諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「臣民」の歴史④ 【年表】近代日本における「人生の物語」の形成【小津安二郎】【野口英世】【青い鳥】【赤い鳥】

日本語における最大の欠陥、それはFreedom(放置要求)とLiberty(制限解除要求)を同じ「自由」という言葉に翻訳していっしょくたにしてしまった事かもしれません。個々のそれは表裏一体の関係にあり、複雑な因果関係で結ばれていて、しっかり考えて構成しないと「自由に生きる」という目的が達成出来ないにも関わらずです。

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近代日本における「人生の物語」の形成

「物語」とは何か。哲学者P.リクールは『時間と物語』において、「物語」の本質は「筋」の存在に あり、「筋」とは不調和なものを調和の中に組み込み、そのことによって不調和なものを理解可能 なものとし、感情の上でも受容できるようにするのだと論じている。すなわち「物語」とは「筋」に 沿って配列された出来事の連鎖にほかならない。

個人が自分の人生を回想的に語るときのことを考えてみよう。第一に、私たちは人生において 経験したことのすべてを語ることはできなし、語ろうとも思わない。「語るに値すること」 「語ってもよいこと」「語るべきこと」といったフィルターを通過した出来事のみが語られる のである。回想とは模写ではなく、抽象である。第二に、私たちは人生において経験したこと をたんに時間の順序に従って語るわけではない。一見、そう見えるかもしれないが、実は、出来事 間の因果関係、起承転結というものがそこでは意識されている。語り手は、人生上の出来事を因果 の連鎖によって結びつけることによって、自分がかくかくしかじかの人生を歩み、別の人生を 歩まなかったのはなぜかということを説明しようとしているのである。第三に、私たちはそうした 因果関係の連鎖として語られる自分の人生に対して、「幸せな人生だった」とか「つらい人生だった」 とか―実際の評価はもっと複雑であろうが―何らかの評価を下している。このように個人が自分の 人生を回想的に語る(抽象し、説明し、評価する)とき、そこには「人生の物語」のパターンが 先行的に存在している。だからこそ私たちは、それほど苦労することなしに、自分の人生を 語ることができるのである。

また「人生の物語」のパターンは、人生を回想的に語る場合だけではなく、これからの人生を どのように生きていこうかと考える場合にも役に立つ。子供は「人生の物語」と出会うことによって「人生」に対して自覚的(目的論的)になる。日常生活を構成する諸々の活動が「人生」として 組織化されてゆくのだ。

 さて、この観点に立つと「日本の近代化」はどういう風に見えるものなのでしょうか。

引用文の出発点は小津安二郎監督映画「東京物語(1953年)」とされていますが、小津安二郎監督自身、相応に海外文化に触れた上で「日本的スタンス」を定めています。

そうすると、どうしても話の発端は「1859年における欧州意識革命」に遡らざるを得なくなる様です。

ある意味1859年は「社会学元年」とでも呼ぶべき年だったといえる。

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  • 英国功利主義から出発したジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年〜1873年)が「自由論(On Liberty、1859年)」において「自由とは国家の権力に対する諸個人の自由であり、これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定され、それ以外の個人的行為は必ず保障される。何故なら文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないからである。参政権拡大がもたらす民主主義的政治制度が顕現させる”大衆による多数派専制”はこの自由を脅かす可能性がある」なる古典的自由主義の原理原則へと到達する。
    *また彼の「論理学体系(A System of Logic、1843年)」における体系化が(確率論発展の延長線上に起こった正規分布の有効利用法発見に援用された)帰納推論復権の狼煙となる。

    *さらにミルの発想はコンドルセの衣鉢も受けて「教育の平等」「男女の平等」という方向に発展していく。

  • ダーウィンが「種の起源(On the Origin of Species、1859年)」初版を発表。系統進化性選択の概念などを次第に広めていく。

    *やがてフランス人生理学者クロード・ベルナール(Claude Bernard, 1813年〜1878年)の手になる「実験医学序説(Introduction a L'etude De la Medecine Experimentale、初版1865年)」も話題に。これは近代医学における実験の必要性と正当性を説いた最初期の名著で、執筆者は1862年にルイ・パスツールと共に低温殺菌法の実験を行い「(後に米国生理学者ウォルター・B・キャノンによって「ホメオスタシス」という概念に発展させられる事になる)内部環境の固定性」なる考え方を提唱した人物。
    175夜『実験医学序説』クロード・ベルナール|松岡正剛の千夜千冊

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    *こうした展開の影響下で誕生したエミール・フランソワ・ゾラ(Émile François Zola、1840年〜1902年)のルーゴン=マッカール叢書(Les Rougon-Macquart 、1870年〜1893年)やトーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)といった自然科学主義文学は綿密な社会調査に基づいて遺伝と社会環境の因果律の影響下にある「人間の自然状態」を描き出す事が新文学創造につながると考えた。それが「弱者(特に読者の気を惹く美しき薄幸の美少女)必滅の物語」となったのはもはや必然ですらあったとも。
    テスの物語をいかに解釈すべきか?
    「ダーバヴィル家のテス」における「差異」の問題
    機械仕掛けの馬車伝説-「ダーバヴィル家のテス」における偶然の飼い馴らし-

