったのです。当時の日本軍人がそれを思いつけなかったばっかりに、日本は日中戦争の泥沼に引き摺り込まれていく展開となります。

対支一撃論 - Wikipedia

日中戦争初期に武藤章、田中新一らによって唱えられた事変拡大論で「国民政府は日本軍による強力な一撃を加えるだけで屈服し、早期講和に持ち込める」と言うものである。

  • 当時日本陸軍上層部は、関東軍が満ソ国境において ソ連軍と対峙している状況で、中国における戦線拡大を警戒したため、事変不拡大の方針を打ち出し、早期講和の道を模索し始める。

  • しかし、 武藤らは対支一撃論を唱え、国民政府に強硬姿勢で望み 講和を引き出すという方針を陸軍上層部に訴える。そして、事変の不拡大と拡大のどちらが良いのかのはっきりした長期戦略の無いまま、対支一撃論に従って上海を攻略し(第二次上海事変)、南京も攻略した(南京攻略戦)。

  • 日本軍は強力な一撃を国民政府に加えることに成功したが、国民政府は屈服せず、これ以後、中国全土に事変が波及した。その後、武藤は部下の石井秋穂に後悔の念を述べている。

但し、上海への陸軍派遣は天皇の要望を汲んで米内光政海相らが主張したことであり、実際の事変拡大は陸軍の強硬派が独断で進めたわけでなく、トラウトマン工作を否定するなど強硬派を支援する形で政府側が進めた政策である。

 それでは肝心の「南京虐殺」そのものについてはどう描かれているでしょうか。

五味川純平「戦争と人間 全18巻(1965年〜1982年)」劫火の狩人2

南京大虐殺でどれだけの人間が殺されたか、どれだけの財物が掠奪され、どれだけの婦女が凌辱されたか、その正確な数字を求めることはもはや困難であるし、あまり意味がない。

中国側の資料では、虐殺数四十三万(第六師団二十三万、第十六師団十四万、その他師団六万、――戦闘員・非戦闘員を含む)となっている。この数字は多すぎるという説がある。多すぎるかもしれない。多すぎるとしても、日本軍が南京占領後僅々一ヵ月ばかりの間にふんだんにさらけ出した残虐性が減るわけのものではない。三十万とか、三十四万とかいう数字もある。この方が実数に近くても、あるいは実数はもっと少なくても、日本の正規軍が、占領後において、組織的に虐殺を行ない、集団的に暴行を行なったことの否定にはならないのである。

強姦についても同様のことが云える。占領後一ヵ月の間に、その件数は八千ともいい、二万ともいう。件数はどうでもいいのである。日本の正規軍の将兵が淫獣の群と化して女を犯しまわったことが問題なのである。淫獣の群の兵員総数に占める百分比は微々たるものだという説がある。一パーセント以下ともいい、五、六パーセントを越えるとするものもある。これは、しかし、どれだけだけなら多く、どれだけなら少ないと決められない性質の事柄であり、淫獣の群が横行闊歩したことが問題なのである。「一般青年婦女ヨリ六、七十歳ノ高齢老父ニ至ルマデ被害甚ダ多シ。其方式ハ強姦アリ、輪姦アリ、拒姦致死アリ、或ハ父ヲシテ其娘ヲ、或ハ兄ヲシテ其妹ヲ、舅ヲシテ其嫁ヲ姦セシメテ楽シミトナス者アリ、或ハ乳房ヲ割キ、胸、腮ヲ破り歯ヲ抜キ、其惨状見ルニ忍ビザルモノアリ」

これを一ヵ月余にわたって放置した軍の組織と軍の感覚が問題なのである。 この時期に通用していた陸軍刑法には、独立した『強姦ノ罪』はなかった。『掠奪ノ罪』に含まれて、こう規定されていた。「前項ノ罪(掠奪を指す)ヲ犯スニ当リ婦女ヲ強姦シタルトキハ無期又ハ七年以上ノ懲役ニ処ス」 陸軍刑法は、戦地または占領地では「帝国軍人」は強姦などは決してしないという前提に立っていたか、強姦事件などは起きても作戦に支障は来さないと考え、掠奪行為に随伴して起こる強姦にしか害を認めなかったらしいのである。陸軍刑法改正には強姦の大量発生が必要であった。「支那事変地に於る此の種犯罪の実情に照し其の軍紀を侵害すること甚大なるは勿論其の作戦に将又治安宣撫工作に悪影響を与へたることあるに鑑み軍刑法中に戦地、占領地に於ける強姦の罪を新設するの緊切なるを思はしめた結果、のちに『強姦ノ罪』は『掠奪ノ罪』と並んで独立することになる。

南京での放火・掠奪を想像するには次の数行で足りるであろう。

「……十二月十九日ハ全ク無政府状態ノ一日デアッタ。兵隊ノ手デ放火サレタ幾ツカノ大火ガ荒レ狂ヒ、其後モ尚多クノ火事ガ約束サレテ居タ。……軍当局ハ兵隊ノ統制ガ出来ナイ。 十二月二十日、月曜日、蛮行及ビ暴行ガ阻止サレルコトモ無ク続行サレタ。市街中最枢要ノ商店街、太平路ハ全ク火災ニ包マレタ。……火ヲ放ツ前ニ店舗カラ取リ出サレタ掠奪品ヲ積載シタ数多ノ日本軍貨物自動車ヲ見受ケ……」

南京攻略の最高指揮官、したがって最高責任者である大将松井石根は、日本軍のいちじるしい軍紀頽廃について、「思うに、ことここにいたった原因は、

一、上海上陸以来の悪戦苦闘が、わが将兵の敵愾心をいちじるしく強烈ならしめたこと。

二、急激かつ迅速な追撃戦のため、わが軍の給養その他の補給が不完全であったこと。

等々に起因するものと思う」

と、述べ「敗走した支那兵が、その武装をすてて、いわゆる〝便衣隊〟となり、執拗な抵抗を試みたもの多く、ためにわが軍は、敵軍民の別を明かにすることが困難となり、自然一般良民に累を及ぼした」と、弁解している。つまり、日本軍の虐殺・暴行・掠奪を認めているのである。

同じ人物が、しかし、東京裁判の宣誓口供書では、「予は南京攻略戦闘に際し支那軍民が爆撃、銃砲火等により多数死傷したることは有りしならむも検事側の主張する如き計画的又は集団的に虐殺を行ひたる事実断じて無しと信ず。日本軍幹部が之を命じ又は之を黙認したりと謂ふ如きは甚だしく事実を誣ゆるものなり」と、大見栄を切っている。

松井大将が、南京追撃にあたって、軍紀を厳正にするように全軍に訓示を与えたことは事実である。だが、訓示では軍紀は保てなかった。彼はまた、乱れた軍紀を早急に糺そうともしなかった。彼がただの一件の虐殺に関しても命令を下したことはなかったとしても、全軍の責任は各師団長を経由して彼に帰属するのである。

彼は、おそらく、勝ち戦しか念頭になかったにちがいない。勝てば、すべての罪状は勝利者の栄光のなかに吸収され、消滅するのである。松井以下の将星が、勝利の幻影に理性を晦ませて、人類に対する罪を忘却したことは否めない。将星たちは、上海以来兵隊に悪戦苦闘をしいたから、敵国首都入城を機として、敵国人の犠牲において、タガを弛めてやることは躊躇しなかった。「訓示」は訓示にすぎない。鬱積したエネルギーの爆発は、訓示に盛られた薄弱な理想主義の比ではないことを、深刻には考えなかった。考える義務をさえ意識しなかった。 松井が云うように、兵隊が上海以来悪戦苦闘の連続で、それが敵愾心を昂ぶらせたとしても、敵愾心が直ちに、占領地区における非戦闘員にまで及ぶ鬼畜の振舞を惹起するのではない。軍隊教育や国民の一般教育に、日本の甚だしい独善・外国の蔑視、分けても中国蔑視の風潮がなければ、事態はかなり変っていたであろう。それに加えて、軍隊生活における兵隊の人間的地位の恐るべき低さがある。兵隊は「一銭五厘」である。軍馬に劣るのである。兵隊は軍馬や銃器や被服に奉仕しなければならないのである。軍馬や銃器や被服以上に扱ってもらえる兵隊というものは存在しないのである。人間として扱われない兵隊が、自分たちが打ち負かした他国人を人間として扱う可能性はきわめて乏しいのである。その兵隊が独善的な教育を施されているにおいては、なおさらである。

給養の甚だしい不充分が兵隊をさもしい根性に陥れたとしても、現地徴発が軍の方針でなく、「蒋介石給養」の獲得がさながら戦功であるかのような思想が軍になかったとすれば、集団的規模の、暴徒的様相の掠奪が多発することはなかったであろう。給養は、できなかったのではなくて、作戦を軍需動員に合せなかったのである。現地徴発が賢明な策であるかのように安直に考えられ、戦争指導課が当初に立案したような全軍需物資の半部一挙動員・作戦半年間の計画は、前記のような思想によって葬り去られた。それというのも、この戦のそもそもが喧嘩の押売りであり、性急な侵略であり、名分の立たぬところに空疎な観念的正当化を施したにすぎない無名の師だったからである。これが、すべての罪業の根源であった。

「戦争をもって戦争を養う」という思想は石原莞爾の独創にかかるものとして有名だが、実は石原の独創でも何でもない。貧困な軍国主義が、自らを破局へ導く悪魔の道とも知らずに、簡単に見出す血路なのである。どんな軍国主義者でも直ぐに思いつく。石原のように洒落た文句を使うか使わないか、戦争を長期的・段階的に見るか見ないかのちがいがあるだけである。

「日支事変」は、まさに、最低の次元で戦争をもって戦争を養おうとしたものであった。すべての無理は生き物である兵隊に皺寄せされ、そこで屈折して、逸脱した。その最も著しい例が南京であった。
*ここからは(史料に基づかない)小説描写に推移。とはいえ、実はこの作品の場合、物語構成的に南京で虐殺があろうがなかろうが問題とならない。