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    *欧州自然主義文学のさらなる大源流をバルザック「人間喜劇(La Comédie humaine、1842年〜1850年)」に見る向きもある。当時の立身出世概念を要約すると、要するに「ラスティニヤックのジレンマ=あくまで自力成功に執着し続けるか、あるいは金持ちで社交界にも顔が効く名家と政略結婚するか」という話になる。

  • 大陸における政治的浪漫主義の壊滅を受け、ヘーゲルの自然哲学とフォイエルバッハの人間解放神学を批判的に継承するマルクスが(パトロンたるラッサールの全面協力を受けて)「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」を発表。「我々が自由意思や個性と信じているものは、社会の同調圧力によって型抜きされた既製品にすぎない(人間解放の為にはこの拘束からの脱却が不可避)」という考え方を世に問う「上部構造/下部構造」理論を公表する。

    *1950年代には同じく政治的浪漫主義の壊滅を受けて「フランス近代詩の父」ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821年〜1867年)がエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年〜1849年)のフランスへの翻訳紹介、マルキ・ド・サドMarquis de Sade、1740年〜1814年)の再評価を経て「人の心を動かすのは象徴と物語文法の体系」とする象徴主義(symbolisme)に到達。普仏戦争(1870年〜1871年)に敗れたフランス人がドイツ思想に敬意を払う様になって以降(高踏派(Parnasse)や自然科学主義文学への反動もあって)次第に盛り上がっていく。

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正直言って英米圏においてマルクスの「上部構造/下部構造」理論発表がここまで重視されてる訳でもない。「要するにドイツ人は民族的自尊心から、1890年代フランスにおけるタルド模倣犯罪学」の社会心理学的アプローチとデュルケームの方法論的集団主義の衝突から社会学が始まった事実を認めたくないだけなのだ」なんて辛辣な意見すら存在する。いずれにせよ後世から振り返る限り、この年最も重要だったのが(「啓蒙主義者」コンドルセと「功利主義者」ベンサムの衣鉢を継ぐ)ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」と、「系統進化仮説」を初めて提唱したダーウィンの「種の起源」だった事実は動かない。
*ミルは主にfreedomについて、マルクスは主にLibertyについて、ダーウィンは両者の因果関係について語っている。

1859年サミュエル・スマイルズの「自助論(Self Help)」が出版される。

  • 西洋における近代版「人生の物語」の嚆矢。「人生の幸福は 勤勉と自修とによってもたらされる」という信念を多くの科学者や発明家の伝記的エピソードを 引きながら説いた。

  • スマイルズの母国イギリスで評判になったばかりでなく、新興国アメリカでも 広く読まれ、ヨーロッパ各国の言葉にも訳された。イギリスですでに現実のものとなっていた 来るべき産業革命への心がまえの書として読まれたのである。 
    *歴史のこの時点においてアメリカでは「1859年における欧州意識革命」よりこの著書の影響が大きかった。それは「金鍍金時代(Gilded Age、1865年〜1893年)」の標語が「叩き上げ(Self-made Man)」だった事でも明らか。

慶応元年(1866年)〜明治二年/明治三年(1870年)福沢諭吉が「西洋事情」を発表

  • 西洋への関心はすでに十分に加熱されており、これが国を挙げて文明開化に向かう原動力となっていく。

慶応四年(1868年)3月14日に発表された新政府の基本方針「五箇条の誓文」 には次のような一条が含まれていた。「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」。

  • 志す」という行為は「積極的に何かしようという気持ちを持ち、その実現に努力する」 (新明解国語辞典)ことである。

  • 官武一途庶民ニ至ル迄」つまり国民すべてが各々の「志」の実現 に向けて不断の努力を続けるような国家、それが新政府の思い描く近代国家日本のイメージであった。 個々人の人生における努力と成功がそのまま国家の繁栄につながると考えられたのである。 「立身出世」と「富国強兵」は表裏一体のものであった。
    *当時の日本はまさに大政奉還(1867年)、王政復古の大号令(1968年)、戊辰戦争(1868年〜1869年)、版籍奉還(1869年)、廃藩置県(1871年)、藩債処分(1872年)、秩禄処分(1876年)、士族反乱鎮圧(1874年〜1877年)、自由民権運動(1874年〜1890年)と続く江戸幕藩体制解体期の最中にあった。