  • 歴史のその時点で「広大な中国大陸に分散した抵抗勢力の全面的討伐の困難さ」が明らかとなっていたにもかかわらず、一切手を打たなかった事によって日中戦争を血塗られたものにしていく軍部の怠慢。
  • そうした泥沼化を準備したという意味では完全に失敗した作戦であったのに、内地で大提灯行列大会を開催して国民を糠喜びさせた欺瞞。

映画版と異なり、そういう場面が連続的にきっちり描写されているからである。

エドガー・スノー「アジアの戦争(The Battle for Asia、1941年)」における南京虐殺描写に近い触れ方ですね。日本軍は大規模な作戦遂行に当たっては徹底した報道管制を敷くので「実際に何があったか」については割と「伝聞情報に立脚する推測」としてしか語り得ないのです。その一方で、そもそも(たとえ虐殺がなかろうと)根本的に間違った許せない作戦でした。ここまではこれまでの投稿でも述べてきた通り。

南京戦(1937年8月〜12月)

昭和12年(1937年)8月に上海塹壕網を突破した日本軍が追撃に転じ、12月までに国民党軍を中華民国首都南京まで追いやり、南京を陥落させた戦い。あくまで日本人が忘れてはならないのは、それ自体は「恥ずべき戦い」だったという事である。

  • 日本政府からの訓令はあくまで「上海塹壕網突破に成功したら中華民国と停戦協定を結べ」という内容。すなわちそれに続いた「追撃」と「南京陥落」自体がシビリアン・コントロールの箍(たが)を逸脱する現地司令部の暴走だった事実は揺るがない。

  • しかもこの時現地日本軍は「国民党軍の包囲殲滅」にも「中華民国政府の補足」にも失敗し、日中戦争の長期化と泥沼化を招いてしまう。南京脱出に成功した国民党軍と中華民国政府は漢口経由で重慶に籠城し第日本帝國が太平洋戦争に敗戦する1945年8月まで戦い抜き、大日本帝国から基礎体力を奪い続ける。

  • これだけ失態を重ねながら当時の現地日本軍司令官に与えられた罰は予備役編入のみ。これに気を良くした現地日本軍はますます増長して勝手な振る舞いに邁進していく事に。

この失態の穴埋めの為に遂行されたのが重慶無差別爆撃という事になる。

  • 1938年2月18日から1943年8月23日にかけて日本軍により断続的に218回遂行された。当時の中国側記録を元に推計すると約1万人(しかし2万〜5万の諸説がある)。市民の実に8割が損害を受けたとされる。また1938年6月5日に行われた爆撃では燃焼弾が使われ、主要防空壕の換気口を破壊し為におびただしい数の避難者がその中で死亡した(中国側の資料と推計によると1000〜3000人)。この事件の死亡数は上に含まれていない。

  • しかも当時の日本軍戦闘機の航続距離が爆撃機のそれに及ばない為に奥地の重慶まで爆撃機を掩護できず、そのため日本軍爆撃機にかなりの被害が発生している。その為に重慶爆撃以前から立案開発が進められていた一二試艦上戦闘機(後の零式戦闘機)の制式化が急がれる事に(無理な試験飛行強行でテストパイロットの死者を出している)。

  • この無差別爆撃は東京裁判においても「無差別大量殺戮を意図した非人道的行為」としてで弾劾され、東京など日本の各都市への無差別爆撃や広島・長崎への原子爆弾投下の正当性の根拠として利用される事に。

そして最悪なのは当時の現地日本軍がこうした軍事行動について国内外のマスコミの取材を完全シャットアウトし、さらに敗戦に当たって当時の資料の多くを抹殺した事。どれだけ捏造しても反証が上がってきにくいのはその為でもある。
*しばしばエドガー・スノー「アジアの戦争(The Battle for Asia、1941年)」が「南京大虐殺の第一報」として挙げられるが、実際そこに記されているのは主にこの「現地日本軍によるマスコミの取材の完全シャットアウト」への怒りであり「大虐殺の噂」を伝聞情報として記したのも「そういう噂が流れても否定できない状況を日本軍自らが産み出した」と弾劾する為だったのである。まぁ実際「南京攻略」ばかり華々しく一方的に喧伝し、肝心の戦略的目的を果たせなかった事実を隠蔽した事実は揺るがない。
188夜『中国の赤い星』エドガー・スノー|松岡正剛の千夜千冊

しかし実は「戦場と人間」原作版の驚くべき点は、さらなる全体像の俯瞰から、より深い「歴史的真実」に到達している辺りだったりします。そもそも昭和12年(1937年)に至るまでに一体何があったのでしょうか?

  • 【第一幕】戦前の財界とマスコミは大々的キャンペーンを張って「山東出兵(1927年〜1928年)」を占領に拡大するのを食い止めた。しかしながら、世界恐慌(1929年)や蒋介石の掃共戦(1930年〜1934年)による中国交易市場壊滅などの煽りを受け、次第に影響力を喪失。
    山東出兵 - Wikipedia

    http://blog-imgs-93.fc2.com/a/s/i/asiareaction/160503-2-001.png

  • 【第二幕】憲政を終わらせた二・六事件(1936年)。その後の粛軍人事によって皇道派との抗争から解放された統制派軍人や革新官僚が大躍進。もはやマスコミや財界が抑止力とはならない状況が浮き彫りとなる。
    粛軍と政治干渉
    統制派 - Wikipedia
    革新官僚 - Wikipedia

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/Planning_Board_of_Japan.JPG/250px-Planning_Board_of_Japan.JPG

  • 【第三幕】だが最も大きな変化があったのは1937年。この年を契機に大日本帝国内のパワーバランスはさらに大きく狂う。そして軍国主義化が一気に加速。
    江戸川乱歩が「大人向けの通俗小説」を発表しなくなる年。

    小津安二郎が「小市民映画(大船調松竹映画)」を発表しなくなる年。

そして「戦争と人間」原作版において「第三幕」の引き金を引いたとされるのは思わぬ事件だったりします。

http://livedoor.blogimg.jp/gontachiba/imgs/5/3/5324abef.jpghttp://images.uncyc.org/ja/thumb/5/56/Nikolai_Yezhov2.jpg/300px-Nikolai_Yezhov2.jpg

五味川純平「戦争と人間 全18巻(1965年〜1982年)」劫火の狩人3

註・スターリンの粛清

ドイツのスパイとして銃殺されたトハチェフスキーは、赤軍建軍の父とよばれ、逮捕の直前までソ連国防次官兼参謀総長の要職にあった。1935年、ソヴィエトで初めての元帥の称号を贈られた五人の将軍の一人でもあったが、事件はその二年後、1937年6月に起こっている。国家叛逆陰謀の罪で、八名の将軍が秘密裁判後即時銃殺刑を執行された事件である。この事件をきっかけに進行した赤軍内部の粛清の結果、粛清された軍人三万五千人、軍幹部七百六名中五七%にあたる四百三名が処刑、将官級の九〇%、佐官級の八〇%が追放されたという(『ノモンハン空戦記』に収録の林克也の解説他)。

共産主義の唯一つの祖国で進行する血腥い粛清劇は、当時の日本ではまたとない反共宣伝の材料であった。こと日本人の運命にかかわる事件に関しては、きびしい言論統制下にあって、〝真実〟は行間にかすかにあえいでいるような時代に、「赤露内訌事件」は大々的に書きたてられた。社会主義建設が着々進行し、国力を充実させつつある面は完全に無視し、暗黒面のみとりあげた記事は、表現そのものに誇張はあるが、現時点で読み返してみると、「事実」はほとんど歪曲されていない。捏造を必要としないほどに現実の進展そのものが(その一面だけを切り離してみれば)、地獄図をみるような陰惨さを帯びていたからといえよう。

トハチェフスキー事件の起こった昭和十二年六月の新聞の連日の記事は、信じがたい政治劇の進行をいち早く伝えている(以下『大阪毎日』縮冊版による。『 』は見出し。モスクワ、パリ、ベルリンからの同盟電、特派員電がほとんどである)。

  • 〈六月二日〉『露、前国防次官 ガマルニク氏自殺』――ガマルニク大将は五月三十一日自殺。連絡をとっていた反ソヴィエト分子との関係から離脱出来なくなり、その罪状暴露を恐れたため。

  • 〈七日〉『カラハン氏逮捕 露国外交陣恐慌』

  • 〈十一日〉『片端から死刑 露国のスパイ粛清』『罷免のト元帥 行方不明となる』――前国防人民委員部次長トハチェフスキー元帥は、五月、ヴォルガ軍管区司令官に任命されたが、六月九日の赤軍指導部大異動発表には、新たにフェレイモブ将軍がヴォルガ軍管区司令官に任命、ト元帥の名は完全に抹殺、目下行方不明のため種々臆説が流布され、英国のデーリー・メール紙は、ト元帥を首領とする反スターリン陰謀工作が進捗し、現政府幹部は重大懸念に駆られているとの風説を報道。

  • 〈十二日〉『ト元帥らの罪状 政府から公表す』――露国政府は十日午後、前国防次官トハチェフスキー元帥以下赤軍最高首脳部七将官の逮捕顛末に関し、コンミュニケを発表。トハチェフスキー、ヤキール、ウボレヴィッチ、エイデマン、コルク、フェルドマン、プリマコフ、取調べを了え、事件は露国軍事裁判所に移管された。罪名・軍規違反大逆罪、露国人民に対する背信罪、労働者、農民、赤軍に対する背任罪。前記共犯ならびにさきに自殺したガマルニクらは、ソヴィエト連邦に対して「非友誼的政策を遂行しつゝある一外国の軍部首脳と連絡」、右外国の手先となって間諜行為を働き、赤軍の実力を弱めるため破壊行為を営み、露国における地主と資本家の権力回復支援を目標として種々画策。「全被告は以上の罪状を全的に自白した」。本件審理は十一日から連邦最高裁判所特別法廷で秘密公判をもって開始、裁判所の構成は首席判事・最高判事・最高軍事裁判所長ウルリッヒ、判事・国防次官エゴロフ元帥、航空総司令アルクスニス将軍、モスクワ軍管区司令ブジョンヌイ元帥、極東軍総司令ブリュッヘル元帥、参謀総長シャポシュニコフ将軍他。ペーロフ、デュペンコ、カシリン、ゴリアチェフの諸将軍。

  • 〈十二日夕刊〉『ト元帥ら赤軍巨頭 八名悉く銃殺さる! 真に電光石火の処刑』――十一日の公判は、八被告を即日叛乱間諜罪で銃殺に処する旨判決、即時銃殺に処せられた。『赤軍にとり痛手 秦陸軍新聞班長語る』『赤軍の功労者 銃殺の八将官』〈十四日〉『ト元帥らの処刑 通諜した『外国』明かに独を指す 露政府、事件発表と同時に 西欧国境の守備強化』『処刑を公表』――露国政府は十二日、ト元帥以下八名の死刑執行を公表。国防人民委員ウォロシーロフ元帥は十三日払暁布告を発表。「内務人民委員部は長年秘密裏に赤軍内に巣食ってゐたファシスト反革命謀叛団体を剔抉した……」。『ナチスの思ふ壺 当然の自己崩壊作用と見る 挙国、露を仇敵視』(ベルリン特電)。『仏露同盟への信頼薄れる 仏紙、露の〝不信〟表明』『〈赤軍陰謀事件の真相1 布施勝治〉貴族の出身出身で武功は抜群 特異の存在ト元帥 これが悲惨な最期の原因』

  • 〈十四日夕刊〉『揺ぐ露国 要人続々左遷逮捕』『ト元帥らの処刑 スターリン独裁崩壊の端緒 〝国防を犠牲〟とトロツキー氏激語』(メキシコ・シチー十三日発同盟)――祖国を亡命流転の生活をつづけるトロツキー氏は、手塩にかけた赤軍幹部八名が一括銃殺に処されたとの報道に、かけた赤軍幹部八名が一括銃殺に処されたとの報道に、十三日夜憮然として語る。「……今回の事件はソヴィエト体制進化の結果ともいへようが露国の官僚政治が完全に全国民から遊離してしまった結果、赤軍内の幹部派は党ならびに政府内の官僚政治から分離独立しようと努力するに至り、ウォロシロフ将軍を除いた共産党政治家と赤軍首脳部との抗争が今回の事件の根拠だ、いづれにせよ露国の支配閥は自己保存のため国防を犠牲にして顧みず、ために赤軍の士気は根底から覆され、赤軍の実力は数等低下したことは蔽ひ難い事実である」。

  • 〈十五日〉『弛緩した国民に 叩き込んだ〝活〟 露国内訌事件 秦大佐の見解』〈十六日〉『恐怖の赤露 カラハン氏を始め ユ前駐日大使ら逮捕? 要人続々槍玉に上る』『八十三名を銃殺 矢継早に大量処刑』――極東方面で処刑。「いづれも某国のため間諜行為」の理由。『スターリン氏の 猜疑心を抑へよ 英紙盛んに攻撃』〈十六日夕刊〉『反革命の不平分子 暴動蜂起の形勢 赤軍幹部極東軍隊動揺を警戒』『スターリン独裁終焉の始まり』――始まり』――亡命のトロツキー氏の米国通信社員への談話。「……スターリン氏がこんどの決定をしたのは彼が自分の道具になり得るウォロシーロフ元帥に味方して、将来自己の危険な敵手となるかも知れないト元帥を裏切ったと見るべきだ……」。

  • 〈十七日〉『仏露協定は終焉 仏国各紙の痛撃』――レピュブリーク紙=ト元帥がスターリン氏の云う如くドイツ政府の間諜なれば「仏国政府はかく腐敗した露国政府の盟邦たるを得ない」。スターリン氏は仲間を抹殺することにより、仏露両国の軍事協定をも殺した。〈十七日夕刊〉『正に暗黒化の露国 赤露始って以来の 残虐極まる粛清工作 何処まで発展するか見当つかぬ モスクワ市民戦々兢々』『白露首相も自殺』『全露一斉検挙 ウクライナで数千名党籍褫奪』

  • 〈十八日〉『〈赤軍陰謀事件の真相4〉赤軍の新首脳を 労農出身で固む 悉く往年のトロツキー氏反対派』『露の信用失墜を利用 英仏伊と合作西欧協定樹立 〝待ってました〟のドイツ』

  • 〈十八日夕刊〉『トロツキー氏の通電〝民衆中心政治に帰れ〟』――十七日ソヴィエト中央執行委員会に「スターリンの政策は今や国内的にも対外的にも全く崩壊に瀕しつゝある、これを救済する道はたゞ一つソヴィエト・デモクラシーへ急激に転向し過去数次にわたる裁判を改めて批判することである。ソヴィエトがかういふ道を進むならば余はソヴィエトに対して全幅の支持を惜まぬものである」と通電した。〈十九日〉『粛清工作の犠牲 総計千百七十 白露の新聞報道』『〈赤軍陰謀事件の真相5〉戦慄〝鉄腕の持主〟エジョーフ登場 ゲ・ペ・ウに〝活〟を入れる』〈十九日夕刊〉『赤露異分子狩り』――赤軍将星処刑を端緒に露国版サレムの魔女狩りは底止するところを知らぬ有様で、今回の全国の粛清で銃殺された異分子は百名を超え、労働収容所に投げこまれた者数千名、党籍褫奪は全国各地にわたり数えきれぬ。『ゲ・ペ・ウ極東部長逮捕さる』

  • 〈二十一日〉『異分子の掃蕩で 対外策は強化 赤軍陰謀事件とわが陸軍の見解』〈二十一日夕刊〉『貧民を冷笑 それで婦人数名逮捕 露国の掃蕩工作峻烈』『〝モスクワは至極平穏〟 帰来旅客旅客ら語る』(ハルビン本社特電)。

  • 〈二十二日〉『更に重大なる 軍事公判 露国検事総長示唆』――ヴィシンスキー氏の論文「露国の敵は如何に策動するか」は、ト元帥の軍事公判を論じ、露国内に恐るべき反革命組織が存在し、外国のファシスト諜報機関等と常に連絡を保ちつつ、露国の建設工作妨害の事実が判明したとして「露国民衆は『何人をも信頼すべからず』の法則の下に交友の中から露国の敵が現はれた場合は自分も反革命運動の破壊工作の一半の責任を負ふべきものと考へるほどの責任観念を抱いて行動すべきである」と述べた。〈二十三日夕刊〉『〝犬が犬として 死んだまで〟 来朝した露国三将校語る』――二十三日ウラジオから敦賀へ入港の日露交換将校、東上の車中問答。「答(トハチェフスキー事件は)露国当局がやらねばならぬことをやったまでだ」「問 露国当局がドイツと関係してゐたといふのはつくりごとだらう、それは対内政策上ドイツを引合に出すのが都合がよかったからだとわれ〳〵は考へてゐる」「ゐる」「答 露国の政府はウソはいはぬ、元帥、大将も結局害虫だった、害虫は大衆の支持で滅ぼされる、犬が犬として死処を得たまでだ」「問 赤軍も最高地位の八将軍が害虫では心細い、列国は赤軍恐るに足らずと見くびるだらう」「では心細い、列国は赤軍恐るに足らずと見くびるだらう」「答 さうだな、赤軍の評判は落ちたといへる、しかし政府が未然にやっつけたのだから赤軍はます〳〵強化した」「問 八将軍の部下は遺憾であり、不満であり、動揺してゐるだらう」「答 冗談冗談ぢゃない、露国人は挙って彼等の銃殺を支援した、今日では動揺などない」……。

  • 〈二十五日〉『ラデック氏釈放か』――六月二日併行本部事件と革命陰謀の廉で禁錮十年に処せられたのち消息を絶っていたラデック氏に関し、ワルソーの新聞が「確実な消息」として伝えるところによれば、露国政府は「な消息」として伝えるところによれば、露国政府は「ラデック氏の法廷における証言によりトハチェフスキー元帥以下赤軍将校の罪状が暴露した事情を酌量して十月には特赦」、再び自由の身におく意向といわれる。

  • 〈二十八日夕刊〉『〝旋風中の露国〟 トハチェフスキー事件後最初の詳報 本社モスクワ特派員森正蔵手記 危い綱渡りのス政権 〝同志も信頼する勿れ〟スターリン氏の悲痛な言!』『赤軍崩壊正に一歩前 露都視察の本間少将談』 つづいて七月三日夕刊は『ブリュッヘル元帥監禁説』を報じ、『〝連続悲劇〟 ト元帥の夫人発狂し愛娘は自殺』とパリからの記事を掲載している。

「アカ」はすべての悪の代名詞であり、赤がかったと当局がみなした人間も著書も思考さえも投獄される時代の朝夕に、人々はこれらの記事を読んだわけである。ここに報じられたことは、ほとんどロシア赤軍の壊滅を意味している。

トハチェフスキー処刑の報を聞いたヒトラーは、「われわれはこれでソ連を少くとも十年間中立化することができた。この十年の間に、全世界はわが手中に帰するであろう。その時こそわれわれは、スターリンとボリシェビズムに決算をつけてやろう。最後に笑うものが笑うのだ」と語ったという(V・アレクサンドロフ『ソビエトの悲劇』)。

明治四十年の国防方針策定以来の想定敵国ロシア(林三郎『太平洋戦争陸戦概史』)赤軍の〝危機〟に、日本陸軍が無関心であり得ようはずがない。日中戦争前半の軍中央の不徹底な処理方針にも濃厚に投影しているし、トハチェフスキー事件の時期に重なるカンチャーズ事件での関東軍の強引な対ソ一撃論にも、その反応を明瞭に見出すことが出来る。翌十三年の張鼓峰事件をも含めて、ソ満国境紛争事件での関東軍の主導性に対し、ソヴィエト側の意外な譲歩や慎重さは、その国内事情を反映していたわけである。