明治四年(1871年)中村正直サミュエル・スマイルズの「自助論(Self Help)」を「西国立志編」なる書名で博文館から出版する。

  • 西洋志向 と立身出世志向が結びついた抜群のネーミングのせいもあって空前のベスト セラーとなった(明治時代だけで百万冊は売れたという)。この本によって家業の枠内に抑圧 されていた人々の野心は解放され、強いられた勤勉性は自発的な勤勉性へと変換された。

  • 「志」の実現に向けて不断の努力をする生き方とは具体的にどのようなものなのか。それまで強固な身分制に意識を拘束されてきた江戸幕藩体制下に正解はなかった。 近代国家としての船出の時期、日本は西洋から国家の骨格をなす諸制度を輸入したが、そこには 「人生の物語」も含まれていたのである。

  • 西国立志編」の登場人物は当然のことながら、ベンジャミン・フランクリン、ジェームズ・ワット、ジョージ・ スチーブンソンといった西洋人ばかりであった。そのヒットにあやかろうとして日本人を主人公とした多くの類似本が出されたが、それは二宮尊徳に代表されるように「努力」 や「勤勉」の体現者ではあったものの、前近代社会を生きた日本人に過ぎなかった。

明治五年(1872年)8月、国民皆学を期して、フランスの学校制度をモデルとした近代的 教育制度法令「学制」が頒布される。

  • この時に本文に添えられた「学制序文」には学校設立の 目的が次のように書かれていた。「人々自ラ其身ヲ立テ、其産ヲ治メ、其業ヲ昌ニシテ、以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ、 身ヲ修メ、智ヲ開キ、才芸ヲ長スルニヨルナリ。而テ其身ヲ修メ、智ヲ開キ、才芸ヲ長スルハ 学ニアラサレバ能ハス。是レ学校ノ設アル所以ニシテ・・・・サレハ学問ハ身ヲ立テルノ財本共云 ヘキ者ニシテ、人タルモノ誰カ学ハスシテ可ナランヤ。

  • 学問ハ身ヲ立テルノ財本」―「財本」とは「資本」の意味である。ここに述べられているの は「知識資本主義」あるいは「学歴資本主義」とでもいうべきものである。

  • 日本の急速な近代化 の原因は、模倣すべき西洋列強諸国の存在にあったことはいうまでもないが、もう一つ忘れてならない のは、本来の意味での「資本」をもたない下層の出身者(それが国民の大部分であった)でも 学校というルートを辿って上昇的な社会移動を遂げられるシステムが早い時期から完備されたこと である。学校は「知識」を「資本」に、「学歴」を「社会的地位」に変換する装置であった。

  • 同年に刊行された福沢諭吉の『学問のすすめ』(初編)もまた、本来平等であるべき人間の 現実の不平等の原因を「資本」としての「知識」の有無に求めている。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。・・・・されども今広く此人間世界を見渡すに、 かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、 其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。其次第甚だ明なり。実語教に、人学ばざれば智なし、 智なき者は愚人なりとあり、されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」。こうして官製の「知識資本主義」は民間の代表的イデオローグによって支持され、大いに広められた。

  • もっとも学制が発布され、『学問のすすめ』が刊行されても、国民の多くは自分たちの子供をすぐ には小学校へ通わせなかった。当初、小学校の就学率は30%程度、通学率に至っては20%程度だったのである。

  • 当時の日本の人口の大部分は農民であり、彼らには学校での 勉強が農民として生きていくために必要不可欠なものとは思えなかったし、教育費の自己負担額も 大きく、学校焼き討ち事件が起こったりした。しかし学校は徐々に農村にも定着していった。 明治の中頃には小学校の就学率は50%(通学率は30%)を越え、明治の末頃 には100%(通学率は90%)近くに達した。

  • 日本中の子供たちが先生の オルガンに合わせて大きな声で「身をたて、名をあげ、やよ、はげめよ」(小学唱歌「仰げば尊し」) と歌うようになったのである。それは日本が産業化していく過程であり、農村に生まれた子供たち が都市へ出て、農業以外の仕事に就くチャンスが増えていく過程であった。学校は共同体と 市場とのつなぐルートとして定着し、若者たちを各種の職業へ振り分ける装置として機能するようになった。

明治32年(1899年)、第二次山縣内閣(1898年〜1900年)が文官任用令を改正。 文官懲戒令、文官分限令を公布。

  • 明治22年(1887年)に「文官試験試補及見習規則(明治20年7月25日勅令第37号)」制定に関与。当時は高等試験と普通試験の2本立てで、前者は奏任官、後者は判任官の登用を目的とした。

  • 1893年の文官任用令(明治26年10月31日勅令第183号)制定に伴う改革によって「文官高等試験」が施行され、1899年には同令改正(明治32年3月28日勅令第61号)によって勅任官の政治任用が廃止されたため、勅任官の多くも高等文官試験合格者が占めるようになった。