昭和十二年六月分の『特高外事月報』に、「ソ連邦に於け於ける赤軍陰謀事件に関する左翼分子の意嚮」という報告が掲載されている。十六名の男子の感想で、姓名も明記されているが、ここでは個人の名前は特に必要ないので省略した。その多くが銃殺事件を妥当な措置と受け取っており、十名が、この事件によってスターリン政権がより強化され、崩壊するようなことはないとみている。

  • 佐賀県某(共産主義分子)「新聞紙は、ソ連邦は目下仏国と提携し居るに反しト元帥等は、独逸と通謀し之が露見に依る内訌なりと報じて居るが、現代の新聞紙は資本主義擁護の為の報導と同せらるゝを以て果して事実なるやを疑はる……」

  • 石川県某(共産主義分子)「ト元帥以下の銃殺事件は独逸が赤軍の幹部を抱込み以て赤軍と露国共産党を分離せしめせしめ之を自然崩壊に導かんとして働き掛けたるものなるが、露国共産党赤軍とは同一不可分の関係にありて斯る陰謀は成就するものにあらず、今回の処刑はスターリンが私情を滅し大義に就く信念に基くものにして此点彼の偉い所にして彼の独裁政治は益々強化するものと思ふ」

  • 石川県某(共産主義分子)「ト元帥等がスターリン政治に不満を抱き他国の援助の下に之を顛覆せんと策動したる事は事実と思はる、……現在の諸情勢より観てスターリン政権は絶対的に完全なりと考へらる」

  • 埼玉県某(共産主義分子)「今回の銃殺事件は当然の処置にして、ソヴェート治下における国民大衆が微動だもせざるはソ連政治の強化を物語る一証左である」

  • 福井県某(転向者)「受刑者対スターリン派の勢力抗争抗争に依るものでソ連国内には吾々の想像以上の暗流がある事を明に物語るもの……。如何なる国家と雖も個人的抗争に依り国政を支配せんとする暗闘は絶へざる様であるが、此点我国の如き天皇制国家の有難さをしみ〴〵感じるのである」

  • 社大党長崎支部長「有名な赤軍幹事を失ひ国内紛争を暴露した事は国防上重大な損失にして、最近独、伊両国がスペイン問題を繞り積極的行動を開始したのもソ連邦内の国内不統一を見透した結果である、今回の事件は共産主義政治の内面を暴露したもので各国に於ける人民戦線統一に支障を与へたものと思はれるが……」

  • 愛媛県某(共産主義分子)「独逸竝に日本の攪乱策の顕れであるが、世界進出を目標とするスターリン政権には尠しも動揺を来す事なく、仮に日独が此の虚を衝くと雖も大なる動揺を来す事はない」

などの感想である。

日本では、ロシア革命直後の「尼港の惨劇」などの宣伝が行き届いて、共産主義の残忍性についての先入観が既に定着している。その国民感情へ追い討ちをかけるような一連の粛清事件報道は、真偽を別として、共産主義の血なまぐさい非人間性をつよく印象づけた。治安維持法の威嚇とあいまって、革命といえば恐怖と不信を喚起される共産主義アレルギーが、民族的な体質として出来上っていったのである。

特高外事月報』に残された感想は、断片的ではあるが、独自の判断と姿勢を保ちつづけようとした人々のあったこと、その思考の一端を伝えている。しかし、事件そのものが捏造されたものであり、処刑された過半数の人々が冤罪であると想像することは不可能であった。
*そしてこの後展開した独ソ戦(1941年〜1945年)を制した事もあり、戦後日本の左翼の間ではフルシチョフスターリン批判があるまで「戦前に報じられたスターリン大粛清は、むしろ共産主義がいかに強く正しいか証明する内容」と信じられ続ける。

五味川純平は「盧溝橋事件(1937年7月7日)そのものは通常なら戦争開戦に発展する様な大事件ではなかった」と分析しています。そして、この事件が日華事変へと発展してしまった理由を「スターリンによる赤軍粛清(1937年6月)」の影響と見るのです。
盧溝橋事件 - Wikipedia

  • これでソ連方面を警戒するプライオリティが下がった」と考えた陸軍強硬派が「対支一撃論」に走る。

  • 独断専行して勝手に戦線を広げた陸軍強硬派に対して(二・二六事件当時の様な)厳しい態度で臨むのを難しくする。「赤軍粛清」を連想させ無用の反発を生んでしまう恐れがあったから。

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  • 近衛文麿首相もまた、どさくさにまぎれて国民精神総動員(1937年年9月)を提唱するなど、あえてこういう状況を利用しようとする。

それではこの年、映画版において「戦前日本における唯一の良心」と紹介された「(治安当局から)アカと呼ばれた人達」は一体どうしてたんでしょうか?
日本共産党の80年を斬る(2002年7月21日)
日本共産党の歴史と綱領を語る/不破哲三委員長(本文)

戦前昭和の日本共産党を牽引し、獄中転向した佐野学が、第一次共産党解党の最大の理由を「大衆からの孤立」と述べていたことを、共産党員でなくとも、私達はよく考える必要がある。大衆を動員できなかったことが、日本のファシズム化を止められなかった要因だったということを。

労農派の第一次検挙(1937年12月17日)

労農派の一斉検挙は、国民が南京陥落で戦勝気分に浸っている最中、昭和十二年十二月十五日、午前六時を期して全国一斉に疾風迅雷的に行なわれた。警視庁管区で百七名、その他各府県で二百余名が検挙され、山川均・大森義太郎・向坂逸郎・猪俣津南雄・鈴木茂三郎荒畑寒村・加藤勘十・黒田寿男ら学者・評論家・代議士などが含まれていて『反ファッショ人民戦線』にとっては量的にも質的にも致命的な打撃であった。

当局は一週間後に、こう発表した。

「……本年七月支那事変勃発以来この我国重大時局に際し、コミンテルンの指示せる方針と同様なる方法を以て反戦思想の流布宣伝に努め……積極的に人民戦線運動を展開すべく虎視眈々として待機しをるの状況である。……時局は極めて重大にして、これが時難克服のため挙国一致朝野挙げて邁進せねばならぬ時である、かかる際これ等一派の策動は国際的にも国内的にも極めて重大なる影響を及ぼすので……これ等の中心分子に対し国体を変革し私有財産制度を否認するの治安維持法違反被疑事件として断乎検挙取締を加へるとともに一方日本無産党並に日本労働組合全国評議会の各結社に対して結社禁止を命じて今後の活動を禁止した……コミンテルンが反ファッショ人民戦線の樹立および合法運動の擬装ならびに利用等の新運動方針を採用してから、すべての共産主義者は極力社会民主主義団体乃至は自由主義団体に潜入し、もしくはその運動を利用すべく努めてゐるので、警察の取締乃至警戒の範囲も、勢ひこれらの団体にまでおよぼして行かねばならぬ情勢となって来た……今や民主主義、自由主義等の思想は共産主義思想発生の温床となる危険性が多分にある……」

これは、検挙されずに残っている反ファシズム反戦主義者に対する明らかな脅迫であった。検挙の範囲を途方もなく拡大するぞと予告しているのである。意識的な青年たちは、しかし、当局のこの発表のずっと以前から、当局の企図を予測して神経を尖らせていたのである。
*第一次検挙の前日、昭和十二年十二月十四日は、近衛内閣の新内務大臣・海軍大将末次信正の親任式が行なわれ、全国へ翌朝の「襲撃」の密命が飛ぶころ、新内相は、初めて出席した大本営連絡会議で、中国国民政府に提示する和平条件に致命的ともいえる苛酷な加重をなしつつあった。

末次 信正(1880年〜1944年)

日本の海軍軍人、政治家。右翼的傾向の強い国家主義者で、軍人ながら政治的野心も強かった。犯し難い威厳が備わっていたとされる。

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  • 軍人としては兵達に猛訓練を強いる鬼と恐れられる一方、自ら潜水艦に乗り込んで陣頭に立つ有言実行の指揮官として将兵から強い信頼を受けていた。いわゆる海軍機関科問題でも兵科より軽視されていた機関科将兵の不満が鬱積し、ストライキや反抗の懸念が表れた際に自ら海軍機関学校を訪ね忍耐強く説得している。ある意味、日本海軍が理想の指揮官像とした指揮官像を先頭を実践しきたともいえ、その指揮ぶりは自信に溢れ部下を心服させるものであった。
    末次信正
  • ロンドン海軍軍縮会議(1979年)に参加しながら3月17日、独断で夕刊に「海軍は軍縮条約に不満がある」という海軍当局の声明を掲載し、海軍部内に対立がある事を表面化させた。未遂に終わったが4月2日にも黒潮会(海軍省記者クラブ)に不穏文書を発表しようとして海軍省に抑えられている。
    ロンドン海軍軍縮会議 - Wikipedia
  • 1931年9月に満州事変が生起し日米の緊張状態が高まると第二艦隊司令長官に就任。続いて発生した第一次上海事変に派遣されると、戦闘区域に民家があっるのを承知の上で艦砲射撃を実施。事態拡大を危惧した海軍は急遽、第三艦隊を編成して野村吉三郎を司令長官に任命して抑えに当たらせた。
    第一次上海事変 - Wikipedia
  • 1933年11月15日、国民の間にも人気がある連合艦隊司令長官に就任。歴代長官中、東郷平八郎に次ぐ人気を獲得したばかりか、海軍青年将校達もその就任を大歓迎したという。長官として夜戦を重視した猛訓練を施してその戦力を極度に向上させる一方、平沼騏一郎松岡洋右近衛文麿と交流を持ち次第に政治力を強化。国家革新を必要とする考えを持っていた近衛が新党結成を目指した際にその相談役となり、この時のアドバイスが最終的に大政翼賛会へと結実する。
    大政翼賛会 - Wikipedia
  • 陸軍では当初、荒木貞夫、真崎甚三郎ら皇道派とつながりがあったが、のちに林銑十郎と親密な関係となる。五・一五事件(1932年5月15日)を起こした海軍の青年将校達からも尊敬する人物として筆頭に挙げられている。
    *「林銑十郎」…満州事変に際して朝鮮軍司令官として中央の指示なしに朝鮮派遣軍を満州に進め「越境将軍」の異名をとった。元来は皇道派に属していたが、ニ・二六事件(1936年2月26日〜2月29日)に際して素早く統制派に鞍替えして粛軍軍事による失脚を逃れた。石原莞爾は周囲の影響を受けやすく、変わり身の早い彼の性格について「林大将なら猫にも虎にもなる。自由自在にすることができる」と評している。
    林銑十郎 - Wikipedia
  • 第1次近衛内閣で内閣参議から内務大臣に就任すると秘書官として二・二六事件後の粛軍人事で予備役に編入された山下知彦を選ぶ。治安の最高責任者たる内務大臣に末次を据える事には反対の声もあったが、近衛には末次を支援する右翼団体国粋主義者を取り込み安定した政治基盤を築く意図があったのである。
    山下知彦 - Wikipedia
    *しかし近衛や木戸幸一には末次を制御することはできなかった。日中和平を目指したトラウトマン工作を拒絶し「蒋介石を対手とせず」なる声明を出す様に要求されたり、対米、対英、対ソ強硬論や金融国営化論を展開。宮中、財界、一部軍部の不興をかこつ。
    トラウトマン和平工作 - Wikipedia
    トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問: 竹林の国から

第3次近衛内閣退後、総理候補との噂が流れる。事実、海軍省調査課長の高木惣吉や矢部貞治らが末次首班実現に動いていた。 また陸軍省軍務局の予想していた首班筆頭候補も末次であった。対米戦争となれば軍事的主役は海軍であり、内務大臣の閲歴を持つ海軍大将、枢軸派、そして日米開戦論者である末次が首班となることは蓋然性があったからである。しかし昭和天皇を始めとする宮中関係者は彼の右翼団体との繋がりを危惧しており、重臣会議で彼を推す者は一人もなく、内大臣・木戸幸一が推した東條英機が首班に指名された。末次は落胆したという。

註・「人民戦線」事件と人民戦線

本文に記した四百名に及ぶ第一次検挙(昭和十二年十二月十五日)につづいて、翌年二月一日第二次検挙が行なわれ、東京帝大教授・大内兵衛、同助教授・有沢広巳、脇村義太郎、法政大学教授・阿部勇、美濃部亮吉、南謹二、東北帝大助教授・宇野弘蔵など学園関係者二十一名、社大党岡山県議・江田三郎、同仙台市議・佐々木更三など社大党所属の十三名その他三十八名が逮捕された。この朝旅行中で不在の評論家青野季吉も、人民戦線派として同夜収監されている。新聞の解説は、現職の学園関係者関係者が「同時に斯くも多数検挙されたことは前例を見ざる事」と書き、「純真な学生への 衝動に同情 文部当局の驚き」とも書いた。学園関係者の多いところから「教授グループ事件」とも呼ばれるが、第二次検挙のもう一つの特色は、体制順応の波に完全に乗り、ファッショ化の推進力に堕しきっていた社大党所属の地方活動家に検挙の手が伸びたことであろう。
*第二次検挙の行なわれた十三年二月一日には、五・一五事件の海軍側被告三名が特に赦されて仮出所している。これも末次新内相の処置によるもの。

この検挙を、新聞は次のように報じた。「人民戦線派に第二次鉄鎚」「大森(義太郎――作者)らと連絡 検挙事情」「第三次検挙か」(『東朝』)、「新装共産党第二次大検挙 今暁全国的に疾風迅雷 東大教授らを留置」「資金網は大阪?一味の会合は東京医師会館三階の一室 証拠品は既に焼却」「労農一派の勢力拡大に努む ペンネームで時局評論執筆」(『大毎』。傍点作者)。『大阪毎日』は第一次の検挙以来「赤」の烙印を押すことになんの疑義も覚えなかったらしい。「人民戦線派」という表現すら迂遠と判断したかのようである。

翌二日朝刊には「全国・象牙の塔に 予想さるゝ大転換 労農派の参謀本部宛らの〝教授グループ〟」とある。これらの見出しの表現は、治安当局の意図するままに「事件」に彩色を施し、活字にすることで既定事実に仕上げた新聞の、無責任きわまる機能を伝えている。

第一次、第二次検挙の容疑の要点は、労農派グループが日本労働組合全国評議会(昭和九年十一月創立)、日本無産党(同十二年三月結成)等の合法組織を舞台として、ファシズム反対・人民戦線の必要を宣伝、これは共産主義共産主義インターナショナルコミンテルン)第七回大会(昭和十年七月〜八月)決定の方針を実行しようとしたものであり、したがって共産主義的活動であり、治安維持法に違反したというのである。第二次検挙で挙げられた人々は、前記労農派、無産党、全評との「協力」関係が「為にする行為」として同じく治維法違反に問われた。コミンテルンが反ファシズム統一戦線を新戦略としたのは事実であるし、この方針に沿った「日本の共産主義者への手紙」(昭和十一年二月十日付。モスクワに亡命中の野坂参三、山本懸蔵の執筆といわれる)が米国経由で若干国内へ持ちこまれ、「労働階級の統一行動と反ファシスト人民戦線を基礎とする偉大な国民運動」を指示した事実もある。しかし、野坂たちの指令を実行すべき日本共産党は、相次ぐ弾圧で壊滅状態にあった(コミンテルン第七回大会で、野坂は「現在日本共産党は主要工場、地方や郡に党機関の存在しない所は一ヵ所もない」と報告した――山本勝之助・有田満穂『日本共産主義運動史』――というが)。フランスやスペインの人民戦線を論じ、統一戦線の意義を説くことは、昭和十一、二年の論壇の一風潮でさえあったが、現実には、日本の人民戦線・統一戦線は一日として存在しはしなかったのである。

「人民戦線」事件で検挙された人々の多くが、社会での活動やジャーナリズムへの意見発表に反軍・反戦・反体制的思考を反映させていたとしても、それらはいずれも苛酷この上ない治安立法のもとで合法と判定され、公民権を得ていたものばかりである。基督者としての「支那事変に関しての根本的反省」を書いた矢内原忠雄の「国家の理想」(『中央公論』昭和十二年九月号)は、全頁削除の処分を受け、そのため、矢内原自身は十二月二日、東京帝大経済学部教授の職を去らねばならないような時代が到来していたのである。

この当時「合法的」であることが、いかにきびしく限定され、辛うじて許容される範囲を意味したか、考えられる必要がある。その合法性すら、ファシズム反対、人民戦線の提唱即コミンテルンの指令の実践と当局がみなせば、たちどころに崩壊し、治維法の対象へと容易にねじまげられ奪われる儚ない〝自由〟でしかなかった。当時、コミンテルンの決定は、逆説的にいえば、日本の治安たちどころに崩壊し、治維法の対象へと容易にねじまげられ奪われる儚ない〝自由〟でしかなかった。

この事件で標的となった労農派や無産党、全評の実態がどの程度のものであったかは、治安当局の意図を改めて確認する上で手がかりとなり得るであろう。

「労農派」の実情

第一次検挙の荒畑寒村によれば、検挙されるような覚えは全然なく「実際怪訝にたえなかった」。既に廃刊の合法的刊行物『労農』や、コミンテルンの決議を云々する検挙理由は、「この検挙の捏造をみずから暴露」している、と荒畑は考える。なぜなら『労農』の無産政党合同論、無産階級戦線統一論の主張は、昭和二年の創刊以来一貫したものであった。彼は警察の留置場の大内兵衛に、自分が検挙されたのと同じくらい驚き呆れたと書いている(『寒村自伝』下巻)。

労農派は第一次日本共産党創立に参与した山川均、堺利彦荒畑寒村を中心につくられ、マルクス主義による社会運動の展開を企図していた。しかし、荒畑等は理論的対立から労農派を形成し、日本共産党を除名になり、解党派として仇敵視される存在であったこと、日本共産党はもとよりコミンテルンに対しても反対の立場を持してきた歴史を考えれば、荒畑寒村の述懐はごく当然のものである。雑誌『労農』は昭和二年創刊、のち『前進』と誌名を変え、これも昭和八年七月に廃刊になった。いわゆる「労農派」はこれをもって自然消滅したと鈴木茂三郎は書いているが(『ある社会主義者の半生』)、労農派のメンバーは、それから四年半後に検挙されたわけである。

加藤勘十を執行委員長とする「日本労働組合全国評議会」(全評)は、労組間の戦線統一を唱えて創立され、翌十年十一月第二回大会で「ファッショ勢力竝に其の思想と対立する一切の労働者農民小市民インテリを統合し、之を反ファッショ政治同盟に結集せんことを期す」と決議した。十二年十二月二十二日付で日本無産党とともに結社禁止を命ぜられ解消するまで、この大会決議を行なった以上の活動をしてはいない。

「日本無産党」の実情

日本無産党は初め労農無産協議会(十一年四月、加藤勘十、鈴木茂三郎らにより結成)として反ファッショ人民戦線結成を社会大衆党へ働きかけたが、社大党幹部はこれを「我国の社会勢力を無視せる非現実的闘争」であると拒否したため、十二年三月、日本無産党として発足したものである。結党直後の昭和十二年四月三十日、第二十回衆議院選挙があり、五名の公認候補者を立てたが、当選は加藤勘十のみ、次点・北農所属弁護士玉井潤次等二名、鈴木茂三郎は落選、総得票数七八、二七七の成績であった。反ファッショ人民戦線結成を標榜しての新党結成でありながら、選挙運動は、打倒ブルジョア政党、ファッショ反対、議会擁護、大衆課税反対をスローガンとしてたたかった。『特高外事月報』(昭和十二年五月分)は「言論戦に於ては軍民離間の舌禍を怖れ厖大軍事予算反対の声を潜め……」と観察している。たたかうべき相手との対決の回避にほかならないが、合法政党、合法的活動に執着する場合の当然の帰結、明らかな限界といえよう。

支那事変の発生後は、党としての態度表明を避けつづけた。十月九日に至り、党首脳(加藤勘十、高津正道、山花秀雄など)と、さきの選挙で次点となった玉井潤次は、支那事変に対する党の態度決定の可否を長時間論じあった。その会談内容が『特高外事月報』(昭和十二年十月分)にある。