  • 試験に合格すれば、出自を問わず高級官僚に登用される(門閥や情実に左右されない)という画期的な試験であり、難度の高い試験であった。

  • 第二次世界大戦後の1948年に廃止されたが、その機能は事実上、人事院の実施する国家公務員総合職試験(国家公務員I種試験)に継承されている。

明治四〇年(1907年)田山花袋が「蒲団」を発表。文学で身を立てることを夢みて 上京したものの書生との恋に堕ちたがために郷里に帰される女学生を描き、明治四二年(1909年)には「田舎教師」で、東京に出て文学で身を立てることを夢見ながら田舎の小学校の教師として埋もれて死んでいった 青年を描いた。
*当時の日本が日露戦争(1904年〜1905年)の戦時借款返済期にあって、全国民が借金返還の為の重税に喘ぎ、経済も停滞していた事を忘れてはならない。そうした状況による不満の鬱積こそが(朝鮮派遣用の二個師団増設に執着する陸軍と、それに迎合する桂内閣に国民が激昂した)大正政変(1913年)の背景にあったのだが、かかる状況そのものは第一次世界大戦(1914年〜1918年)特需によってあっけなく解消。

  • 努力と上昇を二大要素とする「成功の物語」の台頭は、必然的に、「幸運の物語」「挫折の物語」 「堕落の物語」という三つの物語を生む。「幸運の物語」とは「努力せずに上昇する(棚からぼた餅)」 物語であり、「挫折の物語」とは「努力はしたが上昇できなかった」物語であり、「堕落の物語」 とは「努力せずに下降していく」物語である。

  • 「成功の物語」こそが近代社会における「人生の物語」の正本であり、他は正本の正統性を際立たせる ための異本である。とくに「堕落の物語」は反面教師として修身の教科書に「成功の物語」と ワンセットで取り上げられることが多かった(ちょうど『イソップ物語』の中の「アリとキリギリス」 の話のように)。

  • しかし明治末期、自然主義の作家たちは「人生の真実」を求めて、「堕落の物語」や「挫折の物語」 を好んで書いた。花袋が彼らを描いたのは、当時において、彼らが特異な存在だったからではなく、 ありふれた存在だったからである。「成功の物語」は多くの人々を成功(立身出世)へと駆り立てた が、実際に成功を勝ち得る人はその一部に過ぎなかった。

  • 堕落や挫折の原因は、第一に、当人の意志の弱さや、才能の乏しさや、運のなさといった個人的要因 である。しかし、それだけではない。就学率や進学率の上昇によって、学歴のインフレが進んだ結果、 社会移動のパスポートとしての学歴の機能が低下しはじめたのである。

明治四三年(1910年)石川啄木が「時代閉塞の現状」を発表。

  • その内容は以下。「今日我々の父兄は、大体において一般学生の気風が着実になったと言って喜んでいる。しかもその着実とは 単に今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったという事ではないか。 そうしてそう着実になっているに拘らず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて 下宿にごろごろしているではないか。しかも彼等はまだまだ幸福な方である。前にも言った如く、彼等 に何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。 中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼等は実にその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ 三十円以上の月給を取る事が許されないのである。無論彼等はそれに満足するはずがない。かくて日本には 今「遊民」という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の 中学校卒業者がいる。そうして彼等の事業は、実に、父兄の財産を食い減らす事と無駄話をする事だけである」。ここで啄木が指摘しているのは社会移動の上方硬直化という現象にほかならない。

大正二年(1913年)明治四四年(1911年)にノーベル文学賞を受賞したモーリス・メーテルリンクの戯曲「青い鳥(198年にモスクワ芸術座で初演 され、翌年に出版)」が、若月紫蘭によって邦訳される (大正九年1920年)に有楽座で初演)。

  • 「努力して上昇する」という「成功の物語」は、近代社会の理想の物語であって、必ずしも現実の物語 ではない。現実の物語の多くは「挫折の物語」である。それは人生を「ありのまま」に描こうとする 自然主義文学が好んで取り上げる題材ではあったが、庶民の多くは「惨めな現実」を直視することを好ま なかった。彼らが必要としたのは「成功は必ずしも幸福にあらず」をテーマとする「幸福の物語」だった。

  • 「幸福の物語」は「成功の物語」の陰画である。「努力して上昇する」ことをよしとする「成功の物語」 の視点から見れば、成功、幸運、挫折、堕落と映る人生が、実は、そうではなかったという物語である。 「幸福の物語」の視点から見れば、成功とは人間として大切なものの喪失であり、挫折とはそうならずに すんだということであり、堕落とは人間性の回復であり、幸運とは不幸の始まりである。「成功の物語」 が支配的なものとなり、かつ神話(夢物語)化されるにつれて、その対抗文化としての「幸福の物語」 が求められるようになったのである。

  • 「成功の物語」の原典がスマイルズの『自助論』であったように、「幸福の物語」の原典もヨーロッパ から輸入された。「青い鳥」はチルチルとミチルの兄妹が幸福の象徴である「青い鳥」を 求めて旅をする物語である。(後に述べる野口英世の伝記同様)いまでも全国の書店の児童書の棚には 『青い鳥』が(読みやすいように散文の形式に翻案されて)並んでいる。