「玉井 党は時局に対し態度を明確にし協力すべきものと考へるが如何。
 本部 ……吾党が今になって態度を明瞭にすると言ふ様な事は却って一般から疑を受ける。
 玉井 此の儘で進まんとすれば吾党は弾圧を受けるであらう。
 本部 吾々は積極的に反対して居るのではない、ソヴエート等との関係も無く個人個人も何等不都合はない、弾圧される様な事はないと信じて居る。(以下略)」

これが「人民戦線」事件の対象となった日本無産党の偽りのない姿なのである。

無産党の停滞と逡巡を、内務当局は、事変下、急速に変貌をとげた下部組織の動向の影響とみている。早くも軍需景気が到来しつつあり、労働者や農民の意識に反映せずにはいなかったのである。

「教授グループ」の実情

「労農派」に対する財政的援助・理論的指導などを理由に治維法違反に問われた教授グループについては、美濃部亮吉が若干の諧謔味をこめて表現した「東大の落武者どもの社交クラブ」(『苦悶するデモクラシー』)的性格の研究研究活動、交友があったに過ぎない。

東大経済学部教授中、少数派に属したため、助教授あるいは教授に昇格する見込み皆無の状況のもとで読書会や研究会をもったのが発端で、東大経済学部所属の、または同学部を追われた学究たちが学外で研究会をもった。「アカデミズムを追われたわれわれが、ジャーナリズムで活躍したいという野心」もこの傾向を助長したにちがいないと美濃部は書いている。

やがて、学部内少数派の大内兵衛を指導者に迎え、読書会を活溌に行なったのは昭和六年ごろであったという。共同研究の結果を出版し、雑誌に発表するなど、新進気鋭の経済学者をジャーナリズムがほうっておくわけはない。こうして得た原稿料をさいて部屋をもち、さらに活溌にジャーナリズムで活躍しようとして借りた事務所が、六年後には秘密のアジトとして扱われるのだが、集まった人々が、程度の差はあれ、マルキシズムに傾斜していたとはいえ、経済を論じ、時事問題や政治問題を論じるとともに、映画や、文学、美術、時には恋愛が論じられもする「クラブ」に過ぎなかった。

労農派として第一次に挙げられた大森義太郎、向坂逸郎(もと東大助教授及び助手)は、客員のような存在で、たまに訪れ、雑談に加わる程度で、のちに教授グループは戦争下に全員無罪の判決をかちとっていることからも明らかなように、治安維持法違反に該当する事実など存在しなかったのである。教授グループ検挙については、東大経済学部教授土方成美等による少数派追放の策動が大きな要因を占めていたであろうことも無視できない。学究の名に値しない似非学者が国家権力と野合したのである。

報道すらされなかった無数の検挙

この事件の前後に、孤立した共産主義者や同調者はもとより、「世界文化」グループや、単なる読書会(R・S)のメンバーに至る有名無名無数の人々の検挙と起訴が行なわれている。そのほとんどが一行も新聞に報道されず、二度にわたる「人民戦線」事件検挙だけが詳細かつ誇大に報じられたことは、特異な点である。極端な表現をすれば、もっとも危険性の少ない、合法性を堅持しているグループを治安維持法違反に問い、内務省発表・新聞報道で「曝し首」にし、みせしめにしたともいえる。

学術研究を実体とし、最後まで合法的な反ファシズムの進歩的団体として生残るべく、綿密な注意―研究会には常に警官の臨検を求めるような―を払ってきた唯物論研究会(『昭和思想史への証言』古在由重談)は、「人民戦線」第二次検挙後間もない十三年二月十一日、昭和七年十月結成以来の唯研の名を綜合雑誌『学芸』の発行所に改変した。唯研は、講座派に属する戸坂潤、岡邦雄、永田広志、服部之総三木清羽仁五郎などの学者、評論家を擁し、月刊『唯物論研究』(七年十一月〜十三年六月)や『唯物論全書』(三笠書房刊)を発表、いずれも合法的な出版物である。労農派教授グループの検挙に形勢の急変を感じ、『唯物論全書』を『三笠全書』と改めるなど防戦の処置を講じたが、十三年十一月二十九日に戸坂、岡、服部など、主要メンバーの一斉検挙により壊滅させられている。

特高外事月報』の記録は、共産主義的不穏分子―反戦的落書きのたぐいをも含む―はもとより、僧侶、牧師など宗教関係者の些細な言動をとらえての検挙から、夫の戦死を嘆く未亡人の手紙を反戦的通信として注意するなど、飽くことなき〝人間狩り〟の姿を彷彿させる。このあとに来るのは「意志」を有罪とし(『寒村自伝』)、「潜在意識」をも罰する(和田洋一『灰色のユーモア』)、無法と狂気の君臨する時代である。これが、支那事変開始後近々半年足らずの間に日本を蔽った「新しい時代」なのであった。

各個撃破されるしかなかった「社会の良質な分子」達

以上がいわゆる「人民戦線」事件の実態である。所属する政党の指導者たちの日和見や裏切りをよそに、「団結! 統一行動!」を叫んで共産主義者バリケードに合流し、流血をおそれず、政府の武装警官隊と対決し、「自由と労働と平和のための人民戦線」を下からつくりあげて行った「労働者大衆」(トレーズ『人民戦線とフランス共産党』)は日本には存在せず、迫りくる重大破局を前に、味方となり得る人々の力の結集を呼びかけ、献身的に勇敢にたたかう政治組織もまた存在しなかった。
フランス人民戦線

戦争の覇道を驀進する祖国の進路に疑問をもち、批判をし、阻止したいと願った社会の良質な分子は、ひとつの力として結集することなく、互いに孤立したままで粉砕された。

当時の日本になぜ「人民戦線」が成立し得なかったか、という問題は、現在の政治情勢と相関連するものをもつ。

第七回コミンテルン大会の文献を入手した際、古在由重は「もうこういう時局になった以上は、そういう(ディミトロフが提唱するような―作者)統一的な大規模な政治活動はできない」、いわば自然発生的に全国にグループが作られるべきで「それ以外にもはや道はない」と考え、支那事変下の京浜地帯で研究会のチューターをつとめ、そのグループ十数人は工場でサボタージュなどをやるまでに育っていったという(前掲書古在談。『日本共産主義運動史』によればこの集いは当局から非合法な「京浜共産主義共産主義グループ」とみなされ、昭和十二年秋の結成から一年余の十三年九月二十七日全員検挙)。その他類似のいくつかの「抵抗」も、相互の連繋を企図するいとまもなく、潰滅している。
*ゲオルギ・ディミトロフ(Георги Димитров、1882年〜1949年)…ブルガシア出身の共産主義者。亡命中ベルリンでドイツ国会議事堂放火事件(1933年)に巻き込まれたりしている。コミンテルン書記長(任期1935年〜1943年)として第7回大会(1935年)において反ファシズム統一戦線戦術を提起し、採択される。しかしその後、独ソ不可侵条約締結(1939年8月23日)により、スターリンの指示で棚上げされてしまう。この欺瞞によってアメリカ共産党は致命的打撃を受けた。

問題は、ここまで追いつめられる以前に、支配権力に対する反対勢力の多少なりと効果のある攻撃が組織されなかった点である。ここに、日本の解放運動の根本的な弱点・欠陥があり、ひいては、日本人全体の政治に対する意識の疾患があったというべきであろう。

ディミトロフは、コミンテルン第七回大会の報告中、ファシストが政権を握っている国々での統一戦線樹立について述べたなかで、大衆的なファシスト組織への工作方法を「トロイの木馬」の寓意に託して語っている。「トロイはその難攻不落の城壁のために、攻撃軍にとっては近寄れなかった。そして攻撃軍が有名なトロイの木馬のおかげで敵陣営の心臓部に侵入するまでは、多くの犠牲をはらっても、勝利を得ることができなかったのである。われわれ革命的労働者は、……わがファシストの敵にも、同じ戦術を使うのを遠慮する必要はないと、私は思う」(社会書房版)。彼によれば、この戦術を理解できず、この解決方法を屈辱的とみなす者は、高潔な同志ではあっても空論家であり、革命家ではない。
*当時の大日本帝国臣民が熱狂的なまでに回帰を望んだのは、第一次世界大戦特需によって経済が急成長した1910年代後半だったのかもしれない。こうした展開から「(インテリ=ブルジョワ階層出身者中心の)社会の良質な分子」達は、完全に置き去りにされていたとも。

しかし、「トロイの木馬」は、日本においては、ついに一度も敵の心臓部へ送りこまれたことはなかった。反権力権力的な人々個人々々が、強いていえば自ら小さな「トロイの木馬」たらんと志しつつ、ファシズム体制下で個々バラバラに吸収あるいは消滅させられたのである。

コミンテルンは、昭和十二年七月下旬「日本共産党に対する反戦運動の指令」を発し、日本勤労者間に支那侵略戦争反対の広汎な運動を起こすべく、「該運動には狭義の共産党的性質を附与するの必要なく……」と指示した(『特高外事月報』十二年八月分)。この指令がもっと早く出され徹底されたなら、日本にも不充分ながら(そして結果的には敗れたとしても)統一戦線の歴史が残されたかも知れない。日中戦争がまさに拡大しようとし、統一戦線の推進力たり得る諸勢力や階級政党が姿を没し去った時点では、もはやなんの価値も持ち得なかった。

註・社大党のファッショ化 

社会大衆党は、昭和七年七月、全国労農大衆党社会民衆党の合同により結成され、中央執行委員長安部磯雄、長・安部磯雄、書記長・麻生久、発足時の綱領は「労働者・農民・一般勤労大衆の生活擁護」、「資本主義の打破、無産階級の解放」である。 