  • 『青い鳥』の第四幕第九場「幸福の花園」のテーマは幸福の類型論で、四つのタイプの幸福が登場する。

    第一は、「太った幸福たち」で、具体的には、「金持ちの幸福」「地主の幸福」「虚栄に満ち足りた幸福」 「酒を飲む幸福」「ひもじくないのに食べる幸福」「なにも知らない幸福」「もののわからない幸福」 「なにもしない幸福」「眠りすぎる幸福」などである。彼らが大宴会をくりひろげる部屋に「光」が 射し込むと、互いに顔を見合わせて、自分たちの本当の姿、裸で、哀れで、見にくい姿に、恥ずかしさ のあまり悲鳴をあげて「不幸」の洞穴へと逃げ込んでいく。

    第二は、「子供である幸福」で、歌ったり、踊ったり、笑ったりはするが、まだ話をすることはできず、 貧富の区別はなく、この世でも天国でもいつも一番美しいも衣装を着ているが、彼らはすぐにいなく なる。子供の時代はごく短いのである。

    第三は、「あなたの家の幸福たち」で、具体的には、「健康である幸福」「清い空気の幸福」「青空の幸福」 「森の幸福」「昼間の幸福」「春の幸福」「夕日の幸福」「星の光り出すのを見る幸福」「雨の日の幸福」 「冬の火の幸福」「霧の中を素足で駆ける幸福」などである。家のドアが破れそうなくらい、家の中に いっぱいいるのだが、誰もそのことに気づかない。

    第四は、「大きな喜びたち」で、具体的には、「正義である喜び」「善良である喜び」「仕事を仕上げた喜び」 「ものを考える喜び」「もののわかる喜び」「ものを愛する喜び」「母の愛の喜び」などである。 きらきらと光った衣装を着て、背の高い、美しい天使のような姿をしている。「幸福」という名前は付いて おらず、他の「幸福」たちのように笑ってはいないが、人が一番幸福なのは笑っているときではない。

  • こう紹介すれば、メーテルリンクの考える「真の幸福」が「大きな喜びたち」であることは誰にでもわかる であろう。彼は「太った幸福たち」を唾棄すべきものとして見る一方で、人々が「あなたの家の幸福たち」 に埋没してしまうこと(私生活中心主義)も懸念していたのである。

  • しかし多くの読者はそうは読まなかった。 いや、読者だけではない。ときには翻訳者さえもがそうは読まなかった。たとえば堀口大学新潮文庫版『青い鳥』の翻訳者)は「万人のあこがれる幸福は、遠いところをさがしても無駄、 むしろそれはてんでの日常生活の中にこそさがすべきだというのがこの芝居の教訓になっているわけです」 と「あとがき」の中で述べている。探し求めた幸福の「青い鳥」は結局自分の家の中にいた(ただし 最後の最後にそれはまた逃げ出してしまうのだが)―皮肉なことに、『青い鳥』は、読者の多くがこの 物語の結末部分を「あなたの家の幸福たち」こそが「真の幸福」であると誤読することによって、 「幸福の物語」の原典としての地位を獲得したのである。「あなたの家の幸福たち」は「成功の物語」の中で語られてきた「追い求める幸福」の対抗文化としての 「気づく幸福」である。しかし「あなたの家の幸福たち」は人がその存在に改めて気づく以前にそこに あったのではない。「田舎暮らし」を美化したのが都市生活者であったように、「あなたの家の幸福たち」 は「冷たい世間」(都市生活)を経験した人間が「家庭生活」を美化する(「暖かな家庭」というイメージ) ことによって、「発明」したものである。「あたなの家の幸福たち」は伝統的な幸福観の再評価では なくて、「成功の物語」の台頭の中で新しく生まれた幸福観である。

大正三年(1914年)、「故郷」に「こころざしをはたして、 いつの日にか帰らん。山はあおき故郷。水は清き故郷」とある。

  • 上昇志向は中央志向とタテーヨコの関係にある。日本の中心は東京であり、世界の中心は欧米であった。

  • したがって「立身出世」という社会移動は「上京」や「洋行」という地理的移動としばしば連動した。たとえば野口英世の場合も、十九歳で上京し済生学舎に学び、二三歳でペンシルベニア大学の フレキスナー博士を頼って渡米している。

  • 東京に出て成功し 「故郷に錦を飾る」ことは「成功の物語(地方出身者編)」の典型的な筋書きであった。 その意味で「成功の物語」はしばしば「東京の物語」でもあった。

大正六年(1917年)、『中央公論』十月号に広津和郎のデビュー小説「神経病時代」が発表される。
*当時は来日したタゴールが「日本は暴走しかけてるのではないか?」と警告した時期に該当する。

  • 小説は次のように始まる。「若い新聞記者の鈴木定吉は近頃憂鬱に苦しめられ始めた。その憂鬱が彼にはいろいろの方面から一時に 押し寄せて来るように思われた。彼には周囲の何もかもがつまらなくて、淋しくて、味気なくて、苦しかった」。

  • この小説は、広津の言葉で言えば「性格破産」、現代の言葉に翻訳すれば「アイデンティティの危機」 の物語である。定吉は会社からの帰り、尾張町(現在の銀座四丁目)の停留所に佇んで、電車を 幾台も幾台もやり過ごしながら、「ああ、田舎に行きたいな。何処か静かな田舎に。そして本を読もう。」 と心の中でつぶやく。「田舎に帰りたい」ではなく、「田舎に行きたい」である。地方から上京して きた人間のつぶやきではなく、東京で生まれて東京で育った人間のつぶやきである。「田舎」は 「故郷」ではなく、脱「東京」志向によって美化された「田園」である。

  • 彼は東京で生まれて東京で育った。実際のところ、彼は田舎には三日か四日しか行った事はなかった。 だから、彼の云う田舎がどこに行ったらあるのか見当はつかなかった。けれども、彼の想像した田舎 は美しかった・・・・そこには小川が流れていた。彼はそこで釣糸を垂れる事が出来た。そこには森があった。 彼はそこで小鳥を撃つ事が出来た。そこには広い畑があった。彼はそこを散歩することが出来た。 そして人情が醇朴で、みんなが彼を尊敬した。そうだ、彼はいつの間にかそこで小学校の教師になって いるのであった。彼は子供たちにトルストイのお伽噺をはなして聞かせるのである。すると子供たち は、嬉々として彼になづく。子供達の祖父や祖母である爺さん婆さんが、大根だの胡瓜だのを、彼の家 の縁側に持って来ては置いて行って呉れる。・・・・定吉は夢のような気持ちになって来た・・・・が、彼は急 にそんな事を話したら、妻がどんなに怒るだろう、と云う事を思った。

  • 『神経病時代』の主人公は『田舎教師』の主人公林清三とは反対の方角を向いている。後者が上京して 文学で身を立てることを夢みていたのに対し、前者は田舎へ行って小学校の教師になることを夢みる のである。明治以来の東京志向は大正に至って脱東京志向という反作用を生んだ。

  • 脱東京志向の台頭の 背景には都市生活者としてのサラリーマンの増加がある。「東京俸給生活者同盟会」が結成されたの は『神経病時代』発表の二年後、大正八年(1919年)のことである。「会社勤めをする」ことが、 農作業や、商店や工場での労働に代わって、「働く」ことの代名詞になろうとしていた。脱東京志向 は、したがって、脱会社・脱組織志向でもあったのである。

  • 社会学者のミルズは『ホワイト・カラー』(1951年)の中で次のように述べている。「最近二十年間に、アメリカでは新しい型の欲求を題材とする新しい型の文学が現れてきた。 ・・・・それは一種の諦めの文学であって、欲望のレベルを引き下げることによって、誰にでも手軽に 満足と平和を楽しませようとする。そのためには、まず、最初の段階として、従来の型の成功や満足は実際には幸福をもたらさないことを 消極的に示そうとする。たとえば、アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死(Death of a Salesman、1949年初演、日本初演1954年)』のごとく、外見的には成功しているように 見える者が、内面的には不幸で罪の意識にさいなまれ、自我との戦いにみじめに敗北する様子を描く。 ・・・・さて、次には、人間の内的な平和、物質的には貧しい者にも容易に与えられる精神的な平和こそが、 真の幸福をもたらすものであることを積極的に説く。それは緊張しきった生産的活動よりも、ゆったり とくつろいだ消極的生活や休息と調和するものであり、具体的には『リーダース・ダイジェスト』や 『心の平和』などに示される人生哲学である。それは節倹や勤勉のごとき旧式な地味な徳でもなく、 また長い教育によって培われる熟練でもない。それは諦めの徳であり、野心のレベルを下げることに よって、無用の焦りを避けて緊張した精神を鎮静させようとするものである」。セールスマンの死 - Wikipedia

  • ミルズがここで「諦めの文学」という言葉で呼んでいるものは、「幸福の物語」にほかならない。 ミルズによればアメリカ文学に「諦めの文学」が登場してくるのは1930年前後ということになるが、 日本文学においては、それよりも早く、1920年前後(大正時代)に「諦めの文学」が登場してきたのだった。

  • しかしながら『神経病時代』は「成功の物語」からの逃避(願望)の物語であって、いまだ積極的に 「幸福の物語」を語ってはいない。それは「成功の物語」から「幸福の物語」への橋渡し (「諦めの文学」の最初の段階)として位置付けられるべき作品である。