  • 二・二六事件直前の第十九回衆議院選挙に初出馬し、十八の議席を得た。

  • 翌十二年四月の第二十回総選挙には、社大党は全国六十二区に六十六名の候補を立て、三十七名当選。民政党の百七十九議席、政友会の百七十五議席との懸隔は甚しいが、ともかく第三党へ進出した。最高点当選十九名、東京第六区から出た鈴木文治は、全国最高の三九、九四九票を獲得している。次点で落選した者八名、供託金没収はわずかに一名という成績である。社大党の総得票数は約百万(九二八、九三四票)に達した。(有効投票総数一〇、二〇三、六八六)。 

総選挙にひきつづき、地方選挙においても、社大党は目立って進出。 

  • 京都市会議員選挙(五月二十一日)――候補者十一名(うち非公認二名)、当選十名(公認の九名は全員当選。最高点二名)。民政党につぎ第二党。

  • 神戸市会議員選挙(五月二十二日)――公認候補十名中八名当選、うち四名は最高点。八名当選、うち四名は最高点。

  • 大阪市会議員選挙(六月一日)――候補者二十六名(うち非公認一)、当選二十一名(改選前の議席数五)。第二党となる(『特高外事月報』昭和十二年五月、六月分による)。

  • 「今や(社大)党は意気軒昂たるものあり」と『特高外事月報』にある。延々八年間に及ぶ戦火の発端が迫りつつあることも知らず、人々にもしばしの解放感に心を充す時間があったのである。

支那事変下、非常時局を口実に衆議院の解散も選挙も行なわれず、次の「選挙」は昭和十七年の東条内閣による「翼賛選挙」である。これはもはや選挙ではなかった。したがって、十二年四月の衆議院選挙は、極度に制約された選挙とはいえ、ともかく民が政治に対する公けの意思表明をした最後のものとなって敗戦に至っている。社大党に託された百万人の願いを、「意気軒昂たる」幹部たちはどう受けとめ、答えたか。

  • 蘆溝橋での小紛争が現地解決をみつつあった七月十一日夜、近衛首相が各界代表を招いて協力を要請した過早な政治措置については本著作集第十六巻劫火の狩人第二部註四三で触れた。

  • 社大党の安部磯雄委員長も、招待された一人である。彼は席上「事態茲に到れば、挙国一致は必然である。我党も亦挙国一致に参加する」と挨拶した。事態茲に到る――事態の経過、実情の検討を省略し、「重大事態」がきわまった如くに互いに競合して事態に追随しあう危険な言葉!

  • 安部委員長も軍部という「野獣に生肉を投じた」(石射猪太郎)一人であった。十一日夜の社大党幹部会議は、安部から報告を聞いて、翌十二日の中央執行委員会でこれを承認した。 社大党幹部たちは、国家権力に対して一矢を報いるどころか、どころか、易々として「挙国一致」戦争加担の路線へ横辷りしてしまった。

  • 一方、反戦的・左翼的傾向顕著な下部組織対策を迫られた党中央執行委員会は、十一日夜の安部委員長報告を骨子として、「北支問題に就いて特に全党員の自重を要望す」(七月十三日付)と表明、「軽挙妄動」を戒めるとともに、党本部の方針に反するような地方組織、個人は、徹底的に除名する方針を秘かに決定した。

  • 前記「全党員」への要望の文中には、党は「所定の方針たる『広義国防』の見地に立ち」、資本家階級の軍需工業利潤の独占を排除、「偽装挙国一致に非ざる真の国民全体の挙国一致を要求する」とある。挙国一致して何事をなそうというのか。「我等は祖国防衛の為めに協力することことに於いて何人にも負けざるもの……」と自負しているが、何から祖国を防衛するのか。社大党の政治生命にかかわる新事態の分析と判断は欠落してしまった。

  • さらに九月三十日、国民精神総動員第一回実行委員会に、社大党顧問の松岡駒吉は、日本労働組合会議を代表して出席、安部委員長は、ラジオを通じ、国家非常に際し、時難克服のために労働者大衆の積極的協力を要望している。

崩壊現象には限度がなかった。全日本労働総同盟(会長・松岡駒吉、副会長・西尾末広)全国大会は、十月十八日、「我等は今次事変中の労資紛争を挙げて平和と道義の手段に訴へて解決し、進んで全産業に亙り同盟罷業の絶滅を期す」と宣言したのである。

  • 総同盟は社大党の支持団体で、安部磯雄、鈴木文治など党の長老が顧問に名を列ねている。麻生書記長は大会劈頭「……戦争は惨めなものであるけれ共国家存立の為めには之れも又為さなくてはならぬ。戦争も亦一つの大きな社会問題であると共に……此難関を突破して行く処に民族進化の好機があって飛躍の一段階があり、意義深いものがある。総同盟に於ても会長は率先して此非常時局に適合した新しき方針を樹てられ……」と祝辞を述べた。

  • 社大党自身は十月十九日、「戦時体制遂行に関し政府激励決議」を行なった。「今次支那事変は我国にとって未曾有なる国難である。皇軍の将兵は、今や、全支に於て非常なる苦難と闘ひつゝ、抗日侮日勢力を掃蕩し、極東平和建設の聖戦を進めつつある。而も対支問題の後に対ソ、対英問題等の難関が控へてゐる、日本民族が極東に於けるこの大業を成就し、その民族的使命を達成せんが為には真に挙国一致、全国国民大衆の全力的協力に俟たねばならぬ。政府は現下我国が当面しつゝある重大なる時局に鑑み、勇断以て庶政に必要なる改革を断行し、全国民の真の協力下に戦時体制を遂行されん事を要望す。(以下略)」。この激励文は、麻生久、三宅正一、河野密、浅沼稲次郎、亀井貫一郎、片山哲が、指名によって首相を訪問、伝達することを決めた。

  • 同日、「英米労働団日本品排斥に対する反対通電」も議決されている。「支那の共産化及殖民化を防衛し、極東平和を確立せんとする日本民族の聖戦」に対し、日本品排斥は、「労働者階級の素志たる世界平和の確立に支障あり……、我党は日本の全勤労大衆を代表し、貴団体の日本品排斥の決議に絶対反対し、貴団体の反省を要求する」という日本軍部が喜びそうな内容である。

華北から上海へと戦火拡大の事態に対し、世界各国の労働陣営は、日貨ボイコットによる制裁を推進し、また、日本向け軍需物資の積出しに抗議する港湾労働者のストライキも拡がりつつあった。中国の共産化植民化を防ぐ〝聖戦〟などという恥知らずな虚言が通用するほど世界は甘くはない。社大党は日本の勤労大衆の代表たることを騙って、実は侵略者の代弁をなし、同胞を戦争の消耗品としてファシズムに売り渡す役割を果しはじめたのである。

  • 十一月十五日の全国大会は、昭和七年以来の綱領を捨て去った。「一、吾党は国体の本義に基き日本国民の進歩発達を図り以て人類文化の向上を期す。 一、吾党は勤労大衆を代表して資本主義を改革し以て産業の計画化と国民生活の安定を期す」これが新しい綱領である。「軍国の秋酣にして、国をあげて殉忠の精神に燃ゆる時、……我等また報公の志を新にし、外は皇軍将兵の武勲に酬ひ、内は銃後国民の請託に答へんとす」 という文章で始まる「大会宣言」は、「我が党十余年の苦節は、漸く認められて議会の第三党となるに至った。然し乍ら、党の掲ぐる高遠の理想よりすれば、今日の状態状態は未だその序曲に過ぎない」と述べ、当面のスローガン「建設的言論の尊重! 真正なる挙国一致の達成! 銃後国民生活の安定! 資本主義の改革!」で結ばれている。

  • 十余年の苦節とはいい気なものである。社大党幹部を増長させ、軍国の秋を謳歌させるために人々は投票したのではなかった。投票の日から、やっと半年しかたっていないのである。

「国体の本義に基き」などという、一、二年前まで狂信的な右翼の切札であったものを党の綱領に掲げる社大党への非難が、このあとに行なわれた地方選挙にわずかながら反映されている。

  • 十一月二十八日、社大党の皇軍派遣慰問団出発の日は、東京旧市域十二区の区会議員選挙投票日でもあった。社大党は四十一名(うち非公認四名)を立てたが、当選はわずか十名に過ぎなかった。

  • 日本無産党も四名の候補者全員落選の惨敗で、『特高外事月報』は成績極めて不良の原因は「時局の影響に因るものゝ如し」と記している。それも事実であろうが、社大党に関しては、わずか半年間の無節操な豹変に対する批判が影響していたはずである。

社大党には、結成当初から親軍的体質がつきまとっていた。

  • 昭和九年「たたかひは創造の父、文化の母」の文句で知られる陸軍省パンフレットに、社大党幹部は賛意を表明したが、麻生書記長は、その理由を、日本の国情は「資本主義打倒の社会改革において、軍隊と無産階級との合理的結合を必然ならしめている」と党機関誌に発表発表している。

  • 寄合い世帯というべき党組成の事情をひきずって、党幹部間の理論闘争は曖昧に終始し、労働争議や小作争議急増の社会情勢に敏感に対応しつつ党内の矛盾を陰蔽してきたが、華北で戦端が開かれると忽ち親軍的・国家主義的傾向が主流を占め、そのファッショ的傾向をかくそうともしなくなったのである。

  • こういう指導部の病巣を下部大衆の手によって剔抉し得なかったところに、昭和初期の労働運動の限界があるが、その後、議事堂の内外で社大党幹部が演じたファシズムの尖兵の役割、〝聖戦〟遂行への業績を考えると、階級闘争の指導者たちが階級の立場を離れてしまった責任の比重がやはり大きい。

社大党幹部が、治安当局に対して、反軍・反戦的人物を売り渡したという個々の具体例は証明されてはいない。

  • しかし、社大党の地方議員や下部活動家を含む「人民戦線」検挙は、社大党の恥知らずな変質がなければ、あのようには行なわれなかったであろう。ファシズムのブレーキとなるべきものが、逆にファッショ化を促進したのだ。

  • 労働組合の完全武装解除にはじまり、挙国一致・国家総動員の戦時体制への転換が、加速度的にかつ抵抗もなく行なわれたのは、社大党の「功績」に負うところ大である。社大党に未来を託した人々の錯誤を嗤うことはできない。