大正七年(1918年)7月1日鈴木三重吉が童話と童謡の児童雑誌「赤い鳥」創刊。昭和11年(1936年)8月廃刊。
*この流れは北原白秋のエロティックな詩「おかる寛平(1910年)」の筆禍事件も勘案しなければならない。要するに当時の新進気鋭の詩人達は「政道批判取り締まり」の網の目を逃れる為に児童文学の世界に逃げ込む必要があったのである。ただここから「三昧の境地」なる新分野が開拓された側面もあった。
おかる勘平−北原白秋

  • 「成功の物語」の対抗文化として誕生した「幸福の物語」は「家庭」というものの地位を高めた。
    *まさに与謝野晶子が本気で「対決」を迫られた意見そのもの。

  • 「成功の物語」を生きるべく悪戦苦闘する男たちにとって「家庭」は扶養すべき者たちのいる場所 であると同時に、やすらぎの場所となった。一方、「成功の物語」に生きる男たちと結婚した女たち にとって、「家庭」は世話すべき者たちのいる場所であると同時に、生きがいの場所となった。 会社勤めをする男たちの不平不満を緩和し「良妻賢母」という役割を女たちに担ってもらうためには、 社会は「幸福の場所」としての「家庭」のイメージを必要としたのである。

  • 「家庭」と一口に言っても、新婚夫婦の「家庭」から老夫婦の「家庭」まで「家庭」の風景はライフ サイクルの中でさまざまに変化する。しかし、幸福の場所としての「家庭」がイメージされるとき、 そこには「小さな子供たち」がいることが常である。「子供」は「あなたの家の幸福たち」の中心にいる。

  • 『青い鳥』の誤読はここにおいて二重である。一つは、すでに述べたように「あなたの家の幸福たち」 を「真の幸福」と解釈したこと。そしていま一つは、「子供である幸福」を「子供がいる幸福」と すり替えたこと。「子供である幸福」は子供本人の幸福であり、幸福の四つの類型の一つであるが、 「子供がいる幸福」は親の幸福であり、したがって「あなたの家の幸福たち」に帰属する。 このすり替えによって「あなたの家の幸福たち」はますます豊かなものになった。しかも「子供がいる幸福」 はメーテルリンクが「真の幸福」と考えた「大きな喜びたち」の一つである「母の愛の喜び」とも 結びついている。愛情至上主義社会である近代社会において、疑わざるべき至高の価値とされる 「母性愛」と結びつくことで、幸福の場所としての「家庭」の地位は確立された。

  • 幸福の場所としての「家庭」の地位の確立は、しがたって、「子供」を「純粋無垢な存在」として見る ロマン主義的な子供観の確立と時期を同じくしている。日本においてそうした子供観が確立した時期は、 鈴木三重吉によって雑誌『赤い鳥』が創刊された大正七年(1918年)頃と考えられる。

  • 「赤い鳥」 創刊号に掲載された「『赤い鳥』の標榜語(モットー)」にはこう書かれている。「『赤い鳥』は 世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純性を保全開発するために、現代一流の芸術家の 真摯なる努力を集め、かねて、若き子供のための創作家の出現を迎ふる、一大区画的運動の先駆である。」 ここでは「子供の純性」は「保全開発」すべきものと考えられている。それは「現代一流の芸術家」 だけの仕事ではなく、教師や母親の仕事でもあるだろう。『赤い鳥』創刊号は一万部印刷で九千部が売れた そうだが、買い手は子供ではなく、教師や母親たちであった。『赤い鳥』は子供自身が自分の小遣いで 買って読む雑誌ではなく、教師や母親が買って子供に与えるための雑誌、子供に読んで聞かせるための 雑誌であった(その証拠に「御園白粉」や「三越呉服店」の広告が掲載されている)。

  • 自宅の居間で母親が「純真無垢な」子供に『赤い鳥』を読んで聞かせてやる姿は、幸福な場所としての 「家庭」の風景である。もちろんそれは庶民一般の「家庭」の風景ではなく、勃興しつつあった 「中流家庭」の風景ではあったが、にもかかわらずではなく、まさにその故に、幸福な場所としての 「家庭」の風景たりえたのであった。

  • 『赤い鳥』という誌名と『青い鳥』との関連は定かではない。 三重吉の盟友小川未明は『赤い橇(そり)』という誌名を三重吉に提案したというし、その未明には 「赤い舟」という童話(明治四三年)がすでにあった。「赤」は血と愛情のシンボルであり、 「暖かな家庭」を連想させる色である。メーテルリンクの『青い鳥』は最後に再び「青い空」へと 逃げていってしまったが、三重吉の『赤い鳥』は「暖かな家庭」の母と子の側を離れなかった。

大正十年(1921年)、渡辺善助著「発見王野口英世」が当人の生前から発表される。以来八十年、百を優に越える伝記が刊行され、日本全国 の書店の書棚にはいまでも彼の伝記が並んでいる。
*時はまさに第一次世界大戦(1914年〜1918年)によって欧州が没落する一方で対戦特需で儲けた「大成金」アメリカと「小成金」日本の雄飛が始まる「総力戦体制時代(1910年代〜1970年代)」の入口。

  • 要するに『西国立志編』を読んで育った世代の日本人を主人公とした「成功の物語」が書かれる 様になっていったのである。子供のために書かれた日本人の伝記で一番多いのは野口英世のものだった。

  • 明治九年(1876年)に福島県猪苗代湖畔の翁島村で生まれ、昭和三年(1928年)に イギリス領西アフリカ(現在のガーナ)の首都アクラで死んだ彼の「成功の物語」は次のように 要約することができる。「野口英世は貧しい農家に生まれ、幼いとき、左手に大火傷をしたが、 不断の努力により、世界的な医学者になった。」―努力(勤勉)と上昇(立身出世)がこの物語 の二大要素であり、出身階層の低さ(貧農)、身体的ハンディキャップ(左手の大火傷)、 職業的使命に殉じた最期(黄熱病で死亡)といった付加的要素がこの二大要素を際立たせるため の格好の条件となっている。「野口英世伝」は近代日本における「成功の物語」 の聖典ともいうべきものであり、当人の実人生を彩った酒や女や借金の話はそこではきれいに削除されている。

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こうして大正中期に「成功の物語」と「幸福の物語」という近代日本における「人生の物語」の両輪がそろった。
*與那覇潤いうところの「ネオ封建制」の大源流には、当時成立したこの二つの概念が存在する?

近代日本における「人生の物語」の形成

小津は「親と子の成長をとおして日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみた」と『東京物語(1953年)』 のテーマについて語っている。「崩壊」とは「人生の物語」が「家族の物語」から解き放されて 個人化(あるいは核家族化)していく過程にほかならない。

「崩壊」とは言っても、ガラガラと 音を立てるようなものではなく、今日のわれわれから見れば「きしみ」のようなものである。 気づかない振りをしようと思えばできないことはなく、事実、『東京物語』の登場人物たちは みなそうしていた。だからこそ観客はそこに一種の切なさを感じるのである。
小津安二郎の出発点は明らかに「アメリカの黄金期(1950年代)」に到達し得ない日本人はどうやって自分達なりの幸福に到達するか。そこにはある種の諦観が存在し、ここに国内外の賞賛も批判も掛かってくる。

  • その後、二つの物語は、一時期(昭和戦前・戦中期)、「国家(お国のため)の物語」に吸収されるが、 戦後、すぐに復活し、ベビーブーム世代の成長と歩調を合わせながら展開していった。
    *とはいえ、実は案外「総力戦体制時代(1910年代〜1870年代)の庶民の生き様の両側面」に過ぎなかったのではあるまいか。

  • すなわち 「成功の物語」は「受験戦争」や「モーレツ社員」や「キャリア・ウーマン」といった言葉で語られ、 「幸福の物語」は「マイホーム主義」や「ニューファミリー」や「脱サラ」といった言葉で語られた 。

    *実際にあった歴史はそう単純なものでもなく、だからこそ小津安二郎映画についてずっと「いまだに完璧」「いや当時から既に虚像に過ぎなかった」と激論が交わされ続けてるのではあるまいか?

    http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/019/903/48/N000/000/000/130631938243416105213.jpghttp://yoshinori-kobayashi.com/wp-content/uploads/2013/05/8842c82d9d4c8199362bf6423e4a69cd-e1379397509419.jpg

  • その裏返しとして「挫折の物語」や「堕落の物語」が「自殺」や「蒸発」といった言葉で語られ、 「不幸の物語」が「家庭内暴力」や「家庭内離婚」といった言葉で語られた。
    *むしろこちらの系列の方が戦前モダン文学から安定した連続性を保ってきた様に見て取れる。「都市や郊外住宅地の住民の実存不安」に普遍性があるせいか。
    芥川龍之介「歯車(1927年)」

「成功の物語」は 依然として学校や会社と結びつき、「幸福の物語」は依然として家族と結びついていた。しかし、 高度経済成長が終わり(オイルショック)、さらに低成長も終わり(バブル崩壊)、失業率の上昇や 未婚者の増大が続く中で「成功の物語」の会社離れと「幸福の物語」の家族離れーすなわち 「人生の物語」が個人化し「自分探しの物語」へと変容するという現象が起こりつつあるように思われる。

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なんとなく「総力戦体制時代(1910年代〜1870年代)」を主導したのは「Liberty(奉仕の対価としての制限解除)要求」、それ以降の時代を牽引しつつあるのは「Free(放置)要求」みたいな全体構造が浮かび上がってきますが、後者の世界の大原則は「自分の幸せは自分で決める」だったりもするから、人によっては途方にくれるしかないというややこしさ…

 さて、私達はどちらに向けて漂流してるのでしょうか…