十三年十一月、社大党全国大会は「階級闘争を通じて、資本主義を改革せんとする社会運動の過去の理論は揚棄され、国家及び民族の生成発展が、資本主義の改革を、その中に含まねばならぬという全体主義の指導理論が、これにとって代らねばならぬ」と表明した。社大党は公然とファシズムの旗幟を掲げ、国粋的な東方会との合同・新党結成(中絶)や、〝反軍〟的演説を行なった民政党斎藤隆夫除名(十五年三月七日)に反対した片山哲松岡駒吉等を除名するなどの話題を投じつつ、新体制運動に逸早く便乗、十五年七月六日解党し、大政翼賛会へ吸収されていったのである。

あれ? 「日本共産党の正史」と全く異なる景色が…
*そもそも「(日本共産党の大元となった)講座派社会主義者」はコミンテルンの指示で天皇制打倒を標榜したせいで、とっくの昔に摘発され、壊滅していた。
日本共産党の歴史と綱領を語る/不破哲三委員長(本文)
日本共産党の80年を斬る(2002年7月21日)
 

まさにこの辺りの誤魔化しこそが「(史料に拠らない)新たな真実の歴史観の創造」の出発点だったのかもしれません。以降の流れは、まとめるとこんな感じ。

  • 「戦争と人間(1965年〜1982年)」は、原作からして「国民党と中国共産党が人民戦線を形成した一つの中国が成立した」という立場に立つ。しかもその割に八路軍の活躍ばかり描いて国民党軍の活躍を描かない。そのせいで「日中戦争の主役はあくまで八路軍であり、国民党軍は何もしなかった」印象を持ちやすい。
    *自らも従軍体験があるだけあって「当時の軍人心理」や「治安当局からアカと呼ばれた人々」についてのディティールはかなり精緻で説得力がある。

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  • ソ連では、スターリン死去(1953年)とそれに続いたスターリン批判(第1回1956年、第2回1961年)、1960年代に急激に進行した科学的マルクス主義の形骸化などを背景として新たなる愛国心の拠り所を必要とする様になった。ここで白羽の矢が立ったのが二度の祖国防衛戦争(対ナポレオン戦争、対ナチスドイツ戦争)で、「戦争と平和(Война и мир、War and Peace 、1967年)」「ワーテルロー(Waterloo、1970年)」「ヨーロッパの解放(Освобождение、1970年〜1973年)」といった国策的スペクタル史劇が次々と産み落とされ、ソ連における国民意識高揚に大いに役立った。
    *こうした流れと「東宝8.15シリーズ(1967年〜1972年)」に対する松竹映画の対抗意識が映画「戦争と人間三部作(1970年〜1973年)」を生み出したとも。
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  • 映画「戦争と人間 第3部完結編(1973年)」は完全に「日中戦争の主役はあくまで八路軍であり、国民党軍は何もしなかった」という設定で制作されており、さらに「八路軍は日本軍に対して戦えば無敵」「良心的日本人は次々と大日本帝国を見捨てて中国側に投稿」といったオリジナル要素まで詰め込まれている。
    *ちなみに原作における八路軍の強さは「広大な領域に土地勘があって神出鬼没」「現地住民の懐柔に長け、彼らの耳目を通じて日本軍の動きを掌握」といったゲリラ的内容。ところが映画における八路軍は「精神主義でボルト・アクション銃しか装備してない旧式軍隊」の日本人を無限に弾が尽きない連射ライフルの乱射で一方的に殺戮する。ソ連軍も同様で、まるで中共ソ連のの合作プロパガンダ映画みたいな展開に。

  • 映画「戦争と人間 第3部完結編(1973年)」公開と時期を同じくして日本のリベラル層は中沢啓治はだしのゲン(1973年〜1985年)」 を「正しい歴史観」として受容する様になっていく。
    *どうやらこの時期に「歴史的正確さより情緒に訴える力」みたいなロマン主義的思考様式が広まったらしいのである。

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  • こうした流れにつられる様に中国共産党も1976年に毛沢東が死去し、四人組(江青張春橋姚文元王洪文)が逮捕されると「(実際には参加してない)対日戦争を愛国心の拠り所とする」方向に舵を切った。

    第11の論拠、中国共産党の記録にもない

    1958年版の『中学歴史教師指導要領』の中の「中学歴史大事年表」の1937年の欄には、ただ単に「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」とあるのみで、一文字たりとも「南京大虐殺」の文字はないと書いている。この状況は1975年版の教科書『新編中国史』の「歴史年表」まで続くという。

    ちなみに、毛沢東が逝去したのは1976年。ようやく中学の歴史教科書に「南京大虐殺」という文字が初めて出てくるのは1979年になってからとのことだ。

    世紀末抗日伝説 | 別冊戦争映画観戦記

    中共では、1日中どこかのチャンネルで必ず抗日ドラマや映画が放送されており、当然その中に登場する日本兵は鬼畜のような極悪人として描かれる一方で、中国共産党八路軍は無敵の戦闘力を持ち、卑劣な日本軍を懲らしめる正義の味方として描かれています。そしてここ最近、日中戦争をテーマとする抗日テレビドラマの量産が一層活気を呈しているそうです。昨年2012年のデータによると、中国全土のテレビ各局で放送されたテレビドラマは200本以上で、その内70本以上が日本軍との戦争や日本人スパイの暗躍がテーマのドラマだったそうです。

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    上海から南南西に約380キロ離れた浙江省東陽県横店鎮に、アジア最大の映画スタジオと言われる〝横店影視城〟・・・俗に〝チャイナ・ハリウッド〟と呼ばれる・・・があるそうです。施設総面積は約496千平方メートル。中国最大の屋内スタジオを含む13個ものスタジオがあり、周辺にはホテルやレストランも立ち並ぶ今や一大観光地。1996年に「阿片戦争」という作品が製作されて以降、現在までに1000作品以上の映画やドラマが制作されています。元々は古代~近世までの中国史劇を舞台にした作品が主に製作されており、セットもそれに合わせた建物がメインだったのですが、最近では専ら抗日作品専門となり日中戦争当時の街並みが再現され、2013年1月末現在9本の抗日ドラマが撮影中らしいですな。

    ところで最近の抗日ドラマの傾向は、全く史実を無視した荒唐無稽化が進んでおるそうです。年に何本も抗日をネタにしたドラマを撮影している訳ですから当然ネタも切れます。そしていつの間にか従来型の正統派抗日ドラマは姿を消し、遂に〝ネオ抗日ドラマ〟が登場!!!!!

    もはや抗日を通り越して武侠小説映画の世界・・・中共のネット住民達もこれらを総称して〝世紀末抗日伝説〟などと呼んでるとか・・・そうでなくともお寺の尼さんが抗日ゲリラ部隊で戦ったり、抗日英雄と日本政府高官の娘が恋に落ちたり、美女だらけの秘密暗殺団が日本軍将校の命を狙ったり・・・など、今や日中戦争を舞台にしただけの大衆アクション娯楽ドラマと成り果てております・・・。

    こうした抗日ドラマが増えた原因には、もちろん中共政府が反日政策のひとつとして奨励した事・・・日中戦争を題材にしていれば、当局の厳しい検閲も通り易い・・・現代中国の人々の生活を描くと、格差や政治腐敗等社会問題を避けて通れず、当局から発禁処分になる恐れがある・・・という番組制作側の事情の他に、視聴者層の高齢化もある様です。抗日ドラマは特に高齢男性に人気があり、また抗日ドラマは他のジャンルのドラマと比べてストーリーが書き易く、日本軍を悪役にさえしていれば、どんな題材のドラマにも応用出来るからだそうです。お陰で日本兵役を演じるエキストラ俳優は天手古舞いの忙しさ。ある日本兵役専門の俳優は、人相が悪いという理由だけで日本兵役に選ばれ、一日で別々のドラマで計8回も殺されました。彼の現在の夢は〝一度でいいから八路軍兵士になって日本兵を殺したい〟だとか・・・

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    そしてついには八路軍兵士に扮して日本兵と戦う参加型抗日テーマパークが建設される展開に。中国共産党八路軍の拠点があった山西省武郷県太行山に2011年に予算5億元(約63億円)を投じて開園した〝武郷県八路軍文化園〟・・・週末には家族連れも含め1日2000人以上が訪れているそうです。園内では、日本兵役俳優により日本軍の悪逆非道なパフォーマンスが演じられ日本軍への憎悪が煽られた後、入場者は八路軍の軍服を着て抗日戦士に変身し、レーザー式モデルガンを手にトロッコに乗ったり、自ら塹壕や街並みを走り回り、日本兵を狙い撃って楽しむそうです。さらには日中戦争時の軍服や兵器の展示博物館も・・・(しかし展示品の多くは本物ではなく抗日映画やドラマで使用された衣装や大・小道具)。入場料は1人90元(約1250円)。60元の追加料金でゲリラ遊撃戦体験も・・・地雷戦や地下トンネルでの戦闘など、十数種もの戦法を体感する事が出来るとか。施設の運営は、武郷県政府当局が担当しており、また中共政府から〝愛国教育基地〟にも指定され、学生らも訪れる「八路軍太行記念館」も近接していて、共産党革命の精神を疑似体験出来る施設と説明されていました。もはや世も末ですぞ。
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    *こうした流れに便乗して中国ネット上では憤青諸君が「一刻も早く日本に上陸して、全日本人を略奪し尽くし、強姦し尽くし、殺戮し尽くしてぇ。日本の自衛隊も警察も中国人の手にかかったら赤子同然。一刻も早く絶滅させてやるのが正しい歴史観に従った国際正義ってもんだろ?」と息巻く展開に。

    流石に「正しい歴史をしっかり描け」とクレームが入った模様。ところで、ここでいう「正しい歴史」って何?

皮肉にも「抗日映画の暴走」によって中国の憤青諸君もやっと「日本軍を見つけ次第片っ端から虫ケラの様に駆逐してきた無敵の八路軍」が歴史的真実でなかった事に気づいた模様。かえってグッジョブだった可能性すらある?

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